「お前どう思う、ちび助。この中で一番クララらしいチョコレートがどれか」

妙薬口に甘し -Sweet Talk-

 昼休みのオフィスの扉を開けるなり、ブラザー・ウェンセスラス・ウォルターが何らかの冊子片手にそう尋ねてきたので、私は随分面食らった。見れば、束ねられたそれらの冊子はどこかのチョコレート専門店のカタログらしかった。私でも知っているような高級店ではなく、かといって全国チェーンのスイーツショップでもない。そういえば、あと数日でバレンタインデーか――だからといって、それがブラザー・ウェンセスラスの口から出るというのは実に奇妙なことだ。我々のオフィス自体、その行事とはまったくの無縁なのだから。
 なにしろチーム・ウォルターの構成員からして、250年前に婚約破棄したきりの私と、婚期を100年ほど逃しているブラザー・ウェンセスラスと、あとは青春の盛りだが女性にもてているという話は聞かない青年に、もてていることは間違いないが本人にそうした欲望の一切ない美少女がいるきりだ。書記局のシスター・ヨシノ曰く、日本には女友達の間でもプレゼントを贈り合ったり、あるいは一ヶ月後にマシュマロを送り返すイベントがあったりして大変煩わしいというが、ここは魔術師協会ニューヨーク支部である。義理のプレゼントに10ドル以上を費やしてやろうという、奇特な魔法使いはまず見られない。

 そんな訳だから、私のほかには誰もいない室内で、いきなりそんな質問を突きつけられ、当惑したのはごく自然なことだった。第一にブラザー・ウェンセスラスなど、こう言っては失礼だが、仮に恋人がいたとしてもバレンタインデーに贈り物はしそうにない。
「何です、シスター・クララに贈るんですか。意外ですね」
 私は空になったサンドイッチの箱を潰しながら、片手間にそう声を投げた。対するブラザーの答えは少しばかり妙なものだった。
「いや、別にクララにやるとは言ってない。あいつだって俺からそんな、赤だのピンクだので包んだチョコレートでも貰ってみろ、気味が悪くて敵わねェだろうよ」
「そうですかね、彼女だってそこまで情のない真似はしないと思いますが。じゃあ何です、彼女らしいチョコレートというのは」
 尋ねたその返事が来る前に、ある発想が私の脳裏に沸き起こった。ますますブラザーに失礼な内容だった。口にするかは迷ったが、どうせ彼のほかに聞く者はいないのだし、遠慮はしないことにした。
「まさか、シスターにたかるつもりじゃあないでしょうね」
「馬鹿言え、気味悪がられるどころの話じゃねェぞ。まあクララのことだから、俺を憐れんで99セントショップの板チョコぐらい恵んでくれるか知らんがね。クララに実際の金を出させるつもりは毛頭ない。クララが金を出しそうなものに目星を付ける、って話だよ」
「だとすると、後でそれを自分で買いに行って、シスターから貰った気分だけでも味わうんですか」
 私はもう少し失礼な発想を付け加える。ブラザー・ウェンセスラスは椅子の上で大仰に足を組み、こちらに白い目を向けて寄越した。
「ちび助、お前は俺を一体何だと思ってやがンだ。そんな虚しい真似をするなら、せめてチョコレートより煙草か酒に金を使わあな。良いか、とにかく今からこのカタログをざっと見て、クララがバレンタインデー・ギフトに選びそうなものを検討するんだよ。どうせ午後も大した仕事なんてありゃしねェだろ、休憩は今しなくても後からできる」
 些か威圧めいた声音から察するに、どうやらこれは班長命令らしい。妙な話もあったものだ。とはいえ、チョコレートのカタログを眺め見ることぐらい、それこそ大した仕事ではないので――強いて言うなら昼食後にも関わらず腹が減ってくるという弊害があるくらいなので、私は彼の言いつけに従うことにした。こういった話は後輩のほうが向いている気がするのだが、生憎とJ.Jは夜勤のためにまだ出てきていないし、シスター・クララ本人は教会のチャリティに参加するといって、今日は有給を取っているのだった。

