些か訝しい光景だった。夜更けのカフェハウスに、少年がひとり。

咀嚼に値するもの -Closed Book-

 時刻は午後10時を過ぎ、太陽はとうに地平線の彼方へ没している。辺り一面に黒紗の幕を掛け渡したような旧都の夜闇から、シャンデリアの灯が煌めく「カフェ・アリバイ」の店内へ、彼は静かに滑り込んできた。
 元よりこの時間帯、市の中心部を離れて佇むカフェハウスは、客層の殆どが常連客であった。少年の姿は否が応でも彼らの目についた。七三の分け目も正しく整えられた金髪、皺のない灰色のシャツとウエストコート、その襟元に留められた臙脂のタイと銀のピン。片手に小さなスーツケースを引き、良く磨かれた革靴で足音一つ立てず歩く。こんな街外れに観光客だろうか? ――昨今の観光客とは、こうも隙のない所作でコーヒーを飲みにくるものだろうか。先客たちはめいめいに想像力を働かせたが、結局は目の前のメランジェや、ミントのリキュールや、温かなカイザーシュマーレンに意識を奪われていった。
 では店員はといえば――黒い蝶ネクタイを締めたウエイターは、来訪者の顔を見るや静かに微笑んだ。畏まった一礼が向けられる。
「お待ちしておりました、ギーゼキング様」
「ブラザー・アルノーは」 声変わりを終えたばかり、という風の響きが少年から発せられる。
「奥にもうお見えでございます」
 少年の細い眉がぴくりと動き、僅かに不愉快そうな、しかし半ば諦めらしきものの滲んだ表情を作る。薄い唇が開いて、呆れとも落胆ともつかない息が漏れた。彼はトーンを抑えた声で、ああ、とだけ言い、ウエイターが促すままに手荷物を預けると、喫茶室の奥へと歩みを早めた。

 ウエイターの言葉通り、約束の相手は既にソファ席のひとつを占有していた。少年よりも明るい色をした、輝くような金の撫で付け髪がよく目立つ。それにも増して目を引くのは、なんといってもこの青年の装いである――見るからに上等な、絹か本繻子と思しきドレスシャツ。チャコールグレイの三つ揃いに、ターコイズ・ブルーの蝶ネクタイと、左襟に挿された造花飾りブートニエールが華やかさを足していた。ケシの花だ。それも朱色のヒナゲシではなく、白いケシ――御丁寧にもいわゆる「ケシ坊主」の部分まで再現されている――だった。
「やあ、これは御機嫌よう、こんばんは! 栄誉をもって君に挨拶申し上げよう、ブラザー・ユリウス。待ちかねていたよ」
 彼はすっかり寛いだ様子で脚を組み、ソファに身体を預けていたが、少年の姿を見るなり席を立ち、片手を広げてから一礼した。あたかも貴族の子息が新しい知人でも出迎えるような、気品と優雅さに満ちた立ち居振る舞いだったが、21世紀の現代においてはあまりにも仰々しく、場に不釣合いなほど芝居がかっていた。
「ブラザー・アルノー」
 少年の声には軽蔑じみたものが浮き上がっていた。僅かに緑がかった碧眼が、まるで理解できないものを見るように視線を送る。
「それを止めろと何遍言えば解ってくれるんだ。だからあんたと待ち合わせはしたくなかったのに」
「お気に召さなかったかい。最後の晩ぐらい特別扱いされたがるかと思っていたのだけれど」
「今更あんたに特別扱いなどされても気味が悪いだけだ。最後の晩なのに夢見が悪くなる」
「おや、とんだご挨拶だね」 青年が口元を僅かに歪め、再び革張りのソファに腰を下ろす。
「もっとも、実際のところ私は誰に対してもこうだ、特に君だけを持ち上げて言っているわけではないよ。さあ、掛けてくれたまえ。それと何か飲み物を。茶菓子クーヘンと私の紅茶はもう頼んであるから」
 冷ややかな目を、そして言葉を向けられたところで、勿体ぶった青年の調子は微塵も揺るがなかった。少年、ユリウス・ギーゼキングは短く嘆息し、青年の対面にある席へと小柄な身体を沈めた。アルコールの品書きを取り上げる手には、まだ塞がって日が浅いと思しき傷が一筋伸びていた。

