生憎と我々はクレオパトラではないので、鼻ごときで歴史を変えることはできない。

鼻にかけた話 -Keep Your Nose Clean-

 否、パスカルがあの文章で言いたかったのが、クレオパトラの美醜の如何ではなかったことぐらい解っている。人間の歴史や社会の局面といったものは、ほんの些細な要素から様変わりしてしまう、それほど予測のつかないものなのだと、フランスを代表する哲学者は言わんとしていたのだろう。なんだったら「カエサルの髪がもう少し豊かだったら」とか、「アントニウスの声がもう少し高かったら」でも何ら問題なかったはずだ。
 だが、そこで「クレオパトラの鼻がもう少し短かったら」! よくぞこの鮮やかな表現を選んでくれたものだ。数世紀を経ても決して色褪せず、眼の前にありありと浮かんでくる瀟洒な響きだ。ニューヨーク公共図書館から借りてきた「世界の名言集」的一冊をぱたんと閉じ、私はしみじみと思った。何故こんなものを借りてきたのかといえば、ただ次の四季報に載せるコラム原稿のネタが欲しかっただけである。たまに順番が回ってくるのだ。
 それにしても、鼻――もちろん我らが世界魔術師協会ニューヨーク支部にも、様々な鼻の持ち主がいる。大きな鼻、小さな鼻、尖った鼻、丸い鼻。そばかすだらけの鼻があり、にきびに悩む鼻があり、花粉症で夏から秋にかけてずっとぐずぐず言わせている鼻もある。その中に、もしも私が「ニューヨーク支部で最も個性的な鼻」を選べと言われたら、迷わず選ぶだろう鼻があった。

御機嫌ようチュージング、チーム・ヴァルターの朋輩たちよ! が杖がけいらにご挨拶申し上げよう!」
 その鼻を有するところの男性は、私が本をしまって立ち上がろうとしたタイミングで、我々のオフィスへ押し入ってきた。わざとらしすぎて鼻につくぐらいのドイツ訛りが、昼休みの長閑な空気を高らかに粉砕してのけた。机に突っ伏して居眠りしていたJ.Jことブラザー・ジョンの肩が、いっそ見事なまでに跳ね上がった。
 私は立ち上がりかけた姿勢のまま入り口を見た。小洒落た黒髪の、三十過ぎと見える背の高い男性が、何がそんなに誇らしいのかと言いたくなるような得意満面の笑みを浮かべている。上等のブランデーを思わせる琥珀色の目。肌は白く、襟足はすっきりとして、快活さと小粋さのあふれる容貌だった。そして――何のためにこのデザインを選んだのか知らないが、肩章と袖章それに毛皮の付け襟のついた、緑がかったダークグレーのローブを着ていた。名目上はローブだが、一見してそれは何らかの軍服のようであり、誤解を恐れることなく思ったままを言うなら、第二次世界大戦期のドイツ陸軍の将校用オーバーコートそのものだった。腰に締めた革のベルトには、小ぶりで装飾的な杖が提げられていたが、本来そこには拳銃か、あるいは軍用のナイフが収まるものに違いなかった。
「お疲れさまです、ブラザー・バートラム・ワイデンライク」
 唐突な乱入に微塵も動じることなく、愛らしい声で挨拶を返したのはシスター・クララである。彼女はさっと前に進み出、黒いスカートを摘み上げて上品な礼を一つしたが、目は一切笑っていなかった。常に折り目正しい彼女のこと、闖入者を良く思わないのは当然だろう。まして、ここまで奇矯かつ騒々しい人物ならば尚更だ。
「何かご用事でしょうか、午後からの業務の準備は済ませてありますが」
「うむ……」
 七十年前のドイツ人めかした男性は(めかしたも何も、「ワイデンライクWeidenreich」という姓の響きのとおり、彼は正真正銘のドイツ系なのだが)、意味深長に頷くと、オフィスの後方の壁面を一瞥した。そこには我々が日頃使っているスチールロッカーが、四人分まとめて置かれている。
「ちと必要に駆られたのだよ。ヴェンツェスラス・・・・・・・・ヴァルター・・・・・はいるか?」
「ブラザー・ウェンセスラス・・・・・・・ウォルター・・・・・なら」
 当てつけるような英国容認発音で、シスター・クララが言った。 「離席中です。すぐ戻るとは思いますが」
「ふむ、居ないか。否、卿ではいかんと言いたいのではないが、ハモンド、かといって奴が同席しないのでは元も子もないな。――そうでもないか?」
 その態度を歯牙にもかけずに、ブラザー・バートラムはあれこれと独り言を呟いた。彼には考えるところがあって、我々のオフィスにやって来たようだが、私には今のところ何のことやら掴めなかった。
「まあ良い、吾輩は面倒が嫌いだから直截に話すぞ」
 落ち着きなくその場で足踏みなどした後、彼は私の顔を見据え、きっぱりとした響きでこう言った。 「臭うのだ」

