「だめ、ライニ」 頓狂な声だった。 「それには手を出さないでくれ」

甘すぎる基準 -Off Your Onion-

 私はまず状況を把握しかね、制止の言葉が聞こえてきたほうを咄嗟に見た。ドイツ博物学の権勢華々しき時代を思わす、驚異の部屋ヴンダーカンマーをそっくり再現したかのような大部屋の奥を。そこにはアンティークだったかヴィンテージだったか、とにかく骨董のソファが置かれてあり、革張りの座面の上では我が友マンフレートが何らかの書物を読んでいるところだった――そのマンフレートが今、書を持つ両手はそのままに、珍しく焦った様子で私を凝視している。張り詰めた表情。
 何を言っていいのか解らず、私は続けざまに手元へ目を落とす。木製の長机に鎮座している、今しがた私が手を触れようとした、そして恐らくマンフレートが「それ」と指したものであろう、直径25cmほどの円柱形をしたガラス容器を。
 そもそも私はつい数分前に屋外から戻り、少しばかりかじかむ両手を擦り合わせながら、この部屋に入ってきたところだった。ドイツの(まっとうな建築基準に則って建てられた)一般的な家屋と同様、ひとたび扉を閉めてしまえば室内は気密性に優れて暖かい。冷えて湿った空気から解放され、安堵の息をつきながら、私は床に積まれた額縁やら空の植木鉢やらの横を抜けて執務机の前まで行った。
 そして、荷物を下ろしたところで例の容器を見つけた。大抵はホールケーキや大型のパン等を、乾燥や埃などから守るため使われるそれに、納められていたのは器より一回り小さいタルトだった。
「ああ、玉葱のタルトツヴィーベルクーヘンか。そういえば今がちょうど時期だな」
 本当に何気なく、ただ「もう9月も半ばなのに今年はまだ食べていないな」だとか、「先週の日曜市でフェーダーヴァイサーなら試飲したんだが」等といった、他愛もない世間話に繋ぐつもりで私は言ったのだ。それなのにマンフレートが、まるで我が子に手を掛けようとする殺人鬼でも目の当たりにしたような、およそ普段の彼らしからぬ声で叫ぶので、私は完全にまごついてしまった。確かに、彼の言動が頓狂なのはいつものことではあるのだが、こうも恐れた様子を見せるのは稀だ。

「どうしたのだね、何か大事な――」
 ガラスの蓋を開けようと伸ばした手を、とりあえず引っ込めながら私は訊いた。マンフレートはソファの上に書を伏せ、足置き台オットマンをほとんど飛び越えるようにして跨ぐと、足早にこちらとの距離を詰めてくる。全体的に彩度の低い風景にあって、淡い金色の髪とオレンジ色のタイがやたらと目を引いた。
「始めに言っておくけれど」
 容器をさっと両手で抑えてから、この若い博物学者(本人は「あくまで好事家であって専門家ではない」と謙遜ないし責任逃れを欠かさないが)は私の顔を覗き込むようにした。真冬の湖面の如き薄氷色の目が、只ならぬ気迫をもって私を捉える。
「私は断じて、これは私が買ったものだから私が独り占めするんだとか、あるいは焼き立てより冷めて味が馴染んでからが美味しいので今は我慢しろとか、そういう意地悪のつもりではないのだよ。私は心から君のために――より正確に言えば君の健康、ひいては生命のために忠告するのだと思っておくれ」
 普段以上に仰々しい物言いだ。私は彼から視線を反らし、再度ガラス容器の中のクーヘンを見た。生地から手作りされたのだろうタルト台に、たっぷりと敷き詰められたタマネギ。飴色の照りもうるわしく、ドイツの秋の味覚としてこれ以上もない貫禄を誇っている。散らされた刻みベーコンは角に見事な焦げ目が付き、少々のパセリが彩りを引き立て、ただ見ているだけでフェーダーヴァイサーを二杯ぐらいは呑めそうな姿だ。無論、蓋を開ければ甘く香ばしいスパイスやバター、何よりタマネギの匂いが部屋一杯に漂うことは明白で、実際の味などはもはや想像するまでもない。
 これが一体どんな理由で私の生命を脅かすというのだろうか、――確かに、糖分や脂肪分、コレステロール、等といった意味で健康にはそれほど良くないかもしれないが、マンフレートは実際のところ、辛いものが苦手な私に辛口のカリーヴルストを騙して食わせて喜んでいるような男である。ツヴィーベルクーヘンひとつに大真面目な顔で警鐘を鳴らすとは思えない。
「とすると、何らかの中毒事件のサンプルか、これは?」
「当たり、と言っておこうかな。いや、事件にはなっていない。見ての通り、一口齧るどころか切り分けた痕すらないだろう。未遂に終わったものが今ここにある、という訳さ。君が帰ってきたら伝えようと思っていたのだけれど、まさか何の断りもなく開けようとするなんて」