  * * *

 二人分の飲み物は、さほど待たずして運ばれてきた。ユリウスの手元には丸みを帯びたブランデーのグラスが、アルノーと呼ばれた青年の前には白磁のカップに入った熱い紅茶がそれぞれ置かれた。添えられたティースプーンの上にはリキュール漬けの氷砂糖が一粒、薄紅色の艶やかな光を放ち、見た目通りに淡い薔薇の香りを漂わせている。――青年は己の注文した品を一瞥し、銀のスプーンを取り上げると、向かいから何か言われる前にさっと口に咥えて、紅水晶のような砂糖粒を嚥下してしまった。
「……それは紅茶に入れるべきものじゃないのか」 少年が眉を顰めて訊いた。
「恐らくはね。ただ、そのまま食べてもきっと美味しいと思ったのだよ」
 青年は口元に緩やかな弧を浮かべ、ソーサーの上に匙を戻す。陶器と金属とが触れ合う微かな音。オレンジ色の燈火に照らされて、濡れた曲面がてらてらと光った。
「甘そうだ」
「甘いに決まっているとも、砂糖なのだから。どういう意味で言ったのだい、君は――甘いものは嫌いではないだろう? この間だってトーストにジャムを塗って食べていたものね」
 顎先に指を添え、薄青色の目を細めて小首を傾げる、その動作一つ一つに筋書きがあるような振る舞い。青年、マンフレート・アルノーは万事において、この上品めかした態度を最良としているのだった。最盛期のウィーンを思わせる懐古趣味なカフェハウスの中でさえ、こうも場違いに見えるのだから、日常生活ではどれほど悪目立ちしていることか。
 平時の業務を同室で行わなければならない、彼の同僚たちに哀れを覚えながら、少年は自分の飲み物を取り上げる。薄く丸い硝子器を、膚の破れた手で静かに傾け、唇を湿すほどの一口。

「こうして見ていると、いけないことをしている気分になるよ」
 鼻にかかった笑い声と共に、向かいからそんな戯言が聞こえてくる。グラスを掴んだままで、ユリウスは軽く睨みを効かせた。
「あんたこそ、どういう意味でわたしに口を利いているんだ」
「良からぬことを見て見ぬ振りするような、そんな罪深さを覚えるという意味さ。だって、君はそういう――ものを、堂々と飲んでもよい歳ではないだろう?」
 喉の奥を震わせるような音に、外見と実年齢が比例しない少年はあからさまな不快を示した。舌打ちこそしなかったが、その血色の良い唇を引き結び、細い眉をますます寄せて青年の顔を見据える。
「なんだったら煙草も吸ってやろうか」
 出来る限り低い声を作って少年は言う。 「それとも、わたしの軍務手帳ヴェーアブーフで横っ面を張ってやってもいいが」
 返ってくるのは密やかな、ふふふと小さくくぐもった笑いばかりだった。青年の薄氷めいた色の瞳が、僅かにその視線を虚空へ逸らす。こうも刺々しい反応は予期していなかった、とでも言うように。
「嫌だな、冗談だよ、ブラザー・ユリウス。もちろん本当に吸いたいのなら構わないけれど――今の時間帯は禁煙ではないからね――、そうでなければ、せっかくの紅茶の香りを無下にするのはよしてくれたまえ。それと、軍務手帳は却下だ。そこに80年前の日付が書いてあるのは解っているし、君は手加減ってものをしないから」
「手加減ぐらいはしてやるとも。我々の仕事は相手を殺すことではない」
「おやおや!」 青年が大仰に肩を竦めた。
「君、あれで加減をしているのかい? ベルリンで悪い魔法使いをやるのは命がけだね。私は善良なライプツィヒ市民で良かった」
「あんたがひ弱すぎるだけだ。もっと腹筋を鍛えろ」
「私にこれ以上鍛えろだって。君、私はあくまで好事家であって、君のような華々しい戦歴を有する魔闘士ではないのだよ……大体、あともう少しでも腹と脚が太くなったら、今あるモーニングがみんな入らなくなってしまうじゃあないか」
 持てるものは大事にしなくてはね――冗談と余裕めかした言葉に、口撃はことごとく受け流されたと知る。少年は左目を眇めて、眼前で微笑む「好事家」とやらを睥睨した。中距離での撃ち合い、ないし至近距離における肉弾戦なら負ける道理はないものの、舌先三寸の化かし合いでは分が悪い。しかし軍務手帳はオーバーだとしても、世界魔術師協会の勤務記録ぐらいは叩き付けてやるべきだったか、と彼が考え始めたところでウエイターの姿が見えた。片手にした銀盆の上に、大きな菓子皿を載せている。
「もっとも、脂肪分と糖分の攻勢に打ち勝てるぐらいの鍛錬なら、日来欠かしてはいないけれど。さあ、それではもっと罪深いことをしようか、ブラザー」
 近付いてくる人影を一瞥だけして、青年はより年若い知人の、物言いたげな視線を軽やかに無視する。白い指がカップの持ち手にそっと触れ、いかにも上流ぶった仕草で摘み上げた。

