「考えてみると不思議だよね、どうして『頭のいい人はチェスをする』んだろうって」

二王奮戦 -Person of Cense-

 テーブルの上に「刻印」の魔法で描かれた、8×8のマス目の上で手と手は踊る。ぼんやり青く光る境界線と、前に列する歩兵――に見立てた小さな精油の瓶――を飛び越えて、黒のナイトが進軍を開始した。これはポーンよりもう少し大きな瓶で、2ml入りのダマスクローズの抽出液アブソリュートだった。我々は手元にあるものを最大限に利用して、あと十数分の空隙を埋めようとしているのだ。温室のガラス越しに仰ぐ空はしらじらと明け、間もなくニューヨークに5月11日の朝が訪れることを告げていた。
 テーブルを挟んで真向かいにいるのは、私と共に宿直に入ったブラザー・ジョン・ジェローム、通称J.Jである。この溌剌として賑やかな青年を、世界魔術師協会ニューヨーク支部で夜勤の伴に選ぶことは、ベストにもワーストにもなり得る。敷地内の別棟にある指定物品保管室で、魔道具を狙って現れる取り替え妖精を待ち伏せするには、彼は全くもって不向きそのものだ。彼の辞書には恐らく、「息を殺す」とか「声を潜める」とかいった慣用句は載っていない。一方、ただ夜の間「ザ・マンション」の屋上庭園に居座って、生物管理部に代わり異状がないか確認するだけの仕事なら、J.Jを味方につけることほど頼もしいことはないだろう。温室のベンチに座って目を開けているだけの九時間に、次から次へと新しい話題、片手間にできるゲーム、ストレスの捌け口、さらには多少の使い走りまで提供してくれる。これなら無聊をかこつ暇などない。
 そして現在、私たちがラストスパートに選んだのはチェスだった。といっても、まさか生物管理部は備品としてチェスセットを置いてくれてはいないので、盤は魔法で大雑把に描画し、駒はみな正規職員たちの製作物であるところの小瓶だ。もちろん許可は取っている。

「ほら、僕ってよくコミックを読むんだけど――ヒーローものも、そうじゃないのも読むけどさ、『頭のいいキャラクター』って、ちょくちょくチェスの対局をしてると思わない? 特に偉い人とか悪役によくあるよね」
 J.Jは白側のプレイヤーである私の手を待つ間、何気ない思いつきのように言うのだった。彼のコミック好きはチームでも有名で、待機室には常にダンボール詰めの冊子を置いているぐらいだ。先日もまた、今年の夏のコミコンに参加するとかしないとかいう話をしていた気がする。
「頭のいい、それも地位の高い悪役のチェスか。『刑事コロンボ』に、チェス・プレイヤーが犯人の回があったっけね」
「あー、ええと、僕はあんまりそういう昔の刑事ドラマは見ないんだけど、そうなのかい?」
「……君の大好きなファンタスティック・フォーと同い年の作品だよ、J.J。傑作だから一度は見ておいたら。それはともかく、確かにそのイメージはあるね、天才型の登場人物はチェスが趣味だったりする、っていう」
 二十一歳にしてカートゥーン懐古主義者である後輩に、適当な相槌を打ちながら、私はクイーンを左隣のマスへと動かし、先に布陣していたポーンに横付けた。白の女王は25ml入りのカルダモン・オイルで、要するに瓶の容量がそのまま駒のランクになっているのだった。カルダモンであることにも深い理由はない。ただ私が不意に、カルダモンが「スパイスの女王」と呼ばれていることを思い出しただけである。
「それで、そのイメージだとか、ステレオタイプの原因は何かという話?」
「そうそう。だって、チェスが上手いっていうのは別に、頭の良さと直接結びついてるわけじゃないよね。世界のトップ・プレイヤーたちは大体、頭の回転の速い人ばっかりだろうけど、でもだからって勉強ができたり、仕事ができたりするとは限らない」
「そりゃあそうだ。チェスで使う思考力と、例えば我々魔術師が魔導書を解読するのに使う思考力は同一ではないよ。漫画や映画でチェスが使われるのは、単にビジュアル面の問題だろう」
 ごく簡単な小道具を用意するだけで、上品かつお洒落に、その人の持つ知性を表現できるから、チェスは重宝されるのだ。なんだったら実際に指さなくたって、適当な盤面を挟んでじっと向かい合っているだけでも、何かしら「頭のいい人々が頭のいいことを考えている」空気は生まれるものである。派手な動きがなくてもいいから、動画でなしに一枚絵であっても見栄えがする。
「でもさあ、たとえそうだとしても、子供のころの僕は勘違いするわけだよ、頭のいい人はみんなチェスが上手いんだ! って。知的なヒーローとヴィランが意味深に対局してたらかっこいいって思うじゃないか! ……そんなわけで僕はうっかりチェスに夢中になったのさ、小学校の二年か三年のときに」
 J.Jはもう一つのナイトも動かした。きびきびとした決断だ。我々は別に早指しブリッツゲームをやっている訳ではないが、四時間かけて確実に勝ちをもぎ取りに行っているわけでもない。目的は終業までの暇つぶしなのだから、朝の七時ごろに最後の一局が終わりさえすれば、ペース配分は完全に自由である。途中で脇道にそれた雑談に興じたとしても、外野から文句が飛んでくることもない。

