ループレヒトはがたがた震えていた。光り輝くようなトルテが並ぶショーケースの影で。

紅茶の会も三時まで -Not My Cup of Tea-

 夕焼け色のソースが掛かったオレンジ・チーズケーキ越しに、異形の怪物たちが繰り広げる乱痴気騒ぎが見える。ヘビみたいに口の裂けたタキシード男が、山積みにされた芥子の実ケーキモーンクーヘンをフォークで切り刻んでいる。一つのカップに入れるべき砂糖の数がどうとか、ミルクの量がどうとか喚く女の肌は、昔フランクフルトの考古学博物館で見たミイラみたいに、硬く干からびて真っ黒だ。右手で優雅にメレンゲ菓子をつまむ若者の、左肘から先は肉ではなく巨大な飛び出しナイフ。他にも有象無象。ああ、そのうえ――どいつもこいつも紅茶を飲んでいる。

 折り目正しい礼服姿の一団が、ループレヒトの働く「ヘルマン・シュルツ・カフェ」を訪れたのはかれこれ一時間前。予定されていた来客だったので、彼はそつなく対応していた。この手の貸切営業は幾度となく経験している。だから店長も安心して任せてくれたわけだ。
 予約客たちはめいめいに飲み物、つまり紅茶を注文した。ここはカフェハウスで、つまりコーヒーを飲むための場所なんだが――否、メニューには間違いなく二種類ほどの紅茶が明記されているし、実際にストックもある。いち店員が口を出す範囲ではない。むしろ、コーヒー専門店で紅茶までも贔屓にしてもらえるというのは、なかなかに稀であり名誉なことと言えるのではないか。彼はそう納得し、けれども仕上がった紅茶を席に運ぶついで、こんなふうに添えた。
「お客様、よろしければこちらもどうぞ。今月限定のコーヒー豆でして――」
 持ち上げたデミタスが破裂するのを彼は見た。どす黒く熱い液体が己の手に降りかかり、思わず裏返った声が出たが、悲鳴を上げるにはまだまだ早すぎた。6人がけのテーブルについた団体客たちの顔が、手足が、捻れたり溶けたり裂けたりしながらおぞましい形へと変貌し、怒りに満ちた咆哮を轟かせたのだ。
「ひいっ、ひっ、い、イズビニーチェ」
 配膳用のトレイを取り落としながら、彼は声を上擦らせた。なぜ自分がロシア語で謝罪しているのかはてんで解らなかった。ドイツ語では通じなさそうだと無意識に思ったのかもしれない。なんにせよ、限定のコーヒー豆がペルー産であるとか、日替わりメニューのチョコレートヌガータルトと好相性だとかいった説明は、ベルガモット香の湯気と共に雲散霧消してしまった。

 何がいけなかったのか? 自分はただ、良かれと思って――多少は接客マニュアルに頼ってしまった面もあるが――試飲を勧めただけなのに。そりゃあ、コーヒー専門店に来てまで紅茶を頼むような客だから、そこまでコーヒーが好きなわけではないかもしれない。けれども度を超したコーヒー憎悪に取り憑かれているとも思えなかった(そんな客が専門店に来るものか)。不要なら断ってくれるだろう、ぐらいの気持ちだった。結果として、彼の行為は世にも恐ろしい宴の引き金を引いてしまった。
 彼は狼狽して床に視線を移した。三十路を過ぎた菓子職人コンディターのヘンリーが倒れている。品のいいワンピースの婦人がミイラ女に変わるのを見たとたん、白目を剥いてひっくり返ってしまったのだ。少し視線を遠くへやると、トイレのドアがある。そこにはもう一人、まだ新入りのマルクというアルバイト店員が閉じこもっているはずだ。むろん、現状の打破には何の助けにもならない。制服を汚さずに済んでよかったなとしか言いようがない。
 指示されるがままに紅茶と菓子だけ運んでいれば、異形の客たちはループレヒトに危害を加えなかった。が、上辺だけの紳士的さがいつまで持つかなど分からない。店にある茶葉だって無限じゃない。ああ神様、おれはただ己の良心に従って……いや、ごく僅かの怠慢はあったにしても、全体的には本当に良かれと思って……彼の脳裏で空虚なフレーズが渦巻いた。失敗した対人関係における「良かれと思って」など、ケチな人殺しが取り調べで発する「ついカッとなって」程度の価値しかありはしない。
 ――取り調べ。そう、願わくはここに警察官か、あるいは軍の特殊部隊員かもしれないが、とにかく何でもいいから相応の問題解決力を持った何者かがやってきて、現状をなんとかしてくれさえすれば! 事が済んだら自分は喜んで取り調べにでもなんでも応じよう。全身からアールグレイの匂いをぷんぷんさせつつ、「良かれと思って」を繰り返すことにはなるだろうが、熱いコーヒーや紅茶を頭から被って死ぬよりはずっといい……

