正に「ブロードウェイを夢見る若者」の権化みたいな奴が、晩夏の戸口に立っていた。

マカロニ・ソビエタイゼーション -From Queens With Love-

「契約は1年更新だ。来年の9月にゃ家賃が20ドル上がる。ハウスキーピング費や雑費も折半して貰うが、とりあえず最初の一ヶ月はチャラにしといてやる。様子見を兼ねてな」
 最後の同居人が出ていってから、ここ数年音沙汰のなかったルームシェア募集告知に、ロシアのアカウントからメールが来たのは半月前だった。イリヤ・ミハイロヴィチ・シラエフ、19歳、ハイスクール卒業済み、渡米の目的は一応「留学」。ミュージカル俳優を目指し、ダンスと歌のプログラムを受講予定。
 満面の笑みと共に提出されたF-1ビザを確認した後、俺はこれから共有することになる、クイーンズ区ロングアイランドシティの一室を案内して回った。ベッドルームにはエアコンなし。洗濯機も乾燥機も屋外設置。私物には必ず名前を書くこと。特に冷蔵庫内の酒瓶には。
「本当に良かったんだろうな、あんな即決ぶりで」
「いやあ、基本的に部屋探しは即決が前提、じゃね?」
 色が白く縦にでかいロシア人は、俺の質問に軽く答えた。 「ペテルブルクではそうだよ」
 サンクトペテルブルクで部屋を探すのがどれほど困難かは知らぬ存ぜぬだが、とにかく先週の日曜日に下見に来たこの学生は、会って5分で契約を決め、そして今ここで新生活を始めようとしている。さて、今回は何週間持つか。ニューヨーク支部の箒乗りスイーパー部隊員と同居するってのは、空軍のスクランブル待機室かNYPDのマンハッタン管区分署に住むのと実質大差ない。
「そうかい。まあ俺は構わんがね、貰うもんはもう貰ってンだから。後で文句つけようが1ペニーたりとも返さねェぞ。じゃあ、……今日のところは特別に、晩飯は俺が何か奢ってやるよ。何がいい」
 あらかたの説明を終えて、俺は新しい同居人に恒例の質問を投げかける。あくまでも俺の中ではだが、ルームシェア相手が決まった場合、歓迎の意味も込めて、最初の食事はこちら持ちにする習慣だった。そうしておけば、たとえ相手が3日で音を上げて出ていくことになったとしても、いくらか良心が痛まなくて済む。以前誰かに「そうしなくたって良心なんか痛まないんだろ」と言われたが、否定するつもりはない。

「え、マジで? ゴチ?」
「常識の範囲でな」
 俺は力強く前置きした。 「『キーンズ・ステーキハウス』のプライム・フィレ・ミニョンとか言われても黙殺すンぞ」
「いやいやいや、まさかそんなこと言うわけないだろ、実際いくらするのか知らないけど。でも、そっかあ、マジか! 実はおれ、ニューヨークに行ったらこれだけは食べておきたい、ってのがあったんだよなあ」
 期待に胸躍らせるような響きの声で、俺と1世紀年の差があるロシア人は言う。まあ、これぐらいはロシアに限らずどの国の、否、どの州からの旅行客でも考えることだ。ニューヨークにはおよそ世界最高峰の美味と珍味が集結していて、伝統的なものから革新的なものまで、金と機会さえあれば望むもの全てを味わえる、みたいな風潮はある。
 実際のところがどうかというと、「シティ」に60年暮らしている身としては正直頷けない話だ。少なくともクラムチャウダーはボストンで食ったほうが旨い。
「ニューヨークで食っておきたいもの、ねえ。何だ、エッグベネディクトか、ルーベンサンドか? それともアボカド・スシ・ロール?」
「あー、そういう……何だ、カフェとかデリで食べるもの、みたいなやつじゃなくて」
 とりあえず「シティ」の代名詞みたいな食事をいくつか挙げるも、そいつはへらりと笑って首を横に振る。この分じゃサーモンとクリームチーズのベーグルも、「ピーター・ルーガー」のホットファッジサンデーも違うんだろう。そもそも晩に食うもんでもないが。
「それとも、――ああ、解った。お前ミュージカル俳優志望だろ、じゃあアレだろ。『サーディーズ』のシュリンプ・サーディーズ!」
 ブロードウェイ関係者御用達で有名も有名な、劇場地区西44丁目にある老舗レストランの名を出すと、陽気なロシア人の白い顔がぱっと輝いた。が、
「そう、それも確かに行きたい! 行きたいんだけれども、でも一番ってほどじゃないなあ」
 という、大正解とは言えない返事。どうにも考えていることがよく解らない。今時のロシアの若者ってのは、大体こんな風に回りくどいンだろうか。
「じゃあ何だよ、勿体つけずに言え。でねェと強制的に宅配ピザだぞ」
「ヤダナァ、タダノ冗談ダヨ、同志!」
 わざとらしいロシア訛り(素でも訛ってるんだが、今のは明らかに誇張されていた――典型的な「アメリカ映画に出てくる悪いロシア人」のアクセントだ)で俺の警告を軽く流すと、今時のロシアの若者はこちらに目を据え、やたら明瞭な発音でこう言った。 「マカロニ・アンド・チーズ!」

