「3.9」
 無線越しに響いた唐突な言葉に、私は思わず聞き返した。 「何ですって?」

思草のカウントダウン -Smoke and Shoot-

「3.8……3.7」
 私の質問に返答はなく、次の数字が出てくるまでにはおよそ6秒を要した。これで平時なら、一体何を数えているんですか、それぞれの間隔に何か意味でもあるのですか等と悠長に尋ねもするが、残念ながらそうはいかない。マンハッタン上空を時速60マイルで高速飛行中に、納得ゆくまで話を聞き込む暇などあるはずもないのだ。私はこの気がかりを無かったことにしようと決め、前方を行くブラザー・ウェンセスラス・ウォルターの背を改めて見据えた。前時代的な――およそ百年前の戦闘機乗りが着ていたような――飛行服姿の我らがチーフは、今も数え続けている。 「3.6」

 発端は一時間ほど前だ。世界魔術師協会ニューヨーク支部に所属するチームの一つが、研究のため個人宅から絵画を一点借り受け、「ザ・マンション」ことニューヨーク支部の本館へ輸送しようとしていた。ところが品を運び出し、専用の車に積み込もうとしたところで、思わぬアクシデントが起きる。建物の影から突如躍り出た二人組の男によって、絵画が奪われかけたのだ。
 もちろんチームの魔術師たちは抵抗し、二人の男はやがて駆けつけたニューヨーク市警の巡査によって現行犯逮捕された。絵画自体も傷など付くことなく無事だった。男たちは額縁に手をかけただけだった。しかし騒動は万事めでたく解決しなかった――魔術師の一人が絵を奪い返そうとしたそのとき、カンバスに塗りつけられた絵の具の層から滲み出るように、おどろおどろしい影が現れたのだ。それは幽霊だった。ただの幽霊なら良いが、よりにもよって悪霊だったのである。
 死霊術や心霊術に詳しい者なら、これを「蘇りしものレヴェナント」と呼ぶだろう。幽霊の中でも飛び抜けて質の悪いものだ。ひとたび彼らが解き放たれれば、生前の思い残しに向けてどこまでも突き進む。執着心が極めて高く、生きた人間が狙われているなら大変なことになる。かくて現場の人々は地元の教会にエクソシストを頼むと共に、チーム・ウォルターにも緊急出撃要請スクランブルを掛けた。おかげで私は昼食を取り損ねたし、J.Jは表通りまで駆け出す際に横腹を痛めた。
 スイーパーたちは隊伍を組んで箒を最高速に乗せ、現場であるワシントン・ハイツめがけて北上した。報告されている目標の進路を考えて、うまく正面から迎え撃てればと思ったが、やはり物事はそう順調に運ばない。我々はそのレヴェナントを発見し、暫くの混戦の後で背後につけこそしたが、捕獲までには至らなかった。悪霊はすばしこかった――霊なんてものは所在なさげにふわふわ漂っているだけのものだ、等と思っている人がいれば、顔を掴んで空を見上げさせてやりたいくらいだ。それは正に黒い影の弾丸だった。

「こちらパック2、目標が方向転換します。恐らくアダム・クレイトン・パウエル……」
「そんな長ったらしい通りの名前はいちいち呼ばなくていい、パック2。奴ァやっぱり南を向いてるな」
 現在先頭を行くパック2こと、シスター・クララ・ハモンドが報告を入れてくる。悪霊が突っ込んでいった目抜き通りの正式名称は、アダム・クレイトン・パウエル・ジュニア大通りブールヴァードだが、確かにそんな面倒は必要なかった。要するに向きさえ解ればいいのだ。我々を撒くためか、何度も進路を変えてはいるものの、最終的にそれが目指しているのは南のようだった。マンハッタンのどこかなのか、それとも海まで出てしまうのかは解らないが――後者だとすれば厄介だ。そこから先はニュージャージー州である。刑事ドラマによくある管轄争いは、魔法使いの世界にも存在する。
「2.2……2.1……」
 そして、ブラザー・ウェンセスラスは適宜我々に指示を飛ばしたり返答したりしながらも、相変わらず数を数えていた。レンガ張りのビルをかすめるように、四本の箒とひとかたまりの影は疾走する。ハーレム上空は曇りで、もう四月も目の前だというのにひどく寒い。天気予報では夕方ごろからみぞれが降るとのことだ。それまでには何としても切り上げたい。私はふと視線を下げた。セントラル・パークまで2.1マイルである旨の標識が、見る間に過ぎ去ってゆく。
 ――2.1?

