摩天楼のガラスと碧空を切り分けるように、黒い影が四つ交錯して飛ぶ。

魔術師の飛ぶ空 -Ace in the Hall-

 あれは何だ? 鳥か? 飛行機か? 否。力強い羽ばたきを打つ翼や、ヴェイパートレイルを引く鋼の体はなくとも、空を己の庭とする生き物はいる。例えば魔術師の中でも箒乗りスイーパーと呼ばれる人々がそうだ。世界魔術師協会ニューヨーク支部には選りすぐりの人材が揃っているが、とりわけ名が挙がるのは市内の魔術的事件に対応する実働部隊だろう。まさに今、イリヤ・シラエフの頭上を飛び違う四本の箒たち。
「そういや、生で見るのは久しぶりじゃねえかなあ」
 元より大柄な彼であっても、箒の飛ぶ位置を確かめるためには、首が痛くなるほど見上げざるを得ない。ひとしきり眺めてみたところ、彼らはただ飛んでいるのではなく、互いに鋭い位置転換や肉薄の応酬を繰り返しているようだった。
「戦闘訓練ってやつな。あれ、負けたら生身でビルに突っ込んだりするわけだろ? おー怖い」
 無論、彼らが万が一の事態に対する十全の備え――「保護」の呪文や耐衝撃用の付呪を施された装備、箒そのものによる自動飛行、等――をしているのは解っているのだが、いかんせん「地に足の着いた」人間には危機感のほうが勝る。折しも二つに別れていた組のうち片方、小柄な影が猛烈な体当たりを受けてがくんと高度を落とした。
「勝負ありってかな」 イリヤは口笛を吹く。 「負けたのがウェンなら奢って貰お」

 ――敷地内の運動場に戻ってみると、四人の箒乗りたちはみな地上に降りていた。彼は大きく手を振りながら、気兼ねなく声をかける。程度の差はあれ知り合いばかりだ。
「ハロー、チーム・ウォルターの諸君! 下から見てたぜ。最後に痛いの貰ったやつ、ありゃウェンか?」
「どうして俺が真っ先に挙がるンだよ馬鹿たれ。クララの本日初失点だ」
 第一次大戦中の戦闘機乗りを思わす、身体に沿った飛行服姿の壮年男性が、いかにも気疎そうに間延びした声で応える。
「うわ、あんた女の子にあの激烈タックルかよ。悪い魔法使いだなあ」
「悪い魔法使い役だったんですよ、ブラザー・イリヤ。私とブラザー・ウェンセスラスが所謂アグレッサーを務めたわけです」
 その隣に佇む中性的な魔術師――左目の下から首筋にかけて走る大きな傷跡が嫌でも目立つ――は、彼の軽口を嗜めるように付け加えた。
「ああ、憎まれ役ってやつですね、ブラザー・アイザック。年長者の辛いとこだ。まあでも残念残念、ウェンがヘマやらかしたんだったら罰ゲームで奢らせたのに」
「誰がてめェに奢るかよ。書記は書記局でお優しいレジー局長殿に可愛がって貰え」
「レジーは! レジーは駄目なんだよ、必ず後から倍返しなんだよ局長は……」
 書記局ではまだまだ下っ端を脱した程度の位置にいる彼は、頭を振りながらウェンセスラス――箒乗り部門のチーフであり、彼の同居人でもある――とその部下たちを相手に、しばらくは雑談を続けた。時刻を見れば昼休みだ、歓談には適した時間帯である。
「そういや、そっちの……ジョニーだったっけ? 前はもうちょっとシュッとした、いい箒に乗ってた気がするんだが、どこ行ったんだ?」
 と何気なく問うたときには、場の空気がいくらか冷えた。先程「失点」を付けてしまった、深緑のコートを纏う女性隊員が、
「ブラザー・ジョンの『深紅の旋風イル・ヴェント・ロッソ』号は、二週間前の任務における衝突事故で芯材が破損しました。現在はメーカーで整備中です」
 真冬のハドソン川に張った氷の如き声音で、淡々と背景を説明した。保証期間内で良かったですねと彼女が言い足す傍らで、ジョンと呼ばれた若者が、高い上背も型無しの姿勢で項垂れていた。
「さて、それじゃあブラザー、私はそろそろ戻っても良いですかね。昼食を外で取りたいので、早いところ備品を返してこないと」
「おう、ちび助。お前らも適当に帰ってろ、分析と訓示は後にする」
「チーフは?」
 返事の代わりに、ウェンセスラスは片手の指を二本立て、口元に当てるジェスチャーで応えた。ああ、と納得したような声が上がる。
「どうぞごゆっくり。戻ってくるときには一応シャワー浴びたほうがいいですよ」
「アレだろ、前になんか管区長だか支部長だかに煙たい目ぇされたんだろ?」
「ブラザー・ウェンセスラスは喫煙の害と印象への影響に無頓着すぎるのです。これに関しては管区長が全くの正論であると申し上げておきます」
 のんびりとした「ちび助」ことアイザックの言葉に、冷ややかなクララの意見が続く。が、当の本人はまるで気にした風もなく、ひらひらと片手を振って歩き去るばかりだった。無論、喫煙ブースへ向けてだ。淀みない足取り、大きな歩幅、見る間に遠くなってゆく背中。