 ――俺の思考は短からぬ間ストップすることになった。今しがた耳から入ってきた単語を現実のものと認識しかねたからだ。
「……何?」
「だから、マカロニ――あっ、いや本場じゃ『マッケンチーズ』って発音しないと通じないんだっけか? ほら、あの青い箱に入ってて、すごく黄色い……」
「いや別に通じないことは無ェけど、何? マカロニ・アンド・チーズ?」
 マカロニ・アンド・チーズ、はあ? ニューヨークに来て一番食べたいものが、青い箱に入った――つまりクラフト社製のインスタントの――マカロニ・アンド・チーズ?
「お前、その……もう少し何かあンだろ? 例えば同じアメリカの家庭料理でも、ポーク・アンド・ビーンズ……いやそれも別に御大層な料理じゃねェが、とにかくもっと他人の財布から出させるに相応しいもんが」
「へ?」
 俺の当惑にまるで気付いていないように、ロシア人は純粋無垢そうな目を向けてくる。東西冷戦真っ盛りの60年代ならまだしも、グローバリゼーション華やかなりし現代のロシアっ子が、合衆国産のジャンクフードに羨望の視線を注ぐとは考えられないんだが。
「そりゃお前が食いたいってンなら、俺はウォルマートから箱入りのやつを買ってきて、鍋で7分だったか8分だったか、茹でて混ぜるだけのあれを作ってやるけれどもだ、別に『せっかくアメリカに来たんだしでかいハンバーガーが食いたい』ぐらい言ったって、暴食の罪に値したりはしねェと思うぞ?」
「さっきから何言ってんだ、あんた?」 19歳はきょとんとしている。

 俺はいくらかの可能性について考えた。この合衆国滞在歴2週間の若者は、「マカロニ・アンド・チーズ」という食べ物について、とんでもない誤解をしてるんじゃあないか? あるいは、これから少なくとも1年は同居するルームメイトに無駄な負担を強いるまいと、敢えて安価かつ簡便な料理をリクエストしているのか? それとも、そこまで思いやりの心に満ちているわけではなく、単純によく知らない相手に対して借りを作りたくないということか?
 が、最終的に俺が達した結論はこうだった:こいつはただ単に、本当に何の裏も表もなく、チーズとバターを絡めたマカロニを食べたいだけである。目を見れば判る。
「解ったよ」 俺は頷いた。 「クラフト社のマック・アンド・チーズだな。本当に良いんだな、それで」

