五月のはじめの土曜日は、船出するのに好適な快晴だった。海が呼んでいるかのようだった。

波は五月の海を歌う -Enchanted Sail-

 海に呼ばれたのは私と、私をスタテン島へ招いてくれた知人だけではないと見えた。帰りのフェリーに乗り込んだとき、デッキへ上がるエレベーターのすぐそばに、見知った顔を発見したのだ。初夏の陽光に眩しく照り映える、色白の肌とプラチナブロンド。
「ブラザー・イリヤ」 私は呼んだ。 「こんなところで顔を見るとはね」
 まだ若々しい大柄なウィザードは、自分を呼ぶ声にきょろきょろと辺りを見回したが、すぐに私の姿に気がついて、片手を挙げながら近寄ってきた。
「ブラザー・アイザック! いや、偶然偶然。ってことは、そっちも島に?」
「知り合いに誘われてね。良いレストランができたから、久しぶりに食事でもしないかって」
「へえ、じゃあこっちと似たようなもんですね。おれは食事じゃなくて、ブラスバンドの演奏会に呼ばれたんですが」
 友達の一人がメンバーでね、と楽しげな口振りの彼、ブラザー・イリヤ・ミハイロヴィチは、音楽というものを心から愛している。私を見つけて耳からは外したものの、首にヘッドフォンのコードが掛かっているのが良い証明だ。彼は島のブラスバンドがいかに素晴らしい技術を持っているか、今日の小さなコンサートがどれほど完成度の高いものだったかを喜々として語り、戦没者追悼記念日のセレモニーでまた姿を見られるのが今から楽しみだと述べた。私のほうの話題は、まさか知人のプライベートについてをべらべら喋るわけにもいかないので、シーフード・レストランのメニュー、とりわけ新鮮なマグロのグリエが実に美味であったことに終始した。
 ニューヨークの沖合、スタテン島のセントジョージ停泊所から、マンハッタンのホワイトホール停泊所まではおよそ三十分。短い航路ではあるが、爽やかな陽気と吹き抜ける潮風は、乗客たちの心を十分に充たしてくれる。遠くには自由の女神も臨めるこの船旅は、観光客と地元住民の双方に愛されているのだった。乗船は無料であるというところも有難い。とはいえ、ブルックリンに住みミッドタウンに通勤している身としては、こういった機会でもなければ利用することもないものである。それもこれも地下鉄が便利すぎるからだ。

「それにしても船ってのはテンション上がりますよ。こっちに出てくるまでは乗るチャンスもなかったし。こう、軽く舟唄でも歌いたくなってくるような」
 バンドについてあらかた話し終えた後も、ブラザー・イリヤはいたく御機嫌だった。子供のようだと微笑ましくなってくるのは、私と彼の年齢差だけが原因でもあるまい。他のお客の迷惑にはならないようにね、と私は言い添える。
「ロシアでは、……といってもロシアは広いな、ブラザー・イリヤは内陸の出身で?」
「あー、サンクトペテルブルクなんで船自体はあるんですけれどもね。あと、東のほうにラドガっていう大きな湖があって……」
 彼はその後も、ラドガ湖にはサケやチョウザメはおろかアザラシまで棲んでいることや、子供のころに一度だけ釣りに連れて行ってもらったことなどを私に話して聞かせた。そして、停泊所の売店で買って持ち込んだのだろう、若干冷めかけたフレンチフライを分けてくれた。正直なところ私の胃袋は上限ぎりぎりの状態だったのだが、厚意は快く受け取ることにした。
 船路も半ばに差し掛かり、私がエリー湖畔に住んでいた頃の話をしていた時だった。私のすぐ後ろを、一人の女性がゆっくりと通り過ぎていった。思わず振り返ってしまったのは、その女性がやけに鼻につく、香水とも潮風とも全く違う匂いを漂わせていたからだ。石油のような、否、確言はできないが、とにかく工業用の油の臭いだった。私は肩越しに彼女の姿を見た。美しく輝く金髪を、腰の辺りまで伸ばした妙齢の婦人。少し気の早い夏用のシャツに、群青のロングスカートが涼しげだった。顔立ちの細かなところまでは判らなかったが、美人だなと私は素直に思い、それから何事もなかったようにブラザー・イリヤに向き直った。