 金縁模様の皿で運ばれてきたのは、一見してパンとも焼き菓子とも取れるものだった。少年の握り拳ほどの大きさをした、丸みのある直方体が五つ。元はいくつも型に詰めて膨らませたものを、焼き上がってから個々にちぎったのだろう側面がある。こんがりとした焼き目、ふんだんに振りかけられた粉砂糖、そして立ち上る香ばしい湯気。
「やあ、これだよ、これが食べたかったのだとも」
 自分で注文しておきながら、まるで相手が好意で持ってきてくれたかのような言い草だ――と、相手の喜びようを見ながら少年は思った。喜びようといっても、あくまで美しく型に嵌まった、「私は今喜んでいます」と一から十まで説明するかのような態度ではあったが。
「それは」
「ブフテルンさ。あまり知られてはいないけれどね、何しろ夜の10時を過ぎて初めて注文できるのだから。まして焼きたてを食べようと思ったら、一晩に二回しかチャンスがない。それに誰かと一緒のときしか頼めないのだよ、私一人で5個はとても食べきれないからね」
 芳しいバターの匂いに目を細めながら、青年は予め台詞を用意していたかのように語る。言葉の合間にも手は皿に伸び、温かな菓子を一つ引き寄せて、ふっくらとしたその塊を半分に割った。いよいよ広がる香り、中から覗く濃紅色のジャム――
「――何だい?」
 そこで青年は、自分自身を捉える目をやっと気に留めたらしい。少年の緑がかった碧眼が、随分と怪訝そうに手元を眺めているのを。
「著しい違和感だ」 少年が返すのは短い答え。 「あんたも手でものを食べるんだな」
「私だって手掴みぐらいはするよ、ナイフとフォークより相応しいのならね。こういう焼き菓子は焼きたてを指で確かめながら食べる、それがお作法というものさ……」
 柔らかく生地を齧り取り、咀嚼する間。嚥下してしまうのが惜しいとでも言うかのように、また一つの食物が持てる魅惑すべてを味わい尽くすように、たっぷりとした静寂をテーブルの上に広げる。

