「僕は嘆かずにはいられないんだよ。この季節が持つ無常さ、みたいなものを」

バカンスの終わり -Rest of Your Rest-

 大柄で童顔で日来無邪気で活動的な、動物に例えるなら九分九厘大型犬といった風情の同僚がそう言い出したものだから、私はもう少しでチリ風味のスモークサーモンを吹き出すところだった。慌てて堪えたら辛いソースが鼻のあたりまでせり上がり、大層痛い思いをした。
「何を言い出すかと思えば、J.J」
 ナプキンで目尻を抑えながら私は言った。 「店の空気にあてられておかしくなったんじゃあないだろうね」
 確かにこのバーはダウンタウンの喧騒とは無縁であり、内装はモノトーンで小洒落ていて、飲酒が許可されて一年にもならない若者が普段使いするような空気ではない。この後輩を私の縄張りまで引っ張ってくることになったのは、何のことはない、「雰囲気に浸りながら静かに飲めるような店を知っていたら教えてほしい」という、本人からの要請があったからだった。ハードボイルド映画でも見て露骨に影響されたのかと思いきや、どうもそうではないらしい。
「違うよ、アイザック。僕は本気でそう思ってるんだ、……蒸し暑くてぎらぎらした夏が段々終わりに近付いていくと、まるで夢から覚めちゃうというか、大事なものが溶けてなくなっていくみたいな気分になるって」
 彼は言って、手元のカクテルグラスを傾け――たいと本人は思っているのだろうが、実際のところ持ち上げては下ろし、口元に近づけてはまた逡巡するように戻し、という間抜けな動作を繰り返していた。三角形の器の中身は、透明な液体とグリーンオリーブ一粒。マティーニである。そりゃあ呑みなれていない人間にとっては容易い味ではない。彼は形から入るタイプなのだ。
「持って回った言い方をするけどね、要するに君の嘆きはもっと単純で、夏季休暇があと二日で終わるのが嫌で嫌でしょうがないってことだろう?」

 途端、形だけでも大人の男を気取ろうとしていた現代アメリカの若者は、そのいかにも学生らしい顔をくしゃくしゃに歪め、辺りを憚ることなく声を上げた。
「そうだよ! ねえアイザック、こんなに悲しいことってないよ、あと二日――あとたった二日で夏休みが終わっちゃうんだよ! 僕にはまだやり残したことが山ほどあるのに!」
「ああ、残念だね」
 私は静かに息を吐き、未だ鼻先にひりひりと残る辛味から逃れるべく、自分のグラスを取って喉にエールを流し込んだ。爽やかな、いかにも夏らしい香りがする。
「ただ、どれだけ足掻こうとも我々に許された休暇は最長で二週間なんだよ。まして実働部隊なんてのは、そもそもまとまった休みが取れること自体奇跡みたいなものだ。私だって今年の夏はいくらかカットになった」
「そりゃそうかもしれないけど、でも、それでもやっぱり短いよ二週間なんて!」
「J.J、君はもう学生じゃなくて社会人だ。それもニューヨークの治安を守る立場なんだよ、市警本部ほど多忙ではないにせよ。悪い魔法使いは我々の年間休暇日数なんか考慮してくれないからね」
「すっごく悪いなあ!」 J.Jが嘆息した。 「悪い魔法使いもたまには休めばいいのに!」
「悪い魔法使いも休暇を取った結果ハッスルしてるのかもしれないだろ」
「ああ、そっかあ。つらいなあ、もっと世の中の人たちがみんな心安らかになればいいのに。小学生の頃とかを思い出してさ」
「君は小学生の頃、今よりもっと心安らかだったの?」
 私が訊くと、彼はカクテルグラスを緩慢に回しながら(ワインやブランデーでもないのにそんなことをする必要はないのだが)、ぼんやりと天井のランプを仰ぎ見た。
「心安らかっていうか、どうだろ、でも思いやりのある子だってみんなには言われてたよ。ちょうど――そう、何年生のときだったか、『もし自分が大統領だったらどんなことをしたいか』、ってテーマで作文の宿題があってね」
「ありそうな話だ。それで?」
「『僕が大統領になったら、学校のお休みを増やします。子供は夏のあいだ三ヶ月、先生たちは二ヶ月休めるようにします』って書いて、ホームルームの先生を感激させた覚えがあるよ」
「そりゃあ良いことだ」
 グラスに半分ほど残っていたエールを飲み干し、私は笑った。
「きっと君の小学校の先生たちは、14年後に君が大統領選に出馬しないか楽しみにしているだろうね」
「かもね。逆に中学校の先生は、ぼくが政治家じゃなく魔法使いの道を選んでほっとしてると思うよ」
 社会のテストはいつもC-だったもの、とJ.Jが肩を竦めた。

