朝食抜きで仕事に臨むのは、私の場合ある意味理に適っているのかもしれない。

サラダボウルの底から -You Are What You Eat-

 なぜなら箒に酔って吐く心配がないからだ――というのは無論ただの冗談で、実際のところ箒での戦闘機動には多量のエネルギーを必要とするため、仕事の前には腹ごしらえをしておくに越したことはない。だのに今朝は4時ごろ緊急通報で叩き起こされ、とても食べ物を胃袋に入れる余裕など無かったばかりか、昨晩は副業のレストラン勤務が遅上がりで寝不足、それに加えて空は風が強いという三重苦のフライトだった。それでも、現代のニューヨークに生きる箒乗りとしては、摩天楼の夜景(午前4時でも十分に夜景は夜景である)を眼下に飛行する機会など願ってもみないもので、この事態を引き起こした野良のガーゴイルに、私は内心感謝さえしていた。それも死傷者が出なかったから言えることだが。

 事が済むまでには約1時間半を要した。備品係に短いほうの杖を引き渡し、改めて降り立った地上を眺めてみると、真っ暗である。夏時間こそまだ終わっていないが、カレンダー上ではとっくに晩秋、11月だ。日の出は相応に遅くなっている。この時刻では、普段朝食を買うのに利用しているデリも軒並み開店前だ。待ってもいいが、とにかく今は何か味のあるものを口にしたかった。贅沢を言うなら、温かくて噛みごたえのあるものならなお良い。
 こんな時頼りになるのは24時間営業のダイナーというやつで、私の行きつけの店は2番街の東50丁目、ちょうど地下鉄の出口近くにある。見た目に小洒落てはいないし、お世辞にも入りやすいとは言えない店だが、中は清潔で食べ物が安く、早く出てくる――そういう「古き良き」アメリカの食堂だ。現在地から歩いて20分ほど。冷たい風に晒されながら歩くにも、耐えられないような距離ではなかった。
 少しずつ車通りの増え始めているレキシントン街を進み、すっかり馴染みになったガラス戸に辿り着く。「空調完備Air Conditioned」とか「トイレ・電話ありますRestroom and Telephone」なんてサインが掲げてあるところが、開業当時を偲ばせる良いアクセントだ。多少建て付けの悪いこの扉を、金属のノブに力を込めて引き開ければ、暖められた空気が波のように押し寄せて私を包んだ。

「やあ、ペンドルトンさん。おはようございます」
 白一色のカウンターを磨いていた若い店員が、朗らかに声を掛けてくる。店内はソファ席にこそ人がいるものの、背もたれのないカウンター席は空っぽだ。これがあと一時間もすれば、座って食べるのに難儀するほどの混雑ぶりを見せるのだが。
「おはよう、ジョッシュ。早朝シフトお疲れ」
「ペンドルトンさんこそ。これから早番ですか」
「それが今終わったところでね」 箒をカウンターに立て掛け、スツールに腰を下ろしながら私は応える。
「出勤してくる時に、ミッドタウンのあちこち通行規制だったろう」
「はい、事情までは聞きませんでしたけど」
「魔法生物騒ぎ。で、緊急通報があって私が呼ばれて、さっき片付いてこれから朝食と」
「お気の毒に」
 大学に通いながら早朝アルバイトをしている彼は、心から気の毒そうに私のことを見ていた。私が半分ぐらい「空を飛べたのでまあ良かった」だとか考えているなど思いもよらないだろう。
「しっかりエネルギー補給しないとですね。いつもので良いすか」
「うーん」
 卓上のスタンドから、メニューを手繰り寄せつつ考える。ここで「うん」と頷いてしまえば、彼は問題なく厨房に私の「いつもの」オーダーを伝え、結果として卵2個にトマトとピーマンの入ったオムレツ、フレンチフライ、トーストそしてカリカリに焼かれたベーコンのセットが出てくるだろう。私が愛してやまない――というのは誇張表現としても、この店と馴染みになりかけた頃からずっと食べ続けている、お気に入りの料理にありつけるに違いない。

「……いや、オムレツはオムレツだけど、トマトの代わりにサルサ入れて貰ってもいいかな。ペッパージャック・チーズも。あとは普通にピーマンで、フライとトースト添えて」
「そうなると、いつものお代より、えーっと2ドル10セント高くなりますね」
「うん、それで付け合せのベーコン、ハッシュドビーフに変えられたらと」
「そちらも追加料金2ドルかかりますけど」
 つまり合計で「いつもの」より4ドル10セント増というわけだ。それでいいよと私が頷けば、ジョッシュもにこやかにオーダーを復唱する。
「いいチョイスですよね、サルサオムレツ。それにハッシュもつけて」
「ぴりっとしたものが食べたくなったから。寝不足のときはこういうのが……いや、寝起きの胃袋にはちょっと重い気もするけどね、後は気合だよ」
 気持ちの良い目覚めとはいかなかったが、せっかく予定外の幸運から始まった朝だ。今日はささやかな贅沢を積極的に選んでゆく日にするのも悪くないだろう。そんなことを考えながら、私はチップを含めた代金を支払い、受け取ったジョッシュは声も高らかに厨房へ向け注文を通した。

 と、一拍置いてからカウンターの奥、厨房に繋がる金属の戸が両側へ開いて、白いエプロンを着けたキッチンスタッフが顔を出す。何事か、と私が思った時にはジョッシュもとうに気付いており、失礼、と言い置いてから傍を離れてそちらへ向かった。二人は小さな声で、業務上の話をしているようだった――やがて片方は厨房へと引っ込み、ジョッシュは大変すまなさそうな顔をしながら私の元へ戻ってくる。
「その、本当に申し訳ないんですけど、ペンドルトンさん」
「何かあったの?」
「オムレツのサルサ、今ちょうど切らしたとこだったみたいで。僕の確認ミスで、本当すみません」
 おやおや、と言葉を漏らしてしまったのは失態だったかもしれない。彼らを責める気はないのだ。完全にサルサの口になっていました、というほどではないし、そうだとしても店側にクレームを付けたところで今すぐサルサが出てくるわけでもない。
 珍しく平身低頭する(前にもこの手のミスをやらかしたのだろうか)ジョッシュに、私は気にしないでくれとフォローを入れにかかった。オムレツの具は「いつもの」トマトに変更だ。スパイスの効いたチーズが入って、サイドにハッシュドビーフがつくだけでも、贅沢としては十分すぎるぐらいだろう。私の心は大西洋とまでは行かないが、まあハドソン湾ぐらいには広いのである。

  * * *

 炊飯器を開ければ立ち上る湯気に、空っぽの胃がきゅうと鳴き声を上げる。
 炊きたての白いごはん、小鍋の中には豆腐の味噌汁、鮭の塩焼き、青菜のおひたし、そして梅干しと暖かいお茶。全世界どこに出しても恥じることのない「日本の朝食」――を、アメリカはニューヨークの住宅街で取るのも、今やさほど風変わりなことではない。
 ブルックリン区にある小さなアパートの一室に越してくる前、彼女――ヨシノ・シンドウの懸念といえば、最愛の日本食をいかにして確保するかの一点だった。いくらスシ・ブームが話題となって久しいとはいえ、未だ和食といえば「敷居が高くて健康的すぎるアジア料理」という位置づけのはず、美味しく手頃な値段の食事とはいくまいと不安を抱えたままの渡米だったのである。
 蓋を開けてみれば、ニューヨークのいわゆる「シティ」圏内なら、どの地区であろうと日系のスーパーマーケットが一軒はあるし、かなり本格的な品揃えの店も多い。さすがに東京と同等の物価ではないけれど、「マルコメ」と「キッコーマン」、「コシヒカリ」や「ウメボシ」を取り揃えるのに些かの苦労も要しなかった。彼女は拍子抜けし、同時に深く安堵し、その後は十年以上にわたって毎朝のように、古き良き故郷の味を楽しんでいる次第だ。

