いけないな、もう、歳だろうか。十分若々しいつもりだけれど。

節々の痛み -Sympathy for the Devil-

 そう思いながら医者に行ったら、花粉症だと言われた。まさかと思ったけれど、処方されたのは間違いなくアレルギーの薬だった。関節痛なのに。どうも免疫機能の異常反応らしく、普通ならくしゃみや鼻水、発熱といった症状になるものが、私の場合は何故か節々の痛みという形で表れたらしい。もしかしてインフルエンザの初期症状か何かだったら困るから――と用心していたところ、意表をつかれた。
 家に戻って手洗いとうがいをし、コーヒーを淹れてパソコンデスクに向かうと、後ろから悪魔が気さくに声をかけてきた。
「おう、お帰り、どうだった? 風邪だったか、それとも寄る年波ってやつだったか。後者なんじゃないか?」
 うるさいな。私の症状なんて悪魔にとってはどうでもよかろうに。私は今から夜のために、夕食のレシピを印刷して、台所で作業にかからなければならないのだ。大事なことだから、おろそかにはできない。明日は私の誕生日で、そしてこれからの一年は私にとって節目の年なのだから。
「なあアイザック、確かにお前は見かけは若い。でも、もうそろそろ、生身で暮らしていくのも限界だろう? ここらで一つ、契約を見直してみないか。そのあちこちガタが来た肉体を、ほんのちょっとばかしオレに渡してくれるだけでいいんだ。そうすりゃ、見違えるように新品同様の、おまけに痛みも老いもちっとも怖くない身体にして返してやる。その左頬の傷だって、綺麗さっぱり消してやるから」
 こいつは悪魔のくせに、いつまで経っても人を誘惑するのが下手くそだった。そんなんだから私の魂を奪うことができずに、ずるずると長いお付き合いを続けることになっているのだ。かといって、こちとら悪魔を追い払うために魂をやるだなんて、本末転倒なことをする気はない。私はオーブンを使わないローストビーフと、五分でできるチーズマッシュポテト、それからカブのサラダのレシピを開いて、五年前に買ったプリンターで出力する。お世辞にも静音性が良いとは言えないそいつが、B5サイズの紙を吐き出している間にも、悪魔は私のすぐ後ろで語り続けた。
「だいたい、関節痛で苦しむなんてのは、まさに人間の身体の辛さの最たるものじゃないか。老いるってのはな、そういうことなんだよ」
「花粉症だよ」 私は短く言い返し、都合五枚になったレシピを揃えて立ち上がる。
「花粉症! やれやれ、どのみちお前はもう健康じゃない。若々しくたくましく、なんて言葉とは無縁だ。現実を受け入れろ、目の前にはこれからも厳しい人生が待ち受けてる。お前の望みはあれっぽっちか? オレは三つ、そう、三つもの願いを叶えてやるって言ったんだ。お前はまだ一つしか言い出しちゃいない。そう引き伸ばしたって使い切れるとは限らないぜ……」
 つくづくやかましい奴だ。わたしは体ごと向き直り、視線をぐっと下げて悪魔を睨んだ。そいつは日本製のお掃除ロボットの姿をしていた。

 もちろんこの悪魔は、昔から日本製のお掃除ロボットだった訳ではない。最初はエニシダの枝で作った箒に取り憑いて、私に話しかけてきた。今から数えて250年前のことだ。
 悪魔は私に契約を持ちかけた。三つの願いを叶えてやるから、死後にお前の魂をよこせと。どこにでもよくあるようなおとぎ話で、まだ若かった私はそれに乗った。そのころ私はまだ花粉症を患ってはいなかったし、まして関節の痛みなどとは無縁だった。アイザックと呼ばれてすらいなかった。多分イライザだかエリーゼだか、そんな感じの名前だったように思う。
 一つめの願いはその時点で叶えられたが、とにかく、私は世間一般の人間とくらべて実に無欲なほうだったらしい。これが悪魔の運の尽きである。私は特別望まなくとも健康だし、理想的な結婚相手など欲しいと思ったこともない。超人的な楽器の腕も必要なかった。隠された知恵だとか世界の真理だとかにも興味はなく、あくまでも自助努力によって平穏無事な生活を勝ち取り、天職を真面目にこなし続けた結果、さして波乱万丈もなく今に至っている。  悪魔としてはもちろん不本意だったろう。適度に堕落した生活を送らせ、ほどよく長生きもさせて、最後に死なせてしまえば魂が手に入る、そんなロールモデル的な契約をしたはずが、何の因果か二世紀半にわたって現世に縛られているのだから。奴は何度もアプローチを変えて、私の安穏とした日々に終わりを告げさせようとした。例えばこんな具合だ。