 しかし、会話を続けようと開いた口から、初夏の鱒釣りについての言葉が出てくることはなかった。刹那のうちに私の首筋から背中まで、凍てつくような怖気が走り、肺の奥までもを一杯にした。私は危うく悲鳴を上げるところだった。代わりに嗚咽じみた息が一度だけ漏れた。思い出した。遠い昔にも私は、こんな寒気を味わったことがあった。
 観光客で賑わうフェリーの船室は、私の周囲から瞬く間に色褪せて消え失せ、全く異なる風景が細波のように沸き起こってきた。それは実際に私が見聞きした光景と、後になって撮られたテレビ映画のフィルムの切り貼りのようだった――見送りの人で溢れるニューヨーク港の54番埠頭。瀟洒な船が別れの歌のように、汽笛を低く長く吹き鳴らす。デッキから笑顔で手を振る私の友人。新天地での成功を祝うため、故郷の家族も友も総出で出迎えてくれると言っていた。船影は遥かな水平線に消え、アイルランドの沖に波をかき分ける。ああ、そして紺碧の海がにわかにおぞましい色を帯びたかと思うと、あれだけ大きな船体が瞬く間に傾いでゆき、豪奢なドレスやスーツケースがいくつも水面へと投げ出されていった。やがて、白いあぶくが無数に立ち上り、海原を引き裂くようにして、鋼鉄の箱が姿を現す。灰色に塗り込められた窓一つない不吉な姿。船尾に白抜きされた「U20」の文字――
 私は喉の奥に残された息を無理矢理に吐き出した。大きな泡が一つ浮き上がった気がしたが、もちろんそれは幻想だった。たちまちのうちに辺りへ平穏が戻り、目の前ではブラザー・イリヤが、若干怪訝そうな顔でこちらの顔を覗き込んでいた。
「ブラザー・アイザック?」
 咄嗟に伸ばした手が、色の白い魔術師の左腕を掴んだ。もう一分一秒たりとも安穏とはできなかった。私は先程のあの女性が去っていった、デッキへ上がるエレベーターの方を目掛けて駆け出した。勢いよく腕を引かれたブラザー・イリヤが、戸惑った声を上げるのにも構ってはいられなかった。

 船室は賑わってこそいたが、移動に手間取るほど混雑してもいない。私は服装も荷物も多種多様な乗客たちの間を、あの金髪の女性だけを探して一心に駆け抜けた。微かに感じ続ける異質な匂い、――あれはきっと重油の臭いなのだ。
 すぐ横ではブラザー・イリヤがまだ事情を飲み込めず、私に説明を求めていたが、聞き入れている余裕はなかった。通り過ぎてゆく人々がどんな顔をしているのか、私は確認しない。魔術師として身体は鍛えているつもりだったが、それにしてもデッキまでの道のりがなんと長く感じられることか。いくら大型とはいっても、全長は三百フィートほどしかないはずなのに。レストランでたらふく食べ過ぎたことを今日初めて悔いた。けれども横腹の痛みさえ、今この身を支配する恐ろしい予感の前では些細なことだった。
 ようやくデッキに飛び出したときには、私の鼓動はすっかり乱れ、足元も大分とふらついていた。瞳の奥がつんとして、眦に涙が滲む。強くなってきた海風に吹かれながら、帰路に就く人の群れに、必死に視線を走らせることしばし。その人影はあまりにも鮮やかに目に飛び込んできた。人だかりから距離を取った、進行方向左手の長椅子の端。緩く波打つ髪を掻き上げ、徐々に近付いてくる高層ビル街へ顔を向けている。
「ちょい、ブラザー・アイザック、あんだけ走るほうがおれの歌なんかよりよっぽど迷惑になるんじゃないですかね!」
 ブラザー・イリヤの声には応えず、私は大股に女性へと歩み寄り、真正面で立ち止まって一度息を整えた。
「魔術師協会です」 上着の胸ポケットから身分証明書を取り出し、私はやや抑えた声で言う。
「お伺いしたいことがあります。船が着くまでには終わると思うのですが、下の階まで少々よろしいですか」
「ブラザー?」
 私の問い掛けに、面食らった様子でブラザー・イリヤが訊いた。申し訳ないが今度も黙殺した。女性は目をぱちくりさせ、僅かに首を傾げて我々を見上げる。日差しにきらめく海のような、あるいは川底に沈んだ翡翠のような、深く込み入った緑青色が私を捉えた。
「あら、まあ、お仕事ご苦労様です。構いませんけれど、ここでは駄目なのかしら?」
 せっかく眺めがよいのに、と彼女は言った。おっとりとした、特に後ろめたいもののない響きの声だ。
「いいえ」 私はきっぱりと否定した。今の自分の顔はきっと、水死体みたいに青白いのだろうなと思った。
「確かにここは気持ちのよいところだ、でも話をするのには向かないでしょう。いつサイレン・・・・が聞こえるか解らないですからね」