 意地汚いね、と揶揄めかしてマンフレートは言う。なにもすぐ食べたいと思っての行動というわけではないのだ、と私は反論しかけたが、止めた。話の要点をまだ聞けていないからだ。
「済まないなマンフレート。君も承知だろうが、ツヴィーベルクーヘンは大好物なんだ。……それで、我々のところに話が来たということは、薬品のたぐいが混入したのではないな。見た目からして大量生産品ではなさそうだし、家庭での誤食絡みだろうか。例えば、」
 本来は専門外の分野とはいえ、危険動植物管理課に10年近く勤めている身だ。こうした食中毒事例を扱ううち、大体の傾向は見えてくる。私はいくつかの推察を挙げようとしたが、それより先に友が口を開いた。
「知りたいかい、ライニ。私がどうしてこれを危険視しているのか、その理由を」
「知りたい、というよりも知っておかなければならないだろう。私はここの課長なのだぞ、いくら代理とはいえ」
 本来の課長が諸般の事情でベルリンから戻らない間、部署の留守を預かっているという責任感から私は述べた。課に持ち込まれる問題については、可能な限り全てを把握しておくのが務めである。私の答えを聞いたマンフレートは、ゆっくりと神妙に頷いて、
「では教えよう。実はそう多い事例ではないからね、一報を受けたときには驚いたものだよ……」
 と勿体を付けた。
「良いかい、このツヴィーベルクーヘンには、」
「このツヴィーベルクーヘンには?」
「基準値の2倍もの――タマネギが入っているんだ」

「……は?」
「基準値の2倍ものタマネギが入っているんだ」
「何だって?」
 耳を疑うとはこのことだった。私は二度問い返し、さらにまじまじと彼の顔を眺めてみたが、やはり真剣そのものである。
「ライニ、君はとうとう老眼ばかりか老人性難聴まで患ったというのかい。いけないよ、君にはずっと若々しく居てもらわなければ。ではもう一度言うけれど、」
「いや、良い、三度言ってもらう必要はない。老眼は事実だが聴覚はおよそ正常だ。基準値の、2倍もの、タマネギだろう?」
 単語の一つ一つを区切り、確認するように私は言った。その通り、とマンフレートが頷く。こうしてお互いの言語能力に齟齬がないと解った以上、私は彼に言わなければならないことがある。
「私はだな、君があれほど深刻そうな態度をして、危険だとかなんとか言うからだな、大真面目に考えていたのだ。タマネギと間違えてイヌサフランやスイセンの球根をとか、パセリやセロリだと思って摘んだのがドクニンジンの葉だったとか、そんな中毒事例をな」
「ああ、その推察は実に見事だよ、ライニ。私だって何も知らされなければまずそれを疑っただろうね」
「だが君の勿体つけた台詞を聞く限り、結局のところそれは――標準的なレシピの2倍量のタマネギを、本来想定される量ほどに嵩が減るまでじっくり鍋で炒めてから使用した、通常よりも一層風味と甘み豊かな実においしいツヴィーベルクーヘン、ということではないのかね?」

