ハーブティー、という漠然とした言葉の響きは、少女にとって甘さも苦さも伴うものだった。

良き眠りのために -No Bed of Roses-

 それというのもまだ幼い頃、休日に祖父母の家を訪れるたび、昼間をめいっぱい使って庭の草抜きを手伝わされ、疲労困憊し――その後に決まって出てくるのがハーブティーだったからである。むろん、ハーブティーなるカタカナ語でごまかされてはいても、それは実際のところ庭でこの世の春を謳歌していた雑草たち、たとえばドクダミだのヨモギだのシソだの、辛うじてミントだのを一緒くたにして煮出しただけのものにすぎなかった。先週引っこ抜いたそのへんの草が、翌週には茶になって出てくるのだ。苦いのだか渋いのだか分からない香り、いやにスースーするミントの風味、砂糖も何も入っていないがゆえの「お湯の味」。普段カルピスと麦茶で生きている子供には耐え難い一杯であった。
「真理、あなた理子に好きなだけジュースを飲ませるのはやめなさいと言ったでしょう。小さいときから甘いものばかり食べていると毒になりますよ。『若いうちバラの上で寝た者は、年取ってからイバラの上で寝ることになる』という言葉を知らないの」
 祖母がそう言って母を叱るのを、少女は幼心にもなんて迷惑な話だろうかと感じながら聞いていた。幾度もだ。そうこうしていると孫に甘い祖父が、彼女らの目を盗んでこっそりと、「口直しに」なんてチョコレートやドロップをくれるので、それだけは楽しみと言えたが。

 こうした事情から、少女の中にはハーブティーなる不確かな概念に対し、多大な不信感とあまり美化できない記憶、そして些かばかりの甘い感覚がすっかり染み付いているのだった。故に成長してからも彼女は麦茶とカルピスのほか、コーヒーや烏龍茶を口にするようにはなっても、ハーブティーにだけは進んで手を出そうとしなかった。
 あのとき飲まされていた雑草茶と、愛らしいパッケージに入ったカモミールやらローズヒップやらの風味が、全く異なることは知っている。今は自分の裁量で砂糖なりハチミツなりを足しても、誰が咎めるわけでもないと理解している。それでも、手近なところでコーヒーや烏龍茶が手に入るうちは、もっと卑近な草花の入ったティーバッグを試してみようとは思えないのだった。
 居住の場所が日本から遥か遠いドイツに移ってもそうだった。ヤグルマギクの青い花が描かれた美しいティーカップ――ここがドイツだからといってマイセンでもブンツラウアーでもない――から立ち上る湯気を眺めるたび、少女は過日の苦渋を薄ぼんやりと思い起こす。とりわけその湯気の向こうに、直視するのが馬鹿らしくなるほど整って分別くさい顔の、同じ部署に勤める魔術師が見えるときには、彼女は決まってこう思うのだ――イバラの上に寝かされるのが、いくらなんでも早すぎる。

  * * *

 ハチミツのような香りがする。砂糖をたっぷり入れた焼き菓子にも似て、鼻をくすぐる甘美な匂い。加えて、仄かにリンゴやアンズだとかの、蜜を含んだ甘酸っぱい果実も感じられる薫りだ。一体何を煎じればこんな香気が立ち上るのか、少女には見当もつかなかった。
 彼女は分厚い魔導書から顔を上げ、湯気の向こうに魔術師の姿を見た。テーブルを挟んで真正面に、腹立たしいぐらい安穏とした青年の横顔がある。椅子の片側の肘掛けに重心を置いて、ゆったりと力を抜いた、けれどもだらしなくは見えない加減の姿勢。明るい金色の髪を丁寧に撫で付け、白く血色の良い肌にはそばかす一つなく、アイスブルーの目は伏しがちに、ある一点を凝視しているようだった。顔の上半分だけでなく、例えば大きすぎず高すぎもしない鼻から、唇の厚みや顎先の形に至るまで、作り物じみた均整が見て取れる。それは人によっては「ひと目見ただけで恋に落ちるような顔」かもしれないが、少女にとっては「ひと目見ただけで苛立ってくるような顔」だった。
 その、八十年ほど前の価値観でいう模範的北方人種の容貌を有する青年が、先程から熱心に眺めているのは一冊の本だ。ペーパーバックの、題名からして推理小説かサスペンス小説と思しき冊子を、右手だけで器用に把持し、決して先を急ぎすぎない調子でページをめくっている。そして、活字の列から僅かばかりも目を逸らすことのないまま、左手を時折テーブルの上に伸ばし、湯気の立つティーカップを取り上げて口元に運ぶのだった。一度くらい憶測を誤って、熱い茶の中に手を突っ込んでしまえばいいのにと少女は願ったが、残念ながらそんな愉快は一度たりとも起こらなかった。
 しばらくしてカップの茶が少なくなってくると、青年は視線をちらとも向けずに、白磁のティーポットを正確に掴み上げる。引き寄せ、傾けて、中身を卓上の茶器へ静かに注ぎ入れる。もちろんこの間、彼は書籍以外のものを見もしない。文章に気を取られて茶を溢れさせ、手元を水浸しにしてしまえばいいのにと少女は念じたが、生憎と彼はどの程度ポットを傾けていれば、最適な量の液体が流れ出るのか完璧に把握しているようだった。
 ――やっぱりひと目見ただけで苛立ってくるような顔だ。いや、ひと目見ただけで横っ面を張り飛ばしてやりたくなるような顔だ。
 少女は頬杖をつき、ひどく居心地の悪そうな様子で自身の黒髪を弄り回した。さっさと読み終わってどこかへ行ってくれればいいのに、と祈ったところで無駄なのは解っていた。

