その鮮烈な緑が目に入ったとき、少女は自分の座るべき席をほぼ無意識に決定してしまった。

午後の死の手前 -Go Green On You-

 水曜日の午後のことだ。時刻は五時を回った頃合い、外はまだまだ明るく、初夏の太陽はライプツィヒの街並みを慈愛に満ちた光で照らしていた。少女はその日に課せられた仕事――高校へ行って幾何やフランス語の勉強をすることではなく、世界魔術師協会ライプツィヒ支部の片隅で、標本瓶に詰められたありとあらゆる植物の整理をすること――をすっかり終え、肩口で切り揃えた黒髪を風に弄ばれながら、カフェへと足を運んだのだった。お茶をするには遅い時間だが、おかげで比較的空いている。どうせこう日が長くては、八時か九時にならないと落ち着いて夕食も取れないのだし、コーヒーを一杯にクロワッサンか小さなトルテを付けたところで、後々困ることもないだろうと踏んだのである。
 少女が出向いた店、「カフェ・アリバイ」は、極めてクラシックな、ウィーンの街角からそのまま切り取ってきたかのような場所だった。重厚な木の扉を開けると、目の前に品のいいシャンデリア、そして多種多様のパイやケーキを収めたガラスケース。喫茶室はその奥にあり、磨き抜かれた年季物のカウンター、さらに向こうには二人掛けや四人掛けの丸テーブルがいくつも並んでいる。壁には絵画が掛けられ、調度品の間を正装のウェイターが完璧な所作で行き交う。21世紀の現代にあって、この店内だけは19世紀オーストリアそのものの空気が流れていた。
 普段なら、少女はテーブル席の奥も奥、喫茶室の隅の小さな一人用の席に座るところだった。そこは静かで、読書に丁度良い落ち着きがあり、ちょっとぐらい長居したところで迷惑がられもしないからだ。ところが今日に限っては、その慣習を捨てざるを得なかった。カウンターの前を通り過ぎようとしたとの時、目に入ってしまったのだ。あまりにも刺激的な緑色が。

 六席あるカウンターのうち、右から二番目。小さく装飾的なグラスの中に、それは注がれていた。液体だった。美しい刻み模様のつけられたグラスは下部が丸くくびれて、ちょうど液溜めのようになっており、その部分を明るく鮮やかな緑が満たしている。エメラルドグリーン、と呼ぶには少し黄味が強い、どちらかといえば若草色とか、あるいはライムグリーンといった色合いだ。
 「カフェ・アリバイ」は素晴らしく香り高いウィーン式のコーヒー、ないし上等のホットチョコレートで常連客には知られているが、これはまず間違いなくコーヒーでもチョコレートでもあるまい。では何かしらのジュース? 否、たとえば合成着色料たっぷりのメロンソーダならこんな色にもなるか知れないが、この店でそうした品を出すとは少女には思えなかった。一瞬で目を奪われ、網膜に焼き付くような発色は、はたして天然自然のものなのだろうか。彼女は黒い目を丸くしてグラスに見入った。
 そればかり気にしていたので目に入らなかったが、少し引いてみればもう一つ奇妙なものがある。グラスはコーヒー用の白磁のソーサーに載せられているのだが、その向こうにはやや仰々しい、奇妙な器具が置かれていた。すらりとした金属の脚の上に、ぷっくりとした円筒状のガラス器が据え付けられ、その中には氷水が満たされている。下部には小さな蛇口らしきものが複数取り付けられており、卓上サイズの給水塔といった趣である――でも、何のために? 通常いわゆる「お冷」は客がめいめいに注文し、ウェイターの手によってグラスに直接注がれるものであって、あんな器具を用いる必要はない。どこか人工的な緑の液体と相まって、心静かな午後の一服というよりは、何やら怪しげな錬金術の実験でも始まりそうに見える。
 そのまま暫し見入っていた少女だったが、やがて自分を捉える視線に気が付いた。カウンターの内側にいる壮年の男性店員が、疑念と心配の綯い交ぜになった目を向けていたのだ――このアジア人らしき女の子はカウンターの前で立ち尽くしたきり、席を取りも注文もしないでどうしたのだろうかと。少女は誤魔化すように咳払いをし、一杯のコーヒーに加えて栗とチョコレートのケーキカスタニエンシュニッテンを注文した。それから例のグラスの席と一つ間を空け、背の高い革張りのスツールを引いて座ろうとした。その時だ。