 我々が互いに狙うキングの駒は、当然25mlのクイーンの上を行く、50mlのオイルの瓶だ。白はスペアミントで、黒はラベンダー。これにもカルダモン同様さしたる理由はない。格でいえばポーンに回されたダマスクローズのほうが、よほど希少であり高価だった。実は当初、「精油としての値段が高い順に駒を当てはめてはどうか」という案が出たことには出たが、通販サイトでちょっと検索してみてすぐに止めたのだ。我々の精勤一時間に与えられた価値は、この小指の先ほどしかない瓶の中身にさえ及ばないのだという、あまりに切ない事実を直視し続けたくなかったのである。
「それで、若くして目覚めたチェス少年のその後はどうなった、J.J」
 ビショップの前のポーンをひとつ進めてすぐ、しまったと思った。先に攻めてきた黒のナイトに、みすみす付け入る隙を与えたことになる。しかしてチェスに待ったは無い。ルール上、一度手を触れた駒は動かさなければならないのだ。もっともこれは公式試合などではないし、私が頼めばJ.Jのこと、きっと指し直しを認めてくれるだろうけれど、それもやや自尊心に悪い。
「うん、まずは姉さんたちから始めて――僕の上に二人いるって話はしたよね、アイザック。小学校にいるうちは、もっぱら父さんが練習相手だったかな。中学に上がって後輩ができると、片っ端から対戦してたっけなあ。あ、チェック」
 案の定、ポーンが空けたマス目へと、黒いキャップのスイートオレンジは踏み込んできた。J.Jのもう一つのナイトである。私は開始早々王手を掛けられた形だ。これは非常によろしくない。
「学校じゃ強いほうだったの?」
「だんぜん勝ちが多かったさ。ただ、……これも今考えてみれば解ることなんだけど、要するに僕、接待されてたんだよね」
「ああ……」
 顔を合わせれば吹っかけてくる先輩なんて、どう考えても鬱陶しかっただろうと彼は言う。それから手元に置いてあった保温タンブラーを持ち上げ――とうに中身が空になっていることを思い出したか、とても残念そうな顔になった。
「入れてこようか、コーヒーか何か」
「いや、いいよ、どうせあと一時間もしないで帰って寝るんだし。今コーヒーはちょっとね」
 頭を左右に振って、若い魔術師は私の申し出を辞退した。なら良いけどと言う代わりに、私はキングをひとつ左へ寄せた。これで黒の射程から逃れられた。

