日ごろ縁のない階を訪ねるというのは、どこか落ち着かないものだ。ましてや、そこが13階なら。

自由の翅を捉える -Not So Bad Neighbor-

 我々の拠点である世界魔術師協会ニューヨーク支部本館、通称「ザ・マンション」は、国内でそれなりに名の知れた高層建築だ。世界屈指の摩天楼、ワールド・トレード・センターやエンパイア・ステート・ビルディングには及ばずとも、まあメットライフビル程度の高さはある。アール・デコを気取った幾何学的デザインの造形は、ミッドタウン・イーストの鹿爪らしいビル群にあってよく目立ち、州外から訪れる魔術師たちにとってはちょっとした撮影スポットだ。天辺のアンテナが無駄に長いとか、尖塔の装飾部で高さを稼いでいるといった事実もないので、当然ながら内部にはぎっしり60ものフロアが存在し、24基の高速エレベーターによって接続されている。
 そんなビルの居住者である我々魔術師は、言うまでもなく無闇やたらと伝承・タブー・験担ぎ等に神経質な連中だ。ニューヨーク支部が同ビルに入居したのは戦後(魔術師ならぬ人々の認識と同様、第二次世界大戦の終結後を指す)のことだが、施設の改装は大変に面倒なものだったと聞く。まず、13階はどう考えても不吉なので最初から存在しないものとする。当時からニューヨークに多数居住していた中華系の魔術師たちの希望を容れ、4階と14階も亡きものとする(中国語の「四」は「死」と同じ発音なのだそうだ)。
 と、そこで異議が出される。キリスト教徒と華人だけ贔屓されるのは不公平ではないか? かくしてイタリア系の人々が忌避する17や、イスラエルで最も不吉とされる6、ピンゾロの目は不運の証で縁起が悪いから11、等が次々と排除されていった。おかげで、地上60階建てであるはずのビルなのに最上階は71階、という奇怪な事態が発生し、変人たちの巣食う魔窟らしさはいや増した。
 事態は思わぬところで打破された。エンパイア・ステート・ビルディングが再び世界一高い建造物になった年、ニューヨーク市内のビルオーナーには以下のような訓示が通達された――「円滑な避難および救助活動に支障が出ないよう、ビルの階数表示は実際の階数と一致させること」。
 こうして「ザ・マンション」に13階(および、その他あらゆる難癖によって取り除かれた階)が戻ってきた。円滑な避難および救助活動と引き換えに、65年に渡り奇妙なフロアマップを使い続けてきた魔術師たちの活動には大いに支障が出たが、それも暫くの間だった。一般客向けパンフレットの構内見取り図も洗練され、エレベーターのタッチパネルには続き番号が整然と並び、10階の上がいきなり15階ということもなくなった。そして2018年も終わりに近付いた今、私はこうして13階の廊下を歩いている。すぐにでも逃げ出したいというほどではないが、あまり長居したくもないという曖昧な心地の悪さを抱えながら。
 誤解しないでほしい――私がこのフロアに落ち着かなさを覚えるのは、敬虔なクリスチャンだからではない。私は無神論者でこそないが、少なくとも相当な不信心者だという自覚があるし、獣の数字もジェイソン・ボーヒーズの命日もろくに気に掛けたことがない。また、廊下の壁がダークブルーで、床の絨毯には塵一つ落ちておらず、微かにオルゴールアレンジの流行曲が聞こえてくるという、歯医者の待合室みたいな空間だからというわけでもない。全ては単純な理由だ。ニューヨーク支部本館13階は、州内の魔術師たちの間にその名を轟かす、法務部の専有オフィスなのである。

「いい加減にしてくれ!」
 リフォーム当時の法務部長(ないし、実際の施工を担当した内装業者)のプロ意識を誇示するような、美しいウォルナット材の扉をノックするなり、中から聞こえてきたのはそんな叫び声だった。より正確に言うなら、ノックの後に扉を引き開けるのと同時だった。
「なあ、ウンディーネとの離縁相談についてなら後にしろと言って――」