「……ねえ」
 仕方なく彼女は声を発した。隠そうともしない嫌悪感が、短い単語の中に目一杯詰め込まれていた。
 青年のほうはといえば、どれほど書物に集中していたとしても、人との対話まで厭うてはいないらしかった。彼はすぐさま肘掛けから身を起こすと、右手を下ろして本を卓に伏せ、正面から少女に微笑みかけた。19世紀の貴族の肖像画のような、唇と目元の僅かな緩みだけで表情を作る、どこまでも「正常な」笑顔だった。
「どうかしたかい、リコ」
 相手の言葉を待たずに彼は言った。 「そうだ、君の分も一杯入れようか」
「いらない。……どんな味がするか分かんないから」
 つい先程までは「本だったらどこか別のところで読んで」というような内容を、その倍ほどの憎まれ口を満載して伝えるつもりでいたのに、いきなり飲み物のことを言い出されて、少女の算段は最初から頓挫してしまった。少女は――世界魔術師協会ライプツィヒ支部に研究留学中の魔女、リコ・サガミないし相模理子は、咄嗟に辞退の旨だけを突き返した。数秒の後に、せめてもと黒い目で青年を睨み据え、出鼻を挫かれた恨みをその澄まし顔に焼き付けてやろうとした。
「味か。そうだな、とても愛らしくてふくよかな――リンゴに似た香りがするだろう、それと同じように微かな酸味もある。バターみたいな香ばしいなめらかさもね。これはカモミールが入っているためだ」
 果たして青年は何ら動じることなく、彼女の顔を正面から見つめたまま、気取りの抜けない調子で答えを返した。ばかりか、合間に左手を卓上の砂糖壺へ向け、人差し指を何度か動かして合図のようなものをしてみせた。音もなく白磁の蓋が開き、中から薄紅色の花弁の形をした砂糖が三片、風に吹かれたように飛んできて、カップの中の液体に飛沫一つ立てず沈み込んだ。
「それに、バラの花とヤグルマギク。香りだけでなくほんの少しの苦味も出るからね、それがハチミツの甘ったるさを引き締めてくれているのだよ。そう、きっと……ここにジャムをたっぷり挟んだビスケットがあれば、最高のパートナーになるだろう。ああ、残念だな」
 碧眼がうっとりと夢想するように細められ、声色にも段々と詠嘆じみたものが混ざり始める。だが本人がどれほど幸福そうであっても、聞かされる少女のほうはそうもいかない。彼女は眉を顰めながら軽く身を引き、青年の様子をつとめて見ないように視線を反らした。
「さて、どうしようか、リコ。もし良かったら……」
「いらないって言ってんじゃん。あたし、ハーブティーって好きじゃない」
 つっけんどんな返事。青年は自身の誘いが完全に退けられたことに対して、さしたる戸惑いも見せなかった。ただ自然に柔和に小首を傾げて、
「ふうん、そう? まあ、味や香りの好みは人それぞれだから、私は無理に勧めたりなどしないよ」
 と穏便な答えを返すばかりであった。三本の指でカップの持ち手をつまみ、口元へと運ぶ。香りを味わうような暫しの間、そして音もなく一口――磁器の縁から血色のよい唇が離れ、ふ、と小さな息が漏れる。
「とても美味しいのだけれどね。それに、これを飲んだ後はぐっすりと眠れる」
「はあ、……そういうもん昼間っから飲む、普通?」
 少女は呆れ返ったような溜息をつき、壁面に掲げられたビンテージ品の掛け時計――ライプツィヒ支部が設立された時からそこにある――を仰ぎ見た。午後一時をもう大分回っている。本来ならとうに休憩など済んでいて然るべき時刻だ。だからこそ彼女は魔導書を広げ、午前中からずっと続けていた作業に取り掛かっていたのだが、目の前でこうも寛がれてはやっていられない。

「とにかくさ、お茶にしても本読むにしてもよそでやってくんない? あたしはもう仕事したいんだけど」
「ああ、私のことは気にしないでくれて構わないのに。こちらも勿論君の邪魔などしないし――」
「存在自体が邪魔だっつってんの! あんたがだらだらしてんの見ながら真面目に本なんか読んでられると思う!?」
 ついに彼女は声を荒らげ、年季の入った会議用の長机(掛け時計とは異なり、年季が入っているだけで特に価値などはない)をばしんと叩いて立ち上がると、青年の横顔に指を突きつけて言い放った。いわゆる最後通牒である。
 少女にとっては不幸なことに、精一杯振り絞った言葉は青年を些かも動揺させなかった。彼はいかにも作り事めいて目を数度瞬き、そんなことには思いも及ばなかったとばかりに小さく笑い、
「これは失敬。では、君の言う通りにさせて頂くよ、シスター・リコ。君の勤勉さと弛まぬ進歩に敬意を表して」
 落ち着き払って勿体ぶった口調で述べると、優雅な素振りで席を立った。青年が同席者の不機嫌さにこれっぽっちも勘付いていない(あるいは勘付いていても知らぬ顔でいる)だけでも腹立たしいものを、あまつさえ他にいくらでもある謝罪の言葉から「失敬パルドン」などという単語を選んできたものだから――否、ドイツ人が「失敬」と言って悪いわけではないし、むしろ日常語の一つだが、青年の発音があまりにも完璧な、あの鼻にかかって甘ったるいフランス語のそれだったものだから、少女の怒りはいよいよ心頭に発した。
 青年にとっては幸運なことに、少女が衝動に任せて彼の横っ面を張り飛ばすことはなかった。その気はあったかもしれないが、邪魔が入った。部屋に据え付けられた電話機から、前時代的なベルの音が鳴り響いたのである。