 腹を決めてカタログを開いてみると、実に華やかで色鮮やかである。チョコレートは茶色いものだというのは、既に時代遅れな話であるらしい。私は別段チョコレートが嫌いな訳でもないし、滅多に食べない訳でもないのだが、いかんせんそこらのスーパーマーケットで買ってきた板チョコか、良くてせいぜい某有名ケーキショップのガトーショコラ程度のものだ。奇抜な方向には明るくない。
「といっても、シスター・クララの性格を考えるに、あんまり派手なものは選ばないと思うんですがね。それこそ赤やらピンクやらで、良くも悪くもキッチュなやつは」
 表面に抽象画めいたプリントのなされた、フランス発のボンボン・ガナッシュを見ながら私は言う。ブラザー・ウェンセスラスが横から覗き込んで、その通りとばかりに頷いた。
「そう、それが問題でな。単に世間の女子供が選びそうな……女性誌のバレンタインデー特集に載ってる類のもんは、大概クララの好みに沿わないンだよ。らしさが足りねェ。だが、いかにも杓子定規な高級志向のナニも駄目だ」
「確かに、シスター・クララはバレンタインデーのために、百貨店へ出向いてゴディバのアソートボックスを買ったりはしないでしょうね」
 たとえば黒い長方形の箱に入っていて、金のリボンが掛けられているような、どこまでも無難でどこに出しても恥ずかしくない、「ギフトです」と全力で主張するタイプの品である。彼女の振る舞いには何処かよそよそしく事務的なところもあるが、贈り物にまでそれを滲ませたりはしないはずだ。
「俺もそう思ったンで、五番街に大っぴらな看板を出してるような店は省いた次第でな。ヴィタメールもリンツも、ラ・メゾン・デュ・ショコラも却下だ。つまり、俺でも知ってるような店は除外って話だ」
「ええ、私でも知ってるぐらいですからね」
「そういうのを避けることで、なんだ、ライバルに差を付けるとか言うのか? 俺はそういう感覚を理解しようと試みたことすら無いがね、ともかくセンスのありそうな雰囲気が出れば重畳だな。ほら、この辺りは適度に印象的じゃねェか、日本産のマッチャを使ったトリュフだとよ」
 ブラザーが開いたページをこちらに向けて、投げやりさの滲む口調で述べる。見開きには落ち着いたブルーグレーの箱と、その中に整然と並んだ草色のトリュフ・チョコレートが鎮座していた。一番小さなサイズで6ドルだそうである。
「……この作業、私要ります?」
「正直なところ能力的には要らねェんだが、一人でやってるとそのうち精神を病みそうなんでな、つまりアレだ、道連れだ」
 彼の口調はいつも通りに間延びしていたが、普段と違って冗談めかしたものは一切なかった。まあ、一人よりは二人という気持ちは解らなくもないのだが、さりとて私が一人増えたところで何になる、という考えは捨てきれない。ブラザー・ウェンセスラスの意図もまだ掴めぬままである。私は今ひとつ気合いの入らないままカタログをめくっていたが、不意に思い当たることがあって席を立ち、壁際の備品スタンドから自分の杖を抜き取った。
「ちび助?」
「これは思いつきなのですが」
 愛用する短いハンノキの杖を、虚空に向けて私は言う。 「助言を頼むなら、もっといい相手がいるかと」

