ペーパーレスの時代である。今や私は職場の紙ナプキン、彼はタバコの巻紙ぐらいしか気にかけない。

辞令をどうぞ -Unacceptable Letter-

 三月を間近に控えた日の午後、いつもの「ちょっと一服」からブラザー・ウェンセスラスが一向に戻ってこないので、私は仕方なく様子を見に行くことにした。彼の喫煙ペースが非常にゆっくりしているのは承知の上だが、いくらなんでも遅すぎる、昼休みが終わってもう二十分になる。五分そこそこ遅れたぐらいなら、私も他の同僚たちもうるさく言いはしないが、これだけ時間を取っていると、そろそろシスター・クララあたりが冷ややかに、「マンハッタン管区長にご注進に及んだほうが良さそうですね」等と言い出し、なおかつ実行しかねないので、私が衝突緩和に動かざるを得ないのである。
 「ザ・マンション」こと魔術師協会ニューヨーク支部の本館の裏手に回ると、そこにごく小規模なガラス張りの喫煙ブースがある。ブラザー・ウェンセスラスの避難所である。私は当然そこにブラザーがいると踏んで来たのであり、実際彼はいたのだが、状況は予想していたよりもう少しばかり複雑だった。他にもう一人いたのである。

「あの、シスター・アレクサ?」
 ガラス戸の手前で私は立ち止まり、中の人影に向けて呼びかけた。と、黒髪を引っ詰めにした頭がくるりとこちらを向いて、
「アイク! ああ、丁度良いところに来た。貴様も何か言ってやれ、部下として日頃思いつめていることを伝えるなら今だぞ」
 等と言ってくる。細い銀縁の眼鏡がきらりと光り、レンズの奥から黒い瞳が眼光鋭く私を見た。
 シスター・アレクサス・ウィンフィールド――濃い褐色の肌と皺一つない真っ白なシャツが見事なコントラストを描く彼女は、同じ支部で違う箒乗り部隊を率いる魔術師である。実年齢は知らないが、見た目には二十代の後半ごろ。その容姿と雰囲気は魔法使いというより、辣腕で鳴らした弁護士あるいは税務署員といった趣があった。そして言動は正しく、新兵をしごき倒す陸軍の教練軍曹ドリルサージェント――が、放送コードに引っかからないよう苦心して品性を改善しました、という具合だ。実際、彼女の主な任務は教育である。ニューヨーク支部で箒乗りとして勤務する者は、まず彼女の部隊でみっちりとスイーパーの何たるかを叩き込まれるのだった。
「……そこまで思いつめてるつもりは無いんですがね、何です、ブラザー・ウェンセスラスが何か?」
 私は言いつつ、彼女が小脇に挟んでいるものをちらと確認した。変哲のないプラスチックのクリップボードだ。白い紙が一枚止めてある。それから彼女の向こうへ視線を移せば、喫煙ブースの長椅子に脚を組んで座る、我らが箒乗り部隊のチーフの姿があった。と、彼はシスター越しに私を見、顎をしゃくると、
「言わんこっちゃねェやな、アレクサ。とうとうちび助が俺を救出・・に来ちまった。話はもう終いだよ、俺は来年度もチーム・ウォルターの糞チーフのままだ」
 普段と何ら変わらぬ間延びした調子で、気のない声を投げた。顔の横に掲げた左手には、細く巻かれたシガレットが一本、紫煙をゆらりと立ち昇らせている。
「それだから貴様は向上心がないというんだ。名誉欲を出せとは言わんが、実力相応の責任は然るべき場で果たすべきだろう。マンハッタン管区長もニューヨーク支部長も、貴様がいつ魔術師本来の使命を思い出すのかとやきもきしているんだ――三十年以上もそれを宥めすかしているわたしの身にもなれ!」
 シスターは語気荒く詰め寄ったが、ブラザー・ウェンセスラスは何処吹く風で、ガラス張りの壁にだらりと背を預けていた。――ここに至って私もようやく話を理解した。彼女がどうして憤慨しているのかを。
「昇進の話でしたか、マスター・ウィザードへの」
「いかにも。貴様もよくよく知っているだろうが、初めて話が持ち上がった……1982年のことだったか。それ以来ほぼ毎年辞令が出され、こいつは100%却下し続けてきたんだ。けしからん話だろう、マスター・ウィザードなど、どれほどなりたくともなれない者がごまんと居るものを」
 私の問いにシスターは首肯し、理解できないとばかりに眉を顰めて同僚のほうを見た。ニューヨーク支部で五十年以上ウィザード位階にあり続ける男は、タバコを咥えたまま知らんぷりをしていた。

