「こんな場所で悪いな」 若い俳優は大仰に肩を竦めた。 「キミをお客様扱いする気は無いんだが」

詠い難き末路 -The Show-stopper-

 その芝居がかった仕草を一瞥してから、マンフレート・アルノーは自身が通された場所をぐるりと見渡した。否、見渡すほどの広さでもないので、ただ自分の周囲に視線を巡らせた、程度だった。小劇場の一階にあるボックス席だ。一般の客が就く狭苦しいテーブルからは区切られているが、それだけ舞台からは遠い。だが、そのこと自体はさして問題ではなかった。そもそもショーを見に来たわけではないからだ。
「構やしないさ。舞台裏は立て込んでいるのだろう」
「そうだ、立て込んでるんだ」
 マンフレートが奥のソファに腰を下ろすや、彼を招いた俳優はさっと手を伸ばし、座席の前にあるカーテンを閉じてしまうと、黒いステッキで二度ほど床を軽く打った。とたん、外界に満ちていた雑音の数々が、臙脂色の幕に吸い込まれたかのように消え失せる。
「では、そうして立て込んでいるにも関わらず、私をわざわざ呼んでくれた理由について聞かせて貰えるかい。解るだろう? 本来なら私はとうにライプツィヒへ着いて、早起きしたぶんの睡眠不足を十分に補えていた筈なのだよ」
 旅行鞄を座席の奥へと追いやりながら、彼は眼前の若者に目を据えて言った。立て込んでいるというのは嘘ではないようで、二十歳そこらと見える若者は、まだステージ衣装を脱いでもいない。ぱりっとした白いシャツとピンストライプのスーツに、派手な花柄のタイを締め、恐らくは化粧もしている。
「ね、君も知っていることだろうけれど、私は一日がかりでルーマニアから帰ってきたのだから、ゆっくり休まなくてはならないのだよ。こんな……デュッセルドルフの、つまりドイツの反対側まで寄り道している場合ではなくてね」
「ブカレスト・デュッセルドルフ間はユーロウイングスで二時間だったはずだぜ、マンディ。いくらインシーズンで切符が取れないといっても、狡っ辛いキミのことだから何かしら手があったろうに。第一、列車で帰るにしたって、乗り継ぎ駅がウィーンになるかジェールになるかぐらいの違いだろ?」
 電飾にまみれた舞台から降りてきたばかり、といった風貌の若者は、高慢そうに鼻を鳴らして言い捨てると、小さなテーブルに用意されていたロックグラスを掴んだ。氷とライム、そして匂いからジンと知れる液体を満たしたそれには、古めかしい字体でこう刻印されていた――「Das Blaukehlchen青い喉のコマドリ」。
「途中下車する場所がオーストリアかハンガリーかというのは、地理的にも言語的にも大きな違いだと思うのだけれどね。実際のところ、君から連絡が来たのはとうにドイツに入った後だったから、余計に大回りをすることになったことは伝えておこう。――とにかく、好事家ものずきといえど私は、大冒険を終えてすぐに、しかも昼公演マチネがはねた後のキャバレーなんかにしけ込むほど好き者ではないのだよ、ブラザー・ヴィルヘルム」
「はあん、そうか? キミのことだから、顛末を知ったら絶対に文句を言うと思ったんだがね。そんな面白いことが起きていたなら、どうして私を最初から関係させてくれなかったんだ、と。見越して呼んでやったんだから感謝してほしいものだ」
「何が起きていたって?」
 簡明な問いに、ヴィルヘルムと呼ばれた俳優は答えた。 「人が死んだのさ」

 少なくともこの美男子は、自ら発した言葉の世間的深刻さを理解してはいまい。劇場の女性客がこぞって持て囃す甘いマスクは、マンフレートの目から見て死者を悼んでいるようにも、あるいは惨劇に憔悴しているようにも思えなかった。むしろ不愉快そうでさえあった。日常劇の最中にふと主役が、「そうだ、今日はあのいけ好かないあいつに会ったんだ」等と、怒りを蒸し返すときのような言い方だった。
「それで君は、打ち上げでもないのに昼間から酒を呑み、あれこれ理由をつけて私に絡んでいるという次第なのかい。スタアとしての体面を気にするのならよしたほうが良いと思うけれどね」
「体面のたの字もないキミにだけは言われたくない台詞だな。良いか、マンディ、さっきの言い方を少々改めよう。人が死んだんだ、」
 ヴィルヘルムは言葉を切り、グラスを置いてから続けた。 「この『青い喉のコマドリ』で、毒をんで」
 ここに至ってようやく、マンフレートも知人の言わんとすることに察しが付いたようだった。「面白いこと」というくだりについてだ。良識的な人間なら、それが自分に関係があろうとなかろうと、一個人の死を「面白い」と表現はしない。だがマンフレート・アルノーはおよそ己の好奇心が及ぶ分野、とりわけ諸般の危険な動植物に関しては、現代社会が求める良識をかなぐり捨てて臨むのが常だった。