「は、警笛サイレン?」
 同伴の魔術師はますます不可解そうな顔をしたが、一方女性の反応は違った。私の言葉をゆっくり咀嚼するような間のあと、彼女は唇にささやかな笑みを浮かべた。
「お分かりになるものなのね」
 少し乱れた前髪を片手で整え、穏やかな調子で彼女は言う。
「未来視とか予知だとか、聖なる霊感だと自称する者も多いですがね、私に言わせれば畢竟ひっきょう経験からの推察とただの勘です。とりわけ今回は、同様の事態を体験したことがあるもので」
「体験ですって。もしかして、わたしたちの歌を聞いたことがあるのかしら」
 まくし立てるような私の口調にも、微塵も怯んだ様子がない。慣れているのとは違うだろうから、そもそも感情の動きが表面に出ない質なのか、それともこれしきで感情が動くことがないのかもしれない。
「まさか。聞いたことがあったら、今頃私はここにいないでしょうね。そうではなくて予感のほうですよ。貴女とすれ違ったときに感じたものと、全く同じものを私は覚えたことがある。1915年の5月1日、ニューヨーク港を出る船を送ったそのときに」
 ほとんど息継ぎなしにそこまで言い切って、私はやっとブラザー・イリヤに目配せをした。あちらはあちらで、今の会話から私の行動の理由に思い当たってくれたようだった――海をゆく船、サイレン、歌声。彼は小さく頷いて見せると、鞄から携帯電話を取り出しながら、踵を返して早足に船室へと降りていった。