「――なんて甘美なことだろう。節度ある大人になってしまったのが今だけは悔やまれるね、小さい時分なら後先など考えず独り占めしたろうに。さあ、君も食べたまえよ、特等の贅沢だ」
 ややあってから、長々とした感嘆の溜息と共に青年は述べ、菓子皿を向かいへそっと押し遣った。が、対面する少年はその白い陶磁器と、上にこんもり盛られた甘味を前に黙りこくったままである。
「どうしたのだい、食べたまえったら。私に遠慮などするものではないよ」
「誰があんたに遠慮などするものか」
 少年は顰め面を作って正面に向け、辛辣な言葉を口にした。かと思えばまた神妙な顔つきになって唇を引き結ぶ。皿に手を伸ばす様子はない。
「では、本当に甘いものが嫌いになってしまったのかい? それとも、魔女狩人ヘクセンイェーガー部隊の隊長から食事制限を言い渡されている?」
「違う。禁止されているわけでも、嫌いなわけでもない。ただ」
「ただ?」
「このような、……手間のかかった菓子を見ると」
 青年が覗き込む中、彼は先程より小さな声で訥々と述べる。 「気後れしてしまう」
 一拍置いてから、とてもこれ以上は平常心を保ってはいられないとばかり、青年の澄まし顔がくしゃりと笑みに歪んだ。彼が会話に対して見せる反応としては非常に珍しいものだった――手にしたカップの水面に細波が立つ。堪え切れなかった笑声を逃がすように。
「君ねえ」 取り繕うような咳払いの後、青年が元通りの落ち着き払った声で言った。
「確かに私は贅沢だと言ったけれど、それはあくまでも精神的な意味であってね。ここはカフェハウスだ、菓子職人コンディターは一皿に手間をかけるのが仕事なのだから、君はその成果を正当に享受すれば良いのだよ。何かな、ベルリンでは今も砂糖とバターは配給制なのかい?」
「ふん」 少年が鼻を鳴らす。 「ベルリンで配給制ならライプツィヒでは何だ、物々交換か」
「ああ、もう止そう、今のは意地悪だったと思っているよ。あんまり君が――豪華なお菓子を食べるのが勿体無い、なんて可愛らしいことを言うものだから」
 青年は両手を顔の高さに挙げ、仕切り直しを乞うジェスチャーを見せる。人生の九割がたをベルリン市民として過ごした少年は、つまらなさそうにまた鼻を鳴らして、グラスからブランデーをもう一口飲んだ。それからやっと温かな菓子を一つ取り上げ、半分に割り、その片方をさらに等分した――ほぼ一口大になったその塊を、ジャムが零れ落ちそうになる前に口へ押し込んだ。

 それがどのような味だったか、具体的な言葉で知らされることはない。この思慮深く寡黙な少年は、自分が今食べているものがいかに美味か、あるいはいかに不味いかについていちいち口走ったりはしないからだ。ただ、彼は最初の一欠を嚥下した後、水あるいはブランデーのグラスで一息つく間もなく次の1/4を咀嚼しに掛かったし、その間は彼の表情から、数分前までの子供らしからぬ険がいくらか取れていた。それが全てである。
「お気に召したようで何よりだよ」
 白い喉をごくりと鳴らし、少年が小麦とバターと卵と砂糖そしてプラムの組成物を嚥下したところを見計らって、同席者は品よく微笑みながら声を掛けた。
「是非食べて貰いたかったからね。きっと満足すると思っていた」
「ああ」 と短い返事。
「それに味だけじゃなく、名前も君にはぴったりだ」
「名前? ――ブフテルンBuchteln?」
 ほんの少しの間だけ柔和だった眉間に、再び皺が寄る。べたつく指をナプキンで拭いながら少年は考える。
「……ああ、Buchということか」
「そう。しかもただの本ではなくて、たっぷりと中身の詰まった本さ。――どうだい、君の最近の蒐集は。何か特に実のある本は見つけたかい?」
 話を弾ませる話題を引き出そうと、菓子の名にかこつけて青年は尋ねる。大都市で清貧に暮らすこの少年に、ただ一つだけ絶ち難い欲望があるとすれば、それは小じんまりとしたアパルトメントが本の要塞と化すほどの書物蒐集癖だと彼は知っていた。
 対する少年は、また火酒の杯に口をつけ、前よりもう少しばかり長く喉を濡らした。ここ暫くの戦果について思い返すための、落ち着き払った沈黙である。
「あんたは謎解きのたぐいが好きだったな、ブラザー・アルノー」
 卓の上に硝子杯を戻し、軽く息を吐いてから彼は言った。
「特に探偵小説が……という訳でもないけれどね。私が好きなのは、他人の間で起きるあれこれを傍から眺めて、好き勝手に想像はしても責任は負わない、という行為そのものだから」
「露悪的な言いようだな」
「君が言いそうなことを先んじてみただけさ。それで、君が私に勧める本はミステリなのかい? それともパズル?」
 無意味に得意げな声音で問う青年に、返ってきたのはこのような答えだった。 「それを当てろという話だ」

