「海に」 虚空を眺めながらJ.Jがぼやいた。 「海に行きたいなあ」

46インチの海 -Pour Cold Water On-

 もちろん視線の先には海どころか、海を写したポスターの一枚もなく、白い天井があるばかりだ。隅のあたりに染み付いた雨漏りの跡が、彼の言葉に物悲しさを付け足していた。
「行きゃあ良いじゃねェか」
 たっぷりとした沈黙の後、最初に口を開いたのは我らがチーフことブラザー・ウェンセスラスだった。彼は白髪交じりの黒い頭を振り、窓の外を顎でしゃくると、酷くぞんざいな調子で言った。
「お前が今どこに居ると思ってんだ。マンハッタン島だぞ。行きたきゃメトロで30分だ」
 至極正論であった。確かにそうだ、ここはマンハッタン、ミッドタウン・イーストにある世界魔術師協会ニューヨーク支部である。広大な合衆国のこと、ニューヨークといっても広いものだが、我々がいるのは間違いなく海のすぐそば。バッテリー・パークで潮風に吹かれるも、遊覧フェリーに乗り込み自由の女神を臨むクルーズに出掛けるも、沖合のガバナーズ島でカモメ達と弁当を取り合うも思いのままだ。

 だが、J.Jが言いたかったのはそういうことではないらしい。彼は自分の椅子から跳ねるように飛び起き、隣のデスクへと身を乗り出した。いつになく切実な顔で。
「そうじゃなくてさ! ――そういうことじゃなくてさ、海に! いや、つまりただseaってのじゃなくて、浜辺beachとか、大海原oceanみたいな! あるじゃないか、こう、『心の底から海』っていうような」
「週末にロングアイランドにでも行ってこいよ」
 対するブラザー・ウェンセスラスはただ淡々としていた。夜勤明けの黒い目には光がない。 「溺れられるぞ、人に」
「せいぜい車で一時間じゃないか! 僕が言いたいのはそんな、ボーイスカウトが夏休みにキャンプ行くみたいなことじゃ――」
「じゃあ何か、マイアミか? ケープコッドか? ハワイの何処かか? 現状のお前じゃ、手持ちの時間と資金を考えてもそれ以上は望めねェと思うがな」
「そういう悲しいことは言わないでよチーフ! 確かに箒用の貯金でカツカツなんだけどさ……!」
 絞り出すような声が、今時の21歳の金銭事情を物語る。我々は箒乗り部隊であり、箒から離れては商売にならず、そして箒と共に生きるのは存外金が掛かるのである。そのくせ自分の飛びたいときに飛ぶことは許されない。ニューヨーク州の市街地上空は全域で許可なき飛行が禁止されており、我々に飛行の許可が降りるということは即ち有事ということだ。
 私は朝食――昨晩デリで割引になっていたビーツのサラダと、焼きすぎの感があるテイクアウトのベーコンエッグ・サンドイッチと、既に氷が溶け切っている薄いカフェラテ――に視線を戻しつつ、自分がかつて住んでいた数々の都市について思いを馳せた。マイアミには数年の間いたことがあるが、あまり明るく楽しく開放的な思い出はない。そもそも私は暑いのが苦手だし、当時は保養地になるような高級住宅街になど住んでいなかったし、ビーチまで泳ぎに行く暇もなかった。付け加えるなら、人生で三度目の銃で撃たれるという経験もこの地でのことだった。何故明るく楽しく開放的なイメージなど抱けようか。むしろ何故今の私にはマイアミに対する嫌悪感が無いのか。我ながら不思議である。