「全員現在の速度を維持。パック2、パック3、定位置に戻れ」
「パック2了解」
「こっちも了解、――あのさチーフ、ところで」
「1.9」
 私の疑問とJ.Jの言葉を遮るように、カウントは2を切った。と、ブラザー・ウェンセスラスが僅かに箒の速度を落とし、高々と響き渡る声でこう述べた。
「聞こえるか、絵の亡霊。貴様に最後通牒を提示する。安らかな眠りが惜しけりゃ神妙に聞け」
 恐らく「増幅」の呪文を掛けているのだろう、その言葉は数十メートル先までも届いたはずだった。悪霊は答えない。レヴェナントは盲目的であり、自分の思い残し――大抵は復讐か逆恨み――以外には全く意識を向けないのが常だ。
「再び絵に戻るか、どこかしら往くべきところへ往くにあたって、痛い目に遭いたくないなら進むのをやめろ。カウントが終わる前に真下に降りて俺たちの指示に従え。猶予は俺が話し終えてから――ほぼ60秒だ。良いな、解ったな」
 ブラザーは淡々と告げ、カウントダウンを再開した。 「0.9」

 聞く耳を持たない(物理的にも比喩的にも、だ)亡霊はてんで自分勝手に、灰色の大通りを超えて飛び続ける。指揮官は沈着冷静にその姿を追い続け、チームメイトに作戦を確認させる。
「カウントが終わり次第仕掛ける。パック2はパック4の、パック3は俺の援護に回れ。パック4、器具の準備は良いな」
「勿論ですとも」 パック4であるところの私は短く答えた。
「俺が先に行く、後は合わせろ。0.6、――そら、0.5!」
 まかり間違っても標的に聞こえぬよう、「減退」の呪文で抑制されていたブラザーの声量が、再び増幅された。
「……0.4……0.3」
 こんな天気であっても変わらぬ賑わいを見せる、昼下がりの公園まであと少しだ。私は息を詰めて、速度を落とさぬよう箒をコントロールし続ける。後輩たちも同様だ。シスター・クララの銀色の箒が、私の傍につけている。J.Jも問題なく安定飛行中。こうして調子に乗らないでいれば、彼はまったく素晴らしいエースなのだが!
「0.2、」
 行く手に濃い緑がはっきりと見える。セントラル・パークだ。歩道をゆく人々が何事かと見上げている。善良なる一般市民の皆様におかれましては、どうか慌てず騒がず対処して頂きたい、と心の内で思った。呼びかけている時間はない。言葉にする前に通り過ぎてしまう。
「0.1、」
 足元を「Central Park West Drive」の標識が飛び去り、ごうごうと唸る風の中に車のクラクションが聞こえ、警官たちが発していると思しき制止の声が聞こえ、そして――
「――ゼロ」
 最後の数字は低く、底冷えのするような声で告げられた。

「数え終わったぞ、亡霊野郎。これが貴様の最期だ。良いか、ここから先はセントラル・パークでな、公共施設であり公園だ。するとニューヨーク市の条例に基づき、俺はここでタバコを吸ってはいけないということになる。つまり、」
 今はスケートリンクになっている池の上を飛び越えながら、ブラザー・ウェンセスラスは続けた。その手には黒檀を削り出して作られた、一本の杖が握られている。箒の上で取り回しやすいような、短く細身の品だ。
「俺は今から、魔法を使うのにタバコではなく杖を使わなきゃならんという訳だ。これで『せめて苦しまないように一瞬で』なんてのは不可能だ。お生憎だが、半端に恐ろしく痛いぞ――覚悟を決めろ!」