「最初にこれだけは断っておくけれど」 彼はきっぱりとした口調で述べた。
「舌の根も乾かぬうちに、やれ砒素だの青酸だのアスピリンだのと言い出さないでくれたまえよ、くれぐれも。私はあくまで、人間に死を齎したであろう動植物をこそ愛しているのであって、服毒自殺を礼賛するような非道の男ではないからね」
「おや、青酸はお気に召さないのか? アーモンドにだって含まれているじゃないか」
「その彼だか彼女だかが、例えばアンズの種を40個すり潰して中毒死したというなら興味を示さないでもないよ」
「淡白なやつだな、キミは。まあ実際のところ、問題の物質はキミの歓心に値するだろうから安心するがいい。――表でポスターは見たか?」
 尋ねられて初めて、マンフレートは劇場の入り口に掲示物があったことを思い出した。関係者の誰かがデザインしたのだろう、アール・デコ調のイラストを用いた張り紙が並んでいたのだが、彼は一切注意を払っていなかったのである。
「見た気がするね」
「今夜からのショウに主演する者の名前は?」
「申し訳ないけれど、人間の名前を覚えるのは得意ではないのだよ」
 些かも申し訳なさを感じていないだろう声で彼は答えたが、聞いた側も咎めはしなかった。ヴィルヘルムは質問の合間、舐めるようにジンを呑んでは、卓上の皿へと手を伸ばしていた。そこには一口大に切り分けられたぱさぱさのサンドイッチだの、瑞々しさがあらかた失われたカットフルーツだの、何らかの料理のソースに浸ってしなびたポテトフライだのが、全て一緒くたに盛られていた。恐らくは昼公演のビュッフェで供されたものの余りだろう。個人的な客にわざわざ出すものではない。酒の肴としても好適とは言えないが、それらを機械的に消費するヴィルヘルムのほうは、さして気にしてもいないようだった。
「ミシェルと云うんだ。芸名だろうがね。そのミシェルが今朝、割り当てられた楽屋で死んだ。もとい、検死によれば昨晩から死んでいた」
「毒を服んで」
「その通り。すぐさま医者が呼ばれ、診断が済み、室内から問題の毒も見つかって、全てが丸く収まった。要するに自殺と判断された。遺族のたっての願いで解剖は無しだ。水曜日あたりが葬式じゃないか」
 説明は淡々としたものだった。やはり何処かしら苛立たしさの滲む声だ。マンフレートは疑問を口に出すことを躊躇わない気質だったので、素直に尋ねることにした。
「それで、君はどうして先程からそう不服げなのだい。君のことだから、ちゃんとした司法解剖もせずに自殺で片付けてしまうのが我慢ならないとか、そんな義憤に駆られているわけではないだろう。口振りから察するに、そのミシェルと特別親しかったようにも思えないし」
「どうして、だって!」
 若い俳優はぞんざいに息を吐き、乾き切ったチーズにフォークを突き立てた。青紫がかったグレーという希有な色合いの目が、親の仇でも見るかのようにマンフレートを睨んだ。
「同情しろよ」
「誰かからそうも高圧的に同情を求められたのは初めてだよ、ブラザー。一体何だい?」
「ミシェルが死を選んだのは、このわたくしに捨てられたからだと誰かが言いやがったのさ」

