「ねえ、見てクリス!」 波音の向こうではしゃぎ声がする。 「タコがいる! 光ってるよ!」

真夏の海の夢 -Death in Pacific-

 タコがいる。――そりゃあここは海なんだから、タコの一匹や二匹いるだろうけれど、でも「光ってる」? タコって光るものだったっけ。
 ぼくは額を手でぬぐいながら、弟がいるはずの方向を振り返った。ダニーは興奮して水をばしゃばしゃ跳ね上げながら、ごつごつと岩の突き出た浅瀬を、右へ左へとかき回して走り回っていた。その光るタコだかを追いかけているんだろう。
「なんだよダニー、タコが光ってるって」
「本当だってば! 見ればわかるよ、ほら!」
 ダニーは小学生らしいオーバーリアクションで、両手をぼくに向けてぶんぶん振りながらそう叫ぶ。ぼくは白く泡立つ波にときどき足を取られながら、弟の見つけたものを確認してやろうと近付いた。
 不自然に透き通った水の中に目をこらすと――確かにそこにはタコがいた。ぼくの手のひらにちょこんと乗せられそうなぐらい小さなタコだ。ふつう、タコといったらもっと頭が大きくて、八本の足は太く長くて、墨を吐いて――というようなものを想像するけれど、これはずいぶんかわいいサイズだった。ちょっと手を伸ばせば簡単にすくい上げられそうだ。足もずいぶん細くて頼りない。地味な砂色の体には、いくつも青い輪っかの模様がついていて、そしてその一つ一つが確かに光っていた。
 8インチほどの体が波に揺られて、ぼくらの手へと近付くたびに、つるりとした肌は暗い色になり、青い輪がぼわっと鮮やかに輝く。クリスマスツリーに下げる青いLEDの飾りみたいだった。タコって光るんだ。それも、こんな電池じかけのおもちゃみたいに。
「クリス、ほら、早くケース貸してよ! これなら絶対勝てるよ!」
 水面を叩いて波を立て、ダニーはぼくを急かす。せっかくの獲物が逃げてしまうと心配するのは解るけれど、兄の事情も考えてほしい。実のところぼくは水に入るのがそれほど得意じゃないんだ。プールぐらいならともかく、海となると一気に不安が増す。
 それにしても、光るタコなんて本当にいたんだな。タコっていうよりタコ型の宇宙人みたいだ。ぼくが現実逃避にぼんやり考える中、ダニーがそのエイリアンじみたものに手を伸ばした、その時だった。

 ふいに波間からタコが消えた。ぼくは咄嗟に水面から目を上げ、とんでもないものを見た。タコが空中に浮いていた。
 心臓が止まるかと思うほど驚いた。あまりにも驚いたので、ぼくは口をあんぐり開けたままになり、隣でダニーが「うわあ!」と叫び声を上げた拍子に、ひざが崩れて尻餅をついてしまった。おかげで海水をいくらか飲む羽目になった。
 浅瀬に座り込んだぼくの目線の高さで、小さなタコは宙ぶらりんになり、細い足をびちびちと動かしていた。たぶん、これはタコを食べる生き物に捕まったとき、なんとか逃げようとする動作なんだろう。自分で浮かんだなら、こんな不格好なことにはならないはずだ。視線をそっと動かして横を見ると、ダニーもぼくと同じように、ぽかんとして突っ立ったままタコを見つめていた。
「待つんだ、――危ないから気をつけて!」
 未知との遭遇にすっかり放心したぼくらの耳に、そんな声が届いた。若い男の人の声だった。やがて足音が聞こえ始め、ぼくはやっと我に返って振り向いた。波打ち際のあたりまで、人影がかなりのスピードで近付いてきていた。ほとんど全力疾走だろう。
 と、ただ浮かんでいるだけだったタコが、ふわりと動いた。何かに引っ張られるように、ぼくらの目の前を横切っていく。どうやらあの人影――ぼくらに声を掛けたのもきっとあの人だろう――へと引き寄せられているようだった。ようやくぼくは立ち上がって、転ばないよう注意しながら、陸に向けて来た道を戻り始めた。後ろからダニーの声が追いかけてきた。