 朝のニュースがパーク街でのガーゴイル騒動を伝える中、思い出されるのは昨晩のこと。業務上必要が生じたので、久々に世界魔術師協会の東京支部へ電話をかけてみたら、目的の人物が休みだったのだ。おや平日なのにどうしたのかと思ったら、電話口の職員が言った。「いや進藤さん、今日はほら、文化の日じゃないですか」
 そうだ、日本では11月3日といえば祝日なのだった。――じゃあどうしてあなたは出勤しているのですか、などとは訊くほうが野暮というもので、魔術師協会にカレンダー通りの休みなど存在しない。まして書記局が協会屈指の激務であるというのはニューヨーク支部も東京支部も同じこと。自分だってアメリカ独立記念日インディペンデンス・デイ勤労感謝の日レイバーズ・デイに仕事をしていたし、次の祝日である退役軍人記念日ベテランズ・デイにも、恐らく朝から出勤することになるだろう。
 ほんのすこし憂鬱に傾きかけた思考を、頭を振って引き戻す。空腹は心身の大敵だ。腹が減っては戦はできぬ。それに英語でも言うではないか、「食べ物が入れば、怒りは出ていくWhen meat is in, anger is out」と。

 耳をすませば天気予報の向こうに、ベランダで鳩が鳴いているのが聞こえる。もうすこし時間が経てば猫も来るだろうが、その頃には自分はもう出勤だ。11月3日のニューヨークは晴れときどき曇り、久々に最高気温が華氏70度(つまり、馴染みの摂氏でいう21℃)を超える見込みだ。このところ冷え込みが続いていたが、これならコートも必要ないだろう。
 木椀に注がれた味噌汁から、身体に染み渡るような香りが漂ってくる。準備は万端。あとは静かに卓に着き、変わりのない朝の儀式を執り行うだけだ――両手を合わせて、「いただきます」。

  * * *

 世界魔術師協会ニューヨーク支部で最も国際色豊かなチームはどこかと訊かれたら、大抵の支部職員は書記局の文献チームか、僕たちチーム・アレクサを挙げるんじゃないだろうか。
 支部に所属する実働部隊の中でも、最も機動力による即応性が高いのが箒乗りスイーパー部隊。シティを中心として、方面ごとにいくつも分隊はあるけれど、チーム・アレクサは基本的に、州内の有事に対応することはない。ここは教育隊、つまり僕たちみたいなひよっこ箒乗りを一人前の実働隊員に鍛え上げるための場所だからだ。支部には合衆国中、ひいては世界中から箒のプロフェッショナルを夢見る魔法使いが集まるけれど、そうした新米たちはまず教育隊に放り込まれて、箒乗りの何たるかを文字通りみっちりと「教育」されることになる。
 そうはいっても、魔術師協会に加入していて、かつ実働部隊を志すぐらいだから、当然箒の乗り方ぐらい一通りは知っている。もちろん過程として訓練期間が必要なのは解るけれど、自分ならそう時間もかからず卒業できるだろう、と考える人は多いし僕もそうだった。そして、そんな自意識は入隊後ほんの30分足らずで叩き潰された。僕らがいるのは州の自動車教習所じゃなく、空軍や海軍飛行隊のいわゆる「トップ・ガン」で、死に物狂いでやらなければ本当に死んでしまうのだと――全てはマスター・ウィザード、アレクサス・「アレクサ」・ウィンフィールド隊長から教え込まれたことだ。

 その隊長は午前中に2時間の飛行教練、およびその他の魔術訓練をきっちりと終え、今は両手に抱えたいくつもの紙包みを、疲労困憊した僕らが突っ伏す長机の上に広げ始めている。包みを解く前から漂っていた、揚げ油やスパイスや煮込みの匂いが、ここに至って大部屋いっぱいに溢れ出した。
 昼食の時間だ。
「エックス! 顔を上げてまずは目標を注視しろ。あの程度でへたばってるようじゃマンハッタン上空には出せんぞ!」
 太く張りのある女性の声に、視線をふらふら上向ければそこに隊長の顔があった。黒いひっつめ髪と褐色の肌、そして銀縁眼鏡を見れば誰でもすぐに、チーム・アレクサの長を見分けることができる。飛行服を脱いだ彼女は箒乗りというより、税務署の職員か民事専門の弁護士のようで、たいへんな威圧感ってものを持っていた。
「い、イエス、マム」
「それからフレッド、貴様は先に手を洗ってこい、なんだその汚い爪は! トマ、ミウッチャ、貴様らはカトラリーと米を全員に行き渡らせろ。ソフィアはポットと湯の準備だ。アリョーナとジムは後で盛り付けを頼むから待機。そして、」
 分隊全員の名前を呼びながら、隊長はきびきびと食前の仕事を割り振ると、締めくくりにもう一度僕を見た。ずいと顔を、黒々と光る目を近付けて。
「エックス、貴様は全員分の食器に保温の『付呪』だ。良いか、配膳を手伝わない者にメシは食わせんからな」
「イエス、マム!」
 教育隊にいる限り――否、ニューヨーク支部の箒乗りである限り、アレクサ・ウィンフィールドには誰も敵わない。僕は気力を振り絞って机から跳ね起き、椅子をまたぎ越えて積み上げられた皿のそばへ向かった。

 さすがの世界魔術師協会も軍隊とは違って、新人魔術師の衣食住全ての面倒を見てくれるわけではない。普段の僕らはめいめいに好きなものを、好きな場所で食べている(常識の範囲内で)。でも、チームが一堂に会する機会が訓練しかないのはさすがに味気ないだろうということで、隊長は定期的にこうしたランチミーティングめいたものを開催するのだった。参加は強制ではないけれど、タダでたらふく食べられるならそれに越したことはないと、僕らはたいてい全員揃って大机を囲む。
 このランチでは毎回、隊員たちが所属する国や地域を一つ選んで、それぞれの特色ある料理を出すのが決まりだ。なにしろここはマンハッタン、ちょっと出歩けば世界中のあらゆる食事が手に入る。お互いの文化やアイデンティティを理解するには、まず生活に密着したところから――つまり食だというのが隊長の考えってわけだ。
「今日は隊長の担当だって聞いて、」
 ウクライナ生まれのアリョーナが、紙の深皿に盛られたバックリブのグリルに手を伸ばす。明るい灰色の目がきらきらと輝いている。彼女は今年の9月に入門生イニシエイトから魔術師ソーサラーへ昇進したばかりだ。
「楽しみにしてたんだ。あたしこれ大好きなんだもん」
 白くすらっとした指が、たちまちのうちに脂とソースでべたべたになる。でも、バックリブなんてナイフとフォークでお上品に食べるものじゃない。今日の食事の成り立ちを考えればなおさらだ。
 僕たちの取り分として配られているのは他にも、豆の煮込みを米に掛けたいわゆる「ビーンズ・アンド・ライス」に、カラード・グリーンと呼ばれる青菜の炒め煮、タバスコで味付けしたナマズ(そう、あのナマズだ!)のフライ、などなど。典型的な南部料理、いわゆる「ソウルフード」ってものだ。アフリカ系アメリカ人の隊長が担当なら、必然的にこうなる。高カロリーの10トン爆弾みたいな代物だけど、アリョーナだけでなく僕も、そして隊のみんなが大好きな食べ物だった。