  * * *

 その晩、俺は年季の入った台所に立ち、改めて夕食のために必要な材料を見渡した。見渡すまでもなかった。作業台の上に鎮座ましますのは「ブルー・ボックス」こと、天下のクラフト社によるインスタントのマカロニ・アンド・チーズだ。箱には「3人前」と書かれているが、俺ならこの一箱で5食は持たせられる自信がある(あくまで純粋にボリュームだけを考えた場合だ――味のことを考えれば2回目で飽きる)。最近ではオーガニック仕様も売り出されているのを見るが、こんなもんオーガニックにしたところで一体どれほどの付加価値になるのかは疑問だ。
 作り方は単純明快。大鍋に湯を沸かし、青箱の中に入ったマカロニを茹でる。だいたい7分から8分(俺が大雑把なわけではなく、箱にも「7-8分、またはお好みの柔らかさになるまで」と書いてある)経ったら湯切りして、バターと牛乳と付属のチーズ粉末――これが一体何のチーズなのか、本当にチーズなのか、自信を持って断言することは俺にはできない――を加えて混ぜる。それだけだ。火と熱湯の扱い方さえ理解していれば子供でも作れるし、よっぽど手際が悪いかコンロの火力不足でもない限り、Queenのベスト盤(A面)をうろ覚えで歌ってる間に出来上がる。1937年にこの即席食品がカナダ系アメリカ人によって齎されてから、どれほど多くの食卓が救われ、あるいは破壊されてきたのか想像もつかない。程度の差はあれ、合衆国で生まれ育った多くの人間は、この味に子供時代を見出すんだろう。
 俺?
 俺が生まれた頃、北米の大地にクラフト社のマカロニ・アンド・チーズなんてものは無かった。クラフト社自体が無かった。あったのはキャンベル社のスープ缶ぐらいだ。いや、ケロッグのコーンフレークもあったか。

「ほらよ、お望みのマカロニ・アンド・チーズだ」
 何の変哲もない白いボウルに、何の変哲もない真っ黄色のマカロニチーズを乗せる。気の利いた付け合せだのトッピングだのは一切無し。チェダーチーズ風の香りが漂い、食べなくてもどんな味がするのか判る、そんな一皿だ。先に食卓についていたロシア人は、俺が持ってきた待望の品に、おお、と声を上げる。
「なあ、一つ聞いていいか、イリヤ。一体全体どうしてお前は、数あるニューヨークの食べ物からこいつが食いたいなんて思ったンだ?」
 スプーンと飲み物のカップ(食えばもれなく喉が渇くものだ、マカロニ・アンド・チーズってのは)をガラステーブルに並べながら、俺は長らく抱いてきた疑問をぶつけてみた。別に俺はマカロニ・アンド・チーズを軽んじるわけではないし、クラフト社のインスタントに限っても悪いものではないと思う。「アメリカ人」の大部分がこの脂肪と炭水化物の権化みたいな食べ物を愛しているのも事実だ。だが、ロシア人にとっては?
「どうして、ねえ。まあ結構『なんとなく旨そう』ってのもあるんだけど、アメリカの料理の中で特にカロリーが高そうだったってのが一番かもだな」
「カロリーかよ」 俺は渋い顔をした。 「スニッカーズ・フライ食ったほうが良いんじゃねェか」
「え、何それ?」
「いや、勧めねェけどな。クラフト社のインスタント以上にお勧めはしかねるけどな。マック・アンド・チーズが悪魔の食い物なら、あれは大魔王の食い物だ。で、なんでまたそこまでカロリーを?」
 俺の些細な呟きにいきなり食い付いてきた若者から、さっと身をかわしつつ質問を続ける。そういやこいつはミュージカル俳優を目指しているわけで、カロリー(正確に言えばそれを齎す脂質や糖質)は不倶戴天の敵だと思うんだが。