「おや、リコじゃあないか。夕食にはまだ早いのではないかい、フロイライン?」
 背後から足音が聞こえると共に、穏やかに物問う声がした。少女はびくりと背筋を震わせ、肩に掛けていた鞄の紐をぐっと握った。
 それは物柔らかな、一般的な感覚からいえば耳に心地よい、若くしかし落ち着いた男の声だった。ところが少女にとってはこれほど癇に障る響きもないのだった。少女、リコ・サガミは忌々しげに息を吐き、勢いをつけて身体ごと後ろを向いた。そこには勿論、声の主がいた。
 概ね声の印象通りの、否、もしかするとその印象をより夢想的にしたようにも見えるか知れない、二十歳かそこらの青年である。淡い金色の髪は丁寧に梳られ、後ろに撫で付けられている。白くきめ細かな肌と、凍りついた湖のような薄青色の瞳、大きすぎず高すぎもしない鼻、それら全ての見事なまでに整ったバランス。飾り襟のついたシャツに黒いスラックスを合わせた姿は、確かに店内の雰囲気と見事に適合した貴族的さだった。が、現代ヨーロッパの若者が夏の夕暮れを過ごす服装としては、些か倒錯したものでもあった。
「あんた、」 自分よりずっと上にある青年の顔を、少女は睨め付けた。 「何やってんの?」
 青年は小脇に抱えていた革の鞄と上着を、席に――ちょうど例のグラスと器具が置かれた場所の隣にあるスツールに置くと、刺々しい視線を物ともせずに答えた。
「少し電話を受けていただけさ。携帯電話で喋るのはあまり好きではないのだけれど。ああ、何故ここにいるのかという意味なら……今日はあんまり良い天気だったので、昼の間はあちらこちら出歩いていてね。夕方はゆっくり過ごそうと思ったのだよ。せっかくのお休みだから」
「ああ、はいはい、そうでした」
 どこまでも取り澄ました青年の言葉に、少女が荒んだ調子で返す。
「あんたが居なかったおかげで、仕事が捗って助かったんだった」
「そうなのかい? それは良かった。ブラザー・ライムントはどうしているかな、彼も自分の仕事を終えただろうか?」
 口元を僅かに緩めることで表現される微笑。剥き出しの悪意を楚々として受け流し、小首を傾げて問う姿は、人によっては優雅で気品があると捉えられるかもしれないが、少女のようにわざとらしくて不快だと受け取る者もいる。
「ブラザーならまだ作業があるからって温室にいた。でも多分、あんたがいなくてせいせいしてると思うよ」
「ふうん、そう」
 直属の上司の名を出されても、青年は鷹揚に鼻を鳴らすばかりだった。 「とりあえず、座ったらどうだい?」
「あんたの隣になんか座りたくない」
「隣に座れだなんて言わなかったよ」
 血色の良い唇が緩やかな弧を描き、碧眼が細められる。青年はそのままもう一つのスツールを引き、緑色の液体の前に背筋を伸ばして腰掛けた。少女は完全に機嫌を損ね、こんな所で足を止めるのではなかったと強く思い、さっさとテーブル席に移ってしまおうとした。が――どうしても気になったのは、やはりグラスの中の液体のことだ。一体どうしてこれほど心惹かれるのか見当もつかないが、とにかく目を離せない。正体だけでも知りたくて仕方がない。