 振るった杖先が魔法円を画き、空間に魔力が満ちる。と、たちまち金色の光が溢れ、円の中から小さな影が飛び出した。それは見た目に毛深い人間の赤ん坊といった姿だが、耳は尖っており、また額には二本の短い角が生えている。杖を向けたままの私に笑いかけると、宙返りしてデスクに着地した。
「遊びの邪魔をしたね、気のいいおちびさん。だが、たまには私のために働いて貰わなくちゃあならない」
 私はあくまで召喚主として、この小柄な妖精に言葉を向けた。ブラザー・ウェンセスラスが後ろから、
「パックか、なるほど」
 と得心したように言う。パック、すなわちブリテン島とその周辺を故郷とする妖精である。私の使い魔の中では比較的よく出番があるほうで、故に彼も馴染みのものだろう。そもそも我々チーム・ウォルターが実戦で使用するコールサインからして、「パック1」から「パック4」だ。
「さながら夏の夜の夢ッて訳だ。……ありゃ本来の目的は失敗したンじゃなかったっけか」
「今回は惚れ薬じゃないから良いんです。うっかり怒らせたら大変なことになりますよ」
 バレンタインデー同様シェイクスピア劇にも縁の無さそうなブラザーが、何やら無粋なことを言いかけたので、私は小声で制しておいた。妖精というものは扱いの難しいもので、ちょっと喚び出して雑用をさせるにも気を使うのである。ただ上から命令しているだけと思われては困る。
「ええ、さて、本題に入ろう。私たちの友人のシスター・クララのことは、君もかねてから知っているね。私が君に尋ねたいのは、彼女がもしも恋の贈り物をするとなったとき、この中から何を選べば最もよいか、ということだ」
 私はデスクからカタログの一部を取り上げ、いたずら小僧に手渡した。金の巻き毛の妖精は、その細い目を丸くしてチョコレートの写真に見入っていたが、暫くしてあるページを見せると、人間よりも長い手指である一点を示した。
「ああ、ボンボンか? あいつ十九だから酒入りの奴は買えねェぞ、まあ買うのは俺だがな。どれ、見た目には合格点ッて所だが――」
 切り紙模様の愛らしい箱に入っているのは、それぞれ種類の違う九粒のボンボン・ショコラだった。色味に派手さはなく、正に私の思うチョコレート色の表面に、せいぜいナッツが一粒飾られていたり、ココアの粉が振りかけられていたり。高級感は出しすぎず、しかし安っぽくもならず、暖かみあるまとまりといったところだろうか。
「内訳は、ええ、クラフトビールが三種、ライ・ウイスキー、アップル・ブランデー、サケ、……ムーンシャイン、メスカル・チリ、アブサン。おい、清純な乙女のチョイスとしては、後半が剣呑すぎやしねェか」
 初めのうちこそ定番の酒ばかりだったものの、かつての密造酒やら個性的極まる強烈なリキュールやらの名前が並ぶに至って、ブラザー・ウェンセスラスが自然な疑問を呈した。対するパックは悪戯めいた笑顔をそのままに、甲高い声で何やら言い立てていたが、これはもちろんブラザーには通じない。妖精の声も言葉も、普通の人間には聞こえないものなのだ。それは魔法使いであっても同様で、妖精の魔法を専修する私でさえ、自分が召喚したもの以外と意思疎通するには杖が必要である。
「なあ、ちび助、こいつは一体何だって?」
「……『愛の魔法に酒は欠かせないもの、特に強く香り高い薬草酒を用いれば、相手をその気にさせてどさくさ紛れに恋の成就も十分可能』というようなことを言っていますね」
「そうかい、お前のいう妖精王がオベロンじゃなくエルルケーニヒだからこんなことになるんだな、糞が。おい、良いか、ムーンシャインやメスカルやアブサンで幻覚が見えたのは百年前の話だし、それ以前にたかがボンボン一粒で正体を無くすのはてめェら妖精ぐらいだって伝えとけ」
 ブラザーは私に冷たい視線をくれながら、低い声でそう要求したが、私はそれには従いかねた。妖精王の機嫌を損ねるのは御免である。とばっちりを食うのは喚び出した私のほうなのだ。

 稚気に満ちた小さなしもべを丁重に送り返し、私は人選について再考することにした。ブラザー・ウェンセスラスはしばらく私の人を、もとい妖精を見る目のなさについて文句を言い続けていたが、愛の魔術に長ずる存在を頼むことについては、さしたる異論もないようだった。
「お前、あれに聞いてみたらどうだ」
 ブラザーが言う。 「あの女性型の、男を誘惑するのが得意な――」
「セルキーですか? それともウィリー?」
「どっちだって構わねェよ、惚れた男を殺しさえしなけりゃ」
「それが、両方とも最終的には死なせるんですよねえ」
 私は答え、その片手間にカタログの中から、高価すぎるものと奇抜すぎるものを二重線で消していった。妖精と人間は住む世界が違うので、人間の男から真実の愛を勝ち取ろうと思えば、それは即ち相手を殺害し、魂を妖精界に連れ去るより他はないのである。妖精の登場する恋物語に悲劇が多いのはそのせいだ。もっとも、昨今は妖精界でも価値観の変動が起こっているのか、魂のやり取りをせずとも大団円を迎えるカップルは一定数存在するらしいが。
「魔女と恋愛するのも大概苦難の道だが、妖精はアレだな、文字通り命を削るな」
「そもそも、元は失恋の末に死んだ若い娘の霊、みたいなのも多いですからね。ウィリーなんかは正にそれで、結婚を前に死んだ処女の精霊ですし」
「ああ、……なンか思い出したぞ。本来結ばれるはずだった男を死ぬまで踊らせる奴だな。あれを聞いて俺は、人間の伴侶が見つからないからって妖精に手を出すのはやめとけ、という教訓を得た」
 我々はどちらともなく顔を見合わせ、非常にばつの悪い表情を浮かべた。
「……喚びますか、ウィリー?」
「もう少し正の方向に愛を育みそうな奴は居ねェのか?」
 ブラザーが露骨に難色を示す。私はちょっと考えてから別の案を出した。ただし多少の条件付きで。