 考えてもみればいい。訓練過程にいる箒乗りが日々どれだけのエネルギーを必要としているか。もし支部に「箒に乗れる人はいいね、楽ちんで」なんて言う人がいれば、そいつはすぐさま隊長の箒にくくり付けられて本館の屋上からダイブさせられるだろう。実際、イタリア系のミウッチャはイニシエイトの頃、その手のことをぽろっと口にした結果隊長の怒りに触れ、深く改心し、それが元で箒乗りを志したというから相当だ。とにかく、箒で空を飛ぶということは、とんでもない熱量が必要な行為である。僕たちはやれ糖質制限がとかココナツオイルがとか言っている場合じゃないのだ。
「エックス、米残してるんだったらくれよ。代わりにこっち、やるからさ」
 隣に座ったフレッドが、カラード・グリーンの皿を僕のほうへ押しやりながら言う。フレッドは名前こそフレッドだけど、ラストネームは「リュー」で、お祖父さんが台湾人だ。彼は先月、チャイナタウンにある行きつけの料理屋から大量のメニューをここまで運び、僕たちをあっと言わせたところだった。あの「ロウツォン肉粽」ってやつはとっても美味しかった。
 その向こうではトマとソフィアの兄妹が、黙々とナマズのフライを食べている。もちろん美味しいからこそ無言になっているのだ。訓練中と同じくらい、食事中のチーム・アレクサは真剣だ。なにしろ食べないことには午後の訓練が立ち行かないので。
「米は嫌いなのか、エックス?」
 フレッドとは反対側から声を掛けてきたのは、この中で一番きちんとした(というのは、僕らの間ではせいぜい「ネクタイを締めている」とか「上着が革ジャンやパーカーじゃなくて襟付きのジャケット」程度の意味でしかないが)格好のジムだ。カラード・グリーンをたっぷり掬ったスプーンを片手に、僕の顔を見て首を傾げている。
「いや、別に嫌いなわけじゃないんだよジム。ただ、こういうときの主食は……僕だったら」
「あっはっは、プーティンか! それは残念だな。次に君の当番が回ってきたら、思う存分チップス・・・・にグレービーとチーズを掛けて焼くといいさ」
 流れるようなアイルランド訛りに笑い声を混ぜて、ジムは僕の顔を軽く顎でしゃくり、また青菜の炒め煮を口に運ぶ幸福な作業に戻っていった。

「あの、本当に嫌いじゃないんですよ、隊長」
 誤解を招いてはいけないので、僕は念を押すように言った。
「とてもおいしいです、このビーンズ・アンド・ライス。えっと、マレー・ヒルのほうにある店でしたっけ」
「『ママ・モートン』だ。機会があればまた行ってみろ、マンハッタンで二番目にうまいポークビーンズを出す場所だ」
「一番は『ママ・イーディス』なんですよね、隊長?」
 すっかり骨だけになったバックリブを皿の片隅によけながら、横からアリョーナが口を挟む。隊長が「そうだ」と素っ気ない調子で答え、ナマズのフライにホットソースを追加した。
「その、『ママ・イーディス』はどこにあるんです? やっぱりハーレムあたり?」
 僕が訊くと、隊長は一瞬手を止めて、少しばかり怪訝な顔をこちらに向けた。僕はもしかして何かまずいことを言っただろうか? たとえば、もう潰れたかして無くなった店だとか、なんとか――トマとソフィアが顔を見合わせて、小さく溜息をついているのが視界の端に映る。
「エックス」 隊長が再び口を開く。 「イーディスはわたしのママだ」

 一体全体どうして、僕はこうも察しが悪いのだろう? もちろん僕がケベック生まれだとか、付与魔術は得意でも精神系の呪文をろくに唱えられないとか、そういったこととは何も関係がないはずだった。誰からも「エックス」と呼ばれる僕のファーストネームはグザヴィエXavierで、フレンチフライもとい「チップス」にグレービーソースとチーズを掛けて焼いたもののことは、個人的には「プティーヌ」と呼びたい派だ。

  * * *

 可能な限り静かにと心がけた動作で、少女は自らのオフィスに入ってきた。近所にあるドーナツショップのロゴが入った、大きな買い物袋を片手に下げて。
「あっ、お帰りシスター・クララ! ねえねえ、マッチャのやつまだ残って――」
 椅子を跳ね飛ばしそうな勢いで立ち上がった、茶色い髪と瞳の青年が快活な声で出迎え、とたんに少女から凍てつくような目を向けられる。
「せんぱいがまだ寝ていらっしゃるんですから静かにしてください、ブラザー・ジョン。お疲れなんですよ」
 真冬のイースト川のごとく冷たい青色が、一切の遠慮なく青年を咎め立てする。射竦められて彼はすぐさま黙ったが、それも一時のことだった。確かに向かいのデスクには、未明に緊急出動を掛けられたというチームのエースが突っ伏して熟睡している。けれど少女の手元から立ち上る、甘く香ばしい砂糖と小麦のにおいを前にして、どうして静まり返っていられようか。
「ごめん。でも、……へへへ! 楽しみにしてたんだから、早く食べたくってさ」
「気持ちはわかりますが、せんぱいが起きるまでは待ってくださいね。お茶の時間は全員揃ってからです」
「そんなあ、アイザックのこと待ってたらお昼休みが終わっちゃうよ」
 今すぐ御馳走にありつきたい側は、覚醒の気配が一切ない先輩魔術師の後ろ頭をちらちら見ながら不平を言ったが、少女の態度は些かも和らぎはしなかった。
「……確かに、たとえば同じ箒乗りの誰かさんであれば、一度居眠りを始めるとアラームが鳴っても内線が鳴っても、果てはスクランブルが掛かっても夢うつつということがあるかもしれませんが」
「うっ」
 身に覚えがありすぎる例を出されて、青年がぎくりと肩を震わせる。
「せんぱいは起きると決めたらその時間に問題なく起きるかたです。心配はありません」
 平静そのものの物言い。 「具体的にはあと9分です。……そろそろ支度を始めておきましょうか」

 袋から取り出した平箱を開ければ、ずらりと敷き詰められたドーナツは実に1ダース。頭数で割って各自4個ずつという大盤振る舞いだが、むろん昼休みだけで全て食べきる公算ではない(食べきる者もいるが)。一日を通して、失われたエネルギーを回復するための強い味方となってくれるだろう。今日のように移動や演習の多い時にはなおさら頼みの綱だ。
「マッチャ・シュガーと、マッチャ・チョコレートと……あ、ユズ・ママレードもあるじゃないか! ありがとうシスター!」
 自らの取り分を確認していた青年が、思わぬサプライズに歓声を上げる。たっぷりの粉砂糖と蜜漬けされた柚子の皮で飾られた、穴のない円形の生地の中には、香り高く酸味の強いジャムが詰まっているはずだ。冬季限定の商品で、日本贔屓の彼にとって一度は味わいたいと願うものだった。
「これが最後の一つでした。運が良かったですね、ブラザー」
「良かったよ、本当! それにしても、よく僕がこれ食べたがってるって分かったね?」
 無邪気に喜ぶ青年に、少女はあくまで沈着冷静な声色を変えないまま、
「よく分かったと言われましても、あれだけ常日頃から次の限定品がとか、発売日がいつだとか、今年は日本がらみのメニューが入っているだとか、さんざん言いふらしていれば察しないほうがおかしいと思いますが」
 と所見を述べる。手元では、厚手のガラスポットにインスタントコーヒーのドリッパーが嵌め込まれ、飲み物の準備が着々と整っているところだ。
「あれっ、僕そんなにうるさく言ってたかな? いや、言ってて正解だったと思うけどね、でも別に『だから買ってくれ』っていうつもりで言ったんじゃないんだよシスター、それは誤解しないでほしいな」
「それも解っています。わたしはその手の、他人を当てにした物欲を見抜くのに長けていると自負していますので」
 いくらか婉曲に善良さを認められた形になって、青年はさらに言葉を続けようとした――が、その時オフィスに携帯電話の高らかなアラーム音が鳴り響き、会話は中断された。