 マンフレートは目を丸くした。貴族の肖像画じみた微笑を保つことにかけて、ライプツィヒでは右に出る者の居ないであろう彼が、こうも当惑した表情を浮かべるのは稀だった。彼は自分が発するべき台詞を決めかね、暫く黙った。「それはご愁傷様ですエス・トゥット・ミア・ライト」等の決まり文句で繋ぐ手もあったろうに、それすら出てこない程度には面食らっていた。
「――なんという醜聞だろうヴァス・フューア・アイン・スカンダル!」
ああ、まったくの醜聞だヤー、アイン・スカンダル!」
 面食らっていたので、彼が最終的に選んだのはドイツ語で歌われるミュージカルの一節だった。無論、正しい旋律に乗せてだ。すかさずヴィルヘルムも続きを諳んじたが、それ以上の進展はしなかった。
「……それで? 事実無根なのだろう?」 咳払いをしてからマンフレートが聞いた。
「いかな天才の私といえど、所有さえしていないものの捨て方など解らないね」
 ヴィルヘルムが答えた。よく通る歌声から一転して、すっかり低く荒んだ調子になっていた。
「ミシェルと私ぐらいの付き合いで恋仲だと呼ばれてみろ、私はこの劇場に少なくとも7人は妾を囲っていることになる。男女を問わずだ」
「ヘンリー8世を上回った、と考えれば壮絶なものだね」
「ミシェルとアンナ・フォン・クレーフェのどちらが美しい、とかいう話はしないぞ。絵だけならアン王妃の圧勝だしな。何せホルバインが描いているわけで――とにかく、それだから私も直截に断ったんだ。キミと私は一度きり舞台で踊っただけで、互いによく知りもしない同士じゃないかと。そもそも共演自体、本来ミシェルと組むはずだった"ラッキー"・ニルスが、流感で出られなくなったから已む無く代わってやっただけで、予定されていたものじゃないからな」
 チーズを口に押し込みながら語る知人を、マンフレートはぼんやりと眺めながら、グラスに入った炭酸水を飲み、盛り合わせの皿からサラダをいくらか突いて食べていた。所々に交じっているセロリだけは執拗に選り分けて。
「断ったって、食事にでも誘われたのかい?」
 彼は尋ねたものの、ヴィルヘルムが嘲笑的な溜息をついてそっぽを向くのを見、自らの推測が外れたことを知った。
「ああ、解った、ブラザー・ヴィルヘルム。卓ではなくて床を共にするお誘いだね」
「野暮なやつだな、マンフレート・アルノー。好事家が聞いて呆れたもんだ」
「人類のそれには関心がないのだよ。で、話を聞く限り今回が初めてだったのだね?」
「ああ、昨晩が初めてだ。否、これは時系列を追って話すのが良いんだろうが、つまり――」
「昨晩」 意表を突かれたようにマンフレートが復唱した。
「それじゃあミシェルは、君に袖にされた直後に死んだということかい。私はてっきり、思い詰めるだけの期間があったのかと」
「連続ドラマの総集編みたいな展開の早さだろ。今日びカット込みのテレビ映画だってもう少し引っ張るぜ。――昨日、リハーサルの直後に楽屋へ訪ねてきたんだ。差し入れを用意したから夕食にでもしてくれと。その後で私は打ち合わせがあって、夜公演ソワレにも出て、戻ってきたらまたミシェルが楽屋前にいた」
「そして君を誘惑した」
「どれだけ自信があったのか知らないがね、最後まで『気が変わったらいつでも』とかなんとか言ってたな。自分は泊まりだからって。まあ結局、気が変わらなかったから私は帰った。今朝がた劇場主から電話が掛かってきて、『何か知らないか』と」