 至って常識的な、そして対象のタルトを好物とする者としては弥が上にも期待の高まる解釈を私は述べる。私と同じほどの愛好者である友は、神妙な顔つきを保ったまま言葉を続けた。
「美食学的な面から見ればそうなるかもしれない。けれど君も知ってのとおり、タマネギというのは有毒植物なのだよ」
「それはイヌやネコにとっての話だろう」
「人間にとってもだよ、ライニ。タマネギに限らずニンニクやニラもそうだが、摂取量によってはヒトを含む霊長目も中毒を起こす可能性がある。主に溶血性貧血や――」
 頭が痛くなってきた。無論、私もマンフレートの持つ見識のほどを疑っているわけではない。だがマンフレートは、こういった場合に相手が詳しくない分野の専門用語を並べつつ、いかにも「自分は理路整然としています」と言わんばかりの顔で喋り続けることにより煙に巻くという、不誠実な専門家の必修科目と言うべきスキルを会得してしまっている。仮に論の内容が正しくとも、それでは他人に信頼されるはずがないだろうと私は常々忠告しているのだが、同時に忠告が無駄であると半ば諦めてもいる。彼は他人に信用されたいのではなく、「不誠実な専門家ごっこ」をして遊びたいだけなのだ。
「無論そうだ、マンフレート、どんな物質も量によっては薬であり毒だ。問題はその量だ。例えば元のレシピで700g使うことになっていたタマネギが、1.4kgに増えたところでやはり人間に害はないだろう」
「正確に言えば、750gだったものが約1.6kgに増えたのだけれどね。ああ、つまり基準値の2.1倍」
「基準値の話はもういい。どちらにせよ、あの1ホールを丸ごと食べたとしても問題のない量には違いないだろう。たかが1.6kgのタマネギで健康な成人男性が死ぬことはない。単純な暴食という理由で胸焼けや腹痛ぐらいは起こすかもしれないが」
 こちらの態度が揺るがないのを見て、マンフレートも分別くさい表情を少々崩し始めた。もう少し肯定的なリアクションが欲しかったのだろう。
「でも、有害物質の基準値違反なんて大概そんなものじゃあないか。世の人々はたとえば、キャベツやらホウレンソウから基準値の2倍の農薬が検出されたなんて言うと、それを一口食べただけでも死ぬかのように論い、よってたかって化学農薬を悪者にしたがるものだ。実際にはそのキャベツをトン単位で食べでもしない限り、毒に中って死ぬことは有り得ないというのに」
「それはまあ、確かにそうだが、」
「そうした論調が正当とされるならば、タマネギを有毒と称することに何の誤りがあるだろう。そう、君が述べたとおりあらゆる物質は毒だ。我々の植物園に植わっていないものであっても、我々が主食として毎日のように食べる小麦やジャガイモであっても――全てのものは等しく人間にとって有害だ。にも関わらず、一部の人々は天然自然のものなら安全に違いないだとか言って、コンフリーのサラダを2週間ほど食べ続けて死んだりするのだけれどね」
 あれは肝臓を悪くするからねと、冷笑的な声色でマンフレートは言う。彼の言葉には一理あるし、コンフリーの件は紛れもない真実である。が、私は誤魔化されるわけにはいかない。今論じるべき問題はそこではない。
「解った、マンフレート。ではこうしよう。私は君の言うタマネギの危険性を大いに理解し、危惧したので、このツヴィーベルクーヘンに関する適切な評価レポートを書き、支部の書記局やライプツィヒ市の保健所等に提出し、広く市民に啓発すると共に、当方でもさらなる研究を進めると」
「ああ、実に賢明だとも」
「だがそれはそれとして、1.6kgのタマネギを成人男性2名と未成年女性1名で分け合って摂取することに健康的リスクは認められないので、リコが妖精管理研究課から戻ってき次第、よく味わって食べることにしよう」
 私がそう結論付けたとたん、精悍な顔立ちは母親からお小言を食らった子供の如く歪み、色の薄い唇は「そうじゃない」とでも言いたげに震えた。
「正直に答えなさい、マンフレート。これを持ち込んだのは警察や保健所や支部の監察局ではないだろう。一体誰がご丁寧にも、こんな辺鄙な部署の職員に差し入れをくれたんだ?」
 もちろん、この幼気そうな見せかけに絆されて、追求の手を緩めてやろうという気は私にはない。肝腎なところを一つ一つ明らかにしないことには、何のためにこんなやり取りを続けてきたのかが解らなくなってしまう。