「たぶん、昼休みのうちは戻ってこないよ」 ジョンが言った。 「吸い出すと長いからね」
「ウェンのやつ籠もるからなあ」
 深々と頷きながらイリヤも応えた。なにしろアパートの同じ部屋に暮らしているからして、あのダウナーな箒乗りの喫煙方針も一通りは理解できている。何か仕事で行き詰まったり、ストレスを抱えて帰宅したり、あるいは特に何の理由がなくとも、同居人は不意に自室へ引っ込んで、紫煙の中に己を匿うのが習慣だった。いつも思い立ったようにソファを降り、ポケットからライターを掴み出して――
「――あア!?」
 そこで彼は頓狂な叫び声を上げ、否応なしに残る三人、および運動場の外周を通り掛かる支部職員たちの注目を集めることとなった。
「どうしたのかな、ブラザー・イリヤ」
「ライター! ……いや、つまり、おれが来た理由よ理由! 忘れ物!」
 脳裏にありありと蘇った、家を出る直前の光景。間違いのない耐久性を感じさせる、年季の入った金属製のオイルライター。換気扇の前で一服したきり回収し忘れたのだろう。
「忘れ物、ですか?」
「あいつ家にライター忘れてったんだよ、台所に置きっぱなしで……えっと喫煙所って何個かあったよな? ウェンっていつもどこ使うとかある?」
「本館裏手の屋外ブースだね、満員でなければ。まあ、無くても大丈夫だと思うけど、彼なら」
 魔術師であれば、よほどの不適性がない限り「点火」は基礎中の基礎、いわゆる汎用呪文でも最初期に習得するような魔法だ。故にアイザックは悠長な態度を崩さなかったが、ライターを持つ本人はそうでもなかった。
「いや、あいつはこういう時だいぶ面倒臭い。ライターで点けたいとき手元に無いってのがダメなんだ。なんで、悪いけどちょっと行ってくるわ! 後輩への八つ当たり防止のためにも!」
 最後の台詞はそこまで本気ではなかったが、ともかく彼は長身を活かした全力疾走で喫煙者の後を追った。幸い、相手も早足とはいえ徒歩のペースだったので、喫煙ブースの手前で追いつくことになる。

