壁際の丸いミニテーブル上は、空虚と空想のフルコースだ。

酔客たちの旅路 -Feel Drunk On Your Trip-

 そこにはグラスの鳴る音も、発泡酒ゼクトのきらめきも、滴る肉汁と香草の匂いもない。背の高いスツールに腰掛けた、栗毛ブルネットの娘が一人いるきり。ガラスの一輪挿しにかかったアネモネに、ゆかしげな視線を注いでいる。
 バーで働く人々は彼女のことを解っているようで、特に注文を取るでもなく、ただあるがままにさせていた――悪く言うならば放置していた。他のテーブルにつく客たちも大体はそうだ。おおかた待ち合わせに違いない、相手が到着してから最初の一杯をという心づもりだろう、等と考えては見過ごすばかりだった。彼らは酒を飲みに来たのであって、壁の花を眺めに来たのではないからだ。ずらりと並んだビアサーバーのタップに、注ぎ込まれる黄金や黒褐の精に、人々の目は移ってゆく。

 それでも――ホールを半分ほど埋めた酔漢たちの中には、娘に釘付けになる者が確かにいた。カウンター近くの立席で、空のグラスを握り締めたままの若者などがそうだった。
 彼のいる場所から正面を見据えると、ちょうど視界の真ん中にあのテーブルが立っている。襞飾りつきの白いブラウスに包まれて、すらりと伸びた細い身体が伺える。コートや帽子はクロークに預けたのだろう、手回り品は膝上のハンドバッグ一つだけ。時計を気にする様子もなければ、携帯電話などを弄る素振りも見せない。鷹揚に構えたものだ。――が、いくらなんでも長い。
 若者はそう早くもないペースで、この店が誇る醸造所直送のビールを、大ぶりのグラスに三杯ばかり干したところだった。にも関わらず、彼がテーブルについた時からいた娘は、今も壁際で霞を呑んでいるばかり。彼女が早く着きすぎたのか、それとも相手が不躾なのか、事情は知るよしもないが、あまりに孤独というものだ。
 おもむろに酒器を置いて、彼はホールを横切った。アルコールがもたらした稚気のせいかもしれないし、酔っていなくてもそうした可能性はある。藍色で統一された調度が作り上げる、非日常的な空気が彼を揺らがせた。

