「本」という言葉を用いてその部屋を形容するのなら、「本の要塞」以外にはないと思われた。

読書家達、潔癖たれ -Clean House-

 比較的近年に改装されたのだろう、表面上は現代的なベルリン市内のアパートに、件の部屋はあった。一階の角部屋だ。借主の内向性を主張するかのように重たい扉を開ければ、正面に伸びる廊下が既に本に覆われていた。そこまで広くもない通路は、両側にずらりと並んだ木製の本棚のせいで、水平方向に大柄な人間の通行を困難としている。天井から床までの寸法をきっちり測って購入したのだろう、壁面に敷き詰められたそれらは、「最初からこのスペースは本棚で建築されていたのです」とでも言いたげにに鎮座し、内部にはこれもまた大量の書物が、高さと幅を完璧に考慮した配置によって、紙切れ一枚差し込む隙間もなく収められていた。
「君のうちに来るといつも思うのだよね、」
 促されて足を踏み入れた青年、マンフレート・アルノーは、革長靴の底を玄関先のマットに擦り、丁寧に泥を落としてから口を開いた。無論そのマットには「心からようこそHerzlich willkommen」等の愛に溢れた言葉など書かれておらず、どころか「ドアマットにはなるなStop being a doormat」という、人間に対する発破としてならともかく、ドアマットに記すにはあまりに酷な台詞だけが配されていた。
「君は本当に、このうちで寛いで暮らせているのかって。ただでさえ毎日帰ってこられるとは限らないのに、こう圧迫感というのか……閉塞感のある空間に迎えられるというのは、息苦しくなったりしないのかい?」
 柔らかなチャコールグレーの外套をするりと脱いで、簡単に折り畳みながら青年は訊いた。落ち着いた、というよりほとんど無彩色に近い玄関の中で、彼の明るい金髪と、首元に締めた臙脂のタイだけが際立っていた。

「寛いで暮らす必要はない」
 さて、問いかけに応えた声はマンフレートより更に若い、変声期こそ迎えてはいるが完全な「大人の声」には至らない響きだった。部屋の借主は見た目に14、5と思しき少年だが、思慮深さを窺わせる瞳といい、落ち着き払った物腰や言葉選びといい、どこか年齢不相応な雰囲気の持ち主だった。――というのは、この少年が本当に「少年」であるとすればの話である。
「あんたの言うとおり、わたしは毎日ここに帰ってくるわけではない。わたしの部屋はあくまで財産を保管する倉庫であり、かつ読書をするための書斎であって、安住の我が家ではないのだ。極論すればな」
 目深に被った鳥打帽キャスケットの下から、僅かに緑がかった碧眼が、神妙に青年の顔を見据える。発言者は大真面目であった。青年は軽く肩を竦め、そうかい、とだけ言って短い息を吐いた。
「君さえ良いのならそれで結構だけれど。実際、書物にとっては楽園のような環境なのだろうからね、ここは」
 口調に微かな呆れを滲ませつつ、彼が独言している間にも、少年は狭い廊下をすいすいと進み、居間へと通じる内開きのドアに手を掛けていた。青年もまた、勝手知ったる他人の家、とばかりに後に続き――肩口を棚板の縁にぶつけて渋い顔をした。