「ウェン! ストーイ! ストーイ! ちょっと待った!」
「……あンだよ」
 急くあまりに母国語での呼び掛けが先に来てしまったが、ともあれ通用はしたようだ(尤も、この同居人も完全にロシア語が解るわけではなく、「進めダヴァイ」と「止まれストイ」を聞き分けられる程度だが)。革のジャックブーツを履いた足は一歩を踏み出しかけて引っ込み、煙るような暗色の目が肩越しに彼を見る。
「何ってあんたライター置いてったろ! 流しのとこにぽーんってさ、物は大事にしろよなあ」
「その流しのオーブン台融かしたてめェにゃ言われたくねえンだよな。重過失で火災保険の適応外になったンだぞ……」
 彼がかつて、具体的には同居から三年目の冬に、ローストビーフを作ろうとして起こした騒動を引き合いに出しながら、ウェンセスラスはガラス張りの扉を引き開ける。無味乾燥なサンセリフ体で記された「SMOKING ZONE」の文字。幾度となく煙に燻されたせいだろう、内側からうっすら曇っている。
「それはさあ、ちゃんと払っただろ? 二年がかりでだけどな、おれの多くはない稼ぎのうちから毎月きっちりと――」
 弁解と共に彼も歩を進めたが、そこで喫煙者は戸に手を掛けたまま、怪訝な顔で振り返った。
「……あ?」
「何? えっ、おれの知らない利子とかがどっかに発生してんの? 未払いの?」
「入ってくンのかよ」
 疑念の纏わる声だ。 「お前、吸わねェだろ」
「あー、まあ吸わねえけど」
 6フィートの長身をひょいと屈めて、扉を押し止める腕の下を潜り抜け、彼はブースの奥にある長椅子に腰を下ろした。奥といっても数歩で到達する奥行きだが。
「とりあえずほら、ライター」
「応」 床に据え付けられた灰皿越しに、金属の小さな点火器が遣り取りされる。
「悪いな」
「いやまあタイミングよ、タイミング。これについては貸し借りなし、だけども」
 それと同程度に傷の入ったフライトジャケットから、革の煙草入れを取り出す家主を見上げ、彼は話題を転換するための言葉を捻り出した。
「タイミングといえば、さあ」
「んあ?」
「いや、今日ポストの中身を引き上げてきたらさ、あんた宛ての手紙が一通あったんだ。DMとか些細なポストカードじゃなくてな、ちゃんと『親展Confidential』ってスタンプ捺した封書な」
「それが分かった時点で見なかったことにすべきなンだがなあ」
 骨ばった指が細い紙巻きを抜き取る。機械で均一に巻かれた市販の品ではない。フィルターも吸口も付いていない。いわゆる手巻き煙草というものだ。少し遅れて、キンと高い火打金の音。
「基本はおれだってそうするね。差出人が役所とか携帯会社とかなら。――その上で訊きたいんだけれども」
「何だよ」
「あんた最近、死にかねないぐらいの大怪我したか、破産しかねないぐらいの貴重品ぶっ壊すかしたの?」
 彼は注意深い目つきで、同室者の一挙一動を観察した。タールの臭いが染み付いた席に就きもせず、浅く息を吸い込んで吐き出す一セットの動作を。