 沸き起こる様々の感情を噛み殺しながら、少女はテーブルを離れて部屋の入り口まで行き、電話台の上から白い受話器を取った。
「もしもし、世界魔術師協会ライプツィヒ支部、生物――」
『いや、良い、構わない。リコだな? 私だ、オーベルシュトルツだ』
「ブラザー・ライムント!」
 午前中ずっと外出していた同僚の声と名に、少女の声音が和らぐ。この同僚は現在のところ、この「庭園」の最年長者であり、常識的な大人で、青年の起こす数々の厄介に幾度となく対処してきた頼れる上司でもあったから、彼女が安堵するのも当然のことだった。ところが、電話の内容は予想に反して、あまり一息ついてもいられないものだった。
『すまないが、そちらに帰るのは遅れそうだ。いま聖ゲオルグ総合病院から掛けているのだがね』
「病院? ……え、何かあったんですか? 打ち合わせじゃなかったんですか?」
 ライプツィヒでも規模の大きな病院の名を出され、穏やかでない響きに少女は目を丸くする。受話器の向こうから聞こえる声も、明らかに普段よりも暗い、トーンの控えめなものだ。
『そのはずだったのだ。しかし……参加者の一人がいつまで経っても現れない上、自宅にも携帯電話にも全く連絡が付かなくてな。まさか予定を入れておいて無断で行動するはずもなし、心当たりを尋ねても芳しくない。それで、独身寮の管理者に頼んで部屋を開けてもらったら、自室で倒れているのを発見したという訳で……』
「ええ!?」
 少女が頓狂な声を上げ、青年は青い目を動かして電話機のほうを見た。
「えっと、それ……つまり、その人は何か、病気だか何かだったってことです?」
『まだ分からない。持病のようなものは無かったと聞いているのだが、とにかく専門医の診断を待たないことには、……一命はとりとめたが、今も意識不明だそうだ。こちらは第一発見者だから、また警察からの聴取を受けなければならなくてな』
「……そうなんですか、いや、それ本当に大変じゃないですか。あの、別にあたし一人で大丈夫なので、特に何も困ってないので――気とかは使ってくれなくて大丈夫です、そっちにいてあげてください」
 切迫した事態がありありと知れ、つっかえながらもそんな台詞が少女の口をつく。実際は大分と困って、もとい立腹していたのだが、こんな時に自分の迷惑など気にしてはいけないと、彼女の中では判断が下されたのである。
『解った、そちらの業務に負担をかけてしまうのが残念だが……何かあったらすぐに連絡してくれて構わない。マンフレートにもそう伝えてくれるか』
「あっ、……はい」
 マンフレート。この名が出た瞬間、少女の声から気力が露骨に失われた。とはいえ今回は一時的なものだった。彼女は自分があくまで意気軒昂であることを伝えなければならなかった。回線の向こうで神経をすり減らしているだろう、苦労性の中年男性のために。
「それじゃ、あたし仕事に戻ります。えっと、なるべく早く解決するように祈ってます」
『私もそう祈るよ。では宜しく頼む、リコ』
 重たい溜息と共に通話は打ち切られた。少女は受話器を元あった場所へと戻し、背中に嫌なものをひしひしと感じながら振り返った。

 嫌な予感が気のせいであってほしい、という少女の切なる願いは無残にもここで潰えた。ぞっとするほど純真な好奇にきらめくアイスブルーの瞳が、電話台の前に立つ彼女を見据えている。情熱と期待に満ち満ちた視線。クリスマスの朝、小さな子供が枕元に置かれたプレゼントを見つけたときのように――これから待ち受ける驚きと楽しみを予期して、もう居ても立ってもいられない、そんな目だった。
「リコ、」 取り澄ました呼びかけにさえ、隠しきれない高揚が滲む。 「ブラザーは何だって?」
 少女はできれば返事をしたくなかった。今しがた聞いた事実を伝えることが、どんな結果を引き起こすかなど目に見えている。生物管理部で、ひいてはライプツィヒ支部でも屈指の危険人物に、事件性があるかもしれない入院患者の話を聞かせるなど! そもそも、いくら彼には相手方の声が聞こえていなかったとはいえ、こちらの話している内容だけで、ある程度の深刻さは感じ取れていていいはずだ。にも関わらず、喜んでいるとしか思えないこの態度。不謹慎で、無遠慮で、悪趣味。
 悲しいかな、そうした正論は少女がわざわざ言わずとも、今までに支部の良識ある人々が百万遍と投げ掛けてきたし、青年はそれら全てを軽々とあしらってきていた。結局のところ、抵抗は無意味なのだ。なんといってもここは「悪魔の花園」なのだから――

「打ち合わせの相手が倒れて、病院に付き添いに行ってるんだってさ」
 最終的に少女は折れた。もう知ったことか。 「特に病気でもなかったらしいし、原因はまだ分からないって」
「ああ! ああ、つまり私が察した通りだったのだね。何か不吉なことがあったに違いないと思っていた。それも怪奇で、不可思議で、判然としない……この美しい五月の昼下がりを捧げるに相応しいような出来事が」
 彼はもはや手に本など持ってはいなかった。白磁のカップはとうに空になっていた。青年、マンフレート・アルノーは凛とした、まるで高潔な人格者かのような表情を浮かべ、椅子の背に手をかけて誇らしく言い放った。
「仕事にかかろうじゃあないか、リコ。我々にはそうする自由と権利がある。いや、使命というほうが正しいかな。謎を解き明かし、新たな知識を獲得し、さらなる深遠に至る――これは絶好の機会だ!」
「うるさいな」 少女は低い声で呟いた。 「何が使命だよ、自称ただの物好きのくせに」

  * * *

 時計が午後三時を回るまでに、病院からの電話は都合三回掛かってきた。まず患者の病状――呼吸の麻痺と痙攣、血圧の低下、昏迷状態などが伝えられ、次には支部へ戻るのがさらに遅れそうな旨と謝罪が、三度目の連絡では患者の周辺情報が。このたび緊急搬送された人物は名をミア・シュトゥデントといい、ライプツィヒ支部の書記局に勤務している魔女であったが、彼女に持病や目立った既往歴がないのは事実だった。ただ、同じく付き添いに来ていた同僚の女性曰く、最近は不眠に悩まされている様子だったというのだ。
「ってことはアレじゃないんですか、やっぱり」 電話口で少女は思いつきを口にしていた。
「ほら、睡眠薬とか……眠れないからって病院に行って薬もらって、それを一気に飲んじゃう、ってやつ」
『そうだとすると、どこかに薬を飲んだ形跡があるはずだ。空になった瓶や袋だとか……けれども彼女の自宅からは今のところ、そうした品は発見されていない』
 受話器から聞こえてくる声は暗澹としている。手がかりが足りなければ症状の原因は掴めず、そうなれば治療も捗らなくなる。「一命を取り留めた」ということは、「命に別状がない」ことと同義ではない。

