酸味の強いコーヒー、動物性脂肪、そして白砂糖。絵に描いたような健康的生活の敵だ。

所轄、スイーツ、朝を待つ -Sweet Tooth-

 ところが魔術師協会ニューヨーク支部において、これらの品はまさしく夜勤の友なのであった。夜勤の時点で健康的さとは程遠いのだから、最早それ以上健康を気にしても仕方がない、と考える者が多いのかもしれない。魔術師的発想と言えるかどうかは解らない。
 チームの仲間たちがぞろぞろ帰途につき、居残っていた事務係や外勤から遅くに戻ってきた人々も、すっかりオフィスから退去したころ、私の仕事はいよいよ本番を迎えた。といっても私は普段、レストランでのパートタイムの副業があるから、夜勤に入ることは滅多にない。今日はたまたまシフトが入っていなかった上に、本来当番になっていたはずの職員が娘の誕生日だというから、肩代わりをしてあげた形である。こういう善行もたまには良いものだ。

 近所のカフェから買ってきた、不健康の三位一体を手に、私はエレベーターに乗り込む。関係者はみな「ザ・マンション」と呼ぶ、ニューヨーク支部の建物の屋上へ。扉が開くと、しんと冷え込む夜の空がもう目の前だ。開けた空間には石のタイルが敷き詰められ、あるいは一部が天然芝になっており、さまざまの植物が育てられている。小さいながら温室もあるほどで、胸を張って屋上庭園ですと名乗るに相応しい風景だ。そして私の仕事は、一晩この庭園に宿直して、万事異状なしと翌朝に宣言を行うことである。異状がないと信じることも業務には含まれている。
「まあ、たまにカラスやブラウニーが突っつくからなあ」
 連中は賢いので、どこに自分好みの食べ物があるかよく知っているのである。我々が利用しない木の実ぐらいなら、くれてやることに特別躊躇いもないが、これがベリーの類を盗み食いしたり、あるいはハーブの鉢でもひっくり返されようものなら、世話をしている生物管理部の人々は怒り狂うだろう。やはり見張りというのは必要なのだ。
 屋上じゅうが見渡せるベンチに腰を下ろすと、私は抱えていた紙袋を隣に置いた。封を開ければ、たちまち立ち昇ってくるのはバターの香ばしい匂いだ。ほんのり残る温もりと共に、焦がした砂糖とバナナの甘苦さが続いて鼻をくすぐる。「カフェ・バルタザール」の温かいバナナタルトは、新作として発表されてからものの数日で、流行にやかましいニューヨーカーたちを虜にし、シスター・クララ・ハモンドの心をも鷲掴みにした。彼女直々のご推薦ということは、つまり味に間違いがないということだった。テイクアウトではアイスクリームを乗せてもらえないのが唯一の難点だ。
 蓋付きのサーモ・マグに注いでもらったコーヒーは、もちろん熱々のまま月のない空に湯気を立ち上らせている。三月の夜は未だ冷え込み厳しく、あとひと月もすれば春がやって来るのだとは思えないほど。ここで一晩を過ごすには、もちろん適宜温室に一時退避するとしても、やはりコーヒーと脂肪と糖のちからが必要だ。魔術師だって魔法に頼らず体を温めたいのである。

((こんばんは、おや、今日はまたずいぶん高カロリー。お年を召した方には宜しくないのでは))
 コロンビア産の香り高い液体を一口啜り、ほうと白い息を吐き出したとき、ベンチの空いたスペースから声がした。視線をやると、ガス灯の明かりからガス灯部分だけを取り去ったみたいな、オレンジがかった光の玉がふわりふわりと浮いていた。見かけのわりに実際の光量はそれほどでもなかった。
「まあ確かにお年は召してるけど、見かけも中身も若いつもりなので、一応」
((これは失礼、そうでした。お久しぶりです、ペンドルトン卿))
「お久しぶり。去年のサンクスギビング以来かな」
 私は彼、いや、声だけで彼か彼女か判断するのはよろしくないと思うのだが、このぼやぼやした明かりとは知り合いだった。夜になるとたまに出るのだ。一応幽霊、いや、人魂というほうが見た目にそぐうのだろうか。人見知りせず恨めしくもなさそうな物腰のおかげで、夜勤の職員たちからは親しまれている。念のため死霊術担当の係官に見てもらったが、「ほとんど無害」という、銀河ヒッチハイクガイドみたいな評価がお役所じみた文書と共に下されたそうだ。
((コーヒーがお好きですね、ペンドルトン卿は))
「一応革命期の人間なんで、紅茶よりはコーヒー党ということになってるよ」
 ブラザー・ウェンセスラスと違ってボストン生まれじゃあないけれど。私は言って、肩を竦めながらコーヒーをもう一口、そして袋から本日の主賓をうやうやしく取り出す。常夜灯につやつやと光るカラメリゼが、バナナをいっそう甘美に見せていた。いそいそと敷き紙をめくり、指先でタルト生地の温かみを味わいながら、そのまま端っこに遠慮なく齧りつく。こういう食べ方をシスター・クララが見たならば、きっとそれとなく下品である旨を指摘してくるのだろうが、彼女はこの場にいない。咎める人間は誰もいない。幸福とはこういうことである。
((おうらやましい。世の中にはどんどん美味しいものが増えてゆく。幽霊はお供え物は受け取りますが、買い物には行けませんからね))
「買い物メモを書くのはどう? 自動筆記で適当な紙に、『・バナナのタルト 1P ・メゾンカイザーのクロワッサン 2P ・セサミベーグル(クリームチーズ)』とか、職員の財布を圧迫しない程度にリクエストすればいいよ」
((皆さんお忙しいでしょうに、買いに行ってくださいますかねえ))
「好き好んで幽霊を餌付けする人々なんだから、たぶん大丈夫だろう」
 ただし行列に並ばなくて済むときだけね、と私は付け加える。魔術師といえば気が長そうなイメージがあるかもしれないが、私の知る生物管理部の人々は、だいたい皆長い列というものが嫌いだ。