 ぱっと視界に飛び込んでくるのは、長方形の大きな窓と、雰囲気作りのために置かされた感が否めない観葉植物の鉢。客人を萎縮させるのに十分な、重厚感溢れる木製のデスクには、振り向きざまに戸口をきっと睨みつける男性。
「――あっ」
 泥沼の相続裁判に臨むときだってこう険しくはなるまい、という顔がふと緩む。人違いの相手を怒鳴りつけてしまったことに気付いたらしい。額に張り付いた灰色の前髪から、面食らって丸くなった目が覗いていた。
「当面のところその予定は無いんですがね」 私は肩を竦める。 「後にしましょうか」
 口の先でまごつくような、いや、という言葉。三十路手前と見える男性は、乱れた短髪を急ぎがちに整えながら、革張りの椅子から立ち上がった。ダークブラウンの背広の裾を払い、細身のタイを軽く直す。
「もうきみが来る時間だったのか。すまない、入ってくれて構わない」
 こちらが部屋に踏み込むのを待たず、彼は早足で歩み寄り、ペンだこの目立つ右手を差し伸べた。骨ばった指が私の腕に力を伝える。質実剛健な手だ。いかついロースクールの紋章入り指輪を嵌めたり、戦場にでも持っていくのかという高耐久の腕時計を着けたり、決して葬式には使えないようなカフスボタンを留めたりといった虚栄とは無縁の手。
「こちらこそ、変な時間にアポ取ったりしてすみませんね、ブラザー・レイフ」
「レイフと呼んでくれよ、ザック」 握り合った手を離し、私を迎え入れながら、彼は白い額に皺を寄せる。
「ぼくはその、『ブラザー』というのがあんまり好きではないんだ。本当はそうでないものを、強要された関係みたいに聞こえる」
「それは失礼しました、レイフ・ソラリンソン弁護士エスクワイア
 眉間の皺がますます濃くなるのを見、私は半開きの口から変な音を漏らしそうになったが、間一髪飲み込むことに成功した。あまり魔術師をからかうものではない。とりわけ妖精の秘術に極めて詳しく、自他に対して真摯で、己の職分に対する十分な誇りとニューヨーク州弁護士の資格を持ち合わせているような魔術師を。

「それで、ぼくのオフィスに顔を出すなんて珍しいとは思ったけれど」
 数分後、私は部屋の手前に設けられた応接スペースに腰を下ろし、いくらか険の取れた顔つきのブラザー・レイフと向かい合っていた。視線を少しばかり遠くに向ければ、どんなハリケーンでも吹き飛びそうにないデスクの上に置かれた、アルミ製のフォトフレームが見える。こちらに背を向けてはいるが、中にどんな写真が入っているのかは知っている――雄大なアイスランドの氷河を背に、彼を含む一家5人がポーズを取る姿。
「一体どうしたんだ。チーム・ウォルターが任務中に破壊したガラス窓の補償について、ぼくに頼んだりなんてしないよな」
 例えば「新進気鋭」という言葉がよく似合いそうな顔立ちの、実のところ私より勤続年数の長い法務官は、ブルーグレーの目を細めながら尋ねてくる。
「まあ、いわゆるご機嫌伺いです。レイフには先日もいろいろ世話になりましたからね、そのお礼も兼ねて」
「サンドマンの件で? よせよ、妖精の起業相談なんて可愛い案件だよ。第一、きみが礼をする必要はない。ぼくのほうが言う立場だ」
「そうですかねえ。だいぶ無茶ぶりをした気がしているんですが」
 座面のしっかりしたソファに体を預け、気安く相槌を打つ。 「で、誰がウンディーネと離縁したいんです?」
「……正式に引き受けた後なら、守秘義務があるから話せないと言うところだ」
「でも引き受けないんでしょう?」
「まさか。そりゃあ、ぼくだって職業人だから、個人的な感情と依頼内容とは切り離して考えるとも。だが、それ以前にぼくは世界魔術師協会の顧問弁護士なんだ。精霊相手の火遊びまで始末してる暇はないんだよ」
 いかにも迷惑そうな調子で頭を左右に振り、彼は卓上のコーヒーに手を伸ばした。湯気の立ち昇るどっしりとしたマグは、前に訪れたときには見かけなかったものだ。