「おはようございます、せんぱい。ドーナツを買ってきましたので、みんなでお茶にしましょう」
 机上からのっそりと身体を起こした(外見上は)若きエースに、少女が多少冷ややかさの和らいだ声を掛ける。乱れた前髪の合間からは、翡翠のような青緑色の目が、眠たげに視線を返していた。
「ああ、……ありがとう、シスター・クララ。それは私にもある程度選択の自由があるってことでいいのかな」
「チョコレート・アールグレイ以外からお好きに4個お選びください。ブラザー・ジョンとの協議は必要かと存じますが」
「チョコレート・アールグレイ? あの『Dough』の。わざわざブルックリンまで……いや、グランド・セントラル駅にも支店があるんだっけか。J.Jは何にするの?」
「僕、もうマッチャ二種類とユズ・ママレードをもらったから、アイザックが先に選んでいいよ。あ、そうだ、その状態でさ、箱を見ずに匂いだけで何があるか当てる、っていうのはどう?」
 未だ立ち上がらず、平箱の中身まで視線の通らない位置にいる先輩魔術師に、青年がちょっとした無茶振りを寄越す。
「私にブラザー・バートラムみたいなことをやれっていうのか、J.J? ……そうだね、」
 明らかに役者不足だろうとばかり重たく息を吐きながらも、彼は目を閉じて鼻をひくつかせ、漂う種々の甘い香りから個々を見出そうと、持てる嗅覚を研ぎ澄ませた。
「……シナモンシュガー、チーズケーキ、パッションフルーツ、レモン&ジンジャー」
「せんぱい、おめでとうございます」
 努力(勘も交えてはいるが)に応えたのは、淡々とした少女の賞賛だった。
「全て残りのドーナツに含まれています。すなわち大当たりです。どうぞお取りください」
「どうも」
「ああっ、レモン&ジンジャーは僕がもらおうと思ってたのに!」
「先に選んでいいって言ったばっかりだろ、君。私は前言撤回は認めないよ。さあ、昼休みが終わる前に取り掛かろう」

 ドーナツ一つにも悲喜こもごも。ニューヨークには多種多様、洋の東西を問わずに菓子が溢れているとはいえ、やはりドーナツは一段身近で、だからこそ特別でもあるのだ。
 コーヒーの薫香が喧騒を漂う中、買い物袋の中にはひっそりもう一つ、小ぶりの平箱が収まったままだった。それはここに居ない最後のメンバー、今頃は自宅で夜勤明けの惰眠を貪っているであろう、チーム・ウォルターのチーフに後ほど届けられる。

  * * *

 仕事中毒の兄を持つと、弟として中々に気苦労の絶えないものだ。
 等と漏らした途端、我が生物管理部の口さがない連中は、「一体いつ苦労しているのか」と申し合わせたように疑問を呈する。これには流石の俺も不条理を感じたので、「吾輩のごとき繊細で思慮深い心の持ち主は、その働きを安々と表出させないのだ」と説明しておいたが、その場の反応を見るに誰一人納得してはいなかったようだ。
 我が兄をいかにして適切に休ませ、十分な食事を取らせ、思考を業務から解き放つかということについて、俺は日々思い悩みながらも試行を繰り返している。今日だって、せっかく退勤時間が揃ったのだから何処かへ食べにでも行こうと、書記局まで誘いに行ってやったのだ。そうしたら、とうに終業しているはずの本人は、まだ文献チームの机に書物を山積みにして、「調べておきたいことがあるから今日は帰らない」だとか言い出したのである。
 終わらせるべきことが終わっていないのかと尋ねれば、周囲の同僚たちは違うと答える。好き好んで公正労働基準法に歯向かおうとするとは、我が兄ながら理解の及ばぬことだ。これは所謂カロウシではないのかと本人に言ってみると、「過重労働による心身被害をそう呼ぶのは、日本人に対して無礼に当たる」という返事が来た。確かに一理ある。これは反省しなければなるまい。

 さりとて現実問題、兄をこれ以上職場に置いておくことはできないのだ。いかに我々ドイツ人が、諸外国の平均と比較して長く労働する傾向ありと言われようとも、我々は既に市民権を得て帰化した米国民であり、世界魔術師協会ニューヨーク支部では不要不急の時間外労働を認めていない(建前も含まれてはいるが)。自らの天職ベルーフを全うする意欲に満ちているのは結構だが、それならもっと健康的に働くべきだ。彼の同僚たち、特にシンドウ女史による切々とした説得の力を借りて、俺はこの律儀者に退勤を決断させようと試みた。
「……それならひとつ聞きたいのだが、ベルトラム」
 やっとページを捲る手を止めた兄が、微かに意地悪めいた声色で言う。
「話を聞いていると、つまり、今夜お前は私に御馳走してくれるということかい?」
 琥珀と称するにはなお明るい、黄金色と呼んで差し支えない虹彩の目が、探るようにこちらを見上げている。なるほど、そう来たか。俺がこう言うのを期待しているわけだ――いや、君に奢るとなると結構な額がかかるから、できれば普段どおりに、と。そして、それなら行かない、自分は食事よりもっと別のものに金を使いたいから、云々と断る気なのだ。
 だが甘いぞヴォルフラム・ヴァイデンライヒ――我が兄よ。どうも業務に目を塞がれて、弟の何たるかを全く見失ってしまったらしい。
「無論だとも、マイン・シェッツヒェン。代金は全額持とうではないか。好きなだけ食べてくれて構わんぞ」
 俺が迷いなく言い切ったので、相手は目論見を挫かれた拍子に少しばかり動揺したと見える。二、三の瞬きを繰り返した後、オフィスに残る他の魔術師たちを窺うように見回した。これしきのことに後ろめたさを感じるなど、どうにもこの兄は律儀者である。
「解った、解ったよ。ただ、もうあと30分だけ待ってはくれないか。今この箇所だけは読み終えてしまわないと、気になって食事が手につきそうもない」
 これで大人しく働くのをやめてくれるなら安い条件だ。俺は提案を呑み、おかげで我々がドイツ料理専門店、レストラン・ハイデルベルクの食堂椅子に座ったときには、もう夜の8時を回っていた。

