大体、家にクモが住み着くと縁起が良いなんてのは、日本に限った話なんである。

赤くない縁の糸 -Here Comes the Spider-mage-

 そこかしこにクモの巣が張られた門構えの前で、あたしは内心考えていた。行く手にはいかにも重そうな、年季の入った鉄の扉があり、その向こうにはこれまた古そうな洋館――ここはドイツだから戸建ての家はだいたいみんな洋館なんだけど――が建っている。だいぶ変色した白い壁と、きつい傾斜のついた黒い屋根。装飾的な縁取りのされた四角い窓は、内側からぴったりカーテンが閉められていて、中の様子は全く判らない。そして、建物の柱といい軒といい、庭の生垣や鉄柵の間といい、とにかくあらゆる場所に細い網が掛けられ、ホラー映画なんかによくある幽霊屋敷そのものの雰囲気を醸し出しているのだった。これがハロウィンなら飾り付けとしてぴったりと言えるけれども、ドイツじゃハロウィンなんて「アメリカから来た、若者以外にはそんなに馴染みのないイベント」程度のものだし、第一今はクリスマスさえとっくに終わった冬の最中だ。メリットの一つもありはしない。
 あたしは静かに息を吐き、コートのポケットから小さなメモを取り出した。やたら達筆な、達筆すぎて日本人には解読難易度が高すぎるぐらいのタッチで記されているのは、ひとつながりの住所番地だ。ノルトライン=ヴェストファーレン州デュッセルドルフ、ホルトハウゼン・アム・ファルダー、云々、要するにあたしが今いる場所である。解読に失敗していなければ。かつ、同行してくれたデュッセルドルフ支部の事務員さんが道を間違えていなければ。

  * * *

 どうしてあたしがライプツィヒを離れ、遥々ドイツの反対側に位置するデュッセルドルフに来たかといえば、最初こそ単に冬休みの小旅行のつもりだったりする。デュッセルドルフはドイツで最も日本人が多い都市で、6000人近くが在住しているという、ヨーロッパには珍しい街だ。日系のスーパーマーケットやレストラン、書店などが立ち並び、看板や値札なんかにも日本語が書かれていたりする。
 もちろんライプツィヒにもアジアンマーケットぐらいあるし、普段ちょっとお米やラーメンなんかが食べたいとなったとき、そんなに困ることはないけれど、やっぱりたまには本格的な「日本の食事」をしたい、そのための準備を整えたいという気にもなる。ちょうど正月も近いことだし、休みの始めに一泊二日ほどして、思う存分買い出しをしよう、と考えたのだ。そこまでは良かった。

「おや、デュッセルドルフへ行くのかい? それは丁度良かった、リコ。旅行のついでで問題ないから、ちょっとしたお使いを頼まれてくれるかな」
 ところが、この危険動植物管理課で、いや世界魔術師協会ライプツィヒ支部で一番の危険動植物、1世紀前の24歳、「人の不幸は蜜の味シャーデンフロイデ」概念が着飾って歩いているような男――マンフレート・アルノーが、何を考えたかあたしに声を掛けてきた。それが全ての間違いだった。
「正直頼まれてやる気は全くないんだけど」
 執務室で休暇の予定なんか口に出すんじゃなかったと後悔しきりのあたしに、奴はいつもと変わらず繕いに繕った薄笑いを向けて、他人の事情など知ったことじゃないとばかりに続けた。
「薄情なことを言わないでくれたまえよ、どのみち中心市街は一通り見て回るのだろう? ほんの少し足を伸ばして、デュッセルドルフ支部のソーサラーにひとつ届け物をして欲しいだけさ」
「届け物?」
「そう。毎年クリスマスプレゼントを贈るのだけれどね、なにしろ今年はイルミネーションの計画と設置で忙しいものだから、なかなかあちらまで出向く機会がなくて。君が行くなら好都合だ、私に代わって渡して貰えるかな」
「あたしが行かなくたって、宅配便で送ればいいんじゃない、そんなの」
 そういうプレゼントって、人づてに贈っていいもんなのか。それならそれでもっと簡単な方法があるんじゃないか――とあたしは思い、もっともな疑問を口に出す。贈り物一つにあれこれとマナーが付いて回る日本でさえ、今日びお中元もお歳暮も郵送だ。これで相手が自分直属の上司でマスター・ウィザードとかなら別だけど、東京・大阪間と同じぐらい離れた支部のソーサラーになら構わないんじゃないだろうか。
「いや、そういう訳には行かないのだよ。というのも、私の贈り物はいわゆる郵便禁制品でね。断じて違法なものではないのだが、送り状に正直なところを記せば窓口で差し止められる類の品だ。直接本人に渡すより他はないのだよ」
「そんなもんクリスマスに贈る? 普通?」
 もっともな疑問に対する答えがあまりに非常識だったので、あたしは思わず訊き返した。が、よく考えなくてもこいつがプレゼントを贈るような相手という時点で、どう考えても普通の魔法使いでは有り得ない(ブラザー・ライムントもある意味では普通の魔法使いじゃない)。常識を持ち出すほうが間違っていたと言うしかない。
「私だって本来こうした場合には、少々の服飾品だとか化粧品、或いはワインの一本も包んで、それにカードを一枚添えて、ぐらいのものを選択するとも。だが何しろ相手が普通ではないものだから仕方がない。それに彼、基本的に郵便ポストを確認しないからね」
「そんな普通じゃない相手のところにあたしを行かせると? 赤の他人なあたしを? というか、行けばいいじゃん今からでも直接。デュッセルドルフなんて飛行機なら一時間でしょ」
 言ってから、あたしはなるべく意地の悪そうな声を作って付け加えた。 「ああ、あんた飛行機乗れなかったっけ」
「私は飛行機には乗らないよ。乗る気はない。となれば特急列車や高速道路アウトバーンでも5時間掛かる。それにこの冬季休暇は、おおむね全部を黒海沿岸の国々で過ごす予定になっているものでね。デュッセルドルフは逆方向だな」
「こっかい……えんがん……っていうと、」
 飛行機に乗「れ」ないのではなく乗「ら」ないのだと、無駄に強調する高所恐怖症の男を尻目に、あたしは地理の授業を必死に思い返す。別に思い返す必要は無いんだけど、こいつの話が理解できないのも癪だ。夏のスペインといい、今回といい、ほいほい長期の海外旅行になんか出かけやがって。このマーニお坊ちゃんめ。
「トルコとか、ウクライナとか、あのへん……」
「その通り。君には地理学的教養が一通りあるようじゃあないか、リコ。今回私が滞在するのはブルガリアとルーマニアだけれどね。あの辺りは料理もワインも美味しいし、何よりドイツでは見られないハナダカクサリヘビが、」
「はいはいヘビのことは解ったから」
 あたしが真面目に聞いていないのと同じく、こいつもあたしの話を聞く気はない。ただ自分が喋って、知識をひけらかして、勝手に得意になって、それで満足なんだろう。自分の言葉に自分でうっとりしているらしい自称好事家は、意味もなく執務机の周りを行ったり来たりし、そのたび丈の長い上着(フロックコートって奴だ)の裾が揺れ、鋲の打たれたロングブーツの底が硬い音を立てる。
「なにしろヨーロッパに生息するクサリヘビ科の中で、最も毒性が強いとされる種だからね、ハナダカクサリヘビは。それから余裕があればノハラクサリヘビも探したいところだ」
「だからヘビの話はいいってば」
「もっともブルガリアでは、1934年を最後に目撃されていないようだけれど、だからこそ探索のし甲斐があるというものじゃあないか。絶滅危惧種ではあるが、まだ絶滅はしていない。となれば、一人の爬虫類愛好家として当然――」
「ヘビはもういいって言ってんじゃんこのヘビ男! あんたは何か、小さい頃に特殊なヘビに噛まれてそんな変態になったとか何か!?」
 いつまで経っても話が終わらないので、あたしはいらいらして叫んだが、これは二重の意味で不適切な発言だったとすぐに気がついた。まず何より全世界の善良なヘビ愛好家の皆さんに対して失礼だ。それに、この理屈でいくとスパイダーマンが変態的なクモ愛好家だということになってしまう。
「……とにかく、あたしはそんな適当な男から便利に使われるつもりは全くないから。自分が面倒だとか金がかかるからとかいう理由で人を当てにするとか最低だし。あんたが飛行機代を出してくれるってんならともかく」