「良いカップですね、それ」
 あの特徴的な王冠のマークに続き、「平静を保ち弁護士を立てろKEEP CALM AND LAWYER UP」と書かれた陶器に、私は何気なしを装って言及する。生半可な気持ちでウンディーネと結婚した魔術師の話より、ずっと精神衛生に良いと思ったのだ。
「嘘だろ?」
 残念ながら、立てられるほうの弁護士にとってはそうでもなかったらしい。細い眉がひん曲がり、黒い液体が僅かに跳ねるのが見えた。
「くそ、他にマグがないからって使うんじゃなかった。きみに上手いこと押し付けられたかもしれないのか」
「おやおや」 次はもっと慎重に話題を選ぼう、と私は決める。 「お気に召さなかったと」
「前のやつをうっかりシンクに落としてね。なかなか後継が見つからないのをぼやいてたら、クライアントの一人がくれたんだ」
「その冗談みたいなカップを?」
「この冗談みたいなカップを。まあ、20オンス入るからね、注ぎ直す手間が減るのは有難いね」
 一段低くなった声で言い、彼は苦み走った頭痛薬をぐいと呷る。私ならここに生地のずっしり詰まったドーナツか、フロスティングたっぷりのシナモンロールも欲しいところだが、紛争対応で鳴らした辣腕カウンセラーは、面の皮だけでなく胃袋もタフらしい。
 数秒の沈黙が辺りに流れる。細かな霧を吹き出す加湿器の音ばかりが、適温に保たれた室内を漂った。そろそろ本題に入っても良いころだ――少しばかり表情を引き締め、落ち着き払った調子で「さて」と区切りを付けるのだ。

「……ザック、これは相談なんだが」
 しかし、私の立てた段取りは実行する前から頓挫した。やにわに神妙な顔つきになったブラザー・レイフが、肘掛けから軽く身を乗り出し、私の目を真っ直ぐに見据えて切り出したからだ。
「きみの専攻が妖精の魔術で、それも理論じゃなく実践主体だというのは前から変わらないよな。昔は独立開業してたそうだが、今も個人で請けたりするのか」
「最近はめっきり。なにしろ安定した副業を得ましたのでね」
 何やらよんどころない事情の存在を感じ、私は目を瞬きながらも応える。 「まあ、打ち切った訳でもないです」
 いつでも自信に満ち溢れていると捉えられがちな、凛々しく精悍な顔に漲っていたものが抜けた。彼は低い卓に両肘をつき、胸の内に蟠るものを逃がすよう、一度大きく息を吐いた。
「助けてくれないか。話の通じる人間が必要なんだ。つまり、ぼくと妖精と、両方の事情を理解できる魔術師が」
「それが私なんです?」
 自分に出されたコーヒーの器――こちらは冗談みたいなカップではなく、あからさまに来客用と見える薄手のポーセリンだ――を撫でつつ、私は言葉に疑問符を添える。と、今まで飲んでいた歓待の一杯が、不意に違った意味を持ち始めた。
「まさかと思いますけど」
 あくまでも冗談めかした調子で、私は問いを重ねた。 「この『おもてなし』はですよ、要するに……」
「連邦法によれば、公務員ないし公務員とみなされる個人との金品のやり取りは、1回につき20ドル、かつ同じ出処からは1年に50ドルが上限だ。ぼくの職業倫理意識を馬鹿にするのはやめろ」
 ブラザーが声を荒らげ、私のジョークに至極まっとうな反駁を加える。
「第一、それを賄賂と言えるぐらいなら、ぼくはとっくにこの冗談みたいなカップを突き返せていたはずだ。まして魔術師をコーヒー1杯で買収なんて、誰がそんな馬鹿なことをするもんか」
「私だってされませんよ。要するに、専門家として意見書を作れとか、場合によっちゃ証人もやってくれとかいう話でしょう」
 程良き温度になったカフェイン溶液を残らず飲み干し、ふっと息をつく。どのオフィスでもそうとは限らないだろうが、どうも法務部で出されるコーヒーは他所より濃いという気がする。
「法曹も大変ですね、レイフ」 舌に残る苦味を和らげるように、私は微笑んでいた。
「良いですよ、とりあえず事情だけでも聞かせてください、……あ、ただその前に」