 大西洋の如くとまでは言わないが、まあハドソン湾ぐらいの寛大さはある私の心中など知る由もなく、海に行きたい21歳は海に行けない現実について嘆き続けていた。海に対する関心が全くない四十路男は、シスター・クララが差し入れてくれたベーグルを死んだような目で咀嚼し続けている。
「ねえチーフ、海に行こうよお。いや、チーフと二人っきりで海ってのはあまりにも絵面がアレだから、シスター・クララとかヨシノさんとかも誘ってさあ」
「断る」 ばっさりとした答えが返った。 「最高気温が華氏90度を超える時点で俺の生存圏外だ」
「ニューヨークもボストンも真夏には時々超えるでしょ!? そんな融点の低いこと言わないでよ!」
「やかましい。大体俺が海なんぞ行ったところで得るもんは何もねェんだよ。行きたきゃ俺は抜きで行け」
 ブラザー・ウェンセスラスはそう言い捨てると、手元にあったプラスチックカップの中身を一息に飲み干した。中身は多分アイスティーか何かだったと思う。それを横目にしながら、私は何故J.Jがそんなにもブラザーを連れて行きたいのか考えてみたが、特に考え込むまでもなく答えは明らかだった。要するに彼の持つ車とバーベキュー用品、それに財布と女性への人脈をアテにしているのだ。
「そんなあ、チーフが来なくちゃ僕らのチームじゃないじゃないか! ねえ、代わりに今度チーフにも付き合ってあげるからさあ!」
「それもやっぱり俺の得るもんが無ェじゃねえかよ、――」
 不機嫌さを全面に出していた低い声が、はたと途切れた。私は手元からちらりと視線を上げ、彼の顔を見た。表情はほとんど変わっていなかったが、私には解る。あれは間違いなく良からぬことを、それも己のフラストレーションを発散するためだけに他者を苦しめる最上の方法を見出したときの顔だ。
「――付き合う? 俺の何らかの趣味に?」
「そう、……あ、いや、もちろん一応事前に何をするのか相談して貰えればいいなと思うんだけど、まあその」
 J.Jも流石に何かを察したのか、急に語調が弱々しくなる。が、次に述べられたブラザー・ウェンセスラスの「趣味」は、私が想像していたよりは随分と穏便なものだった。
「映画鑑賞」
 そう、少なくとも響きだけは穏便だ。 「イリーの奴が出張でな、今週末はシアトルだと」
「なんだ、それぐらいなら喜んで! 任せてよ、リアクションしろっていうならリアクションするし、黙ってろって言われたらずっと黙ってるよ、ポップコーン食べながら……いや、映画館じゃなくて家でか。何かお酒とおつまみでも持って行こうか?」
「好きにしろ。言っとくが長丁場だからな、本来は徹夜の予定だった」
「チーフ、21歳のタフネスを甘く見ちゃ駄目だよ、そういうのは今の年齢じゃなきゃできないってのはさんざん言われてるよ。で、なにを見るの? 新作? それともチーフの好みから考えて――昔のアクション映画とか?」
 特に危険もなく済みそうだと判ったとたん、体力自慢の20代は調子に乗り始めた。これは別に若者だからという訳ではなく、恐らくは彼自身が生来持つ悪癖の一つである。私はそっと目を反らして、パンからはみ出したベーコンの端っこを齧った。やはり焼きすぎの感がある。食感が「かりかり」ではなく「がりがり」だ。
 ブラザー・ウェンセスラスは――そうだな、と先ず相槌を打ち、後にこう口を開いた。