「そこの冷蔵庫の中に、まだミネラルウォーター残ってましたっけ?」
「ゲロルシュタイナーがある。……なあおい、ちび助、」
 思い当たるところのあったらしいブラザー・ウェンセスラスが何か言いかけるのを尻目に、私はオフィスに備え付けの小さな冷蔵庫から、ドイツ産の鉱泉水のペットボトルを取り出した。蓋を開けてデスクの上に置き、再び杖を振るう。画くのは円ではなく、下向きの正三角形。と、ボトルの中身がぼこぼこと泡立ち――ゲロルシュタイナーは元から炭酸水だが、それ以上に大きな泡がいくつも沸き出し――やがて一息に噴出すると、空中で一つの形を成した。美しい虹色の輝きを帯びて佇む、小柄な女性の姿を。
「そういうのって、アリか?」
「錬金術の伝統的にはどうか知りませんよ、私は大抵この手を使いますがね。これだって天然の水でしょう、ブラザー・ウェンセスラス」
 ウンディーネ。水の精といえばまずその名が挙がる、根源に最も近い化身だ。召喚術師の相方としても奇異なことはない。彼女らは(本当は精霊に性別はないのだが)心優しく、人間の妻になることもしばしばある。前述した乙女の霊魂たちに比べれば、その気性も穏やかだ。彼女らと恋をするにあたって何の障害もないかといえば、断じてそんなことはないのだが、助言役としてはより適しているだろう。
 私はこの麗しい水の乙女に、先程パックに伝えたのと同じ説明をしてから意見を求めた。彼女が直接冊子に触れては紙がだめになってしまうだろうから、私の使っている手袋を貸した。乙女は人間界の菓子に興味深そうな視線を投げ掛け、ページをあちらこちらと開いて回ると、一つの写真をくるりと指で囲んだ。
「リンツァートルテ?」
 私は覗き込んで確認する。ちょうど一人前のサイズの円いタルトは、上面の生地の中央がハート形に切り抜かれ、そこからフィリングの赤いジャムが覗くデザインになっていた。控えめだが女性らしい作りだ。
「ああそうか、こいつがドイツ産だからか」
「もうちょっと言い方ありません、ブラザー?」
 ぽんと手を打つブラザー・ウェンセスラスに、呆れの言葉が口をつく。 「ドイツ産の水の精、って」
「元がゲロルシュタイナーなンだから実際その通りだろうが。それで、この菓子が選ばれた理由は何だかね」
 ブラザーは全く悪びれる様子もなく、紙面に目を落として疑問符を浮かべた。リンツァートルテは美味しいとはいえ、バレンタインデーらしいかと言われれば微妙なラインだ。妖精界にバレンタインデーなどあるはずもないのだから無理からぬことだが。
「まさかとは思うが、おい、香辛料が媚薬として機能してたのも一世紀以上前までだって言っとけよ」
「自分で言えばいいじゃあないですか。人間は妖精の言葉を理解できませんが、逆は可能なんですよ。ただ、水のあるところでウンディーネを罵倒すると、即座に水に帰ってしまいますがね」
「罵倒と認識されなきゃ問題無いわけだな?」
「試すのは勝手ですが、私は一切の責任を取りませんよ」
 人死にを出したくはないので、私は予め断っておいた。ウンディーネがいくら比較的心優しいからといって、性悪な男性を寛大に許してくれるかは全く別の話だ。本質が水である以上、迂闊な人間を引きずり込んで亡き者にする恐ろしさに変わりはない。
「冗談だよ。俺ァ危ない橋は渡らない主義でな。じゃあ改めて、これを選んだわけをお聞かせ願えますかね。何しろさっきよりはお高い買い物だ」
 示された品の値段表示には、「$15.00」とある。個人向けのささやかな贈り物としては、ここが合衆国いち物価の高いニューヨークであることを考慮しても、手頃とは言えない価格だった。私は杖を握ったまま、通訳の役目を果たすべく、ウンディーネの語る言葉に耳を傾ける。