 ぼくらはそう沖のほうにまで出ていたわけじゃない。ぼくが大きな石のごろごろ転がる磯まで戻ってくるのに、そう時間は掛からなかった。目の前にはもうあの人がいた。全身を改めて確認してから、ぼくは「変な人だな」と素直に思った。
 変な人といっても、学校でよく注意しましょうと言われるような、いかにも怪しくて危なそうな人だったというわけじゃない。ただ、どう考えても変だった。というのも、その人はぱっと見で大学生ぐらいの男の人だったけれど、着ているものが黒い、長袖で襟付きの、膝下ぐらいの丈があるジャケットだったからだ。さらに深緑色のネクタイを締めて、胸ポケットには白いポケットチーフを入れ、両手には肘まで覆う革の手袋をはめている。足元は「長靴」、じゃなくて「ロングブーツ」だ。それもやっぱり膝あたりまであるやつだった。どう考えても真夏のビーチに来る格好じゃない。
 昔、父さんに連れられて親戚の結婚披露パーティーに行ったことがあるけれど、そのときの父さんだってこんなに着飾っていなかった。それなのにこの男の人は、自分がとても不自然な格好でいることに気付きもしないようで、平然とぼくらの前に立っている。そういえば、ここまで全力疾走してきた(ようにぼくには見えた)わりに、息ひとつ切らせていない。 片手に提げたプラスチックの黄色いバケツだけが、やたら子供じみていてまたおかしかった。

「やあ、どうやら私は間に合ったようだね、」
 彼はぼくらに向けて、口の端をほんの少しだけ上げて笑った。それから言葉に不自然な間が空いた――そのあいだにタコがふわふわと空中を移動して、彼の手にあるバケツの中にぽちゃんと落ちた。
「……良かった、と思いたいのだけれど。まさか君たち、このタコに触ってやしないだろうね?」
 つやつやした細い金色の髪が、太陽を浴びてきらきら光る。彼の目は海の色よりもっとずっと淡い青色で、ぼくらの顔を興味深そうに眺めていた。あんまりぼくらのことを心配しているふうではなかった。
「あの、ぼくは触ってません」
 とりあえず、ぼくは聞かれたままを答えることにした。 「だよな、ダニー?」
「おれだって触ってない!」 ダニーもそれに続いた。 「まだ触ってないよ!」
 まだ・・触ってない、というところに少し突っ込みたくはなったけど(実際、今もダニーは黄色いバケツのほうをじろじろ見つめている)、とにかくぼくらの態度は同じだった。男の人はというと、ぼくらの答えを聞いて静かに頷き、軽く息を吐いた。ほっとしたようなというよりは、単に話に一区切りつけるための合図のように思えた。