 それにしても、とマンフレートは思った。一般に、「本に囲まれた暮らし」と聞いて想起されるのは、明るく開放的なリビングルームとモダンな装飾、溶け込むよう配置されたデザイン性に富む本棚、といったところだろう。並んでいる本は大人向けの上質な物語や、あるいは視覚的に美しい絵本の類か。棚のところどころには雑貨や観葉植物も配されているだろうし、あるいはユニークな形のブックエンドが支えとして置かれているかもしれない。
 翻ってこの家は、延べ床面積の大部分を本に占領され、本を守護し、また本に守護されるためにあるような家だが、ここでの暮らしは「本に囲まれて」いるとは言い難い。なにしろ書物のある区画と居住空間は完全に分離されており、通された先の居間には簡素な、今日び刑務所さえもう少し暖かみがあるのではないかと言いたくなるような、簡素な家具調度しかないのだ。背の低い木製のテーブルがあり、それを挟むように一人がけのソファが一対あり、収納棚のついたフロアライトが置かれ、――他には何もない。本の姿は影も形も見えない。それでも、「本しかない」居間以外のスペースと比較すれば、遥かに寛げる可能性があるのは確かだ。住居を構成する全室の中でこの部屋だけが、生活感なるものを帯びることが許されているようだった。
「ブラザー・アルノー」
 二人分の荷物を一処へ纏めた後で、部屋の主がマンフレートに向けて手を伸べた。 「コートをこちらへ」
 彼は一瞬、この部屋のどこにコート掛けなる気の利いた家具があっただろうかと思案しかけたが、すぐに少年の意図に気が付いた。少年が立っているのは、壁面に据え付けられた暖房のラジエーターの前だ。
「ああ、助かるよ。ベルリンの冬は寒くっていけないからね」
「ライプツィヒも似たようなものだろう」
 彼が差し出した毛織の長外套が、少年の片腕に抱え上げられる。地の色ばかりは白いが、無数の切創や火傷の痕にまみれた痛々しい手――それでいて尚も美しさを失わない手。数ヶ月前に会ったときから、また怪我が増えたのではないかと彼は思った。だからといってあからさまに眉を曇らすでもなく、ただ自分の上着が暖め乾かされるのを眺めるに留まったが。
「そうかな、私はそれでもベルリンのほうがまだ厳しく思えるけれど。……数日前まで南ブルガリアにいたせいかもしれないな。あちらの冬はいくらか穏やかだからね」
 青年は言い、ソファの一つに腰を下ろした。布張りの座面が僅かに沈み込む。
「君のほうこそどうだい、今年は珍しく海外旅行だろう。セントエラスムスなんて、あんな暖かなところに数日もいたら、ドイツの冬が恐ろしく冷たいものに感じられないかい」
「確かに、」 灰色のマフラーを解きながら少年が答える。 「1月の屋外を歩くのに、コートが必要ないとは」
「驚異的だ。なんでも記録に残っている限り、気温が零下になったことがないそうじゃあないか。地中海に浮かぶ常春の島、……いや、夏は夏か。私は暑いのは嫌だな。こんな冬の日に出される一杯のコーヒーなら、熱いに越したことはないけれどね。ブランデーがひと匙入っていればなお宜しい……」
 肘掛けと背凭れにゆったりと身体を預け、少年の姿を見上げながらマンフレートは続けた。いかにも貴族的な、寒暖の差をあまり気にする必要のない安穏とした環境で育ちました、と言わんばかりの鷹揚な態度で。
「ちなみに、アルコール入りのコーヒーといえば有名なのは『アイリッシュ・コーヒー』だけれど、英語で『ジャーマン・コーヒー』と呼ばれるものもあるのだよ。キルシュヴァッサーを入れたものがそれなのだって。どうだい、折角だからひとつ試してみるというのは」
「茶を出してやるなどとは言っていないだろう」
 返ってきた少年の答えは、外を吹きすさぶ寒風同様に冷淡だった。 「厚かましいな、あんたは」
「そんな厳しい顔をしないでくれたまえよ。私はただ、君も長く外を歩いてずいぶん冷えただろうから、身体を温めて仕事に備えてほしい、という意味で言ったのであって――」
 顔色一つ変えることなく、いけしゃあしゃあと言い返す厚顔ぶりを、少年は諦念の浮かぶ目でただ見ていた。そして静かに、深く息を吐きながら、脱いだ防寒具をソファの上にまとめて置いた。
「生憎とキルシュはない。普通のコーヒーなら、」
 数秒の間。
「それから、菓子をいくつか買って帰っている。ほとんどは支部への土産だが、パネットーネぐらいならあんたにやっても良いだろう」
「本当かい? それは嬉しいな」
 完璧な均衡を保っていた青年の表情が、そこで少しだけ緩んだ。落ち着き払っていた声色にも、浮ついた期待がやや交じる。
「私はイタリアのお菓子というのが特別好きでね。いや、君が行ったのがイタリアでないのは解っているけれど」
「イタリアに近いぶん、食文化に共通するものも多いということだな。……少し待っていろ。コーヒーはともかく、菓子については先に荷解きをしなければならない」
「もちろん待つとも。本を読んでいても良いかい?」
「常識の範囲で」
 それに対する返答はどこまでも素っ気なく、青年を苦笑させるに十分なものだった。とはいえ、これをして「子供らしくない」とか「可愛くない」等と言うのはあまりにも無礼というものだろう。了解したよ、と彼は頷いて席を立った。手持ち無沙汰を慰める一冊を、迷宮のような書架から探し出すために。