 もちろん、口に出して青年に直接尋ねようなどとは、少女はまかり間違っても思ったりはしなかったけれど、視線に込められた熱は相手にも容易に知れた。
「そういえば、奇遇といえば奇遇だな。そんな意図はなかったのだけれど、私はどうやら我々にぴったりの飲み物を注文したことになる」
 青年はソーサーごとグラスを少し引き寄せ、その水面に視線を落とした。微かに震える黄緑色に、天井から下がった丸いランプの笠が映り込んでいる。器の底に刻まれた、恐らく工房のマークだろう紋章が、光を浴びて浮き上がるように見えていた。
「何?」
 露骨に怪訝な表情を浮かべて、少女がグラスから目を離し青年を見る。その横で、店員がコーヒーとケーキの皿をカウンターの上に並べていた。少女の注文した品だ。
「ほら、私も君も『危険動植物管理課』の一員だろう? このお酒はね――」
「あのさ、あたし別に好きでその、『危険動植物管理課』にいるわけじゃないってことは何遍も言ったじゃん。あたしは元々同じ生物管理部でも、妖精管理研究課のほうに行くはずだったんであって、」
「そうとも、だからそれにも関係のあるものだと言いたいんだ」
 言葉を遮られ、遮り返し、青年は手元にある器の中身を指で示した。
「アブサンと云ってね、ニガヨモギから作る薬草酒なのだけれど、またの名を『緑色の妖精』と呼ばれているのさ」

 黒い目が瞬いた。少女にとっては耳馴染みのない名前だった。アブサン、緑色の妖精。
 言われてみれば確かに、幻想的で心奪われるような緑色からは、悪戯な妖精の印象を受けなくもない。それこそ植物の精、花の妖精といったものは、とても「自然な」色の衣装を身に着けていることがほとんどだし、こう鮮やかで優美な緑の衣を纏い、人々の前に現れてもおかしくはないだろう。
「妖精っていうのは、その……何?」
緑色の妖精フェー・ヴェールト。これはフランス語で、ドイツ語だと緑色の詩神グリューネ・ムーゼとも言うかな。飲めば目の前に美しい妖精や女神が現れて、芸術的霊感を授けてくれる、というわけだ。だからアブサンは芸術家たちにとりわけ好まれた――画家のゴッホやドガ、モネ、ロートレック、詩人ではヴェルレーヌやワイルド、作家はヘミングウェイにモーパッサン。彼らはみな、この魔法の飲み物から神秘的な贈り物を得ていたのさ」
 それって酔っ払って変なものが見えてただけなんじゃないの――少女の心にそんな疑念が去来したが、口にすると話が長くなるだけだと思ったので、やめた。代わりに沸き起こってきたのは次のような文句である。
「つーか、お酒? お酒だよね。こんな明るいうちから?」
「そうだよ、」 青年が碧眼を一、二回瞬かせた。少女のそれと違って、明らかに作り事めいていた。
「日本ではいけないことなのかい? 日没前にアルコールを摂取するのは。確かにドイツという国は、こと酒類についてはやたらと口やかましいところがあるけれど――ビール純粋令だとか、目盛り付きグラスの使用だとかね、でも流石に飲酒の時間まで法で定められてはいないな」
「別に、日本でも違法じゃないけどさ」
 少女がつっけんどんに口を挟んだ。
「そうだろうとも。まあ、法というなら、アブサンこそはかつて法で禁じられた飲み物の一つだったけれどね。繊細な人間にとっては、妖精の悪戯は少しばかり蠱惑的すぎたらしくて――」
 青年は言い、ソーサーに添えられた銀のスプーンを取り上げた。釣られて少女がよく見ると、ごく普通の銀器かと思われたそれには奇妙な点がいくつもあった。まず、スプーンとして使うには明らかな不都合がある。本来匙としてものを掬う部分には、美しいレース模様の穴が空けられていて、液体や粉末など素通しにしてしまうだろうことがすぐに判った。さらに先端は平らかで長く伸び、ちょうどグラスの上に橋渡しができるようになっているのだ。スプーンというよりは、ミニチュアの茶漉しかのようでもある。