 果たして、水の精が私に語ったのは、以下のような逸話だった。
「ええとですね、ブラザー、彼女が言うには――リンツァートルテというのは、オーストリアのリンツ地方で生まれた菓子で」
「それぐらいは俺だって承知だよ、ちび助。リンツァートルテってからにはリンツのケーキに決まってる。俺ァ妖精語はできねェがドイツ語は解るぞ」
「そこは肝要ではないのでとりあえず聞いてください。で、このお菓子の起源自体はたいへん古いのですが、世に知られるようになったのは19世紀のことだそうです。南ドイツ生まれのとある男性が、リンツに住む未亡人の菓子店で働き始め、リンツァートルテの大量製造法を編み出したからだというんですがね」
 ドイツ産、もといドイツ出身のウンディーネは、比較的近代の人間史にも詳しいようである。何故かは私にも解らない。ゲロルシュタイナーの歴史も19世紀ごろに遡るというから、同時代のよしみなのかもしれない。
「それで?」
「そう、その男性なんですが、大量製造法の功が認められたから……という訳でもないんでしょうがね、後に菓子店の主である未亡人と結婚したんだそうでして」
「ああ……」
 話の論点を把握したらしいブラザー・ウェンセスが、黒い目を明後日の方向へ遣る。
「一人の男に成功をもたらしただけでなく、縁結びの切っ掛けともなったことにあやかって、恋愛成就のプレゼントには相応しいのではないか、とのことです」
「あやかる対象とその理由が生々しすぎやしねェか」
 ブラザーは言い、しかし水精を罵らないという原則には背かぬよう、「その案は前向きに検討しようと思う」とかなんとか、あまり力の入っていない声で彼女の働きを労った。私からも召喚主として一通りの礼を述べ、元のペットボトルにお戻り頂く。
「……どうするんです? これで行きますか?」
 私が尋ねると、質問した当人は腕組みしたま、どうにも煮え切らない様子である。
「別に構わないっちゃあ構わない話だわな。話の流れは妥当だ。が、リンツァートルテがバレンタインデーの贈り物に相応しいかってのと、それをクララが知った上で選ぶかってのは、全くの別なわけでだな」
「そうですね、シスターはその手の下心とは無縁で――いや、それは却って本人に失礼か。単に我々が男性的視点から、無縁であってほしいと願っているに過ぎないわけですからね。ともあれ、彼女が実際に選ぶかどうかは別問題ですし、彼女らしいかどうかもまた違った問題でしょう」
 我々は言葉を濁しながら、保留にする旨をひそひそ声で話し合うばかりであった。ブラザーが時折ペットボトルのほうをちらりと見ながら、
「これ、聞こえてねェよな」
 と私に問う。それは無いですよと私は答えた。既存の水はあくまで召喚の媒介であり、水の精そのものではない。ウンディーネは魂というものを持たない、古い言葉でいうところのエーテル世界の住人なのだ。

 さて、次善の策が手放しで喜べない結果に終わり、私はさらなる参考人を招致しなければならなくなった。といっても、私が使役している妖精の中で、恋愛相談ができそうな相手というのは、誰も彼も良心とは程遠いものばかりである。妖精というのは元来そういうものだ。根っから善良で常に人間の道徳に従っています、なんてのは希少も希少。もしかしてアジアやアフリカのほうにはその手の妖精もいるか知れないが、私の扱う領域からは遠い。
 ブラザー・ウェンセスラスも黙り込んで、あれこれ考えているようだったが、大したひらめきは得られていないようだった。――と思いきや、彼は唐突に私のほうを見て、
「ちび助、お前あれ喚べただろ。女の妖精で、人間の男を誘惑して、芸術の才能を授けるとかいう……」
 と切り出した。その説明には覚えがあった。
「リャナン・シーですか? ……あれこそ惚れた相手を死なせる妖精の典型なんですが」
 それはエールの地――アイルランドに住む美しい乙女だった。彼女らは常に人間の男の愛を求めており、気に入った者には奴隷のごとくかしずいて、彼女の恋心を受け入れさせるのだ。そうしてリャナン・シーのものとなった男は、詩的な霊感と妖精の歌声を得るのである。
「知ってる。一度取り憑かれたらたちまち精気を吸い取られて、だから素晴らしい芸術家はみんな早死にするって話だろ。良いンだよそれで、芸術的観点だけを参考にさせてもらうから」
 そう促されては、私も絶対に嫌だという気はない。ただし下準備が必要だった。リャナン・シーは非常に見目麗しい姿をしているが、彼女が惚れた男以外には、その姿を見ることができないのだ。私は召喚主だから視認できるものの、ブラザーには無理である。会話するのは私なので、ブラザーに見えなくても良いといえば良いのだが、何もない空間とお話ししている人になるのは若干きまりが悪い。
「これを使ってください、ブラザー」
 私はポケットから手のひらほどの大きさの、穴の空いた平たい石を取り出して、ブラザー・ウェンセスラスに渡した。
「何だこれ……ああ、アレか。自然に空いた石の穴から覗いて見ると、って奴か」
「普通の人間にも妖精が見える、というものですね。たとえ魔法使いであっても、リャナン・シーを肉眼で見ることはまずできませんから」
 前置きだけはしておいて、私は再度杖を手に取ると、空中にパックの時とは異なるサイズの魔法円を画いた。と、姿も見えぬうちから、クスクスと甲高い笑い声が響き渡り、程なくして円の中から白い靄のようなものが漂ってくる。靄は絹帯のごとく空中で渦を巻き、その帯かあるいは羽衣かというものを纏うように、ひとつの人型がじわりと現れた。金の髪に緑の瞳、透き通るような肌。彼女こそがリャナン・シー、「妖精の恋人」である。
「なるほど、実際見えねェな」 ブラザーが石を片手に言った。
「見えたらつまり憑かれたって訳だ、見えないのが大正解ではあるンだが」
「安心してくださいブラザー。彼女、『明らかにタイプじゃない』って言ってますから」
「うるせェよ」
 冗談のつもりで言い添えた内容は、思いのほか彼の機嫌を損ねていた。