「それなら、……少なくとも大事はないということだ。君たちは危ないところだったけれど、これで難を逃れたわけだ」
「触っちゃいけないんですか、その」
 ぼくはバケツを指さして言った。 「タコは、危ないって言ってましたけど」
 季節感の全くない格好をした男の人は、質問にまたゆっくりと頷いた。こんなにも暑苦しい見た目なのに、白い額には汗の粒ひとつ浮いていなかった。
「そうとも。このタコにはね、毒があるのだよ」
『毒!?』
 ぼくらはぴったり声を揃えて、同じ言葉を叫んだ。毒のあるクラゲや毒のあるヘビは知っているけれど、毒のあるタコなんて。――しかも、触っちゃいけないということは、食べたら毒になるとかじゃなく、きっと毒針みたいなものを持っているってことだ。
「もしかして、刺すの?」 おずおずとダニーが訊いた。
「いいや、咬むんだ」
 男の人が答えた。その声はどこか面白がっているようで、少なくとも生き物の恐ろしさについて語るのに相応しいものではなかった。
「咬まれると痛いんですか?」
「痛みはしないよ。本人が咬まれたことに気が付かないぐらいだからね。その代わり、」
「その代わり?」
「手足が痺れて、息ができなくなって、死ぬ」
 訛りのないきれいな英語で、彼はきっぱり断言した。ぼくらは押し黙り、その合間にちらりとバケツを見た。生物図鑑を開いて、大きなまだら模様のヘビの下にそう書いてあったなら信じるけれど、光るタコの下に書かれる説明としてはちょっと理解しにくい感じだ。ただ、嘘ではないんだろうと思った――彼は確かに変な人、それも「真夏のビーチで結婚披露パーティーみたいな格好をする変な人」だけれど、「見知らぬ子供に口からでまかせを吹き込んで怖がらせるような変な人」ではないと感じたからだ。
「これは学名をハパロクラエナといってね、英語では――英語では、そう、ブルーリングド・オクトパスという名で呼ばれるのだったかな。身の危険を感じると噛み付いて、テトロドトキシンという猛毒を注入するのだよ」
 ぼくらが黙っているのに構わず、彼は説明を続けた。
「君たちがこのタコを見たとき、青い輪の模様が光っていなかったかい?」
「光ってた!」 ダニーがすぐさま答える。
「そうだろう、それは君たちを敵だと思って、模様で驚かしていたわけだ。それ以上近付くと毒をくらわせるぞ、と。おおかた、タコが光るのが珍しいので捕まえようとでもしたのじゃあないのかい」
 お見通しだ。ぼくはばつの悪い気分になって、バケツからそっと目をそらした。ダニーのほうはぼくと違って、まだ後ろめたさというものがないらしく、
「だって、こんなやつがいれば絶対に勝てると思ったんだもん!」
 と言い返している。
「勝てるって?」
「あの、ぼくたち家族で来てるんですけど、……父さんと妹と、どっちが一番珍しい生き物を捕まえられるか勝負しよう、ってことになったんです」
 ぼくは説明し、最後に言い訳のように付け足した。 「ぼくはやりたくなかったんだけど」
「なるほど、――君の妹さんが、綺麗だからといってカツオノエボシを素手で触っていなけりゃ良いのだけど。でも、確かにこの辺りでは珍しいタコだね」
「そうなんですか?」
「よく見られるのはオーストラリアのほうなのだよ。スペイン沖での目撃例が無いわけではないのだけれど……私も見つけたときには驚いてね。一度見失ってしまったから、しばらく探し回っていたのだよ。そうしたら、『タコが光ってる』なんていう声が聞こえただろう?」
 彼は言い、ダニーのほうに顔を向けた。このタコを先に見つけたのは、ダニーじゃなくて彼だったんだ。
「お兄さん、マリンレスキューの人?」 ダニーが聞いた。
「いいや、……そう見えるかい?」
 くすくす笑いながら、男の人が自分の左胸に手を当てた。ぼくは溜息をついた。こんな格好をしたマリンレスキューがいてたまるもんか。それに、彼はどう見たってスペイン人じゃないし、あるいは他の、南ヨーロッパに住む人々のようにも見えない。ぼくらのようなアメリカ人でもない。「英語でこのタコをなんと言うか」を思い出すのにしばらく掛かったぐらいだ。たぶん同じヨーロッパでも、もっと北のほうで生まれた人だろう。
「もしかして、海の生き物の専門家なんですか?」
 ダニーに続いてぼくが尋ねた。一番ありそうな可能性はそれだと思った。けれども彼は首を横に振り、
「それも違う。私はただの好事家だよ」
 とだけ答えた。
「ねえクリス、ディレッタントって何?」
 小学三年生は不思議そうな顔をして、中学生のぼくを見上げてきたけれど、ぼくにも具体的に何なのかは答えられなかった。好事家というのは、真夏のビーチにフォーマルウェアで出かけて、毒のある珍しいタコを探し回るような職業なんだろうか。

