場所の見当はもう付いていた。空に飛び立つ前の鳥が、不健康に羽を休める止まり木は。

箒星の烟るとき -Smokin' Ace-

 我々が勤務する世界魔術師協会ニューヨーク支部には、「ザ・マンション」と通称される本館のほか、いくつかの建物が敷地内に点在している。生物管理部が主に用いる飼育舎や、書記局の管轄にある蔵書庫、大型の備品を集めた倉庫など。そして本館の裏側、まさに「片隅」とか「外れ」と呼ぶに相応しい位置に、ほんの数年前に建てられたばかりの鳥の巣があった。建物というよりは箱と呼ぶのが相応しい、3メートル四方程度のガラス張りの、まさに巣箱である。外面にはでかでかとした白いサンセリフ体で、「Smoking Zone」と書かれている。それ以外に用途などないと断言するかのような、力強く面白みのない文字だった。

「ブラザー・ウェンセスラス」
 扉のガラス面をこつこつと叩いて、私は中に見える人影に呼び掛けた。長椅子に脚を組んで座っているのは、我らが箒乗り部隊のチーフ、ブラザー・ウェンセスラス・ウォルターである。黒い綿麻のジャケットを脱いで、随分とくつろいだ様子だ。当然だろう、至福のひとときを過ごしている最中なのだから。
 彼にとってはお生憎様だが、その至福のひとときを私は邪魔しなければならない。もう一度ノックしてから扉を開け、喫煙ブースの中に踏み込む。漂う煙からは微かに甘く、オレンジのような果実の匂いがした。
「そろそろ戻ってきてくださいよ、ブラザー・ウェンセスラス。他の面子はもう準備完了してるんです」
 我らがチーム・ウォルターの中で、未だ普段着でいるのは彼だけだ。それ以外は私も含め、みな式典用の正装に着替えている。黒いダブルのマント付きローブなんて、こんな機会でもなければクローゼットから出してくることがない。青白橙のトリコロールのスカーフは、正直あまり私の好みでもないし。
「良いじゃねェか、まだ休憩時間なんだから。大舞台を前に心を落ち着けてンだよ」
 細いシガレットを口に咥えたまま、鷹揚な態度を崩そうともせずに、ブラザー・ウェンセスラスは抗弁する。
「ものは言いようってやつ」
 私は軽く溜息をついて返した。 「曲技飛行中に息切れしても関知しませんよ、こっちは」

 おととい九月八日は、我々の住む街がかつての「ニューアムステルダム」から、「ニューヨーク」という名前になった記念日であった。二年前の350周年記念式典ほどではないが、今年も市のあちこちで様々なイベントが、この一週間は続けて開催される予定だ。もちろん我々協会の魔術師たちもそれに乗っかり、土曜日すなわち今日の午後から、イースト川上空で箒乗り部隊によるショーを行うことになっている。独立記念日やメモリアル・デーといった主要な祝日は、ブルーエンジェルスやサンダーバーズによって既に抑えられてしまっているから、魔術師協会が関与できるのはこうしたローカルな記念日しかない、というのは一般には開示されていない情報である。
 ともあれ、出演者であるところの私たちは、珍しく全員揃って朝の九時に出勤し、直前の打ち合わせやら箒の最終調整やらをこなして、つつがなく午前の業務を終えた。景気付けにとスシを頼もうとする後輩を残りの三人で黙らせ、ミートボールのトマトソース・スパゲティにシーザーサラダという昼食を取ったのが、二十分ほど前の話か。やがてメンバーがすっかり着替えを済ませた頃、肝心のチーフはいつの間にか姿を消していた、というわけだ。場所の見当がつくと同時に、私は彼を自分で連れ戻しに行かなければならないことも把握した。残りの二人は片や未成年、片や二十一歳といってもなりたてである。とてもこの場に放り込むことはできない。
「タバコのフレーバーといっても様々ですね。バニラやメントールはともかく、オレンジまであるなんて知りませんでしたよ」
 ローブに纏わろうとする煙を手で払い、私は鼻を鳴らして言った。もちろん、こんなことをしても無駄だということは解っている。現代に消臭スプレーというものが存在することに感謝しなければなるまい。
「ああ、こいつはオレンジじゃねェよ。マルーラっつうアフリカだか何処かの果物だと」
 長椅子から一切動くつもりがないらしいブラザー・ウェンセスラスは、私の推察を気のない声で訂正した。聞いたことのない名前だった。
「そんな変わったものが。アフリカのタバコなんですか?」
「デンマーク産だ」
「……繋がりが正直見えないんですが、まあ良いです、別にブラザーのタバコについて質問しに来たわけじゃないですし」
 質問するまでもなく、大体のところはもう既に知っていた。彼は市販の紙巻きタバコではなく、刻んだタバコの葉と巻紙を別個に買って自分で巻く、いわゆる手巻きタバコの愛飲者である。愛飲といっても、世にいう「愛煙家」たちに比べれば遥かに少ない喫煙量らしかった。あくまでも彼の自称なので、それが本当かどうかは分からない。