 ブラザー・バートラムが自ら指差してみせた鼻は、見た目にはそう変わったところがない。大きすぎず小さすぎず、彼の角ばった顔の中央で、問題なく均整を保っている。強いて挙げるなら僅かに鷲鼻気味であるぐらいだ。少なくとも、それが他の外見的特徴――左目の虹彩が右目と比べて濁っているとか、喉頭を横断するようにかなり大きな傷跡があるとか、そもそも全体像が明らかに魔術師ではなく前時代の軍人だとか――よりも先んじて注意を引くことはないだろう。彼の鼻が持つ個性というのは、つまり外見的なものではなかった。表に立ち現れない能力の話だ。
「臭うって」 J.Jがおっかなびっくりといった様子で訊く。 「僕らの部屋が、かい?」
「そうだ。もっとも、臭うといっても全体的な、例えば三十分ほど前に卿らが食べたであろう中華料理の匂いが胃袋に毒だ、等というものではない。オレが言いたいのはより微細で……希少なもののことだ」
 彼の一人称は吾輩IchだのIだの、ドイツ語と英語の間で安定しない。 「つまり」
「つまり?」
「ヴァルターはまだ帰ってこないか。ならば仕方ない、うむ、これは致し方ない」
 J.Jの問いに答えはなく、ただ自己完結したような言葉が漏れるだけだった。軍人めいた魔術師は並んだロッカーのうち一つへ大股で歩み寄ると、ベルトから杖を抜き取って、左端の扉を数度小突いた。それは我らがチーフことブラザー・ウェンセスラスの個人的領域だった。
「そう、これだ!」
 彼は張りのある声で宣言し、琥珀色の目で杖先を注視した。といっても、彼の話によれば「臭う」のであり、視覚的におかしな何かがあるというわけではなさそうである。少なくとも私にはそう見える。
「間違いなくこれだ。やはり臭う。とても宜しくない――古くなったハムの臭いがするではないか! 実に宜しくない!」
「お言葉ですが、ブラザー・バートラム」
 シスター・クララが一歩前に出、まだ険の取れない声色で割って入った。
「さすがにブラザー・ウェンセスラスは、ロッカーの中に賞味期限の切れた食品を、いえ、賞味期限が切れていなくとも食品を置いたりはしないと考えますが。職員用ロッカーは冷蔵庫としての役目を果たせないということは、とうに承知しているはずです」
 彼女の言い分はもっともだ。が、これはブラザー・バートラムの言いがかりというわけでもない。アメリカとドイツとの表現の差異なのだ――「古くなったハムEin alter Schinken」というのは、ドイツ語で「面白くないもの」ほどの意味なのである。一説には、古く分厚い革表紙の本がハムのように見えることから生まれた表現だというが、正確な語源は判明していない。