 その日三度目の大失言をしでかしてしまったと、あたしが気付いたのは数秒後のことだった。本当に勢い任せ、「出せるもんなら出してみろ」という感覚で言い放った台詞に、マーニは眉一つ動かさず、
「もちろん構わないよ? ライプツィヒ・ハレ空港からデュッセルドルフ空港まで、という経路だね。なんとかいう航空会社の直行便があったな……いや、いまいち良い評判は聞かないのだけれどね。何と言うのだっけ、所謂――『LCC』?」
 と答えてのけたのだ。
「え? ……は?」
「私個人としては、他の魔術師たちが出張する時と同様、素直にルフトハンザの利用をお勧めするよ。ミュンヘンで乗り継ぎに一時間ほど取ることを除けば、きっとそのほうが快適だろう。どの時間帯に出発するかでも変わるけれど、片道で概ね3時間かな?」  こいつが何を言っているのか、即座に理解しかねてあたしは黙る。こんなにもあっさりと、「飛行機代なら出すから」なんて言える個人はそんなにいないだろう。旅行の計画を立てるにあたって、あたしも交通費を調べたけど、空路は一番安い便でも片道60ユーロ、つまり約8000円は掛かるのだ。帰りの便に至っては、ハイシーズンのせいもあってその倍ぐらいする。だから飛行機を使うのはさっさと諦めたところだった。
「あんた正気?」
「正気だとも。個人の都合で大事な所用を頼むのだから、交通費ぐらい出すのは当たり前だろう。――列車のチケットをもう取ってしまったというのなら、そちらを私が支払うというので構わないけれど」
「いや、切符はまだ取ってないというか、今日取りに行くつもりだった、けど」
 あたしは混乱した。こいつに良いように使われるのは嫌だ。絶対に嫌だ。自分が提案しておいてなんだけど、「金さえ払えばいいんだろ」みたいな反応が本当に嫌だ。でも、往復にかかるお金が丸ごと浮くのはあまりにも美味しい。なんたって電車で行くにしても往復60ユーロはするし、それがチャラになる、どころか飛行機が使える。それだけ観光の時間も増える。具体的には6時間ぐらい。
「……渡す相手は、デュッセルドルフ支部の人なわけね?」
「そうだよ。当日は支部に居てもらうよう、こちらから連絡をしておくから。ちゃんと時間も指定しよう。君はただ、空港から市街地へ移動したついで、生物管理部に少々顔を出し、当該の人物を呼んで、私からの荷物を手渡してくれればいい。くれぐれも直接会って、反応を見てくれるよう頼むよ。誰かに預けるのではなく、ね」
 額縁の中で斜め45度に固定された、19世紀ヨーロッパの貴族みたいな澄まし顔で、マーニはあたしに軽々しく告げた。どうしてこの場にブラザー・ライムントがいないのかと、あたしは心底悔しがった。ブラザーならこの話に乗ってもいいのかどうか、正しい判断を下してくれただろう。いや、それ以前に話を持ちかけた時点で、「同僚を使いっ走りにするのはやめなさい」とかなんとか、良心と常識に従って止めてくれたに違いないのに。
「じゃあ、まあ、そのくらいなら別にやってあげないこともないというか……ねえ、まさかその荷物、生き物とかじゃないよね。それも毒とかのある、」
「断じて違法なものではない、と言ったろう。私は遵法精神に満ちた善良な蒐集家だよ、――ともあれ、協力に心から感謝しよう、フロイライン。希望する到着時刻を教えてくれたなら、航空券の手配をするから」
「あたしのこと『御嬢さん(フロイライン)』なんて呼ぶなら行ってやらない」
 いつまで経っても人を馬鹿にしたような敬称ばかり使う、時代錯誤な男の顔をじろりと睨めば、形式上申し訳なさを装ったような薄笑いが返ってくる。
「これは失敬、シスター・リコ。どうか機嫌を直してくれたまえ。荷物は前日に渡すよ。いや、君は宿舎に住んでいるのだから、当日の朝にでもいいかな」
 こっちの都合を考えているようで一切考えていない、これが本当に人に物を頼む態度か。そりゃあ確かにあたしは職員用の寮に、つまりライプツィヒ支部の敷地内に住んでいるわけで、職場まで徒歩5分には違いないんだけど。

「それと一つだけ。先程君は私のことを、蛇男、だなんて呼んだけれど」
「いろんな意味で間違ってないと思うよ」
 あたしは吐き捨てる。 「人間に対して興味がないところとか、冷血で人畜有害なところとか」
「一介の爬虫類愛好家である私のことを悪く言うのは構わないが、ヘビそのものを悪く言うのはやめたまえ、リコ。――同様に、くれぐれもの前で蜘蛛の悪口を言ってはいけないよ。君が悪役ヴィランを自称できるぐらい強ければ話は別だけれど」
 てんで動じた様子もないマーニは、どこか面白がるような、まるであたしが将来出会う災難を心待ちにしているような、心の底から腹の立ってくる目をしてこう続けた。
「ゆめゆめ忘れないことだね。この私が蛇男だというなら、間違いない、彼こそは蜘蛛男スパイダーマンと呼ぶに相応しい人物なのだから」


 不穏すぎる警告を受けてから数週間、無事(とは言い難いけれど一応警察沙汰や流血沙汰などは免れながら)クリスマス休暇に突入したあたしは、12月27日の朝に飛行機でライプツィヒを発ち、午前のうちには世界魔術師協会デュッセルドルフ支部に到着した。「最近になって新設された私立大学のキャンパス」みたいな、すっきりとして現代的な建物で、どこに注目しても年季が入っているライプツィヒ支部とは全く違っていた。
 いや、建物のことは別にいい。問題は、あたしが指定された時刻ぴったりに事務室へ行って、用件を伝えつつ目的の人物を呼び出そうとしたら、その本人が不在だったことだ。
「いないって、あの、……もし会議とかなんかが長引いてるんだったら、あたし待ちますよ」
「いえ、そもそも支部に出ていらしてないんです。クリスマス前からずっと」
「クリスマス前からずっと!?」
 あたしは思わず叫んだ。 「その、常勤の職員さんだって聞きましたけど?」
「そのはずなんですけどねえ……まあ、別に今に始まったことじゃないんですが。お約束はいつごろなさったので?」
「えっと、あたしが休暇に入る前に。今月の初めごろだったと思います」
 わざわざライプツィヒから人が会いにきたというのに、こんなことってあるだろうか。呆然とするあたしに、「レオン・シュティッヒLeon Stich」という名札を下げた事務員さんは溜息をつきながら首を振り、
「ご用件の重要性にもよると思いますけど、恐らく忘れられているか何か……そういったことでしょうね。宜しければ伝言を承りましょうか?」
 と言ってくる。「今に始まったことじゃない」という言葉のとおり、もうすっかり慣れっこのような口ぶりだ。が、そんなことではあたしが困る。ただちょっと会って話がしたい、とかいう案件じゃないのだ。
「伝言とかじゃなくて、届け物を頼まれてるんです。本人に直接渡してくれって。だから対面できなきゃいけないんですけど、なんとかして呼び出してもらえませんか」
「いやあ、大分と連絡もつかないもんで……」
「自宅だけじゃなくて、携帯とかSNSもですか?」
 あたしは食い下がった。せっかく飛行機によって時間短縮ができたのに、こんなところで余計な手間を取られている場合じゃない。今日びどんな古典的魔術師にだって、何かしら予備の連絡先ぐらいあるだろう。あの似非19世紀人だって個人でスマホを持っているぐらいなのに(持ち歩いているとは言わないが)。大体、そんなに長く無断欠勤が続くようなら、職場としては何らかの実力行使に出るべきなんじゃないか。老人の孤独死とか若者の失踪とかは、そういう所から明るみに出るんじゃなかったのか。
 ふと出発前のことを思い出した。支部で待ち合わせて手渡す約束だというのに、マーニは見るからに支部の住所でない何かの番地を、あたしに書いてよこしてきたのだった。もしかすると、あれは相手が不在であることを予期してのものだったんだろうか。だとすると奴は最初から、相当な面倒事だと知ってあたしに押し付けたということにならないか。

 あたしたちが押し問答をしていることには、奥で仕事に励んでいた他の人たちも気付いていたのだろう。やがて、もう少し年配の女性が一人、こちらに歩いてきたかと思うと、事務員さんの肩をぽんと叩いた。
「彼女にとっては何か大切なことなのでしょう。それなら二人が顔を合わせられるよう、こちらも努力すべきなんじゃないかしら、ブラザー・レオン?」
「う、ええと、はい。といってもですね、本当に連絡が取れないことには」
「呼び出すのなんてそもそも無理よ。一度篭ったらてこでも動きませんからね、あの人は。――逆に言えば、よそへ逃げ出す心配もないということよ。さて、シスター……なんとおっしゃったかしら」
「リコ・サガミです。ライプツィヒ支部の」 希望の光が差すのを感じて、あたしは答える。
「シスター・リコね。寒い中ここまで大変だったでしょう。立ち往生させてごめんなさいね」
「あ、いえ空路ですし、空港から支部までほぼバスなので、特に大変ではなかったんですけど」
 ドイツは基本、建物や乗り物の中にいる限りは暖かさが保障されてるし(外気はたしか最高気温が2℃とかだけど)、東京にいたときよりも、凍えるような寒さを味わう機会は意外と少なかったりする。あくまで室内にいる限りは、だが。
「そう。残念だけれど、ここからはもう少し大変な思いをしなくちゃならないわ。あなたがお届け物をするべき人は、この支部からそれなりに離れた場所に住んでいるの。徒歩とバスを合わせて30分ぐらいのところに」
 あたしは彼女が何を言いたいのか理解した。直接行けってことだ。一瞬、あんな男から押し付けられた頼みなんて無理に達成する必要もないし、「どうやっても会えなかったから」と放棄しようかと思った――けれど思いとどまった。ふつうの宅配便で送れない荷物の中には、違法でなくても、生き物でなくても、放置すると悪いことになる存在はあるものだ。無関係の他人に迷惑をかけるのはよろしくない。それに、「こっちが約束を破った」という事実を成立させてしまうのもまずい。人は正直に、誠実に生きなきゃならない。あいつとは違って。