 電話を切って室内に向き直ると、すかさず青年の目が彼女を見る。新たな情報を心待ちにし、発言を急かすような目だ。もういっそ自分で電話に出ればいいのにと少女は思ったが、それはそれで話がこじれそうなので、結局は彼女が率先して受話器を取ることになるのだった。
「なんか、その人は最近眠れなかったんだって。でも睡眠薬で中毒したわけではなさそうって」
「不眠というわけか。女性としては有り触れた悩み……いや、それは失礼だな、男性だって不眠に悩む人はいるとも」
 青年は独りごち、考え込むように顎に手を添えた。
「そうなると、睡眠薬の力は借りなかったにせよ、よく眠れるように何らかの手段を講じていた可能性は高い。そこに原因があるかもしれない――まさか彼女も、結果として永遠の眠りにつきかけるとは思ってはいなかったろうけれど」
 ややもすると夢想的な、事の重大さをまるで気にかけない表現ばかり口にする青年に、少女は厳しい目をくれたが、何も言いはしなかった。と、
「ところで、目はどうだった?」
 等という出し抜けな質問が飛んでくる。聞かれたほうは何のことだか解らずに、面食らって数秒間言葉に詰まった。
「何のこと?」
「その、眠り姫になりかかった彼女の目だよ。呼吸と血圧の異常は聞いた、でも目は? 目には何も異常は無かったかい?」
「知るわけないじゃん、ブラザー・ライムントは何も言ってこなかったし、あたしが行って見たわけでもないんだから」
 ぶっきらぼうな返答に、青年はまた思案顔になる。時折頭を振り、あるいは革靴の爪先で床をコツコツと叩きながら、彼は研究室とは名ばかりの部屋中を歩き回った。
「瞳孔に変化があれば、それは大きな手がかりになるのにな! リコ、今からもう一度電話をかけて、それを尋ねてみてはくれないか。もしまだ判っていないようなら、彼女の瞼をちょっと開いて見て貰えるように――」
「なんであたしが頼むの、あんたが自分でやればいいことでしょ。第一、それをお医者さんに伝えるのはブラザー・ライムントなんだからね、どんな無神経なやつだろうって思われたらかわいそうだよ」
 少女は自分の良心と世間的な常識に従い、固辞の意を表明すると、テーブルの上から魔導書を、壁際の棚から自分の杖を掴み上げて小脇に抱え、足を踏み鳴らしながら扉のほうへと向かった。
「書記局に行ってくるから」
「なるほど、聞き込みだね? 彼女がここ最近何か特別なことをしていなかったか、」
「借りてた本を返すだけ!」
 にべもない、とはこのことだった。もう一分一秒たりとも相手をしていたくなかったし、あの金髪や碧眼や小奇麗なシャツがいちいち視界に入ってくることさえ、彼女には耐え難かったのである。

 生物管理部の使用する棟から書記局の蔵書室までは、敷地に通された渡り廊下をそれなりの距離歩いてゆく必要がある。部屋を飛び出したばかりの少女はかなり頭に血を上らせていたが、爽やかな五月の風に吹かれながら暫く行くと、随分落ち着きを取り戻してきた。といっても青年に対する見方が変わるわけではない。彼女の中では、あの上品ぶって貴族めかした、けれども内面的には俗悪な若者の趣味を、認めてやろうという気など一切起こらなかった。
「あんなのが魔法使いやってんだから、そりゃ廃れるはずだよ、魔法ってのは」
 それでも彼女は魔術師を志した――偉大ではなかったかもしれないが、間違いなく素晴らしい魔法使いだった祖父母のように。自分もまた彼らと同じドイツの地で、妖精の魔法を修めて一人前の魔女となり、自らが魔法の伝承者の役を務めるのだと夢見、ライプツィヒ支部の門を叩き――人事局がどんな間違いを犯したのだか知らないが、危険生物管理課などという魔窟に放り込まれ、毒草や毒虫や毒蛇に囲まれ、あげく最大の危険生物であるところの、何かを勘違いした探偵かぶれに付き合わされている。これほどの理不尽はない。
 やがて、少女の目の前で蔵書室の、バロック時代の格言詩が刻まれた扉が重々しく開き、膨大な書架の迷宮が姿を現した。入ってすぐの受付に本を返却し、さらに林立する木や金属の棚の間を大股に進めば、漂う空気はどんどん古めかしくなってゆく。彼女はひときわ高い木製棚の前で足を止め、首が痛くなりそうな姿勢で本の群れを見上げた。目当ての本はほぼ最上段に位置するが、梯子や脚立といったものは置かれていない。当然だ。この棚にある本を読み、理解することができるような魔術師に、「浮遊」のひとつも唱えられないはずがないからである。
 少女は抱えていた杖を下ろし、それから改めて両手に捧げ持った。長さはおよそ60cm、滑らかに削り出されたブナの木で作られたそれは、彼女の祖父から受け継いだものだった。大事な品だ。彼女はひとつ深呼吸をして、握り締めた杖を高々と掲げると、丸い鷹目石の嵌め込まれた先端を書棚に向け、小さくしかしきっぱりと呪文を唱えた。
メテオリズメー、浮かべ!
 棚にきっちりと詰まった本の並びから、大判で分厚い書物が一冊、微かに震えながらじりじりと抜け出し、ふわりと宙を舞う。少女は慎重に、本をコントロールするように杖先を下ろし、近くまで降りてきた本を無事手中に収めた。表紙には「世界の植生と妖精たち:ヨーロッパ編」と、金箔押しの飾り文字で書かれている。世界各国で見られる植物と、その植物を棲家とする妖精――いわゆる「花の精」――について纏められた図録だった。定期的に新版の出る本だが、これはかなり古い版である。
「1917年」 少女は背表紙に記された発行年を見、呟いた。 「って、何があった年だっけ」
 世界的にみれば数多くの重大事件が起きた年だが、少女にとってはただ現在から数えて百年前というだけの年だ。祖父母さえまだ生まれていない。そのまま彼女は杖と本を抱えて書見台のほうへ行き、自らの安息をやっと手にすることに成功した。

