「毎年この時期になると悩むんだ、今期こそは住環境の改革を断行すべきかとねェ」

契約と代償 -Home Sweet Home-

 その時我々は自分たちのオフィスで、近所の中華料理店のテイクアウトを食べながら、遅い昼休みを過ごしていた。建物を一歩出れば灼熱の日差しと熱気に襲われる、七月の終わりの月曜日のことだった。
 室内は繁忙時のチャイナタウンのような、オイスターソースやラードやスパイス、そういったものが焦げて渾然一体となった香ばしい匂いに満たされていた。私はワンタンスープを掬う手を止め、発言者のほうを見た。三つ折りの跡のついた、質の悪そうな薄い印紙を、ブラザー・ウェンセスラス・ウォルターが矯めつ眇めつしている。
「要するに、引っ越すかどうかってことだよね?」
 ちょうどブラザー・ウェンセスラスの真向かいに座っている、J.Jことブラザー・ジョン・ジェロームが、中華風のフライドチキンでべたべたになった手を、紙ナプキンで拭いながら尋ねた。
「それもある、……いや、どちらかと言えば『引っ越させるかどうか』って所だ」
「引っ越させる? ああ、ルームメイトを?」
「そうだ」
 J.Jの問いに、現在クイーンズ区のアパートでルームシェア生活を送る、外見年齢だけなら四十がらみの魔術師は、あまり気合の入っていない声で答える。任務中を除いた時間の彼の声に、気合らしきものが感じられないのはいつものことだった。
「何、そんなに一緒に暮らしてて疲れる相手なのかい? 引っ越させようか悩むぐらいって」
「仮にそうだとしたら、そんな奴と十五年住んでる俺の忍耐力はもっと称えられるべきだな。お前イリーの、……奴のこと知らなかったっけか、ジョニー・ボーイ?」
「顔ぐらいはもちろん知ってるよ。時々こっちにも顔出す、あのすごく色白で陽気そうな人でしょ?」
 チームの仲間入りをしてそう長いわけではないJ.Jは、相変わらず不思議そうな顔でそう続けた。確かにその同居人は、我々の仕事場に時たま足を運ぶことがある。大抵はちょっとした職場間の連絡であったり、ブラザー・ウェンセスラスを食事に誘いに来たりという、ごく当たり障りのない用件だ。見た目にもとりわけ人間関係に問題があるようには見えないし、実際に問題が生じていた記憶も私にはない。私は彼らがルームシェアを始めた当時からを知っているが、実に平穏極まりない――
 ――いや、それはどうだろう。これもニューヨークにおける、あまり常識的でない魔術師の日常を基準にしているからそう感じるのであって、一般人から見たら平穏とは程遠いものなのかもしれない。
「陽気そう、まあ、確かに陽気な奴には間違いねェな」
 気付けばJ.J だけでなく、エビ入りのギョーザを食べていたシスター・クララ・ハモンドも、食事を中断して会話に耳を傾けていた。住環境の改革に踏み切れずにいる年嵩の魔術師は、若干歯切れの悪い調子で答え、後輩たちにに事の次第を語り始めた。