「……解りました、そっちに向かってみます。住所なら知ってるんで」
「あら、本当に? それなら開示手続きを取る必要はないわね。ブラザー・レオン、シスター・リコに付いて行ってあげなさい」
 あたしが出した答えに、年配の女性はにこやかに頷いてから、部下なのだろう若い事務員さんに命じた。とたん、
「ええっ、僕が行くんですか!? あの人のうちまで!?」
 と情けない声が上がる。
「そうよ、今ここで手の空いている人はあなたぐらいしか居ないもの。あなた、まさか彼女に一人で行かせるつもりじゃあないでしょうね。若い女の子を、勝手のわからない土地で、しかも初対面の男性の家に」
「いや、そういう訳じゃなくて、誰かが同行することに異論は無いんですけど、ただその……どうしても僕が行かなきゃ駄目ですかねえ……」
 ブラザー・レオン――若い男の事務員さんはまだゴネていたが、女性の口調がいよいよ有無を言わさぬものになったので、ついに小さな声で「はい」とだけ答えた。これほど弱々しい肯定の言葉は久しぶりに聞いた気がする。例えばあたしがブラザー・ライムントの休暇中、マーニと二人っきりで植物園の手入れをするよう言われたとしても、ここまで嫌そうな「はいヤー」にはならないはずだ。
「よろしい。何かあったらすぐにこちらへ連絡してちょうだい、然るべき措置を講じますから。もっとも彼のことだから、逆に何もしないせいで困るかもしれませんが」
 こうして、微妙に勇気付けられるような、却って不安になるような台詞と共に、あたしとブラザー・レオンはあっさり支部を送り出されてしまった。最寄りのバス停まで歩いていく間、ブラザーはずっと「嫌だ」とか「行きたくない」とか「顔を合わせたくない」なんて呟き続けていたが、さすがに一度車に乗り込んでしまえば、観念して黙るより仕方なかったようだ。あたしたちを乗せた市バスは大通りを進み、総合病院や大学のキャンパスを過ぎ、どうやら墓場らしい緑地のそばを走り抜け、5分遅れで目的の停留所に到着した。

  * * *

 メモで再度住所を確認したあたしは、恐れをなす事務員さんのことは置いといて、まず玄関チャイムを探した。幸い、すぐに銀色のボタンとスピーカーが、片方の門柱に備え付けられているのが見つかった。押すと、インターホンにはありがちな呼び出し音が二回繰り返され――けれど通話口から家主の声はしなかった。
「ほら、やっぱり留守なんですよ、シスター・リコ。もうそのお届けものだか何だか、ポストに突っ込んで帰りましょうよお」
 後ろからは大の大人とは思えないほど弱々しい声が聞こえてくる。でも、さっさと事を済ませて帰りたいのはあたしだって同じだ。本来あたしはデュッセルドルフに観光と買い物に来たのであって、変人の知り合いに遅いクリスマスプレゼントを届けるためじゃない。
「そうしたいのは山々なんですけど、放置して帰って何かあったらあたしが困るんです」
「そんなに大事な届け物なんですか、いや届け物なんて大体みんな大事なものでしょうけど、中身は何なんですか?」
「何だか解らないから困ってるんですよ」
 とはいえ、このままじゃ埒が明かない。付き添いのはずの事務員さんは役に立たないし、次にチャイムを鳴らして返事がなければ、相手は外出中か熟睡中か死んでいるということにして、支部に「然るべき措置」を求めるべく電話をかけようと決めた、その時だった。

 一度だって手を触れていないはずの、門に掛かった錠前が重たい音を立てて開き、鎖がじゃらりと地面に垂れ下がった。それに続いて閂もひとりでに動き、金属同士が擦れる響きと共に外れてしまった。
 あたしたち二人は目を見開き、黙って顔を見合わせた。現代には電気式の錠前ぐらい沢山あるけれど、目の前で開いたのはどれを取ってもアナログな、電子機器の気配なんて全くしないものばかりだ。だとすると、魔法か――家主は一応あたしたちの存在に気付いているんだろうか? だとしたら何故返事をしないのか。まあ、あたしも自分一人で家にいる時に、面倒がってチャイムを無視したことは何度かあるので、人のことを言えた立場ではないんだけれども。
 反応に困ったあたしたちが立ち尽くしていると、門の奥にある玄関の扉が僅かに開いた。とたん、事務員さんは引き攣った声を上げ、門柱の陰に隠れてしまった。一体何をそこまで怖がることがあるのか。アメリカじゃないんだし、いきなり撃たれるってこともないだろうに。いや、たとえアメリカでも、まだ敷地に足を踏み入れてもいない相手をいきなり撃つのは普通に犯罪だろう。
 あたしは一応警戒しながら、扉の奥から何が出てくるのかを見定めようとした。ところが想像していたようなもの、つまり家主の魔術師は姿を現さなかった。何かが動き、近付いてくるような様子はあるけれど、はっきりと目に入らない。それでもようやく、距離が数メートルまで近付いたところで、あたしはやっと「それ」の正体に気が付いた。丸みを帯びた褐色の胴、ふさふさとした毛を生やした8本の脚、頭には一対の太い牙。

「クモだ」
 咄嗟に大きな括りが口をついて出た。 「なんだっけ、ええと、似たのがうちにもいる。確か、ピンク……」
「種類はどうでもいいじゃないですか、クモはクモですよ、クモ!」
 事務員さんの情けない叫び声は無視する。いちいち耳を傾けてる場合じゃない。そうしている間にも、クモはゆったりと脚を蠢かせながら、あたしの足元へと近付いてきていた。かなり大きい。ライプツィヒ支部の危険動植物管理課にいるのはコバルトブルー・タランチュラで、それだってあたしの握りこぶしぐらいのサイズはあるけど、これはもっと大型だ。大人の手のひらよりもまだ大きいんじゃないだろうか。これほど巨大なクモは世界中でも珍しい。だからあたしの記憶にも残っているわけだ。そう、
「ピンク――ゴライアス・ピンクフット・バードイーター。そう、それ!」
 脚の先だけが桃色だからピンクフット。これはもちろん英語で、ドイツ語ではベネズエラ・リーゼンフォーゲルシュピンネという――その名のとおり中南米で発見され、現代の先進国ではペットとしての人気も高いとかなんとか。
「あの、あんまり近寄らないほうがいいんじゃないですかそれ、毒とかあったりしません?」
「……いや、餌になるような小動物にはともかく、人間にとってはそれほど強い毒じゃなかったはず。まあ、牙が大きいから、噛まれたらそれなりの怪我はするっていうけど――」
 あたしは足元のクモをまじまじと見た。普通、クモが自分から人間に寄ってくるなんてことはないはずだ。人間はクモの獲物じゃないし、こちらがよほど脅威にならない限り、攻撃だってしてこない。
 だとすると、これは使い魔か。主人に代わって来客対応、なんて見事なもんだけど、これだけで逃げ帰る客も一定数いるんじゃないかと心配になる。今も門柱に隠れっぱなしの事務員さんとか。それとも案外、面倒な相手を早々に逃げ帰らせるためだったりするんだろうか?
 真実はどうあれ、少なくともあたしは彼らにとって「面倒な相手」ではなかったらしい。クモはとうとう、あたしが履いたブーツのすぐ傍までにじり寄り、前脚を伸ばして爪先を小突いた。ちょうど人間が知り合いの肩を叩いて、「ねえねえ」と呼びかけるときみたいに。
「何?」 あたしは下を向いたまま訊いた。 「あたし、入ったほうがいい? 帰ったほうがいい?」
 普通のクモに人間の言葉が通じるとは思わないけど、使い魔なら通じたって不思議はない。あたしがじっと見ていると、クモはくるりと向きを変え、行く手にある洋館へと(人間の基準で)数歩進み出、こちらの出方を伺うように足を止めた。
「――入ったほうがいいんだ?」
 クモはドイツ語を喋らない。もちろん日本語も英語も喋らない。だけど何故だか伝わる気がした。