「まあ、人間には得意不得意があるから仕方がない。君は中学時代からチェスが得意だったけれど、社会科の勉強は不得意で、たぶんその頃から夏休みを上手に消化するのも不得意だったんだろうと思うよ」
「ひどいなアイザック! そのとおりだよ! ……アイザックもさあ、若いころ、いや今でも見た目は十分若いと思うけど、あのころみたいに長いお休みが取りたいな、みたいなこと考えたりしない?」
「あの頃みたいに、ねえ」
 二杯目を何にするか思案しながら、私は短く答えた。 「1929年の話とかをすればいい?」
「あっ、……いや、別にいい、その数字でなんとなく察しがついたからいい」
「ふうん? ニューヨーク市民の誰もが長い長いお休みを貰えたころの話なんだけどね、それでも聞きたくない?」
「長いお休みっていうかそれ要するに失業してたってことだよね!? 世界恐慌の年じゃん!」
 カクテルグラスの脚を握り潰さんばかりの勢いでJ.Jが叫ぶ。若い女性のバーテンダーがぎょっとしたようにこちらを見たので、私は「やかましくしてごめんなさいね」と言うつもりで目配せした。
「なんだ、社会科C-にしちゃあよく覚えてるじゃあないか。感心感心。――『古き良き』時代はずっと見てきたけれど、それでもやっぱり現代のほうが良いよ。遥かにマシだ。たとえ副業のワインレストラン勤務に夏じゅう休みがなくても今のほうがいい」
 そして私は更に、彼の手元の「古き良き」カクテルに視線を移す。 「飲まないの、マティーニ?」
「う、ええとその、アイザックはどうするの? 次のドリンクは?」
「さて、どうしようかな。何かカクテルを頼んでもいいし、ウイスキーでもいいし、……君が持て余しているというなら、そのマティーニを買い取ってもいい」
「……あー、うーんと、お願いしてもいいでしょうかブラザー・アイザック」
「勿論だとも」
 最初の一口を済ませたきり中身を消費されていない、華奢なグラスを私は掠め取る。この店のマティーニは比較的辛口ドライだ。私もそこまで辛口の酒が好きなわけではないけれど、少なくとも呑めないほどではないし嫌ってもいない。最後にオリーブぐらいは彼にくれてやってもいいか、と考えながら呷る、――ジンの強い香味が広がる。ちょっと微温くなっていた。