「こんばんは、あの、すみません」
 とはいえ、二十歳を過ぎたばかりであるこの若者には、気取ったバーに立ち入った経験こそあれ、そこで見知らぬ女性に話しかけたことなど一度もなかったから、テーブルに歩み寄っての第一声は実に頼りないものだった。喉も本調子でない。が、目だけはしっかりと相手に据えていた。蝋細工めいて白く滑らかな、小さな顔の中心に。
 娘は返事こそ寄越さなかったが、無視することはしなかった。テーブルの木目を数えているような目が、すっと上向いて若者を見る。古めかしい形のウォールランプが、大きな瞳をより明るく、金色と呼べそうなほど鮮やかに照らしている。
「いや、ずいぶん長く……何も飲まずにいるみたいだったから、気になって。待ち合わせですか?」
 何か御用、とばかり小首を傾げた娘に向かって、彼は途中でつかえながらも尋ねる。さっき潤したばかりのはずなのに、もう口の中はからからだった。
「ええ、でもお構いなく。なにしろ彼ときたらまア野放図ですの、時計と仲良くしているところなんて見たことがない」
「そうですか、それはまた……マイペースな人なんですね」
 ふっくらとした唇から放たれた「Er」という三人称は、若者の心を僅かに曇らせた。関係性は不確かといっても、男性と待ち合わせなら自分はまず分が悪い――が、完全に折れさせるには不十分だった。
「だからといって、ドイツ人のくせにね――なんて言う気はなくてよ、外国人の偏見というものでしょうから」
「まあ、それはまあ、……そうです。海外旅行でいらっしゃる?」
「そんなところですわ、長期のね」
 極度の緊張と、娘の意外な発言とに、彼の目は幾度となく瞬いた。観光客だとは思わなかったのだ。確かに、十代後半と思しき――入り口で身分証明書の提示を求められそうな――娘の顔立ちは、ゲルマン系のそれとは明らかに異なっていたが、今日びドイツは移住地として世界第二位を誇る多民族国家だ。彼女のドイツ語があまりに流暢なのと相まって、長く地元で暮らしているに違いないと考えていたのである。
「へえ、そうなんだ……長期の。数ヶ月くらいいるのかな。ここに住んでるお友達を尋ねて、とか?」
 娘が首肯する。その「お友達」が待ち合わせ相手かはまだ解らないが、今の彼にとっては些末な問題だった。
「あの、いい街でしょう、ライプツィヒって」
「とても。古くて趣のある建物と、新しく洗練された建物とが、どちらも眺めているだけで飽きないわ。それに素晴らしいカフェと夜の生活がある」
「ですよね」 彼はすかさず同意した。
「古い街ですけど、楽しめる場所がたくさんあって、なのにお手頃でね。『住みやすいバージョンのベルリン』って呼ぶ人もいるくらいですよ。……いや、これはちょっと、言い過ぎというか、人それぞれってところかな、はは」
 このテーブルは大部分の客から離れたところにあるが、それでも万が一、聞こえる範囲に愛郷心深いベルリンっ子がいる可能性を考慮して、彼は白々しいフォローを付け加えた。娘は眉一つ動かさなかった。
「にしても、えー……確かにドイツ人がみんな時間に正確なわけじゃないんですけど、やけに待たせるなあ、その人は。せっかくいい店での待ち合わせなんだ、喉も渇いてるでしょうに」
「渇いているのは貴男あなたのほうとお見受けしますけれど」
 見透かすように微笑みながら、落ち着き払った声で娘が言う。 「お水を飲んでいらしたら?」
「いや、大丈夫です。ここガス入りの水しか置いてないし、それに……どうせ飲むんだったら、そうだ、『マンダリーナ・ヴァイセ』っていうのをさっき試したんですけど、あれ、本当にマンダリンみたいな味がしますよ。さっぱりしてて、そんなに強くないし、よかったら」
 悲しいかな、これが彼にとってはなけなしの誘い文句なのだった。どんなに杯を重ねたとしても、今以上に饒舌になることはあり得ないだろう。ところが、――これは彼の欠点の一つだが、酔いのせいで諦めがましくなるということはあるものだ。
「そうね――貴男のご厚意は嬉しくてよ。でも、いくら待ちぼうけを食わされたといって、先に酔いつぶれたのではどちらが不躾かという話になりましょう?」
 流暢なばかりでなく、どこか古めかしい響きの言葉運びで、娘は彼の提案を緩やかに拒んだ。爪の先まで形よい左手の人差し指が、彼女自身の赤い唇を数度撫でる。
「ま……まあ、それもそうかな、アルコールはやめておいたほうが……いいかもしれません。どちらかというと、何かフレッシュジュースとか――」
「ねエ、紳士の方」
 今しがたまでよりトーンの低い、艷やかな響きが彼を紳士ヘルと呼ぶ。愛らしさが未だ残る面差しに比べ、あまりに爛熟した声遣い。喉の奥まで満ちていた熱がさっと冷めるのを感じ、彼はテーブルに置いていた片手をとっさに引いた。
「ちょっと考えてみましょうか。――このお店で一番の主役といったら、一体何かしらね?」
「えっ……え? ええと、それは……」
「勿論、ここのご主人は『お客様です』と仰るでしょうけれど、実際のところは美味しいお酒よ。バーですものね」
「で、ですね」
「となれば」
 軽く身を乗り出して、娘が彼の顔を覗き込んだ。大きな瞳の縁に、ちょうど年を経た蒸留酒のような、深く暗い色が浮かんでいるのが彼にも見えた。それは咎めているようでも、また愉快がっているようでもあった。
「貴男がすべきことは、その主役たちに敬意を払って楽しむことではないかしら。あたくしを口説くことではなくって」
 