 書記局の諸卿は今頃笑っているだろうか、それとも心配しているだろうか。「あの」ウォルフラム・ワイデンライクに――兄の名を米国式に発音するとそうなる――食事を奢るなど、豪胆にもほどがある、と。いくら管理部長の俸給がそれなりのものであっても、明らかに致命的な経済的打撃を被るのではないかと。
「まずはキュウリのサラダグルケンザラートと、ジャガイモのパンケーキカルトッフェルプッファーを。ラージサイズのプレッツェルも二つ。ヴルストのプレートには……全てザウアークラウトとポテトフライが付いているのか。これは良いな。では、この宴会盛りスタムティッシュというのを一つ」
 前菜のあたりまでは問題なく頷いていたウエイターが、ヴルストのくだりに差し掛かったあたりで、笑顔を若干引きつらせて俺の顔を見た。それをお二人で召し上がるのですか、と言わんばかりの表情だ。兄が持っているのと同種のメニューに目を落とせば、その宴会盛りとやらは血のソーセージにレバーのパテ、ミートローフ、北ドイツ式サラミ、黒い森風の燻製ハム、豚ロース肉の塩漬け、牛タンの燻製、等々が含まれると書かれてある。まあ二人で取り分けるには過ぎた量だ。宴会盛りと言うからには。
「それとは別に、鶏肉の焼きソーセージヘンヒェンブラートヴルスト狩人風ソーセージヤークトヴルストも貰おうかな。それから……ああ、ニシンのクリームマリネマリニールターヘリングもあるのか、見逃していたな。これも一皿」
 ウエイター氏はますます笑顔に支障を来たし、俺に繰り返し視線を送ってくる。俺にできることといえば、「それで間違いはない」という意味を込めて頷き返すぐらいだ。
「ええと……失礼、この豚肉のローストシュヴァイネブラーテンは冷製かな? それとも温製?」
「冷製です」 必死に微笑を維持しながら、彼は兄の質問に答えた。 「あの、約三人前でございます」
「では、これを一つ頂こう。あとは『本日のスープ』と、『シェフの特製サンドイッチ』と……最初の飲み物はベルリン風白ビールベルリーナー・ヴァイセでお願いするよ」
「かしこまりました。それでは、」
 オーダーを復唱しようとしたのだろう台詞が、はたと途絶える。理由は言うまでもない、兄が俺のほうにひょいと頭を向けて、
「私はこれで全部だが、お前は――何に決めたのだったかな?」
 と促したからだ。
 この期に及んで、とうとうウエイター氏の表情が引き攣った笑みから明白な畏れへと変化した。そうだ、これらの品を二人で分け合って食べるのではない。今までの長々とした品書きは全て、兄ひとり分の注文なのである。
「吾輩は」
 まだ新人なのだろう彼を余計に刺激しないためにも、俺はなるべく穏やかな調子を作って言った。「カリーヴルストとハウスヴァイン・・・・の赤を」

 我が兄は、例えば世に名高いホットドッグ無駄遣い選手権で優勝できるような類の人間ではない。
 我が兄は分を弁えた人だから、例えば書記局長の奢りで昼食にでもしようとなった時に、こうした規格外の注文をすることはない。
 結局のところ、彼はどんなに細やかなものでさえ、己の欲望を不用意に表出させるのは恥ずべきことだと考えているわけだ。気心の知れた者が、こうして「いくらでも食べて差し支えない場」を用意してやらなければ、清貧極まりない食生活に甘んじる、どころか仕事にかまけて食べないことも茶飯事である。
 もちろん、だからといって彼が食というものを軽んじているわけではない。それは食事風景をひと目見れば誰でも判るだろう。銀器の先に捉えたヴルストを、一口齧った瞬間に細められる目を。あるいはグラスに入ったビールを飲み干した後、笑みに綻ぶ口元を。
 ほっそりとした指でフォークを操りながら、上品なマナーと優雅なペースで、一皿一皿残らず平らげる健啖ぶりは賞賛に値するものだ。これは別に、彼が本来の食べ盛りの頃、世情と職分のため満足に食べられなかった反動、という訳ではない。そうだとしたら俺も同程度の大食漢になっているはずである。そうではなく、彼はただ生来食べることが好きなのだ。それをひた隠しにする態度こそが、理性的で文明的な人間のありかただと思っている。
 俺はときどき考える――人一倍強烈な、爆発せんばかりの感情を胸裡に秘めながらも、その力を理性でねじ伏せられるのが魔術師の資質だというのなら、間違いない、我が兄は魔術師になるべくして生まれてきたのだ。兵士ではなしに。

 やがて、卓上の皿はすっかり空になった(無論あれだけの量が二人がけのテーブルに全て載るわけはないのだからして、ウエイター氏は適宜空いた皿を下げに訪れ、そのたび兄の所作に特撮映画のカイジュウを見るかのような目を向けていたのである)。兄はナイフとフォークを置き、ナフキンで丁寧に口を拭いて、至福の笑みと形容するに相応しい面持ちで言った。
「ああ、美味しかった。すばらしい夕食だった」
「楽しんでいただけたかね。君が何かしら遠慮などしていなけりゃ良いんだが」
「まさか、もうこれ以上入らないぐらいに食べたさ。大いに満足だよ、ベルトラム。今日は本当にありがとう」
 いかにも満腹したと言わんばかりに、胃袋のあたりを手でさすりながら彼は頷く。宴席に招いた相手からこんな言葉を貰った場合、通常なら接待係は安堵に胸を撫で下ろしていいところだろう。しかし兄に関して言えば、事情は少々異なってくる。
「ふむ、本当にそうか?」 俺はビアジョッキを卓の端に寄せながら言った。 「デザートも食べていないのに?」
 ナフキンを畳む兄の指先が、ぴくりと震えたのを見逃す俺ではない。全くこの兄ときたら、この期に及んでまだ弟の懐具合を慮るという意識を捨てていないのだ。あれだけ食べておいてデザートだけ控えることに何の意味があるというのか。20ドルの代金から5ドルが減るのならともかく、約500ドルから5ドルが減ったところで、最早何らの差異も感じられないというのに。――否、保険料や公共料金の徴収なら5ドルどころか1ドル1セントでも安く済ませたいのは事実だが、家族に御馳走するときにまで気にするほど、己の弟が狭量な男だとでも思っているのか。
「食後のデザートはだね……その、お前は言わなかったろう、頼んでもいいなんて」
「君はいちいち弟に確認しないと食べたいものも食べられないのか? 食べたくないなら話は別だが、なあ、普通に言っても聞かないならいっそこちらから頼むぞ。こういう時ぐらい、好きなものを好きなだけ食べてくれ。何かに対する望みが枯れたとき、魔法の力も一緒に枯れてしまうんだぞ、魔術師というものは。俺は君にニューヨーク支部、いや、世界一の魔法使いでいてほしいんだ」

 およそ俺の柄ではない(それゆえ兄相手にも滅多なことでは言わない)ような台詞を受けて、金色の目が丸く大きく見開かれた。秋空にかかる満月のような、奥ゆかしく柔らかな輝きで。
「では、……では、お前の言葉に甘えてもいいかな。いや、正直なところを言うとそうだ、食後の甘いものは『別腹』というやつなんだ。シスター・ヨシノが言うようにね」
「よく解る」
「デザートのメニューを取ってくれるか、ベルトラム。私は今とてもチョコレートが食べたい。あと、温かいカイザーシュマーレンも。それと、それから、」
 先程までの控えめすぎる態度は何処へやら、声を弾ませながら甘味の名前を列挙する兄を見ていると、口元がにやつくのを隠しておけなくなる。やはり好物を前にすると、人間は子供に返ってしまうらしい。俺はテーブル脇の冊子を手に取って、向かいの席へ差し出しながら言った。
「そう焦らなくとも、ラストオーダーまでには時間がある。存分に悩み、存分に食べてくれるがいいさ、俺の小さな宝物よマイン・シェッツヒェン