「……ブルーが。この間の件ではお世話になったからって、30分ぐらい前に置いていったよ」
「トビアス君か? それはまた、つまりこれは彼の手作りか。料理が上手いのは知っていたが、いや、ここまで出来るとは思わなかったな」
 友の口から飛び出した名は、我々が仕事の上でしばしば提携する、ライプツィヒ市爬虫類センターの職員のものだった。焼きたてのクーヘンを手にした快活な爬虫類学者の顔が、たちまち脳裏に思い浮かぶ。あの人懐っこい青年に、我々は何度か手料理を御馳走になったことがあるのだが、大変満足のいくものだった。
「しかし、そうだとすると心配する必要はもう無いだろう。これで誰か、調理に際して致命的な失敗をしでかす可能性のある人が、どういうわけか外見だけは完璧に焼き上げて持ってきたというなら話は別かもしれないが」
「うん、……」
「それを君は、仲間たち皆で分かち合おうというのでなく、美味しいものは独り占めにしようという邪な考えを抱き、後で食べるためにどこかへ隠してしまおうとしたわけだ。が、私が予定よりも遥かに早く帰ってきてしまったので、隠蔽が間に合わず、当座のところを凌ぐために、あんな子供じみた言いわけを考えついたと。違うかね?」
「…………」
 マンフレートの碧眼は最早私を見ておらず、何かから目を背けるようにあらぬ方向を凝視していた。引き結ばれた口元に、これ以上何か言っても事態を悪化させるだけだ、という自覚が伺える。今更にも程があるが。
「違う、というならそう伝えてくれ。先程のような言葉遊びでなしに、根拠に基づいた事実として。君が本当のことを言ってくれるなら、私にはどれだけ長大な、あるいは難解なことでも聞く準備がある」
「……本当かい?」
 用心深くこちらの出方を探るような、低い響きが私に問い掛ける。かと思えば、彼はすぐに首を横に振り、
「いや、こんなこと訊くべきじゃあないね。君はいつだって私の話をちゃんと聞いてくれる。疑うことも否定することもあるけれど、無視することはないもの。というより、そうだと解っていたから、さっきだってあんなことを言ったのだけれど」
 と、ばつが悪そうに眉根を寄せて言った。
「そんな気はしていた。私にとっては慣れたことだからな。まあ、いくら友人といえ、こちらの信用を試すような真似はできれば止してほしいがね」
「ああ、……ごめんよ、ライニ。それじゃあ今度こそ、君が何故これを食べてはいけないのか言おう。良いかい、このツヴィーベルクーヘンには、」
「このツヴィーベルクーヘンには?」
「基準値の、」
「待てマンフレート、基準値の話はもう」
 ところが、やっと素直になったかと思われたマンフレートは、またぞろ社会面の見出しに登場しそうな言い回しを用い始めた。危うく再発しかかった頭痛をなんとか意識の外へ追いやり、私は彼の話を一旦遮ろうとする。だが友は全く気にした様子もなく、再度私に目を据えてこう言うのだ。
「基準値の70倍もの――ナツメグが入っているんだ」