 若者の顔にはまだ、アルコール由来の赤みが差したままだったが、彼自身の感覚では酔いも高揚もとうに醒めきっていた。体中から血の気というもの全てが引いて、魂のない蝋人形か何かになってしまったようだった。
「それは、その、……そのとおりです」
 急に呂律が回らなくなったような気がした。彼は声をどんどん小さくし、しどろもどろに肯定した。今すぐにでも逃げ帰りたいぐらいだったが(この店がキャッシュ・オン・デリバリーを採用していたのは幸いだった)、ここに来てようやく目覚めた彼の理性が、それだけはならないと声を上げ始めていた。
「すみませんでした」
 多分に言葉尻を震わせながらではあったが、少なくとも音量は先程の倍ほどに跳ね上がった。彼が深々と頭を下げるのを、娘はただ悠然と、真意の窺えない微笑で見守っていた。
「妾以外が許すかは分かりませんよ、言うまでもなく」
 ややあって口を開いた彼女は、そう前置きしてから続けた。
「だけれど妾、貴男が同じ過ちを繰り返しそうには見えませんから、これで御仕舞いにします。過ちはないのが一番とはいえ、過ちから学ぶことすら許さないのも薄情だわ。どうぞもう楽にして、今度こそお水を飲んでいらっしゃい」
 若者は最後にもう一度、すみません、と繰り返した。そして覚束ない足取りをなんとか引き締め、いくらか人の増えた客席を渡って、自分のテーブルへと戻っていった。空のグラスはまだ下げられていなかった。

 さて、若者の姿を見送った娘は、未だ姿を見せない待ち人に、そろそろ無聊をかこち始めていた――だからハンドバッグの内側に、短い振動がひとつ走ったとき、すぐさまその根源を検めたのだ。普段ならばこんな行動には出ない。そもそも彼女のスマートフォンは、滅多なことでは通知を寄越さぬように最適化されていたのである。
 とはいえ約束の相手が、ただでさえ無精なうえ電子精密機器と仲が宜しくないという二重苦を乗り越えて、待ち合わせに関する連絡をくれないとも限らない。数秒前までは彼女もそう思っていた。生憎、液晶画面に表示されていたのは着信履歴ではなく、つい最近部署に入った新米魔術師が、Instagramのアカウントに益体もないコメントを寄越したという報せだった。
 栗色の眉を顰めながら彼女は嘆息し、相手のアカウントをミュートした。是非にと頼まれたからフォローしてやったのに、こんな応対でいちいち通知欄を埋められては精神衛生に悪い。要らぬ面倒は断つに限る。よしんばこれがデジタルネイティブ世代の倣いだと言われようとも――今や誰もが自撮りをし、その写真をさらに「盛り」、有象無象のSNSに流しては、評価の数で一喜一憂している。過度に注目を求めた挙句、事故死にまで至る者もいると聞く。先だってもアンデスの雄大な岩山から、スマートフォンを構えた観光客が足を踏み外して転落したそうだ。――等というニュースを聞くたびに、彼女は父のことを思い出すのだった。

「お前もいずれ旅に出るのなら」 父は幼い娘にそう言い聞かせたものだ。
「一つ覚えておくといい。お前が出向くあらゆる場所では、何が主人であるかを常に考えること。美しい景色か、土地に根付く生き物たちか、素晴らしい食事か、――いずれにせよ、お前自身ではない。招かれてもいないのに訪れた客人である以上は」
 若かりし頃の父は、自他ともに許す旅人であったという。故郷にはむろん我が家こそあれ、ほとんど放浪者と言ってもよい漂泊ぶりだったそうだ。幾度となく家出を繰り返して、ある時はパリのカフェで昼夜を問わず似顔絵を書き暮らし、またある時はブリテン島に渡って英国紳士たちと口角泡を飛ばし、ある時などは南太平洋の孤島から小さな木造船に乗り込んで、モリを片手に巨大なサメやマンタを追ったとか(流石にこれは幼い彼女も信じかねた)。もちろんドイツにも繰り返し訪れている。ライプツィヒについての感想は聞かなかったが、一度はこの奥ゆかしい、新旧が交差する街の石畳を踏んでいることだろう。
「むろん、お前自身が楽しむことはとても大事だ。苦しみのために旅に出ることは、時に必要になることもあろうが、今すぐというものでもない。十分に楽しむといい。だが決して、たとえ主役の座を与えられようとも、主人になろうとしてはいけない。目の前にあるものたちから、心より歓迎される客になりなさい」
 彼女の倍ほども背の高い本棚から、溢れんばかりのアルバムを取り出しては、父は数々の旅物語を語り、その合間に教訓を挟み込んだ。分厚い台紙に綴じ込まれた写真の群れには、どれ一つとして父の姿が見当たらなかった。