 世界魔術師協会における魔法使いの位階は通常、入門生であるイニシエイトから始まって、ソーサラー、ウィザード、マスター・ウィザード、アーチマスターと昇格していくことになっている。このうちアーチマスターに関しては殆ど名誉称号で、世界的に有名だった魔術師に追贈されるようなものだから例外である。各国の支部で実働する魔術師たちの間では、マスター・ウィザードが最高位だと言っていい。
 これらの各位階に占める人数は、世界的に見ても非常に偏っている。大学に喩えるのならイニシエイトが在学中の学生、ソーサラーが学士、ウィザードが修士でマスター・ウィザードが博士といったところだが、マスター・ウィザードへの昇進の難しさたるや博士号取得の比ではない。大学院はおろか高校にすら通ったことのない私が言っても説得力はないかもしれないが、とにかく世間的にもそういうことになっている。
 というのは、第一に必要とされる魔法への熟達レベルが高いのも勿論、それ以外の要素――入門からこれまで魔術師協会にどれだけ貢献してきたか、どのような研究で成果を上げたか、魔術師としての品行は方正であるか、心身ともに健康かつ強靭か、云々を、ありとあらゆる面から厳しく査定された上で初めて候補に入るからである。こうして考えると、品行方正さや心身の健康さという点でブラザー・ウェンセスラスは大分と不適格である気がするが、ニューヨーク支部の人事局で実際何が行われているのか私は知らないので、もしかしたら何らかの政治的駆け引きのようなものがあるのかもしれない。
 ともあれ、晴れてマスター・ウィザード候補に選ばれると、そこから更に何度かの審査がある。イニシエイトからソーサラーに上がるときのような、大学のそれによく似た学科試験はない。ソーサラーからウィザードへの関門である論文も書かなくてよい。認定にあたって候補者にできることは極めて少ないのである。かくして何らかの意思があちらこちらから働いた後、見事に昇格が決まった証として、候補者改め新たなマスター・ウィザードには辞令が下されるのだ。

 ところが、この大いなる名誉を長きに渡って――シスター・アレクサの言によれば三十年以上も――蹴り続けている非常識なウィザードが一人いる。それがブラザー・ウェンセスラスである。私がニューヨーク支部に入ったのはおよそ二十年前だが、その年の秋にも彼は辞令を受け取っていた。私はぼんやりと、世話になって半年だけれどもこの人とはもうお別れか、偉くなる人はこうもあっさり偉くなるものだな、等と考えたが、それから何週間経っても、何故か彼は同じ実働部隊に居座り続けていた。支部内の誰も彼を「マスター・ウォルター」と呼ぶ気配がない。その翌年の春と秋にもやはり辞令が下され、彼がその紙を受け取るところは見たが、依然として彼は最前線の任務から退く様子を見せなかった。
 そんな調子で数年も経てば、嫌でも彼の意図するところが解ってくる。ブラザー・ウェンセスラス・ウォルターは昇進したくないのである。マスター・ウィザードになりたくないのだ。それは重大なる責任を負いたくないからか、名誉の称号が煩わしいのか、あるいは実務から外されたくなかったのか。色々と考えられるし、その全てかもしれない。どちらにせよ、もう彼に「そろそろお話を引き受けたほうが良いんじゃあないですか」等と言っても全くの無駄なのだろう。私はそれ以来、彼にまつわる人事に一切の関心を寄せることをやめた。関心など寄せなくとも、その後二十年、何の支障もなかったのである。