「……いや、まだやってない」
「じゃ、近々する予定があるんだな」
 腔内でふかす程度に煙を転がす喫煙者へ、イリヤは肺の底から吐き出したような溜息を向けた。灰色の目が重苦しく淀んだ。
「保険会社からだった」
「だからどうした」 宛先に名を記された男は冷ややかな態度だ。
「実働部隊員は全員、何もなくても死亡保険に入る決まりなンだよ。こちとら喫煙者だから掛け金が高ェんだぞ、箒の操作にゃ関係無ェってのに――」
「そんなことぐらい知ってるっての。おれだって一応入ってるんだ。でも、支部が契約してるのとは違う会社だった」
 その冷淡さに抗うように身を乗り出す。 「あんたが個人で入ったんだ」
「保障があるのは良いことじゃねェか。非常時に金があるに越したことは無いぜ」
「金の保障はされるけど、命の保障がされるわけじゃないんだよなあ」
 それでも返答が他人事じみているには変わりなく、彼はいよいよ腰を据えて話し合う必要を感じた。鼻先に感じる紫煙の匂いには、どこか場違いな酸味が混じっていた。砂糖を入れたレモンジュースの香りだ。
「ま、とりあえず座れよ、ウェン。はっきり言っておかなきゃだ」
「何をだよ」 気疎げな動きで腰を下ろしながら、ウェンセスラスはまた煙を吐き出す。
「その……あんた箒乗り部門のチーフだろ? チーフってそんな頻繁に最前線まで出てって箒を乗り回す立場じゃないだろ。仕事をもうちょっとこう、選ぶ気ねえの?」
「選んだ結果なんだよなァ、これが。上の連中はもう三十年は前から、さっさと引っ込んで内務をやれッて言ってるよ」
 言われてイリヤは思い出す。年度の変わり目になると人事局から届けられる、マスターウィザードへの昇進と部署の異動を知らせる辞令。それを尽く蹴り続けている、勤続およそ八十年――戦後に世界魔術師協会が再編され、ニューヨーク支部が新生して以来――の箒乗り。積み重ねられた経験と知識、魔術の腕前は、間違いなく一つの財産だ。
「そりゃ当然だろ。賢明な判断ってやつ。お偉いさんたちはあんたが死んだら困るんだ」
「かもな」
「……あの、おれもあんたが死んだら困るんだけど、色々と」
「だろうな」
 何の気なしを装って発した意見が、此度は比較的素直に受け入れられた。内心で胸を撫で下ろす。生命を案じる言葉まで疑われてはたまったものではない。
「俺ほど良心的なルームシェア相手なんざ、ニューヨーク中探したってそう居るもんじゃねェ。今から支部の通勤圏内に部屋を探し直すのはお前、手間にも程があるってもンだ」
「いや、別にそういう理由で困るわけじゃねえよ? というか、あんたシェア相手としては正直そんなに良心的でもなけりゃ快適でもねえよ?」
「おう今何つった問題点を挙げて論理的に説明してみろ」
「だって、実際あんた……いや」
 かと思えば急に苛立たしげな視線を向けられたので、彼は慌てて弁解と共にルームメイトの実態を解説しようとした。が、そうしているうちに話題が横に逸れ、本来の議論がなおざりになると気が付いたため、思い留まった。
「イエイエ何ノ問題モ御座イマセン、貴方ハ革命的カツ理想的ナ同居人デアリマス、栄光ナル同志ウォルター! ……で、話は戻るんだけど」
 半世紀前のハリウッド映画に登場する悪役のソ連兵めいた、戯画化されたロシア訛りの英語とオーバーリアクションで彼は押し流した。そして、改めて神妙な顔を作って同室者と向き合った。

「そういう利害関係はオフにしたとしても、あんたが死ぬと困る、というか嫌だろ、つい昨晩まで一緒にメシ食ってた相手が死ぬとか」
「そうかねえ」
「そ……や、あのさ、ちょっとまずあんた自身の意思を確認しておきたいんだけど」
 突き返される言葉があまりに淡白で、イリヤは当惑しながら次の言葉を探した。日頃の何気ない、例えば酒や食事やビデオゲームの話をしているときは、もっと(あくまでも今と比較すればだが)活き活きとしたやり取りが成り立っていたはずだ。言葉に味や香りがあるとすれば、今しがたまでの会話よりも、この場に漂う紫煙のほうがまだ味わい深いだろう。
「あんたは別にこう、死にたいとか命が惜しくないとか、そういう生存への意志が希薄なこと言ったりはしないよな?」
「しねェよ、誰がするか」
 そんな無味無臭の声色が、ここに至ってようやく彩りを取り戻した。 「俺は死にたくない」
「だよな! ああうん、それは良かった。おれはあんたが何か、市民の安全とか世界秩序とか正義のためなら命ぐらい捨てられるなんて言い出すような、気高い自己犠牲の精神とは絶対に無縁だと思ってたんだ」
「褒めてねェよな」
「大絶賛してる。で、それが解ったところで訊くんだけれども」
「死ぬのが嫌ならどうして実働に入ってンのか、だろ」
「……そうだよ。支部で一番死亡率の高い部署じゃねえの、あそこ」
「統計によればな。まあ、それでも上手くやってりゃ死なずに済むもンだ。それと引き換えに、ニューヨークの空を飛べる」
「引き換えにするほどの価値があるってことだよな? 何度死にかけたって」
 イリヤは懸命に想像しようとした。支部のスイーパー部門に所属しなくとも、適切な魔術を身に着け、免許を取り、飛行許可が下りさえすれば、一般市民も箒で空を飛ぶことはできる。ただし、それは市街地を遠く離れた場所での話だ。ニューヨーク市内は全域において飛行制限が掛けられており(これは箒に限らず、航空機もドローンも騎乗用ワイバーンも同じことだ)、摩天楼の空を見下ろすフライトを味わえるのは、緊急出動のかかった実働隊員のみということになる――絶景を悠長に楽しんでいる暇があるとは思えないが。
「そりゃ、普通はできないことだろうけどさ、自分で自分をコントロールして空を飛べるってのは。今はだいぶ手段も増えてきたけど、それだって金が掛かるし、昔はもっと――」