 そのとき、対角線上にある玄関口からチリンという音がして、ループレヒトは己の祈りが通じなかったことを知った。警察官や軍の特殊部隊員なら、もっと乱暴にドアを蹴破ってくるか、入る前に何らかの交渉事を行うかするだろう。要するにあれも自分の助けにはならない。悪夢の宴に巻き込まれる人間が一人増えるだけだ。
 しかし、一応はと顔を出して様子を窺った瞬間、彼の顔は冷え切ったティーカップみたいに真っ白になった。少しばかり建て付けの悪い木戸を閉め、ちょうど店内に立った人影は、予想よりも遥かに小さかったからだ。すぐ手前のフロアランプと比較すれば一目瞭然、どれだけ好意的に見ても170cmを超えるまい。
(子供じゃないか!)
 ショーケースの台から片身を覗かせたまま、唯一正気を保っている店員は頭を抱えた。子供といっても中学生ぐらいには見えるから、まさか「14:30まで貸し切り」のチョークボードが読めなかったはずはない。どうして入ってきたんだ――彼は一瞬のうちに、これから起こり得る状況を数パターンは弾き出した。店内に広がる狼藉の有様と、半分ほど人間をやめた容姿の団体を見て、悲鳴を上げて逃げ出すか。それならまだ良い。然るべき執行組織に通報してくれるかもしれない。けれども、あまりのことに立ち竦んで動けなくなったきり、あの怪物たちの餌食にならないとも限らない。カフェハウスの従業員であり、いい大人でもある自分はどうする? 決死の覚悟で子供を守るべきなのは解るが、当然こっちだって命は惜しいのだ。

「すみません」
 はっとして彼は顔を上げた。戸口に小さな人影はもうなかった。恐る恐る立ち上がってみると、目が合った。人間の目と。
「や、ヤーJa、はい、なんでしょう」
 胸郭の中で跳ね回っているかのような、心臓の荒い鼓動を必死に宥めつつ、彼はショーケースの前に立つものを改めて見る。小奇麗な格好をした少年だ。左眉の上で分けられた短い金髪、緑がかった大きな青い瞳、起伏のまだ目立たない喉首。糊のきいたカーキ色のシャツは、襟元に臙脂のクロスタイが留められている。
「持ち帰りのケーキを予約した者です」
 低くなり始めてこそいるが、未だ成人のそれではない声で、少年は淡々と述べた。背後に場違いな特殊メイク軍団が座していることなど、まるで眼中にない様子だ。
「今日の14時50分を受け取り時刻に指定したはずですが、もしかするとわたしの時計が間違っていましたか」
「え、え、ええとですねその……具体的にその、どのような……」
 こんな非常時にも型通りの応対を続けてしまう、己の職業病を彼は呪った。舌が口の中で馬鹿みたいに震えているのが、やたら生々しく感じられた。
「失礼、12日の夜8時ごろに電話しました、ギーゼキングです」
 店員の恐慌ぶりを気にも留めていないのか、少年が落ち着き払った口振りで続ける。
「注文内容は……栗とチョコレートの棹菓子カスタニエンシュニッテンを一つと、ジャム入り揚げパンプファンクーヘンを三つ。中身がいちじくジャムのものです」
「あ、ああ……」
「それと、予約していた品とは別に」
 旬のメニューとしてガラスケースを飾る、秋の味覚豊かな菓子の名前を列挙してから、少年は一度ふうっと息をついた。それから、
「熱いコーヒーを一杯いただけますか。ミルクも砂糖もいりません」
 とだけ告げた。