 謎の巨大クモと意思疎通を始めつつあるあたしに、事務員さんは恐怖の眼差しを向けっぱなしだった。まあ気持ちは解る。解るけれども、こうなった以上は入ってもらうほかない。
「ほら、なんか良いみたいですから、ブラザーも一緒に」
 手招きしてみても、彼は断固として首を縦に振らなかった。付き添いとは一体何だったのか。そりゃあ、人気の少ない道を一緒に来てくれるだけでも有難くはあるんだけど、ここまで来て尻込みされても困る。あたしは初対面の男性の家に単独でお邪魔しなくちゃならなくなるのだ。
「申し訳ないんですけどシスター・リコ、僕はその……その、無理です」
「いや無理とかこっちが無理です。というか、ここで駄目なら一体何のために付いてきたんですかブラザー」
 正論をぶつけてみても、彼は震え声に加えて涙目で、おまけに明らかなへっぴり腰のまま、反論の悲鳴を上げるばかり。
「僕は最初から行きたくないって言ってたじゃないですか! こんなクモだらけのところに入っていけなんて、そんなの拷問です! 人権侵害です!」
「だからってあたし一人で入っていけってのも相当じゃありません? あの人も言ってましたけど、普通女の子単独で送り込むところじゃないですよねここ」
「そんなこと言われたって、――あっ、そうだ、じゃあこうしましょう。これ持っててください」
 あたしがじりじりし始めたところで、やっと前向きな提案をする気になったのか、彼は肩掛けカバンに手を突っ込み、ごそごそやり始めた。内ポケットの中でも探っているのかもしれない。しばらくして引き抜かれた手には、円盤みたいな形の何かが乗っていた。ちょうど拳に握り込める程度の大きさで、表面にボタンが付いている。
「……防犯ブザー?」
「大体そんなとこです。違いはただ音が鳴るだけじゃなくて、対になってるもう片方……僕が持ってるんですけどね、それに直接連絡が行くことなんですが。もし何かあったら押してくれれば、僕がすぐ支部のほうに連絡して助けを呼びますんで」
 あたしは失望するほかなかった。

 いや、人には道徳とか常識とかを考える余裕もないほど怖いもの(ここではクモ)がある、というのは十分解っているし、それを無理やりにでも乗り越えてあたしを保護しろなんて言う気は全くない。多分この人を連れ込んだところで、あたし単体のときより安全性が高まることもないだろう。こうして門前でぐだぐだ騒いでいながら、家主が出てくる気配は一向に見られないし、クモも半端な位置で止まったままだ。こうなったら行くしかない。防犯ブザー(仮)があるだけまだマシと思おう。
「解りました、あたし行ってきます。どうせ本当に渡すもの渡すだけだし。勝手に帰ったりしないでくださいよ」
「あ、それは大丈夫です。一応ちゃんとここに居ますので」
 なんで「一応フォアラウフィヒ」って付けた。
「本当、クモさえ平気なら問題ないですよきっと、多分何も起こりませんって。クモさえ平気なら」
 事務員さんは完全に見送る構えだ。あたしはとうとう覚悟を決め、門の内側へと一歩を踏み出した――人を見たら泥棒と思うわけではないけれど、用心しておくに越したことはない。クモの巣の真ん中へわざわざ踏み込んでいこうというのだから。

 扉の隙間を押し広げてみれば、玄関はモノトーンで統一された小奇麗なものだった。見た目の古めかしさに比べれば、随分と現代風だ。といっても、東京にある新築マンションのショールームみたいな「これが最新鋭です」という感じもない。「元あった洋館をリノベした時の最新式」って所。
 言うまでもなく、「小奇麗」というのはそこかしこに張ったクモの巣を無視すればの話だ。クモ恐怖症の人間にとっては確かにこんな所、踏み込むぐらいなら死んだほうがましなのかもしれない。案内係まで本物のクモと来ている。悪夢のような世界だ。
 ゆったりとしたタランチュラの歩みについて、あたしが静かに廊下を進むにつれ、壁に取り付けられたセンサー式の間接照明が一つずつ灯ってゆく。柔らかなオレンジの光に照らし出されるのは、例えば黒い額に入った小さな絵――酒瓶から剥がしてきたラベルらしい。「Spider Bite Liquor」という文字に、名前の通り黒いクモのイラストが添えられている。胴体に赤い砂時計のような模様が入っている、ということはクロゴケグモかセアカゴケグモだ。
「なんというか、ぱっと見で判るようになってるんだなあ、あたしも」
 日本にいた頃から別にクモ嫌いではないけれど、興味を持って観察することもなかったあたしが、ここまで詳しくなるなんて。全くの不本意とはいえ、危険動植物管理課なんて部署に半年も勤めた成果ってものだろう。
 クモは廊下をひたすら直進し、脇にあるいくつもの部屋には見向きもしなかった。そうして突き当りまで来ると、厚そうな木の扉に這い登り、ドアノッカーのそばでぴたりと動きを止める。この先に主人がいるということか。あたしは小脇に「届け物」を抱え、念のため片手に防犯ブザーを握りしめると、金属の輪で一度、二度と戸を叩いた。
 返答なし。クモがなんだかじれったそうに見える。解ったよ、開けるよ。

 果たして――
 あたしは玄関の印象から、中もそれなりにモダンでシンプルな内装なのかと想像していたのに、実際のところはだいぶ違っていた。リビングルームらしき広々とした部屋は、深いブラウンを中心にまとめられた、クラシックな……というのか、アンティークというか、建物の外観通りのもの。こうなると廊下だけ現代風だったことへの疑問が嫌でも湧いてくるけれど、今は深く考えている場合じゃない。
 入って正面、明らかに高級そうな応接セットのうち、二人掛けのソファを堂々と占拠した人影がある。閉じた瞼と脱力した姿勢からして、やっぱり熟睡していたようだ。見た目だけなら大学生ぐらい、くすんだ金髪をオールバック(これはマーニみたいな「撫で付け髪」じゃなく、「オールバック」と呼んでいいタイプだと思う)にした男性だった。黒いピンストライプ・スーツの前を広げ、組んだ両脚は足置き台の上に投げ出し、片手はソファの座面にだらりと下ろしている。もう片手は胸の上、ついさっきまでは何かを持っていましたという形だけれど、今は空っぽだ。どうも読書中に寝落ちしたらしい――右の太腿に、開いた本が辛うじて引っ掛かっていた。
「えーっと……」
 戸口から数歩踏み込んだところで、あたしが声を掛けかねている間に、いつの間にかクモが足元を抜け、節足動物のペースでソファへと近付きつつあった。板張りの床をするすると進み、絨毯から足置き台へとよじ登り、男性の脚をつたって肩の上まで。猫なら一瞬で済ませる行程も、なにしろ巨大とはいえ虫なのでそれなりの時間が掛かる。やっと飼い主(だろう、どう考えても)の首筋まで到達したクモは、さっきあたしの爪先でそうしたように、二本の前脚を使って「呼び掛けた」。

「んん、――ン」
 思ったよりも低くない呻き声と共に、男性が身動ぎした。色艶のいい唇が半開きになり、あくびとも溜息ともつかないような息が長々と漏れる。眠たげな瞼の下から灰色の目が覗き、あたしに視線を合わせたようだった。
「あの、勝手に……というか、一応あなたのクモが案内はしてくれたんですけど、返事を待たずに入ったのはすみません」
 もしかしたら本人はとうに解っているのかもだけど、とりあえず弁解は先にしておくことにした。それから本来の目的を伝えようとしたものの、相手の動きのほうが早かった――クモが肩から座面に跳び下りるのと同時、両脚で弾みを付けて身体を起こし、言葉にならないあやふやな声を上げながら、大きく伸びをする。目の前に見知らぬ他人がいるなんてこと、全く気にしていないような態度だ。反らした喉がいやに白いのは、あんまり外に出ないせいかもしれない。
「ああ、……まあ、先ずはそこに掛けて待っていろ」
「はい?」
 彼は口を開いて早々、自分の向かいにあるシングルソファを手でぞんざいに示し、いくらか投げやりな調子で言った。
「支度が要るんだよ。寝起きには熱い茶を最低二杯飲まなければ、他人ひととまともに口を利く気になれないからな、わたくしは」
 あたしの怪訝な顔などまるで気にしていない様子で、席を立って奥に向かおうとする。そっちが台所なんだろう。何せ「熱い茶を飲まなければ」ということは、今からお湯を沸かして紅茶かコーヒーかを淹れるってことだろうし。
 つまり、あたしにとっては不都合なことに、これはもしかすると長くなる奴じゃないか。
「ちょっと、いや、別にあなたとお話をしたくて来たんじゃないんです、あたし。ただ荷物を受け取ってほしいだけで」
 と、寝起きにしてはしゃんとした背中に呼びかけてみるものの、結果は清々しいくらいのガン無視だった。マーニの知り合いだけあって、同レベルに人の話を聞かないタイプらしい。あたしはクモと二人きりで取り残され、無数の小さな眼と見つめ合うことになった。あまりにも気まずい。

 幸運だったのは、紅茶の正しい抽出時間とか湯の温度といったことにあんまり拘りが無いのか、ものの数分で彼が戻ってきたことだった。カップや砂糖壺、スプーンや覆いの掛かったポットを乗せた、陶器のトレイを片手にして。
 棒立ちのままのあたしに、無言の視線。よく見ると、灰色だと思った彼の瞳は、ほんのりとスミレ色がかっていた。人間の目って生まれつき紫色になるんだっけ? いや、それよりも、――「どうしてまだ突っ立ってるんだよ、茶が飲めないだろさっさと座れよ」って言いたいんだよね、この視線は?
 飛行機によって短縮された時間が、予定外続きでどんどん削られていく。まあ、それでも今のところは黒字だし、下手に機嫌を損ねて話がこじれるよりはましだ。そう思わないとやっていられない。あたしは腹を決め、左手に防犯ブザーをしっかり握り込んだまま、一人掛けの席に腰を下ろした。