  * * *

 ――しかし、見れば見るほど本しかない家だ。
 本来は主寝室としての使用を想定して作られたのだろう、玄関から最も奥まった一室で、マンフレートは内心感嘆していた。初めてこの家を訪れたときもそうだったが、何度目になろうと溜息が漏れてしまう。お世辞にも豪邸とは言えないアパートの一室に、膨大な量の書物を収めようと思えばこうなるのだろうが、とにかく部屋の全てが本を保管するために構成されている。壁面が全て本棚であるのは言うまでもなく(無論ドアの上や窓の上下も該当する)、さながら図書館の如くに頑丈な書架が林立し、書籍が幅を完璧に計算された上で詰め込まれている。「本をおしゃれなインテリアに」だとかいう発想が、あの冷ややかな顔の中に存在するはずもない。一種強迫的なものさえ感じさせる収納だ。
 恐るべきは、この部屋が図書館で言うところの「開架」であり、地下室には所蔵に振り切った「閉架」が存在するということだろう。最早「本を手に取って眺める」とか、「その場で流し読みする」とか、「背表紙のタイトルを見て直感で決める」等といった行為は前提とせず、ただ蔵書目録を元に集密書架から本の出し入れをするためだけの場所である。初めて訪れた客はまず居間に通され、そこで少年のことを最小限主義者ミニマリストだと思うかもしれないが、これらの財産を一度でも目にした後なら、誰であろうと彼を蔵書狂ビブリオマニアと呼ぶに違いない――本人はこの肩書きを歓迎していないが。
 書物にとっての適温(具体的には18℃であり、人間の快適な活動にはこれっぽっちも適していない)に保たれた室内で、かじかみ始めた手指を擦り合わせつつ、マンフレートは居並ぶ書架の間を行き来する。普段は少年しか利用しない部屋の調度は、大柄な成人男性には少々窮屈に感じられた。それでも物理的に本を選べないほどではない。
 本棚の段一つに着目して、背表紙をざっと眺めてみれば、どうやらこれらはみな小説であるらしかった。著者名には国内外で知られたものから、聞き覚えのないもの、明らかに欧米の作家ではなさそうなものまで様々だ。タイトルも、古典の名作があったかと思えば、昨年発売されるなりベストセラーを掻っ攫った意欲作があり、実に節操がない。否、「節操がない」はいささか悪意ある言い方かもしれないので、「所有者の幅広い教養を感じさせる」とするべきだろうか?
 ぼんやり考えていたところで、彼の視線はある一点に留まった。といっても、題名や装丁に惹かれたのではない。本そのものですらない。棚に詰め込まれた本の手前、棚板のごく一部分だった。

 どれほど綺麗好きであろうと、人間がそこで活動する限り、家屋内にはどうしても塵や埃のたぐいが発生する。放っておけばそれらは至る所に付着し、蓄積されてゆく。まして、住人が一週間にわたって家を空けた直後なら、棚板にうっすら埃が積もっていても無理からぬことだ。マンフレートが知る限り、あの物静かな少年は、書物を守るべく十全の努力を尽くすタイプではあるが、ハウスダストの侵入を防ぐにも限度というものがある。物理的にも、魔術的にもだ。
 よって彼は、室内のどこに灰色の塵を見ようとも、それをもって不潔だとか、心がけがなっていないとか、咎め立てをする気など一切無かった。気になったのは埃が存在しない・・・・・ことだ――彼の目線からやや下に位置する段のうち、ある一冊の手前だけが数cm、まるで今しがた拭き取ったかのように、艶やかな棚板本来の色を表出させていた。
「おかしいな」
 最近になって本が取り出された形跡はない。なにしろ家人は先刻帰ってきたばかりなのだ。青年は碧眼を眇めながらその一部分を、続いて本を見た。それなりに年数の経過したものらしく、黒いハードカバーの背にはあちこち擦り傷ができている。題名は古びた字体の金文字で記されていた。
「"潔癖"、か。ふうん、だから埃に纏わり付かれるのも我慢ならない、と? 持ち主の手間を省くなんて、感心なものだね」
 独言しながら、彼は心の奥底で、好奇心が盛んに主張し始めたのを感じた。今日の「お茶請け」はこれで決まりだ。

