「子供の頃、うちに大きな本があったのさ。父さんが兄さんと私にくれたんだ」

好事家の蒐集室 -Cabinet of Complacence-

 すぐ前を進む青年が、唐突にそんなことを言い出したので、ライムント・オーベルシュトルツは一瞬歩みを止めてしまった。ひんやりとした夜の風が渡り廊下を吹き抜けていった。
 もう夜の九時を回っている。ライプツィヒの古い街並みの向こうに、初夏の太陽はすっかり沈み、世界魔術師協会ライプツィヒ支部の別館へと続く廊下は、静かで穏やかな闇に包まれていた。行く手に見える蛍光灯の明かりは、まだ業務を続けている妖精管理研究課のものだろう。支部に勤務するほとんどの魔術師たちは、それぞれに成すべきことを終え、夜勤の者に引き継ぎをして、自宅で遅い夕食を取っているころだ。
「ルーブル美術館の図録だよ。すごく重たくて、とても分厚い。それも年代ごとに四冊ぐらいあってね――兄さんはもう高校生だったからともかく、私は読み通すのに苦労したものだ。自分の机の上に広げて、絵の横に添えられた小さな小さな字を、目をいっぱいに凝らして毎晩のように見ていた。休日は良かったな、兄さんが一緒に読んでくれたから。まあ、私たち兄弟はとても仲が良くて、めいめい芸術好きだったという訳さ」
 青年がどうして突然昔話など始めたのか、後ろを歩く中年魔術師にはさっぱり見当がつかなかった。あるいはこの青年のことなので、ただ昔話をしたくなっただけかもしれないが。――彼は黙って青年の後ろ姿を眺めながら、後ろをついて歩いた。丁寧に梳られた淡い金の撫で付け髪と、襟にきっちりアイロンの掛かった白いシャツ、黒いジャケット、黒革のロングブーツにたくし込まれた灰色のスラックス。舞踏会か狩猟にでも出かけた帰りか、と言いたくなるような、些か時代倒錯した装いだ。しかし彼らは実際のところどちらでもなく、敷地内にある植物園から執務室へ戻るところであった。

「私たちはいつも同じ図録を読んでいたけれど、好みはいくらか違っていた。七歳の年の差のせいか、それとも個人的なフェティシズムの問題だったのか。兄さんはドミニク・アングルの『グランド・オダリスク』を見て、『なんて背中の綺麗な人なんだろう』と言っていたよ……」
 肩越しに青年が振り返った。「どう思う?」と言わんばかりに小首を傾げる仕草は、アイスブルーの大きな瞳と相俟って、彼の顔立ちを年齢よりも幼く悪戯めいたものに見せていた。
「でも私は『民衆を導く自由の女神』のほうが美人だと思ったし、『サモトラケのニケ』の失われた首はどんな顔をしていたのか想像するほうが好きだったな。ただ、どれだけ意見が違っても、最終的にはいつも同じ結論に落ち着くんだ。『いつか一緒にルーブルへ行って本物を見よう』ってね」
 かれこれ十年以上は前の思い出を、それ自体が崇高な芸術品かのごとく、愛おしむような声音で青年は語る。暗闇の中に立ち並ぶエニシダの茂みが、風に揺られて立てるざわめきが合いの手だった。
「それで幸い、ルーブル美術館には行ったんだ。『グランド・オダリスク』も『民衆を導く自由の女神』も『サモトラケのニケ』も、もちろん『モナ・リザ』や『ミロのヴィーナス』だって見た。それは君も知っているよね、ライニ?」
「もちろん」
 そこでやっとライムントも口を開くことができた。 「一緒に行ったのは私だからな」
「その通りさ、ライニ。どういう訳だか――いや、どういう訳もなにも、半ば仕事だったからだね。それに、君が一緒だったことを悪いと言うんじゃない。君は私の大事な友達だもの」
 数少ない、と冗談めかして付け足し、青年は笑った。普段の勿体ぶって取り澄ました、19世紀の貴族の肖像画のごとき微笑ではなく、現代の若者として何ら不自然なところのない笑みだった。
「どうあれ私は目的を果たした。でも兄さんの夢は叶わなかったんだ。永遠に」

 深く息をつく間。
「それから考えるようになったんだよ、何かしら心に望みを抱いたなら、出来る限り早いうちにそれを満たすよう手を打つべきだって。つまり生きているいま・・・・・・・のうちに。そうして自分の中にある、たくさんの欲望と向き合ってみた」
 気付けば歩みは渡り廊下の終端に達し、目指す別棟との境を踏み越えていた。常夜灯に照らし出された木の床は、実際には定期的に張り替えられているのだが、どうにも古めかしく見える。煌々と明かりのついた妖精管理研究課の前を通り過ぎれば、たちまち行く手には暗がりが蟠る。
「思うに、兄さんはきっとルーブルをひと目見るだけで本望だったろう。もしかしてそこに本物の『グランド・オダリスク』がなくても、ただ『あの絵が本来存在している場所』に立てるだけで幸せだった。その絵が広くフランス人民の、世界中の人々の共有財産であって、決して自分のものにならないとしても、十分に満足だったと思うんだ」
 年季の入った金属の案内板をいくつも見送り、やがて眼前に一つの扉が現れる。「危険動植物管理課」と、飾り文字できっぱり示されたこの部屋こそが、彼らに与えられた職務の場だった。青年が立ち止まり、仰々しい錠前を慣れた手つきで外すと、背後に立つ年嵩の友を振り返った。笑顔はそのままだったが、目は真摯なものだった。
「でも、私は自分の・・・が欲しかった」