「それにしても、……タバコか。いつのことだったか、吸っていた記憶はあるんですがね」
 今でこそもう喫煙者ではないものの、タバコの煙の匂い自体は、実はそれほど嫌いではなかった。吸わなくなった理由もよく覚えていない。恐らく税率の高い州に引っ越したか、嫌煙家の友人ができたか、その辺りのタイミングで止めたのだろう。曖昧な私の言葉に、ブラザーは左目を眇めてこちらを見た。
「そりゃあお前、若かりし頃に手を出すだけは出してみたんだろうさ。若気の至りって奴だ、そうだろ」
「お言葉ですがね、ブラザー・ウェンセスラス、私の若い頃には紙巻きタバコなんてものは存在しなかったんですよ」
 パイプや噛みタバコはともかく、シガレットの誕生は十九世期に入ってからのことだ。私が指摘すると、備え付けの灰皿に白くなった灰を落として、彼は肩を竦めてみせた。ヘッ、と擦れたような短い笑い。
「言うことが違うってもんだ、年寄りは」
「実年齢はね」 私は言い返した。 「精神と肉体は、ブラザーの倍若々しいつもりですが」
「そうかよ、ちび助。それじゃあお若いのは、老い先短い男の一服ぐらい大人しく待っててくれ。時間までには万事整えて行くからよ」
 何が老い先短いだ。このふてぶてしさは向こう百年生きてやるという者のそれだろうに。
「私には待つ気が無くもないんですがね、シスター・クララが苦言を呈してるんです。ブラザーだって、彼女やマンハッタン管区長だとかいった人たちから、文字通りの鼻つまみ者にされたくはないでしょう」
 私のスプレーは貸しませんよと付け加えて、今回の関係者たちの総意を伝えてはみたが、彼はどこ吹く風といった様子である。白い煙を吐き出してから、次の返事までに大分勿体つけていた。彼の喫煙ペースはとても緩慢だ。吸いながら瞑想でもしてるんじゃないかと思えるほどに。
「それについては問題ねェよ。シャワー浴びて着替えりゃすむ話だ。お前はどうか知らんがね」
 既に衣装を着ている私に、意地の悪い笑みが向けられる。つまり、自分も鼻つまみ者の一員になりたくなければ、さっさと出て行くがいいと言いたいわけだ。全くもって馬鹿にしている。
「ブラザーが出るまでは私もここに居ますよ。若気の至りを百年引きずってる大人が、二十一世紀の空気に適応するまでは」
「なァに言ってんだ、船乗りと飛行機乗りと兵隊は、昔から今までずっと紫煙と共にあるもんだろ。1914年のクリスマス休戦のときだって、英独兵士の敬意のあかしは配給のタバコだった」
 自分の実年齢とそれに伴う老い先の短さを強調したかったのか、ブラザー・ウェンセスラスはやにわに第一次世界大戦の話をし始めた。彼はアメリカが参戦する前から、フランスの外国人部隊に志願して戦闘機を乗り回していたと主張しているが、これもまた真偽のほどは定かでない。本当だとすれば筋金入りの空の男であるが。
「まさかとは思いますけど、ブラザーがそうまでして戦場に行って撃墜数を稼いでいたのは、よりにもよってタバコのためじゃないでしょうね」
 そんな発想がふと脳裏を過ぎり、私は半目でじろりと彼の顔を睨んだ。
「おいおい、俺ァただのモクなんぞ必要としてねェんだよ。手前で巻いた紙と葉だけが俺のタバコだ。それこそが俺の魔術の種だ。ちび助、お前だってよくよく解ってんだろ」
 左手に一筋の煙をくゆらせながら、熟練の魔術師にして自称撃墜王は私を顎でしゃくった。一際オレンジの、もとい、名前を思い出せないどこかの果物の匂いが、鼻先に強く感じられた気がした。