 そこまで話し終えると、ヴィルヘルムは残りのジンを一気に飲み干し、隣に置かれた緑色の小瓶に手を伸ばした。チェイサー代わりに置かれたピンク・レモネード。
「諸所からの情報を総合するに、ミシェルと最後に会ったのは私だったとさ。それが何故『私に捨てられた』という話になるのか理解に苦しむね。遺書も無かったのに」
「『君に殺された』という流れになるほうが、まだいくらか信憑性があるかもしれないな」
 マンフレートは相槌を打ち、そこでふと思案顔になった。 「いや、結果的には同じことか」
「キミまで私を冷血漢扱いか、マンディ? 言うに事欠いて」
「失敬。何かにつけ未来の毒殺魔と目される身として、少しばかりの共感を覚えただけさ。本気で君が死なせたなんて考えやしないよ。……ねえ、ブラザー・ヴィルヘルム」
 ソファの上で脚を組み替え、軽く前に乗り出しながら、彼は推論の裏付けを得ようと切り出した。ヴィルヘルムが片側の眉を上げた。
「君はその、ミシェルの遺体を見たのかい」
「見たくもなかったが見せられた。最後に会った時と何か変わりがないかと言うんでね」
「苦しんだように見えたかい?」
「安らかとは言い難かった。血のあぶくを吐いて、長椅子から転げ落ちたようだったな」
「口の周りや舌が爛れていたりは?」
「変なことばかり聞くものだな、キミは。私には人間の死体をまじまじと観察する趣味なぞ無いんだよ。――今回は観察させられたがね。唇に水膨れができていたよ」
 検死に立ち会った重要参考人は、節度なき問いに顔を顰めたが、彼に人間としての倫理観が備わっているのかといえばそれも怪しい。こうして事実を他人に洗いざらい伝える程度には無頓着だった。
「見えてきた。いや、もう殆ど見えていると言っても構わないかな。なるほど、私は君の招きにあったことを感謝しなければならないようだ……この手の問題を考えていると、旅の疲れなど何も無かったように思えるよ。では、最後の質問だ」
 いよいよ核心に迫りつつあるという感覚からか、マンフレートの声には隠しきれない高揚感が滲み出していた。紛れもなく純粋で、故に悪辣極まる探究心の発露だ。薄氷めいた青い目の端に、酔ったような喜色が浮かんでいる。今まで飲んでいた炭酸水が皆シャンパンだった訳でもなかろうに、とヴィルヘルムは苦い顔を作った。
「それで結局、ミシェルの直接の死因は何だった?」
「急性呼吸不全」
 決め手となるやり取りは単簡に済まされた。ほんの数語の答えが吐き出された瞬間、マンフレートは我が意を得たりと胸を反らした。それから数秒も経たぬうち、彼は古代ギリシャの胸像の如き漂白された微笑を取り戻して言った。

「ああ、なんと気の毒なことだろうエス・トゥット・ミア・ライト!」
 此度は決まり文句に何の淀みも無かった。 「自殺といえば自殺だけれど、本人に死ぬ気など無かったのだ!」
「私もそう思うね。同情の念は微塵も湧いてこないが。じゃあ言ってみろよ、マンディ、あのミシェルのやつは何を呷って死んだのか」
 既に正解を知っている側は、気疎さを隠しもせずに促した。対する回答者は勿体ぶるように目を細め、炭酸水で唇を湿し、長々と息を吐いてから、ようやくのことで口を開いた。
「カンタリジンだ」
「そうだ、カンタリジンだ」
 やっと結論に辿り着いた、とばかりヴィルヘルムが嘆息した。
「正確なところを言えば、薬瓶のラベルに書かれていたのは『スパニッシュ・フライ』だ。でも同じようなものだろ」
「同じようなものだね、成分的には。界隈では媚薬として知られているし、実際そのように使われていた歴史もある。が、10mgもあれば大人を殺せる劇毒だよ。『スパニッシュ・フライ』はこの物質を生成する甲虫の総称だ――私も標本を沢山持っているけれど、金属光沢のある青緑色の体は見応えのあるものだ」
 マンフレートは饒舌になる。これこそは彼が最も惹かれるところの「人間に死を齎したであろう動植物」だからだ。相手が異論を差し挟まないのを見るや、彼は陶然とした語調をそのままに先を続けた。
「一体幾らの量を摂取したのかは知らないけれど、問題なく致死量だったに違いない。よほどお楽しみに気を取られていたと見えるね! ほんの少し文献を紐解くなりすれば解ったことだろうに。もっとも、媚薬としてほんの微量を用いるにしても、あれは体内から排出される際に、性質として尿路を刺激するからという話で、それに鑑みれば男性の側が服用するもの――」
 澱みない解説が、その箇所に差し掛かった瞬間はたと止む。声色に篭っていた熱が速やかに引き、躍るような語調もあっという間に鳴りを潜めた。
「……ところで君、さっき差し入れがどうとか言っていなかったかい?」
「言ったとも。なあマンディ、これで心無いキミにも解ったろう、私の憤慨は至って正当なものであると」
 底冷えするように刺々しい響きが返った。 「ミシェルは私を殺そうとしやがったんだ」

