彼女を休憩室へ連れ出すのには、それは大変な苦労を要した。最終的には食べ物で釣った。

本の虫たちの秋 -Inky Harvest-

 その女性、すなわち魔術師協会ニューヨーク支部は書記局在籍のウィザード、シスター・ヨシノ・シンドウは、我々アメリカ人が思う「若い日本人女性」のイメージに美しく合致していた。礼儀正しく仕事熱心で、誰よりも率先して働き、なかなか休みを取らない。一度物事に熱中すると、滅多なことでは戻ってこられなくなる。実際の若い日本人女性がどの程度までそうなのかは解らないが、少なくとも彼女に限って言えば九割がた正解だった。

「どうです、成果のほどは」
 香ばしくトーストされたベーグルを齧りながら、私は彼女にそう尋ねた。近所のサンドイッチショップから買ってきた差し入れに、律儀性らしい彼女は代金にチップまで添えて支払いをしようとしたが、そこは我々がやんわりと止めた。書記局には常々世話になっているし、今だって実は世話になりに来たところなのである。
「いやあ、それが、進捗まだなんですよねえ」
 肩口でさっぱり切り揃えられた黒髪は、いくらか艶を失ってもなお、彼女の理知的な印象を保ち続けていた。女史は溜息まじりに笑い、手元のベーグルからはみ出したローストビーフをじいと見た。
「解読法自体はもうイリヤ君と局長が出してくれましたから、あとはただひたすら照らし合わせていくだけなんですけど。どうにもこう、誘惑が多くて、困ったものです」
「うんうん、今も思いっきり誘惑しちゃったしね」
 食べ物で釣ることを提案した張本人が、大して悪びれもせずに言った。J.Jことブラザー・ジョン・ジェロームである。いつの間にかは知らないが、彼はシスター・ヨシノとそれなりに仲の良い友人同士になっており、彼女には何が一番よく効くのかについても理解していた。
「調子に乗るとまた叱られますよ、ジョン君。……とにかく今週末までには仕上げられると言ってしまったことですし、そこにラインを引いてやるしかないですね。自分は幸いこういうことが苦ではないので、残り三日もあれば、まあ」
「あんまり根を詰めすぎると、その二日目ぐらいに寝込むことになりかねないから、お気をつけて」
 私は当然のこととしてそう伝えたが、彼女はそれでも根を詰めるに違いないとも思った。明日あたりもう一度、リラクゼーション・グッズでも持っていくべきだろう。何せ神経を使う仕事なのだ、魔術書の解読というやつは。

 現在、彼女を含む書記局の文献チームが取り掛かっている対象は、さる蔵書家から購入した一冊の本だった。これは見た目に大判の美しい装飾本で、中はふるぶるしい叙事詩を思わせる絵物語が綴られていた。しかしながら、ただ古いだけの稀覯本であれば、魔術師協会がわざわざ取り寄せたりするはずもない。実のところ、この書物は中世ごろの魔術師が著した儀式の書であると当たりが付けられていたのだ。特定の手順で読み解けば、著者が記した呪文や技法の数々が知識として得られるに違いないと。
 まさに書記局の本領発揮というやつで、書物が運び込まれて数日のうちには、解読のための組織だった方法が発見された。となれば残りは実際に読むばかりなのだが、残りと一口にいっても、フォリオ判にびっしり書き込まれたページが数百と重なっているのだ、全貌を明らかにするのは並大抵のことではない。もちろん、平易な現代英語ではなく古英語で記述されているから、そこを読み直す手間もかかる。
「いくつかの呪文はもう拾い上げたので、多少は成果があったと言えなくもないかもしれないんですが。召喚術、他の文献にソース不明で出てたやつが見つかって、ちょっと得した気分です」
「へえ、それじゃ大成果じゃあないですか」
 召喚術師としては、この話題は聞き逃すわけにいかなかった。彼らの努力の結晶が、やがては我々支部の面々に、そして世界中の魔術師たちに共有されていくことを思うと、それを少しでも先取りできるのは、たしかに得をしたと思える。
「そうなんですけど、ただ、それに一つ一つ気を取られてると、行くべきところまで行き着かなくって。あれが欲しいですね、ほら、あれ」
「あれ?」 ベーコンサンドを咥えたまま、J.Jが首をかしげた。
「えーと、解ってもらえますかね、ジャガイモ……ジャガイモを収穫するときに、機械を使うじゃないですか。地面を耕すみたいにして……」
「あー、解る解る」
「あんなふうに、もう一気に本から呪文だの何だのを掘り返して進んでいけるような、そんなものが欲しくなります。自分たちも素手で掘ってる状態でこそないですが、あってもせいぜいスコップが人数分、ってところですよ」
 予算が潤沢でないもので、と彼女は言った。冗談かどうかは定かではなかった。シスター・ヨシノのジョークは今ひとつ分かりにくい。
「それに、効率のほうも問題ですけど、何よりほら、虫で」
 困ったような笑顔を顔に貼り付けたまま、女史はさらに続けた。私とJ.Jは揃って顔を見合わせた。