 ブラザー・ウェンセスラスは一旦石を使ってリャナン・シーの場所を確認すると、それきり顔から離してしまった。何もない空間に向かって話しかけるのもきまりが悪いが、かといって片目に石をくっつけたまま喋るというのも多分に間抜けであろうから、それは仕方のないことかもしれない。
「よし、聞きたいことというのは一つだ。もしもお前が男を誘惑するのに、贈り物を使うとしたら何を選ぶかって話でな。相手は端から詩人だ、歌うたいだ。年がら年じゅう歌と踊りのことばかり考えてるような奴でな、ゆうべに沙翁劇を諳んじあしたにプーシキンを吟ずると、そうした類の男だと思ってくれ。ここに目録が用意してある、ひとつ妖精の感性で選んじゃくれねェか」
「あの、ブラザー・ウェンセスラス?」
 論われた「男」の特徴に、何か引っかかるものを覚えて私は口走った。けれどもブラザーは私に見向きもせず、リャナン・シーも召喚主を差し置いてチョコレートの図録に見入っていた。――ややあってから、彼女は一冊のカタログを手に取って、蠱惑的なクスクス笑いを浮かべながら、我々にあるページを示した。
 それはごくシンプルな、アーモンドあるいはオレンジピールをチョコ掛けにして、表面に粉糖やココアをまぶしたものだった。特別風変わりでもなく、高級すぎることもない。ただ、少しばかり独特なのはそのパッケージだった。アンティークなガラス瓶で、蓋には白いゴム栓がついている。表面には白いラベルが張られているのだが、そこには敢えて走り書きのペン字で品名が綴られていた。それはまるで、
「よく解った!」 私より先にブラザーが答えた。 「愛の妙薬って訳だ。そうだろ?」
 妖精の笑い声が肯定する。そうだ、一昔前の薬瓶によく似ているのだ。まだ薬局に厳密な意味での化学薬品のみならず、胡散臭い混交物や薬草、あるいは酒類や香辛料や香水までもが並んでいたころ、この手のガラス瓶は店頭の棚にずらりと陳列され、そこが薬局であるということを強固に主張していたものである。それをチョコレートの容れ物に転じるとは――確かにチョコレートも、ヨーロッパに渡ってきた当初は薬だったというから、案外これが正道なのかもしれない。
「決まりだ、これ以外は考えられねェってぐらいに最適解だ。おいちび助、お前も大手柄だぞ。賞与査定に多少口添えしてやらんでもないな。こいつにもよくよく贈り物をしなけりゃあな」
「お礼に、ってことですか」
 あまりにも性急に話が進むので、私はやや当惑しながら言葉を返す。
「それ以外の何があるんだよ。そうだな、リャナン・シーってのはアイルランドの妖精だっけか。このついでにベイリーズのアイリッシュ・クリーム・ボンボンでも買うかね」
「はあ、まあ、普通はクリームとか一切れのパンですから、十分すぎるぐらいじゃあないですかね……ブラザー、ちょっと」
「じゃあ俺は買い物に行ってくる。何か連絡があったら適当に対応しとけ」
 ブラザーはカタログを閉じるや、デスクに置いてあった革鞄を取り上げると、私にそう言い置いてさっさと出ていこうとした。決断があまりにも早すぎる。せめてその決定に至った理由ぐらいは聞かせてほしい。
「今から行くんですか? ええと……」
 私はカタログを拾って店の住所を見、言葉を続けた。 「ソーホーのブルーム・ストリートまで?」
「今行かねェでいつ行くンだよ、次の休憩までにはイリーの奴が来るってのに。別に心配しなくても地下鉄で十五分だ、昼休憩が終わるまでには帰ってくらァな。ついでにお前のぶんまで何か買ってきてやろうか」
「いや結構ですけど、……何がしたいのか概ね見当がついたので聞くんですが、それちゃんとシスター・クララに許可取ってるんでしょうね」
 嫌な予感がひしひしとする。私は尋ねたが、計略の完成を目前にした魔術師は、ドアのところで僅かに振り返り、 「取ってないなんて事があると思うか、ちび助。業務の円滑な進行のためには喜んで協力するとの仰せだぜ。これこそが忠義心ってやつだ、ニューヨーク支部は当面のところ安泰だな……」
 という真摯さに欠ける返事だけをして、鼻歌交じりに立ち去ってしまった。私は呆然と後ろ姿を見送ってから、やおらリャナン・シーの顔を見つめて、彼女の選択が不運を呼ばないことを心で祈るほかにはなかった。