  * * *

 白い湯気と一緒に、甘く暖かな香りが立ち上る。
 紅茶を注ぐポットにも、注がれる側の器にも、記されているのは交差した細い剣のマーク。ああ、あたしこれ知ってる――マイセンだ。カップとソーサーが一組で数万とか、そういう奴、でしょ? いけ好かない金持ちの知り合いは、いけ好かないかどうかはまだ解らないけど金持ちで何の不思議もない。
「あのですね、一応念のためなんですけど」
 手元から漂ってくる、ウイスキー・ボンボンを溶かしたミルクみたいな匂いを無視しようと務めながら、あたしは口を開く。
「本人に渡せって言われたもんですから、確認させてくださいね。あなたはブラザー……」
「ヴィルヘルム・バハマイヤー。生物管理部生体魔術学課のソーサラーだ」
 彼は答え、眉をちょっと上げて言い足した。 「『ウィリアム・クライスラー』のほうが通りは良いかね」
 今頃ブルガリアだかルーマニアだかで珍獣ハントに勤しんでいるだろう、危険動植物管理課のソーサラーに負けず劣らずのドヤ顔を見せてくれたところ悪いが、あたしにはどちらの名前も全く馴染みがなかった。これで日本のサラリーマンなら「お噂はかねがね」とか「ご活躍拝見しております」とか言っておくのかもしれないけれど、ヨーロッパの魔法使い相手にお世辞と知ったかぶりで対応するのがどれほど危険か、この半年で身に沁みて理解してしまった以上そうもいかない。
「いいえ、初耳です。……とにかく、あなたがブラザー・ヴィルヘルム・バハマイヤーならそれで良いんです」
 あたしがストレートに伝えた結果、ブラザーは開いた瞼をぴくりと動かし、いくらか心外だったような顔つきをした。が、
「なるほど、キミが21世紀に入ってこのかた、北米大陸へ洋行したことがないのは理解した。それなら無理もない」
 と独り言を呟き、勝手に納得しているようだった。アメリカやカナダへ行ったことがないのは事実なので、あたしも特に言い返さないことにした。きっと昔はあちらで活動していて、その頃の魔術名だか芸名だかが「ウィリアム・クライスラー」だったんだろう。ウィリアムってヴィルヘルムの英語読みだし。
 なんだか無駄に挑戦的というか、挑発的な笑みを取り戻したブラザー・ヴィルヘルムは、湯気の立つ紅茶を平然と飲み、トレイの上に載せられた皿から星型のクッキーやら、スパイスの掛かったレープクーヘンやらをつまんでは食べた。みんなドイツのクリスマス菓子として定番のものだ。要するに余り物なんだろう。堂々と客に出すあたり相当な面の皮だ。
「キミは飲まないのか?」
 と、白いカップを片手で示して彼は訊くけれど、あたしは控えめに笑いながらごまかした。外国で知り合った現地民に招待され、出されたものを食べたら睡眠薬が入っていて――みたいな話を出国前にさんざん聞かされた身としては、やっぱりどうしても慎重になるんである。

「――それで?」
「それでですね、あなたに荷物を預かってきてるんですよ。ライプツィヒ支部のマンフレート・アルノーから。今日の10時にデュッセルドルフ支部で待ち合わせて渡す予定だったんですけど、覚えてます?」
 あたしが肝心の約束について口に出すと、彼は大袈裟な調子で頭を振り、
「マンディか! マンフレート・アルノー、無論その名を忘れるほど私の記憶力は錆びついていない。蜘蛛の巣は張っているがね。となるとキミがその、マンディが寄越した使いというわけだな、うん――」
 そこで彼は芝居がかった動作をぴたりと止め、ソファの上で居直ると、真顔であたしの目を見た。
「キミ、現在の時刻について正確なところが判るか?」
「あなたの後ろに掛かってるなんか高そうな時計によれば」
 あたしは答えた。 「文字盤に張り付いてる推定ジョロウグモが若干邪魔ですけど、まあ午前11時15分ですね」
何たることファフルーフト!」
 カップをわざわざ丁寧に(ソーサーに置く音さえ聞こえなかった)テーブルへ下ろした後、やおら目を剥いて彼は叫んだ。「衣食足りて礼節を知る」とか「金持ち喧嘩せず」とは言うけれど、金持ちは何かひどく都合の悪いことがあっても「糞ったれシャイセ」とか「畜生めファダムト」とか言わないんだな、というのがあたしの感想だった。

 ここに至ってようやく、自宅でくつろいでいるにしてはかしこまった彼の格好――ジャケットを着てネクタイもきっちり締めているとか、襟のボタンホールに小さなピンを挿しているとか、左手首にも腕時計を着けっぱなしだとかの理由をあたしは察した。彼は約束を忘れてはいなかったんだろう。だから朝起きて、初対面の人と会うのにふさわしい格好をして居間に出てきた。待ち合わせまでにはまだ暫くあるので、本でも読んで時間を潰すことにした、ところが夢中になって時を忘れ、そのまま寝落ちした、と。
 ただ、忘れていなかったとしても結果的にフイにされたのは事実だ。そのへんは解ってもらいたいので、あたしは言葉を続ける。
「あたしは時間通りに支部へお邪魔したのに、あなたがずいぶん前から顔すら出してない、連絡も付かないって聞いて凄く困ったんですよ。結局こうして直に家まで行く羽目になるし。そこのところどう思います?」
「それは、」 ブラザーは落ち着き払った態度を取り直し、静かに答えた。
「大変すまないと思っている。昨晩はずいぶんと夜更かしをしてしまって、否、言い訳は止すとしよう。――それから時計の傍に営巣しているのはジョロウグモではなくオオジョロウグモなので、そこは了解しておくように」
「はあ」
 謝罪や言い訳よりクモの種類を訂正するあたり、筋金入りの面倒な愛好家であることが窺えた。語るブラザーの膝の上には、当然のように例のタランチュラが鎮座している。フィクションによくある「悪の大物」的な存在が膝にシャム猫乗せてるようなノリではあるが、大蜘蛛はさすがに前例がないんじゃなかろうか。
「まあそれは済んだこととして、預かった品というのは一体何だ?」
 こっちとしては勝手に済んだことにしないでほしいんだけれども、無理やりにでも済ませないことには話が終わらないので仕方ない。
「これです。あー、宅配便では送れない物だとしか」
 シンプルな柄物の紙に包まれた、ちょうど雑誌サイズのボール箱(厚みは15cmぐらいあるけれども)を、あたしはテーブル越しに差し出す。ブラザーは両手でそれを受け取り、ひとしきり眺めた後、包装を几帳面に剥いで箱を開けた。欧米じゃプレゼントの包みは豪快に破くのがマナーだと聞いていたけれど、きっとドイツには当てはまらないのか、彼がマーニからのプレゼントを歓迎していないかのどちらかだ。個人的には後者だと思う――中を覗いた瞬間、ブラザーの眉が怪訝そうにひん曲がったので。
「ほう、……はあん、そうかそうか。宅配便で送れない物か! まあ結構だがね」
 空々しい口調で言うなり、彼は箱の蓋を閉め、そのままソファの隅へと追いやってしまった。それからポットを取り上げて、空になっていた自分のカップになみなみと紅茶を注ぎ足し、また冷ましもしないで飲んだ。

 ――くれぐれも直接会って、反応を見てくれるように頼むよ。
 マーニの言葉が蘇る。直接会った結果がこれだと、そのまま伝えてもいいもんだろうか。反応らしい反応も見せないまま、ブラザー・ヴィルヘルムは紅茶とクッキーを消費するサイクルに戻ってしまっている。少なくとも喜んではいなさそうだし、言ってしまえばプレゼントに対する不快感さえ見て取れる。それがあいつの意図ならともかく――だとしたら心底嫌な奴だと思うけど――、このまま黙って帰るのもなんだか良くないことのような気がする。
「あの、……どう思います?」
「どう思う、とは?」
「さっきから言ってることなんですけど、あたしはそれをライプツィヒからデュッセルドルフまで運んできた訳なんですよ。なんか、毎年贈ってるクリスマスプレゼントが、今年は都合で遅れることになったって。まあ、あいつのことなんで必要以上に恩着せがましく言ってる可能性もありますけど、せめて他に何かこう、ないんですか?」
 あたしは当たり障りのない程度に言ったが、よく考えたらこの物言いで察してもらおうというのはどだい無理な話だった。世界屈指のローコンテクスト大国であるところのドイツで、「他に何かこう」なんて何も伝えていないのと同じだ。空気の読めるドイツ人だって沢山いるのは知っているけど(ブラザー・ライムントとか)、目の前の相手は明らかに空気とか行間とかを読むタイプではない。
「何か、なんて言われても何かい、それこそキミは私が諸手を挙げて、この品を驚嘆すべきヴンダバーだの畏怖の念さえ起こさせるグロースアーティヒだの賞賛すると思っていたのか?」
「ええー、いや、中身が解らないんであたしとしては予想がつかなかったというか」
 こちらが気後れしたのを察知したか、ブラザーはそこで語勢を少し緩め、攻撃的な顔つきを改めた。が、どうにも相手を一段下に見ているような空気だけは漂わせたままだった。
「ま、どうしてもその他にコメントを寄越せというなら、滑稽コーミッシュの一言だ。『こうもり』のアリアに出てくるような調子でな、――"そう、本当に可笑しいったら、あっはっはヤー、ゼア・コーミッシュ、ハ・ハ・ハ!" とでも歌いだしたくなるぐらいに滑稽だ!」
 彼は感情豊かに何かの歌、本人が解説するところによればオペラの曲目の一節を歌い、息をついてからあたしに向き直った。表情の全てが「これで満足か」と語っていた。
「つまり?」
 なんだか無性にこれだけは確認しておきたくて、あたしは低い声で訊いた。
「あたしが、元々頼まれる気もなかったお使いを引き受けて、自腹でバス代出してまで寝過ごした相手の家に行って、内容も聞かされてないような贈り物を届けたのは、もう全くの無駄だったってことでいいんですね?」