「責任責任ってンなら、俺だって俺自身の果たすべき責任ぐらい自覚してらあな。なんたって俺は部下の命を預かる立場だ、その部下どもが立派に務めを果たせるようになるまで面倒を見なきゃならん。特にうちの隊は肉体的ちびと精神的ちびと、その両方を兼ねたちびが居るもんでな」
 ブラザー・ウェンセスラスが口からタバコを離して、ぞんざいな調子で言う。
「……話の流れから察するに、その両方というのは私のことになるんですかね、ブラザー」
 謂れのない中傷を受けた気がしたので、私はブラザーの顔を軽く睨んでみたが、無論この程度で彼の鉄面皮がどうこうなる訳がない。つくづく品行方正さとは縁のない人物である。いや、魔術師は多かれ少なかれ一般人より面の皮が厚いものだし、私も自分自身が慎み深く恥じらいに満ちた性格だとは、これっぽっちも思わないが。
「お前でなくて誰のことを指すんだよ、『ちび助』。その面とその物言いで250歳は無理があるってなもんだ。なあアレクサ?」
「貴様も大概だろうが、自称120歳」 シスター・アレクサがばっさり切って捨てた。
「常に現場を見ることが重要だといって、後方に下がるようなポストへの昇格を望まぬ魔術師はよくいる。だがなウェンシィ、貴様のそれはただの怠慢だ。ニューヨーク支部設立以来、貴様がまっとうに部下の面倒を見ているところなど、ただの一度も――」
 彼女は尚も憤りを露わにし続けていたが、はたと言葉を止めて私とブラザーの顔を見比べた。そして、
「――ただの一度も無かったとは言わないが、まず滅多にはお目にかからなかったではないか!」
 と結んだ。こういう点において彼女は律儀である。私としては、「ただの一度も無かった」と言い切ってしまっても、別に誰からも文句は出ないだろうと思う。
「お前もチーム・アレクサの、あの聞かん気な連中を纏めてンだ、解るだろ、人目に触れるところであれこれ世話焼くもんじゃねェ。ひよっ子にだってメンツはあンだよ。それより、紙は?」
 ブラザーは思ってもいないだろうことを流暢に述べ、タバコを持っていないほうの手をシスターに差し出すと、人差し指だけをくいと動かして見せた。対するシスターが重い溜息をつき、
「良いか、辞令には従わないが辞令が記された紙だけは受け取る、なんぞという魔術師が一体どこに居るというんだ。こんな阿呆らしい記録を打ち立てているのは、世界中の支部をくまなく見ても貴様だけだぞ」
 呆れ果てたような声音で言うと、クリップボードに止めてあった白い紙を抜き取り、ブラザーの手にばしんと叩きつけた。

 私はここでやっと戸口に立ち尽くすのを止め、喫煙ブースに踏み込んで長椅子のところまで行くと、横から紙面を覗き込んだ。それは紛うことなき辞令だった。近くで見れば上等とわかる用箋に、整ったペン字でこう書かれてある:2017年4月1日付をもってマスター・ウィザードへの昇格を命ずる。また、同日付でマンハッタン管区スイーパー部門長の任を解き、ニューヨーク支部監察局勤務を命ずる。
 その後の、あなたは組織内での信望も高く、なんたらかんたらいう文面は読み飛ばした。ともあれ文末にはニューヨーク支部長、ならびにマンハッタン管区長直筆の署名があり、これが公式な書類であることを示していた。監察局は言うまでもなく内勤の部署である。文字通り支部職員の業務を監察、指導するのが主な任務だ。
「笑えるよな、毎度毎度ご丁寧なこって。もうかれこれ五十回は却下してるってのに、まだコピー用紙なんかじゃなく上物のレターペーパーで寄越しやがンだ。組織のコストカットってのはこういう所から始めるもんだと思うがね」
「全くもって同意だが、貴様に言えた立場か、ウェンシィ。紙を無駄遣いさせているのは貴様なんだぞ」
 シスター・アレクサが冷ややかな目でブラザーを見下ろし、鼻を鳴らした。そして、シャツの胸ポケットからマッチとタバコの紙箱を――赤い正円ブルズアイのマークが目を引くラッキー・ストライクの箱を取り出し、一本抜き取ってまた戻した。片手だけで鮮やかにマッチを擦り、火を紙巻きの先端に移す。器用なものだ。
「知るかよ、あっちが諦めりゃ良いだけじゃねェか。俺自身はこの紙を、一切無駄にすることなく丁重に扱ってるんだぜ……1982年だったか、その最初の辞令からずっと」
「それだ」 とシスター・アレクサ。 「その点でも貴様は理解し難い」
「何が?」
「実際に昇進したでもないのに、何故その辞令の紙だけを後生大事に飾ってあるんだ貴様の家には! 従わなかった時点でただの無効の紙切れだ、シュレッダーにでも掛けて捨ててしまえばよかろうに!」
「何ですって?」 私は思わず聞き返さずにはいられなかった。