 ことの発端は、アメリカに住んでいればどこにでもありそうな話だった。
「そもそも奴は十五年前、故郷のハイスクールを出て、歌やらダンスのレッスンを受けるためにニューヨークに来た。で、たまたま寂れた地域で寂れたアパートに住んでた俺に行き当たり、ルームメイトの申請をしてきたって訳だ」
 親の支援もない学生が、物価の恐ろしく高いニューヨークで暮らしていこうと思えば、ルームシェアはとても魅力的な選択肢の一つとなる。大学の学生課へ行けば、ルームメイト募集の張り紙が山ほど掲示されているといった具合、もちろん現代はネット上にもそうした告知はごまんとある。
「実際、奴はそう最悪な同居人の部類じゃあない。金はきっちり払うし、人のモンを勝手に使って返さなかったりもしない。勝手に自分の知り合いを連れ込むとか、こっちに干渉しすぎるってこともない。夜中に騒いだり朝のシャワーが長かったりもしない。まあ、そもそも俺は夜から朝にかけて居ないことのほうが多いんだがな」
「なんだ、じゃあ基本的なことっていうか、トラブルになりがちなポイントはきっちり回避できてるんだね」
「概ね文句はねェな。事あるごとに突然歌い出して場をミュージカル調に演出する悪癖を有すること以外は、いたって気のいい男だよ」
 同居人とするには十分な美点を備えているらしい相手のことを、ごく自然に説明していたブラザー・ウェンセスラスは、しかし最後の最後に異質なことを言った。
「何ですか、それ?」 シスター・クララが怪訝な顔をする。
「だから、そのまんまの意味さね。機嫌が良かったり何かにショックを受けたり食った飯が旨かったりすると、ブロードウェイ風の振り付きで大いに歌うのが奴の性癖なんだ。ディズニー映画のプリンセスだって、あんな唐突には歌い出さねェぜ」
 追加の説明を受けても、部隊最年少の魔女はまだ人物像を飲み込みかねている様子だった。無理もない。私だって初めて知ったときには受け入れ難かったものである。私は脳裏にそのルームメイト――J.Jの言ったとおり色白で、プラチナブロンドと灰色の目の持ち主である、背の高いロシア人――の姿を思い描き、そして彼が感情表現豊かに「ありのままで」を熱唱する様もついでに思い描いた。選曲は別に何でも良かったのだが、とにかく私の想像は自分でも思いがけないほどシュールなものになってしまい、私はワンタンスープで噎せないよう苦労する羽目になった。
「事あるごとにって、普段からそうなのかい?」
「そうだ、家で飯食ってても、シャワーを浴びてても、リビングで酒飲みながらボードゲームで対戦してる時もだ。俺はもう奴の『ベイクド・マック・アンド・チーズのうた』はそらで言えるようになっちまった」
「何ですか、それ?」
 シスター・クララは未だ怪訝な顔のまま、青い目をにわかに信じられないといった様子で先輩魔術師に向けていた。彼女もやはり、話題に上った同居人とは何度も顔を合わせている。けれどもその私生活までは、今まで窺ってみたこともなかったのである。
「正気を疑われるのが嫌だからここでは歌わねェぞ。マイケル・ジャクソンの『マン・イン・ザ・ミラー』の替え歌になっててな、クラフト社のマカロニ・アンド・チーズで作るグラタンを称える内容だ。多分両方好きなんだろう。おいジョニー・ボーイ、何だその顔は。俺は別に口から出任せ言ってる訳じゃない、事実だ」
 いつになく神妙な様子のブラザー・ウェンセスラスに対し、若者二人は「よくそんな突飛な話を咄嗟に思いつけるなあ」とでも言わんばかりの表情を浮かべているのだ。彼にとってはこの反応は不本意だったことだろう。
「俺だってさすがにこの珍妙な個性は予測してなかったんだ。留学生と住むにあたってトラブルになりそうな事ぐらい、いくつも考えて対策は練ってたんだが」
「いくらショウビズ志望……だったってことだよね? その、そうだとしてもねえ」
 家で練習をするからやかましくて仕方がない、ということなら予測も対策もできようものを、何かにつけ唐突に歌い出すなんてのは、それこそフィクションの中にしか無さそうなものだ。何せ現実はミュージカル映画ではないから、フラッシュモブめいた事態を受け入れる素地は、万人に備わっているわけではないのである。そもそも、十五年前にはフラッシュモブなんて今ほど認知されていなかった気がする。

「ですが、結局のところは協会でずっとお勤めになっておいでなのですよね。芸能関係に進むのはおやめになった、ということでしょうか」
「ああ、レッスン自体は真面目にやってたらしいがな。結果的に言えば奴が目標にしてた、ブロードウェイを望めるような劇団とは一つも契約を取れなかったのさ」
 あくまで他人事のように平淡を保って、ブラザー・ウェンセスラスは言った。
「それで、ちょうどその頃ニューヨーク支部の書記局が、任期満了で辞める書写官スクライブの代わりを探してた。出来れば若いのが、それも泊まり込みができるような体力があって、サービスが必要な家庭は無いようなのが良いっていうんで、ひとつ奴を薦めてやろうと思ったんだ。そしたら奴はそれに乗って、だから今も書記局勤めの戦闘魔術師なんてことになってる」
「なんか、生々しいよね、その希望条件がさ」 J.Jが苦々しい顔になった。
「正直だろ、書記局ってのは? 連中は日がな一日、魔術書の持って回った記述と首っ引きなもんで、言うことからは自然と飾り気が失せていくんだ。実に結構なことだよな」
 皮肉めかした声でブラザー・ウェンセスラスは続けた。魔術師協会の書記局といえば、収集した魔術書・呪文書のたぐいを分類・保管し、内容を研究したり、必要に応じて複製したり、あるいは所属する会員たちのために呪文の巻物を書いてやったりする部署だ。我々実働部隊より楽な仕事だと思われがちだが、その実は支部の中でも屈指の激務で、生半可な魔法使いでは務まらないともっぱらの噂である。研究職とはどこも似たようなものなのかもしれない。
「奴は言ってたよ、『好きなこと』と『できること』と、『仕事にしたいこと』は全て別物だったってねェ。それで食っていくんじゃあなく、趣味道楽として付き合っていくことを選んだ。綺麗な言い方をするなら、折り合いをつけた、ってところか」