 とたん、ブラザー・ヴィルヘルムは藤色の目を丸くし、そんなことを尋ねられるとは思わなかった、と言わんばかりにソファから身を乗り出した。
「キミ、」 いくらか間の抜けた声だった。
「キミ――そう、名前をまだ聞いてない。シスター……リザ? レナ? ユリア? そんな訳がないな、キミはどう見たって日本人だ。とにかくシスター、その態度から察するに、マンディから私のことを何も教わっていないんだな?」
「は?」
 あたしも目を見開いて、真向かいにいるブラザーの顔を眺めた。そういえば名乗り忘れてたとか、いくらデュッセルドルフに日本人が多いからって本当に他の東アジア人と区別が付いてるんだろうかとか、頭に浮かんだことは無数にあったけれども口にはできなかった。
「何も、ってほどでもないけど、まあ……生物管理部のソーサラーで、マーニとは毎年プレゼント貰う程度の知り合いで、気合の入ったクモのコレクター、ぐらいしか」
「ああ、マンディめ! 担ぎやがったな!」
 ブラザーが仰々しい嘆きの声を上げる。あたしは返す言葉もない。
「何も知らない婦女を私のもとへ送り出すとは、自称紳士が聞いて呆れたもんだ。初対面からとんだ行き違いじゃないか! ……いや、だが待てよ、これは要するに、まだいくらかポジティブな関係を構築できる余地がある、ということか?」
 彼の目があたしの顔を覗き込む。灰がかった紫色の中に、明るいヘーゼルの発色が見え隠れするのが、まるで真冬の夜明けに見る空のようだった――なんて観察しているうち、彼はソファの背に再び身体を落ち着け、その後ろへと右手を回した。何かと思って見れば、出てきたのは一本の杖だ。見た目はヨーロッパの紳士が持ち歩くような、細い黒塗りの軸に銀のハンドルが付いた「ステッキ」だけれど、マーニが使う杖もこのタイプだから、もしかして魔法の杖かもしれない。
「すみません、あたしはあなたが何を言ってるんだかさっぱりなんですけど、どういう意味です?」
 話が飲み込めないので尋ねてみると、彼はさも不愉快そうに眉を吊り上げた。
「担いだんだよ、マンディのやつはキミを! 騙したってことだ。キミは私が、彼にとっては大切な友人で、ゆえにプレゼントひとつにも心を砕き、確実に気持ちを伝えられるよう万難を排してキミに託したと思っているのだろう。だが真実は違う。私は、――良いかね、マンフレート・アルノーとは断じて親しくないし、贈答品を交換するような関係でもないし、その他の前向きな間柄でもない!」
「はあ!?」
「逆に、全くの他人で付き合いひとつないとも言えないがね。云わば、友好的に敵対している。それとも敵対的に交友を持っていると言うべきか? どちらにせよ健全とは言えないな。今日の私が寝不足なのも概ねマンディのせいだ」
 次から次へと飛び出す事実に、あたしは開いた口が塞がらない。元々ブラザー・ヴィルヘルムとマーニがそんなに親しい仲だとは考えていなかったけど(せいぜい「嫌われてはいない」程度かと)、ここまではっきり「敵対している」なんて断言されるとは予想外だった。それにしても、マーニが寝不足の原因になるなんて、昨晩のうちに何があったんだ。遅くまで電話で喧嘩でもしてたんだろうか。
「そうした訳なので私は待ち合わせの話を聞いたとき、マンディのやつ、またぞろ嫌がらせのために自分の息のかかった輩を寄越したなと直感したんだ。そんな相手にいちいち世辞だの厚意だのをくれてやる必要はないと。失敬失敬!」
 布張りの座面に深く沈み込みながら、ブラザーはうんざりしたように息を吐いた。あたしも内心、ライプツィヒに帰ったらとりあえず奴を一発ぶん殴っておこうと、固い決意を抱きつつそれを眺めていた。
「さて、不必要な遠回りをさせてしまったな、シスター。やつに向けるのが滑稽の一言である旨は変わらないが、キミについてはまた別だ」
「そうですか、あの……」
 何かの誤解があったのは把握したので、もうこれで十分です、そう言いかけたあたしを白い手が遮る。あからさまに不機嫌だった顔が、今はもう元通りの自信に満ちた、どこか生意気そうな笑みをたたえている。
「キミの献身的な行いに感謝する。――実際の私が、やつの如きすっとんきょうでとんちんかんな魔術師ではないことを御覧に入れようじゃないか。キミへの返礼も兼ねてな」
 もう片方の手が杖を握り、小刻みに床を小突いた。何かの規則性があるようにも思えるし、まったくでたらめに叩いているようでもある。モールス信号なんか、こんな感じじゃなかったろうか。あたしがぽかんとしている間、もしここがマンションの2階だったら確実に下から苦情が来るノックは続き、最後にひときわ強い響きが空気を打った。あたしの視界が真っ暗になった。

 ひゃう、とかなんとか情けない声が漏れた。でも、こんな時どうするべきかを忘れてはいなかった。あたしは手に握ったままのブザーを確認し、すぐにボタンを押そうとした。押そうとしたけれど、できなかった。それより先に、あたしの目に飛び込んでくるものがあったからだ。
 視線をほんの少し上向けるだけで解った。あたしの頭上に星空があった。
「え、――あ、ええ?」
 青白い光の粒がいくつも、揺らぎ、瞬きながら群れていた。小さい頃、父方のおじいちゃん(つまりドイツ人じゃないほう)の家で見た夜空みたいな輝きの集まりだ。
 いいや、でも、ここは室内だし外は真っ昼間なわけで、星空が見えることなんてありえない。明かりが消える前、あたしたちの上にはただ天井だけがあったはずだ。それから派手すぎないデザインのアンティークなランプも下がっていたっけ。言うまでもなくその照明にも、天井全体にも厚くクモの巣が張って――
「まさか、」 ほとんど無意識にあたしは口走った。 「光ってるのって、クモ?」
 くっくっ、と面白がるような笑い声が闇の中に聞こえ、あたしは自分の思いつきがそう間違ってもいなかったことを知る。床を叩く音がもう一度だけしたかと思うと、たちまち室内は明るさを取り戻した。ランプに照らされた天井に、クモの姿はそこまではっきりしない。さっき見た光の大きさから考えても、そう立派なサイズの個体じゃないんだろう。
「ニュージーランドのワイトモという洞窟に、」 ブラザー・ヴィルヘルムが話し始めた。
「ヒカリキノコバエ、という昆虫がいるのを知っているかな、シスター。ハエという名ではあるが、一生の殆どを幼虫の姿で過ごす」
「知らないですけど、それとクモとが一体何の関係――」
「ま、聞きたまえ。そのヒカリキノコバエの幼虫は、体内にルシフェリンという物質を持っていて、発光することができるんだ。ホタルや夜光虫と同じだな。彼らはワイトモ洞窟の天井に住まいを構えている。主な食料は他の昆虫類だ。小さな羽虫やガの類だ」
 両手を杖の上に載せ、彼は愉快そうに話を続ける。あたしにもなんとなく趣旨が解った気がした。
「洞窟の奥は陽の光も差さない真っ暗闇だ。外界から迷い込んできた虫たちは、天に輝く光を目指して闇雲に飛ぼうとする。そこに幼虫が手ぐすね引いて待ち構えているわけだ。まるでクリスマスのビーズ飾りのように、粘液の滴を繋いだ糸を垂らして」
「つまり、チョウチンアンコウみたいなことですよね」
「その通り! かくして哀れな獲物は粘液に絡め取られて自由を失う。釣り人がリールを巻き上げるごとく、幼虫たちは糸を引っ込めてご馳走にありつく、という寸法だ。キミの言う通り、チョウチンアンコウと網を張るタイプのクモの合わせ技だな」
 ブラザーの口ぶりはどこか得意げだ。天井にかかるクモの巣を顎でしゃくっては、どうだ見事なものだろう、と勝ち誇るように胸を張っている。それは良いとして、じゃああのクモも、その洞窟に住む幼虫と同じ生態を持っているのか。あたしが質問するより先に、彼はこんなことを言い出した。
「まあ、光ることを除けば生き様は概ねクモだ。――であるなら、何故クモが光ってはいけないのか?」
 彼はついさっき、「自分はマンフレート・アルノーのようにすっとんきょうでとんちんかではない」とか述べていたけれど、今この問題提起だけを聞いたなら、わりと同レベルなんじゃないかと思う。何故クモが光ってはいけないのか? ……いけないことはないけど、そもそも光る必要があんまりないからじゃないですかね。
「当然、何も悪いことなどない。クモだって光っていい筈だ。全てのクモがそうだとは言わないが、彼らのうち何割かは光りたいと考えているに決まっている、と私は断言する」
 そうかなあ。
「だから志願者を募り、光らせることにした。私の研究と魔法薬そして弛まぬ訓練の成果だな!」
 本当かなあ。