「でも結局、君はその接待チェスで得意になって終わりじゃなく、大人になってもずっと訓練を続けてきたんだろう?」
「まあね。高校に上がって、ネット対戦をするようになって色々解ったんだ。今まではただ勝たせてもらってただけで、チェスの世界って厳しいんだな、って」
 J.Jはしみじみとした口調で語る。私から見て左隅のルークを取り、盤の脇へと除けながらだ。私は茶色いガラスの塔が引き倒されて割れ砕け、破片と共に華やかなバジルの香りを撒き散らす様を夢想した。あるいは風車に突撃するドン・キホーテを。もっとも、今回の場合ナイトはちゃんとルークを撃破できたのであって、向こう見ずな遍歴騎士に喩えるのは間違いかもしれないが。
「現実ってものを知ったわけだ、より広い世界に出て」
「そういうこと。解ったことは他にもある――実際の試合じゃわりとチェックメイトはできないってこととか、引き分けもすごく多いこと、僕の駒の前にキングを進めてくれるプレイヤーなんていないってことも」
反則手イリーガルムーブじゃないか」
「でも、一度あったんだよ、『頭のいい人はチェスをする』話の中で。別に接待チェスの話してるんじゃないよ」
 なかなか衝撃的なことを聞いてしまったせいで、キングの前のポーンを動かそうとした手が止まる。確かに、相手を詰みに追い込むためなら、たとえクイーンやルークであっても犠牲にするのがチェスというゲームだ。しかし、キングをわざわざ取られる位置に進めるなんて聞いたことがない。
「それはもう『ほんとうにあった怖い話』とでも銘打っていいだろうね、J.J。国際チェス連盟が知ったら抗議文を寄越すかも」
「どうだろ。まあ、その話はあまりにも例外だから置いとくとしても、かっこよく『チェックメイト!』が言えないっていうのはちょっと残念だったな。やっぱりさあ、強敵を相手に熱く美しい頭脳戦を繰り広げた上で、ドラマチックに宣言したいなあって思ってたわけだよ、ずっと!」
「気持ちは解る」
 予定通りに前進した私のポーンに、J.Jも同じくポーンをぶつけてきた。考えるまでもなく、ただで取らせてくれるわけではないだろう。彼は何を思ってこんな手を使ってきたのか。……暫く推測した結果、私は隣の歩兵でもって取ってやることにした。白の駒がふたつ、縦一列に並ぶ。
「チェスといえばチェックメイト、ぐらいの決め台詞だもの、始めたからには言いたいものだろう」
「そうだよ! さっきビジュアル面の問題って言ったけど、オーディオ面ではこれに勝てるものはないって思うな。やっぱりすごく特別な響きに感じるんだよねえ! 『チェック』と『メイト』に分けたら全然そんなことないんだけどさ」
 浮かれた響きとは裏腹の苛烈さで、黒騎士が先頭のポーンを奪っていった。中身は何だったか、ネロリだかイランイランだか――とにかく、何かだ。私は錬金術師ではないし、アロマテラピーを嗜んでもいない。薬草の名前を並べられると、イニシエイトからソーサラーへの昇格試験が蘇って憂鬱な気分になってくる。私はハーブにリラックス効果を求め難い体になってしまったのである。
「中学の時にある程度言わせてもらえただけ幸運だったろうね。かっこよくありたい盛りの頃だ」
「ははっ、いやあ……回想するのはちょっと痛みがくるからやめとこう。僕も子供だったんだよ。ミドルティーン時代って、大人になってからだと辛いよね」
 乾いた笑いを浮かべながらJ.Jは言った。今も十分子供じゃないかな、と返したくなるのをぐっと堪えて、私はクイーンを手に取りナイトに寄せてゆく。すぐさま迎撃に出てきたポーンを真横に避けて、h5のマス。
「ほら、チェックだよJ.J」
「おっと!」
 浸ってる場合じゃなかったね! あくまで軽く受け流す態度のまま、眼前の青年が肩を竦める。カルダモンの瓶に射竦められた敵陣のラベンダーが、チェス盤の刻印と夜明けの空を照り返して光った。