「うん? ああ、確かにそうだ、今からすぐに長話というわけにもいかないな。予定のすり合わせだったら」
「いや、別にここで話し合うことに異論は無いんですがね」
 すっかり空になったカップを、そっと卓に置く。 「ここって、おやつの持ち込み不可だったりします?」

  * * *

「まず、きみを侮る気は一切ないことを断言した上で、互いの認識を確かにしておきたいが」
 再びコーヒーで満たされたマグに手を掛けつつ、弁護士レイフ・ソラリンソンは厳かに言った。私たちの間にはミッドタウン・イーストで一番美味しいドーナツショップ(個人の主観による)、「ハドソンズ」の半ダース入りボックスがうやうやしく蓋を開けており、中からシナモンやクリームチーズ、ヘーゼルナッツ、マサラチャイ等、そして何より小麦と揚げ油の、理性に悪いフレーバーを振り撒いている。
「コティングリー妖精事件については知ってるかい」
「勿論ですとも――と言い切るのはまずい気もしますね。それこそ互いの認識がずれていたら困りますし」
「ぼくが言いたいのは、100年前のイギリスに住む幼い少女二人が『妖精』の写真を撮り、その真贋が広く争われたという話だ」
 ベイリーズ・リキュール風味のアイシングを纏ったケーキドーナツを、あたかも王室御用達ロイヤルワラント認定品のごとく手に取って、彼は話題に出した事件の概要を語り直す。
「大丈夫です、私も仰る通りの内容で把握しています」
「じゃあ、その写真が競売に掛けられたってことも知ってるか」
「勿論ですとも」 此度はきっぱりと言い切る。 「なんたって、競り落としたのはうちでしょう」
 草生す斜面に肘をついた、白いワンピースの幼い少女。その前で輪になり舞い踊る、蝶の翅を生やした美しい妖精たち――かつて一世を風靡したモノクロ写真は、脳裏にはっきりと思い浮かべられる。世に出た当時は一大論争を巻き起こし、真面目な学者からタブロイド紙までがこぞって「妖精を撮影する技術」が存在するか否か、侃々諤々の討議を繰り広げたものだ。そうして1世紀が経過した今、歴史を揺るがした一枚は改めて価値を問われることとなった。具体的にはインターネットオークションで。
「そうだ。お膝元の英国リーズ支部と、ぼくたちニューヨーク支部の生物管理部とで、二ヶ月前に熾烈な入札争いがあった。最終的には、資料購入のために下りる予算の差でこっちが勝った。いたいけな子供たちとアーサー・コナン・ドイルの夢を金で買ったんだ。落札価格は非公開だったかな。ぼくは幾らだったか知っているけれども、口外はしないでおこう」
 秘密主義の理念をよく知る弁護士は淡々と語りながら、ウイスキーとバニラの匂いを纏ったアイシングを無闇に崩したくないのか、慎重な手付きで一口分のドーナツを千切り取っている。
「他部署が聞いて気分の良くなる値段でもないでしょうしね。――それで?」
 こんがり焼き目のついたメープル・ベーコン・スティックを齧り、私は先を促す。果たして、語り手はウェットティッシュで指を拭いつつ、私の顔を揺るぎなく直視し、こう言った。
「その件についてなんだが、ぼくたちは訴えられてるんだ」

 ここでドーナツを吹き出したり、あるいはカップを取り落としてコーヒーを零したり、椅子からずり落ちたりといったリアクションができるほど、私にコメディアンの素養は無かった。その代わり、咀嚼途中のものを落ち着いて嚥下し、口元を丁寧に拭うことで、次のやり取りへの時間稼ぎとする。
「……それはつまり、リーズ支部から?」
「いや」 
 黒い煎じ薬と同程度に苦々しい顔で、彼は首を横に振る。
「それじゃあ他の入札者か……競売に掛けた側ですか? 例えば、支払いにあたってやり取りがこじれたとか」
「違う」
「というより、原告の主張は何です? 具体的に我々はどんな罪を犯しているんですか」
 私の疑問に対し、まずは静寂があった。ひんやりとした無音に続いて、重たいマグが判事の木槌よろしく卓に着地する。