 手を掛けて本を抜き出すと、表紙の装丁はごくごく簡素である。背に書かれていたのと同じ題名が、同じ字体で提示されてあるばかりで、絵や装飾は見られない。全体的に古くなってはいるが、三方の小口にも塵埃は一切付着しておらず、ブラシを掛けたばかりのように清潔そのものだ。開いてみればまず灰色の遊び紙があり、続いて表題紙がある。三度目の「潔癖」である。ほか、一般的な書籍と同様に、出版年が1911年であることや、版元がフランクフルトに所在することなども表記されていた。ここで著者名が「フランツ・ザオバーマン」であることに気付き、マンフレートは思わず吹き出しそうになった。「潔癖Sauberkeit」という本を書いたのが「潔癖主義者Saubermann」とは、いくらなんでも出来過ぎている。恐らくペンネームだろう。
 彼はさらに目次へ読み進めようとした。本文は暖かなところでじっくり楽しむとして、どのような本かだけは把握しておきたかったのだ。今のところ、この潔癖氏による潔癖という書が果たして小説なのか、随筆なのか、家庭における衛生を論じた実用書なのかは一切判明していない。古びた紙を迂闊にも傷つけることのないよう、そっと一枚ページを捲り――
 その瞬間、青年の指先にぴりりとした痛みが走った。彼は咄嗟に本から右手を離して考えた。そんな感触は無かったが、紙で手を切ってしまったのかもしれない、と。しかし実際には、矯めつ眇めつ確認しても、指の表面に何らの異変は見て取れなかった。
 おかしいな。今度は口に出しこそしなかったが、青年は首を捻らざるを得なかった。と同時に、知りたがりの性分がますます主張を強くする。自分が手にしている本には、きっと何か特殊な性質や、隠された異常があるのだ。ならば興味本位に突き止めるのが好事家ディレッタントだと。今や彼の意識は、準備されつつある熱いコーヒーや菓子、久々に会う知人との積もる話などから完全に離れ、眼前のただ一冊のみに向けられていた。飽くなき探究心の命ずるままに、よほど命を脅かすようなことでなければ何でもしてやろうという意欲――このうえ好都合なことに、現在地は未開の土地や黒魔術師の工房などではなく、いたって良識派の少年が管理する閲覧室の一つである。心身に危機が及ぶことはまず無いだろう。

 彼は大胆にも、目次や前書きの一切を読み飛ばし、書の中程にあるページをさっと広げた。前時代的なドイツ文字が一面に並び、黒々としてやや読み辛い。しかし、どうやらこれはフィクション的な読み物ではなくエッセイの類であろう、と彼には理解できた。著者がここで語っているのは、家屋内における虫害・獣害の忌まわしさについてだ。とりわけネズミとクモに関しては、憎悪の念がありありと伝わる筆致でもって、その醜さと衛生的害悪を書き並べている。これはあの「デュッセルドルフの蜘蛛男」には読ませられないな――人となりを良く知るクモ愛好家の、不必要に他者を挑発するような笑顔を思い出し、彼は苦い顔をした。
「何だろうね、この人はネズミとクモに親でも殺されたのだろうかな」
 単なる冗談のつもりで青年は口にしたが、ややあってから決して有り得ないことではないと気が付いた。発刊年が1911年ということは、著者はどう少なく見積もっても19世紀、下手をすればもっと昔に生まれているはずだ。欧州最後のペスト禍は西暦何年のことだったっけ?
 自らの知識をあれこれと引き出しながら、視線は絶えず活字を追い続ける。結局その場で丸ごと1ページを読み終えても、彼の詮索心が萎えることは一切なかった。元より彼自身も十分に読書家である。本を読むという行為そのものに、幸福と快楽を感じないとはとても言えない。気がつけば彼は肌寒さなどすっかり忘れ、さらに違うページを開いていた。

 著者の非難はいよいよ人類へと矛先を向け、都市で生活する人間がいかに不潔な、穢らわしいものであるかを論い始めた。例えば人の毛髪が、空気中のあらゆる淀みや人体から滲み出る汚れを吸い上げ、それを帯びたまま別の場所へと移動してゆく不快な存在であると。また素手で何かに触る、あるいは触られることへの嫌悪も綴られていた。ほんの一瞬でも皮膚が触れ合ったとたん、細菌や脂や汗が、ありとあらゆる悪臭が、自分に伝播してくるのだと。
 彼はここで再び、彼自身の指先に目を向けた。この手は不潔であるか否か、と自問自答してみたのである――少なくとも自分は潔癖症ではないし、最後に手を洗ったのは駅のトイレを出たときだ。それからハンドタオルやら自分の荷物やらを触ったし、少年とは寒い中ちゃんと手袋を脱いで握手をしたし、入室する際にもドアノブを握っている。その間、無数の細菌や皮脂や塵芥に晒されてきたという意味では、確かに不潔なのかもしれない。そんな手で触れられたものだから、本が著者の悪意でもって攻撃してきたのかもしれない。あの時ページを捲ろうとした指先に。
 彼の探究心はいや増した。探究心というより挑戦心と言うべきだろうか、この潔癖な著者に対しての。彼は考えた。たったあれだけの接触でさえ反撃されるというのなら、いっそ堂々と手をついてしまえば何が起きるのだろう? 詰め込まれた活字を冒涜するように、掌をべったりと張り付けてしまったら? 喜ばしいことにはならないに違いない。けれども死にはするまい。――試してみたい。
 マンフレート・アルノーという青年は、己の知的欲求のためなら良識などかなぐり捨てる男だ。だから実行した。躊躇することなく。