 宣言と同時、彼の箒が瞬間的に加速した。あのイチイの箒に出せる恐らく最高速だ。突出したその姿に、レヴェナントも黙っていなかった。黒い影が蠢き、三つの青白い火の玉が高速で射出される。ブラザー・ウェンセスラスはその一つを殆ど動かずに、もう一つは左へ半回転して避けた。だが、あともう一発は――
カートプローノー、鏡よ!
 彼を追って飛び出したパック3ことJ.Jが、自らの杖を振るって呪文を唱えた。空中に現れた小さな魔法陣が火の玉を真正面から受け、そして鮮やかな赤い光と共に逆方向へと撃ち返した。レヴェナントは己の術をまともに食らい、一瞬その動きを止める。それがタイミングだった。かつての撃墜王は現代の魔術師となり、箒の柄から身を起こして冷酷に叫んだ。
リクノー・アレスティトー、叩き潰せ!

 空の灰色が歪み、閃光が走った。それは後ろから見ると稲妻のようでもあり、流星のようでもあった。単純でそう高度でもない呪文の矢は、黒檀という極めて攻撃性の高い素材を通り抜けることで、術者本人の殺意を的確に増幅し――ごく小さな一点に凝縮させて突き刺した。
 死者の断末魔と地響きと雷鳴をひとつにしたような、世にもおぞましい絶叫が響き渡り、レヴェナントの影が大きく揺らいで千切れ飛んだ。しかし消え去ってはいない。影は喚きながら落下してゆく。重力に縛られていた頃を思い出したかのように。
 私に先行したシスター・クララが、詠唱なしで「固定」の魔法を放つ。幽霊というものは思念の塊なので、この手の操作魔法は効き難いことが多いのだが、ここまで弱っていれば話は別だ。影はもはや動くのを止め、今正に私の真下にある。レイヴンズウッド1914の柄を右手で握り、急降下しながら私は意識を集中した。左手を上着に突っ込んで、捕獲用の魔道具を取り出す。小さな護符。
クレイノー、閉じよ!
 それがキーワードだった。随分と薄れて弱々しくなった影は、瞬く間に私の手元へと吸い寄せられ、護符の中へと飲み込まれていった。最後にがちゃんと錠の落ちる音がした。

  * * *

 善良なる一般市民の皆様におかれましては、どうか慌てず騒がず対処して頂きたい――そんなような内容を、やっとのことで我々は声に出すことができた。一報を受けて到着した本来のチームに、護符を引き渡しながら。
「思ったよりも手こずりませんでしたね、今回は」
 シスター・クララが淡白に言った。公園内にあるテニス・センターの傍に着陸した我々は、ざわつく人々に簡単な説明と、もう万事片付いて周囲は安全であること等を告げて回り、野次馬を追い散らし、事を収めたところだった。本当はまだ万事片付いてなどいないのだが、こういう時はとりあえず言っておくものなのだ。
「レヴェナント相手にこの短時間は上出来だろ。ああ、――吸えねェんだよな、畜生」
 建物に掲げられた「No Smoking」の看板をじろりと見て、ブラザー・ウェンセスラスが重々しく呟いた。彼が前述した通り、ニューヨークでは公共の施設内、遊歩道、公園、ビーチ等での喫煙は全面禁止されている。合衆国内でもひときわ厳しい条例が制定されているためだ。
「支部にお戻りになってからどうぞ、ブラザー・ウェンセスラス。或いは、そろそろ喫煙者でいることの苦労を鑑みて禁煙なさるか」
「俺の魔法の八割がたを取り上げたいンなら、そのまま勧めてくれ、クララ。支部長が真っ青になって乗り込んでくるがな。向こう百年は今のポストに居続けて欲しいもんだ、あのマスター殿には」
 ブラザーは普段通りの間延びした態度に戻り、シスターから冷たい視線を向けられていた。現ニューヨーク支部長は愛煙家である。そしてブラザー・ウェンセスラスの魔法を嘆賞し続けている。一方マンハッタン管区長は大の嫌煙家であり、二者間には「政治的対立」が生じていた。あくまでも噂だが。