 不可解さを湛えた目で凝視する少女をよそに、青年はカウンターの上の砂糖壺に手を伸ばすと、変哲のない角砂糖を一つ取り上げてスプーンに載せた。そしてグラスの上に横たえ、例の卓上給水塔のほうへと押しやった。
「あのさ、何してんの」
 少なくとも、この日本人の少女の記憶と知識の中に、このような胡乱な手順を踏む飲み物など存在しない。砂糖を入れて飲むならさっさと入れればいいし、水で割って飲むなら普通の水差しを持ってこさせればいい、彼女の考え方は万事こんな調子であった。
「ちょっとした儀式があるからね」
「儀式?」
 返ってきたのは青年の、意味深長な微笑を添えた一言だった。少女はますます訳が解らない。
「これも法の規定というわけではないけれど、一種のお作法というものだ。私が思うに、これもまたアブサンの魅力のひとつだよ。さ、よく見ておいで、本当に魔法のようだから」
 白い指がグラスの位置を丁寧に合わせ、小さな蛇口を捻った。

 ぽたり、ほんの一粒だけ滴り落ちた水が、スプーンの上の角砂糖に吸い込まれた。続けてまた一滴。なんとも悠長な間隔だった。気の短い者にはとても待ち切れないだろう。少女もよくよく短気ではあったが、今だけは好奇心が勝った。
 じきに角砂糖は水分を把持しきれなくなり、余剰の一滴をグラスへと零す。眩い黄緑色の水面に波紋が走り、それが完全に消え去る間際で次の雫が落ちてくる。さらに二つ、三つ――
「あっ」
 ほとんど音になっていない気付きの声が、少女の口をついた。丸いガラスの液溜めの中、その緑色が僅かに変化したのだ。雫が水面を叩くたびに、薄ぼんやりと白く。
 白はすぐに周囲へ溶け込むでなしに、目の覚めるような緑のなかで緩やかに渦を巻く。くるりくるりと踊りながら、やがてグラスの底へ身を沈め、全体の色を塗り替えてゆく。少女は唇を小さく開いたまま、背後に流れるカフェの喧騒も、傍で立ち昇るコーヒーの薫りも置き去りに、小さな酒器の中で繰り広げられる魔術に見入った。――もしかして、これがその「緑色の妖精」とやらなのかもしれない。
「さて、この辺りかな」
 彼女を現実に引き戻したのは、やはり青年の平然とした声色だった。はっと視野を広く取れば、角砂糖は溶けてすっかり姿を消し、グラスの中身は倍ほどに増えていた。青年は再び蛇口を捻って水を止め、スプーンで液体を数度静かにかき混ぜると、引き上げた先端を左手の甲に軽く触れさせた。小さな雫を載せた手は口元へと運ばれ、唇がそれを拭い取る。
「やあ、なんて豊かな香りだろう。きっと開けたばかりの新しい瓶だね。そうではないのかい。――ここではアブサンもオーストリア産を使っているのだったかな。アブサンの本家といえばスイスだけれど、私にはこちらの味のほうが丁度いいよ」
 前半はカウンターの向こう側へ、残りは独り言のようにそれぞれ発声すると、青年は右手でグラスを持ち上げた。と、そこで少女の黒い目と視線がかち合う。
「ああ……リコ、残念だけれどね、アブサンというのは度数が70近くある酒だ、16歳の君では飲むことはできないよ、ビールやワインと違ってね」
「飲みたいなんて言ってないし」
 続く台詞があまりに見当違いのものだったので、青年は少女から不審そうな眼差しを受けることになってしまった。
「だいたい日本じゃ『お酒は二十歳になってから』だし。そうじゃなくても、あたしはあんたと違ってそういう、芸術家とかを気取ってるわけじゃないし」
「私だって気取ってはいないさ。確かに私は芸術を愛しているけれど、一介の好事家ディレッタントに過ぎないのだからね。ただアブサンの特性と、瞑想的な気分になれるところが好きなだけだよ」
 その言葉選びが気取っているというのだ、少女は強く心に念じたが、無論のこと相手には伝わらなかった。彼女の目の前で青年は、薄いガラスの縁に唇を沿わせ、湿す程度の量だけを口に含む。数秒の間、そして吐き出される香気を含んだ溜息。