肖像権パブリシティの侵害さ」
「何ですって?」
 今度こそカップを取り落としてもいいタイミングだったが、私の無意識は1セットの磁器にかかる賠償金を具体的に思い浮かべることにより、指先の断固たる引き締めに成功した。肖像権とはまた大きく出たものだ。問題の品は100年前に撮られた写真であり、言うまでもなく撮影者かつ被写体となった少女たちは故人だ。だから堂々と競売に出てくることになったのである。となれば――
「となると、あなたはこう言いたいわけですか、レイフ」 私は頭を振った。 「妖精が?」
「そう。それだからぼくは『被写体』の主張に抗弁しなけりゃならないんだ、自分自身が写った画像を許可なく売買、私有しているというね」
 頭を抱えるとはこのことだろう。妖精相手に裁判で戦うなど、サンタクロースを軍事衛星で追跡するようなものだ。おまけに彼の任務は、NORADのそれと違ってユーモアに溢れたものではない。
「いや、……いや、でも、ちょっとばかり無理がある話じゃないですかね」
 呻き声にも似て絞り出すと、担当弁護士は一度ゆっくり頷き、揺らぎのない瞳をこちらに向けてきた。
「きみの言う通りだ」 平たく凪いだ声だった。 「そこに妖精なんか写っちゃいないんだから」

 今一度、問題の事件について整理する必要があるのかもしれない。私は魔術師協会に加入したばかりの頃、試験対策に読み込んだ妖精学のテキストを思い返す。コティングリー妖精事件、近現代の社会と妖精の関わりを語るにあたり、避けては通れない一連の騒動についてを。
 概要については先程確認した通りだ。だが、一連の写真は結局のところ、真実だとは認められなかった――捏造を裏付ける証拠はいくつもあった。「妖精」の翅に当たる光の角度が、他の部位とは明らかに違うとか、そもそも他の植物や人間の輪郭が僅かにぶれている(シャッターが下りる瞬間にさえ、生物のごくごく微かな動きはフィルムに捉えられてしまう)にも関わらず、「妖精」だけはくっきりと写っている、すなわち静止しているのではという話も。そして1983年――私がちょうどヴァージニアの空軍基地に勤務していた頃、とうに老婆となった二人の少女は告白した。あれは全くの作り物、他愛もない子供のいたずらであったのだと。
「ぼくはこの度、改めて例の写真を見た。妖精管理研究課が買い取ってきたばかりの原本をね」
 言って、ブラザー・レイフは自分のデスクへ戻り、引き出しから一つの封筒を持って私の元へ歩いてきた。中から取り出されたのは、印画紙に刷られた一枚の写真だ。もちろんこれは原本ではないだろう。所々で説明に用いるための複製のはずだ。英国の片田舎、自然溢れる風景の中で、戯れる少女と妖精たち。この上なく無垢な光景だ。本物でさえあれば。
「アイコニックな画だ。……こう言っちゃなんですけど、現代人の目から見ると、やっぱり明らかに作り物ですよねえ」
 子供でさえ自在にカメラを操れるほど、当時から写真は大衆化していた。とはいえ、精度はまだまだ発展途上だった。妖精を肉眼で見られる者は古くからごまんといたが(私だってその一人だ)、妖精の写真を撮れる者はただ一人としていなかった。当時、妖精たちが存在する次元、すなわち妖精界にピントを合わせられる写真機は存在しなかったのである。
「魔術師でない人間が自力で妖精を撮れるカメラ。そんなものが発明されてみろ、アメリカ国家技術賞ものだ。ジョブズやゲイツに並ぶよ」
「加えてもし発明者が協会員なら、アーチマスター賞待ったなしですね。一生会員費を払わずに済みますよ。みみっちいなあ」
「現代の魔術師は長生きしないからな」
 彼は肩をすくめながら再び腰を下ろし、喉を鳴らしてまだ熱いだろうコーヒーを飲んだ。私も漫然と首肯しながら、現代の魔術師が長生きしない一因に手を伸ばした。