 ページを捲るたびに、長い年月を経ても褪せない版画の数々が、詳細な解説と共に顔を出す。色とりどりの花から姿を覗かせる、小さな子供や蝶々やネズミ、あるいはもっと別の姿をした妖精たち。鮮やかな黄金の花帽子を被り、背中に透き通る翅を生やした、いとけない顔の少年が銀の縁取りの中で笑っている。噎せ返るような芳香さえ感じるような筆使い。並べて書かれた文章の一行目には、
「エニシダ――」
 金雀枝ベーゼンギンスター、と記されていた。BesenもGinsterも「箒」という意味だ。エニシダの細くしなる枝は、魔女の箒の格好の材料。だからなのかは解らないが、イギリスの一部地方にはこんな言い伝えがあるという――花が盛りとなる五月、この枝を家の中に持ち込んではいけない。魔女の箒の魔力が、大事な人までも家から掃き出してしまうから。
「逆に言うと、もし家から叩き出したい奴がいるときには、エニシダの枝を飾っておけばいい、ってわけ?」
 少女はふと口走り、すぐに顔をしかめた。 「なんか京都のあれみたい」
 箒を逆さに立てておけば、長居してほしくない来客がさっさと帰る。少女は生まれも育ちも東京だったが、話にだけは聞いたことがあった。まさかドイツの妖精図鑑を見ながら、日本の古い風習を思い出すことになろうとは。短い溜息と共に、確かにイギリス人と京都人はどこか似ているのかもしれない、等と彼女は考えた。
 呑気な推察は長く続かなかった。植物にまつわる記述を追ううちに、活字をなぞる指がはたと止まる。短く切られた爪の先で、黒々とした文字が主張する――「有毒」。
 眉を顰めながら少女は紙面に顔を近づけた。経口で摂取した場合、吐き気、嘔吐、めまい、下痢などの症状を呈し、重篤な場合は死に至る、とある。ヨーロッパではどこにでも有り触れた庭木だというのに、随分と物騒なことだ。でも血圧や呼吸のことは書いていないな――思いかけて少女はまた渋い顔になった。あの話はもうあたしの知ったことじゃないのに。
 首を横に振り、もう一枚ページをめくる。紹介される植物はアルファベット順にはなっていない。次の項目は紫陽花ホルテンジーだ。「有毒」。

  * * *

 ベルが鳴る。受話器を取り上げる。知己の声がする。自然、青年の声は快活に弾んだ。
「やあ、ライニ! 私だ、マンフレートだよ。――リコ? リコは書記局へ行った。きっと今頃聞き込みをしてくれているのじゃないかな。それより彼女はどうなった? 何か新しい症状が出たりはしていないかい?」
 普段ライプツィヒ支部で対話するときには、上司部下の立場を明確に、よそよそしく気取った敬語で受け答えする青年だったが、この通話はかなり趣を異にしていた。他に聞く者もいない会話だ、プライベートでの態度を優先させたがったのである。  青年の矢継ぎ早な質問に対する答えはなく、代わりに焦ったような調子で、電話の向こうの中年魔術師、ブラザー・ライムント・オーベルシュトルツは返事をした。
『そんな嬉しそうにものを言うんじゃない、マンフレート。君の声はこちらにまで響いているんだぞ、少し控えてくれ。……まだ呼びかけに応える様子はないようだ、昏睡状態にまでは至っていないが。血圧も脈拍も落ち着かないし、人工呼吸器を外すこともできていない』
「ふうん、そうか。いや、私なりに考えていたのだけれどね、やはり中枢神経系に作用する成分ではないかと――それも化学薬品ではなく、もっと複合的で複雑な効果の出る、要するに自然毒なんじゃあないかって。ねえライニ、君とは別に付き添いに来ていたという、彼女の同僚はまだそこに居るのかい?」
『ずっと病室の外で待機しているよ。さぞ心に堪えたことだろう、憔悴しきった様子だ。……まさか彼にこれ以上何か問いただそうとは言わないだろうな?』
 年を経て落ち着いた魔術師の言葉は、混乱の只中にいる人々への労りと同情に満ちたものだった。が、言葉を受ける側は違う。マンフレート・アルノーは己の好奇心と探究心、とりわけ植物の持つ「劇的さ」のためなら良心などかなぐり捨てられる男であった。どころか良心自体、ごく僅かな建前上の物よりほかには持ち合わせていなかったから、彼らの心情などまるで推し量りもせずに、ただ自分自身の思いつきだけを押し通した。
「そう言っているのさ、もちろん。彼女、ライプツィヒ支部の独身寮に住んでいると言ったね。女子棟の一階の部屋だって。ちょっと尋ねてみてくれないか、その付き添いの彼に――もしかしてシスター・ミアには、ハーブティーの趣味があったんじゃないか」
『マンフレート』 戒めるような重たい声。 『良いか、彼はもう既に――』
「既になんだと言うんだい、度重なる事情聴取と患者の容態に対する心労でやつれ果てていると? それなら尚のこと聞き出すべきだ。情報が多く集まれば、それだけ中毒原因の特定が早まる。未だ昏迷の中にある彼女を救うためには、ありとあらゆる手段を講じる必要があると、そう思わないのかい? 彼もきっと解ってくれるはずさ。だから……そう、なんだったら君の携帯を彼に渡しておくれ、こちらから話をしよう」
『いいや、それは、その必要はない』
 此度はすぐさま否定の応えがあった。直接会話などさせようものなら、どれほどまずいことが起きるかと危惧しているのだった。経験のなせる技とも言えるし、青年と少しでも関わり合いを持っていれば容易に察しがつくとも言える。
『待っていなさい。一応聞いてはみるが、しかし断られたらそれきりだぞ』