「……妖精が見えるの?」
 まさかそんな筈はないだろう、という考えは持ったままで少女が訊く。
「見えたことはない」 青年は答えた。 「私の魂は、ベル・エポックの詩人たちほど無垢にできていないらしい」
 グラスがソーサーの上に戻る、微かな音がそれに続いた。
「というのはロマンチックな解釈で、実際はもっと科学的な話だ。現代のアブサンでは過去の芸術家たちのように、インスピレーションに富んだ夢を見ることはできないだろうね」
「『現代の』?」
「さっき言ったろう、『かつて』法で禁じられていたと。アブサンはニガヨモギで風味付けがされているのだけれど、正にその風味を司る成分が、同時に幻覚作用も持っているのさ」
 少女が目を剥き、すっかり乳白色に濁った器の中身を凝視した。酔って妙な夢を見ている、というだけでなしに、もっと質の悪いものまで含まれていたとは。自らの意思ではないとはいえ、「危険動植物管理課」などという部署に所属している身であるから、彼女も植物の持つ「幻覚作用」がどんなに恐ろしいかはよく知っている。
「もちろん、その成分――ツヨンという物質の、そればかりが悪いわけじゃあない。食品安全なんて考え方の浸透していない時代だから、粗製濫造のリキュールには大量の混ぜ物がされていただろう。その中には毒性の強いものだって多かったに違いない。毎日飲んでいれば身体に悪いどころか、中毒になって身を持ち崩す者が多かったのも納得だ。結局、ドイツはもちろんヨーロッパの各国でアブサンは禁制品となり、ツヨンの含有量が一定以下に抑えられた品が再流通するようになるまでは、大変な時間が掛かったのだよ」
「つまり、今は安全ってこと? その、飲み過ぎさえしなけりゃ、だけど」
「そう、節度を守っていれば。だから安心しておくれ、リコ。私は嗜みということを忘れてはいないからね」
 手をグラスの脚にそっと添えながら、青年はいかにも理知的で慎み深そうな、あたかも貴族の肖像画のごとき「正常な」笑みを浮かべたが、対する少女はあからさまにがっかりしたような顔を作った。実際に落胆したわけではなく、皮肉としてだ。
「そりゃ残念。あんたの頭がおかしいのはそんなもん飲んでるからなんだ、って納得しようとしたのに」
そんなもん・・・・・、だってリコ、それはアブサンにもニガヨモギにも失礼だよ。この店にもね。あと、私の風狂も酒を飲むようになるずっと前からのことで、原因をアブサンに求めるのは間違っているのではないかな」
 少女は絶句した。――自分の頭がおかしい自覚はあるんだ、こいつ。
「植物そのものに罪はない。罪悪はいつだって、それに入れあげる人間のほうにあるのだよ。一度あの香りを味わってしまえば無理もないことだけれど――ああ、そうだ」
 夢想するような言葉の並びがふと止まり、何かを思いついたような顔で青年は言った。そして、カウンターの奥へ「失敬パルドン」の声を投げ、壮年の男性店員を呼びつけると、
「ねえ、ここにはあのキャンディを置いていただろう、八角アニス茴香フェンネルとの……」
 と問うた。店員が軽く頷いて肯定する。
「あれを二つか三つ、彼女に出してやっておくれ。代金は私が払うから。それと、私にはホワイト・チョコレートのボンボンを貰える?」
「え、ちょっと待って、何それあたしにって――」
 突然の振りに当惑し、少女が身を乗り出しているうちにも、店員は素早くカウンターの下へかがみ込み、小さな白磁の皿と紙箱を取り出した。箱にはアール・ヌーヴォー調の文字で、銘柄と思しき名前が書かれている。そこから半透明のキャンディが数粒、音を立てて皿へと振り出された。ハッカ味のドロップスに似ているなと少女は思ったが、ハッカ味ではないだろうと予想はついていた。
「アブサンに近い味のキャンディだよ、酒と同じようなハーブを使って作られていてね、これなら君でも香味を楽しめるだろう」
「いや、だから飲みたいって言ってないじゃん、要らないんだけど――あの、ちょっと、別に要らないんですけど!」
 少女は顔を顰めて青年を見、さらにキャンディを載せた皿が自分に差し出されるのを見て、慌てて固辞しようとしたが、無駄だった。ひんやりとした乳白色が、深い栗色のカウンターの上でつやつやと光った。水を入れて濁ったアブサンの色、そのままだ。彼女は呆然としてそれらを眺め、続いて考えた。何も見なかったことにして、コーヒーとケーキだけを腹に収めてさっさと帰るか。もういっそのこと、自分の代金すら青年につけて今すぐ出ていくか。
 悲しいかな、幼少期から施されてきた情操教育の賜物で、彼女はどれとも違う選択肢を取るよりほかになかった。「厚意で出されたものは残すな」。