「ずいぶんと当たりが厳しいものだわ。わたし、こんなところで歌うつもりなんてないのに」
「でしょうとも。大体、貴女がセイレーンでなくたって、そもそもスタテン島フェリーの船内はパフォーマンスの類が禁止されています。乗船規則でね」
 彼女の動向からあくまで目を離さぬようにしながら、私はその隣に腰を下ろした。この際デッキを降りることには拘らないことにした。周りの人々は、私たちの会話の内容にまで気をかける様子がない。話がややこしくならないから結構なことである。
「そうだったかしら。でも、それならますます不思議だわ。常識で考えたら、セイレーンが歌も歌わず、しかも船に乗っているなんて思わないでしょう」
「一般にはそうなりますが、魔術師ですのでね。時には常識から外れたことも考えないと、この仕事は務まらない」
「……魔法使い。生憎、脚は間に合っていてよ」
「なんで『悪い』魔法使いだってことになってるんです」
 やや不本意な扱いだったので、私は軽く眉を上げておいた。もっとも、時には邪悪な魔術師っぽいことも仕事上行う身としては、完全に否定しきれないのもまた事実だった。
「実際、何故船に――いや、それ以前にセイレーンと差しで対話するのが初めてで、まず貴女があまりに普通の人だということに驚いていますよ。ステレオタイプの話題を続けるなら、人間としての視点からすれば、貴女がたは誘惑するもの、恐ろしい海の怪物なんですが」
「アメリカ人としての視点から、スターバックス・コーヒーのロゴ、もそこに追加しておくべきではないの」
 二本の細い脚を生やした人魚が、急にそんなことを言い出したものだから、人間の魔術師である私のほうが一瞬返答に困った。まさかセイレーンの口からその事実を聞かされるとは思いもよらなかった。
「陸の文化をよくご存知ですね」
「ええ、時々カップが投げ捨てられているもの、海に」
「……そのことについては申し訳なく思いますが、そういったモラルの向上については魔術師協会の管轄外なので、悪しからず」
 まるでよくある環境アニメみたいな話題だ。一応当たり障りのないふうに答えてはみたが、セイレーンにこんなことを言われて罪悪感を抱く必要があるのだろうか。海の妖女が船を沈めれば、それはそれで立派な海洋汚染なのである。彼女からはまだ重油の臭いがする。黒く重たい苦しみの匂いが。
「どうもこのテーマは止めにしたが良いみたいだ。軌道を修正しましょう。結局、貴女はどうしてこの船に?」
 咳払いをしてから私はそう尋ねた。セイレーンは黙ってマンハッタンの遠い街並みを眺めていたが、程なくしてまたゆったりと口を開いた。

「もうすぐ沖に出るのよ。また当分戻ってこないわ。この街ともしばらくのお別れ」
 すぐ隣で喋っているはずなのに、その声はどこか遠い海鳴りのように聞こえた。
「沖に、ですか」
「そうよ、セイレーンだっていつも浅い岩場にいるわけじゃない。現代の船が、岸から遠く離れたところまで航海するのと同じで」
 彼女が語るのを聞きながら、私は伝承にあるセイレーンの姿を思い出す。彼女たちはもともとギリシャ神話の中の存在であり、メッシーナの海峡に浮かぶ島で獲物を待ち構えていた。ところが、東洋の神秘の産んだ羅針盤が、人間の船を陸から遠く遠く引き離してゆき、セイレーンもまた特定の岩礁で羽を休める存在ではなくなったのだ。
「このフェリーは二百年も昔から島を行き来していたのでしょう。わたしが初めてニューヨークにやって来たときも勿論あったわ。でも、次に来たときまであるかどうかは分からないじゃない。――その前に一度、船から海を見てみたかったの」
 いつもとは逆の形ね。彼女は言い、デッキに差す陽の光に目を細めた。行く手には「ツイン・タワー」でなくなってしまった世界貿易センターが、もう随分くっきりと見えている。
「……抜き打ち検査に来たのが私でよかったですね。もしニューヨーク市交通局の職員だったら、こんなふうに静かに話は聞いてもらえませんよ」
「あら、どうかしら。あなただって、さっきは有無を言わさないつもりでいたんじゃない」
「先程は」 私は落ち着いたふりをしながら答えた。 「多少焦っただけです」
 彼女はそんな私の態度を見抜いたのかもしれない。くすくすと小さな声を立てて笑い、そしてこちらに顔を向けた。
「いいえ、間違ってはいなくてよ、あなたのその姿勢は。わたしはこの船を沈めなかったけれど、水の精は他にも沢山いるわ。海ばかりじゃなく河にも湖にも、優しいものも激しいものも」
 底知れない水の色をした眼が、優しくも剣呑に私を見ている。やはりこの瞳は人間のものではないのだと、今更のように思わされてしまう。
「それに、……歌うつもりはないと言ったけれど、やっぱり確言はできないわ。こうして陸と海とに臨んでいると、どうしても旋律が口をついてしまう瞬間が来る」
「私には実感が沸きませんが、そういうものですか」
「そうよ、それが人魚の魂だもの」
「貴女はきっと私の同僚――さっき出ていった彼ですが、あの人とよく話が通じると思いますよ。この際知り合っておいたらどうです」
 間違いなく向こう百年は長生きするでしょうし、と私は嘯いた。セイレーンは一瞬目を丸くし、それから微笑とも苦笑ともつかない表情を浮かべて、再びオレンジ色の手すりの向こうへと視線を移した。
「結構なことだわ。でも駄目ね、交換できる連絡先がひとつもないし、長生きするはずの人が身投げでもしたらあなたは困るでしょう」
 港が近いことを知らせるアナウンスが、平穏そのものの調子で流れ始めた。よろしく伝えるぐらいにして頂戴、とだけ彼女は言って、そしてそれきり口を開かなかった。