 これを受けてシスターは、意外そうな目を私に向けて続けた。
「だから、辞令の用紙だ。今まで受け取ったものを全て、こいつは保管しているんだよ。いや、保管しているぐらいならともかく、飾ってある。自室の壁に一枚一枚貼り付けてな」
「従いもしない辞令をですか?」
「一種異様な光景だった。最後に見たのは大分と前だが、今も変わらず飾ってあるんだろう」
「飾ってあるともよ」
 ブラザー・ウェンセスラスが、さも当然といったように頷く。
「本来俺に収集癖なんてものは無いがね。俺が人生で集めたものといったら辞令の他にはフランス軍の勲章ぐらいだ、――ある意味では辞令も勲章か。全部残してある。一枚残らずな」
「そんなもの飾っておいてどうするんです、賞状と違って見栄えもしないのに」
 私は尋ねた。「そんなもの」という言い方は些か不適切かしれないが、畢竟それはただの紙切れである。ちょっと上質なだけの。賞状でも階級証でもない。書記局に申し出ればいくらでも原本からコピーして貰えるようなものだ。
「どうするって、……さて、別に普段からどうもしてねェが。いや、たまに眺めて悦に入るな。コレクションってのは大概そういうもんだろう」
「自室の壁一面に張られた辞令をですか? ブラザー・ウェンセスラスが、時折にやにやしながら簡素な白い紙を見つめていると?」
 想像するだに異様だったので、私はシスター・アレクサに同情した。次いで、ルームメイトであるところのブラザー・イリヤ・ミハイロヴィチはどう考えているのだろう、とも思った。かの陽気なロシア人にもまた一種独特な癖があるが、あちらはよほど開け広げなので比較的受け入れやすく思える。あくまで魔術師としての視点であって、一般人の感覚は考慮しないが。
「なんと言いますかね、ブラザー、二十年余の付き合いの中で、これほどギャップを感じたのは初めてのことかもしれませんよ」
「あンだよ、ちび助。言っとくが他にも――そうだな、眺めて悦に入る以外にも有効活用していることを思い出したぜ、今」
 ここまで引かれるとは思っていなかったのか、それとも予想はしていたが言い添えずにはいられなかったのか、ブラザーは私の態度を見てそんなことを言い出した。
「有効活用とは」
「たまにダーツの的にしてるンだ。魔術師はストレス発散の手段を迂闊に選べないからな、こういう人畜無害な方法は貴重だ。前のマンハッタン管区長の署名に命中すれば最高得点となる」
「それじゃ、例えば」
 出た声は思いのほか白けかかっていた。 「今の管区長やニューヨーク支部長の署名だったら?」
「その場合は十字を切って心のうちで懺悔し、――無かったことにする」
 彼が本気で言っているのかは、私には判断つきかねた。彼は古くから魔術師に必要不可欠とされる技能を不足なく身に着けているからだ――口から出まかせである。

「シスター・アレクサ、私はもう帰ります」
 私がこれまでの会話をもとに、とうとう下した最終判断はそれだった。
「揉めないうちに連れ戻そうとは思ったんですがね、どうもこれは本当に、マンハッタン管区長あたりにご注進が行ったほうが正しいという気がしてきましたので」
「貴様の判断は的確だ、アイク。この手の輩にはまったく愛想が尽きる。結局最後に緩衝役を務めるのはわたしではないか」
 シスターもぶつくさ言いながら、煙を吸っては吐き出した。と、ブラザー・ウェンセスラスが欠伸を一つして、首をこちらに向けてくる。
「アレクサ、お前はどうして俺に昇進を勧めるンだよ。お前にゃ何の関係も無ェことだろうが。あれか、俺が監察局かどこかに行っちまえば、自分が箒乗り部隊のチーフになれるからか」
 いつもと何ら変わらぬ間延びした語調。シスターはタバコを三本の指でつまみ、顔から遠ざけて肩を竦めた。
「説明が必要か、ウェンシィ。貴様のことだから解っていると思ったが」
「さあねえ、お前と違って俺ァ物わかりが悪いンだ」 空々しい様子で、ブラザー・ウェンセスラス。
「わたしは」
 シスターがきっぱりと言った。 「好敵手だからこそ、貴様の実力はよく解っている」
「それで?」
「実力者は実力相応の場所にいるべきだ。より名誉ある、より認められた立場に。――わたしは格下の者を叩きのめして悦に入るほど下品ではない。さっさとこちらまで上がってくるがいい」