 その背後でゆらりと立ち上がる、恐るべき異形の集団を前にして、今度こそループレヒトは叫ばずにいられなかった。よりにもよって何故コーヒーを――ここがカフェハウスだからに決まっているが、しかしコーヒーを!
 そう広くもないホール中に、意味をなさない悲鳴が響き渡っても、少年は眉一つ動かさずいた。周章した店員は懸命に視線を右往左往させ、カウンターに置かれた伝票を視界に入れる。注文を書き取る風を死に物狂いで装い、震える手でペンを執ると、彼は辛うじてアルファベットに見える文字をそこに記した。 "逃げろ 112に電話"
 少年の碧眼が、剣呑なメッセージをちらと見た。けれども反応はない。その間にも一団の纏うどろりとした殺気は増し、ついには先程の口裂けタキシード男が踏み出して、ゆっくり彼らとの距離を詰めてくる。まさかこの子供、本当に文字が読めないんじゃないだろうな――ループレヒトは考えたくもない可能性を思い浮かべつつ、指先で何度も紙切れを示した。
 と、不意に少年がその腕を伸ばし、固く結ばれたループレヒトの右手に触れて、柔らかく解いた。すっかり温んだペンを取り上げ、がたがたの文字列の下へ何事か書き加える。何が何だか解らぬまま、彼は青黒いインクの筆致を見た。お世辞にも流麗とは言えないが、はっきりとして力のある文字だった。
 "伏せろ 助けにきた"

 血の凍るような大音声と共にタキシード男が飛び掛かってくるのと、少年の体がショーケースの向こうに沈み込むのとは全く同時だった。小さな頭に齧り付こうとしたのだろう大口は、しかし標的を捉えられず、顎をガラスに強か打ち付けた。ループレヒトのすぐ目の前で。
「ひッ、」
 切り開かれたような下顎、びっしり並んだ人間のものより明らかに多い歯。鼻先に感じる饐えた臭い。もはや彼は喉からろくな音さえ出せなかった。けれども確かに見た――男の足元をくぐり抜けたのだろう少年が、跳ね起きざまにその股ぐらを思い切り蹴り上げたのを。
 かひゅ、という間の抜けた響き。生臭い息が歯列の間から吐き出され、無力な店員の嗅覚を甚振る。だが異形はそれ以上どうすることもできなかった。勢いをつけて振り上げられた少年の右肘が、そのまま後頭部めがけて打ち下ろされたので。
「うあ」
 二の句を告げぬ彼の前で、怪物の体がずるりとガラス面を滑り落ちた。急所だけは人間と同一らしいその肉体は、床に崩折れる寸前、茜色の蒸気となって空間に溶け去った。
 有無を言わさぬ空気が場を支配した。少年が素早く一団へと向き直り、軽く腰を落とした姿勢で静止する。深い呼吸の音。
「……事情を説明したいのは山々なんだが、猶予がないようだ。申し訳ない」
「あ」
 その場にへたり込み、両腕を使ってなんとか後ずさりつつ、ループレヒトはかくかくと頭を縦に振った。この局面で説明など望むべくもない。自分がまだ生きている理由さえ判然としないのに。