「いやあ、よくぞ聞いてくれました! ……って程ではないんだけれども、まあその背景には聞くも涙、語るも涙の物語があるわけだよ。つまり――おれは子供の頃から、そういう高カロリー食に憧れを抱いていたわけですよ」
「はあ」
 ロシアの家庭で出される食事にはそんなにもカロリーが足りていないんだろうか。ロシアといえば寒冷地なわけで、そういう場所の伝統食は、身体を温めるために暖地以上の脂肪分や糖分が付加されるものじゃなかったか。いや、俺は一度も現地で暮らしたことがないから、本当のところは解らないし、あるいはこいつの育った家庭が一般的でない可能性もあるが。
「うち、親父は料理できないし、お袋は料理しなかったし、食事はみんなおれのバアちゃんが作ってたわけ。で、そのバアちゃんが作る料理っていったら、解るだろ、ソバの実のお粥カーシャとか、塩漬けキャベツのスープとか、生野菜にクワスを――ああ、クワスったってあんたアメリカ人だからなあ、わっかんねえかなあ……」
 何やら切実そうに首を振りながら、19歳は己の子供時代を回顧し始めた。クワスが何かは解らないが、とにかく子供の舌には向かない味の何かだろうということは察せる。塩漬けキャベツのスープなら味も解る。俺の同僚にロシア人はいないものの、ドイツ人の兄弟とはよく飲みに行くからだ。ザウアークラウトというやつで、あれとソーセージを煮込んだスープは流石ビールに合うんだが、やっぱり子供が喜ぶ食い物とは言えない。
「とにかく、おれん家では食堂のテーブル上に限って、『雪どけ』以前のソ連が存続してたの。もちろん、それはそれで旨いし、そっちのほうが健康には良いんだろうし、バアちゃんには感謝しか無いんだけども、……でも食いたいじゃん、ハンバーガーとかピザとか」
「そうかい」
「おれの意見が全ロシア人の意見なんて思わないでほしいけどな! ただ、おれはそういう子供だったし、今でもわりとそういう大人だって話」
 スプーンを握り締めながら、あんまり「大人」という雰囲気のない学生が言った。 「で、食っていい?」
「どうぞ」
 俺は気のない声で促し、自分は自分で別皿に準備しておいたチキンソテーを切り分け始めた。

 さて、生まれて初めてマカロニ・アンド・チーズを食べたロシア人の反応はというと、およそ俺の予想とかけ離れたものだった。どれほどジャンクフードに飢えていたとしても、感動のあまり歌いだすなんぞ予想できるわけがない。  正確な経緯を述べるなら、最初の一口に対する感想はまだ平凡だった。つまりただ旨い、と。世の中にはこんなにもコテコテの「カロリーの味」みたいな味がする食べ物があるなんて、という到底褒め言葉とは思えない評価も得た。続いて、これだけでも本当に旨くて正直どうしたらいいのか解らないけれども、これを更に旨く食べる方法はないか、と訊かれた。「これ以上はどうしようもないんじゃねェかな」という言葉をぐっと飲み込み、俺は上からチーズを掛けてオーブンで焼く、いわゆる「ベイクド」を試してみたらどうかと勧めた。
 冷蔵庫に入っていた賞味期限の近いピザ用チーズによって、それなりに体裁の繕われたインスタント食品を前に、食べ盛りの若者は居ても立ってもいられないようだった。
「他に何かやっとくことあるかな? ほら、調味料を掛けるとかなんとか」
「祈りでも捧げたらどうだ」 俺は気合の入っていない声で言った。
「主よ、この栄養豊富な、しかも電子レンジ調理できるインスタント・マカロニ・アンド・チーズの夕食に祝福をお与えください。そしてこれを割引セールで売ってくれた人々にも栄えあれ、アーメン、ってやつだ」
「何それ?」
 たぶん正教徒だろうロシア人は目を丸くした。流石に「ホーム・アローン」の話は通じなかったか。