 それから数分の間が開いた。恐らく救急病棟の廊下であろうから、たとえ通話相手が電話口から離れても、背景からは様々に音が聞こえてくるものだ。行き交う人々の足音や、医師または看護師たちの話し声、何らかのアナウンス――
『マンフレート?』 そうして再び、持ち主が文明の利器の前に戻る。 『君の質問についてだが』
「どうだった、私の言った通りだったろう? そうじゃあないのかい?」
 まだ答えも聞かないうちから、青年は実に得意そうな声で言った。自らの正解を確信した上で、相手の口からその事実を聞きたいという子供じみた自尊心がありありと知れる。現に電話台の前、壁に持たれて答えを待つ彼の面持ちには、快い愉悦と誇らしさが色濃く浮かんでいた。
『ああ……如何にもだ。趣味どころか半ば研究家の域で、ウィザードへの昇進審査で書いた論文もハーブティーに関するものだったらしい。常日頃からありとあらゆる組み合わせを試していたとか……もっとも、自前で栽培などはせず、あくまで市販品を用いてだが』
 回答者の側は冷静に、質問者および傍にいる患者の同僚の双方を刺激せぬように、落ち着いたトーンで必要なことだけを伝えた。自分はまかり間違っても、青年と一緒になって口さがないお喋りに興じてはならないと、強く肝に銘じながら。
「ふふん、そうだろう、そうだろうとも! じゃあ次に聞いてほしいのが――」
『待てマンフレート、まだ何か聞き出せというのかね? これ以上はさすがに彼が可哀想だろう!』
 一方の質問者は得意満面である。嫌味なぐらいあからさまに鼻を鳴らしてから、マイクに向かって畳み掛けるように言葉を投げ、相手方を狼狽させた。良識ある中年の魔術師はすぐさま抗議したが、もちろん無視された。
「――彼女が自分の住まいの傍にある、背の高い蔓草について知っていたかということなんだ。ほら、今ちょうど生垣いっぱいに、黄色い花をいくつも付けているあの植物に」
『何だって? 植物に?』
 スピーカーからまごついたような声。ほら、等と言われても、彼は女子寮の敷地内の植生について熟知しているわけではなかったので――なにぶん女子寮のことだ――返答に詰まったのである。
「そう。彼女の部屋が一階のどこにあるかは知らないけれど、場所によっては間近で見られるだろうから、ともすればと思ってね。心当たりがないか尋ねておくれ、ライニ?」
 尻上がりの口調ではあったが、そこには有無を言わさぬ確固とした意志が籠もっていた。人の良い上司は「駄目なものは駄目だ、人の気持ちを考えろ」と言おうとはしたものの、駄目だった。断ろうものなら現地まで駆けつけてきかねない気勢を、窺わせるどころか大いに示威されてしまっては。
 観念したような嘆息の後で、また無言が続く。青年はいたく満足げに、自分の望む答えが返ってくるのを待った。もう少し長く間を置かれていたら、気分よく鼻歌の一つも奏でていたことだろう。現実にはそれほど時間はかからなかった。
『聞いたぞ、君の言う通りに。――確かに知っていた、というよりも、彼に対してまさに言及していたそうだ。成長の勢いがあまりに盛んで、落ちた花の掃除も手間だから、先日幾らか引き抜いて整理したのだと』

 折しも、蔵書の閲覧を終えて書記局から戻ってきた少女が、扉を開けて中に入ろうとしていた。彼女は杖を片手、青年と再び顔を合わせるのが大儀でたまらない様子で、足取りも重たげだった。そのいかにも女学生らしい革のローファーが、廊下と部屋の境界線を踏み越えた瞬間、彼女は聞いた。
なんという重畳ゴット・ザイ・ダンク!」
 喜々として晴れやかな、「快哉を叫ぶ」という表現の見本にしたいほどの声を、受話器を握りしめた青年が発したのだ。少女は動揺のあまり危うく杖を取り落としかけ、目を剥いて電話台のほうを顧みた。ここまでの歓声を青年の口から聞いたことはなかったからだ――普段はどんなに喜んでいようとも、どこか芝居がかって空々しいものだし、笑うにしても大口を開けるどころか、歯を見せることさえしないのに!
 電話のあちら側はといえば、青年との付き合いが長いぶんだけ多少は冷静だった。が、救急病棟の廊下には不適切すぎるほど晴れがましい大音声に、急いで通話音量を引き下げざるを得なくなってはいた。そうした周囲の人々の反応を一切読み取ることなく、フィクションの中の名探偵めかして青年は、誰に見せるでもないのに胸を張ってこう言い切った。
「素晴らしい、ああ、全くもって! この成功は君のおかげだ、誇りに思ってくれライニ。そして今すぐ彼女の担当医を呼んで、きっぱりと伝えておくれ、カロライナジャスミンによる中毒を疑うようにと!」

  * * *

 黒く鈍重な色をした錬鉄の門扉は、その軋みで月日の残酷さを声高に主張しながら開いた。
 お愛想程度に施されたアール・ヌーヴォー調の細工は、門そのものの持つ威圧感をこれっぽっちも和らげていない。すぐ向こうには色とりどりの花々が今を盛りと咲き匂っているのに、この場にひとたび立つだけで、人々は灰色の監獄を前にした囚人のような気分を味わうことになるのだ。世に存在する邪悪な建造物の門戸とは、みなこうしたものだろうと思わせる不吉さだった。
 もっとも、この門を庭園の入り口に造り付けた魔術師は、たとえば「働けば自由になるArbeit macht frei」等という欺瞞に満ちた文言は掲げなかった。より直截で、信実で、極めて残酷な一文だけが、曲線模様のアーチの上に示されていた――「Diese Pflanzen konnen dich toten」、「植物たちはあなたを殺せる」。