  * * *

「こう寒くなってくると、アイスクリームが食いたくなるよなあ」
 クイーンズ区ロングアイランドシティを含め、ニューヨークは間もなく日付の変わろうという頃合いである。しんと冷え切った空気の中、アパートの鍵を取り出そうと、ウェンセスラス・ウォルターが鞄の内ポケットに手を突っ込んだときだった。後ろで待つルームメイトが、出し抜けにそんなことを言い出したのは。
 お前はとうとう脳漿までアルコールになりやがったのか、と言いかけたところで指先に鍵が引っかかり、鞄から手を抜き出すと同時に思い出した。ロシア人は真冬こそアイスクリームを食べるのだ。屋内が暖かすぎるから。或いは、屋外よりもまだアイスクリームのほうが温かいから。
「食えばいいだろ。適当に何か買ってこいよ、そのへんの――あー、そのへんには無ェが、セブン・イレブンか何かでよ」
「いやあ、どうせ食べるんだったら『グロム』のジェラートか、『モルゲンシュテルンズ』か、あとは『ビッグ・ゲイ・アイスクリーム』のホットファッジサンデーがいいなあって思うわけよ。解る? そりゃハーゲンダッツやブルーベルだって旨いけどさあ」
 だいぶ老朽化しつつある扉を開け、家主が中に入ったというのに、同居人はまだ玄関先で突っ立ったまま、ニューヨークを代表するアイスクリーム専門店の名をやかましく言い立てている。この素面であっても陽気なロシア人は、今正に酔っ払っているのだ。仕事上がりに書記局の同僚たちと飲んで、その後さらにルームメイトと三軒ほどハシゴして、行き着く先がこの有様だ。「シティ」の公共交通機関が24時間運行で、かつ街の隅々まで行き届いていることに感謝すべきだ――ダウンジャケットの襟を掴んで室内に引っ張り込みながら、ウェンセスラスは思った。

 大型のオイルヒーターを点けた居間は、それでも特別暖かいとは言えない。なにしろこのアパートは元が倉庫であるため、居住するにあたっての快適性があまり考慮されていないのだ。その分家賃は安いし住人の粗相にもかなり目を瞑って貰えるが、晩秋から冬にかけてを乗り切るには、些か心もとないのが事実である。少なくともサンクトペテルブルクの一般的な公共団地よりは寒いに違いない。それなのにこのロシア人はアイスが食べたいと言うのだ。アイスクリームは冬でも食べるもの、否、冬にこそ食べるものだという刷り込みが既に成されているのだろう。
「いや、でも、実際問題よ、腹減らね? 呑んだ後だし」
「それァ認めるがね、イリー」
 上着と荷物をソファに放り投げ、台所へと踏み込みながら家主は言った。蓋付きの両手鍋が置かれたコンロに点火し、その片手間で水切りラックからスープボウルを二つ取る。
「だから現に何か食おうとしてるンだろ。アイスクリームよりは胃袋に良いものを」
「昨日の夜勤前に仕込んでたチキンヌードルスープだろ、それ」
「不服か?」
「メシ食うんだったらマック・アンド・チーズがいいなあ」
 明かりの下で白飛びしそうなぐらいに白い肌を、アルコールと寒さとで真っ赤に上気させ、イリーことイリヤ・ミハイロヴィチ・シラエフは米国の代表的家庭料理を挙げた。聞いて家主は心底嫌そうな顔をした。マック・アンド・チーズを作るのが嫌なのではなく、この酔っぱらいが自作の「ベイクド・マック・アンド・チーズのうた」を歌い出すのが嫌なのだ。魔術師の男二人暮らしはただでさえ近隣から警戒されているのに、進んで騒音トラブルを引き起こした挙句訴訟沙汰にはなりたくない。室内に「消音」の魔法を掛けておけば済む話ではあるが、実働部隊のチーフがこんなことで魔力を無駄遣いするわけにも行かないのだ。
「大体さあ、なんかアメリカ人って、大体の『ちょっとした体調不良』はチキンヌードルスープ飲んどきゃいいって思ってね? 風邪引いたらチキンヌードルスープ、腹壊してもチキンヌードルスープ」
「酔っ払ってもチキンヌードルスープ、二日酔いにもチキンヌードルスープだ。馬鹿にすンなよ、実際有効だからな」
 鍋の蓋を開け、湯気と熱気に目を細めながら、(本人の言によれば)1世紀以上も合衆国民を続けてきた男は言った。
「何だよ、ロシア人は二日酔いの朝にボルシチ食ったりしねェのかよ」
「二日酔いのときには、それはあれだよ、ウォッカ飲むよ」
「くたばれ」
 ブイヨンの中で柔らかに煮込まれた野菜と麺を、鍋の底からかき回しながら彼は毒づく。無論、「迎え酒」を知らないわけではないが、こう臆面もなく火酒の名など出されては、目の前の滋養食が馬鹿らしくなってくるではないか。
「いや、ウォッカは冗談として――いや冗談じゃないけど、おれは飲むけど、でも普通の家は二日酔いにしろ風邪にしろ、キャベツのスープ飲んで、風呂入って寝る、じゃねえかなあ。ボルシチ食う家もあるだろ、十分」
「そうであって貰いたいがね、いくらロシアでも」
「いくらロシアでも。……そういう体調不良の特効薬みたいなのってさ、ほら、大概はおふくろの味みたいな所あるだろ。子供のころ風邪引いたときに作ってもらった、とか。うちはそういうのじゃなかったから、すぐには思いつかないんだよ。おやじは料理できなかったし、おふくろも料理しなかったし。むしろ、おふくろが常に酔っ払ってるほうだったし」
 ああ、と生返事を寄越しつつ、ウェンセスラスは同居人の酩酊度合いがいよいよ深刻だと理解した。特に必要でもない上にそう愉快でもない昔話を始める、というのは誰が見たって立派な悪酔いのサインだ。対処法としては、全く関係のない話題に切り替えて無理やり押し流す――相手は酔っているので勢いさえあれば煙に巻ける――か、歩み寄りの気配を見せつつ気が済むまで喋らせるか。他に「何も言えなくなるぐらい飲ませる」というのもあるが、どう考えたって健康的ではないし最悪死ぬので論外である。

「まあ、」 スープの味を見る僅かな間。 「俺も大体そんな具合だったがね」
 小さなスパイスラックに手を伸ばし、胡椒の瓶を抜き取る。 「俺の母親も料理はできなかった」
「ふーん、なんか意外な、いやアメリカの家庭ってそういうもんかな」
「アメリカの家庭を何だと思ってやがンだお前は。言っとくが、俺が餓鬼の頃ってのはな、冷凍のTVディナーもクラフト社のマック・アンド・チーズも無かったンだぞ。辛うじてキャンベルのスープ缶があったぐらいだ」
「え、何、キャンベルのスープ缶ってそんな昔から売ってたんだ、すげえなキャンベルのスープ缶」
 酒気帯びのルームメイトは大きな声で、耳に留まった単語を意味もなく繰り返す。思考力が失われ、新しく「自分の言葉」で喋るのが難しくなっているのだろう。
「つーか、ウェンのおふくろさんってのは、あれなの、アメリカ人だった?」
「さあな」
「さあなって何だよ。でもウェンは間違いなく生まれも育ちもアメリカなわけだろ、ボストンだから。おやじさんは?」
「さあな」
 素っ気ない答えを返しては、味を整えたスープを木のボウルに注ぎ(陶器でないのは念のためだ――酔っ払いがうっかり手を滑らせて割るかもしれない)、居間のガラステーブルに載せる。黄金色をした鶏の脂が、頭上の灯りを受けてきらきらと光った。ほぐした胸肉と短いパスタのほかには、台所で出た野菜の切れっ端ぐらいしか入っていないような、極めて簡素な汁物である。
「知るわけねェだろ、そんなもん。娼館の客がわざわざ、相手の女が幾つで、どこからの移民で、どれだけ料理上手か、そうでなきゃどうして料理ができないのか、なんざ気にするもンか。女の側も一緒だよ」
「……あー、いや、その、ええと」
「それでもお袋は、息子にチキンヌードルスープだけは作ってくれたし、作り方だって教えてくれた」
 二本のスプーンが高く微かな音を立て、ヒビの入った卓上にそれぞれ置かれた。 「それで十分だ」
 ようやく暖まり始めた居間を冷たい沈黙が支配する中、昔話でもって昔話を制した男はソファに腰を下ろし、平然としてスープを食べ始めかけた。実際にスプーンを手に取りもした。が、器に目を向けて暫し動きを止め、
「忘れるところだった」
 とだけ言い、席を立った。 「酢が要る」
「酢?」
 想定外の単語にロシア人は我に返り、台所へと向かう同居人の姿を目で追った。流し台の下を開ける音がした。