「……は、」
「基準値の70倍ものナツメグが入っているんだ」
「何だって」
 私は数分前と全く同じ台詞を口にしたが、此度はニュアンスが少々異なっている。聞き取れなかった、あるいは考えもしなかった単語をオウム返しにしているのではない。今回ばかりは私も、彼の言わんとすることをはっきりと理解した。
「15g入りの小瓶に粉が半分近く残っていたそうだから、まあ7gといったところだろうね。どうだい、恐ろしいだろう」
「なるほど、」 同意を込めて私は頷いた。 「君の言うとおり、確かにこれは食べられないな」
 我々は揃って頭を動かし、改めて容器の中の麗しい一皿を見る。タマネギは一般に見られるものと紫タマネギとの二色遣いであり、チーズの掛かった部分には見事な金茶色の焼き目が付いている。よくよく観察すれば、表面にはパセリだけでなくキャラウェイと思しきものも散らしてあった。同等のものをカフェやレストランで購おうと思えば、恐らく一切れあたり5ユーロは下るまい。だが残念ながら、これが例えば「カフェ・アリバイ」の店頭で売られていようものなら大惨事は免れない。
「だが、まさかトビアス君がわざとそうした筈はあるまい。彼はレシピにある「適量」の意味を取り違えるような人ではない」
「勿論さ。なんでも、具材を調味しているときに、手が滑ってフライパンの中に瓶をひっくり返してしまったのだって。味見をして特に問題なさそうだったから、そのままタルト台に流して焼いたそうだよ」
 もったいないから持ってきたけれど、もしも不味かったら捨ててください、と料理上手の若者は言ったそうだ。その手の失敗をしでかしておいて、「もったいないから自分で食べる」ならともかく、当初の予定通り他人に差し入れることを躊躇わないあたり、件の爬虫類学者君もなかなか豪胆である。それを包み隠さず相手に伝えるところも含めて。
「まあ、確かにもったいないのは事実だな。見た目からしてこれほど立派なのだ、さぞかし美味しいクーヘンに仕上がっているだろうに」
「本当にね。あまりに美味しすぎて、胸の鼓動が激しくなったり、震えが止まらなくなったりするかもしれないね」
 容器の蓋をそっと手で撫ぜながら、マンフレートが微笑を浮かべた。

 ナツメグという植物は、――言わずもがな我々ヨーロッパ人にとってはごく有り触れた、どんなスーパーマーケットでも手に入る一般的なスパイスだが、人体に対して一切の有害性がないとは言えない。多量に摂取すると動悸や痙攣、幻覚等の症状が出ることもあるのだ。摂取するのが成人男性の場合、およそ5gから10g程度で害が出始めるというので、スパイスの中では比較的所要量の少ないほうである。それでもナツメグ10gなど、それこそ誤って瓶をひっくり返しでもしない限り、意識的に摂るような量ではないが。
「だが、とにかくこれは食べるわけにはいかない。とりわけ、リコはまだ若いし体も小さいのだから、絶対に食べさせられないな。トビアス君には申し訳ないが、廃棄することにしよう。そして、何か聞かれたら事情を話して謝罪しよう」
「それが一番良いね。……じゃあ、これはどこかに片付けておこう。ちょうど小腹の空いているときなのに、悲しいぐらい目に毒だよ」
「そのことなら、」 私は言い、椅子の一つに置いたきりの鞄に目を向けた。
「生憎ツヴィーベルクーヘンではないがね、帰りがけに芥子の実ケーキモーントルテを買ってきていてな。頂き物があるのならそちらを先に食べようと、さっきまでは思っていたが事情も変わった。少し早いが、お茶の時間としようか」
 途端、あたかも静かな湖面に一条光が差したように、マンフレートの目がきらりと光るのを私は見た。そう、彼の好物なのだ――タマネギたっぷりのタルトと同じくらいに。
「本当かい、ライニ? いや、そうだ、こんなことは訊くべきじゃあない。君は私にあらぬ期待を持たせるような嘘なんてつきやしない。コーヒーを淹れよう、それとも紅茶を……ああ、リコはどうしてまだ戻ってこないのだい? ライニが折角お菓子を持ってきてくれたのに!」
 常日頃の乙に澄ました態度など、まるで忘れてしまったかのような少年の貌で、彼は声色も明るく言い立てる。喜色満面とはこのことだ。ここまで嬉しがってくれるのなら、私も土産を持ち帰った甲斐がある。
「彼女もそろそろ用事を済ませてくる頃合いだろう。そう気忙しくするものではない。まったく、意地汚いのはどちらだろうな、マンフレート?」
 窘め半分に告げながら、私は机上に手を伸べて、ガラス容器を持ち上げようとした。――が、持ち上がらなかった。