 そして掌に激痛が走った。熱鉄が押し付けられたような痛みが。
 悲鳴と言って差し支えない、裏返った短い叫びを上げて、彼は右手を引っ込めようとした。だが喜ばしくないことが起こった。手は紙にぴったり接したまま、離れようともしなかった。
 もちろん彼は、少なくとも痛い目に遭うだろうことは予測していたし、加害者をより一層苦しめるような罠があるかもしれないという考えも持っていた。彼の推論は正しかった。その点で彼は勝ち誇りたい気持ちだったが、まずは本を引き剥がすことが先だ。「解呪」か、「打ち消し」か、それとも「鎮静」が必要だろうか? どれも杖なしで十分発動できる汎用魔法だ。けれど、闇雲に試してより悪化することだけは避けたい――ただでさえ、予想を少々上回る痛みに集中力を欠きつつあるのだから。
 幸い、苦しみに耐えながら解決策を考える必要は無かった。廊下から非凡なる速力で何者かが近付き、そのまま止まることなく扉を開けた。

「ブラザー・アルノー!」
 金髪の少年が書架の間を突っ切り、マンフレートに向かって距離を詰めた。その間にも場の状況から、何が起きているのかをすっかり把握してしまったらしい――彼は一切速度を緩めなかった。指をまっすぐ揃えて手刀を作り、勢いのまま青年の右手首を打ち据えた。
 鋭い衝撃と共に、物理的なものとは異なる力が伝わり、青年の掌と本のページとがきっぱり離れた。渦中の人物が目を丸くする中、書物は跳ね飛ばされて宙を舞い、放物線を描いて落下しつつあった。されど少年がそれを許さなかった。
スカーセ、沈黙せよ!
 少年が手を振り上げるや、掬い上げられるように書は再び空中へと浮き上がり、開かれたページを晒した。書き綴られ、蓄積された悪意の表出を。かと思えば、それら古紙の一枚一枚が音もなく捲れ、ぴったりと吸い付き、一冊の閉じた本になった。
「それで」 底冷えのするような声。 「まず何か言うことは無いか?」
 水平に伸ばされた少年の手に、書物が静かに落下した。