「ええと、このタコなんですけど、……毒があるってことは、やっぱりぼくらが持ってちゃいけないんですよね」
 ダニーの疑問はとりあえず置いといて、ぼくは大事なことを先に聞くことにした。咬まれると手足が痺れて、息ができなくなって、死ぬような猛毒だ。持って帰ってうっかりソフィーや父さんや母さんが触ったらどうなる? ぼくらはろくでもない理由で新聞記事になるかもしれないじゃないか。
「そうだね、できれば手放すことをお勧めするよ。君たちやその家族は私のように、十分な備えをして来ているわけではないのだろう?」
「えー、でも、おれがせっかく見つけたんだよ!」
「先に見つけたのはこの人だろ、ダニー」
 やっぱりダニーは獲物を逃したくないらしい。駄々をこねる弟をたしなめるのは兄の役目だ。もっとも、ぼくは長男だというのに、弟たちを手なずけるのがそこまで上手くないけれど。
「でも、ソフィーに負けるのはいやだよ! ねえお兄さん、そんなに凄い毒があるなら、海の中では最強なんでしょ?」
 頭の悪そうなことを聞くダニーに、「好事家」は口元をかすかに緩めて笑い、背をかがめて顔を近づけると、低い声でささやいた。
「それが、そうとも限らないのだよ」
「違うの? なにか弱点があるとか?」
 弟はこの「ブルーリングド・オクトパス」を、ポケモンかなにかと勘違いしているらしい。せめて「天敵はいるの?」とかにしておけばいいのに――ぼくは思ったけれど、小学生に言ってもしかたないと思ったから口には出さなかった。
「イカさ。この小さな殺し屋が使う毒は、例えばコウイカにはほとんど効かないんだ」
「イカ!?」 ダニーが大声を上げた。 「イカってタコより強いの!?」
「全てのイカ、全てのタコがそうだとは言わないけれどね。まあ、少なくともここらの海では、コウイカが食う者、ブルーリングド・オクトパスのほうが食われる者ということになる」
 彼は言って、元通りのすらりと高い立ち姿に戻り、それから少しだけいたずらっぽい声色で続けた。
「そして、スペインの港町に住む人間たちは、そのコウイカを美味しいパエリアにして食べてしまうというわけさ……」
 とたん、ぼくとダニーのお腹が同時に鳴った。そういえば、そろそろお昼時なのだった。

「しかし、確かに君たちから貴重な収獲を取り上げるのは、少しばかり心ないわざだ。私だってそこまで冷血な人間というわけではない、……何故だか人からはよくヘビやトカゲみたいに冷たいやつだと言われるけれど、心外だな。とにかく、何か代わりのものを用意しなければね」
 ぼくたちが真っ黒なイカ墨ごはんや、レモン汁をたっぷりしぼったサクサクのイカフライのことを思い浮かべている間に、彼はぶつぶつ小さな声で呟いていた。かと思うと、上着の内側に右手を突っ込んで、何かをごそごそと探し始めた。
「あの、そんな、別にいいです、代わりのものなんて貰わなくたって」
 慌ててぼくは言い、彼に余計な気づかいをさせまいとしたけれど、それよりも早く彼の右手が差し出された。ぴったりした黒革に覆われた手のひらには、ちょうど3インチぐらいの巻貝が乗っていた。
 わぁ、と喉の奥から声が漏れてしまった。まだタコとイカの強さについてやかましく言っていたダニーさえ、その瞬間に目を見開いて文句を引っ込めた。
「どうだろう」 貝の持ち主が静かに言う。 「これでは埋め合わせには足りないかな」
 返事さえも忘れて、ぼくはその貝をじっと見つめた。表面はつるつるしていて、まるで真珠みたいな、ほんのり薄紫色を帯びたつやがある。三角形をいくつも重ねた、うろこのようにも見える模様。光の当たる具合で変わるんだろうか、少しだけ虹色が浮かんでいるところまである――すごくよくできた作り物のアクセサリーみたいだ。
「これ、……なんていう貝?」
「イモガイだよ、"ダニー"」
 好事家はやり取りの中で、弟の名前を覚えたらしかった。彼は微笑みながら、手に乗せた貝をそっとダニーの手に握らせた。
「ここで見つけたの?」
「そう。今日ではなくて、だいたい一週間ほど前のことだけれどね。浜で拾って、ホテルで標本にしたのさ」
「じゃあ、探せばもっと見つかるの?」
 ダニーは目をきらきらさせて、手の中の貝と男の人の顔とを見比べている。これは午後をまるまる使って探す気だな、とぼくが思ったところで茶々が入った。
「くまなく探せば見つかるかもしれないけれど、お勧めはしないよ」
 ふっ、と息を吐き出すような笑い方。 「これを持って行くだけ行って、勝負はおあずけにするといい」