 そして彼らは自分たちの住環境にも折り合いをつけたのである。ルームシェアを解消して一人暮らしに戻るのではなく、互いに負担し合いながら、それなりに気楽な共同生活を送るという方針でまとまったのだ。その時にも私は今回と同じような形で相談を受けた。確か、「レッスン費の借金を返し終わって、一人でも安定できるぐらいに出世するまでは」ぐらいの話だった記憶がある。
「書記局で務まるかどうかってのは、実際特に心配してなかったがね。むしろ問題は生活力のほうだ。奴は確かにだらしない性格じゃあなかったし、取り決めた家事の分担はこなすんだが、できないことまでやろうとするのは失策だった。『ローストビーフを作ろうとしてキッチン台を融かしました』なんて、大家にどう説明すりゃ良いか頭抱えたぜ」
「……随分と理解のある大家さんだったのですね?」
「住人の自主性を尊重する家主で助かったよ。もう諦観して管理を放棄してるとも言うかもな。あの時はしばらくハウスキーピング費の割を増やす羽目になった。幸いもう修繕費用は完済してる」
「あ、別に新しく徴収するようになったんじゃなく、元から取ってたんですね、ハウスキーピング費」
「当然だろ。一番最初に契約書を作らせたとき、本人との合意のもとに酒税ともども費用に入れたよ」
「酒税……」
 ロシア人だからですか。そうだロシア人だからだよ。シスター・クララとブラザー・ウェンセスラスの間に交わされた視線には、恐らくそんなやり取りが込められていたのだろう。嗜好品は食費の折半から外してもいいのではないかと私は思ったが、彼らにとって酒は日用品に入るらしかった。
「ともかく、できないことを無理にやって余計な金が掛かるよりは、できる俺がやってその分だけ徴収するほうが良いってことに落ち着いたわけだ。でなけりゃ俺のキッチンがさらに融解していくか、良くて週に三日はベイクド・マカロニ・アンド・チーズで生かされる羽目になる。俺は動脈硬化だの脂肪肝だの、そういう『アメリカ人らしい』死に方は御免だからな」
 ブラザー・ウェンセスラスは両手をひらりと挙げ、絵に描いたような形で肩を竦めた。その不健康でない程度に痩せた腕を見る限り、当面彼がそういう死に方をする心配はなさそうであるが。
「そういう訳で俺は、『この世にインスタントのマカロニ・アンド・チーズを生み出した』という点においてのみクラフト社を恨んでるが、奴のことは別に恨んじゃいねェよ。持ちつ持たれつしてきた仲だからな」
「でも、それならどうしていちいち悩まなきゃならないんだい。結局、今までの話を聞いた限りじゃ、チーフたちの暮らしはすごく充実したというか……ルームシェアの良いところばっかり掻き集めたみたいなものに思えるんだけど」
 空になったテイクアウト容器に紙ナプキンを詰め込みながら、J.Jが尋ねた。とたん、それなりに機嫌良さそうに回想を続けていたブラザー・ウェンセスラスは、顔をしかめてこう答えたのである。