 かくして雑な祈りが捧げられた後(そう、本当にやりやがった)、ベイクド・マック・アンド・チーズはカロリーに迷える子羊の口に入り、――暫しの静寂があった。皿一杯のグラタンを無言で食べ尽くした男は、やにわ椅子からすっくと立ち上がり、
「いける」
 とだけ言った。
「は?」
「ちょっと待っててくれミスター・ウォルター! 30分、いやその半分もあればできると思う!」
 全く事情の飲み込めない俺を置いて、そいつは新しく得たばかりの自室に駆け込み、予告どおり15分かそこらの間出てこなかった。防音のしっかりしていない家ゆえに、扉の向こうからくぐもった音でマイケル・ジャクソンの「マン・イン・ザ・ミラー」が聞こえてくるのが、却って意味不明さを加速させていた。
 謎めいた時間の後、ラジカセを抱えて戻ってきた男は、「今のおれの思いを歌にしたので聞いてほしい」という、ミュージカル映画でもなけりゃ耳にすることのない宣言と共に再生ボタンを押した。流れ出したのは言わずもがなの「マン・イン・ザ・ミラー」だったが、歌詞は全てクラフト社のマカロニ・アンド・チーズで作るグラタンを称える内容に替えて歌われた。思い返すだけでも正気を保てなくなりそうな――俺の第六感が、記憶の奥底に封印して二度とは触れるなと命じてくるレベルの経験だった。
 生憎と、この忌まわしい体験を封じておくのはどだい無理な話だった。何しろ歌が無駄に上手い。リズム感も抜群、音程も実に正確。ブロードウェイを志すだけはあるわけだ。耳にこびりつくどころか夢にまで出てきたので、俺は翌週ウィッチドクターによるカウンセリング・サービスを予約するかどうか心底悩んだ。

  * * *

 何故「アメリカ人」はマカロニ・アンド・チーズが好きなのか。
 作るのも食べるのも簡単だからか。滑らかな舌触りと柔らかな触感が落ち着くのか。アメリカ人のみならず、およそ人間は脂質と糖質を求めるようにできているからか。あれこれと考えることはできるが、「子供のころからよく食べていたから」というのが理由としては妥当じゃないだろうか。小学校時代の好物が今でも一番の好物、という人間は少なくない。ある人はママのアップルパイ、ある人は特定ブランドの宅配ピザ、あるいはピーナツバターとジャムのサンドイッチ、チリコンカン、そしてマカロニ・アンド・チーズ。たとえ一番の好物の座から転落したとしても、そういった食べ物は郷愁を呼び起こし、離れがたい愛着を感じるというわけだ。
 では何故子供はマカロニ・アンド・チーズが好きなのかというと、これは欠伸が出るほど簡単な証明だ。子供は野菜が嫌い。マカロニ・アンド・チーズには野菜が入っていない。以上、Q.E.D。
 こう考えれば、俺が紛うことなき「アメリカ人」であるにも関わらず、マカロニ・アンド・チーズにそれほど愛着がないことも簡単に説明できる。俺は子供時代にこの手の「コンフォート・フード」を食べてこなかったからだ。俺のお袋は手料理といえばチキンヌードルスープしか食卓に上げることがなかった。それが我が子に与えてやれる最大限だということは子供心に理解できたし、このエピソードを聞いて「お前の母親には息子への愛が足りていなかった」等と言う奴がいたら地獄に落ちるだろう。