 紅茶に手を伸ばしたまま、青年は一瞬だけ動きを止めた。そういった形で謎解きを要求されるとは予想していなかったのである。
「面白いね。どんな経緯で手に入れた本なのだい」
「知っての通りわたしは魔女狩人だが、世界魔術師協会は法執行機関ではない。捕縛した被疑者は警察に引き渡され、刑が確定するまでは勾留される」
「勿論解るとも」
「だが魔術が絡んだ犯罪である以上、我々はしばしば請われてそうした刑事施設に出向くことがある。その日は留置中の被疑者に対する差し入れ品の確認だった」
 淡々とした調子で出題者の少年は続け、探偵役はカップとソーサーを手に聞き入る。
「持ち込まれようとするものの中には、魔術師の目で見なければ解らない危険物もある、ということか。しかし、ベルリンになら専門の魔術鑑定士ぐらい常駐していそうなものだけれどね、刑務所や連邦警察本部に」
「確かに居る。が、捜査関係者として立会を求められたものは仕方がないだろう。それで品というのが、弁護人の持ってきた一冊の書籍だった。わたしはそれを確認し、許可できない危険物と見なして差し止めた。これが差し入れとして持ち込まれれば、間違いなく勾留中の被疑者は死ぬだろうと判断したからだ」
 少年はきっぱりと述べ、その間に青年は二つめのブフテルンを手元の取り皿へ回収した。粗熱はもう大分と取れていたが、指先に伝わるふわふわとした感触は健在だ。
「いくつか質問をしても?」
「何の質問もなしに解決できたら拍手ぐらいしてやるつもりだったが、別に構わない」
「普通に解いても拍手は無しなのかい、意地悪だね君は。――最初に確認しておきたいのだけれど、本当に持ち込まれようとしていたのは本一冊だけ? その中に何かが隠されていたりは?」
「さっさと核心を突く方針は嫌いではないな。その通り、大事なのは本に仕込まれていたもののほうだ」
 聞いて青年は肩を竦めた。 「本を当てろという出題だろう。些かアンフェアじゃあないか」
「現実に起きる事件にフェアもアンフェアもあるものか。文句なら弁護人に言え」
「もう被疑者か被告人に変わっているのだろうね」
「接見は可能らしいぞ」
「今からベルリンまで行くのはちょっとなあ」
 少しばかりぬるくなってきた紅茶を啜り、青年が目を細めた。