「それはそうだ、ヴァルターはああ見えて食事にはやかましいからな。吾輩は奴と一緒にバーベキューをするのは御免こうむる。ふん、丁字クローブの……オイルのような臭いだな。それに火を点けて暫く燃やせば、ちょうどこんな具合か……」
 微かに鼻を鳴らしながら、ブラザー・バートラムがロッカーの扉に顔を寄せた。後ろからシスター・クララが、訝しげな眼差しを向けたまま、
「それ、きっとブラザー・ウェンセスラスのタバコの臭いですよ」
 と冷たく言った。
「タバコ! ああ、それも言っておかなければと思っていたとも。奴は吾がどれだけ懇切丁寧に説明してやっても、一度だって禁煙に成功しなかったからな。魔術の進歩のためだとか何とかやかましいが、あれだって結局体のいい言い訳だ」
「その点に関してのみは、心から同意させて頂きます」 とシスター・クララ。
「実際、例の魔術タバコだってちっとも有効に使いやしない。何かとりあえず光ったり大きい音が鳴ったり爆発したりすれば、それが最良だと思っているわけだ。その辺りが奴の、前時代のアメリカ戦争映画的なところだ」
「自分は前時代のドイツ戦争映画みたいな格好してるのにね」
 いつの間にか読み始めていた漫画雑誌から、そっと顔を上げてJ.Jがこぼした。一応配慮するかのように小声だったが、私に聞こえたぐらいだからブラザー・バートラムにも当然聞こえていた。彼は素早く首を回して、現代のアメコミ映画オタクのほうを向いた。
「そうだろう、ばかりか吾輩のは特注だぞ! 半端なことはしたくないからな。それに――言っておくが、ナチじゃないからセーフだ、セーフ!」
「ブラザー・アイザック、不勉強で申し訳ないのですが、ドイツ語では『safe』に『過激な』とか『倒錯した』といったような意味でもあるのですか」
 酷薄な、さながらドイツ人捕虜を尋問するCIAの諜報員といった風情を纏って、シスター・クララが私に目をくれた。私が真面目に答えるべきか、それとも皮肉を重ねて返すべきか迷っている間にも、ブラザー・バートラムは上着に付いた肩章と袖章の意味合いをJ.Jに解説し続けている。
「ええ、少々宜しいですか、ブラザー」
 彼の言葉が一瞬途切れた隙を見計らい、私は咳払いをして言った。
「ブラザー・ウェンセスラスのロッカーに、何が?」
「何があるのかは吾輩にも分からん」
 思った以上に身も蓋もない言葉が返ってきた。あれだけ自信に満ちた態度で入室しておきながら、まさか答えがそれだとは予想もしていなかった。
「分からない?」
「否、違うな。これは言い方を間違えた。何があるのかは嗅ぎ分けたが、それがどんな姿をしているのかは分からん。先述した通りクローブ油を燃やした臭いと、焼けた炭、硫黄、そしてケシの葉。こんな臭いを漂わせているものといったら、それは――」

 その時、開けっ放しになっていた戸口の向こうから、鳥の鳴き声が聞こえてきた。こちらに近付いてきているらしい、ギャアギャアという響きはカラスのものだ。それも、都市でよく見かける小さなcrowではなく、もっと大型のravenの。
「やあ、来たか! 待ちかねた!」
 ブラザー・バートラムが歓声を上げる。鳴き声の中に人の足音が交じっていることに、私も気がついていた。規則正しく落ち着き払ったものではなく、明らかにペースを乱されている者のそれだ。もし私が街中で不意にカラスに襲われたとすると、きっとあんな調子で逃げ回るだろうな、と思える足音だった。さらなる接近につれ、混乱の音に腹立たしげな舌打ちや、短い苦痛の声、加えて脳内で文字に変換するのを多少躊躇うような暴言が挟まれるようになり、
「ベルト、このカラス野郎!」
 ひときわ大きな罵倒語――聞き間違いでなければFから始まってkで終わる――が聞こえたと思うと、それらの発生源が丸ごとオフィスに飛び込んできた。声を発したのは言わずもがな、離席中であったブラザー・ウェンセスラスである。彼は薄手の黒いジャケットを羽織り、右手に小銭入れを兼ねたスマートフォンケースを持っていた。近所のデリにガムか何か買いに行っていたのだろう。そんなごく有り触れた姿の彼には、これがまったく奇妙なことに、二羽の大きなワタリガラスが絶えず纏わり付いていた。一羽は白髪交じりのブルネットを盛んに嘴で引っ張っていたし、もう一羽は首筋のあたりをつつき回るのがお気に召したようだった。