「……本当に貰っちゃっていいんですか、これ、たぶん凄く価値のあるものなんじゃ」
 ぼくは声のトーンを落として尋ねた。貝の標本というのは、よく博物館なんかでも売られているけれど、大きくてきれいなものはそこそこの値段が付いていたはずだ。
「構わないよ、イモガイなら状態のいいものは沢山持っているから」
 ほんのすこし得意そうに彼は言い、こう付け加えた。 「ドイツにね」
「ドイツ!?」
 ダニーがすっとんきょうな声を上げた。 「そんな遠いところから来たの!?」
「そういう君たちこそ、アメリカから来たのだろう?」
 私よりずっと遠くじゃないか、と言う好事家に、ダニーは「どうして解ったのか」と言わんばかりの目を向けている。でも、別にそれは不思議なことじゃなかった。きっとぼくらが喋っている英語で解ったんだろう。彼のとてもきれいなイギリス英語と違って、ぼくらの言葉はよくあるボストン訛りのそれだ。
「ねえ、ドイツにはもっとたくさんコレクションがあるの?」
「あるとも。貝もあるし、魚やヘビやトカゲや、蝶や鳥やカモノハシなんかも持っているよ。みんな珍しくて美しいものさ」
「じゃあ、今度おれたちがドイツに行ったら見せてくれる?」
 弟が身を乗り出すのを、ぼくはうっすら苦い思いをしながら横目で見ていた。そんな日が来るとはとても思えない。今回のスペイン旅行だって、もし母さんがネットの懸賞で飛行機のチケットを引き当てなかったら、絶対に実現しなかったはずだ。――ぼくはユニバーサル・スタジオに行きたかったのだけれど。
「もちろん構わないとも。楽しみにしているよ、いつでも歓迎しよう」
「じゃあ、そのときはメールを送るか、手紙を書くね」
 貝殻を握りしめたまま、ダニーは色の白い顔を見上げた。 「あて名はどうすればいい?」
 少し間を置いてから、「好事家」のドイツ人は答えた。 「マンフレート。マンフレート・アルノー」


 それからさらに三日間、ぼくらは南スペインのビーチに泊まったけれど、彼と顔を合わせることはなかった。ソフィーは勝負を無かったことにされて腹を立てていた――ものの、ダニーがあの貝を見せるなり、すっかり目を奪われてしまったようだった。
 ボストンに帰ってから、ぼくは市立図書館へ行き、大判の海洋生物図鑑を棚から引っ張り出して、色とりどりの写真が並ぶページを次々めくった。イモガイ類、というくくりの中にあの貝は確かにあった――真珠色にかがやく見事な姿の下には、学名や主な生息地に続いて、淡々とした字体でこう綴られていた。
 "神経毒の毒腺が付いた銛で他の動物を刺し、麻痺させて餌とする。毒は種類によって異なるが、ヒトが刺されて死亡する場合もある"...