 果たして、戻ってきたアメリカ人は本当に酢を――合衆国全土で有り触れた、ハインツ社のホワイトビネガーの瓶を持っていた。蓋を回して開ければ、匂いがつんと鼻を突く。
「なあ、酢を入れるのか? スープに」
「お袋はいつもそうしてた」 淡白で簡潔な返答。
「だとするとさ、ウェン、あんたのおふくろさんは、きっと東のほうの人だったんじゃないか」
 確信とまでは行かないが、かなりの自信があるような声の調子で、ソファから身を乗り出しながらイリヤは言った。手には既にスプーンを握っていたが、まだ口をつけてはいなかった。
「東の?」
「東の。ああ、つまり、東ヨーロッパ。だって、チキンヌードルスープに酢を入れるんだろ? 酢入りのスープってのは、間違いなくこっちの文化圏だと思うんだよ。まあ、アメリカのチキンスープとはちょっと違うものではあるけどさ。ロシアもそうだし、あとポーランドとかチェコとか――」
 そこまで言って、彼はぽんと手を打ち鳴らした。これこそ答えだ、と言わんばかりに。
「そう、チェコだ。チェコだよ。だってチェコ系でもなけりゃ、自分の息子に『ウェンセスラス』なんて名付けないだろ。チェコの守護聖人だ、正直すげえレアな名前だぞ」
「馬ァ鹿、『ウェンセスラス』はお袋が付けた名前じゃねェよ。魔法名だ」
「そりゃあそうか、でもそれにしたってウェンは――なんというか、例えばオックスフォード人名辞典なんかを引っ張り出してきて、自分とは特に縁もゆかりもないけどこの名前なら程よく長くて綴りも複雑だしかっこいいな、とかいう感じで決める思春期マインドの持ち主ではない気がするんだけどなあ。いや、別にあんたの本名に探り入れる気は無いけど? それは魔術師のトップシークレットだろうし?」
 スプーンを握りしめたまま管を巻く酔っ払いに、当のウェンセスラスは白い目を向け、温かなスープに酢を振り掛けながら、「さっさと食えよ」とだけ言った。それからふと思いついたように、
「……使うか、酢」
 と付け足した。
「や、別に良い。確かに俺はその、酢入りスープ文化圏の人間だけど。東ヨーロッパだから。ロシア」
「そうだな、でも要らねェか、いくらロシアでも」
「いくらロシアでも」

 それから更に暫しの間が空いた。スープの製作者は既に食事を始めた。一方、酔ったロシア人はまだ静かな水面と、スプーンの先とを神妙に凝視していた。彼がおもむろに口を開いたときには、対面する同居人のボウルはもう半分ほど空になっていた。
「ああ、なんか、思い出した」
 普段の陽気さはとうに鳴りを潜め、湯気と一緒に空間へ溶けていくような声だった。
「何が」
「おれのバアちゃんだよ。今のあんたが凄く似てた。バアちゃん、本当に何にでも酢を……いや、酢というか、ピクルスだ。ピクルスを漬けてる汁。あれを何にでも入れたんだ。サラダにも、スープにも、それこそボルシチなんかにもだ。ボルシチなんて元から酢が入ってるから、追いビネガーみたいなもんだな。で、当然孫のおれにも勧めるわけだよ。酸っぱいものは健康に良いから、って」
「解る」
 同居人は言い、それから自分には祖母の記憶など一切ないことに思い至ったため、すぐに言葉を足した。 「気がする」
「解るだろ、うん。解るだろ。まあ実際長生きだったしな、バアちゃん。それこそ、風邪引いてもピクルスの汁、腹壊してもピクルスの汁、酔っ払ってもピクルスの汁、二日酔いにもピクルスの汁、だ。多分ほんとに何にでも効くと思ってたんだろう。おれは思ってなかったけどな。ほら、子供ってのは、酸っぱいものがあんまり好きじゃない」
「ロシアの子供なら好きそうなもんだがな」
 いい年をしたアメリカの大人が勝手なことを言った。彼の知るロシア料理は大抵、何かしらの酸味を持ったものだったからだ。ビーフストロガノフやパンケーキにさえサワークリームが付き物だ。――あれは正しくは「スメタナ」だったか、と彼はぼんやり思った。
「おれだって立派にロシアの子供だったさ、でも好きじゃなかったんだよ。とにかく、そういう訳だから信じてなかったんだが、『本当に効くのか』って訊いたこともなかった。もう一生訊けない」
 かつての子供は深く息を吐いた。ちょうど顔の前にあったスプーンが曇った。
「なんで健康に良いのかは教えてくれなかったけど、ピクルスの作り方だけは教えてくれた。おれがマスターしたら途端に死んじまった」
「前にも聞いたな」
「前にも言った。で、結局おれは思うんだ。おれのバアちゃんといい、あんたのおふくろさんといい、な。腕前に差はあったかもしれないけど、自分の残り時間の中で、子孫に一つだけ、どうしても一つだけ、教えておきたい料理があったんだ。ピクルスとかチキンヌードルスープだよ。それは、」

 また数秒の沈黙があった。ガラステーブルの上で、暗い色をした二組の瞳が互いを見交わした。どちらも据わった目だった。アルコールのせいでもあったが、それだけが理由ではなかった。
「それは、いつかこの子が独り立ちしても、自分がいなくなっても、これさえ覚えておけば生きていける、ってものだったんだろう。そういう思いで教えてくれたんだろうって、おれは今、考えました」
「そうかもな」
 返事は相変わらず簡素だったが、冷たくはなかった。
「なあウェン、やっぱりおれも貰っていいか、酢」
「あ? お前、今の流れだとそこはピクルスの汁じゃねェのかよ、シンクの下にあンだろ」
「あれはその、まだ駄目なんだ。こないだ漬けたばっかりだから、色々と足りてない」
 何だよ色々とってのは――ウェンセスラスは言いかけたが、スープを冷まさないことを優先しようと決めた。ハインツ社のホワイトビネガーはチキンヌードルスープの海を渡り、古きよき酢入りの文化圏へと到達した。

  * * *

 朝食抜きで仕事に臨むのは、冷静に考えて全く理に適っていない。たとえ私のように特殊な職種の者であってもだ。だから明日こそは自宅でゆっくり食事を、等と考えながら帰宅して、冷蔵庫にほとんど何も入っていないことに気がついた。とうに日付が変わった後のことだった。
 仕方がないので私は床に就き、その翌朝に少しばかり早起きをして地下鉄に乗る。レキシントン・アベニュー51丁目駅の7番出口を抜けて、さて何処かしら手頃なカフェなりデリなりに入ろう、何処が良いだろうかと歩いていると、雑踏の中から耳に馴染んだ声がした。