 ブラザー・ウェンセスラスはもちろん魔法の杖も持っていた――黒檀を削り出して作られた、箒の上で取り回すのに相応しいやつを、ウィザードの証として得意にしていた。けれども彼の魔法の真髄は、本人が言うとおりタバコにあるのだった。
 これは彼だけが自称しているのでなく、誰もが認める真実だ。詳しい仕掛けについては教えてくれないが、巻紙の裏地に呪文をびっしり記してあるとか、魔法薬の材料を一緒に巻いてふかしているのだとか、様々な推測はされている。いずれにせよ、彼は一本のシガレットにぱちんと火を点けるだけで、凡百のソーサラーが長々呪文を唱え続けるような難題を、煙のように跡形もなくしてしまうのだ。
「俺がタバコを呑むのは、咽喉のどや肺を煤まみれにするためでも、快楽やストレス解消のためでもねェんだ。己の修身と魔術の進歩、そして市民の平和に寄与するためさ」
 そう嘯く表情の悪びれない様といったら、私でもそうそう太刀打ちできはしないほどだ。この理屈と共に彼は百年もの間喫煙者であり、何故だか健康を損ねる様子が一向にない。呼吸器疾患に怯える世の愛煙家たちは、さぞ羨ましがるに違いない。
「はいはい、仰る通りですとも。あとはブラザーが、修身だの魔術だののためという名目で、違法なものまで吸わずにいてくれるよう祈っています」
「はん、俺はいたって善良なニューヨーク市民だぜ。州法に照らして合法なものだって、この通り所定の場所で正しく利用してるじゃねェかよ」
「善良でなくたって当然でしょう。そのタバコ、法律上は杖と同じで武器扱いなんですからね」
 市販のタバコならいざ知らず、魔術的な処理のされた彼の愛用品は立派な危険物である。場合によってはただの魔法の杖より恐ろしい品を、規制の厳しいニューヨークで安易に持ち歩けるはずがない。
「全く、やっぱりその口うるささはお前、年寄りだよ。こうしてお前がいちゃもん付けに来なけりゃ、俺の用事はもう十分ぐらい早く終わってたはずだってのに……」
 彼は口からフィルターを離すと、自分のことは棚上げにして私をなじり、指先ほどの小さな火を虚空に向けた。立ち上る煙が次の瞬間、揺らぐ調子をがらりと変えた。