 ああ、それにしても、クリームチーズを使ったフィリングに、歯を沈み込ませるときの愛おしさときたら! 大の甘党のことを「甘い歯sweet tooth」と呼ぶのもむべなるかな。人魂はまだ羨ましげに、ふわふわと上下しながら私の周りを漂っていた。じらすのも少しばかり可哀想か。
「ほら、おすそ分けをどうぞ。夜勤に付き合ってくれるのだしね」
 フィリングをこぼさないようにして、口をつけていない部分をそっと指で折り取る。ガス灯めかした明かりがLEDランプぐらいに輝きを増した気がした。ふわり、指先に感じる熱がさっと引いたかと思うと、タルトの小さな分け前はそっと宙に浮き、ぽろぽろ欠片をこぼしながら見る間に小さくなっていった。後で掃き掃除をしなければなるまい。
((ありがたい、本当にありがたい。ああ、天国に行かれないのも悪くない))
「行かれないわけじゃなくて、ただちょっとモラトリアムな気分なだけじゃあないの」
((そうかもしれませんが、いや、きっとこれは、これこそがわたしの天国なのです。雲の上の神の国ではなく、ここを天国と定めたことにします))
「そりゃあ良い。私もたぶん神の国には行かないから、死んだらまた甘いものの話でもしよう」
 夜はどんどん更けてゆく。ニューヨークの市街地で星はほとんど見られないが、代わりに星のように輝いて生きる人たちと、輝いて生きていた人たちに出会い、共に朝まで過ごすことができる。この街の住民たちは、あらゆる意味で眠らないのだ。
((早く日が昇らないでしょうか。寒くて寒くてかなわない))
「幽霊の言う台詞じゃないな。まあ、私も同感だけれども。夜勤はやっぱり慣れてないからしんどい」
((あんまり夜が長引くと、食べ物の話ばっかりしてますます眠れなくなるのですよ))
 それは悪かったねと私は肩を竦め、残りのタルトをすっかり口に納める。名残惜しいが仕方がない。ひゅうひゅうと鳴る風が甘い香りをすっかり吹き飛ばし、ついでに紙袋も吹き飛ばしそうになったので、慌てて折り畳んで鞄に仕舞い込んだ。

((次にお会いするときは、もう春も終わっているころでしょうか))
 保温マグで指先を暖める私に、人魂はなおも話しかけてきた。
「解らないよ、これからしばらく行事ラッシュだから、家庭ある人の身代わりは需要が増える」
((あのう、頼んでもよろしいですかね))
「メゾンカイザーのクロワッサンを?」
 私はフットワークが軽くないから、売り切れ前に買ってこられるか解らないよ――と軽い冗談めいて言ってみたが、人魂はその場でふるふると震えた。人間の形をしていたら、たぶん首を横に振っていたのだろう。
((職員の皆さんにお手紙を書くのに、都合のよい紙とペンを用意していただければと))
「さっきの提案がお気に召したようで何より。朝上がるときに備品係に頼んでこよう」
((それから……))
「それから?」
 淹れられてから時間が経って、酸味が増してきたコーヒーをごくりと飲む間、人魂は律儀に待っていた。そして、私の鞄の上にゆったり留まると、控えめな声でこう続けた。
((朝まではもう数時間かかりますけれど、どうにも待ち遠しいので、……朝っぽい曲を、何かしら掛けてはいただけませんか))

 なるほど、不健康の三位一体そして幽霊に加えて、音楽もまた夜勤の素晴らしい友だ。おまけにこちらは健康的生活と敵対してもいない。私は快く笑い、鞄からiPhoneを取り出すと、騒音問題にならない程度の音量で、Oasisの「Morning Glory」をタップした。

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