 というような話をすることになったのは、ある日の昼休みのことだった。魔術師協会の知り合い四人、ニューヨーク支部の近所にあるレストランバーで、打ち合わせがてら軽く食おうということになったのだ。普段ならこんな高い店は絶対に使わないが、書記局長のレジナルド・"レジー"・エルズミーアが奢ってくれるというから遠慮はない。俺はバターソースのたっぷり掛かったロブスターロールを齧りながら、自分は自分で人をもてなす機会があったという話題に繋げたのだった。正気を疑われるのが嫌だったので、「ベイクド・マック・アンド・チーズのうた」の下りまでは喋らなかったが。
「つまり特定の食品への執着は、幼少期の愛着に起因する。――逆に、幼少期の不満から執着が生まれることもある。君の新しい同居人は後者というわけだ」
 蒸したムール貝の殻から身とスープを啜っては、生物管理部のウィザードが合いの手を入れてくる。この男は確か北ドイツ出身で、そのものずばり大戦時代のドイツ陸軍将校みたいなローブを職場に着てくる筋金入りだが、現在はグリーンカードを取って定住している、れっきとした「合衆国市民」だ。
「環境だけを見るなら吾輩もその彼と似たようなものだが、結果的には君と同じく、『幼少期に食べなかったものを今になって食べようとは思わない』タイプだな。吾輩には程よく渋みのあるヴァイン・・・・と良質のヴルスト、ジャガイモ、紅茶、酢漬けのニシン、ライ麦の配合率が概ね70%から85%の間に収まったパン、そしてケシの実を使ったクーヘンさえあればそれで良い」
「地味に要求が多いじゃねェかよ」
 澄ました顔で口元を拭う魔術師に、俺は白い目を向ける。 「ざっとフルコースかよ」
「あくまでも慎みを持って作り上げたリストだぞ? 豚のスネ肉もシュタインヘーガーも入れとらんではないか。君のようによくわからん匂い付きのタバコを吸うでもなし。ぜんたいオレは――」
 一人称が吾輩IchだのIだの安定しない魔術師は、そのまま小難しい理屈を並べにかかったが、俺は全て聞き流す構えを取った。視線を逆方向に移すと、レジーはトマトソースの掛かったイカのフライ(メニューによればこれが「ブルックリン流」らしい)をつまみ、その隣ではアイザック・"ちび助Tike"・ペンドルトンが、日替わりランチのアボカド・トーストを齧っている。

「まあ、どんな食べ物をいかなる理由で愛するか、は人それぞれとして」
 フライをジンジャービアで流し込み、一息ついてからレジーが言った。
「そこでクラフト社のインスタント食品が選ばれるのも理解はできるね。例えば私などはマクビティのチョコレート・ビスケットが大好物だが、世の中にはそれより美味しいお菓子が山ほどあるのは勿論解っているし、同じチョコレート・ビスケットにしたって、もっと上質で味の良いものを作るベーカリーをいくつも知っている。――その上で、自宅で紅茶を飲みながらくつろぎたい時に何を食べるか、という問いへの答えは決まっているわけだ」
「そりゃァ俺だって解るよ。ただ俺が言いてェのはだな、イリヤは初手クラフト社からまだ一度も他のマック・アンド・チーズを食ったことがないってことだ。それなのに奴ァ類似品と比較するどころか、これでアメリカの食を体験するにあたって思い残すことはありません、みたいな顔でいやがる。そこはお前もう少し思い残しとけよ、ハインツの缶入りマカロニも試しておけよって話だ」
 揚げ物を手で食っていても妙に優雅に見える、イギリスの貴族家出身ともっぱらの噂の(俺は断じてそうは思わないが)レジーに、俺は一応の反論を試みる。試みておいてなんだが、別にハインツの缶入りマカロニもそこまで旨くはないと思う。
「ブラザー・ウェンセスラスの言うことにも一理あると思いますよ、ええ。食べ比べる義務があるわけじゃあないですけど、手作りの味も知っておいて貰いたいというのは。たとえばこの店だって、メニューにちゃんと載ってますしね」
 ちび助は何の気なしに驚くべきことを言い、俺は思わず片付けたメニュー表をもう一度開いた。最初から魚介類を食べるつもりだったから、他の項目には目もくれていなかったんだが、果たして「前菜」のページには確かに「Mac 'n' Cheese」の表記があった。16ドルだ。――16ドル。マカロニ・アンド・チーズに16ドル。