「遅きに失するお出ましではないか、ヴァルター! 折角吾輩がこうして訪ねているというのに!」
 とはいえ、それらの戯れもブラザー・バートラムの一声によって瞬く間に終わりを告げた。ローブの裾を翻しながら、彼は戸口へと向き直り、芝居がかった大げさな動きで両手を広げる。二羽のカラスはたちどころにブラザー・ウェンセスラスへの興味を失い、黒く艶やかな翼を広げてオフィスを横切ると、肩章の上にそれぞれ着地した。
「プリングルスかドリトスでも買ってきたのか? 歳が歳なんだからそろそろ控えんと不健康だぞ。だがもしプレッツェルなら吾輩にも少し――」
「くたばれ、カラス野郎」 ブラザー・ウェンセスラスが低い声で吐き捨てた。
「そういう所がカラスだと言いたいンだよ。その鳥どもを放し飼いにするのはいい加減に止めろ」
「何故だね? 彼らは吾が自己同一性イデンティテートが拠って立つものの一つ、いや二羽だぞ?」
「何が自己同一性アイデンティティだ。ただでさえお前は一人の人間として要素が多すぎンだよ、少し削れ」
 我らがチーフは珍しく神経質そうな所作で、ブラザー・バートラムの鼻やら、肩に乗せたカラスやら、そのカラスをあやす黒革の手袋やらを指差して毒づいた。そのついでに中指まで突き出しそうな苛立ちかただった。
「それは無理だね。吾輩はアメリカ人だがドイツの生まれであり、かつては軍人だったし、今は魔術師で、カラスを使い魔として愛し、プレッツェルも愛している。個性というものは乏しいより多いほうが良かろう。それで、開けても構わんな?」
「何を?」
「君のロッカーだ。剣呑な臭いがする」
 彼は右手に携えた杖を、器用にくるくると回しながら答えた。あたかも軍楽隊の指揮者の如くだった。凝った造りのビショップの駒を思わせる、杖頭の彫刻が空中を行き来した。
「いつの間に監察局に転勤になった、ベルト。新米の最初の仕事は抜き打ち検査って訳か。ますますマスター・ウィザードは却下しないとならねェ、お前と同室なんざ真っ平御免だからな」
 ブラザー・ウェンセスラスは腕を組み、目の前のウィザードを睨みつける。
「それで、昼休みまで大変ご苦労なことだがね、俺のロッカーにはハッパもコークもスピードも入ってねェぞ」
「ハ、ハ! まさか吾輩も思ってやせんよ、君が巻紙にそうした……ブツを、巻いて吸っているなどとは。確かに君の喫煙風景は大変瞑想的と言えるかしれんが、そうではない。先だって諸卿にも説明したのだが、」
「具体的な説明は受けておりませんが」 シスター・クララが冷酷に事実を述べた。
「……説明しなかったような気がせんでもないが、とにかく吾が鼻が嗅ぎつけたのは、君が言うようなものではない」
 胡散臭ささえ感じさせる満面の笑みが、やにわに引っ込んだ。ブラザー・バートラムは口元を引き締め、神妙な、服装に宿る精神そのものと言うべき沈着冷静な軍人の顔になり、琥珀色の目で朋輩を見据えた。
「世界魔術師協会ニューヨーク支部生物管理部長、ウィザード・ベルトラム・ヴァイデンライヒ、吾が心臓と杖と左目にかけて申し渡す。特定魔法生物流出の疑いがある、ロッカーを開けて調査を行わせてくれ」

  * * *

 ブラザー・バートラム・ワイデンライク、または彼の母国語に忠実な発音でベルトラム・ヴァイデンライヒが、ここニューヨーク支部の生物管理部に所属してもう二十年以上にもなる。長に就任したのは比較的最近だが、それ以前から彼はあらゆる魔法生物、とりわけ通常の手法では発見の難しい種の保護・管理に腕を揮ってきた。より正確に言うなら、鼻を揮ってきた。彼が嗅ぎつけるのは、植物の花や服に染み付いたタバコや熟しすぎた果実の匂いばかりではない。普通の人間の嗅覚ではとうてい感じ取れないような臭い、もはや「におい」と呼ぶことができるのかすら怪しいほどの存在さえ、彼の鼻は嗅ぎ取ることができるのだった。彼に言わせれば、あらゆる存在には臭いがある――人間の感情にさえあるというのだから奇怪である。
「管理部長殿のお指図とありゃ仕方ねェな」
 わざとらしく苦々しげな声を作って、ブラザー・ウェンセスラスが言った。 「確かなのか?」
「吾輩の鼻が間違いを犯したことは?」
「お前が今よりもっと下手くそな英語で面接を受けにきて以来、どういう訳だか一度も無かったな、どういう訳だか」
「そうとも、ヴァルター。あと吾は英語の発音が下手なのではない、敢えてこうしているんだ。――吾がカラスたちも確かだと言っている。信用してくれて構わん」
 バン、と景気の良い音を立てて、ロッカーの扉が開く。中にはどこまでも平凡なものしか入っていなかった。ハンガーに掛かった替えのジャケット、通勤用の革鞄、書類入れ、箒の手入れに使う用具、もちろんタバコの葉が入った缶もいくつか積み置かれている。甘いチョコレートのような香りは、きっとタバコについたフレーバーだ。だが不思議なことに、ブラザー・バートラムが言うような、クローブのオイルや炭の臭いなど、全く感じられなかった。私は首をひねりながら彼らに近付き、覗き込んでみた。不思議といえば、ブラザー・ウェンセスラスの服から加齢臭のひとつもしないことが私には不思議である。魔法のタバコには喫煙者の体臭抑制効果も付呪されているのかもしれない。