「それでは次の質問を。その本は中身がくり抜かれていたかい?」
「そんなもの、我々魔術師が確認するまでもなく持ち込み禁止だ。……聞かれる前に言っておくが、表紙に細工もされていなかったし、綴じ込みのページもなかった」
「特別隠そうとはしていなかったわけだね。そのようなことをしなくとも、申請は通ると思っていたわけだ、相手は」
 革張りのソファに背を預け、頭上のシャンデリアに目を遣りながら青年は考え込む。天井に描かれた美しい春の花々は、この時に限っては彼の推理を妨げなかった。平時であれば、植物を見ればあれには毒があるとかないとか思考が散逸しがちなのだが。
「魔法の類だって掛かってはいなかったろうし、あるいはそれ単体で魔術を行使できるようなものでもない。留置場の規則に反さず、かつ、本と一緒に持ち込まれて違和感のないもの。筆記具――は、禁止だったかな」
「指定のものを購入しなければならないから、何か細工をするのは難しいところだな」
「中がくり抜かれてはいなかったにしても、その本は分厚い本だった?」
「そうだな、分厚かった」 片手にグラスを弄びながら少年が答える。
「というより、本の題名当てでないのなら、もう何の本だったのかぐらい教えてくれてもいいのではないのかい。それとも、本の正体も関係してくる?」
「いいや、」
 少年が答えるなり、正面からアイスブルーの目が「なら教えてよ」と口ほどに主張してくる。教えて、というよりも、「教えてくれるのが当然だろう」といった趣のある視線だ。少年は軽く頭を振った。
「共同訳聖書」
「おやおや」 無感動な声で青年が呟く。
「同じ本でもより申請が通りやすい、とでも思ったのかもしれない。だとすれば安易だが」
「私だったら詩篇にするけれどね。まあ、確かに厚みの十分ある本だったわけだ。それに、うっかり熱中して一息に読み終えてしまうような本でもない。一日に一節か二節読んで、次はまた翌日に、そんな読み方をするのが普通だろう」
 何かを確認するように頷きながら、青年はまた思案に耽った。時折目を閉じ、両手で一冊の本を取り扱うような素振りをしながら。
「ちなみに、勾留中の被疑者は一体どんな罪状だったのだい?」
「組織犯罪への関与だ。具体的には麻薬法違反だが」
「――もう一つ確認を。本はともかくとして、一緒に持ち込まれようとしていた品は、少なくとも一見して規則に違反しないものだったのだね?」
「ああ、本来なら何の問題もなく通過して然るべきものだった。被疑者の自殺を防ぐという目的で差し止めただけであって、たとえば今ここであんたが持っていたとしても法には触れないし、精々あんたを見る目がますます胡散臭くなる程度だ」
「君ならそれを持ちたいと思う?」
「同種のものなら山ほど持っているし、わたし個人では――後に骨董屋で『かつて暗殺目的で使われたかもしれないもの』として見つければ興味は示すかしれないが、特別持ちたいとは思わない」
「同種のものなら持っている、」 青年が反復した。 「それも、沢山」
 彼はそこで何かしら、根拠のある自信を得たかのように、一層閑雅な微笑を浮かべた。深く一度だけ頷くと、テーブルの上に軽く身を乗り出す。