 自分に据えられたヴィルヘルムの目を、マンフレートは黙って見詰め返した。スポットライトに照らされれば菫色に煌めく瞳も、角度一つで重苦しい鈍色に変わる。胸裡に渦巻く感情を可視化したように、瞳孔の縁で琥珀の光が揺れた。
「結果だけを見れば、ね」 先刻よりは慎んだ口振りで、彼は同意を示した。
「まず媚薬入りの食べ物を渡し、十分薬が効いたであろうタイミングで誘いを掛けた。ところが君の返事があまりにつれないので、本当に効くのか疑問に思い、自分も試しに飲んでみた、そしてたちまち中毒した、そんな所かな」
「催淫剤は惚れ薬とは違う、ということさえ理解していなかったんだろう」
「この場合、故殺罪に問えるかどうかはともかく――恐らく問えないのだけれども、どちらにせよ被疑者死亡で不起訴処分といった形になるのかな。もちろん恐ろしい話だというのに変わりはないけれどね。もし君が差し入れとやらを口にしていたら、逆に君が死んでミシェルのほうが生き残る形だったかもしれないのだし」
「思ってもないことを言うんじゃあない」
 ヴィルヘルムは冷淡に返し、刻印入りのグラスを掴み上げたが、中身が空だったことに気付いてそっと卓に戻した。伸ばされた手は代わりにフォークを取り、皿から美点の尽くが失われたポテトフライを掠め取る。
「自分以外の人間が死んで『恐ろしい』、だとかいう感情がキミに生じるとは思えんな。だがキミに比べれば遥かに善良な私は、『他人から貰ったものを不用意に食べてはいけません』という教えを遵守し、危機を回避した」
「まあ確かに、君は私と比べてルサンチマンの敵になりやすいタイプだろうね」
「そう思うだろ? 優秀な善人は妬まれやすいからな」
 皮肉を意にも介さず、劇場のトップスターはしなびたフライを咀嚼した。
「大体、ミシェルも舞台に立つ人間なら解って然るべきなんだ。私のようなダンサーは、この美しい肉体を維持するために、間食ひとつも厳密な計算の上で取っているんだぞ。そこに揚げドーナツプファンクーヘンを差し入れるとは、カンタリジンが入っていなくとも十分に毒だ、まったく!」
「ねえブラザー・ヴィルヘルム、君の主張と実際の食事との間には随分な食い違いが見えるのだけれど、これは私の目が君の美貌に眩んでいるせいなのかい?」
「そうだ」
「そうかい」

 低脂肪・高タンパク等の概念とは無縁の一皿から視線を外し、紳士たちは今一度見交わした。快適とはいえない沈黙の中を、抑えられた呼吸の音だけが彷徨した。
「しかし悲憤慷慨している暇はないんだ、マンディ。問題はその、差し入れのドーナツは私の楽屋にあったせいで、検分のときに周知されなかったということだ」
 ややあってから、先に言葉を発したのはヴィルヘルムのほうだった。
「君は重要な証拠を握ったままなのだね、つまり」
「誰一人気にも留めなかった証拠をな。あれを言い出さなければ、ミシェルはあくまで恋に破れ死に救いを求めた哀れな若者だ。薄情な美男子に冷たくあしらわれ、独り寂しく毒を服んだ。書き物係のクラインマンが一幕物の戯曲にでもして、単位はドルだかユーロだか、とにかく万は儲けるぜ。たぶん私も本人役で起用されるだろう。今度こそ死んだほうがましだな」
「でも、君がこれらを詳らかに告白すれば、」
「淫蕩な卑劣漢という私の汚名は返上され、名誉は守られる。翻って、ミシェルは胡乱な『媚薬』に考えなしで飛びつき、惚れた男に毒を盛った挙句、うっかり自分も死んだアホウだ。死屍に鞭打つとはこのことだな」
 先程からもう散々鞭打ってきたじゃあないか、とマンフレートは思いこそしたが、口に出すよりも相手の言葉が先に来たため、心中に秘めざるを得なかった。代わりに軽く目を伏せて、彼はキーマンの述懐を聞いた。
「どちらを取るにせよ道義的責任は付き纏う。おお、何たる災厄であることか! もっとも最終的な責任を取るのは私ではないがね。キミならどう考える?」
「とりあえず、君はかねがね死者を足蹴にしすぎているから今更どちらを取っても、とは考えるよ」
 芝居がかった嘆きの後に発言権を与えられ、さっそく彼は宙に浮いていた台詞を投げた。抜けるように白い眼前の細面は、彼が期待していたよりも歪まなかった。
「そうした余計な小言を抜きにすると――私が選ぶなら後者だね。既に『媚薬』で死んだ者の名誉よりは、これからカンタリジンを誤飲する可能性がある者の命を守るべきではないのかな。それに、身を守る術として毒液を分泌しているはずが、何故か好色な暗殺者の友にされるスパニッシュ・フライも不憫だ」
「余計な小言を抜きにするというなら、今しがたのキミの台詞は前半丸ごと必要なかったろう。キミは甲虫の命を憐れんでも人の命は憫れまない、そういうやつだ……」
「君のほうこそとんだ冷血漢扱いをしてくれるね、ブラザー。私にだって、知人が醜聞に巻き込まれるのを苦々しく思う心ぐらいあるさ」
 聞いて、ヴィルヘルムがまた鼻を鳴らした。内心がその目つきにありありと表れていた。――思ってもないことを言うんじゃあない。