「ハハーッ、説明! 説明が必要かね。そうだろうとも」
 化生どもの中から声が上がった。群れの中心にいるスーツ姿の男だ。歯車やらネジやらで馬鹿みたいに装飾された片眼鏡をつけ、両手には長い鉤爪を生やしている。周りと比べれば異形具合はマイルドだ。
「我らこそは250年の怨みを焚き締め、海底より来たりし茶会の使徒よ。紅茶あるところに幸いを、下賤の珈琲豆どもには死を齎す!」
 過剰な緩急をつけて語られる「説明」に、ループレヒトは呆然として聞き入った。一体どんな茶葉をキメれば、こんな胡乱な口上が出てくるんだ? 煎じるものを間違っちゃいないか、だいたい何だ海底ってのは――混濁した彼の思考に、男のハスキーな声が投げかけられる。
「尤も、貴様らドイツ人には馴染みのない話かしれん。時にそこの貴様、ボストン茶会について聞いたことはあるか」
「はっ……は……」
 ボストン茶会Boston Tea Party? 馬鹿にするなよ、こちとら大学では英国植民地史が専攻だったんだぞ――彼は心の奥底でこそ果敢に言い返したが、実際に口には出さなかった。再三になるが命は惜しいのだ。
「あの忌まわしき与太騒ぎの折、ボストン港に投げ込まれた342箱の茶葉たちこそが我らの魂。そう、かつてはしがない紅茶党の端くれでしかなかった我らに、とある好事家が蒐集のひとつを開陳したのが始まりだった……12月16日の夜半、潮に沈んだ木箱の一片を!」
 一体誰なんだ、どう見ても常軌を逸しているハロウィンやろうに歴史的遺物なんか見せた馬鹿は! 彼は天を仰ぎたくなったが、考えてみればこの男たちも、変貌する前は礼儀正しい団体客にすぎなかった。その好事家とやらも第一印象に騙され、熱心な紅茶研究家にささやかながら協力するつもりで、コレクションの一部をお目にかけたのだろう。そう、良かれと思って……考えるほどに彼は悄然とした。どうしてこの世というやつは、親切者ばかり理不尽な目に遭うんだ。
 他方、少年はやはり揺るぎない態度を保ったままだった。並べ立てられる暗澹とした歴史にも、ただ無言を貫くばかりだ。規則正しい呼吸を続け、目はしっかりと前方に据えて。
「たかが木片といえ、込められた怨讐の念に限り無し。我らは万古の幽鬼と一体になり、世にはびこる炒り豆どもを成敗する身となったのだ。わかったか!」
 解ってたまるか。決して舌先を出ることのない思いを胸に、ループレヒトはただ少年の背を凝視した。もはや生存の希望はそこにしかないのだ。
 二名の聴衆から異論が差し挟まれないのを見、首魁らしき男はずいぶんと気を良くしたようだった。軽く鼻を鳴らし、大仰に周囲を見回してから、ますます熱の入った音調で話を広げる。
「さて、これだけでも説明としては十分なのだが、もう少し自己紹介をさせて貰おうかね。そも我々が奉じる18世紀英国の紅茶というものが、いかに偉大であるかについては――」

 次の瞬間、少年の身体が再び動いた。床すれすれまで落ちた両膝がばねのように動き、一揃いの革靴は鮮やかに床を蹴り出す。直線上にはまさに感極まり、大きく両腕を開いた男の姿。がら空きの胴体目がけて、固く握られた小さな拳が突き刺さった。
「は、がッ」
 短い苦悶。静寂。一拍置いてどさりという音。
「もう250年沈んでいろ、出涸らしが」
 硬質で簡素な、大きくはないがよく通る響きで、少年は言い捨てた。 「おまえたちもだ」

 たとえ人ならざる異形といえども、呆気に取られるときは取られるものなのだろう。電光石火の殴打で打ち倒された首魁を前に、怪物たちは一瞬だけ沈黙した。が、次の瞬間には己の使命を思い出したのか、猛然と反撃に転じた――少年はそれらを素早く一瞥し、彼我の距離や位置関係を把握すると、最も孤立している者の元へと一気に距離を詰めた。
 向かい来る小さな体躯を前にして、その男は油断なく構えていた。物々しく肥大化した右腕を掲げ、振るわれた少年の裏拳をいなす。続けざまに左手が伸び、生白い喉をがっちりと捉えた。不意打ちでさえなければ、子供の徒手空拳などこの程度だ、と男はせせら笑う。あとはこのまま縊り殺すだけだ。
 少年は怯みもしなかった。ただ順当に迎え撃つ、それだけが目的意識だった。彼は些かの躊躇いもなく、己の額を相手の眉間へと叩き付けた。
「あえッ!?」
 一瞬だけ力の緩んだ左腕を、少年がすかさず掴んで捻る。軽やかな音を立てて関節が逆を向く。これでもう使い物にはならない――その腕を打ち払い、淀みない動きで少年は攻撃を続けた。眉間の次は喉を、さらに肩口、鎖骨、鳩尾、腎臓!
 人体の急所を上から順に、ほんの数秒間で何発もの痛打を食らった男は、腹を抱えるようにして其の場にうずくまり――かけたところ、だめ押しとばかりの膝蹴りを顎先に受けた。乾いた音を立ててその肉体は破裂し、ざらざらと黒っぽい何かを撒き散らす。ループレヒトの視覚が混乱のあまりおかしくなったのでなければ、それは茶葉だった。
 敵対者が一人減ったところで息つく暇はない。両側から挟み撃ちにせんと襲い来る二人のうち、先に接近したほうのこめかみへ肘打ちを食らわし、下腹を蹴り飛ばして突き放す。もう片方の泥炭ミイラめいた女が掴み掛かるも、少年は迷いなく対処した。伸びてくる腕を左手の甲で撥ね、間髪入れずに掬い上げるようなカウンター。