 娘がこういった話を他人に伝えると、大抵は驚いたような、残念がるような顔で返される。
「それは勿体ない。娘さんにとっては、せっかくのお父さんの思い出なのに……」
 人々の言わんとするところも解るのだ。なるほど彼女の手元には、父の姿がはっきり判るものなど無に等しい。すぐ側に本人がいる間はまだしも、親というものはまず子供より先に居なくなるもの、その後で残る形がないのは寂しかろうと、彼らが同情を寄せる気持ちは理解できないでもない。が、娘にしてみれば要らぬ心配というものだった。
 確かに父は、被写体になろうとはしなかった――だが、それで父の存在が希薄になりはしなかった。寧ろ逆だ。分厚い写真束の一枚一枚、その全てから、彼の姿は克明に浮かび上がってくる。テーブルに置かれた飲みさしのワイン、荷札のついたスーツケース、脱いだままのブーツ、雑なペン字で記されたカフェの伝票、バケツ一杯に釣り上げられた魚、笑顔で手を振る土地の人々――
 父の指一本、影の一つもないからこそ、彼女の知る父の面影が、却ってそこに強く焼き付いているようだった。物心ついたときには、もう髪に白いものが交ざり始めていた父。家を預かるようになってから、おちおち国境も越えられなくなったと、苦笑しながら帳面をめくる骨ばった指。褪せた被写体に暖かな眼差しを向ける、自分自身と同じ金色の瞳も。

 そのとき、大分と賑々しくなっていたホールが、不意にそのざわめきを途切れさせた。――酔客たちの視線は店の入り口に注がれている。新しい来客があったのだ。入ってきたのは一人。背の高い青年で、歳のころなら二十歳そこら、先程の若者とさして変わらないだろう。けれども、この青年には「若者」よりも、遥かに好適な呼称があるに違いなかった。
 ドアの近くに立っていた店員が、彼の外套をさっと脱がせ、手にしていたトリルビー帽と共に預かる。現れ出たのはチャコールグレーのスーツ、というよりは「ディナージャケット」だ。裾は燕尾になっているし、内にはより淡い色のウエストコートを着ている。シャツの首元には芥子色のタイを締め、胸にも同色のポケットチーフ。あまつさえ左襟のボタンホールには、恐らくはカラーの花だろう、柔らかな色合いの造花飾りブートニエールまで挿しているのだった。それは紛うことなき「紳士」の服装だった。
 いくらこの店が小洒落た、「飲み屋クナイペ」と言い難い程度には気取ったバーだといっても、この格好はあまりに場違いだった。否、場どころか時代から間違えているとしか言いようがなかった。今日びこんな衣装をつけた若者が、堂々と登場できるシーンといったら、卒業記念のダンスパーティーか結婚披露宴ぐらいだろう。まさかこれから現金即払いで生ビールを一杯引っ掛けるはずもあるまいと、入り口付近に座る人々は絶えず好奇の目を注いだ。
 その興味と疑念の渦は、店員が彼をホールの奥、壁際に座る娘の元へと導くにつれ、弥が上にも勢いづいた。あの淑女にしてこの紳士あり、とは――さてはて二人はいかなる関係か。間違いなくただの友人や恋人、上司と部下などという言葉では表現できぬ、極めて特別な間柄なのだろう。あるいは今からそうした間柄になるのかもしれない。男性のほうが女性を小一時間待たせることになったのも、何か並々ならぬ事情があるに違いない。まさかあの撫で付け髪(櫛の一筋一筋が目に見えるほど丁寧に梳られている)をセットするために、美容院で一時間雑誌を読んでいた訳はあるまいし。

 やがて紳士は娘のもとへ至り、挨拶なのか詫びなのか、彼女と何らかの会話を交わしているようだった。――と、娘がその白い手を伸べ、上から男性へと差し出す。
 一拍置いて、完璧なエスコート。娘を伴った若い紳士が、そのまま最奥にある個室へと消えていくのを、酔客たちはめいめい違うぶれ具合の目で見守った。逞しくしていた空想は、そのあたりで段々と薄れていった。
 いかに劇的な登場を果たしたとはいえ、彼らの姿はこの店の主役に敵うものではない。人々の視線はやがて、豊かな泡の冠をいただく麦酒の王や、グラスを打ち合わせる涼しげな音、今しもオーブンから引き出された豚スネ肉のローストシュヴァイネハクセ等に誘惑されていった。
 かくして、宴の席は元の喧騒を取り戻す。