「それで、結局君はどちらを取るのだい」
「率直な本心として、私は基本的にキミの意見には従いたくない」
「ねえブラザー、君は何故私を呼んだのだい? 八つ当たりしたところで誰からも文句の出ないような都合のいい相手が欲しかっただけかい? 本当に好適な相手を捕まえたものだ」
 マンフレートは形の良い眉を僅かに寄せて、形式上の遺憾さを示したが、本心から不快に思っていたわけではなかった。自然毒からなる事件に関わり合いを持てたのは、彼にとって間違いのない僥倖であったし、そもそも彼とヴィルヘルムの関係は最初から殺伐としたものだった。差し向かいで強い酒を飲み、微笑みながら修辞の限りを尽くして互いを冷評し、他人の不幸を判で押したような文句で嘆き、何故か最後には蜘蛛のいかに尊い生物であるかを語り合い、固い握手を交わして終わる、そんな間柄だ。それが彼らの考える交友というものだった。
「従いたくはないのだが、この度ばかりはキミの助言に従うのが全き正解だな。どのみち半年もすればみな忘れるんだ、せめてその半年間ぐらい、文明の御世に貢献しようじゃないか。あの忌まわしい紙包みは然るべき場所に提出しよう」
「是非そうしたまえ。プファンクーヘンぐらい、昨日の今日ならまだ腐ってもいないだろうしね」
「正直なところ、見た目だけなら大変うまそうなんだよ。砂糖とココナッツの掛かったやつだ。――じゃあ、そういう訳だからキミはもう帰ってくれ。ご苦労だった」
 おおよその議論に片が付いたと見るや、俳優はたちまち素っ気ない態度になり、ボックス席の戸口を手で示した。
「君は客人の扱いが粗略に過ぎるね、ブラザー・ヴィルヘルム。最初に言ったと思うけれど、私は今日だけで9時間も列車に揺られて来ているのだよ。それを――」
「私だって今朝から9時間この案件に拘束されっぱなしなんだぞ。途中に150分間の出演も挟んでな。それに、ミシェルが死んだぶんの穴は全て私が埋めるんだ。プログラムを組み直して、新しくリハーサルもしなけりゃ」
「それはそれは、どさくさに紛れて」 マンフレートが空々しく溜息をついた。
「君ときたら真実に素晴らしいスタアだ。ね、君、そろそろ本当のことを言いたまえよ。あの蜘蛛屋敷には屋根裏に肖像画が一枚隠してあって、君の代わりに年を取っているのだろう? 今回の件でまた一層深みが増したのじゃあないのかい……」
 けれどもヴィルヘルムは動じたふうもなく、彼の当てこすりを黙殺すると、黒塗りのステッキを取って立ち上がった。これ以上のやり取りは無用、と行動で示しているのだった。杖先が床を叩くと、再び幕の向こうのあらゆる音が戻ってきた――通路を行ったり来たりする係員たちの靴音、俳優と付き人との忙しない会話、携帯電話の無機質なベル。どれ一つとして客人に寛ぎを齎しはしなかった。マンフレートもそのあたりは十分承知していた。用向きが済んだ今、自分はもはや歓迎される存在ではないのだと。

「解っているとも」
 グラスに手を添えてマンフレートは言った。 「これを飲んだら帰るさ。……私の贈り物はお気に召したかい」
「いつも通り素晴らしい味だったが、個人消費低迷の煽りかね。中のマジパンが去年より少なかったよ」
 例年より遅れたクリスマスプレゼントのシュトレンに、少々手厳しいコメントが付くのを彼は聞いた。扉の開閉を背後に、硝子器の中身をそっくり空にする。気の抜けた炭酸水は苦く緩慢な後味がした。

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