「ペンドルトン、こちらへ。この中で最も妖精の魔法に長けているのは卿だろう」
 と、ロッカーに頭を突っ込んであれこれ嗅ぎ回っていたブラザー・バートラムが、出し抜けに顔をこちらへ向けた。傍でブラザー・ウェンセスラスが、非常に居心地の悪そうな、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
「妖精ですか?」 私は尋ねた。 「それらしき気配は何もしませんがね」
「いや、探しているのは妖精ではない。ただ力を借りたいというだけだ。真実の姿を見抜くためにな」
「『暴露』の呪文なら――」
「ペンドルトン」
 人差し指が私にさっと突きつけられる。彼の右目は真っ直ぐに私を見ていたが、濁った左目の焦点は合っていなかった。
「卿のいう『暴露』は、むろん吾輩も用いるが、姿を失くしたものを再び白日の下へ晒す術だ。今求めているのはそうではない、逆だ」
「逆?」
「つまり、仮の姿を得て堂々と鎮座している何者かに、本来の姿なき姿へ戻るようけしかける、という訳だ。召喚術師ベシュヴェーラーとしては必修のものではないかね?」
 そこまで聞いて私もやっと合点がいった。私は壁際の備品スタンドから、自分自身のハンノキの杖を取り上げると、再びロッカーの前まで戻った。
「飲み込めましたよ。で、どれです?」
「そのジャケット」 私に向けられていた指が、開いた扉の中へと先端を移動させる。
「お気の毒に。こんな所に吊るして放ったらかしてあるんだから、別にお気に入りとかではないんでしょうがね、損失は損失です」
 それを聞いたブラザー・ウェンセスラスが、なんと不吉なことを言い出すのかとばかり、顔を顰めて私たちのほうを見た。彼にとっては本当にご愁傷様なことだが、れっきとした事実だった。それが今から判明するのだ。私は杖先をジャケットに向け、汎用呪文で用いるのとは違う言葉――この世ならざる世界との境を越える、ふるぶるしい呪言まじないのために口を開いた。
ヨモギとオオバコ、リンゴにカミツレ、鏡の曇りを打ち払うワインよ! 影の紡錘を解くがよい、光はその傍に逗まるな! この地を過ぎ去る者どもに、よすがの糸を与えぬよう!

 空気が微かに震え、ロッカーの底面にかかったジャケットの影が、ふっと吹き飛ばされたように消える。とたん、上着そのものの形も揺らぎ、たちまちのうちに銀色の煙のようなものになって、金属の箱から飛び出した。
「シェイプシフター!?」
大当たりフォルトレファー!」
 シスター・クララが目を丸くし、ブラザー・バートラムは快哉を叫ぶ。シェイプシフター、すなわち定まった姿というものを持たず、生命力や魔力あるものを取り込んでは、それと全く同じ姿に変わって生き続ける魔法生命体である。今回はブラザー・ウェンセスラスのジャケットに、僅かに残っていた魔力がお目当てだったのだろう。もちろんこの変身対象には、より貴重な魔道具や、危機に瀕した生物が選ばれることもある。そうなれば一大事だ。なにしろ魔術師協会という場所は、紛れもなく世界中の魔法の粋を結集したものなのだから。
「おい、ふざけンなよ、それ気に入ってたんだぞ――比較的!」
 犠牲者の遺族は怒りの声を上げ、しかし自らが課していた雑な扱いを多少なりとも省みたのか、後から言い訳のような単語を添えていた。生憎、笑いどころのあまりないコントを続けている暇など我々にはなかった。
「箒を出しますか?」
「いや、必要ない!」
 ブラザー・バートラムが力強く言い切ると同時、彼の両肩から二羽のカラスが飛び立った。シェイプシフターは僅かに光を放ちながら、するするとオフィスの戸を出ていこうとする。存外に速い。だがカラスたちは黒い弾丸のように部屋を突っ切り、攻撃的な声で鳴き交わすと、そのままシェイプシフターに襲いかかった。風切り音と共に黒い翼は羽ばたき、銀色の煙が吹き散らされて動きを鈍らせる。もっとも、これだけでは何も解決しない。遅かれ早かれ、この姿なき怪物は新たな姿を得るだろう。その前に決定打が必要だ――それを打ち出す者は一人しかいない。