「そういやアイザックのほうはさ、どうなんだい、チェスはどれぐらいやるの?」
 攻めに出た我が軍の女王を追い返すべく、彼はまた別のポーンをひとつ進め、それから私に尋ねた。
「どれぐらいって言われてもね、どれぐらいも無いかな。ルールは当然知ってるし、こうして君と対局する程度のことはできるけど」
「へえ、なんだか意外だなあ。昔の人だから、僕らよりもっとずっとチェスとか、それ以外にもボードゲームには親しんでるのかなって思ってた」
 目を丸くする世紀末生まれの言葉に、私の口から思わず溜息が漏れる。クイーンを一マス後ろへ退避させてから、昔の人は現代人に説明してやることにした。
「昔ってことならJ.J、それこそ昔はチェスといったら貴族や名士たちの娯楽だったんだよ。私は植民地時代の農民の出なんだ、チェスを身につけてる世代じゃない」
「あれ、そうだっけ? そうなのかあ。今のところ僕と1勝1敗の1引き分けなんだし、けっこういけそうなのに」
「素人同士だからまだチャンスがある、ってだけの話でね、J.J、これがもしコンピューターとの対戦だったら、きっと全敗してるだろうさ」
「コンピューターか」
 J.Jは盤面から視線を外し、大分と明るくなってきた東の空を見遣った。そろそろ早番の職員が出勤してくる頃合だろう。今のゲームが最終戦だな、ぼんやり考え始めた私に、出し抜けな質問が飛んでくる。
「ねえアイザック、どうして僕がさ、チェスをやろうって言ったのか解るかい」
「なんだって? ……君が得意なゲームだからじゃなくて?」
「ううん。今日は――ああ、今日っていうのは5月11日のことだよ、もう日付は変わってるから10日のことじゃないよ。とにかく今日はね、チェスの世界チャンピオンが、初めてコンピューターに負けた日なのさ」
 机に微かな振動。置きっぱなしのiPhoneが時報がわりに震わせたのだ。朝の七時だった。

 その時、温室の出入り口が開く音がしたかと思えば、靴音が小走りの速度で私たちの元へやってきた。
「おはようございます、ブラザー・アイザック、ブラザー・ジョン」
 見れば、白いブラウスに薄手のジャケットを羽織ったシスター・クララ・ハモンドが、通勤用の黒い鞄を肩に掛けたまま、テーブルから数メートルの位置で立ち止まっている。片手には近所のカフェの紙袋。ここに来る途中で買ったのだろう。
「あっ、おはようシスター・クララ! わざわざ上がってきてくれたのかい?」
「オフィスにいらっしゃいませんでしたから、まだ頑張っておいでなのかと」
 何か手伝えることがあるかもしれませんし、という心遣いこそがシスター・クララの美点だった。夜通しだらだらと実のない話をしながら、気の向くままに遊んでいただけの身としては恥じ入るばかりである。
「宿直自体はもう終わりだよ。報告書も仕上げたし、あとは生物管理部に引き継ぐだけだ」
「そうでしたか、……あの、お二人ともそちらの瓶は、一体何の」
 愛らしく小首を傾げる仕草と共に、シスターは我々の宿直の成果について尋ねてくる。まさか自分の先輩たちが、何の変哲もない精油の瓶(備品)でチェスをしていたなどとは予想していなかっただろう。
「シスター・クララはチェスをやる? 私はやらないけどね、誘われでもしない限り」
「チェス、ですか。ルールぐらいなら解りますが、特別誰かと対局したりは……」
「同じようなものか。このJ.Jはこう見えても得意なほうらしくて、かれこれ二十年近く愛好家だそうだよ」
 私に片手で示されて、若い魔術師は締まりのない顔で笑った。一方シスター・クララは青い目を瞬かせ、私たちの顔とテーブルの上を交互に見た後、再び私へと視線を戻す。
「これ、チェスをなさっていたのですか?」
「その通り。チェスセットが無いから、生物管理部ご謹製の精油ひとそろいを駒代わりにね」
「……ちゃんと元のとおり返しておいてくださいね、ブラザー・アイザック。一旦彼らの機嫌を損ねると、敷地内にいる限り何が起きるか解りませんよ」
 この土地の生態系を握っているのは彼らなのですから、と冷ややかな声でシスターが言う。もちろん、怒り狂った生物担当職員たちの恐ろしさは、私もよくよく知っている。彼らが見境を無くしたら、例えば屋上庭園の果実をついばむからという理由だけで、ニューヨーク中のカラスというカラスを絶滅させかねない。彼らのいう「生物」には随分偏りがあるのだ。
「今ちょうどイーブンなんだよ。シスター・クララかチーフが出勤してきた時点で、一番多く試合を取ったほうが勝ちなんだ。だからこの勝敗で、どっちが罰ゲームか決まるってわけ」
「罰ゲーム?」
「そこに置いてある、」 J.Jがテーブルの片隅を示す。 「樟脳カンファーのエッセンスを嗅ぐのさ」
「直接は鼻に堪えることでしょうね」
「言い出したの僕じゃなくてアイザックだよ、考えることがえげつないよ」
 対戦相手は私の顔をちらちら見ながら、シスター・クララに囁いた。私としては、手元にあるものだけで出来て、命や世間体に関わる危険もなく、かつ手間もかからないものを的確に選んだつもりだったのだが。
「まあ、勝てばいいだけの話なんだけどね! さ、アイザック、次どうぞ」
 キングの前にいた手駒を呼び寄せ、彼は布陣を固める。黒のナイトを挟んで、左右にポーンが並んだ形。この二つの歩兵を私はどちらも取ることができる。ではどちらを選ぶ、c5かe5か? 一手で両方を攻撃することはできない。取らないという選択肢は――無いでもないが、確実にこちらが駒損になる予測がついた。
「逆に、負けたって別に私はどうとも思わないよ、ほんの少し鼻に負担を強いるだけだ」
 考えた末に、e5。取り除いた小さな瓶のラベルには、「カレンデュラ」と書かれていた。私に馴染みのある名前で言い換えればマリーゴールドだ。