「お前にはそう思えるかもしれねェがな、良いか、俺は最初に言ったよな。奴はハイスクールを出てからニューヨークに来て、十五年間俺のところに住んでるんだと」
 言われてJ.Jは、そしてシスター・クララもまた、同じポイントに思い当たったようだった。二組の目が揃って語り手の顔に注がれた。
「つまりだ、奴はもう今年で三十四になるんだぞ。いい加減独立したっていい頃だ。今は協会にフルタイムで勤めてンだから独身寮だって使えるし、そうでなくとも市内のどこか、まだ物価がましな辺りに、部屋を借りて住むだけの稼ぎは十分ある。貧乏な見習い時代は遠い昔の話だよ」
 二人の後輩の顔を順繰りに見ながら、彼は少し力の入った声で言った。これは事実で、魔術師としてはまだ新人の部類である二人も、それぞれブルックリンとクイーンズで一人暮らしをしている。もちろん二人とも、身の丈に合った部屋を探すには相当苦労をしたようだし、今だって贅沢な暮らしなどしてはいないが。
「別に、住むところに困ってる奴を追い出す気なんざ俺には毛頭ない。生活費の折半はこっちだって助かる話だからな。ところが今の奴はもう、一人でもやっていけるいい大人だ……あと、それ以上に」
「それ以上に?」
「奴は当分国に帰る気は無いらしくてな、そろそろこっちで恋人の一人も見つからねェか、なんて話をよくしてる。が、解るだろ、実年齢約120歳外見四十路のおっさんと同居してるうちは、いくらなんでも望めねェよな」
「正直なところ厳しいものがありますね」
 シスター・クララが酷薄に言った。J.Jは視線を泳がせながら、返答に迷っているようだった。自らの将来性について考察してみた結果、迂闊に頷けなかったのかもしれない。
「今の経済的に安穏とした気楽な生活と、どっちを優先するかってことだ。所帯を持つなんてのは結局並大抵の仕事じゃない。その苦労を受け入れ難くてこうなった俺が言えた話じゃねンだが、奴が本当にそれを望むなら」
 婚期を百年ほど逃した魔術師は、軽く息を吐いて続けた。 「ひとつ厳しい態度を取らなきゃならん」
 沈黙。後輩たちが次の言葉を探しかねている中、ブラザー・ウェンセスラスは大分と冷めたシーフードヌードルの残りを、フォークで手早く巻き取って口に押し込んだ。J.Jがそれをちらちら見ながら、また何か考え込んだようだった。彼はたぶんルームメイトのほうにやや共感しているのだと思う。私はあの陽気なロシア人が夢破れた失意の人に見えたことはないが、それでも何かを、――新生活に踏み出していくのを躊躇いたくなるような、一種のトラウマを抱えているように思えても仕方のないことかもしれない。

「……そういう話を、もうかれこれ十年前からずっとしてるんだよ、J.J」
 私は何気ない風を装ってそう切り出した。
「だからね、なんやかんや言っても、今年もブラザー・ウェンセスラスは多分、ブラザー・イリヤを追い出したりはしないんじゃあないか。お互いちょっと協議して、次の契約期間について大筋で合意して、また向こう一年上手いことやっていくよ、きっと」
「何だよ、ちび助」 黒い目が私をじろりと見る。 「人を片付けのできない男みたいに言いやがって」
「あれ、私は褒めたつもりだったんですけど」
 部屋を圧迫する不用品と違って、一度芽生えた人間関係なら、心を鬼にして断捨離する必要なんてそう無いだろう。彼は物持ちがいいほうだし、友人だって大事にするという、美点そのものだと思って私は言ったのだ。これがもし、相手が金銭的にだらしない相手で家計を圧迫してくるとかいうなら話は別だけれども、彼のケースはそうではないのだし。
「言っても物事には限度ってもんがあンだろ。こうも毎年毎年――ああ、そうだ」
 なおも低い声でぶつぶつと言っていた、人的環境に優しい我らがチーフは、不意に何か思いついたような顔をした。
「こいつで決めるか」
 果たしてその視線の先には――小さなセロハンの個包装に入った、四つのフォーチュン・クッキーがあった。

「……え? どれ見て言ったんだい今の?」
 J.Jが戸惑ったように声を上げ、ブラザー・ウェンセスラスの意図を見定めようとする。といっても、「こいつ」が指していそうなものといったら、デスクの上にはそれこそフォーチュン・クッキーぐらいしかないのである。もしくは片隅に無造作に置かれているiPhoneぐらいだが、ルームメイトに関する人事問題についてSiriに尋ねても、恐らく今までの会話以上のものは得られないだろう。
「だから、こいつをだな」 中から細い紙の飛び出した、二つ折りのクッキーが手に取られる。
「割って、出てきた中身がどう言ってるかによって、今後の対応を決めようと言ってるんだ。運命のフォーチュンクッキーって言うぐらいだろ、奴の運命を託してみるのも悪くないんじゃねェか」
「いやいやいや! フォーチュン・クッキーのお達しだからお前出て行け、とか言われたらすごい気ィ悪くすると思うよ彼!?」
 慌てて首を横に振りながら、J.Jが至極もっともなことを言う。
「そもそも、その中に入っている紙は、大抵特に意味のないことばかり書かれているものだと思うのですが……」
 占いの類を全く信用しないシスター・クララは、眉を顰めながら控えめな声で言った。中華料理店のテイクアウトに大抵付属している、その些細で稚気に富んだ焼き菓子が今、かつてない批判に晒されている。彼(?)だって、ブラザー・ウェンセスラスが突如あんなことを言い出さなければ、いつも通り我々に真っ二つに割られ、中身に対して気軽な一喜一憂の言葉を受け、それからつつがなく消化されるはずだったろうに。神も占いも大して気にかけたことのない私は、ぬるくなったワンタンスープを残らず飲み干して、彼の次の行動を待った。
「というか、ただの冗談だよね? あまりにも他力本願がすぎるっていうか、その」
「それが馬鹿に出来ねェんだぜこういうのも。俺が1915年にフランスで撃墜王になった時も、攻撃目標はサイコロ振って決めたしな。困った時には運を天に任せるのも悪くないもんだ」
「うわあ、そりゃ撃墜されたドイツ兵は浮かばれないだろうね」
「撃墜されたわけだからな」
 ブラザー・ウェンセスラスは平然と答え、堅焼きのクッキーをぱきんと割った。骨ばった指が印字のされた紙を引っ張り出し、我々の目に見える場所へと置いた。