照覧あれ! 吾が文字ルーネは我が秘術ルーネを汝に刻みたり!
 黒く染められたトネリコの杖を、ブラザー・バートラムは垂直に振り下ろした。それはただの直線ではなかった。あるいは数字の1でも、ラテン・アルファベットのIでもなかった。彼が古い北の言葉で叫ぶと同時、杖の軌跡が白銀に輝いた。
 瞬間、見渡す限りのあらゆるものが生命活動を止めたように思われた。この場を見守る同僚たちも、カラスも術者も、こうして思考している私自身も。だが、もちろんそれは単なる錯覚に過ぎなかった。シェイプシフターを除いては。
 繊細な刻みガラスの器に罅が入ったような音がした。実際にそんな音を間近で聞いたことがないので、ただのイメージではあるのだが、ともあれ美しくも酷く不安を唆られる響きだった。漂っていた銀色の煙が静止し、もっと白く無味乾燥な色になったかと思えば、重力に従うということを思い出したかの如く、さらさらと地面へ流れて落ちた。一握りの砂を溢したように、廊下のタイルの上に散らばる。
やれやれゴット・ザイ・ダンク! これがあるから厄介な連中だ。最後まで迷惑を掛けてくれる。おいヴァルター、ここ生物用の掃除機は置いてないのか?」
 カラスたちのうち一羽に左手を差し伸べ、新たな止まり木として提供してやりながら、ブラザー・バートラムは大儀そうに言った。
「そんなもん置いてあンのは生物管理部だけだ」
 その様を醒めた目で見ながら言うブラザー・ウェンセスラスは、彼が先程何をしたのかきっと理解しているだろう。私にも大体のところは解る。あの「直線」は確かに文字だったが、同時にブラザー・バートラムが最も得意とする魔術の一つだった。ルーン文字――かつてヨーロッパ北部で広く用いられていた、「刻む」ためのことばだ。それぞれの文字には意味がある。垂直な一本線は「イス」と呼ばれ、象徴するものは「氷」だ。つまり、シェイプシフターの動きを止めるための。
「あれは便利だぞ、執務室の床にシェイプシフターやレッサースライムやショゴスをこぼしてしまった時のために、是非一台備え付けておくがいい。さて――茶を飲むかね?」
「何だって?」
「君の買ってきたプレッツェルを食わねばならんだろうが。物事を成し遂げたときには、お茶かコーヒーを淹れて一息つくものだ。ビールが良いというならそれでも構わんが、流石にここの冷蔵庫にレーベンブロイは入っちゃいなかろうし」
 止まっていたカラスを肩の上に移し、その左手をダブルのコートの懐に突っ込んでごそごそやりながら、ブラザー・バートラムはさも当然とばかり言った。周囲の人間がみな絶句しているのをよそに、取り出したのは掌に収まるほどの小さな、主に魔法生物の捕獲に使われる護符だった。
「ベルト」 長々とした間の後でブラザー・ウェンセスラスが応えた。 「プレッツェルじゃない」
「言ってみただけだ、ヴァルター。君が買ってきたのはミントのハードキャンディだし、そこに至るまでの道程で大型車に排気をしこたま浴びせられたことも、昼食のメニューが上海風ヌードルだということも、昨夜の夜勤上がりに面倒がってシャワーを浴びなかったろうことも吾輩には判るさ」
 両肩にカラスを載せた鼻の権化は、ご機嫌麗しそうな笑みを浮かべながら言うのだった。 「臭うからな」
 そして先刻自身が引いた直線の軌跡に、斜め上からもう一本斜線を足した。赤い光が浮かび上がってシェイプシフターの残滓を包み、護符の中へと引きずり込んだ。「ナウシズ」のルーン。「束縛」。