  * * *

「……その、いくら本を手放させるためとはいっても、あんなに力一杯ぶつことはなかったと思わないかい」
 右手首を庇うように抑えながら、マンフレートはやや控えめな声量で言った。掌の痛みは消え失せていたが、腕には痺れるような衝撃がまだ残っていた。
「ほう」
 少年の声には迫るようなものがあった。 「そうか。あんたは第一声にそれを選ぶのか」
「ああ、いや、もちろん先に言うべきことはあるとも。助けてくれて有難う、……でも本からの痛みと同程度には、君の一撃も痛かったというか、あれは要するに『解呪』だろう? 君自身の手に付呪して、私に打ち込んだわけだ」
「その通り」
「で、その過程は本当に必要だったのかい? 君のことだからわざわざ接触しなくたって、視線を合わせるなり指差すなりすれば、遠距離から魔法を掛けられたのではないかと思うのだけれど」
 普段の余裕めかした態度は鳴りを潜め、どこか気後れしたような素振りを見せながら彼は尋ねる。
「そうだな。無論、直接触れたほうが精度は格段に上がるが、必要不可欠というわけではない」
「それはつまり、君がただ単に私を殴りたかっただけだという解釈で良いのかな?」
「あんたは自分自身が、他人から殴られても不思議はない人間だと自覚しているのか、ブラザー・アルノー?」
 青年は目を伏せた。他人――日頃接する人物全てからそう思われている自覚は無かったが、少年に対しては明らかに引け目を感じていたのだ。
「まあ良い。わざわざ聞かなくとも概ね予想はついている。今回の事件に至った経緯もな。大方、他の本と比べて埃や塵が一切付着していないとか、本が接していた棚板にも汚れが見当たらないとかで、興味を惹かれたといったところだろう」
「概ね……君の言う通りかな、概ね」
「そしてページを捲ったところ、指が軽く痛んだか何かでさらに好奇心が喚起され、ならばと掌全体を押し付けた結果、酷い苦痛を感じた上に手は離れなくなったと。良いかブラザー、わたしは、常識の範囲で、と言ったんだぞ」
 少年の語気が一層強くなった。表情こそ平静ではあるものの、碧眼は強い非難の色を帯び、青年の顔を睨め付けている。彼もまた潔癖症ではないが(潔癖症を患う者が古本を買い漁るはずもない)、自らのコレクションを好奇心から台無しにしたかもしれない者に、手心を加えてやろうという気は毛頭無かった。
「あんたは確かに興味本位で頓狂なことをしでかす男だが、それでも注意さえすれば賢明に物事を判断してくれると、最低限の信頼は置いていたから許可したんだ。その結果がこれだ。今度同じようなことをしたら、永久にわたしの書庫を出入り禁止にしてやる。文庫本の一冊だって貸してやるものか」
「悪かったよ、本当に悪かった、ブラザー・ユリウス。君を怒らせようとは少しも思わなかったのだよ。ほんのちょっとした――」
 射るような視線に促される形で、謝罪の意を示しつつ、続けて青年は何かを言いかけた。が、途端に少年の全身から、今までになく有無を言わさぬ威圧感が発されたので、中途で切り上げざるを得なかった。
「――ちょっとした?」
「いや、済まない。そう、私はもう二度と君に対して、ちょっとした……冗談、とか、そういったことは言わない。そういう約束だ」
「大変結構だ。わたしもできることなら、二度とあんたを相手に殴り合いなどしたくない」

 少年はそこで視線の険しさを緩め、つい先刻棚に押し込んだばかりの本をちらりと見た。マンフレートも釣られてそちらに目を向け、背表紙に記された「潔癖」の文字を再確認する。
「ちなみに君は、あれについて随分研究したのかい? 私のように痛い目に遭ったかはともかく、他に変わった性質があるかどうか、効果範囲がどれほどまで広がるのか、とか」
「研究、――わたしもまさか、あんたのように大胆不敵な行動に出たことはないからな、完全に性質を理解しているとは言えない。書物に接した『不潔な』ものを除去しようとする、程度だ。それで起こりうる事態の予想ぐらいはつくが。そう、例えばあんたにとって大変不都合な事態だ」
「何だって?」
 書物の知識においては間違いなく自分を上回る相手の言葉に、青年は少々ぎょっとした。が、あくまで表情には出さぬよう、黙って話の続きを待った。
「ブラザー・アルノー、『皮膚常在菌』と言われてすぐ何のことだか解るか」
「解る」 形の良い眉が、怪訝さにほんの少しばかり寄せられる。 「けれど、それが一体……」
「良いか、あんたがページの上に手をついたことにより、本の持つ魔術はあんたの掌に働いた。厳密に言えば、あんたの掌が有していた『清潔でない』もの全てに。あの瞬間、あんたの右掌は世界で一番衛生的な掌だったろう。徹底的に殺菌され、消毒された、グランド・ハイアット・ベルリンの調理場や、あるいは大学病院チャリテの手術室に出しても何ら恥ずかしくない手だ。そして、」
 淡々とした少年の語り口を聞くうちに、青年にも彼の言わんとすることが解り始めていた。皮膚常在菌とは、その名の通り人間の皮膚に存在する菌類のことだ。どれほど健康であっても、人体では多種多様の菌が常時活動している。それらは決して悪事をなすものではなく、例えば皮膚であれば他の悪玉菌から細胞を守ったり、細菌の増殖を抑えたり、pHを弱酸性に保ったりといった働きを持っているのだ。――それらを含めたあらゆる菌が、根こそぎ除去されてしまったとなると、一体何が起こるのか?
「――そして、寒く乾いた冬のライプツィヒにおいては、肌荒れと細菌性感染症に対してあまりにも無力な手となるだろう。さて、喫食の支度ができた。一旦居間に戻ってくれ。手洗いの手間が省けたな、ブラザー・アルノー」

go page top

inserted by FC2 system