  * * *

 マンハッタンの摩天楼がすっかり宵闇に沈むころ、オフィスの扉を音高に開ける者があった。顔を上げて視線を向けると、やたらに色白で大柄な、プラチナブロンドの若者が立っている。ブラザー・イリヤ・ミハイロヴィチである。普段は陽気なこのロシア人が、何故だかむっつりと不機嫌そうな様子で戸口に立ち、灰色の目でじろりと部屋を見回して、
「ウェンに呼ばれたんだけれども、あいつどこ行ったんだ」
 とだけ言うのだ。ブラザー・ウェンセスラスはつい先刻、煙草を吸いに行くと言って出たきりだった。
「もう少ししたら戻ってくると思うよ、呼ばれたというのはどういった用件で?」
「それが解らないから来るのが嫌だったんですよ、ブラザー・アイザック。こっちは体調が悪いって言ってるのに、出勤早々――」
 苛立ちを隠そうともしない声で、ブラザー・イリヤが言いかけたときだ。廊下のあちらから足音が聞こえてきたと思うと、彼の後ろから見知った顔が覗いた。
「よう、イリー、待たせたな。さっき喫煙室で書記局の連中と会ったぜ。それからアレクサと……」
「待たせたなじゃないだろ、呼びつけといて不在ってどういうことだ! ブラザー・アイザックが居なかったら帰ってたところだからな。で、一体何だって?」
 ぬけぬけと待ち合わせに遅れた同居人の姿に、書記局務めのロシア人は思い切り顔を顰めながら言った。ブラザー・ウェンセスラスはそ知らぬ顔で、彼の横を通ってオフィスに入ると、自分の机から美しくラッピングされた包みを手に取った。それは言わずもがな、昼間買いに行ったあのチョコレートだった。
「まあ落ち着け、お前が先だってから不調気味なのは解ってンだからよ。レジーに先を越されたって? そりゃあ気にかけてた女に先約が入ってた、ってのには同情できるがね、それで見るからに落ち込んで殺気立ってんじゃ周りも辟易するってもんだ」
「あんたに何が解るんだよ、このおれの味わった悲痛と憤懣が、」
「良いから聞け、イリー。お前の憔悴ぶりを見てられないってンでな、誰が俺に相談してきたと思う? クララだよ、お前の知ってるクララ・ハモンドだ」
 端から聞いているだけでは判然としないが、どうやら何かしらの形で意中の女性を誘い損ねたらしいブラザー・イリヤに、ブラザー・ウェンセスラスがとうとうシスターの名前を出す。その響きを耳にした途端、スミレ色にも見えるブラザー・イリヤの目が、いっぺんに輝きを取り戻したように見えた。
「シスター・クララ・ハモンド? ……彼女が何だって?」
「だから、お前がここ数日仕事は手につかないわ、顔を会わせても死んだような目をしてるわ、歌のひとつも歌わねェってのをクララは見てきたわけだ。それで心配になって、何か力になれることはないか俺に聞いたわけだな。俺はまあ、イリーのことだから放っときゃそのうち元に戻るとしか言わなかったが、それじゃ納得が行かなかったンだろう、これを渡してくれと頼んできた」
 瓶の形がそのまま解る、黒とスカイブルーの二色で彩られた包みを、ブラザー・ウェンセスラスは同居人に差し出した。口のところはリボンで括られ、小さなカードが付いている。
「チョコレート自体は手作りじゃあないが、ブラザーのために心を込めて選んで魔法をかけたから、きっと元気が出るはずだってよ。本当はバレンタインデーまで待つかとも思ったらしいがね、そう引き伸ばしても良いことはないだろうとさ」
「おれのために? シスター・クララが?」
「解るだろ、あいつは仕事に差し障りの出るような面倒が嫌いなンだ。だが別に、縁もゆかりもない他人のことまでわざわざ気にかけたりはしねェわな。こうしてわざわざ準備をしたってことは、まあ、多少なりとも慈愛を向けられてるって話だと俺は思うぜ」
 年嵩の魔術師は思ってもいないだろうことをつらつらと述べ、若い書記官は感激の色を滲ませながらそれを聞いていた。白い手が包みを恐る恐る解く――普通なら待ちきれないとばかりに破り捨てるだろう辺り、彼がいかに動転しているかが解るというものだ。
「食べていいと思うか?」
「良いんじゃねェか。あいつも感想を聞きたがるだろうからな、後回しにするよりマシだろ」
 ブラザー・ウェンセスラスの答えを待たず、ブラザー・イリヤはガラス瓶の栓を開けて、中のチョコレートを一つ口に放り込んだ。