「お前さんには厳しい時代になってきたもんだ。社会の流れってものについていけてるか、アイザック? 産業革命だとよ、産業革命。お前の仕事のやりかたは時代遅れだって世界中が言ってるのさ。悔しいと思わないか? ここは一つ、命をかけて誇りってものを貫くべきじゃないか。ジョン・ヘンリーもこう言ったぜ、『蒸気ドリルに打ちのめされるくらいなら、ハンマーを握りしめたまま死んだ方がましだ』――」
 生憎と私は、自分の職業について命を捨てるほどの拘りはなかった。私は芳しくなくなってきた本業を一旦休止すると、新たに鉄道員の仕事を得、日がな一日切符に改札鋏を入れ続けた。
「近々、世界が大きく変わることになりそうだな、アイザック。この国も戦争になるぜ。なあ、こんな世の中で細く長く生きていくことが、本当に幸せか? 大いなる苦しみを嘗めることになる前に、安らかな最期を迎えたいと思わないか?」
 残念ながら思わなかった。その後私の友人のうち一人はフランスで毒ガスを受けて死に、一人は空の上でばらばらになって死に、もう一人はアイルランド沖で船が沈んで死に、その他何人もがスペイン風邪をもらって死んだが、大恐慌で仕事を失って空きっ腹を抱えた私が、彼らの後に続こうとすることはなかった。
「アイザック、どうする、お前の国のロケットはついに月まで飛んだぞ。お前もいよいよ失業の日が近そうだな。これから先、きっとお前たちみたいな連中は見向きもされなくなる。これぞ文明の進歩、科学の御世。余生を惨めに過ごしたくはないよな、ちょっと気分を変えてオレと違う世界を見に行かないか?」
 根城をエニシダの箒から電気掃除機に変えた悪魔による、地獄巡りツアーは結局開催されなかった。私は人類にとっての大いなる飛躍をワシントン・ポストのモノクロ写真で見、それを切り抜いてスクラップブックに貼り付けた。今でもそれは本棚の中にある――私の記憶が確かなら、処分はしていないはずだ。
「なあアイザック、今日もまた葬式か? 自分の誕生日に友人を弔いに行くってのはどういう気分なのかね。いい加減にわずらわしくなってこないか、250年も世間づきあいを続けていると。そのうえ最後には結局、孤独のうちに取り残されることになるんだ。人並みの終末を迎えるんなら今のうちだぜ……」
 黒いスーツに花を持って家を出る日も、私は決して世を儚んだりはしなかった。彼女はぴったり八十年生き、私はもっと長く生きる、ただそれだけのことだ。悪魔はさすがに教会までは付け回してこない。穏やかにお別れをして、パーティーにも参加して、静かに帰ってくればいい。
 二十年ほど前から、とうとう悪魔はこう口にするようになった。
「なあ、アイザック、どうしてお前が魔女だってことに、オレは気が付かなかったんだろうなあ」

 250年前の明日、つまり私の16歳の誕生日には、まだ魔法使いの志を立てたばかりだったから、気付かれなくても仕方がない。幸い、そして悪魔にとっては不幸にも、私はそれから修行をさぼらずまっとうに生き、晴れて一人前の魔術師となった。つまり、自分のささやかな望みぐらいは、全て自力で叶えられるようになったのだ。もしあの当時に性別適合手術が存在していたら、本当に悪魔など要らなかったことになる。
 そして、三つの願いを全て叶え終わるまでは、悪魔は私のもとを離れることができないし、完全な魂を手に入れることができない。現世で無駄に苦しんでいるのは、実際のところ悪魔のほうなのだ。
 程よき焼き上がりのローストビーフを室温で休ませ、付け合せを全て仕上げて冷蔵庫に入れ、ちょっと良い菓子屋に注文した誕生日ケーキを受け取ったところで、窓の外はすっかり暗くなっていた。これからこの豪勢な夕食を取り、シャワーを浴びて新しいパジャマに着替え、じっくりと日付が変わるのを待つ。0:00を迎えるその瞬間は、毎年お気に入りの音楽を聞きながらというのが決まりだ。新居を構えるときにオーディオ機器一式を揃えて以来、これが私の正式な誕生日の儀式ということになっている。
 そして誕生日を迎えたら、――魔術師を始めて250歳になった私は、遡って五十年分の人生を整理にかかるのだ。亡くなった友人の連絡先や、写真や手紙、物置を圧迫している古書、「またいつか使うかもしれない」と保管してあった実験器具、賞味期限のとうに切れた魔法薬などを、ことごとく葬ってゆく。それにはもちろん、身体のあちこちをぴりぴりと痛痒くさせる感覚を伴うのだけれど、不思議と苦しいと思ったことはなかった。どれだけ長く生きたって、人生には節目が要る。この肉体のすべての細胞が、まちまちの周期で新しく入れ替わってゆくのと同じで、私に付帯するあれやこれやにも、代謝ってものが必要なのだ。11歳のときに抜けたあの幼い犬歯のように、存在をときどき懐かしく思い出しても。

「アイザック、その塊肉、まさか全部自分で食うつもりか? こいつは生活習慣病が恐ろしいぜ。知ってるか、アメリカ人の死因のトップ10のうち――」
 私の足元で、悪魔はなおも囁いた。人間を堕落させる悪魔の話は数あれど、健康的な食生活の提案をしてくる悪魔なんて聞いたことがない。まあ、願いを叶えきる前に死なれちゃ困るのだろうから、これも一つの戦略なのだろう。だが私は耳を傾ける気などない。この塊の半分は今夜食べ、残りの半分は明日のお昼のサンドイッチと、晩酌の肴になるのだ。無論、ケーキもワンホールを今日と明日で完食する算段である。何せ長々とした処分リストと向き合わなければならないし、遺言書だって更新しなければならない。頭脳労働のお供には甘いものが最適だ。
「――おい、聞いてるのかアイザック。そういう訳でだな、オレはここに新しい契約モデルを発表しようと思う。絶対に気に入るはずだ。まずは残り二つの願いの消費プランについてなんだが」
 誘惑という名のプレゼンを聞き流しながら、私はローストビーフの最初の一切れを削ぎ落とした。悪魔が夜な夜な這いずり回る我が家のフローリングは、今日もチリ一つなく綺麗だ。

go page top

inserted by FC2 system