「……マンフレート?」
 見れば私のほかにもう一対、容器の蓋に手を掛けているものがある。年齢相応の、あるいはより幼く無邪気そうな笑みを浮かべたままの我が友である。
「何だい、ライニ?」
「いや、何と言われてもだな、……これを捨てに行くから手を離してもらえないか。ちょうど明日が生ゴミの回収日だろう」
 私は当然の理由をそのまま答えたが、彼は尚も口元に微笑を貼り付け、意味が解らないとばかり小首を傾げる。嫌な予感がした。とうに追い払ったはずの頭痛が呼び起こされる感覚だ。
「マンフレート」
 語気を強めて私は言った。 「これは食べられないものだ」
「そうとも、食べるのには不適切なものだし、君やリコに食べさせようなんてちっとも思わないよ」
「では――」
 こちらの目に合わせられていたはずの視点が、そこでふらりと揺れて明後日に向けられるのを、私は見逃しはしなかった。また何かを誤魔化そうとしている。あるいは、到底受け入れられないようなことを言おうとしている。

「でも、ね、私はこの通り頑健で大柄な成人男性であってね。それにほら、量にしたって7gだろう、死にはしないよ、死には」
 ――果たして、彼にしてはおよそ不出来な作り笑いを浮かべたマンフレートが、私を直視せぬままそんな弁を弄したものだから、お茶の時間は後回しにせざるを得なくなった。
「マンフレート! 結局君は何も反省していないではないか、意地汚いにも程があるぞ!」
「それほどでもないだろ、私だって食べたら死ぬと解っていれば食べないさ! だからこうして現在まで生き延びているんじゃあないか。でも、食べても死なないし吐いて無駄にすることもないなら別に食べたって……第一、君も知っているだろう、ツヴィーベルクーヘンは私の大好物なのだよ!」
「それを言うなら私にとっても好物だし、食べ物を無駄にするのは心苦しいとも思っているが、それとこれとは話が別だ! 良いから手を離しなさい!」
「だって!」
「だってじゃない! 離しなさい、マンフレート!」
「いーやーだー!」
 これが本当に十代半ばの少年であれば、まだ幾らか可愛げもあるというものだが、彼自身が述べているとおり、マンフレートは頑健で大柄な成人男性である。24歳だ。稚気じみたわがままが許される年齢ではない。まして健康や生命に直結するようなものならば。
 私は心の奥底で、先程のマンフレート以上に熱心に、一刻も早くリコが帰ってきてくれないかと願った。ひとたび彼女を前にすれば、この聞かん気な青年も型通りの澄まし顔を取り戻すだろう。その後しばらくは機嫌を悪くするかもしれないが、それでもこのツヴィーベルクーヘンを食べさせるよりはましだ――私がこれを許してしまえば、彼はいずれご自慢のコレクションを、片っ端から「味見」し始めるに決まっている。私は恐ろしくてならないのだ。彼の蒐集の数々は、取りも直さず彼の理想の死に方そのものなのだから。

go page top

inserted by FC2 system