「――『新たなる航海に赴くとき、友にもそれに加わるよう求めよ』」
 低い声が文面を読み上げた。テーブルの上の紙切れにも確かに、今言った通りのことが書かれているように見える。J.Jの表情がぱっと明るくなり、それから安堵したような息が漏れた。
「『今年度もせいぜい仲良くやれ』ってことでいいんだよね、これは?」
「……らしいな」
 四十路の魔術師が浮かべた笑みは少なからず苦々しかったが、クッキーのお告げで決めると言ったのは彼自身である。シスター・クララがやれやれといった様子でフォークを置き、全員分のゴミを回収するためにだろう、テイクアウトの入っていた袋を手に立ち上がった。
「やっぱりチーフはそういうところが良い人だと思うな、僕は。面倒見がよくて、それに我慢強いっていうか」
「好きな食べ物を最後まで取っておくのも、我慢強さの表れでしょうか」
 J.Jの調子の良い言葉に続いて、愛らしい声がそう尋ねる。見ればシスター・クララは卓上の、シーフードヌードルの紙箱を前に足を止めていた。中に大ぶりのエビが二尾だけ残っている。麺はもう無い。
「かもね。あ、つまり物も人も大事にする、ってことでいいんじゃない?」
「お褒めにあずかり光栄だがな、ジョニー・ボーイ、お前が待機室に置いてるあのコミックスの山は、今度持って帰らなかったら断固として捨てるからな」
 ブラザー・ウェンセスラスはエビ入りの紙箱を引き寄せながら、後輩の称賛を振り切るように冷たく言い放った。
「ええっ、いや、ちょっと待ってくれよ! あれはいらない物として置いてるんじゃなくて、ちゃんと読むために――」
「だったらお前のロッカーに入れろって何度言えば解るんだ。第一お前、あんなダンボール詰めを丸々読み切るほど、普段からあの部屋に待機してねェだろうが。とにかく今週までにどこかへやるか、大人しく処分されるかを選べ」
「そんな、ロッカーにも家にも入り切らないのに! しかもチーフ、それ絶対素直に捨てたりなんかしないんでしょ! 古本屋か何かに売る構えでしょ!」
「ああ、美品で揃ってんだからそれなりの値段がつくと期待してる」
「ひどい!」
 我らがチーフは物も人も大事にする男だが、時としてそれらを冷徹に利用することもできる男である。結論としてはそんな所だろうか。悲鳴を上げて泣きついてくるJ.Jを、ブラザー・ウェンセスラスは軽くあしらいながら、食事の締めくくりに入ろうとしていた。