「ところで話は変わるんだけど、こないだ書記局のヨシノさんから日本のことわざについて聞いたんだ。なんでも、『優秀な鷹は狩りのときまで爪を見せない』っていうのがあるらしいんだよね」
 私の進めたポーンをじっと見てから、唐突にJ.Jは切り出した。この青年が思いつきをすぐ口にするのはいつものことだが、今回はどういった話運びになるのだろうか。シスター・クララも彼のほうを見て、「いきなり何を言い出すのか」というような目をしている。
「なんだっけ、ノー・アル・タカ……えっと、『タカ』っていうのが『hawk』のことなんだけど、それでもって」
「いや、良いよJ.J、後でシスター・ヨシノに聞くよ。要するに、『静かな水は深く流れるStill waters run deep』と同じような意味なんだろう」
 実力のある人ほど、普段からそれを喧伝したりはせず、悠然と構えているということだ。日本人もアメリカ人も、分別ある態度を尊ぶのは同じことらしい。というより、そのシスター・ヨシノこそ、正にその鷹のことわざに合致する存在だと言える。驕らず物静かで、いつもゆったりしているように見えるが、彼女の仕事の早さと的確さは書記局随一だ。
「意味はそれで合ってるよ。で、僕はさっきこのことわざを思い出して、気がついたんだ。もしかして『頭のいい人はチェスをする』のも、同じ効果を狙ってるんじゃないかなって」
「ことわざと同じ効果?」
「人にはいろんな特技があるけど、『足が速い』とか『手先が器用』とかって、わりと日常生活の中で目に見えるものだよね。でも、『チェスが強い』ことを示す機会ってそう多くはない。それに、初めて会った人をぱっと見て、『あ、チェスが強そうな人だな』なんて感じること、まずないよ」
 J.Jはまだ自分の駒を進めることなく、テーブルに肘をついて話を続けた。これは頷ける話だった。現に私も、彼が盤上の遊戯を能くする人物だとは、今日の今日まで知らなかったのである。以前我らがチーフから麻雀に誘われて、大敗北を喫していたことは覚えているが。
「なるほどね、つまり『実力を隠す大物』を表現するのにチェスは打ってつけだと」
「それだけじゃないよ、ギャップを強く出せるんだ。ほら、これもさっきちょっと話したけどさ、コンピューターがチェスの達人だったからって、誰も驚かないだろ。機械が正確に考えて駒を動かすのは当然のことさ。でも、見た目に冴えない人が実はチェスのチャンピオン、なんてのは凄くかっこいいし、しかも現実にありえないってほどの話ではないじゃないか!」
 子供の頃の憧れをそのまま呼び覚ますように、熱の入った調子でJ.Jは語った。察するに彼は、自らの過去を直視して心に傷を負うことこそあれど、その過去を葬り去りたいという衝動を抱くことはきっとないのだろう。私などは長寿のうえに、なかなか羞恥に富んだ人生を送っているので、定期的に始末しなければ魔術師としての義務を果たせない域なのだが。――そのくせ、こうして若い人々と向き合っていると、無駄に昔語りなどしたくなってくるのだから、正しく始末が悪い話だ。
「かつてはコンピューターがチェスの達人どころか、機械がチェスを指せるってだけでも大騒ぎだったよ。ギャップはギャップでも、これはジェネレーション・ギャップの話か」
「あっ、知ってるよそれ、『トルコ人』でしょ。でも確か中に人が入ってたんじゃなかったっけ……アイザック、チェックだ」
「ああ……」
 そういえば、シスター・クララも出てきたことだし、切り上げても問題はないのだった。ポーンに挟まれていたあのナイトが、キングを取れる位置まで跳んできたんだな――私は軽く肩を解してから盤面を見、瓶の蓋に手をかけたところで思考をはたと止めた。