  * * *

 フェリーは定刻通りホワイトホール停泊所に到着し、乗客たちは列なしてぞろぞろと降りていった。ある人はスーツケースを引き、ある人は幼い子供を抱えて、またある人は脇目も振らず地下鉄駅に向かって歩き去ってゆく。
 あの女性が桟橋へ立つことはなかった。対岸の摩天楼が間近に迫ったころ、彼女は静かにデッキから姿を消した。これを「取り逃がした」とするか「不問に処した」とするかについては、私の判断するところではない。少なくともスタテン島フェリーの乗船規則と、魔術師協会の会員心得には反していないはずである。
 改めてマンハッタンの地に足をつけ、その確かさを噛みしめる暇もなく、待合所からこちらに向かって駆け寄ってくる姿があった。先刻ブラザー・イリヤが船上から呼び出した応援だ――シスター・クララ・ハモンドである。後ろからは呑気なペースでブラザー・ウェンセスラス・ウォルターも続いている。もはや緊急事態という訳ではないことを、彼はすっかり見て取ったのだろう。
「お疲れ様です、ブラザー・アイザック、ブラザー・イリヤ。あの」
「大丈夫。まあ、とりあえず、当座のところは」
 シスター・クララの労いにそうとだけ答え、私はやっと息をついた。ひととき保留にしていたあの冷たく痛痒い感覚が、今になって背筋に戻ってくる気配がした。日がようやく傾き始めた程度の時刻だというのに、妙に寒い。潮風のせいばかりではないはずだ。
「沿岸警備隊とニューヨーク市警にも、念のため連絡を入れてあります。不可抗力とはいえ災難でしたね、お二人とも」
「おれは特別災難だとも思ってないけれどもなあ。セイレーンを間近で見るなんてことまず無いだろ、絵画が美化してるわけじゃなくて本当に美人だってことを初めて知ったね」
 ブラザー・イリヤは心なしかうきうきした口調で、フェリーに乗る海の精の詳細を語り始めた。追いついてきた同居人から白い目で見られていることには、どうやら気付いていないらしい。