 彼がプラスチックのフォークを再度握ったタイミングで、出し抜けにノックの音が響いた。どうぞ、とシスター・クララがドアへと声を投げる。
「ハロー、チーム・ウォルターの諸君! 暇してるか?」
「ありがたいことにお前よりは暇だよ。書記局は昨日も修羅場だったってな」
 顔を出したのは長身の、まだ二十代の半ばほどに見える青年だった。眩いばかりのプラチナブロンドと、光の加減でスミレ色にも見える濃いグレーの目、そして明所で写真を取ったら白飛びしそうなぐらい色素の薄い肌が、そう広くもない戸口から覗いている。
「噂をすれば、でしょうか」
 シスター・クララが言った。 「お疲れさまです、ブラザー・イリヤ・ミハイロヴィチ」
「どうも、シスター・クララ・ハモンド、本日もお変わりなく! 実はちょっとお話ししたいことがあってね」
「目ェ合わせんなよクララ、そいつ特技は催眠術だぞ」
 冷え冷えとした声で、ブラザー・ウェンセスラスが口を挟む。
「ヤダナァ、ソンナノ事実無根ダヨ、同志ウォルター」
「こんな時だけわざとらしく訛るな、誰が同志だ。おい、俺たちは確かに暇だが、暇だからってやることが無いって訳じゃねェからな、書記局の連中に人手はやれんぞ。たとえ話題に事欠いてお前の話なんかしなきゃならない程に暇だったとしても、休憩を取らないって選択肢は存在しないからな」
 いかにも「アメリカ映画に出てくる悪いロシア人」的なアクセントに対し、ブラザー・ウェンセスラスはそう言って、恐らく昨日に引き続き修羅場なのだろう書記局への招待を固辞したが、対するブラザー・イリヤは目を瞬き、何のことやら分からないといったような顔をした。
「おれの持ち場なら平気さ、レジーやヨシノたちが頑張ってくれてるから。それよりウェン、今朝ホワイトボードを見たんだけれども……」
「そういう話をしてたンだよ、今まさに」
 目標をまた捉え損ねたフォークを一度テーブルに置き、アパートの借り主は溜め息をついた。その目の前で、同居人である「すごく色白」の書写官は、訛りのすっかり取れた流暢な英語で話の続きを始めた。
「その、新しい部屋を探すことについては、前向きになろうと思ってる」
「へえ?」
「というのも、今の部屋は都心にしちゃ静かで、呪文を書き写すのなんかには最適なんだが、いかんせん月当たりが悪いし、魔力計もいまいち反応しない。それに何より、」
「人を呼べる環境じゃない」 ブラザー・ウェンセスラスが言葉の先を読む。
「そう! 実際おれはあんたのプライベートを損ねるつもりはない。だからどうしても、部屋におれ個人の――あんたと仲良くなれるかどうか判らない知り合いを呼ぶことはできないんだ。でも、おれだってそろそろ、夏のバーベキュー・パーティーでホストを引き受けられるようにならなくちゃな」
 宣言通り前向きな話題が飛び出したことに、ブラザー・ウェンセスラスは意外そうな顔をしつつも、明らかに機嫌を良くしていた。次の契約更新時には、今より少し建設的な議論ができそうな空気だ。傍観しているJ.Jも、彼らの住宅事情を今日知ったばかりにも関わらず、既に感慨深げな面持ちである。
「今すぐにって訳にはもちろん行かないが、きっと良い部屋を探し出せると思う。十五年前とは不動産の見つけかただって全然違うし。それで、アッパー・イーストサイドかトライベッカの辺りに愛しの我が家を構えてみせるから、もう少しだけ辛抱してもらえるとありがたいんだけれども!」
 並べ立てられた「お洒落な高級住宅街」の代名詞みたいな地名に、聞かされた側は堪える様子すら見せずに失笑した。
「馬ァ鹿、もう少し自覚ってものを持ちやがれ、アッパー・イーストサイドの小綺麗な通りでバス待ちできるツラかお前は? お前なんぞソーホーに住もうがノリータに住もうが、どうせ毎晩マカロニ・アンド・チーズのグラタンを食うんだろ。空間の浪費だ」
「そこまで言うかねえ! おれだって昨夜はもう少し小洒落たものを作ったじゃないか。――そうだ、昨夜で思い出した。昨夜のお前の話を聞いてたら、頭にぱっと新曲の啓示がひらめいてね。午前中かけて仕上げたんだ、是非チーム・ウォルターの皆々様に披露したい」
「何だって?」
 ブラザー・ウェンセスラスの顔に浮かんでいた笑みが、その言葉を聞くや否や引っ込んだ。後輩たちがきょとんとした目で二人を見る。
「昨日の俺の話? いや、あの話から一体どんな歌が出来上がるってンだよ、おいやめろ」
「あ、あー、嗚呼! かつてウェンセスラスは――
「やめろ!」

 チーム・ウォルターのリーダーが黒檀の杖をひっ掴むのと、陽気なロシア人が高笑いしながら部屋を飛び出していくのとは、予め示し合わせていたかのようにぴったり同時だった。かつてブラザー・ウェンセスラスに何が起きたのかは、どうも詮索しないほうが身のためのようである――机上の箱の中では未だ、忘れ去られた大ぶりのエビが二尾、クーラーからの乾いた冷風に吹かれていた。

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