 虫。――それは生き物の虫のことを指しているのだろうか。確かに書物に害を与える虫は何種類もいる。紙魚だとか、死番虫だとか、蔵書家にとっては天敵と呼べる連中だ。確かにそんなものが居ては解読どころではなかろうが、しかし書記局の精鋭たちが虫害に手こずるとも思えない。私はシスター・ヨシノの言葉を待った。J.Jは待たずに直接聞いた。
「虫って、本が虫食いってことかい? そういう訳じゃないよね」
「ああ、いや、その虫のことじゃないです、ジョン君。そうじゃなくて、本の虫ですよ。あれっ、違うな、これじゃ同じこと言ってるだけですね」
 一人で混乱しているのを見る限り、やはり彼女は相当疲れている。どうせならサンドイッチにデザートも付けておくべきだったかと考えながら、私は落ち着いてと言葉を添えた。
「つまり、自分が本の虫である、ということが問題なんです。自分自身が」
「ヨシノさんが」
「はい。……ほら、もうご存知だと思うんですけど、あの本って普通の物語としても読めるんですよ。だからどうしても……必要な部分だけを取り出そうって思っても、ついつい通して読んでしまうんです、普通に」
 お恥ずかしながら、と彼女は首をすくめた。黒い眉の形はいつもよりも気弱そうに見える。
「解りますよ、シスター・ヨシノ。私も実際本の虫なので、ついでの調べ物が大幅に脱線するってことは、まあ茶飯事です」
「うんうん僕もよくある! 今日中に覚えなきゃってマニュアルがあるのに、気が付いたら――」
「気が付いたらコミックに手を出してる、は全く別のケースだぞJ.J」
「気が付いたら隅っこにパラパラ漫画書いてる、もですよ」
 私たちは口々に同じようなことを言い、そして堪え切れずに小さく吹き出した。書記局でも箒乗り部隊でも、我らが後輩の位置づけは大体似たようなものだったようだ。当の本人は不服そうに、「そんなんじゃないって!」と漏らしていたが。
「面白いんですか、その『物語』は?」
「はい! 8世紀ごろのヨーロッパを舞台にした、英雄叙事詩……という分類になるのでしょうか、いわゆる騎士道物語なんです。主人公はケルナッハという若い勇士なんですが、彼を取り巻く人物との関係がとても鮮やかに書かれていて――」
 私が少しばかり話題をそちらに向けると、たちまちシスター・ヨシノは顔色を変えて、いきいきとその「物語」について解説し始めた。忠義と愛との間で葛藤する主人公の姿だとか、異教徒の騎士とひととき結んだ友誼の素晴らしさとか、あるいはヒロインたる女戦士に憧れるといった話を。私は頷きながらそれを聞き、彼女という吟遊詩人の口から語られる、遥か昔の英雄譚を楽しんだ。
「……あっ、いや、物語の話はともかくですね」
「いや、すごく楽しそうだったよ、それをもっと聞きたいよ僕は」
 J.Jもすっかり聞き惚れてしまっていたようで、ベーコンサンドは大して減っていなかった。シスターが照れたように視線を反らし、それからまたすぐに戻した。
「つまり、物語としても本当に面白い本なので、解読が終わっても個人的にはもっと読みたいんですよ、自分は。できればお二人にも読んでもらいたいです。――なんで、さっさと作業を終えられるように、もうひと頑張りします」
「うん、それがいいと思う! もしできれば、僕らにも『楽に』読めるように、現代語に」
「ますます仕事を増やしてどうするの、J.J。ブラザー・ウェンセスラスだけじゃなく局長にまで奢る羽目になるぞ」
 苦言を呈する私に、女史は困ったようにまた笑った。

「もし良かったら」
 休憩室のドアを開け、パンと肉とスモークサーモンの匂いを一旦換気しながら、私は最後の提案をした。
「まだ昼休みでしょう、そのへんまで散歩でもどうです。体を動かすと集中力が戻るというし」
「それ良いねアイザック、今日は天気もいいから気持ちもいいよ。どうかな、ヨシノさん」
 J.Jも手を打って同意し、シスター・ヨシノにもうひと押しを掛ける。何に対しても遠慮がちな彼女は、戸惑い半分悩み半分に、しばらく黙ってまたローストビーフを凝視していたが、やがてその顔を上げた。
「じゃあ、お言葉に甘えます。しばらく部屋に篭りっきりでしたし、お天気のことも全然気にしてなかったしで」
「決まりだね! いや、書記局の使ってる部屋って本当、いつもカーテンは閉まってるし時々真っ暗になってるしで、はっきり言ってかなり息苦しそうだからさ、これもいい機会だよ。あ、上着とか取ってこなくていいかな?」
「今日は特に何も持ってきていないので、このままで。そんなに寒くもないですしね」
 シスター・ヨシノは食べかけのサンドイッチを持ったまま、一度大きく伸びをした。そして、すとんと元のこじんまりとした姿勢になると、不意にこんなことを言った。
「天高く、馬肥ゆる秋、ですか」
「え、何だい?」 J.Jが聞き返す。
「日本にはそういう言い回しがあるんです。空は高く晴れていて、動物たちは食欲を増す、そんな秋のいちばん良い時期のことなんですが。――まあ、書記局は馬飼ってないんで、肥えるのは本棚と中の人ばっかりなんですけどね……」
 私たちの目から見れば、大分とほっそりした体型のシスター・ヨシノは、アルカイックスマイルを浮かべながら少しうなだれた。彼女がいた日本支部には、どれほど痩身の女性たちが集っていたのだろう、と少しばかり考えた。
「そんな、書記局以外は馬飼ってるみたいな言い方だなあ」
 J.Jは私と全く別のところに着目していた。彼の何気ない言葉に、しかしシスター・ヨシノは何故か反応して、
「あれ、知りません? 飼ってますよ、馬」
 と述べた。
「飼ってるのかい!?」
「ジョン君は見たことありませんでしたっけ、パレード用の。ほら、NYPDの騎馬警官隊から譲り受けたやつ――」
 J.Jよりも長くこのニューヨーク支部にいる女史は、さも当たり前のように口にする。私も馬の存在ぐらいは知っていたが、今まで大して気にかけたことはなかった。果たしてニューヨークの秋は馬肥ゆる秋なのだろうか。入り口のゲートを抜けた先に広がっている空が、どこまでも高く青々としていることは確かだが。

go page top

inserted by FC2 system