「あのさ、こういうことしてる場合じゃないんじゃないの、あたしたち?」
 すぐ先を行く黒い上着の背中に、不審そうな目を向けて少女は言った。 「あと、いい加減離してよ」
 室内にいる時とは違って、少女はシャツの袖の上から厚手の黒い手袋を着けていた。園芸用に作られた、手を植物の汁や棘などによる怪我から守るためのものだ。その手を取って歩く青年もまた、肘まで覆う長い革手袋。ばかりか、仕立ての良いライトグレーのズボンの裾も、黒革のロングブーツにたくし込み、庭いじりに精を出す21世紀の園芸家というよりは、乗馬か狩猟に出かける近代ヨーロッパの貴族といった趣である。
 これらの装備は断じて形だけのものではなかった。皮膚の露出をほとんど無くし、さらには「保護」の呪文も重ねがけして、万全の態勢を整えてからでなければ、彼らが今いる場所には近付くことも許されない。なにしろ、「危険動植物管理課」が管理する庭園である。見渡す限り危険な植物しか植わっていないのだ。
「どうして? むしろ、これ以外に何かすることがあったかい。今の私たちが帯びている最大の使命は、眠り姫に呪いをかけた魔女の探索だろう。――いや、違うな。あの物語で喩えるとしたら、彼女の白い指を刺してしまった紡錘つむの針を探しているわけだ。幸い、私には心当たりがあった……」
 軽やかな歩調を少し緩めながら、肩越しに振り返って青年は答えた。いつも通りの端麗な、瑕疵の見当たらない笑顔。少女はそれを睥睨し、当てつけるような口ぶりで続けた。
「あたし思うんだけど、何でもかんでも童話とかチェスとか演劇に喩えたがる人っているじゃん、あれ何なんだろうね? 現実の人間を理解できるだけの能力がなくて、わざわざフィクションやゲームに置き換えなきゃ喋れないの?」
 明白な悪意の込められた台詞にも、返されるのは「何のことやら」とでも言うかのような、軽く肩を竦める動作のみ。青年はそのまま順路を進み、眼前に現れた建物の扉に手をかけて開いた。金属の骨組みとガラスで覆われた、半円形の屋根を持つ温室である。ドイツ東部の厳しい冬に耐えられないような、温帯から熱帯にかけての植物――言わずもがな全て人間に対して有害――のためのものだ。
 少女はここでようやく青年の手を振り払い、建物に一歩踏み入れて、後ろ手に扉を閉めた。すぐ前にはもう一枚の戸がある。こうした二重扉は、もちろん室温を下げてしまわないためであり、あるいは温室に棲む植物以外のものを容易に逃がさないためでもあった。
「さあて、リコ、君に物語の鍵を見せてあげよう。何が姫君を恐ろしい悪夢に閉じ込めてしまったのかを」
 革手袋を嵌めた手が、二枚目の扉を押し開ける。少女は怪訝な顔をして、半開きのガラス戸と青年の顔を見比べた。
「何? ……ここに植わってるっていうわけ、その、今回の原因が?」
「その通り。君の印象に残っているかどうかは分からないけどね、でもきっと覚えはあるんじゃあないかな、毎日のように見ているだろうから。さ、おいで」
 詳細は語らないまま、青年は手招きをして花々の間に分け入ってゆく。通路の両脇では楚々とした純白のチョウセンアサガオが陽の光を浴び、紫の萼を広げたトケイソウが、細い巻きひげをてんでに伸ばしている。その中央では琥珀色の翅を持つヒョウモンドクチョウが蜜を吸っている。その名に違わずこの蝶にも毒がある。危険生物管理課は何も、トリカブトやマンドレイクやベラドンナのような「わかりやすい」有毒植物だけを取り扱っているのではない。何らかの理由で人間にとって危険だと認められさえすれば、それが魚だろうが鳥だろうが蝶だろうが研究対象であった。
 またある場所には、ころんと丸い形で棘のないサボテンが、天辺に薄桃色の花を咲かせていた。鉢に付けられた札には「Lophophora williamsi」の学名と、「ペヨーテ」という一般名が併記されている。少女はこれを以前見たことがあった。もちろん日本で、だ。「烏羽玉」と呼ばれて愛好家には人気の品種なのだ――と同時に、強い幻覚作用を持つ成分を含んでいるため、別の方面でも大人気である。「食べると色々あって人が死ぬ」だけが毒ではない。

 やがて、二人の行く手にカーテンのようなものが見え始めた。温室をいくつかの区画に区切る背の高い柵に、無数の蔓が絡んで葉がこんもりと茂り、2cmほどの黄色いラッパ状の花をあちこちに咲かせ、地上近くまで垂れ下がっているのだ。与えられた領域から溢れ出さんばかり、まさしく「咲きこぼれる」といった風情で、熱帯生まれの極彩色の植物たちの間にあっても、揺るぎない存在感を誇っていた。
「あれだ、あの花がみなそうだ。君の身近にもあるだろう?」
 青年が立ち止まり、軽く手を挙げて花の群れを指し示す。身近に、と言われて少女は目を丸くし、さらに蔓草の根本まで近寄っていった。傍で見ると、なるほど彼女には覚えがあった。とても身近に。
「女子寮のフェンスに生えてる、これ」
 黒い目が瞬く。 「あんまり気にしたことなかったけど、そっか、おんなじ花だ。ってことは――」
「危険物なのさ。とても華やかで、しかも育てやすいから、生垣にするにはもってこいなのだけれどね」
 何でもないような青年の声を聞きながら、少女は足元の名札を読んだ。ゲルセミウム科ゲルセミウム属、学名は「Gelsemium sempervirens」、ドイツ語での標準名は「Carolina-Jasmin」。
「カロライナ、……ジャスミン?」
 少女は首を傾げた。カロライナ、ということはアメリカのノースカロライナだかサウスカロライナ辺りに生えているのだろうが、そうした地名とジャスミンを結びつけることは彼女にはできなかった。もっと熱帯の、中近東やらアフリカやらのイメージだ。第一、ジャスミンは有毒植物のくくりには入らないはずだ、なにしろお茶にして飲むぐらいなのだから――
「ジャスミンに毒なんかあるのか、と言いたそうな顔をしているけど、リコ」
 思ったままを言い当てられて、少女の考察は中断された。人が集中しているときに限って、一番気に障るタイミングで茶々を入れてくるから嫌なやつだ――と、思考が目の前の植物から青年の悪口へ一瞬で塗り替えられる。
「もちろんジャスミンに毒ぐらいあるさ。我々が食べたり飲んだりする花の部分には含まれていないだけで、根は有毒だよ……いや、『潜在的に』有毒、としておくべきか。中枢神経に対する麻酔作用があるとされているけれど、何せ成分については判っていないことのほうが多いから」
「そうなんだ……」
「まあ、その話は今は置いておこう。何の関係もないからね、今回の件には」
 ひとつの話題をごくあっさりと終わらせた青年に、少女の眉はまた訝しげに顰められた。関係があるからこの花の前まで連れてきたのだろうに、いきなり翻すとはどういうことなのか。そんな疑りの眼差しをまともに受けながらも、青年の態度は一切変化しなかった。
「君の目の前にある花は、君の想像するジャスミンじゃあない。あちらはモクセイ科ソケイ属で、カロライナジャスミンとは遠縁の親戚同士ですらない。全くの別物なのだよ」
「別物?」
 肩口で切り揃えられた黒髪を揺らし、少女が振り返る。
「そう、名前にジャスミンと付いたのは、単に香りが似ているからというだけさ。あとは何もかも、原産地から花や葉の形まで違う。何より、毒性の強さは比べ物にならないほど違う」
 緩やかな笑み。 「ジャスミンの根で死ぬ者はいないが、カロライナジャスミンの根で死んだ者はいる」