 何かがおかしかった、いや、ナイトの動きは何もおかしくなかったが、予想していたのと少しばかり違う。王を詰ませに掛かっているのは黒の騎兵だけではなかった。d5から、つまりクイーンの真正面からナイトが退いたことによって、私のキングへの通り道が完成してしまったのだ。今やこのスペアミントの精油の王は、二方向から攻撃をかけられているのである。
「……ディスカバード・チェックか」
 ひとつの駒が場所を動くことによって、隠れていた別の駒を明らかにしてチェックを掛ける。それも、今回は退いたほうの駒でも攻撃を行うダブルチェックである。私はあのポーンを取った時点で、キングの守りを外してしまった。完全に相手の思う壺だったわけだ。
「J.J、君このために、わざわざ日本の話なんかしたんだろ」
「へへへ、まあね……だってディスカバード・チェックそのものだって思ったからさ。狩りのそのときまでは、爪は見せないんだ」
 対局開始から今の今まで、黒のクイーンは初期の位置から一度も動かなかった。攻めに出ていたのは二つのナイトだった。が、真の「能ある鷹」はずっと機を窺っていたのだ。そして見事に私の注意から逃れ続けていた。
「それで、どうするアイザック? 次の手は?」
 言われなくてもと、息をついて布陣を確認する。もちろんメイトされてはいないから、キングの逃げ場はまだある。まだあるが、――今夜一番の真剣さで駒の先行きを予測して、最善の選択をすることに決めた。私は改めてスペアミントの瓶へ手を伸ばし、そのまま横へと静かに倒した。
「私の負けだ、J.J。降参リザインするよ」
「いやったあ、アイザックに勝った! でもさあアイザック、さっきまでの僕の話聞いてたんだったらさ、せめてこう……」
「こう?」
「『チェックメイト』を言わせてくれたっていいじゃないか! こういう場面でこそさあ!」
「まさか。打つ手がなくなる前に身を引くのが私だよ。決め台詞はもう中学時代で満足しておきなさい」
 別に、どのみち負けは負けなのだから付き合ってやってもいいのだが、程よいところで現実に戻っておくのが一番だろう。側に立つシスター・クララがさっきから、こちらを白い目で見つつあることに気が付かない私ではない。
「しょうがないなあ……まあ、いっか。どのみちこれで、罰ゲームを受けるのはアイザックなんだからね」
「解ってますとも」
 覚悟というほどの覚悟が必要になるとも思っていなかったが、ともあれ覚悟はできている。明らかにうきうきしているJ.Jに、とくとご覧あれ、とばかり勿体つけてから、私は件の瓶の蓋を開けた。