 そして思い当たった。昔といえば、だ。この胡乱な同居人の話を完全に信じるならば、魔術の才能が開花するより前から、違う手段で空を飛んでいたというのだ。今からちょうど百年前、当時から高層ビルの街だったニューヨークではなく、未だ牧歌的な光景の広がるヨーロッパ大陸の空を。
「つーかさ、あんたその……おれは未だに半分ぐらいしか信じてねえけど、第一次世界大戦でフランスの外国人航空隊に志願して撃墜王になって、それでドイツの戦闘機にやられたときに魔法の力が目覚めたってアレさあ」
「そんなに信憑性無ェか、あの話?」 黒褐色の目が露骨に睨みを利かせてくる。
「ネットでよく聞く『俺のじいちゃんが真珠湾攻撃のときエンタープライズに乗ってたんだが』ぐらい信憑性ない。いや、まあ半分ぐらいであっても一応信用するとしてだ。つまり、空を飛んでて撃墜された、ってところな」
「一番信用されたくねえところだけ信用するのな、てめェは」
「おれは現実的なので。――あの頃の戦闘機ってのは、つまり今のと比べて全然耐久性もないし、無線もついてないし、緊急脱出装置もなかったわけだろ。撃墜されるってのは死とニアリーイコールだった」
「そうだ。連合軍パイロットの平均寿命は初出撃から二週間だった」
「で、あんたの話によれば……とにかく奇跡的に何かが起こって、機体は地面に激突しなかったし、ドイツ軍の陣地から死に物狂いで脱出はできたけれども、撃たれて血は大量に出るわ、塹壕跡に転げ落ちて骨折して立てなくなるわで、とうとう死ぬところだった」
「そうだ」
 単調な肯定の後で、イリヤは大きく息を吸った。タールとニコチンと灰、子供が夏休みにスタンドで売るレモネードめいた酸味、そして乾いた無常感のカクテルを。
「怖かったろ?」
「あれ以上に怖い思いはしたことがねェな」
「死にたくないって思ったんだろ、その時も」
「死なずに済むなら何だってくれてやると思ったンだが、くれてやる物が思いつかなくて絶望したもんだ」
「なのに、あんたは止めなかったんだ」
 喫煙者の呼吸を真似るように、長く細い息を吐き出す。 「空を飛ぶことを」

 しばらく答えは返ってこなかった。長く掛かるだろうことは予期していたし、いくらでも待つつもりはあった。曇りガラス越しに見上げる空は、それでも目に染みるような紺碧だった。
 そして、言葉より先に動きがあった。ウェンセスラスが煙草を口から離し、小さな橙の火をつと虚空に向けたのだ。循環排気システムの気流に沿って流れる紫煙が、そのとき不意に挙動を変えた。あたかも煙そのものが意思を持ったかのように、空気に逆らって形を描き始めた。アルファベットだった。
「……えー、ええー、――ゆな・ぼるた・ちぇ・あっびえーと・このすき……何? いる……」
「声楽家ならもう少し粘って欲しかったンだがなァ。別に専門でなくても、イタリア歌曲ぐらい講習でやンだろ」
「あ、これイタリア語!? イタリア語か! ああどうりで……いやおれイタリア語解んねえけど」
「俺も解るのは英語とフランス語とロシア語だけだ。つまり、こうだ」
 煙草の主がさっと手首を返すと、瞬く間にアルファベットの羅列が組み変えられた。この程はイリヤにも理解できる言語、すなわち英語の文章だった。