  * * *

 淹れたてのコーヒーの芳醇な薫りがオフィスを満たし、波乱に満ちた昼休みを締めくくろうとしていた。「芳醇な」というのは実のところ半ば嘘で、ただのインスタントの、それも消費期限の切れかかったものであるから、焦げ臭いような、でも一応コーヒーであると認識できなくもないような、欺瞞に満ちた匂いしかしなかったが。
「だから言ったろう、吾の鼻と吾がカラスたちに誤りはないのだと」
 その、中南米の人々に飲ませたら国辱と取られかねない液体を、ブラザー・バートラムは上機嫌に啜りつつ、ココナッツ・ビスケットをかじっていた。卓上には他にも多少湿気たポップコーンやら、ホワイトチョコレートを挟んだサブレやら、ありあわせの茶菓子が紙皿に盛られた形で置かれている。
「知ってるかベルト、カラスってのはな、鼻が利かねェんだよ」
 ブラザー・ウェンセスラスが悪意の籠もった声で言った。自前のミントキャンディをごりごりと噛み砕きながら。
「知っているともよヴァルター、その代わりに目が良いのだ。吾がカラスたちは、だからこそ伝令と斥候と奇襲に向いている。少なくとも吾の健康なほうの目や、あるいは君の目よりも遥かに役に立っているぞ、その名に恥じずな」
「あ、名前ってさ、もしかして」
 J.Jがポップコーンを遠慮なく掴み取り、口に放り込む寸前で言った。 「知ってるかも、フギンとムニンでしょ?」
 聞いた私は僅かに目を瞬いた。北欧神話の主神オーディンが、まさに伝令として連れていた二羽のカラスの名である。そういえばオーディンはルーン文字の秘密を知る者でもあるのだったか――しかし君に神話学の知識があるとはね、と言いかけて私はやめた。彼は多分、神話というよりは「マイティ・ソー」の話をしている。
「おや、博識だな、イェローム。その名は実に、実にカラスに贈るのに相応しい。だけど違う」
「違うの?」
「フレディとジェイソンだ」
「なんでさ!?」
 古き時代のヨーロッパへの、ノスタルジー溢れる想像を、しかし当の飼い主はやはり一息にぶち壊し、紙皿の上からドライフルーツを数粒取り上げた。肩の上のカラス(それがフレディのほうなのかジェイソンのほうなのかは見当もつかない)が嘴を向けて、ポップコーン同様に湿気かけているそれを啄む。
「何故とは何故だ、吾輩だってアメリカ人だぞ。『エルム街の悪夢』と『13日の金曜日』ぐらい教養のうちだ。なあフレディ……痛、こらやめんかフレディ、じゃない、お前はジェイソン――痛い!」
 彼は変わらぬ笑顔で一羽のカラスをあやし、喉のあたりを指で撫でていたが、不意に短く悲鳴を上げた。かと思えば、ドライフルーツを食べ尽くしたカラスは首をもたげ、今度は主人の鼻を、見た目だけなら別に美味しそうでも何でもない平凡な鼻を突き回し始めたのである。
「解った、解ったジェイソン、いや、ジェイソンが不満か! やはりイアソンと発音しなければ駄目か――やめろフレディ、お前もフリードリヒのほうが良いのか! 痛い痛いそういう問題じゃないと言いたいのか、だがフギンとムニンはな! それはいかんのだ! 戻ってこなくなったらどうするのだ!」

 今やもう一羽も主人の鼻に対する攻撃に参加し、ブラザー・バートラムは顔の中央付近を両手で必死に庇いながら、てんで的外れなことを叫んでいた。それを横目で見るブラザー・ウェンセスラスの、「溜飲が下がる」という言葉の見本にしたいぐらいの良い顔といったら!
 クレオパトラの鼻がもう少し短かったら、大地の全表面は様変わりしていただろう。だが生憎と我々はクレオパトラではないので、鼻ごときで歴史を変えることはできない。ブラザー・バートラムの鼻がもう少し短かったとしても、恐らく使い魔のカラスたちから攻撃される面積が減るだけである。そして、それが彼にとって幸福なことなのかは私には解らない。

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