「まあ、つまり相手方の訴えは大分と無茶で、協会としては堂々と構えておけばいいという話ですよね。『妖精を撮影できる技術』の有無は、被告である我々じゃなく原告が提出しなきゃならないわけですし」
 ピーナツバターとバナナクリームが、口の中で子供じみた夢を主張する。 「悪魔の証明、ならぬ妖精の証明か」
「俗な言い方だがね。正式には消極的事実の証明と言うんだ。 『アフィルマンティ・インカンビット・プロバティオ、ノン・ネガンティ』さ」
「ラテン語ですか」
「法諺さ。『証明は肯定する者にあり、否定する者にはない』」
「ごもっとも。――まあ、もし仮に彼らが妖精撮影技術の存在を立証できたとしてもですよ、うちを訴えるのはお門違いですけどね。売りに出したのは英国のオークショニアで、撮ったのは100年前の未成年だし」
「そうだな。でも原告はぼくらにも罪があると書面で警告しているんだ。児童ポルノみたいに、売るだけじゃなく買うほうも同罪だと」
「……念のためにお聞きしますけど、悪戯か何かの可能性は?」
「ぼくも最初は悪戯だと思ったさ。ほとんどの人はそうだろう。けれども訴状は間違いなくコレクトポンド・パークから――」
 少しの間。 「ニューヨーク市裁判所から出されたものだ。これは正規の起訴だ」
「いきなり送達されてきたわけですか?」
「最初に通知書があった。こういった事情で当方の肖像権が侵害されているのだが、今なら示談で対応する、そうでなければ裁判所を通じて一括請求すると」
「あの、大変言いにくいんですがね」
 私も一度だけ勿体つけてから、脳裏に浮かんだ言葉を単簡に述べる。 「詐欺じゃないですか、それ?」

 我々の間に生ぬるい風が吹き抜けた。言うまでもなく床に設置されたヒーターの微風である。
 詐欺――まったく不本意ながら、魔術師とは切っても切れない忌まわしき存在。古来から多くの「魔術師」が、ただの詐欺師であることを見抜かれて牢獄へ送られてきたものだ。時代が進むにつれ、愛の妙薬を売る錬金術師や赤子に憑いた幽霊を退ける祓魔師は、ボルチモアの株式仲買人やナイジェリアの元高官、コンピューターウイルスの遠隔駆除を請け負うコールセンター等に肩書きを変えていった。私が副業で用いる携帯電話にも、年に数回は英国の退役軍人や外資系に強い転職エージェント、メリーランド州で一人暮らしをする大学生の孫といった有象無象から連絡が入る。恐らく協会の郵便室も、新型の魔道具開発に向けたクラウドファンディングだとか、秘薬の先物取引だとかに関する便りをしばしば貰っていることだろう。
 だが、よもや妖精とは。
「きみの言う通り、十中八九これは詐欺だ。それもたちの悪い二段式の詐欺だ。まずは架空請求で脅しをかける。ぼくたち合衆国民は外国と比べて訴訟慣れしていると言われるけれど、いきなり妖精から訴えられるなんて機会はそう有り得ない。弁護士を立てるにも金がかかるし、そもそも妖精法に通じている法曹というのは、ニューヨーク広しといえども滅多にいないんだ」
「そりゃあ、傷害や離婚や特許と比べて遥かに需要が無いですからね」
「弱気な人間は、少しでも安く済むならと金を払ってしまう。逆に、こんなものは悪戯だろうと思って無視する者もいるはずだ。そうなると、彼らは正規の訴状を取って送りつける。無視し続ければ欠席裁判で被告の賠償が確定する」
 いわゆる少額訴訟詐欺というやつだ。全米に存在する少額裁判所では、裁判官や弁護人抜きで判決が下ることも多い。そうすることで示談や調停等をよりスムーズに、即断即決できるのが利点なのだから当然といえば当然だが。
「……つまり、ぼくにとっては、この乱痴気騒ぎに決着を付けるのなんて簡単なことだ。支部の代理人を連れて日時通りに出廷し、ぼくが担当します、示談は受け付けません、有罪判決が下れば即日控訴しますと宣言すればいい。舞台がコレクトポンド・パークからフォーリー・スクエアに移って、列席者に郡裁判所の判事と陪審員が追加される前に、原告は恐らく訴訟を取り下げるだろう」