「注文します?」
 あと20分で出てくるか解りませんけど、と呑気に言うちび助は無視して、俺は真剣に考えてみた。1箱1.5ドルのインスタントであれほど歓喜する男に、16ドルのホームメイドを与えたら何が起きるのか? 別にこんな高級そうな店に連れてこなくたって、16ドルあれば俺の家でも十分手の掛かったものを作れるはずだ。具を増やしたり、良いチーズを使ったり、調味料に一工夫したり、可能性は無限にある。
「なあ、ちび助」
「何ですか。一応言っておきますけど昼休みはこれ以上延びませんよ、ただでさえ打ち合わせ込みってことで30分長くしてもらってるんですから」
「違ェよ。おい、今日は俺が夜勤の当番じゃなかったよな、念のために聞いておくんだが」
「夜勤の日だったら、ブラザーがこんなところでランチしてるわけがないじゃあないですか。今頃シャワーも浴びずに部屋で死んだように眠ってる頃でしょう」
「お前は俺の日常生活を何だと思ってやがンだ。まあ良い、つまり俺は遅くとも18時には退勤できるわけだよな。良いぞ、俺にしては珍しく職務遂行への意欲が湧いてきたぞ」
 訳の解っていない顔をする後輩を尻目に、俺は早速頭の中でプランを練り始めた。帰りにはどこかで呑むつもりだったが、予定変更だ。ホールフーズ・マーケットに寄る必要がある……

  * * *

 その晩、俺は年季の入った台所に立ち、改めて夕食のために必要な材料を見渡した。マカロニ一袋、バターと牛乳、おろしたチェダーチーズとモッツァレラチーズ。パセリ、ニンニク、パプリカ、パン粉、そしてベーコンも忘れちゃいけない。俺は別に度を越したベーコン愛好家じゃあないが、「素晴らしいアメリカ料理」を作るのにベーコンを抜かすのは何かの裏切りだという気はしている。
 作り方は――どんなに金と手間を掛けようと結局のところはマカロニ・アンド・チーズなので、やっぱり単純明快である。大鍋に湯を沸かし、袋に入ったマカロニを茹でる。その間、フライパンでベーコンをカリカリになるまで焼き、染み出した油で各種のスパイスとパン粉を炒める。台所中に胃袋を刺激してやまない香りが満ち溢れ、何か大変に罪深いことをしている気分になってくる。神は人間にその日の糧を与え、悪魔はそこへ料理人を寄越したというが、だとすると今の俺は完全なる悪魔の手先である。
 一旦鍋を空にしたら、次はバターの出番だ。小麦粉と合わせてホワイトソースを作る。いや――これは「ソース・ベシャメル」だ。普段なら絶対に発揮しない繊細さでもって、小刻みに牛乳を加えてはよく混ぜ、滑らかに仕上げた特級品だ。俺が今から作るものも、考えようによっては「マカロニ・ア・ラ・ソース・ベシャメル・オ・フロマージュ」と言えないこともない。……言えないこともないはずだ。
 ともあれ、茹で上がったマカロニに絡めて準備は万端。あとはここに全てのチーズを投入して混ぜ合わせ、耐熱皿に移したら、香り豊かなパン粉を振りかけて、350°Fのオーブンに放り込んで焼くだけ。そう、手間を掛けるといってもやることは大差ない。クラフト社のインスタントなら10分で済むところが1時間かかるだけだ。それが良いことなのか悪いことなのか俺には判断しかねる。

 最近「400°Fで20分」と書かれた冷凍ピザを焼くのに25分かかるようになってきた、中古のガスオーブンから皿を取り出すと、表面には見事な金茶色の焼き目、ところどころ焦げたパン粉とチーズの匂い。こいつは上出来だ。自分がよくできた料理人だという確固たる自信は無いが、それでもどこか地方の素人料理コンテストあたりにこれを引っさげて出場すれば、まあ第2位あたりにつけて賞品(地元の特産品セットあたりが妥当なところか)を取ってくるぐらいはできるんじゃなかろうか。
「ほらよ、マカロニ・アンド・チーズだ。俺が通常達成できる最大限の仕上がりだ」
 ガラステーブルの上に置かれた皿を見て、陽気なロシア人は一瞬とても神妙な顔になった。おお……という低く抑えた感嘆の声。
「すげえ」
「ああ、凄いだろ。なにしろ最大限だからな。これ以上を要求すンなら店で食ったほうがコストパフォーマンスが良い」
 俺の説明にも聞く耳持たず、イリヤはスプーンを引っ掴み、香ばしく焼き上がった表面を崩しにかかった。ざくざくというパン粉の感触、持ち上げれば滑らかに伸びるチーズ、そしてちょうどの茹で具合を実現したマカロニ。むろん俺も味見はしたが、控えめに言って出来すぎた旨さだった。これぐらいにそそる食い物になってくれるなら、月に一度ぐらいはマカロニ・アンド・チーズを献立に入れるのも悪くないんじゃないかと思える。俺以外の誰かが作るという前提で、だが。
「うん」
 あれこれ考えながらビールを飲む俺の向かいで、イリヤは何かを噛みしめるように大きく頷いた。それから徐に口を開き、
「うまいよ、確かに。なんというか、ただ……上手に表現はできないんだけれども、一味足りないっていうか」
 と呟いた。