「その品というのは、――本に挟んで使う栞だった?」
 数秒の間。 「そうだ」
「それも恐らくは強度のあまりない紙製で、せいぜい表面にビニールの、図書館の本に掛けるようなフィルムが張ってある程度だったろう?」
「その通り」
「栞としては有り触れているけれど、フィルムの下には装飾として、……押し花がしてあったのだろう」
 今や青年の語調は質問から断定になっている。答える側の少年は、細い金色の眉を僅かに跳ね上げ、あくまでも落ち着き払った単調さで続けた。否、言葉尻に僅かな呆れが滲み出てはいた。
「押し花。ああ、もう当たっているから正解を言ってやっても良いんだが、あんたは最後まで自分で言いたい口だろうな」
「私のことをよく理解してくれて嬉しいよ、ブラザー・ユリウス。ずばりと答えを言う瞬間より、それに至るまでを語るのが好きでね。さて、その押し花だけれど、楕円形で艶のある葉が表と裏に合わせて三、四枚といったところかな。もちろん葉だけというのは一般的に見て不足だから、そこに花を――筒状をした五枚花弁の、可憐な黄色い花を添えて」
「その植物の名は?」
ゲルセミウム・エレガンスGelsemium elegans
 芝居がかった鷹揚さで脚を組み換え、青年は結論を導いた。それから、さあ思う存分に嘆賞してくれたまえ――とばかりに少年へ顔を向けた。残念ながら予告通りに拍手は無かった。
「書籍を検めているときに栞が落ちた。これも差し入れかと訊いたらそうだと答えた。それなら申請書に記入してくれと言いかけたところで、押し花にされているものが何だか気が付いたんだ。有毒植物、それも極めて毒性の強い類だと」
「なにしろ、葉が三枚に水が一杯あれば確実に死ねる、とまで言われているそうだからね。実際は個人差もあるだろうけれど、少なくとも他の毒草たちよりは確実な手段だ。例えばトリカブトやキョウチクトウでは、栞に挟めるだけの標本で致死量を摂取するのは難しいもの」
 毒草園の主の本領発揮とばかり、青年はいよいよ饒舌になる。こうなってしまえば下手な抑止は通用しないと解っているので、少年は好きに喋らせておくことにした。
「もっとも、ゲルセミウム・エレガンスが適任かと言われれば首を傾げるけれど。そりゃあ一般的な知名度は十分低いといっても、毒草としてはメジャーも良いところだ。君だって植物学は専門ではないだろうけれど、それでも気が付いたぐらいだしね」
「あんたに貸す前に読み直したからな」 少年が言った。 「薬草図鑑を」
「薬草図鑑――ああ、それもそうだ。薬草だよ。世の薬草は同時に毒草であることが多い。薬と毒を分けるのはその服用量、とは良く言ったものでね。ゲルセミウムは漢方薬だったかな。確か冶葛やかつと云うのだった」
 青年は言って、もう大分と冷めた紅茶をすっかり飲み干した。
「まあ、どのみち彼らは詰めが甘かった。君の言葉を借りるなら安易だ。そうだな、もしも私だったら――」
 言葉が途切れたのは、少年の眼光がやにわに鋭くなったからである。普段ならば他者の目などてんで気にしない青年も、これには不謹慎な妄想を止めざるを得なかったらしい。
「――冗談だよ。繰り返すようだけれど、私は君にだけは殴られたくない」
「そうか」 少年らしからぬ底冷えのする声。 「手加減はしてやるぞ」
「いいかい、ブラザー・ユリウス、君の手心は手心のうちに入らないのだと自覚したまえ。私の鼻っ柱を物理的にへし折るなんて、君が最初で最後だよ」
 ふん、と軽く鼻を鳴らす音が応えた。 「名誉なことだな」
「そうとも。光栄に思ってくれたまえよ、二度とはない殊勲だからね」
 表面上は平静を装っていても、青年の顔には苦々しさがありありと浮かんでいた。不愉快ですと大書してあるかのような顔だ。彼は誤魔化すように視線を反らし、一呼吸入れてから再度卓上に目をくれた。

 そして認識した。焼き菓子が積まれていたはずの皿が、すっかりもぬけの殻になっていることを。素早く視線を少年に移せば、つい先程掠め取ったのだろう、最後の一塊がその手に柔らかく掴まれていた。
「遠慮するなと言ったのはあんただろう」
 視線に気付いた少年が平然と言った。白い膚はアルコールの作用で赤味が差し、日頃は目に留まらないほど薄くなったような、数多の古傷を浮かび上がらせていた。手にも頬にも喉にも、無数に刻まれたその一つ一つが、彼が外見通りの「少年」ではないと如実に示す。
「……ああそうさ、言ったとも。でも、本当に遠慮しない子なのだね、君は」
「それこそ言ったはずだ。あんたに遠慮などするものか、と」
 穏やかな声振りの中に、無念さと口惜しさをたっぷりと含ませて、青年は恨みがましく同席者の顔を見る。老獪さと大人げなさを十分身に付けた魔女狩人は、そこでやっと外見相応の小生意気そうな表情を作り、傷と粉糖にまみれた指をぺろりと舐めた。 「甘いな」

go page top

inserted by FC2 system