 軋みを上げながら扉が開き、温度のない漆黒が部屋の主たちを迎えた。青年は照明のスイッチに手を伸ばさず、代わりに虚空へ差し上げた――小さなオレンジ色の光が蛍火のように現れ、ふわりと宙を舞う。それは周囲のごく小さな範囲だけを照らしながら、壁際の背の低い棚に置かれたランタンの中に飛び込んだ。元々は蝋燭か、またはガスの灯が入っていただろうそのランタンは、優美な彫金に飾られたガラス越しに、暖かな光を投げかけ始めた。
「しかし、今日は随分と遅くなってしまったなあ。私は日の落ちた後の植物園も好きだけれどね」
 明かりがついて真っ先に目に飛び込んでくるのは、入り口に正対するように鎮座する大トカゲの頭骨標本だ。口を開けて無数の牙を剥き出しにし、今にも獲物に喰らいつきそうな様相である。危険動植物管理課を初めて訪れる人はみな、一度はこのモンスターの面構えに驚かされることになる。むろん標本を配置した者――誰あろう青年だ――も、端からそれを狙って置いたに違いない。陽の光の下でもそうなのだから、暗がりを照らした拍子に現れ出たときの不気味さといったらたまらないものがある。
「ライニ、お茶を淹れようか。もうここで夕食にしようよ。昼にパンとチーズとハムを買っておいたんだ……君は私と違ってワインがなくとも文句は言わないだろう」
 ランタンを片手に掲げ、ゆったりとした足取りで部屋の中央を目指しながら、青年が呼びかけた。魔術の灯はいかめしい爬虫類の骸骨を離れ、壁一面にずらりと並んだガラス瓶を浮き上がらせている。そこには一瓶に一種類ずつ、植物の種子や根を乾燥させたものや、生ある姿のままの花などが封じられ、表面に貼り付けられた手書きのラベルでもって名を示されていた。ベラドンナの実。ヒガンバナの球根。サイカチの種。ゲルセミウム・エレガンスの乾いた葉。麗しい青紫色をそのまま残したトリカブトの花は別格で、少し高い位置に瓶が掲げられ、その横には美しいロシア語の詩まで添えられていた(青年は詩を張り出すとき、「特にお気に入りなんだ、詠み人知らずなのがまた良い」と言っていた)。"…人をまどわすこと多く 墓場にまでもみちびきて 黄泉の臥所に送りこむ"――