 予期していなかったフレーズが飛び出し、俺の頭は混乱しかけたが、すぐに最も受け入れやすい解釈をひねり出すことに成功した。
「おう、あれな、『一味違う』な」
「いや、『一味足りない』」
 にも関わらず、ロシア人は丁寧極まりない教科書英語の発音で、はっきりと先の発言を繰り返す。「一味足りない」。なんて響きだ。
 別にそう意思表示することは罪じゃない。当然だ。なんだったら「まずい」と言うことだって、この世界を生きていくには大切なこと。互いの味覚には埋めがたい溝が存在し、故にどこかで譲り合うか決別する必要がある、そう認識するきっかけになる。

 が、「一味足りない」。それをクラフト社のマカロニ・アンド・チーズに対して言うならよく解る。あれこそは「一味足りなさ」の典型で、だから世の比較的余裕がある人々は、そこに本物のチーズを足したり具を追加してみたり、色々な工夫をこらして自分好みの一皿に近づけようとするわけだ。それでも満足できなければ、今日の俺のように何もかも買い揃えて手間と時間を掛ける――そうして出来上がったものに「一味足りない」と言われるのは、掛けた手間の分だけダメージも甚大だ。
「もうちょっと塩味が欲しいというか、なんとなく物足りないってやつ。もちろんボリュームとカロリーに関しては文句なしだけども、おれとしては……ベイクド・マカロニ・アンド・チーズにはもっと不健康であってほしいというか、なんか」
 イリヤの論評は続き、俺の心はますます荒んだ。この発言を切り取って「ジャンクフードばかり食べていると語彙力まで低下する」という陰謀論をぶちたくなる程度には。
 いいや、心の中で文句を付けても仕方ない。こいつはマカロニ・アンド・チーズが好きなんじゃない、クラフト社のインスタント・マカロニ・アンド・チーズで作るグラタンが好きなんだろう。それが本質であって、後はどんなに手間と時間と金をかけても、栄養や彩りを補っても、全ては大きなお世話、ただの徒労というわけだ。――なんだかんだ言いながら一皿を平らげつつあるイリヤを眺めるうち、俺の脳裏をよぎったのは古典的なジョークだった。

  アメリカのNASAが宇宙に人類を送り込むようになったときのこと。
  When NASA first started sending up astronauts,
  彼らはすぐに、無重力下ではボールペンで文字を書けないことを発見した。
  they quickly discovered that ballpoint pens would not work in zero gravity.
  この問題に立ち向かうべく、NASAの研究者たちは10年の歳月と120億ドルを費やし、
  To combat the problem, NASA scientists spent a decade and $12 billion to develop a pen
  無重力下のみならず、上下逆でも、水面下でも、どんな表面にでも、
  that writes in zero gravity, upside down, underwater, on almost any surface,
  たとえ気温が氷点下、あるいは摂氏300度でも書けるボールペンを開発した!
  and at temperatures ranging from below freezing to 300 degrees Celsius.

  一方、ロシアは鉛筆を使った。
  The Russians used a pencil.


 これからは俺も鉛筆を使おう。実際はNASAだってそうしてたんだからな。

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