「もっと景気の良い顔したらどうだ、ちび助。ボーナスものじゃねェか」
 埠頭に立ち尽くしたままの私に、普段通りの間延びした声でブラザー・ウェンセスラスは言う。私も一応表面上は平静だったつもりだが、さすがに彼は目敏かった。
「思ったより、……昔を引きずってたことに気付いて、少し恥ずかしいだけですよ」
 私は肩を竦めて、やれやれといった風に笑って見せた。自分でやっておいてなんだが、わざとらしすぎて間抜けさばかりが強調されていた気がする。ブラザー・イリヤと違って、こういう何気ない演技には慣れていないのである。
「昔ねえ。全くそんな気はしねェんだが、お前俺の2倍ぐらい生きてるんだっけかな」
「ブラザー・ウェンセスラスの自称年齢が正しいなら、2.2倍ぐらいは」
「ワーオ。ああ、そういやあ前に言ってた気がするな。五月の……七日か、今日」
 脳裏にくっきりと、大きな活字で記された新聞の見出しが浮かび上がる。1915年。号外が出たのは翌日だった。大声を上げて人を呼び集める販売人から、引ったくるようにして手に入れた、忘れもしないあの一部。"ルシタニア号撃沈さる 1000人余り行方不明に"――
「ちび助、言っとくが」 ブラザーが私の顔をちらと見た。 「ルシタニアをやったのはセイレーンとは違う」
「解ってますよ」
 解っていないわけがない。当時アメリカに住んでいれば、否が応でも知る羽目になったことだ。
「潜水艦です。あの頃の北海には、そういうのが沢山いたんだ」
「あの頃どころか今だっているさね。ただセイレーンと同じで、いることはいても船は沈めてねェだけだ」
 この二十一世紀、飛行機が墜落してもグレムリンの仕業だという者がいないように、船が沈没しても真っ先にセイレーンが疑われることはない。たとえば整備不足であったり、運行を担当する者の人的ミス、悪天候、それらが複数の証言や科学的な調査結果に基づいて検討され、運輸安全委員会から最終的な結論が出される。もしかしたらそのとき船員の一人が、偶然セイレーンの歌声を耳にしていたとして、現代の船はそれだけの理由で沈むことはないのである。
 そのことはとうに知っていたというのに、私ときたら冷静さを欠いて、一人の乗客の船旅を邪魔してしまったのか。支部に戻ったら自主的に始末書でも作っておくべきか、と思ったときだ。
「――確かにあれはセイレーンの仕業じゃあなかったが、セイレーンは確かにいた。あの船こそがセイレーンだった」
 ブラザー・ウェンセスラスが不意にそんなことを言い出した。気のない声は相変わらずだったが、言葉の調子はほんの少しだけ芯が通って聞こえた。
「船、……船?」
「船を沈めるのはセイレーンじゃねェ、セイレーンが歌うのを聞いた人間だ。――彼女・・の最期の歌声が、生き残った連中の心を狂わし、そこに居なかった者までを動かし、もっと多くのものを沈めさせることになったのさ」

 眼前の桟橋からさっき乗ってきたフェリーが、再びスタテン島を目指して出てゆくのを、私はただ黙って凝視していた。遙々と鳴らされる汽笛の音の中に、あの1915年の春の日から、嵐のように沸き上がった世界の唸りを聞いた。誰もがみな悲しみに啜り泣き、ルシタニアを忘れるなと拳を挙げて叫んでいた、百と一年前の五月の喧騒を。そうだ、あれこそは凪いだ岸辺にいた私の国に、戦争へと舵を切らせたひとつの契機だったのだ。
 そのざわめきの中に、ふと違った声の響きが交ざるのを感じた。これは幻聴ではない。聞こえたほうに視線を遣ると、波止場の車止めに片足を載せたブラザー・イリヤが、大変上機嫌にカンツォーネの一節を歌い上げているところだった。「帰れソレントへ」だ。
「おい、イリー、うるせェぞ」 ブラザー・ウェンセスラスが顔を向けて言った。
「これくらい良いだろ? イタリアに行かずして詩情を味わう絶好の機会ってやつだよ。滅多にないぜ。惑わしのシレンは君の手を取りて、いと甘き声に君を誘うよ――
「ブラザー・イリヤ、それで船は沈みませんが、あなたの今月の賞与査定額は沈み込む一方だと思いますので、騒音規制条例に引っかかる前におやめになったほうが賢明ですよ」
 追い打ちをかけるような形でシスター・クララが冷ややかに告げ、陽気なロシア人は陽気なその笑顔を引きつらせた。が、人魚の魂を持っていると見える彼は、声に出して歌うことこそ止めたものの、ホ調の舟歌をまだハミングし続けていた。
 私はといえば、その麗しい調べを遠くに認識してはいたが、頭の中は全く違った旋律に満たされて、陸にいながらぐんぐん沖へと引き離されていく幻想を覚えていた――浮かんでくるのは、ここより遥かなヨーロッパの見知らぬ景色だった。緑の山間を大きくうねり、滔々と流れ去る五月の河。岩陰に長い金髪を梳かし、美しい乙女が木霊のように歌うのだ。

  こぎゆくふなびと うたにあこがれ
  いわねもみやらず あおげばやがて
  なみまにしずむる ひともふねも
  くすしきまがうた うたうローレライ…

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