 もうこの際「志願者を募り」とかいうトンチキワードは聞かなかったことにするけど(使い魔だから意思疎通ぐらいできるとしても、果たして普通のクモに「自分も光りたい」と考えるだけの知能があるかどうか)、ブラザー・ヴィルヘルムがクモについての知識を十分備えていることはよく解った。研究者としてはてんで成果のない、いや本人がそもそも「好事家であって専門家ではない」と言い訳を欠かさないマーニとは、だいぶ意識の持ち方が違うということも。そうなると、知り合う機会ぐらいはあっても、そこまで仲良くならないのは頷ける。
「この通り、私がやつとは異なるタイプの魔術師であり、断じて同好の士ではないことはご理解頂けたかと思う、シスター。私のほうでも、キミがマンディの手先などではなく、むしろ被害者に近いと納得した」
 ブラザーは繰り返し頷き、あたしの手元へ視線を向けた。 「実に遠回りだった。茶が冷めてしまったな」
 もちろん、あたしは出されたときから一切紅茶に口をつけていない。茶菓子のクッキーにも。今更ながら、警戒しすぎて気を悪くさせたかなとも思うけど、何の警戒もしないでひどい目に遭うよりはずっと良かったはずだ。
「紅茶は嫌いだったか? 元よりザクセン人はコーヒーばっかり飲むものだけどな。どれ」
 手を伸ばしてあたしのカップを掴むと、彼は中身を一息に飲み干してしまった。あたしが何か言う間もなかった。――口をつけても大丈夫なやつだったんだ。
「次にキミが来る時にはコーヒーを淹れよう。もっとも今回の件を踏まえれば、キミはもう二度とマンディの口車になど乗らないだろうが」
「ええ、そりゃあまあ。あたしだって馬鹿じゃないですし」
「そうとも。これでもしキミが見知らぬ魔術師の家に――良いか、『男の』ではなく『魔術師の』家にほいほい上がり込んだ挙句、出されたものを考えなしに飲み食いするような思慮の足らぬ人間なら、あの陰湿漢にはめられるのも已む無しだと思ったがね」
 いくらか嫌味っぽく鼻を鳴らしてからの台詞。あたしは微かなばつの悪さを堪え、堂々としていることにした。あたしが悪いわけじゃない。そういう良からぬことを考える一部の輩が悪いんだ。
「ま、結局のところ事実は違った。キミのような客人を迎えられたことは光栄だ。紳士として歓迎しようじゃないか」
 空になったカップを手元に引っ込めて、彼は笑った。どちらかといえば悪い魔法使いっぽい笑顔だった。

「……ちなみに、結局その『プレゼント』の中身、何だったんですか?」
 この際だからと尋ねたあたしに、ブラザーは口元をにやりと歪め、放り出してあった箱をこちらに向けた。そこには、透明なセロハンのようなものに包まれた、箱にぴったり収まるサイズの固まりがあった――粉砂糖をたっぷりまぶした、厚みのある焼き菓子だ。ドライフルーツやナッツで表面はごつごつとしている。ここ一ヶ月で嫌というほど見慣れた姿。
「シュトーレン!?」
 あたしは大声を上げた。 「あいつ、宅配便で送れないって――!」
「お気の毒に、シスター。だが、やつはこういう男だ。他人を使いだてするためなら平気で虚言を弄するうえ、それを卑劣とも思わない。同僚のキミにとっては腹立たしいことだろうが」
 同情的な声音でブラザーは言ったが、あたしには腹立たしいどころじゃ済まない話だ。シュトーレンといえば、ただでさえ日持ち重視なドイツの焼き菓子でも特に賞味期限が長く、数週間から数ヶ月ぐらいは平気で保つケーキで、扱いに気を付けなければ崩れるとか、汁などが染み出すとかいったこともない。何が郵便禁制品だ。ごく当たり前にネット通販で取り寄せたりできる代物じゃないか。
「あんなに『すごく特別なもの』みたいな空気醸し出しといてシュトーレンとか。クリスマスの定番中の定番みたいなプレゼントじゃん、あたしだってこの冬3箱ももらって持て余してるぐらいなのに――」

 あたしはそこで言葉を切り、少し考え込んだ。マーニの奴は何を思って、シュトーレンなんかを寄越したんだろう? あたしみたいにすっかり食傷気味になってる相手を、さらにうんざりさせようという算段か。ただ、こう言うのもなんだけど、ブラザーはこの程度の嫌がらせにはてんで動じなさそうな雰囲気がある。マーニ自身がそうであるように。
「ブラザー・ヴィルヘルム、……何度も聞きますけど、どう思います?」
「どう思う、とは?」
 箱の蓋を閉じながら彼は聞き返し、かと思えばあたしの言葉を待たずに続けた。
「やつの意図は何かという意味なら、大きく分けて二つだな。まずは単純に私への配慮、もう半分は嫌がらせだろうよ」
「配慮って」 思わず聞き返さずにはいられなかった。 「あれが配慮?」
 この時期に誰かへの「配慮」でプレゼントを贈るなら、シュトーレンは絶対に選ばないだろうに。あたしはテーブルの上に並んだクッキーをちらりと見ながら考えた。あれだって、大量に貰った結果クリスマスが終わっても消費しきれなかったものに違いない。
「そうだ。言っておくがこれは普通のシュトレンではなく、ドレスデンのシュトレンだからな」
「ドレスデンの? あ、そういえばシュトーレンって、確かそのへんが発祥というか、元祖というか、それで有名なんですっけ」
 ライプツィヒから東へ特急電車で一時間ほどの場所にある、ザクセンの州都の名前をブラザーは挙げた。クリスマスマーケット文化の中心地でもあり、そこで売られるお菓子もまた、マーケットそのものと同じくらい有名だ。でも、だからってそこまで特別なもんだろうか――あたしが思ったのと同じタイミングで、彼は説明を加えた。
「ああ。無論シュトレンぐらいデュッセルドルフでも買えるがね、私にとっては、」
 短い間。 「私にとってはドレスデンのものが何より特別なんだ。私の故郷だからな」

 四角い箱に入った、よくあるただのクリスマス菓子が、急に重たいものに見えた瞬間だった。その気持ちならあたしにだってよく解る。あたしも故郷である日本を離れてドイツに留学しているわけだし、日本食が恋しくなることは沢山ある。というより本来デュッセルドルフまで来た理由がそれである。あたしは本物のラーメンが食べたかっただけだ。日本食に限らず、例えばスーパーでマヨネーズ一つ買うときも、「日本のあのマヨネーズが手に入ればなあ」と考えることは少なくない。色々なことに納得がいった。そういえばマイセンだってドレスデンの近所だ。
「――え、というか、ちょっと待って、ドレスデンってことは……もしかしてブラザーって元々ライプツィヒ支部の人だったってことですか?」
「数年前まではな。これには色々あって、キミに話すことでもないから過程は省くが、最終的には謹慎を食らってデュッセルドルフへ流刑だ。きっと現連邦では死刑が廃止されているからだな」
 ソファにふんぞり返ったまま、ブラザー・ヴィルヘルムは真顔で言った。
「私は実に優秀な実働隊員だった。音響魔術学の第一人者にして幻惑術の鬼才! かつ、動物学に造詣が深く、錬金術も嗜み、見ての通りマンフレート・アルノーを凌ぐ美男子でもあった。他者の妬みを買うのも当然だ。私が居なくなってからというもの、ライプツィヒ支部いちの嫌われ者の座はやつに移ったというわけさ」
 彼はそう口にしては胸を張ったが、「階級としてはまだソーサラーのくせに、自分の才能をあれこれ自慢した挙句、マンフレート・アルノーほどには表面上の礼儀正しさもなかった」ことを誇られても、こっちとしては困るだけだ。「過程は省く」と彼は言ったけれども、省かれた間に何があったのかは、説明されなくても大体解る気がした。
「それで、じゃあ数年前からライプツィヒには戻ってない、と」
「ただの一度もな。頼まれたってライプツィヒ支部になんか戻る気はない。……だが、」
 職場の問題はさておき、生まれ育った街に帰りたくないかと言われれば、きっと違うんだろう。いとこの真夜ちゃんも、「小学校の同窓会には正直行きたくもないけど、あの頃住んでた街にはときどき立ち寄りたくなる」みたいなことを言ってたし。