「アイザック!」
 歩道の脇に寄って振り返ると、案の定J.Jことブラザー・ジョンが、こちらへ小走りに近付いてくるところだった。彼がこんなに早く出ているとは珍しい。普段なら「遅刻ではないがチームでは一番遅い」ぐらいのタイミングでオフィスに到着するのだが。
「おはよう、J.J。今日は目覚まし時計が仕事をしたようじゃないか」
 私が何の気なしにそう言うと、赤い頬をした大柄な後輩は、白い息を吐き出しながら頷いた。
「うん、……正直、なんでこんな早くにセットしたのか、全然覚えてないんだけどね、アラーム」
「おやおや。あれかな、酔っ払って帰ってきてよく解らないうちに寝たパターン?」
「別に呑んではなかったんだけど、でも、誰にでも寝落ちしちゃう夜ってあると思わない、アイザック……?」
 どことなく虚ろなヘーゼルの目が、同意を求めるように私を見た。寝落ちする前に目覚ましを掛けるだけまだ偉いじゃないか、と私は言っておいた。私なら本当に、着替えだの明日の支度だのは一切脳裏から消し飛ばして、ただ気を失うように眠り込んでしまうだろう。
「それで、自分がいつもより早起きだってことにも気が付かずに出てきたわけか」
「そう、地下鉄のホームでぼんやり電車待ってて、そしたらメールが来たから携帯見たら朝の7時15分だって」
「お気の毒に」 私はふっと溜息をつき、再び大通りを歩き出す。
「寝癖も直してないしさあ、顔も洗ってないし、ほんとは新しいコート着たかったのにいつものやつ羽織ってきちゃったし。それに何も食べてないけど、なんかもう、眠くてだるくてよく解らないし……」
 日頃の快活さなど見る影もない有様に、私も少々哀れな思いがしてきた。否、早起きをすること自体は大変結構なのだが、本人の意に反して早起きさせられる辛さはまた別だ。それこそ昨日の私よろしく、遅番明けに緊急通報で叩き起こされるようなものである。

「しょうがないな、――私も朝食は外でと思って来たんだよ。どこか適当なところに入って食べよう。何か……何があるかは解らないけど、良さそうなものでも奢ってあげるから」
 もしかすると覚醒直後によくある頭痛を引き起こしているかもしれない、彼の頭に響かないよう抑えた声で、私は提案する。と、気の抜けたようだったJ.Jの顔が、たちまち人間らしい輝きを取り戻したように見えた。
「本当!? えっ、本当にいいの、アイザック?」
「これで先週なら、給料日まで待ってくれと言うところだけれどね。ああ、ただし、奢りだからって適当に高いものを頼んだり、とにかくお腹の膨れるもの、みたいに選ぶのは駄目だ。自分にとって一番いい朝食は何か、ちゃんと考えて注文すること」
「僕にとって、一番いい、朝食?」
 私が出した条件を、目をぱちくりさせながら彼は復唱した。あんまり意図の解っていなさそうな反応だ。寝起きで頭があまり回らないせいもあるのかもしれないが。
「J.J、これは本心から言っているんだ、……そりゃあ君はまだ大人になったばっかりで、体も心も若いから、夜更かしして寝落ちしようが朝食を抜こうが、いくらでもやっていけるか知れない。でも、人間はいつまでもタフでいられるわけじゃない。たとえ魔術師であってもね」
「あー、うー、えっと、うん」
「別に、毎朝ちゃんとコンチネンタル・ブレックファストを手作りしろとか、健康にステータスを振り切ったみたいな、なんかマクロビがどうとかヴィーガンが云々とかいう食べ物を取れとか、そういうことは言ってない。ただ、どうでもいいものを食べるな、ってことだよJ.J」
 行く手に見えるサンドイッチ屋のサインに、或いはその奥に立てて置かれたデリの黒板に、視線を遣りながら私は続ける。
「自分の食べるものや食べるということを蔑ろにしちゃあ駄目だ。よく言うだろ、『あなたはあなたの食べたもの』って」

 J.Jはしばらく黙って考えているようだったが、やがて何度か頷きながら、私に向かってにこやかに笑った。
「うん、アイザック。いや、僕も別にそこまでお金持ちじゃないし、いつでも自分にとっていいものが食べられるわけじゃないけど、こういう時ぐらいはね。ねえ、そういうことなら、この近くに行きたいお店があるんだけど」
「へえ? 日本食?」
「いや、ハワイアン。えーっと、アイザックは『ポケ』って言って解る? マグロとかタコみたいな生魚の切り身と、タマネギやトマトなんかを刻んでドレッシングで和えた料理なんだけど」
「ああ解る。ハワイに住んだことはないけれど、サンディエゴにいた頃は似たようなものをよく食べたよ」
 ニューヨークと比べて遥かに温暖な、西海岸の冬を思い出しながら私は答える。
「それの専門店が最近オープンしてさ。僕も一度、店の前までは行ったことがあるんだけど……」
 いつしか彼の口ぶりは活き活きとしたものになり、ニューヨークっ子の間で今大流行――しているかどうかは定かではないが、とりあえず世界魔術師協会ニューヨーク支部ではそれなりに話題となっているらしい食べ物についてを明るく語る。私は安堵した。先達としては、食事に臨む心というのはこうであって欲しいのだ。いつの時代も、どんな生き方でも、食べなければ生きていけない人間である限り。


 ところで、少しも想定していなかったことだが、そのポケ専門店に踏み入れた我々が目にしたのは意外な人物だった。我らがチーム・ウォルターのチーフことブラザー・ウェンセスラスと、チーム最年少のシスター・クララだ。奇遇にも程がある。
「えっ、いや、偶然にしちゃ出来すぎてるというかさあ、そもそもチーフとシスター・クララって一体何があったらポケ専門店で居合わせるの!? というか一体二人で何の話してたの!?」
 驚愕に目を見開くJ.Jに、早朝といわず一日中概ね怠そうな顔をしたブラザー・ウェンセスラスは、短く鼻を鳴らして応える。
「知るかよ。俺ァ別に何でもいいから魚が食いたかっただけだ。で、入ってみたら前の列がクララだった」
「わたしは知人から割引券を頂いたものですから。期限が今日までだったのですよね、……まさかブラザーとご一緒するとは思いませんでしたが」
 シスターもいたって沈着冷静に、ごく当たり障りのない理由を述べるだけだった。本当にただ、我々の間に何らかの奇跡が働いて、こうしてチームの四人が勢揃いしてしまったに過ぎないらしい。
「で、何の話、だったか。昨晩イリーが酒呑んで帰ってきて、シメを食い終わって俺が皿洗ってる間にリビングで寝ちまったんだよ。仕方無ェから担いで部屋のベッドに放り込んでやったんだが」
「ああ、そういや呑みに行くって話してましたね、書記局で」
「その後更に俺まで連れ出しやがったンだが。まあ、それで――それで朝起きてみたら、あの野郎なんでかまたリビングに居やがンだな。ソファにひっくり返ってよ。卓の上に蓋の空いたウォッカがあるわ、食いかけのマック・アンド・チーズがあるわ、惨憺たる有様だ」
「うわあ」 状況が鮮明に思い浮かんだらしく、J.Jがげんなりとした声を上げた。
「折角人がチキンヌードルスープまで飲ませてやって、ご丁寧にも寝床に運んでやったってのにこれだ。奴ァ酔い潰れててもマック・アンド・チーズが食いたいんだよ。俺はもう呆れ果てたよ」
 書記局勤めの陽気な(そして多少酒癖の悪い)ロシア人と、15年に渡って同居を続けている魔術師は、諦念めいたものの滲む顔で言い捨てた。それから黒い目を我々にじろりと向けた。そういうお前らは何があって居合わせたんだよ、とでも言わんばかりに。

 朝から賑わう専門店のカウンター前で、順番が回ってくるまでの間、私とJ.Jは少しの誇張もなく事情を説明し、こちら側の話題についても伝えた。なお、その話題――J.Jによる「書記局の人々が『新しくできたポケストップに行く』というのでついて行ったら、『ポケストップ』という名のポケ専門店だったので悲しみにくれながら立ち去った」という話は、残念ながらあまりウケなかった。

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