 沈黙があり、そして歓喜があった。声は一切沸き起こらなかったが、表情の変化だけでありありと伝わってきた。ひとつの人生に幸福の総量は予め決まっているというか、もしもそうなら彼の余生からは、少なからぬ量の幸福がここで失われたことになるだろう。
「どうだ、味は」
「うまい」 それ以外に言葉も出ない、とばかりの声だった。
「良かったな。で、頭の痛いのはどうした? 体が怠いのは? 朝方は胃が重いとか言ってたが」
「もう全然――全く、そんなことは忘れた。ウェン、なあ、魔法っていうのは、こういうものだよな、こういうものじゃないとな!」
 ただでさえ若々しい三十四歳の顔は、今や穢れなき少年のそれに戻っていた。彼はもう一つ瓶から取り出そうとしたが、それを躊躇うように指先を彷徨わせ、暫くしてから神妙な顔で瓶を閉めた。
「よくよく礼を言っておいてくれ。その、今日は……居ないんだよな」
「有給取ってチャリティに出てる。明後日にゃ出てくるはずだ」
「おれも会ったらちゃんと伝えるけど、とりあえず頼んだ。こんなに嬉しいプレゼントを貰っておいて、元気にならないわけがない、って」
 精気に満ち溢れた青年は、後生大事に瓶を抱え込むと、同居人に重ね重ねそう言い伝えた。そして、かの有名なドニゼッティの歌劇の――「愛の妙薬」からの美しいアリアを、感極まったように詠唱しながら、躍るような足取りで部屋を出ていった。

「……ええと、何ですって? 先を越された?」
「書記局の後輩に一人、わりと仲良くしてるのが居てな。今度の休みに映画にでも行かないかって誘ったら、その日はレジーと食事の約束があるから駄目だ、なんぞと断られたらしい。それで完全に拗ねちまって、ついさっきまであのザマよ。俺ァ奴の愚痴と不定愁訴にはうんざりでな」
 残された我々は少しの間黙っていたが、私には疑問が残っていた。尋ねたところブラザー・ウェンセスラスは、さしたる迷いもなく答えてくれたが、その中身はそこまで同情に堪えうるものではなかった。
「いや、だからってレジー……つまり書記局の局長に嫉妬しなくたって良いじゃあないですか。というより彼は確か既婚者でしょう」
「俺がニューヨーク支部に入った頃から既婚者だよ。テキサス生まれの魔女を嫁さんに貰っといて、堂々と職場で浮気するわけがねえや。命が惜しけりゃ――たとえ命が惜しくなくても死後の安息が惜しけりゃ、絶対にそんな危ない橋は渡らねェ」
 愛妻家で知られる書記局の長、イギリスの血を濃く引いた書物魔術の第一人者の姿を思い浮かべながら、私はブラザーの言を頷いて聞いた。彼も人間であるから、ふとした瞬間に気の迷いを起こさないとは限らないだろうが、それにしたってもっと手段は選ぶことだろう。ブラザー・イリヤは少々妄想がすぎた。
「それは解りますけど、ただ対処するにしてもですよ、あんな方法で本当に」
 私はこの安易なプランとその顛末に、釈然としないものを感じて口に出したのだが、立案者は短く笑って私の言葉を遮った。曰く、
「良いじゃねェか上手く行ったものは。これでもし俺が精神科医で、睡眠薬を求めにきた鬱病患者に偽ってビタミン剤を処方したなら、それは医学的倫理にもとる大悪ってことになるか知らんがね」
 とのことだった。未だ賞賛しかねる私に、彼は皮肉とも諧謔ともつかない調子で続けた。
「だが、"ウィッチ"ドクターヤブ医者の仕業としてはこんなもんだろう。なあ知ってるか、ちび助、『プラシーボ』ってのは『私は喜ばせる』って意味なんだとよ――」

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