 ブース内は当然無風のはずなのに、煙は彼の手元から真横にたなびき始めた。かと思えば、それは見る間に幾つも曲がりくねり、虚空に模様を描き出した。否、模様ではなく文字だ。流れるような筆跡のアルファベット。
Sichere Dir die Vorteile des Luftkampfes, bevor Du angreifst. Greife immer aus der Sonne an――
 私はそれを声に出して読み上げた。英語ではなかったが、私に理解できる言語だった。ドイツ語だ。
――攻撃をかける前に有利な情勢を確保せよ。可能な限り常に太陽を背にすること。ベルケの空戦八箇条じゃあないですか」
「金言だよな、え?」 ブラザー・ウェンセスラスが短く笑った。
「現代までも通じるパイロットの心得って奴だ。俺にとっても座右の銘の一つだよ。緊急出撃スクランブルの時を除いて、空を飛ぶ前には必ず体で味わうことにしてるのさ、文字通りな」
「……緊急出撃の時以外となると、それはつまり空戦をやるわけでない時に等しいと思うんですがね」
「平時にだって大事なことだろ」
 第一次世界大戦の名だたるエース、オズヴァルト・ベルケの残した訓示は、一筋の煙となって百年後の現代に蘇り、ガラス張りの空へと上ってゆく。そのうちに文字の形は崩れ、空間にぐるぐると循環して、私たちの肺を充たすのだった。私は長椅子の傍まで寄って行き、ブラザー・ウェンセスラスから少しばかり間をあけて腰を下ろした。
「どうした、カテキズム的自制の美徳を説くのはやめたのか、ちび助」
「クリスチャンではないのでね」 彼に倣って大仰に脚を組みながら、私は言った。
「ブラザーがそこまで言うのなら、多少はあやかってみようかと思ったまでですよ」
 改めて見上げると、快晴とまではいかないが好天である。飛行ショーの当日なのだから、そうであってくれなくては困るのだが、私は今更に安堵した。それから、立ち上る煙の文字を目で追いつつ、頭に浮かんだことを口に出した。
「しかし、元フランス軍のアメリカ人としては、引用するにしても折角なら連合国軍のパイロットがいいとか、そういうのは無いので? 例えば英国ならマノックのルールとか、マノンの十則とか、あるじゃないですか」
 私は差別的見地からではなく、ただ「なんとなくそんな思いがあったりはしないだろうか」程度のつもりで尋ねたのである。果たしてかつての仏軍義勇兵は、この素朴な疑問を完全に揶揄しにかかってきた。
「馬ァ鹿、そんな考えだからお前は年寄りで、ちび助だって言うんだよ。優れた先人の言葉に国籍の較差なんぞがあるか」
「ありませんよ、そんなことは私だって承知しています」
「承知してンなら承知した態度で聞いとけ。偉大なる戦闘機エースの祖の言葉だ、あのリヒトホーフェンの師匠だぞ」
 ドイツ、どころか一次大戦時の世界で最高のスコアを挙げた、正しく撃墜王の名を、ブラザー・ウェンセスラスは羨望と畏敬とが同時に滲む声で口にした。私は百年前のフランスの空で、鉄十字の紋章を抱いた真紅の複葉機と、彼の――具体的な機種名は想像がつかないが、とにかく何かしらの戦闘機が共に飛んでいるのを、ぼんやり思い描いてみた。ありそうな光景だとは感じられなかった。
「まあ、だとしても、この匂いはあまりドイツ軍のエースらしくはない気がしますがね」
「どんなだよドイツ軍のエースらしい匂いってのは。何かい、銘柄を『プエブロ』にでも変えろってのか、あれはドイツ産だぜ」
 それともビールかソーセージのフレーバーでも探してくるか。そんなステレオタイプ的なことを言って、彼は座っている脚の上下を組み替える。私に現代のタバコの銘柄はさっぱりだったが、「プエブロ」という名でドイツ産というのが妙にちぐはぐであることは解った。

 いつしか煙は八箇条の教えを綴り終え、この鳥の巣の空気とひとつになろうとしていた。ブラザー・ウェンセスラスが静かに息を吐き、灰皿に紙巻きを押し付けて消した。
「本当に、ゆっくりと吸う人ですね、ブラザーは」
「良いものは時間を掛けて、噛みしめるように味わうもんだ。惰性でハイペースに吸うタバコの何が良いかね。少なくとも俺にとっては、そういうのよりは日々の昼飯のほうがずっと旨い」
「あのスパゲティですか」
 オレンジめいた匂いから意識を反らし、バジルの効いたトマトソースの香りを思い起こしながら私は言った。
「反対者約一名をも黙らせる味だったろ。気に入りの店なんだ。本当はもう一軒、候補地はあったんだがな」
「同じミッドタウンにですか?」
「ああ。一応パン屋のくくりなんだが、イートインのチーズサンドが格別でね。種類も多い。俺が一番好きなのは、サラミとハラペーニョにレッドチェダーを合わせて焼いたやつだ。チーズの濃さとハラペーニョの辛さが良いンだ、パンは薄切りでニンニクが擦り込んであって――」
「ブラザー・ウェンセスラス」 私はそこで本能的に彼の言葉を遮った。 「後にしましょう、その話は」
 たちまち彼の眦が下がり、くっくっと茶化すような笑いが口から漏れ始めた。
「別に構やしないじゃねェか、自然な反応だろ。食べ盛りのお年頃だもんなァ」
「そんなにシスター・クララを呼んでほしいんですか」
 喜んであることないこと吹き込んできますよ、と私は脅しにかかったが、残念ながらこの鉄面皮のウィザードには通用しなかった。私が本気でそうするはずがないと解っているのだろう。その通りだ。
「そこまで世話を焼いて貰わんでも、答弁ぐらいは自分でする。俺は良い大人なんでな」
 白々しい台詞と共に、ブラザー・ウェンセスラスはその黒い目を閉じ、ガラス壁に凭れて天を仰いだ。私も出ていく前にちらと顔を上向けた。夏の名残のありありと見える、深い濃い青色の空が、うっすら烟ってそこにあった。

go page top

inserted by FC2 system