 彼女、シスター・アレクサこそは――この世界魔術師協会ニューヨーク支部に所属する、数少ないマスター・ウィザードのうちの一人だった。聞いた話では、支部の黒人女性で初めてマスター号を授与されたのは彼女であるという。もう何十年も前の話である。その頃には恐らくブラザー・ウェンセスラスにも、マスター・ウィザードへの昇格の話が持ち上がっていたはずだ。にも関わらず、彼はてんで無気力に、それなりのポストに収まって日々を過ごしていたと思われる――それが彼女の思想に反したというわけだ。
「悪いがね、アレクサ。俺は格上の人間を上手いことやり込めて悦に入るような、実に下品で俗な人間なンだ。管区長と支部長には宜しく言っといてくれ。あと、」
「あと?」
「どうしてもって言うンなら、昇進祝いをくれたら考えなくもねェな。何か――」
「シュロス・イッターの1995年モデルなら自分で買え。あんなものを他人に買わせるなどとは正気の沙汰ではない」
 世界的に高名なオーストリアの老舗箒メーカーの、そのまた傑作とされる箒の名前をシスターは挙げ、その上でぴしゃりと釘を差した。私もその名前ぐらいは知っていた。ネットオークションで平均して5万ドルを超える値だ。確かに正気の沙汰ではない。

「俺がそれほど強欲に見えるかよ、どいつもこいつも。どうせお前らときたら、俺がマスターになりたくない本当の理由も知らねェんだろ」
 どうやら彼女の予想は正鵠を射ていたらしい。ブラザーは紙巻きを灰皿に押し付けて消しながら、低い声でそんなことを言う。
「実働部隊から外されたくないからではないのか。監察局に行ってしまえば、制限なくニューヨーク上空を飛行できる機会などまずあり得まい」
「それか、責任とお給料が比例しないからじゃあないんですか。マスターの基本俸給って、確かウィザードと比較しても大差なかったと思いますが」
 我々はめいめいに予想を述べたが、対してブラザーはいかにも芝居がかった調子で、大げさに頭を振った。お前らは何にも解っちゃいない、とでもいった様子だ。
「良いか、知っての通りだが、ニューヨーク支部で俺を『ブラザー・ウェンセスラス・ウォルター』なんて呼ぶ奴はまず居ない。クララとそこのちび助がせいぜいだ。後は大抵『チーフ』とか『ブラザー・ウェン』とかだ。あと、何故か『ウェンシィ』とかいう嫌に可愛らしいニックネームを付けやがった奴もいるな、クソが。それで」
 彼は私やシスターの顔をいちいち見ながら、自らの呼称についてをひとしきり述べた。それが終わるとやにわに神妙な顔になり、
「俺がマスターに昇進した場合、連中は俺をどう呼びつけることが予想されると思う?」
 と尋ねてきた。
 大した問いではない。答えはすぐに思い浮かんだ。我々はちらと視線を交わし、そして先にシスターが口を開いた。
「当然、『マスター・ウェン』と呼ばれる可能性が高いのではないか」
 途端、ブラザー・ウェンセスラスは長椅子から身を乗り出し、こちらをきっと見据えて声を荒らげたのである。
「それだ、そう、そこなンだアレクサ。考えてもみろよ、『マスター・ウェン』だと? この響きを聞いて誰が魔術師協会のマスター・ウィザードを思い浮かべる? カラテかカンフーでも教えてるようにしか聞こえねェだろうがよ。俺はそういうのは嫌だ。だからマスターは御免だ」

 ――果たしてこの答えをどう捉えたらいいものだろうか。シスター・アレクサは無言でタバコを咥え直し、黒いパンプスで床をこつこつと叩き始めた。私は白く煙ったブースの中をぐるりと見回し――やはり帰ってシスター・クララにあることないこと吹き込もうと決めた。彼女はきっと今頃おかんむりであろう。マンハッタン管区長がなんと言ってくるかは解らない。どのみちブラザーはうまく切り抜けるだろう。そうだ、彼にはマスター・ウィザードに相応しい素質が問題なく備わっているのだ。口から出まかせという。

go page top

inserted by FC2 system