  * * *

「この際ですからね、貴男が遅れた理由については妾、説明を求めたりいたしません」
 バーにただ一つの個室はやはり藍が基調で、古都の夜空にも似たより深い色に統一されていた。しっかりとした座面のソファに腰掛けた娘は、正面の肘掛け椅子に紳士が収まるなり、きっぱりとした口ぶりで述べる。
「解り切っていますもの。フレート坊やフレートヒェン、貴男ときたら本当に、時計と無線とだけは仲良くできない人。今どき携帯電話にさえ電話交換手が入用だし、決まった時刻にアラームを掛けることすらできないのでしょう。だからもう弁明の必要はなくてよ」
「それはまた、随分と寛大なお言葉だ、御婦人フラウ
 フレートヒェン(成人男性に向けるにしては子供扱いのすぎる愛称だ)と呼ばれた紳士はといえば、自らに向けられた当てこすりを意にも介していない様子で、貴族の肖像画めいた型通りの笑みを浮かべていた。もっと直接的な罵り言葉を受けていたとしても、態度は些かも変わらなかっただろう。
「事ここに至っては、さぞかし遠大な心得をこんこんと聞かされるに違いないと思って、覚悟は固めて来たのだけれどね。慈悲の尊さに感謝しなければならないな」
「必要なのは咎められる覚悟の前に、待ち合わせの時刻をきちんと守る決意なのですけど。……良くってよ、どうせ標本室に新しい蝶かトカゲが届いたとかいう理由でしょう。それよりも」
「それよりも――ああ、そうだ。君と素晴らしい宴席を構えるにあたって、ひとつ話があってね」
 勿体つけるような間を置いた後で、彼は穏やかな、あまり温度のない声で話し出す。
「君があんまり熱心に、私が以前食べたハイネマンのシャンパン・トリュフの味が知りたいというものだから、インドのトカゲの話がちっともできないということがあったろう」
「ええ、ありましたね。それが何か?」
 鼻にかかったような笑い声。 「妾、インドのトカゲの話をしてくれなんて一度も頼みませんでしたわよ」
「私は話したかったのだよ。……それで、また今度も同じことを訊かれるのではたまらないから、仕事おわりに一箱冷蔵庫から――」
「本当!?」
 紳士が言いかけたとたん、娘の目が煌めいた。天井から下がるランプの灯よりも、いっそう輝かしい熱を持って。
「労ってくれたまえよ。あの予め宣言してから人に恩を売る、クモみたいに執念深い美男子から、やっとのことで送って貰ったのだから。……あ、ただし」
「ただし?」
「免責事項として、――つまり、現実には君を一時間ほど待たせてしまったということは、実際の食べごろもまた一時間ほど過ぎているということなのだけれど」
 仰々しく「免責事項」などと申し開きの形を取っていながら、些かも申し訳なさそうには見えない紳士を前にして、娘はさも憤慨したように腕を組んで見せた。が、その冷たい感情も、待ち望んでいた甘い喜びへの熱望を、すっかり醒ますほどではなかった。
「御馳走を前にべらべら喋る人間は、男だろうと女だろうと敬遠されてよ、フレートヒェン。お解りでしょう?」
「解るとも」
「では、どうしてテーブルの上に何も置かれていないの?」
 無論これは冒頭と同じく、説明を求めようというわけではない。紳士の側もそれは解っていたから、慎ましく歓待の準備に入った。――もちろん彼は手ぶらだ。外套や帽子も含めて、手荷物の全てはクロークに預けてしまっている。卓上に饗せるものなど、見たところでは何もない。