「ライニ?」
 青年の呼ぶ声が幾らか不思議そうなものになった。見た目に三十歳ほど、実際には百歳近くも年の差のある魔術師は、はっと我に返って見た。何の変哲もない会議用の長机の前で、背の高い影がこちらを伺っている。
「ああ、済まない、マンフレート」
 上の空であったことを手短に謝罪し、彼は長机の傍まで歩みを進めた。植物標本のすぐ上には、額縁に留められた無数の甲虫たちが、光に照らされて青や緑や虹色にぎらぎらと輝いている。小さく切られたボール紙に、俗名と学名が書き並べてある。ツチハンミョウ。スペインゲンセイ。アオカミキリモドキ。ベニボタル。その横にはいかにも川辺に転がっていそうな岩の台座に、カモノハシの剥製がぼんやりと横たわっている。この哺乳類はオーストラリアを遠く離れ、「学術研究」という崇高な大義名分のもと、寒々しいドイツの地方都市に飾られていることをどう思っているのだろうか?
「寝不足か何かじゃあないのかい? それとも、昼間コーヒーを一杯も飲まなかったのか。今日は帰ったらもう寝るだけにしたほうがいいよ」
「そうかもしれないな」
 ライムントがパイプ椅子を引いて席に着くと、マンフレートと呼ばれた青年もランタンを机の上に置いた。油紙の包みから出されたばかりのハムとチーズ、それに薄切りにされた黒パンが、大判の紙ナプキンの上に広げられている。極めて伝統的なドイツ人らしい夕食である。
「そのハムはとても美味しいよ、グリーンペッパー入りなんだ。私は辛いものが特別好きなわけじゃないけれど、噛んだときにぴりっとくる感覚があると、味が引き締まって良いよね」
 個包装されたティーバッグの封を切りながら、青年が言った。 「ねえ、どこまで話したのだっけ?」
「何がだね」
「美術館の……いや、それはもう済んだか。コレクションの話さ」
「コレクションの、ああ、つまり君の兄上は他人のものを眺めているだけで幸せだったが、君は自分で所有しなければ気が済まないたちだったと」
 手を伸ばして黒パンを二枚取り、間にハムとチーズを挟み込みながら、年嵩の魔術師は自分の記憶にあるままを答えた。
「そう、そうだった。それで……結局、こうなった。私は協会に感謝しているよ、協会に入れるような魔術師になった自分に対しても」
「自分自身の収蔵室を持てる上に、普通なら手に入らないものでも並べておくことができるからかね?」
 視線をパンから上向ければ、ガラス戸のついた飾り棚が見える。中には大きな棘だらけのヒトデや、幾何学模様の美しい巻き貝や、ウニの殻などの標本があり――同じ場所に喫煙用のパイプと、乾燥した植物由来のものと思われる何か(しかしタバコの葉でもない)、分厚い古書に模した形の薬品ケースなどが陳列されていた。全くもって節操がない。だが蒐集家にとってはこれで良いのだ。彼は博物館の学芸員ではない。
「もし私が協会にいて、生物管理部に配属されていなかったら――それでも蒐集欲に何の変わりもなかったろうし、きっと私は自宅で違法なケシを栽培したり、ルーブル美術館からフェルメールの絵を盗もうとしたり、コバルトブルー・タランチュラを密輸したりして、遠からず監獄から出てこられなくなっていただろうからね」
 くすくすと可笑しそうな声を立てて、青年は笑った。それから白磁のポットに手を触れて、「湧水」と「加熱」の呪文を唱え、紅茶を淹れるのに丁度良い温度の湯をたちまちのうちに作り上げた。
「切手やミニカーの蒐集家と比べれば、君が趣味に生きるのは些か苦難の道であることだな、マンフレート」
「まあね。もちろん切手やミニカーの蒐集家だって、欲が高じて犯罪に走らないとは限らない、……でも所持すること自体は違法ではないもの、それは羨ましいな。そんなことを言うと私だって、『学術研究』の名のもとに本来違法なものを正当に手元に置いているのだから、間違いなく誰かからは羨ましがられているだろうけれど」
 青いヤグルマギクの花が描かれたカップに湯気が立ち、芳しいアールグレイの香りが広がる。湯気の向こうには酒瓶があり、中を満たした液体には一匹のサソリが漬け込まれている。
「どうしてだかは自分でも正確には解らない、でもどうしようもなく愛おしいんだ。こんなにも美しくて愛らしくて、頬ずりしたくなるようなもの全てが、人を殺せるぐらい危険だということが」

 節操がない、――否。節操ならば確かにある。蒐集家、マンフレート・アルノーは断固として己の節操を貫き通している。例えば猛毒を持つ、例えば人を襲う、例えば幻覚を見せる、あらゆる手段でもって人間に害をなす生物、その筋は揺るぐことなくコレクション全てに共通している。ルーブル美術館の図録で「民衆を導く自由の女神」を愛でていた幼い彼に、一体どんな変化が生じてこの趣味を有するに至ったか、趣味といえば庭仕事とたまのサッカー観戦ぐらいしかないライムントには察しもつかなかった。
 あるいは――芸術もまた生き物であり、人間を殺すに十分な力を持っていて、今の彼はただ昔からの嗜好を正当に発展させてきたに過ぎないのかもしれない。逆もまた然りだろう。トリカブトの花の鮮やかな青紫や、陶器細工のごとき巻き貝や、大トカゲの頭蓋骨は、間違いなく自然が生み出した芸術そのものだ。
「そして、『危険動植物管理課』を管理しているのが人間の私たちだというのも、まったく洒落が効いていて素晴らしいと思うんだ。そうだろう?」
「……その通りだとも、マンフレート。人間にとって最も危険な動物は人間だ」
「惜しいな」 青年の立てる笑い声が微かに響いた。 「一番は蚊さ。私たちは二番目だよ」
 目の前に差し出されたカップを取って、彼は熱い紅茶を一口飲んだ。無害な味がした。目の前では青年がスライスされたハムを手で摘み、口に放り込んでいるところだった。
「君はそうやって普段から、気取ったり澄ましたりせずにいれば良いのではないかね。そうすればリコも少しは、君に対して心を開いてくれるかもしれないだろうに」
 彼は親切心からそう提案したのだが、青年は心外だとばかりに眉を上げ、ハムを飲み込んでから反論した。
「どうしてだい、ライニ。私は別に、誰かに対して心を開いて欲しいだなんて思って行動しているわけではないよ。私は人の心の中を詳しく知りたいとは思わないし、自分の心についても同じさ。君の前では特別だよ」
 友達だからね、言って青年もまたソーサーからカップを取り上げる。食器同士が触れ合う微かな音。
「これもまた幸運のひとつだと考えられないかい。人間に対してこれっぽっちも興味を持てないことが。もしも私が――」
 続きは聞かずとも解った。魔術師は首を横に振って言葉を制し、ハムとチーズを挟んだパンに口をつけた。確かに幸運なことだ。もしもマンフレート・アルノーが人間に対して興味を抱いたなら――あの天井近くにある空のガラス戸棚には、そのうち人間が飾られることになるだろう。そして彼は遠からず、やっぱり監獄から出てこられなくなるに違いないのだから。

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