「まともに争ったら勝てるわけがないどころか、それこそ逆に詐欺罪で訴えられるから」
「いかにも。ニューヨーク支部が着せられた汚名は無事に晴らされ、件の写真は改めて生物管理部の所有となり、ぼくたちはリーズ支部から当分目の敵にされ続ける。めでたしめでたし」
 彼の声色から一切のめでたさは感じられなかった。と、不意に彼は再び私の顔を見据えてくる。炯々とした眼光を宿す目が、私にぴたりと焦点を合わせる。真冬の北大西洋を思わすそれは、虹彩に一点オレンジ色の、さながら暗雲を貫いて射す西陽のような染みを持っていた。
「ザック、だけれどもぼくは自分一人でなんとかするのでなく、きみに助けを求めた。本当なら必要ないことなのに。何故だか解ってくれるか」
 私が何かしらの答えを返す前に、彼はきっぱりと言い切った。
「被害者だけ救済してお終い、そんなのはぼくの流儀じゃないんだ」

 私が彼と仕事をしたことは数えるほどしかないが――訴えられる側でなかったのは幸いだ――彼のやり方についてはよくよく承知していた。夏至の篝火にも似て燃え立つ瞳に向け、私は頷き返す。
「それが人であれ妖精であれ、全ての生き物は過ちを犯すし、それらの過ちには相応しい処罰がある。けれども、正しい裁きが下りさえすれば後はどうなってもいい、わけじゃない。一度裁かれた者が再び罪を犯さずに済むよう、後々まで見守るという義務がぼくらにはあるんだ。救うべきは被害者だけじゃない、加害者も同じだ」
「そうですとも。例えば、ええ――何だったかな、前にありましたよね、イースター休暇の最終日に緊急出動したのを覚えていますが」
 ニューヨーク支部で実働に入ってからということは、おおむね20年以内の出来事だろう。私の記憶が確かなら、前大統領の任期中だったと思われる。空気がやっと温み始め、ハドソン川が氷のヴェールを脱ぎ捨てて、水際に浮草のレース飾りを掛け渡すようになる3月末のことだ。私を含むチーム・ウォルターの面々に、大規模水難事故の一報が寄越されたのは。
「今思い返してもぞっとする話だよ。卵探しゲームを楽しんでいた児童クラブの子供たちが、前触れもなく次々とイースト川に飛び込んでいった。監督していた青年団員の制止も聞かずに」
「そう、思い出しました。風の強い日だったんですよ、だから川面を飛ぶのがひどく危なっかしかった」
「おまけにまだ春先で、水温なんか10℃しかなかった。泳げない子供だって沢山いたんだ、――溺死も凍死も出なかったのが奇跡だ。原因がその場で究明されたことも」
 私は過日の光景に思いを馳せながら、彼の淡々とした述懐を聞いた。けたたましくサイレンを鳴らしながら河原の緑地に集まってくる、何台もの救急車が眼裏に浮かぶ。岸から伸ばされたロープや投げ込まれる救命胴衣、毛布を被って震える子供たちの姿も。誰一人として寒中遊泳に挑む気などなかった。彼らを駆り立てたのは――
「……結局、あなたはその水精たちナイアデスを弁護したんでしたか」
 はっきりとした熱を帯びるカップへと、知らず指先が伸びていた。
「公選弁護人として声が掛かったからね。さっきも言ったとおり、妖精の担当経験がある人間がなかなか居なくて。ちょうど同年度の無償奉仕プロ・ボノがまだだったんで行ったけれど、呼ばれなくても立候補しただろう」
 あの日、現場で私たち実働隊員が見つけたのは、白波のあわいに漂う水の乙女たちだった。彼女らの歌声こそは、人間にとって最も抗い難い誘惑と魅了の術。一般には若い男性が標的になると言われるが、流氷がようやく去って浮かれ騒ぐ精霊たちには、老若男女の区別など些細なこと。最も手近にいた、かつ共に水遊びに興じてくれそうだった、外遊びの子供たちに狙いが定められたのである。
 もちろん私たちは、水難に遭った少年少女を救うべく動いた。一般人には成すすべのない幻術にも、実働部隊での経験と装備があれば対抗できる。駆けつけた魔術師たちの手で魅了の術は打ち破られ、その出処であるナイアデスは捕らえられた。