「まァ、俺は法律遵守の精神に満ちた善良な愛煙家だからな、神妙に従うさね。さて、そうなると残るはこれだな。そうだろ、ちび助」
 彼は私に向き直り、片手でグラスを傾けるジェスチャーを見せた。酒だ。
「今はお付き合いできませんよ、生憎と。空きっ腹にアルコールは厳禁です」
「何か食えば良いじゃねェかよ。ホットドッグもタコスもブリトーもそのへんで売ってらあな。それか――」
「あ、それならさ、アイザック」
 話に割って入ったのはJ.Jだ。 「この辺りにね、美味しいレストランがあるんだよ」
「日本食の?」
 なんとなく予測がついたので、私は先制しておいた。J.Jはにこにこしながら頷き、何ら動じることなく話を続けた。
「スシ・レストランさ。今の時間でもまだランチをやってるはず。『ササブネ・スシ』って店なんだけど、そこのシーフードロールとウニの……あっ、ウニって解るかい? 英語だとsea urchinって言うんだったかな、それが」
「解ったよ、解った、J.J」
 好きなものについて話し始めたら、とにかく際限ないのが彼だ。私は軽く手を挙げて熱弁を止めさせ、短く息を吐いた。
「遅い昼食はそこにしよう。15ドル以下で収まるんならね」
「日替わりのスシ・ランチは12ドル95セントだよ、アイザック」
 J.Jがほがらかに言った。 「で、きっとチップを5ドルぐらい置きたくなるはずさ」
「収まってないじゃないか。実際にどれだけ払うかは私の満足次第だ。――シスター・クララはもう食べたんだったかな」
「軽く。もし宜しければ、ご一緒しても構いませんか」
「もちろんさ! ってことは、チーフも当然一緒に来るよね。久しぶりに四人で食べに行こうよ。チーフなんてシーフードは好物でしょ、絶対に気に入るから」
 私の代わりに何故かJ.Jが承諾し、続いて残る一人も誘いにかかった。目が輝いている。
「何がどう当然なんだよ。おい、その店にアルコールはあるのか」
「日本のビールがあるよ! サッポロってやつ。あとサケもあるし、グリーンティー・サワー……」
「種類はどうでもいい」
 ブラザー・ウェンセスラスはうんざりしたように後輩をあしらい、飛行服の上着からスマートフォンを取り出すと、テキストメッセージを打ち始めた。食事をしてから帰る、というようなことを事務方に連絡しているのだろう。

「へへへ、四人揃って食事はやっぱり良いものだよね。あ、そういえば四っていうのは――」
 一人ご満悦のJ.Jが、明るい声音で何か言いかけたが、彼にしては珍しくすぐに黙ってしまった。私は横目で彼を見、言わんとしていたことについて考えを巡らせてみた。そして一つ思い当たった。
「四っていうのは、J.J」
「いや、別になんでもないよ、気にしないで」
「……アジアじゃ不吉な数字なんだよね、とでも言おうとしたんだろう」
 彼はヘーゼルの目を丸くして、私の顔を覗き込んだ。 「どうして解ったの?」
「ついこの間君が教えてくれたのでね、響きが『死』を意味する単語と同じだから縁起が悪いと。でもまあ、ここはニューヨークで、我々はアジア系のルーツを持っていないし、気にすることはないんじゃないか」
「そうかもね、うん、そりゃそうだ。あ、でもさ――僕らが『四』人だってのも、逆に悪くないんじゃない? ほら、よく『666』とか『13』を強敵に背負わせるのと同じでさ、敵に死を与える最強の部隊、みたいな……」
 どこまでもポジティブな若い魔術師は、またしても勝手気ままに自らの見解を語り始めた。アメコミ趣味も持っているのだ――我々の任務はあくまで収集や保護であり、殺害は基本的に含まれないのだけれどと言おうとしたが、やめた。チームのリーダーからして、あれほど喜々とした殺意を剥き出しにできる男なのだ。視線を向けた先で、百年前の撃墜王は肩を大きく回しながら、ニューヨークにおける愛煙家の現状について、シスター・クララと論を交わしている最中だった。

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