「アイザック、……でもさあ、僕はやっぱりちょっと寂しいよ。夏が終わるのがいやだなあ」
「ニューヨークの夏なんて暑いばっかりじゃあないか。私は10月ごろのシティが一番好きだけれど」
「そうかもしれないけど、でも他の季節と比べると、――たとえばクリスマス休暇の終わりよりも、夏休みの終わりのほうがずっと寂しい。なんでだろうね、だんだん涼しくなっていくのは僕だって嬉しいはずなのに」
 マティーニたった一口でそこまで悪酔いするとは思えないが、J.Jはバーカウンターに肘をつきながら、明らかに普段と違う、なにやら感傷的なことを口にしている。同意はしないでもない、確かに夏の終わりは春や冬の終わりに比べて閑散としている――寂寥感がある。盛りの時を過ぎて、あとはひたすらに暮れてゆくばかり、という感覚がそうさせるのかもしれない。
「J.J、それで他に何か飲む気はある? 水を頼んでもいいけど」
「どうしようかなあ。時間はあるしおつまみも残ってるし飲んでもいいかなあ、それに明日はまだお休みだし。明日はまだお休みだし」
 まだ二日残っている、という事実にしがみつくようにJ.Jは答えた。私は微笑ましいやら呆れるやら、なんだか生ぬるい笑みを浮かべてそれを見た。そして、一番手近にいたバーテンダーに軽く合図して、小声でオーダーを告げた。
 程なくしてそれは運ばれてきた。マティーニグラスよりもう少し背の高い、ほっそりした器に注がれているのは、目にも鮮やかな水色の液体だ。ほんのりオレンジの香りを立ち上らせるそれは、私ではなくJ.Jの前にそっと差し出された。
「あれ? ――アイザックのじゃないの?」
「君のだよ、J.J」
「え? 頼んでないよ?」
「私が頼んだ。君のマティーニを飲んでしまったから」
 どうぞ、と手で促す私に、彼は困惑したような、何かの罠なんじゃあないかと疑うような視線を向けたが、じきにグラスを取って一口飲んだ。と、見る間に口元が綻び、憂鬱そうな背筋がすっと伸びた。
「これ、良いかも、いける味がする。わりと強めだと思うんだけど、さっぱりして良い香りがして」
「好きそうかと思ってね。君はマティーニより、こういうものを飲んでいたほうが楽しめると思うよ」
「あー、ええと、まあ」 ばつの悪そうな笑み。 「なんて名前なの、これ?」
「ブルー・マンデー」
 私が答えると、J.Jはぐう、と喉の奥から嫌そうな声を漏らした。彼の心中を的確に言い表したような名前だったからだろう。
落ちてる・・・・ときに酒を頼みにするのはあんまり良いことではないんだけどね、一杯ぐらいなら悪くはない。一瞬でも頭が冴える感じがするだろ」
「うん、今のところ。家に帰るころにはなんか、飲む前よりずっとふわふわしそうだけど」
「それだから良いんだよ。美味しくて、いい具合に頭の中が整理されて、すんなり寝付ける。――私の奢りにしといてあげるから、月曜日にはちゃんと時間どおりに出ておいで、J.J」

 こうして私は金曜の夜を比較的いい話として終わらせようとした。J.Jも先輩の心遣いに一応は感謝したようだった。が、空になったカクテルグラスを手にしながら、彼はまだ何か物言いたげに私を見ている。
「あのさあ、アイザック……」
「何か?」
「その、月曜日なんだけどね、協会の制度を利用してちょっとこう……僕の自由時間を作ってもらうわけにはいかないのかなあ」
 私は一瞬何のことだか判らず、チリ・サーモンの皿に手を伸ばしかけたまま固まった。数秒の後、私は再度先程のバーテンダーを呼び止めて、自分のための注文を通した。彼は優雅な手つきでシェイカーに氷を入れ、深い紫色のリキュールを注ぎ、軽快な音を立てて私のためのカクテルを組み上げた。
 差し出されたのは、まろやかな青紫の光を放つ、スミレの香りの一杯だった。カットガラスの反射が華やかな香りをますます引き立てているようだった。
「あ、綺麗だねそれ。そっちはなんていうの?」
「ブルー・ムーン。……知っているかな、『once in the blue moon』という言い回し」
「いや、えーっと、聞いたことないかも。で、意味は?」
 興味津々で覗き込んでくる後輩に、私は単簡に述べた。 「『まず有り得ないこと』」

「……えっ、ああ、えっ、なんで!? もしかしなくても僕のことだよね、えっ、どうして!?」
「要するに、もう一日夏休みを延長できないかと言いたいんだろうけどねJ.J、君は今年度の有給をみんな使ってしまっているだろう。何だったか、ニンテンドーのゲームが発売されたんで二日、とか、サンディエゴ・コミコンに全日程参加するんで四日、とか。休暇を消化しきれないのもそれはそれで問題だけれど、後先考えずみんな使い切ってしまうのもどうかな、下半期も残ってるっていうのに」
 恐らく自分自身の辞書に「計画性」とか「長期的視野」等といった単語の載っていないであろう後輩を、私は嘆息しながら見た。J.Jは再びバーカウンターに両肘をつき、否、いっそ突っ伏しかねない勢いで、嘆きの言葉を述べ始めた。
「だって、仕方ないじゃないかそれはもう、楽しまないって選択肢がないんだから! ああアイザック、やっぱり嫌だよ、夏休みがあと二日しかないなんて……!」
 そう言われても、世界魔術師協会ニューヨーク支部の職員に対し、取得できる休暇の日数を定めるのは私ではない。そんな権力を手にしていたら、私だって自分の夏季休暇をもうあと一週間ぐらい多めに設定したはずだ。私は悲嘆にくれる後輩の肩をそっと叩き、先輩として最低限の心配りをしてやることにした。「次は『長いお別れギムレット』にでもする?」

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