「――『ひとたび飛ぶことを味わった者は、地を歩いていても空を見上げずにいられないだろう。かつて自分がいた場所に、いつでも戻りたいと願ってしまうから』……ああ、おれ知ってるぞこれ! レオナルド・ダ・ヴィンチ」
「は、そんな文句一言も残してねェんだな」
 残念ながら、とウェンセスラスは手を引っ込め、卑近な嗜好品を元のとおりに据え直す。紫煙で描かれた文字はたちまち霧散し、狭苦しい巣箱の空気と同化した。
「なんだよ、ペーパーバック世界の名言集お得意のアレかよ。なあウェン、あんた知ってるか、ユーリイ・アレクセエヴィチは『宇宙に神は見当たらなかった』なんて言ってねえんだぞ」
「知ってるよ。ガガーリンじゃなくてチトフが言ったンだ。――ともかく、大体の名言と同じくこいつも出典は間違いだが、言葉自体は俺の答えとして最適だ」
 厚みのそれほどない背を椅子に凭せ掛け、組んだ脚の上下を大仰な動きで入れ替えながら、かつての飛行機乗りは間延びした調子で言う。
「なあイリー、こればっかりは経験が無ェ奴には理解できねンだよ。俺ァ今こうして地に足つけてる間だけなら、命のほうが大事ッて断言するがね、一度飛び立ったら最後だ。もう忘れちまうンだ、怪我が怖いとか死にたくないとかいう考えは」
 イリヤは無言で箒乗りの横顔を見た。僅かに上向いた顎と遠い焦点で、意識が正に空の彼方へ向けられていると知れた。
「朝の四時に緊急通報で叩き起こされて、玄関のドアを閉めるあたりまでは、俺も『こちとら夜勤明けだぞ畜生』ぐらい思うンだが、『飛行』を唱えてイースト川を渡り切るまでには、もう通信局のオペレーターに百万ドルやってもいい気分になってンだ。箒の柄を少し上に向けるだけで、地上よりずっとキレた空気が俺についてくる。頭の周りが一面インク瓶みてェなコバルトブルーで、真下に見える東の端だけには橙が立ち上ってる。雲の端なんか虹色がかってるのが解るぐらいなンだぞ。お前な――」

 滔々とした台詞がふと途絶える。息継ぎめいて煙草を口元から遠ざけ、軽く頭を振る仕草。
「お前、あんな綺麗なもンをな、俺の自由にできるッてのはな、何と引き換えどころの話じゃねえ。条件を聞く前に頭を縦に振ってンだ。仕方がねェんだよ」
「なるほど」
 やっと会話に割って入る許可が得られた、イリヤはそう判断して首肯した。
「全然解らねえってことがよく解った。うん、つまり言う通りで、おれ飛行機だって一度しか乗ったことねえし、解らなくて当然なんだな。あんたの語彙力の問題もあると思うけど」
「息をするように俺をこき下ろしやがって。――ああ、そうだよ、お前にだってあンだろ」
「何が?」
 きょとんとして目を瞬く彼に、ウェンセスラスは煙草の先を向けながら続ける。
「飛行機に乗った理由だよ。ミュージカル俳優になってブロードウェイで歌うためだろ、お前の場合。だからハイスクールを出て、国を出て、こっちに来た。徴兵逃れまでしてだ」
「……あー、そっちか」
「そりゃァ兵役拒否ぐらいでKGB……じゃねェや、今はFSBかSVRか? とにかく国家権力に消されはしねェだろうが、何かしらまずい事になるのは同じだ。それでもお前は来ちまった」
「そう、いや、一応ちゃんと公的な手続きは踏んで来たよ!? あんたに見せたビザも外国人登録書も本物だったろ!?」
 おれ不法滞在者じゃねえよ! 両手を挙げて弁解するイリヤに、若かりし日の彼を受け入れた同居人は、ようやく意地の悪い声で笑った。
「当然だ。前に一度シェア相手がやらかしてからは徹底してンだよ。まあ、俺もお前もこの有様で、だから魔術師でいられるッて訳だ」
「へ?」
 彼は当惑した声を漏らし、ややあってから相手の理屈に気が付いた。協会が掲げる憲章にも登場するくだりだ。魔術師が魔術師であるために必要な三つの資質とは――
「欲望、感情、理性、ね。そういう意味ではまあ……や、でもあんた、理性って点ではなんかいまいち……」
「文句でもあンのか」
「いや欲望と感情って点では一切異論なしよ? そりゃあ『空を飛びたい』も『空を飛ぶって楽しい』も『死ぬのはいやだ』も巨大な欲望と感情だろうけど、理性はさあ……」
 日常に散見される理性に欠けた行い――保険料が割高になるにも関わらず喫煙を止めない、マルチプレイFPSの対戦結果が不服で掴み合いの喧嘩をする、等――を思い返し、彼は渋い顔をしたが、延々と反論を並べ立てたい気分でもなかった。少なくとも、予想される事故に備えて損害・傷害保険に加入するのは十分理性ある行動だろう。