「まず最初に、『ジョーズ』と『ディープ・ブルー』を見る」
「うん、……うん?」
 にこやかに頷いていたJ.Jの表情が、一拍置いて引き攣った。このあたりは映画好きでなくとも理解できる――挙げられたのは二本ともサメ映画である。
「次に『シャークネード』だな。続編も含めてだ。それから『ジュラシック・シャーク』、『シャークトパス』、『アトミック・シャーク』、『ダブルヘッド・ジョーズ』、あと――」
「いや待って? 待ってチーフ、その、……僕はさあ、そういうB…というかZ級…というか、その手の映画に喜んで飛びつく趣味は無いかなあって、思うんだけど、どうかなあ」
「何言ってンだ」
 四十路男の目はいたって真剣だった。 「『ジョーズ』と『ディープ・ブルー』は名作だぞ」
「いや解る、解るよ、確かにその二本はクソ映画じゃないよ。だけど」
「『シャークネード』も名作のうちだろ」
「えっ、……いや知らない映画なんだけどね、その後のもみんな聞き覚えがないんだけど、でもタイトルの響きだけでもう大体察しがつくっていうか、とりあえずさあ、なんでサメ映画ばっかりなのさ! 海に行きたいっていう話の直後に!」
「スプラッタ系モンスターパニックは嫌いか? なら『タイタニック』と『U・ボート』と『眼下の敵』に変えてやンよ」
「そういう問題じゃなくて! それ絶対ただの嫌がらせだよね僕に対する! どうしてチーフはそう、なんか何もかも沈めたがるんだい、海はそこまで悲劇的な場所じゃないよ!」
 年嵩の魔術師が次々勧める、海にまつわる恐怖映画(個人的感想では『眼下の敵』はそうでもない気がするが)に、J.Jが情けない悲鳴を上げる。彼も別にパニックホラーの類が嫌いではないはずだが、いくらなんでも悪意の特盛りに意気が挫けかけていると見える。
「うるせェな、俺を誰だと思ってやがる。俺に限らずそこのちび助もそうだが、俺たちは史実のタイタニックもUボートも、ニュージャージー州のサメ襲撃多発事件もリアルタイムの世代なンだよ。やれ海といえばリゾートだのバカンスだの脳天気に考えられるほど常夏の頭はしてねェんだ、解ったか精神的チビ」
「えっ何それ僕が責められるべき立場なの――じゃなくて、そりゃ確かにチーフやアイザックは100年とか200年とか前の人かもしれないけどさあ、でも別に直接被害とかトラウマ受けてるわけじゃないんでしょ!? お門違いだよそれは!」
 辛うじて20世紀生まれの若い魔法使いは、先輩からの圧力に抗議の声を上げる。実際、ブラザー・ウェンセスラスがどの程度海に対して悪感情を抱いているのか我々は知らない。彼が海に行きたくないのは、恐らく単に暑いところに出たくないだけだと思うが、万が一がないとも限らない。実際、私だってタイタニック号との縁こそないが、ルシタニア号のほうに友人が乗っていて死んだという因果ぐらいはある。世の中どこで歴史的イベントに関わりがあるかは解らないのだ。
「はン、そうか、どうしても嫌か。そんなに夢と魔法のファンタジーがお好みなら、『リトル・マーメイド』の2と3も付けといてやるよ」
「なんでよりにもよって続編のほうなの!? それは普通に無印のほうを推しとこうよ!」
 やさぐれた自称120歳の映画チョイスは留まるところを知らない。とうとう天下のディズニーまで引き合いに出し始めた。
「黙れジョニー・ボーイ。お前に何が解るンだ。たまにはアニメ映画でも見て失われた子供時代を取り戻そうと思ったら、いつの間にか隣に三十路のロシア人が座ってオクターブ下の『パート・オブ・ユア・ワールド』を歌いだす経験がな、お前にはあるッてのか、ああ?」
「あっごめんそっちにはリアルにトラウマ持ちだったんだね!? 確かにちょっとキツいねブラザー・イリヤのディズニープリンセスは!?」
 J.Jの声が多少同情的になった。私は以前その三十路のロシア人こと、ブラザー・ウェンセスラスの同居人ブラザー・イリヤ・ミハイロヴィチが歌う「生まれてはじめて」を聞いたことがあるが――率直に言おう、そこまで悪くはなかった。実際彼はミュージカル俳優を目指していたような男なので、問題なく美声であるし演技力もあるのだ。まあ、それにしたって何故オラフやクリストフのほうにしなかったのかという疑問は残るが。

「ブラザー・アイザックは」
 そのとき愛らしい声がした。これらの喧騒を今の今まで全く気に留めていなかったはずのシスター・クララが、私を振り返って言ったのだ。
「海には行きたいのですか?」
「さあ、別に。せいぜい釣りぐらいなら久々にやりたいとも思えるけど」
「『老人と海』が必要か、ちび助?」
 どうしても海に行きたくないブラザー・ウェンセスラスは、J.Jとやり合いながらもちゃんとこちらの話まで聞いていたらしい。顔は向けないままに、野次めいた一言が投げられた。
「結構ですよ、ブラザー」 私は答えた。 「それに、ヘミングウェイなら闘牛の話のほうが好きだ」
 返ってきたのは小さな、ふんと鼻を鳴らす音だけだった。彼の表情は見なかったが、その響きは人を小馬鹿にしたようなものでなく、どこか満足げな笑みを含んでいた。

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