 さも自分は善行を為しましたとばかり澄ましている青年を、絶対に見ないようにしようと心に誓って、少女は白いキャンディを一粒つまみ上げた。そして、出来る限り自然に口に運んだ。
 途端、口腔に今まで経験したこともないような「緑」が――ハッカ味のドロップスに漢方薬と病院の咳止めシロップと雨上がりの裏庭を足しっぱなしにしたような香りが広がり、そのまま鼻へと抜けていった。少女には、少なくとも「甘味」としては受け入れ難い風味だった。彼女は目を白黒させ、咄嗟に何が起こったのか理解もできず、ただ混乱した。憎らしいことに、舌には間違いなく砂糖の甘みを感じていた。
 このままキャンディを口の中に滞留させておくのはまずいと、数秒遅れてやっと判断を下した少女は、マナーだの何だのは全て忘れてこの固形物を噛み砕き、一息に嚥下した。それから、青年の前に新しく置かれた皿に勢い良く手を伸ばし、滑らかな球形のチョコレートを掴むと、何か言われる前に口へ放り込んだ。不幸は続くもので、ホワイトチョコレートと漢方薬の風味は彼女にとって絶望的なほど相容れなかった。
 畜生めシャイセと叫びたい心を無理矢理に押さえ込むと、少女は悲痛な面持ちでブラックコーヒーを数口飲み、なんとか味覚と嗅覚をリセットた。続けざまに栗とチョコレートのケーキを咀嚼することによって、なんとか冷静さを取り戻す。そしてスツールから飛び降り、場の推移を見守っていた店員へ、奥のテーブル席に移りたい旨を告げた。すぐに若いウェイターが銀盆を手にやって来て、彼女の前に置かれていたものをそっくり載せていった。キャンディの小皿以外は。
 この世には理解してはいけないものもあるんだ、少女は思った。前々からドイツ人は、いやドイツのみならず西ヨーロッパの人々は、やたらにこういった「薬草味」を有難がるような気がしていたのだ。例えばスーパーマーケットに行くと、レジの横に真っ黒なリコリス飴の袋が山積みされているけれど、あれだって一度たりとも美味しいと感じたことがなかった。ところがライプツィヒで知り合った人々はみな、この邪悪なまでに黒い菓子を喜んで食べるのである。日本人がかりんとうでも齧るかのような気安さで。
 日本人にだってリコリス菓子を好む者はいるだろうが、とにかく自分にはどうしても受容できないものである。そう結論づけて、少女は自分の鞄を取り上げ、席を移動することにした。ウェイターが去っていったテーブル席のほうへ数歩進み、そこでふと足が止まる。何故だかは彼女にも分からなかった。青年に言っておくべき文句を思い出した? 否、もう顔を見ることさえ嫌なのだ、その上さらに口を開く労力まで使うなんて。
 しかし、彼女は立ち止まった。振り返ってカウンターのほうを見た。

 そして息を呑んだのである。つい先程までいた場所には、青年が変わらず背筋を伸ばして座っており――その隣の席にゆったりと、重厚な横木に身を預けるようにして、もう一人見たこともない誰かがいた。それは深い緑色の外套を着た、美しい金髪の若者であり、どうしてだか青年と顔かたちが似ていると思えた。いや、青年よりは幾分か年嵩で、もっと落ち着いて凛々しい横顔をしていたが、やはり似ているには違いなかった。彼はまるで古い友と語らうときのような、優しく柔らかな微笑みを湛え、青年のグラスに手を添えていた。
 少女は周章し、手元の鞄に視線を落として、数度まばたきを繰り返した。たっぷり待ってからもう一度、今度は身体ごと向き直ってみた。そこにはもう、白いシャツに黒いスラックスの青年が一人、夢見るように瞼を閉じたまま、小さな杯を傾けているばかりだった。

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