  * * *

「あははは、やったやった! いやあ悪いなあ、でも言い出したのはアイザックのほうだからね!」
「にしても、珍しいものが見られたなあ、臭さのあまり椅子から転げ落ちるアイザックなんて。そんなにきつい臭いだった? まあ、けっこうくらっと来る香りだと思うけどさ」
「ま、罰ゲームは罰ゲームだしね。さあアイザック、それじゃ帰ろっか――あ、そうだ、せっかくだしこの後いっしょに朝食にするかい、ベーグルでもパンケーキでもなんでも……」
「……アイザック? どうしたんだい。ああ、もしかして君、実はかなり眠かったのかな? 途中で仮眠してくれても良かったのに」
「聞いてる、アイザック? というか起きてる?」
「えーと、もしかしなくても、あんなに笑ったんで怒ってたりとかして」
「あの……」
「ね、ねえシスター・クララ、別に何もないよね、落ちたときに頭打ったとかそういうことはないよね」
「アイザック、ちょっと、……大丈夫だよね? なんとか言ってくれよ、アイザックってば!」
「僕は正直こうなることは予想してなかったっていうか、その、しっかりしてアイザック、アイザッ……うわあ!?

「私が思うに、だけど」
 しっかり両方の目を開けて、すぐ傍にあるJ.Jの肩を掴む。
「爪を見せないっていうのは、こういうことを言うんじゃないのか、J.J」
 ただそれだけで、面白いぐらいに素っ頓狂な声を上げさせることができたのだから、私の目的は見事達成されたという訳だ。温室の床材に散っている土で、多少服は汚れたけれど、こんなものは些細なことだ。手で払っておけばそれでいい。
「び、び、びっくりしたあ、なんだよアイザック! そんな、もう、本気にしたじゃないか!」
「本気にって、何を本気にしたんだ? 私はただ、床に転がって目を閉じてたに過ぎないのだけど」
「気を失ってるようにしか見えなかったよ……!」
 私の一発芸にまんまと引っかかった彼の顔は、心なしか青ざめているようにも思える。まあ、普段から比較的真面目な同僚に、死んだふりの才能がある等とは想像もしていなかったろうから無理もない。
「シスター・クララを少しは見習ったら。まるで平然としているだろう」
「ご冗談を、せんぱい」 青い目が私をじろりと見下ろした。 「ちょっと寿命が縮まるかと思いましたよ」
「本当に? 君が状況を正確に把握する力は、チームどころか支部の中でも抜きん出ているのに」
 彼女がニューヨーク支部に加入してこのかた、沈着冷静で物事に動じない姿しか見たことがなかったものだから、これは素直に意外だった。私はどうも彼女の胆力を過信しすぎているきらいがあるらしい。これは先輩として改めたほうがいいだろう。後輩に期待をかけすぎるのは却ってよくないことだ。
「それは悪かったね、シスター。見ての通り、実際はぴんぴんしてるからご心配なく」
「えっ何それ、僕は置いといてシスター・クララには謝るのかいアイザック、ちょっと優先順位が間違ってやしないかい」
 起き上がって体についた砂を落とす私に、J.Jが非難めいた眼差しを向けてくるが、大して気にするほどのものではなかった。衣服を概ね整えてから、私はテーブルの上に手をかざし、払いのけるようにさっと動かした。32本の瓶はたちまち元の収納箱へと飛び込み、青白く光るチェス盤はただのテーブルに戻る。これで我々夜勤組は、いつでも退勤できる態勢が整ったというわけだ。