 そこで少年の眉が微かに動いた。硬さに、だ。むろんミイラというのは干からびた死体であり、生身の肉体より硬いのは当然だが、彼の想定よりもその皮膚は固かった。鳩尾に見舞った一打の感触が違う。――ミイラ女が歪な高笑いを上げる。
 彼は即座に拳を引くと、横へと大きく飛び退いた。目標を変えたのだ。ついさっき蹴りを入れはしたが、ダウンを奪うには至らなかったもう一人へ。碧眼がその若者を、正確には左肘から先の巨大なナイフを睨めつけた。
「悪く思うな」
 薄い唇から低い呟きが漏れ、少年の右手を仄青い光が包んだ。ほんの数秒で消え失せたその燐光は、彼の瞳とよく似た色だったが、一層冷たく無機質だった。今しも彼に向かって振り翳された凶刃よりずっと。
 深々と腰を落とし、横薙ぎの一閃を避けると共に、彼は一歩踏み込んだ。続く袈裟斬りも体を反らせて躱し、さらに一歩。もう至近距離だ。三度目の正直とばかり、脇腹を向けて鋭利な銀色が突き出され、――その上腕を少年の左手が力強く押し留める。己の数センチ手前で止まった刃には目もくれず、伸び切った肘関節だけを見据え、彼は右手の指を揃えて二度振り下ろした。一度は撫でるほどに浅く、もう一度は深く!
 肉に焼きごてを押し付けたような音がした。否、焼きごてどころかアセチレンバーナーだったかもしれない。若者の腕が肘を境に寸断されるほどだから。
「必要なんだ、借りるぞ」
 断末魔の叫びには耳を傾けず、少年は外れ落ちた下腕を右手で受け止める。両足を強く踏ん張り、上半身を大きく捻る――その時にはもう背後まで迫っていたミイラ女へ、彼は勢いのまま刃を抉り込んだ。
 巨大な刺突武器は過たず女の胸を貫き、肉体に滅びを与えた。刃の突き立った一点を中心に、女の体はヘドロじみた黒い粘液へと溶解し、床にぼたぼたと落ちた。それも見る間に収縮して消えてゆく。こぼれた水が蒸発するところを早回しに見ているようだった。