「……理性はアレだけども、おれはあんたに一定の理解を示します。できればあんたの定期保険が無事に満期を迎えて、死んだときより多くの金額が手元に残りますように」
「死亡時の保険金と満期返戻金は同額で、別に死んでても生きてても大差は無ェんだよなあ」
「大差あるだろ! あんたが生きてるか死んでるかがまず大差だよ! あんたさては自分が死んだ後には本気で何も残らねえと思ってるだろ!」
 ところが結局「同居人の自尊心と理性の不確かさ」という点は解決していなかった――自分の心配が何ら重大に受け止められていないと見るや、彼は猛然と抗議の声を上げたが、網で空気を捕らえるようなものだった。
「まァ心配すンな。チーム・ウォルターのちび共が一人前になるまでは、何がなんでも俺が面倒見ねェとならねえんだ」
「ついでにおれの面倒も見てくれると有難いんですけどねえ!」
「お前は嫌だ」
「なんで!?」
 そりゃァお前、血縁関係も無けりゃ弟子に取ってるでもない37歳の男を養う義務はねェわな――ひらひらと片手を振りながら、見た目に四十絡みの男は言い、二十代半ばにしか見えない同居人を突き放した。
「いや、それを言うならブラザー・アイザックなんてアレだろ、あの顔で250歳かなんかだろ!? それをちび助呼ばわりしてあんたは――」
「あァ? てめェ奴の話は頭っから信じるのに俺の身上は半分しか信じねェのかよ」
「あんた話の盛り方が全体的に幼稚なんだよ! ブラザーの話のほうがなんというか、生々しくて重みがある! 開拓時代のペンシルバニアで兎の煮物作る話とか!」
「おうこの野郎そンなら俺も生々しい話をしてやろうか、塹壕戦の合間に落ちてる弾丸削って磨いてネクタイピンやカフスボタン作って、将校に売りつけて酒代稼ぐ話だとかな」
「あんのかよそういう話のストックが! 要らねえよ! あっそうだ、別に昔話はしてくれなくても昼メシ奢ってくれたら信じてい」
「嫌だ」
「あッくそ即答しやがった!」
 自分のアイデンティティと昼食代のどちらが惜しいのかと、彼は更なる攻撃を加えようとしたが、止めた。それよりも、空を飛んでいる時以外てんで無気力な、この知己の魔術師の魂が、青天井を突き抜けてしまわぬよう試行錯誤すべきだろう。紙巻き煙草は吸い方次第でずっと長く燃え続ける。魔術師も永遠には飛び続けられないが、誰かがほんの少し手を貸してやるだけで、空の青さを楽しめる時間は大いに延びるはずだ……

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