「じゃあシスター、悪いけど後は宜しく頼むよ、ブラザー・ウェンセスラスと一緒にね。何か必要があったらすぐ連絡してくれて構わない」
「はい、ブラザー・アイザック。それにブラザー・ジョンも、お疲れさまでした」
 シスター・クララが我々に向かって、丁寧なお辞儀と労いの言葉を向ける。私は通勤用の鞄を肩に掛け、まだ不服そうにしているJ.Jに言った。
「さて――お誘い頂いたんだからどこかへ食べに行こうか、J.J。私は『ニューヨーク・セントラル』がいいな」
「ニューヨーク……あっ、いや、いいよ? 別に構わないよ。でも言っとくけど、僕はおごらないからね?」
 私が挙げた名前に心当たりがあったのか、彼は声をやや上擦らせながら答えた。目が泳いでいる。
「どうして?」
「どうしてって、だって、おごる理由がないじゃないか! 今回は何もしてないのに!」
「でも調子に乗っただろ」
「そ、そりゃあ確かに調子には……乗ったけど、それで君に何か危険があったとか、そういう僕に非のある結果じゃないよ!」
 うろたえた若い魔術師は、私の顔から視線を反らし続け、やがてもう一人へと助けを求めることにしたらしい。明らかに相手を間違えている気がするが、それこそ諺では「嵐のときの港はどこでもいい」と言われるものだ。
「ね、あのさ、シスター・クララ、その袋は今日のお昼かい? それとも、もしかして」
「これですか? ああ、これは朝食です。どうせならここで食べるのも良いかもしれませんね、そういえば」
「うん、とてもいいと思うよ! それでさ、もしよかったらなんだけど、僕らもいっしょにいいかな? ほら、屋上で一人食べるよりは、三人いたほうが楽しくていいんじゃないかなって」
 なるほど、こう話を持っていくわけだ。上手く逃げ道を作ったな――シスターの顔をちらと覗えば、紙袋をテーブルの上に置きつつ、目をぱちくりさせている。
「えっ、でも、せんぱいがたは……」
「いやいや、僕らのことは気にしないでよ。朝なんてどこで食べてもいいんだからさ。どのみち今日はもう帰るだけなんだ。ね、アイザック?」
 二組の瞳が揃って私を捉えた。一瞬、「そうか、それならイートインじゃなくテイクアウトしてこようか」とでも言おうかと思ったが、やめた。あまり長々と脅かしてやるのもかわいそうだ。
「シスターはどう? 静かに一息入れたいなら、我々は同席するのに全く向いていないけど」
「私は……せんぱいがたさえ宜しければ、それで構わないのですが」
「では、それで決まりかな。残念だけど、スモークサーモン乗せのエッグ・ベネディクトはまた今度に取っておくよ」
 私が告げると、J.Jの口からたちまち安堵の息が漏れた。
「今度もないからね! 大体さあ、後輩にグランド・ハイアットのホテルブレックファーストをおごらせる先輩がいるかい、普通? あそこ、ただのオートミールだけで14ドルも取るんだよ!」
「ただのオートミール、ってことはないだろう。ホテルのレストランなんだから、シェフが腕を揮ったオートミールが最高のサービスで出てくるには違いない。というより、君はどうしてそれを知っているんだ。食べたことでも?」
「それは、その……この間チーフのタバコ入れにコーヒーをちょっと……」
 彼の言葉は語尾に至るにつれ、限りなくその音量を落としていった。先週のことだったか、夜勤明けのブラザー・ウェンセスラスの機嫌が何がなし悪そうな日があったものだが、真実はそれか――彼のことだから、私と違ってオートミールやエッグ・ベネディクトでは許してくれなかっただろう。ステーキ・サンドイッチかシーフードのシェフ・サラダ、もちろんマッシュルームのクリームスープだって頼んだろうし、挙げ句にミモザないしブラディー・マリーあたりも飲んだか知れない。
「君は一時のテンションに身を任せるのと、財布から50ドル札を供出するのとを、一旦天秤にかけて考えてから行動すべきだな。では、クロワッサンとホットチョコレートを調達に行こうか」
「僕はベーグルとオレンジジュースのほうが……いや、そういう話じゃないけどね! あと、僕は出さないからね、何度も言うようだけど自分で払ってね!」
「24ドルが8.5ドルに目減りしても?」
「だから今回僕は何も悪くないって――!」
 すがり付くような声が、朝方のニューヨークの空に木霊する。自分は悪くないと思っているなら、もっと堂々としていればいいだろうに、こういう所でJ.Jは押しが弱い。解った解った、と手を振りながら私は答え、下界へ通じるエレベーターへと歩いていった。晩春の花々が匂い立つ屋上が、ひととき焼き立てのパンとチョコレートの香りに塗り替えられるまで、そう時間はかからないだろう。

go page top

inserted by FC2 system