 まだ立っている異形は一体しかいない。スタンドカラーシャツから継ぎ接ぎだらけの皮膚を露出した、フランケンシュタインの怪物と吸血鬼ノスフェラトゥの折衷みたいな男だ。長身痩躯の怪物は、少年と一メートルほどの距離で正対していたが、襲いかかる様子はまるで見せなかった。ただでさえ大きくぎょろりとした目は、今や眼球が零れ落ちそうなほどに見開かれている。歯の根が合わずにがちがち音を立てるのが、ループレヒトのいる場所からもはっきりと聞こえた。少年の顔は窺えない――どんな表情を浮かべているのかは、怪物の反応で察するほかない。二つの影は奇妙に静止し、底冷えのする沈黙は数十秒に渡って続いた。
 一分を超えたころだろうか、針で突かれた水風船のように怪物が弾けた。最後に撒き散らしたのは血でも水でもなく、深い橙色の香り立つ液体だった。
「あッ」
 恐怖のあまり死を選ぶ生物(あれが本当に生きていたのなら、だが)を、ループレヒトは初めて見た気がした。彼の前方で、少年はつかつかと床を踏み鳴らし、唯一原型を留めているものへと詰め寄る。首魁である男の元へ。
 ネクタイを掴んで引き起こされ、伸びていた男は呻きながら目を開けた。が、少年の顔を見るや肩を震わせ、半開きの口から引きつった声を漏らした。
「先程はすまなかったな、手が離せなくて」
 少年は峻厳として述べた。 「まだ自己紹介があると言ったか。今なら余裕をもって聞いてやれるぞ」
 頭が捻じ切れるのではないかという勢いで、男が首を横に振った。あるいは数分前の店員たちより怯えているかもしれない。
「無いのか、そうか。賢明なことだ」
 男の体が床に落ちる。少年がネクタイを放したのだ。重圧からは未だ抜け出せていないが、物理的な拘束をとりあえず解かれ、男は深々と息をついた――が、それも瞬きほどの間だけだった。
「良いか、わたしは通りすがりの魔女狩人ヘクセンイェーガーだ。この店を直接利用するのは今日が初めてだし、おまえのことも知らない。そんなものは後でじっくり知り合えばいいだけだからな」
 ネクタイから離れた少年の手が、次に掴んだのは男の首そのものだった。彼はそのまま立ち上がり、粛々と片腕を掲げる。五本の指が食い込んだ喉笛は、浅くかすれた息を辛うじて漏らすばかりで、狩人の言葉を妨げること叶わない。
「その上で、これだけは言っておく」 温度も色もない声。 「われわれに隠しごとができると思うなよ」
 がくん、と男の頭が上向いた。

 二度目の失神を遂げた男からネクタイを抜き取り、両腕を合わせて傍のテーブルに縛り付ける少年を、ループレヒトは呼吸すら忘れかけながら見守っていた。位置関係のせいで、未だ少年の顔は見えない。いま「魔女狩人」と言ったか――それが何なのか彼には判断つかなかったが、粛々と作業をこなす小柄な姿は、映画に出てくるスパイかマフィアの殺し屋だ。
「あ、ええ、と」
 果たして何と呼びかければいいのか、「お客様」と続けて本当にいいものか。混乱から立ち直りきれない頭を無理に働かせながら、彼は口を開いた。少年がはたと手を止め、肩越しに振り返った。

 そして、心臓が潰れる音がした。
 というのは言うまでもなく錯覚で、ループレヒトの肉体は内外ともに瑕疵なく存在し続けていた。だが仕方なかったのだ。彼は見てしまった。冷淡にすぎる顔をした少年の、青く大きな瞳の中に、いくつもの眼差しを――暴れ狂う獣を突き殺したばかりの狩人、寒風吹く荒野に兎を追う犬鷲、廃墟にうずくまる飢えた子供、スコープの照準を敵兵に合わせる国防陸軍ヴェーアマハトの狙撃手、そういった者たちの目を。恐怖心が麻痺しかかった彼の身体を、再び総毛立たせるには十分なものだった。
 殺されるんだ。彼は確信した。おれは殺されるんだ。紅茶党とコーヒー・マフィアの抗争に居合わせたばっかりに、ドラム缶か何かに詰め込まれて、マサチューセッツ湾の底深く沈められるに違いない。いや、ただ殺されるぐらいならまだましだ。生きたまま喰われるかもしれない、そうに決まってる……
「……はい」
 幸いにも、彼の悲観は的中しなかった。短い応えと共に、ふっと少年の眼から険が解け、元の穏やかな色を取り戻した。めいっぱいに押し殺していた息が、ようやくループレヒトの肺から押し出された。
「大丈夫ですか」
 暴漢を拘束し終えた少年が、静かな足取りで歩み寄ってくる。あんたのおかげで無事だったが、あんたのせいで大丈夫じゃない、そう言ってやりたかったものの、現実にはやはり声にならなかった。やっと死の淵を脱したのに、また心臓を握り潰されるのはごめんだ。
「申し訳ない。……原則としては、民間人を退避させてから戦闘行動に入らなければならないんです。正規の作戦なら、そうする」
「は、あ」
 目の前で膝をつき、視線を合わせて述べる少年に、彼は喉を震わせながら頷いた。
「ただ今回は本当に、わたしはただ一人で、ケーキを受け取りにきただけだったから。店内の状況を見ても、場を整える時間が無さそうで」
「あああ……」
「申し訳ない」
 言葉の一つ一つは平静そのもので、単調ではあったが、冷たさは感じられなかった。真摯な語り口だ。
 過呼吸を起こしかけている喉に手を当てながら、ループレヒトは改めてその顔をじっと見た。頬にさした血の赤みが浮き上がらせているのは、浅い切創から火傷まで、無数に刻まれた怪我の痕跡だった。これが普段の接客においてなら、保護者による日常的な虐待を疑い、通報や保護に動いてもいいところだ。だが今となっては理解できている。この少年は無力な幼子などではなく、心身ともに鍛え抜かれた無慈悲な戦士で、肌に宿しているのはくぐり抜けてきた惨禍の証だと。