「ザック、ぼくは――妖精法に定められていようといまいと、幻想種たちもぼくたちと同じように裁判を受ける権利があると思っている」
 卓の上に置いた両手の先が、互いに擦り合わされて一つの組になる。重要な事柄、心の中に浮かぶあれこれの思いを、確固たる意志へと結びつけるように。
「と同時に、例えば無責任な妖精愛護家が言う、妖精は人間と全く違う行動価値観の持ち主なんだから大目に見るべきだ、なんて論には一切賛成できない。ぼくたちが不用意に妖精の輪を踏めば、あちらの世界における罰を受けるように、彼らがぼくたちの法を犯したなら、そのときは過ちを正す機会を与えるべきなんだ」
 
 カップに触れている指は、中身がほぼ適温にまで下がったことを告げてくる。私はそのまま取っ手を掴み、一口試してみた。さっきよりは苦くなかった。
「話は解りましたよ、レイフ。あなたが私にしてほしい事がね」
「口でこうと言わなくても感じてくれるのか。でも法曹としてはそれじゃ心もとないな」
「なら具体的にお答えしましょう。――必要なのは意見書作りや証言台での答弁ではなく、裁判後に行う被告人へのカウンセリングですね」
 表情を硬く引き締めていた弁護士は、そこで初めて口角をきゅっと上げ、(外見的な)年齢相応の朗らかな笑みを作った。――が、ほんの一瞬の間だけだ。すぐさま彼は法廷向きの、「たとえ世界が滅ぶとも正義を遂行せよフィアト・ユスティティア・ルアト・カエルム」という格言がよく似合う顔を取り戻す。
「頼む。訴える側と訴えられる側、どちらに立つときもそうなんだが、どうもぼくは……真摯にやろうとすればするほど、クライアントを萎縮させる傾向にある」
「そりゃあね」
 私の口元はといえば、その瞬間に明らかなにやけ笑いを浮かべつつあった。すぐさまシナモンアップルジェリー・ドーナツを取り上げ、このコレステロールと飽和脂肪酸の塊が原因だと暗に主張してみたが、相手の目つきを見るに信じてはもらえなかったらしい。
「まあ、あなたの責任ではないでしょう。そも弁護士というもののイメージがありますから」
「知ってるさ。『良き弁護士は悪しき隣人A good lawyer is a bad neighbor』なんていう古典的言い回しも」
「でも、レイフにそれは当てはまらない」
 心から善良な、それでいて内心が外面に表れにくい男の悩みを宥めるために、私は精一杯の温かみを持たせて言い添える。
「少なくとも私はあなたを、そう――スパイダーマンと同程度には親愛なる隣人friendly neighborhoodだと思っていますよ」

 これは彼にとってまんざらでもなかった、最低でもお世辞だとは思われなかったらしい。薄い唇はまたしても、瞬間的にだが心地よさそうな曲線を象った。が、続けざまに彼は言うのだ。私のシャツに留められた、実働部隊のタックピンを見て。
「ありがとうよ。……ぼくはカートゥーンには詳しくないんだが、しかし話題に出たからついでに言わせてくれ。きみのところの後輩に申し伝えたいことがあるんだ」
「何なりと」 誰に対する台詞なのか、完全に察した上で私は促す。
「確かにぼくはレイフ・ソラリンソンThorarinssonといって――つまり『ソーThorの息子』という意味だけどね、これは単にぼくの父親の名がソールだというだけの、アイスランド人の慣習的な呼び名であって姓じゃないんだ。ぼくの家系は、魔法のハンマーを振り回してノルウェーで土星人と戦う男とも、金の角を生やしたイートン出身のシェイクスピア俳優とも一切関係がない。二羽のカラスとルーン文字を操る男の弁護は前にしたけどな。とにかく、アメリカ人なら誰でもマーベルの引用が通じるなんていう、短絡的な考えは合切捨ててくれるよう願いたいね……」

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