「そういう意味での配慮だっていうなら、よく解りました。だけど、じゃあ逆にブラザーにとって、これは嫌がらせにもなるんですか? これで写真だけ送りつけられるとかだったら正直すごい腹立ちますけど、実物をくれるっていうなら……」
 食べたくても食べられないものを見せつけられるなら酷い飯テロだ。それはあたしも散々経験してきたし、それが原因でインスタの垢をブロックしたことも何度かある。でも今回は事情が違う。素直に感じたままを伝えるあたしに、「嫌がらせ」を受けた側は軽く息を吐いて答えた。
「それはシュトレンがどんな菓子か考えれば解る。シスター、キミは日本人だが、わが国の文化には詳しいようだ。きっとシュトレンがどのように食べられるかも知っているな?」
「はあ、まあ一応。クリスマスの一ヶ月ぐらい前から当日まで、薄く切ってちょっとずつ食べていくんですよね?」
 クリスマス前の四週間を「アドヴェント」といい(日本でも最近見かける「アドヴェント・カレンダー」のアドヴェントだ)、昔は決められたものしか食べてはいけないことになっていた、シュトーレンはその時のための非常食だった――そんな風習が形を変えて、現在でもシュトーレンの食べ方として残っているのだと、あたしは前におじいちゃんから聞いたことがある。昔といっても大分昔の話だから、おじいちゃんの生まれた20世紀の初めには、さすがにもう食事制限はしていなかったと思うけれど。
「正解だ、シスター。少しずつ食べなければならないというものでもないが、そもそも一度に食べ切れるような大きさではないしな。私は独り身だし、クモが食べるわけでもなし、結果的には時間をかけて消費することになる。となると、だ」
 ブラザーがどこか苦々しげに鼻で笑った。視線がちらりとボール箱のほうへ向けられる。
「私はこれから、このシュトレンを切り分けるたび、あの憎たらしい優男の顔を思い浮かべなければならないんだ。私が愛したドレスデンのパン屋の店先で、やつが企みを秘めた微笑みを浮かべながら、一番大きな塊を選んで買うところを、数週間かけてずっと!」
 言って、彼は両手を広げて天井を仰ぎ、オーバーに嘆くそぶりを見せる。こっちはこっちで解らないでもない感覚だ。あたしがイメージしたのは「元カレにもらった香水(未使用)」だった。前から欲しかった物だけど今となっては使い辛い、ってやつ。最適解は「フリマアプリで売る」だが、食品は――アプリによるか。
「かくも陰湿な嫌がらせを受けながら、辛抱強く敵対し続けてやっている私はもっと讃えられるべきだ。キミも解るだろ、好きの反対は無関心。気に入らない奴には喧嘩を売らずにミュートかブロックがSNSの鉄則。それが21世紀、だな?」
「ですね」 あたしは頷く。 「通報されないだけまだマシとしか」
 ただ、通報される時が来たらマーニ単体じゃなく二人セットだろうなとか、そもそも彼自身も通報された結果デュッセルドルフ送りになったんだろうなとか、思うことはあったけれども。やっぱりこの二人、自己表現の方向性が違うだけで、根っこの部分は同類だ。

「――さて、今は何時だ? 私の後ろに掛かっている時計を見ずとも、大体正午前かな。そろそろ門前で待ちくたびれているブラザー・レオンが、たまりかねて本当に通報を考える頃か」
 ブラザーが大きく伸びをする。言葉の通り文字盤を振り返りもせず、大雑把に時間の経過を捉えた後で。事務員さんの存在をすっかり忘れていたあたしの手でも、例のブザーがひんやりと主張を始めた。
「どれ、話は済んだことだし、クモの網からチョウと小バエを解放してやるか。飛行機に間に合わなくなったら困るだろうしな」
「えっと……いや、まだライプツィヒには帰らないんですけど」
「はん? お使いのためだけに来たわけじゃないのか。それはそれは。確かに、マンディから押し付けられた用事のためだけに、ドイツを横断するなんて馬鹿らしいだろうしな。ケーニヒスアレーを見に行くなら早いうちが良いぜ、日が落ちてからはゆっくり買い物どころじゃなくなる」
「ありがとうございます。でも、先にとりあえずお昼を食べに行こうかと」
 小バエ扱いされた事務員さんに若干同情しつつ、あたしは最初の予定を答えた。せっかくデュッセルドルフまで来たことだし、何か日本食を、できればラーメンを食べるつもりでいることも。
「日本人は好きだな、ラーメンが。支部の同僚にも愛好家がいる。日本人街にも名店は沢山並んでいるし、それとは別に穴場もあると言っていた――」
「穴場?」
 思わず声が出る。あたしは有名店ぐらいならネットで調べてきたけど、地元の人が通うような店はそこまで理解していない。とりあえず行ってみて、繁盛具合とか店の外観で決めよう、程度のことしか考えていなかったのだ。
「旧市街のほうまで出なけりゃならないがね。なんでも日本のカタカタだか、カキカタだか――」
「喜多方ですか?」 あたしは訊いた。ラーメンの名所でそんな響きの都市は他に知らない。
「それかもしれないな。私は日本の都市など東京と京都ぐらいしか知らん。で、そこの名店で修行したシェフが始めたそうだ。旨いがいつも空いているらしい」

 ブラザーはそこまで言うと、少しの間下を向いて思案する様子を見せた。そして、膝に乗せていたクモを横へどけるなり、勢い込んで席を立った。
「よし、決めたぞ。年が明けるまでは家から出るものかという構えだったが、気が変わった。今日は私の昼食もそのラーメンだ。こういう時こそ機を見るに敏でなければな」
 ぽかんとしているあたしに目もくれず、彼は握った杖で床を三回ほど小突いた。たちまち足元から――そこはフローリングの他に何も無いのは言うまでもない――ずるりと黒い影が立ち上がり、無数の細い糸に分かれたかと思うと、一瞬にして彼に纏わり、すっきりとしたロングコートの形になった。彼はあたしの横を通り抜け、まっすぐ入り口へ向かうと、置かれていた帽子掛けのてっぺんから、黒い山高帽を杖で引っ掛けた。
「キミも来るがいい、シスター! 私は普段、他人に食事を奢るなどという不毛なことはしないのだが、今回ばかりは特別に、キミに恩を着せてやることにしよう。なんだったらブラザー・レオンも一緒で構わないぞ」
「いや、そういうのは別にいいんですけど」
 思いのほかぶっきらぼうな調子になりつつも、あたしは答えた。あらかじめ宣言してから恩を着せてくる人なんて初めて見た。
「そうか? 絶好の機会だと思うんだがね。シスター、ああ、結局最後まで名前を聞かず仕舞いだったな。とにかくキミにとっても私にとっても利益になるはずだ、ここでわれわれが近付きになっておくことは」
「あたしたちが、ええ――つまり、友達になることが?」
「いかにもその通り。ちょっと考えればキミにも解るさ。まず、キミにとってマンフレート・アルノーという男は一体何だ?」
「嫌なやつです」 あたしは即答した。
「大いに結構。キミとマンディとは敵同士だ。そして、敵の敵は味方だ」
 モノクロ映画の中の紳士みたいな魔法使いは、あたしの方に身体を向けて、囁くような低い声を出した。面白がっているようでもあるし、心から力になろうとしているようでもある響きで。
「――言っときますけど、食事が済んだらあとは自分のことしますよ。それと、あたしに奢ると高くつきますんで、そのへん込みで」
「勿論だ! さあ、そうと決まればランチ営業が終わるまでに向かおう。マンディ対策委員会をここに立ち上げなければな。そう、例えばシュトレンの意趣返しとして、やつをぎゃふんと言わせる食物の情報などあれば嬉しいんだが」
「うーん、でもあいつに特に好き嫌いとかは無かったような、……あ!」
 自分が持ってきた鞄を抱え、ブラザーの立つ戸口へと向かいながら、あたしは話題についていこうと頭を働かせた。半分ぐらいはラーメンのことも考えていたけれど。
「ツヴィーベルクーヘン! ちょっと時期外れだけど、あの秋になるといっぱい売ってるやつ」
「玉葱のタルトだって? おいおいシスター、それはまたキミが担がれたに違いない案件だぜ。それはマンディにとって随一の大好物なんだよ」
「いや、それが違うんですよ。あれは9月の……何日だったっけ、あたしが昼休みに――」

 そうしてあたしたちは連れ立って外に出、ぎょっとしている事務員さんを確保したまま、デュッセルドルフでラーメンを注文する人になった。マーニの弱点について盛り上がりながら啜る(もとい、ヨーロッパでは音を立てるのはマナー違反なので静かに食べる)豚骨スープの美味しいことといったら!
 ただ一つだけ引っかかったのは、事務員さんことブラザー・レオンがラーメンを「麺抜き」で頼んだことだった。麺抜きのラーメンなんてただのスープだ。ところがドイツではそこまで珍しいことでもないらしい。あたしは一昔前の「回転寿司屋でシャリを残す客」みたいな話を思い出し、この一件をインスタに投稿したらどんな騒ぎになるだろう、と想像してみた――
 そして自分の良心に従い、何もなかったことにした。所変われば文化も変わる。さっきブラザー・ヴィルヘルムだって言ったばっかりじゃないか。ミュートかブロックが鉄則だって。

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