 呼吸と鼓動が少しずつ復調するにつれ、ループレヒトの胸に湧き上がるものがあった。職務遂行への責任感だ。腰を抜かして怯えるだけの被害者ではいられない。彼はただ一人正気を保っているカフェハウスの店員なのだ。
「け、ケーキ。そう、そうだった。ええと、カスタニエンシュニッテン……と、いちじくの……プファンクーヘン……」
 彼は喉をやや震わせながらも、注文内容を確認し、ガラスケースを支えにしながら、よろよろと身を起こした。少年が目を瞬く。
「いや、別に今すぐとは――」
「大丈夫です」 並んだデザートの群れへと、まだ虚ろな目を注ぐ。 「それと、コーヒー」
 ふらつきながらも彼は歩き出した。店内はさっきまでの惨状が嘘のように静かだ。ヘドロじみた溶解液も、ぶち撒けられた茶葉も、茜色の香り立つ液体も、綺麗さっぱり消え失せている。ただ砕け散ったデミタスの破片と、そこから溢れた一杯のコーヒーだけが証人だ。
 壁の振り子時計が柔らかなチャイムを三度鳴らした。彼は深呼吸し、新しいコーヒーカップを手に取った。
「そうだ、豆」
「え?」
「豆……がですね、あの、当店のコーヒーは、豆をお選ぶ……お選んで……選びを……」
「落ち着いてください」 少年も立ち上がり、気遣わしげな様子を見せる。
「落ち着いてます」 ループレヒトは機械的に繰り返した。 「おれは落ち着いています」
 否、今日びロボットであっても、魔法じみた技術革新のおかげでもう少しまともな接客をするだろう。勤続6年目の精神は既にぼろぼろだ。だが、まだ生きている。
「豆の種類をお選びいただけるんです。現在は8種類ご用意があります。ですから」
 おぼつかない口調で説明しながら、彼はバーカウンターまで辿り着き、黒く薄い冊子を手に取る。コーヒー豆のメニューだ。取り落とさぬよう極端な注意を払い、少年に差し出す。
「種類……ということなら、それはあなたに任――」
 少年は受け取った冊子を見、やや戸惑ったように言い淀んだ。列記されたエキゾチックな名前の上を、青い視線が彷徨い、また店員の顔へと戻る。数秒の間。
「……いいえ、では、この今月……限定の? ペルー産、サンペドロ・テオフィロ……?」

 刹那、訥々とした少年の声の中から、ループレヒトにとっては生々しい記憶がフラッシュバックした。差し出した試飲のコーヒー。破裂したデミタス。目の前で捻じ曲げられる条理。ヘビのように裂ける男の口。
「あッ」
 彼は叫びかけたが、すんでのところで踏み止まった。少年の眉が僅かに寄せられる。
「どうしましたか」 静かな疑問符。 「わたしが思うに、あなたはまず休養を取ったほうが」
「いや、大丈夫です、おれは落ち着いています」
 何度も首を横に振り、彼は己に言い聞かせようとした。――この少年はなにも、自分の心的外傷に塩を塗り込むつもりで言ったのではないだろう。なにしろあの時はまだ店内にいなかったのだから、何が起きていたのか知るよしもないはずだ。今の自分があまりにも動転しているのを見て、「おまかせで」等という曖昧な注文で困らせたりしないよう、ただ気を遣ってくれただけなのだ。そうだ、きっと、良かれと思って……

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