 他方、娘はさっとハンドバッグに手を伸ばし、蓋を開いて中身を探った――と、そこで指先に再び振動が走った。反射的に掴み出し、検める。
「あらッ」 喜色が声から零れ落ちた。
「何か?」
「いいえ。……後でね」
 お楽しみにも優先順位がある。娘は再度、手荷物の中から目的のものを探り出した。それは長さにして20cmほど、黒く飾り気のない鞘と、対照的に古式ゆかしく豪奢な柄を備えた、「短剣」と呼ぶに相応しい一振りのナイフだった。
「考えてみれば、そう、甘いものとお酒を引き合わせるのはとても幸福なことですわ。何と云ったかしら、こういうのを」
「マリアージュ?」
 紳士が小首を傾げる。肘のあたりまで背広の袖をまくった右腕が、掌を上にして卓に横たえられている。
「何だって良いの。名前だって勿論重要だけれど、今は中身のほうが大切だから……」
 鞘から抜き取れば、銀色の刃は切っ先も鋭く、一点の曇りもなく、ただの装飾品でなしに実用のものだと強固に主張していた。娘は柄を両手で握り、置かれた掌の中央に宛てがうと、ほんの僅かな力で垂直に押し込んだ。薄皮が、その下の細い血管がぷつりと切れて、見る間に血液の雫が浮き上がる――下ろしたてのセーム革に、赤珊瑚の珠を転がしたようだった。
「貴男のこともそうよ」 娘が薄く笑った。 「中身で選んだの。こんなご立派な上っ張りじゃなくて」
「中身ね」 若い紳士は吐息を漏らした。 「それが『血管の中身』を指すのは君たちぐらい――」
 赤い唇が、澄ました言葉ごと彼の掌を抑え込んだ。

  * * *

「一息ついたのなら」
 再び紳士の口から声が漏れるまで、およそ数分の時を要した。その間彼は、ゆっくりと上下する娘の白い喉や、手に掛かる栗色の巻き毛や、壁に据えられた何らかの抽象画、卓に置かれたままの小冊子などを眺めて過ごしていた。つまり平常心そのものだった。
「さっきのは何か、聞かせてもらっても?」
「さっきの? ……ああ、携帯電話のこと?」
「携帯電話かは知らないけれど」
 掌から顔を上げた娘は、再びソファ上のハンドバッグを取って、一代型落ちのスマートフォンを彼に向ける。
「お父様よ」
「君のお父上? というと、――確か今は、アメリカ……だったかな」
「そう」
 細い指が画面を撫でれば、浮かび上がるのは目に痛いような色彩の写真。見渡す限りの赤茶けた荒野と、それを貫く一文字のハイウェイ。英語で書かれた道路標識。空はセロハンじみて青い。
「これは後できちんと褒めてあげなくてはね、間違いのない偉業ですもの。単身徒歩でモハーヴェ砂漠を横断しようなんて、ちょっとやそっとの『旅行好き』にはできないことよ」
「ちょっとやそっとの吸血鬼にもね」
「妾たちはちょっとやそっとの吸血鬼ではなくてよ。――砂漠にだって狼はいるわ。妾と同じクドラクの氏族に連なる者は、まず何よりも野生を知っているの」
 瀟洒なレースのブラウス、細く締められた腰のリボン、切り揃えられた栗毛、耳を飾る小さな石。そのどれもが文明の、人が洗練に洗練を重ねてきた理性の証だ。にも関わらず娘は獣性を口にする。二者をひとつに宿す種は限られている。人の血液の中にシャンパン・トリュフの味を見いだせる種もまた限られている。
「……その野生に人の皮を被せて生きるのが、君なりの礼儀というものかい」
「まア、今更ですこと。妾は貴男たちの社会へ客に来ているんですもの。貴男たちが云うところの、そう、『ローマ人のいるところではローマ人のように』よ」
 含み笑い。 「さ、次が本番。特に好みがないなら、そうねエ、『マンダリーナ・ヴァイセ』が美味しいそうよ……」

 娘の父がまだ若かりし頃、世界にはそもそも写真機なるものが存在しなかった。
 やがて時代は進み、人々は大きな箱と小さな穴、レンズや鏡の力を用いて、印画紙の上に朧な影を、自らの生きた証を写すようになった。けれども彼らには縁のないことだった。この世のあらゆる反映に、吸血鬼は写ることができないのだ。
 だからといって、それが写真を、世界を楽しまぬ理由にはならない。かつては担ぐにも一苦労だったカメラは、日が経つごとに小さく、軽く、より鮮やかに、ものごとを写し取るようになった。そこに写らぬものの存在さえ、ありありと想起できるほどに。――嗚呼21世紀、素晴らしき文明の御世。齢400を超える吸血鬼(独身・一女の父)のSNSアカウントには、今日もスナップ写真と「いいね」の絶えることがない。

go page top

inserted by FC2 system