 また・・だ、と少女は思った。肌で感じるこの居心地の悪さは、ちょうど会議室で差し向かいになっていたときと同じだ。青年があれこれ夢想し、耽溺するような、現実と温度差のありすぎる空気を纏うとき、居合わせた者はみな同じような感覚を味わっているに違いない――彼女は考え、逃げるように花の根本の説明書きへと向き直った。逃げるといっても、そこに書かれているのは彼女の救いになるような内容ではく、無機質で冷酷な科学的事実だけだったが。
「有毒成分はゲルセミシン、ゲルセミン、センペルビリン等。全草有毒だが、特に根には猛毒シクトキシンを含む。……主な症状として、ええと」
 少女は日常生活を送るのに十分なドイツ語の理解力と語彙――この部署に配属されてからというもの大分と罵倒語に偏りつつある――を有していたが、医学用語となると知識の追いつかなくなることもある。彼女は上着のポケットから携帯電話を取り出して、翻訳機能を活用しながら読み進めることにした。
「呼吸麻痺、痙攣、血圧低下、心機能障害……」
 ずらりと並ぶ剣呑な単語は、電話で告げられた患者の症状と一致している。そして、患者の自宅敷地内には同じ花が植えられていて、住民ならば問題なく手に取ることもできる――
「これを食べた? その、シスター……」
「シスター・ミアだったかな。そう、彼女が。なんでもハーブに造詣が深い女性らしくてね、毎日のように試行錯誤を繰り返していたそうだ。加えて先日、自室のすぐそばに生えていたカロライナジャスミンを間引いていたと」
 札から顔を上げ、絡み合う蔓と青い葉の茂みに目をやりながら少女が呟く。青年が答え、先程受けた電話での内容を言い足した。少女は黙りこくり、考えた。――ジャスミン茶は眠りに良い、というのは広く知られた話。彼女がカロライナジャスミンを煎じて飲み、結果として中毒を起こすというのは、有り得ない話ではないだろう。
「でも、どれだけジャスミンに香りが似てるったって、ジャスミンとは別のものなわけだし。……花の形が違う、っていうのは大きすぎるでしょ。そんなの間違えるものかな」
 彼女は黄色い花影から目を逸らし、ぼやいた。それを聞きつけた青年は逆に、顎に手を当てながら鮮やかな群れを見上げる。
「もちろん間違えることは有り得るさ。人間の知覚と記憶は万能ではないもの。――けれども今回は、誤認したのではなく意図的にこの花を選んだ、というほうが可能性として高いかもしれないな。シスター・ミア・シュトゥデントはハーブティーに関する知識が豊富な魔女だった。だからカロライナジャスミンがどのような効能を持つ植物か、知っていたとしてもおかしくない。この花の根がヨーロッパで古くから、偏頭痛や不眠症の治療に用いられてきたのは事実だからね」
 株いっぱいに開いた花々は、温室の一角に円やかな芳香を漂わせている。四方八方に伸びた蔓と共に、何かを誘い引き寄せているようだった。もちろん受粉のための昆虫を招いているには違いないのだが、それとはもっと違うものさえも。
「魔術師・魔女に限らず、一部の人々は現代西洋医学を毛嫌いすることがある。彼女も同種の人物だったとしたらどうだろう。自分に合った睡眠薬を処方してもらえば済むところ、様々のハーブで代用できないか試す。安眠をもたらす薬草といえば様々にある、カモミールにラベンダー、リンデンやネトル、言うまでもなくジャスミンも……」
 革手袋を嵌めた右手が、可憐な花群までそっと伸びた。揃えた指先が花の一つを掬い取るように動き――しかし実際には空を掠めただけに終わった。大気の流れが細い枝を煽る。匂いを手繰り寄せるように。
「そうして無駄骨を折るうちに、彼女はより先鋭的な薬湯にまで手を出すようになった、とは考えられないだろうか。古の時代の魔女が、悩める婦人たちのため処方した花に目をつけて、芳醇な煎じ薬を作り上げてしまったと」
「で、何の疑いもなく飲んでひっくり返って病院に担ぎ込まれたってわけ? 大の大人が?」
「病人の藁にもすがる思いは強いものだよ、フロイライン。そうでなければ21世紀の今日、健康食品産業がこれほど栄えるはずもない。一日八時間ぐっすり眠れるようになるなら何だってする、という人は少なからずいるさ。まあ、……彼女は確かに魔女だが、植物学も魔法薬学も学んではいない。自分の考えだけで処方箋を書く前に、まず我々のような者を頼って、もっと相応しい一杯を探させてくれれば良かったのにとは思うけれどね」
 青年はさも残念そうに口にしたが、これを聞いた少女はたちまち不愉快さを露わにし、顔を顰めながら彼の顔を下から睨めつけた。目は口ほどに「お前が言うな」と述べている。
「間違ってもあんたにだけは相談しないよ。あんた自身がまず専門家じゃないし、庭にだって毒草しか植わってないんじゃあね」
 刺々しい声色、不信感たっぷりの視線。ところが、それに晒された当の本人は、相変わらず涼しげに微笑しながら、軽く顎を上げて鼻先をひくつかせ、控えめな、けれど蠱惑的な香りに感嘆の息を漏らすのだった。

「毒草が――やあ、君は私が毒草のことしか知らないように言うけれどね、それが一体どうしたというのだい。さっき言ったとおり、紛れもない毒草であるカロライナジャスミンが、同時に高い鎮静効果を持っているのは本当さ。用量さえ間違わなければ、彼女の試みは成功したかもしれないんだ。生憎と彼女は間違えたし、恐らく一般家庭で成功させられた例など無いとしても」
 夏の先触れを思わせる風が吹き抜け、幾筋も垂れ下がった蔓を揺らしてゆく。魔術によって再現された、自然の空気の流れだ。葉擦れのざわめきの中で、少女小説の一節じみた青年の笑い声が、半端に掻き消されぬまま中空を漂った。
「今日見られる全ての薬は毒と同じさ。彼女はアロマテラピーの専門書より、まず中学校の化学の教科書を読むべきだった。あるいは古代ギリシアの詩物語を。どうせなら私の持っている神統記テオゴニアーの挿絵本を貸してあげればよかったな――それと解るよう書いてあるはずだからね、眠りヒュプノスタナトスの兄弟だと」

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