  * * *

「で、それは何、つまり?」 あたしは低く呟いた。 「声かけ事案か何か?」
 年季の入った長机の上には、年季の入ったカメラで撮られた写真がいくつも並んでいる。青い輪の模様を鮮やかに光らせる、バケツの中の小さなタコ。学名Hapalochlaenaは日本語でいうとヒョウモンダコ。こんな古めかしい日本名があるぐらいだから、日本にも当然いる。九州や沖縄あたりの海ではよく見られるらしい。
 いや、タコの話はいいとして、こいつは一体何をしているのか。二週間のバカンスから帰ってきたかと思ったら、いきなり旅先の海で見知らぬ観光客の子供と奇妙きわまりない交流を果たした話を聞かされる、こっちの身にもなってほしい。あたしはせいぜいデュッセルドルフの日本人街へ、米と醤油と味噌とレトルト食品の買い出しに出かけたぐらいなのに。
「何のことだい、リコ。その、声かけ……なんとかいうのは」
「名前は別になんだっていいんだけど、とにかく、なんであんたはライプツィヒだけじゃ飽き足らずに、わざわざスペインくんだりまで行って人に迷惑掛けてんの? ヨーロッパってあれだ、その、ロリコンとかなんとかにはものすごく厳しいんじゃなかったの?」
「そのようなことを言われてもね、私は別に小児性愛の嗜好があるわけではないし。ただ危機に瀕していた兄弟を救っただけだろう? 大事には至らなくて本当に、……安堵したよ」
「あんた今、絶対『残念だったよ』とか『勿体無いことをしたよ』とか言いかけたでしょ、その間?」
 真夏の太陽が照りつけるビーチに二週間も滞在しておきながら、日焼け一つしていない顔をあたしは睨み付ける。
「おや、失敬な。君は私の良心を一体何だと思っているのだい」
 相も変わらず19世紀のヨーロッパ貴族みたいな格好をしたそいつは、いつもの薄ら笑いを少しも崩すことなく空々しい台詞を吐いた。
「良心なんか無いくせに」
 言って、一息に飲み干したアイスコーヒーは間抜けな味がした。すっかり氷が溶けてしまっている。

「まあ、被害を未然に防ぐことができたのは良いことだが、くれぐれもあらぬ誤解を招かないようにするんだぞ、マンフレート」
 良識ある大人のブラザー・ライムントは、重たい溜息をつきながらガラスのピッチャーを持ち上げた。あたしにコーヒーのお替わりを注いでくれようとしているんだろう。あたしは片手をちょっとだけ前に出し、「もういいです」のサインを送る。
「誤解を招くようなことをした覚えはないのですがね。私は危険動植物管理課の一員として、ブラザー、あなたが常々仰る市民への啓蒙活動を行っただけですよ」
 思ってもいないだろうことを平然と言い、奴は湯気の立つカップから紅茶を一口飲んだ。かと思うと、軽く顎を上げてあたしのほうを見、
「君もそうしたほうが良いと思うよ、リコ。このタコは日本の近海にも生息しているからね。確か以前に君は、従姉が夏休みにオキナワへ行くという話をしていたと思ったけれど」
 なんて注文してくる。ただでさえ眺めているだけで腹の立ってくる顔なのに、この上さらに腹の立つようなことを言ってくるんだから最悪だ。――それはそれとして、いとこの真夜ちゃんには後でメールか何かしておこうとは思う。
「日本、か。そういえばリコ、ふと気になったのだけれど、日本はスペイン同様に甲殻類を良く食べるのだったね。もしかすると――」
「……その、『日本人は毒のあるフグ食べるんだし毒のあるタコぐらい余裕だろ』みたいな考え方やめてくんない?」
 確かにそのタコはテトロドトキシンを持っていて、そしてテトロドトキシンはフグ毒として有名かもしれないけれど、それとこれとは話が別だろう。奴はどうも日本人の持つ「毒があろうと何だろうと美味しければ食べられるようにする能力」を過信しているふしがある。どうしてそんなに毒のあるものを食べたいのか。好きなものはとりあえず口に入れてみたいのか。赤ん坊じゃあるまいし。

 あたしはこれ以上奴の話に耳を傾けないことを決め――本当はもっと早いうちからそうしておくべきだった――、ポケットからスマホを取り出した。その後、ふと気になって検索したらヒョウモンダコの「食べてみた」レポートが見つかったことは、奴には絶対に黙っておこうと心から思った。

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