問題が一つある。毒殺事件を推理するためには、人が死ぬ必要があるということだ。

デカダンたちの朝食 -Dead and Breakfast-

 レモンの砂糖漬けみたいな太陽の欠片が降り注ぐ、六月五日の朝のことだった。「カフェ・カンタリス」のオープンテラスは、今日も開店早々に満席となっていた。磁器と金属器の触れ合う音が、人々のお喋りと笑い声が、その間を縫って慌ただしく動き回る店員たちの足音が、表通りに賑々しく響き渡る。
 そんな喧騒の中でただ一人、マンフレート・アルノーは沈思黙考していた。木のテーブルには品数豊かな朝食の設え。金縁仕上げのカップから、熱いコーヒーが湯気を立てる。手元には古びたペーパーバックが一冊。角の丸くなった背表紙には、「毒殺者の手引き」と英語で記してあった。むろん犯罪教唆の書ではない。毒殺を扱うミステリばかり集めた短編集だ。
 フィクションの悪影響だと言う人もあるか知れない。つまり、よくできた探偵小説を読むと、自分があたかも名探偵のごとき、叡智と判断力を兼ね備えた人物かのように錯覚してしまう。そして世にはびこる事件の数々に対し、いっぱしの口を利きたくなるというわけだ。彼の場合は毒殺だ。
 しかし問題が一つある――ここ一週間のニュースを見る限り、ドイツ国内では人が中毒死する事件など起きていない。彼が好事家精神を発揮するためには、新たに誰かが死ななければならない。

「例えば」 と彼は卓上を見た。 「この添え物だ」
 今しがた運ばれてきたばかりの、店のロゴが描かれた白磁の皿には、薄く切られた数種類のハムが美しく盛られている。艷やかで薫香豊かな黒い森風、ジュニパーの香りが鼻をくすぐるヴェストファーレン風、色白であっさりとしたリヨン風、等。
 それらの脇に彩りとして添えられているのが、ぎざぎざとした小さな緑色の葉だった。セロリか? それともコリアンダー? ……あれこれ推察するまでもなく、一口齧れば判る。俗にイタリアンパセリと呼ばれる、平たい葉の香草だ。
 これがもし、よくよく形の似た別の野草であったとすればどうだろう。例えば――パセリやセロリと同科のドクゼリを彼は思い浮かべる。広く水場に生い茂り、白いレースのような花を咲かす清楚な姿。ところが性質としてはその名に違わぬ猛毒で、おまけに摂食からの発症がきわめて早いときている。
 読みさしの本に金の栞を挟み、彼は陽光きらめくテラス席を見回す。ちょうど二つ向こうのテーブルに、彼と同じ盛り合わせを食する御婦人がいた。焼きたてのカイザーゼンメルに、スパイスの効いたピクルス、滑らかなマスタードと共に挟んで――ああ、そこに悪名高き「蛇の雑草」が紛れていたとしたら? あの御婦人は何も知らずに、香ばしいパンとハムの旨味を楽しんでいるが……
 それが苦しみに変わるまでに、半時間もあれば充分だろう。胸の奥からこみ上げるような悪心を感じ、彼女は席を立とうとするかもしれない。コーヒーではなく水を貰うために。あるいは「お化粧を直しに」行くために。
 だが彼女も、周囲の人々も与り知らぬ自然の峻厳な神秘は、既にひと仕事終えているのだ。恐らく彼女は店内への扉を開けることもできないだろう。目眩と痺れが全身を襲い、四肢からは力が失われ、その場で円を描くように一度二度よろめくだろう。石畳へと膝から崩れ落ち、もはや周囲の目など意識することすら叶わず、素晴らしい朝食を全て吐き戻してしまうだろう。たちまち騒然となる客席――座る者のいなくなった椅子に残されるのは、白いリネンのハンカチーフ。

 ここまで想像したところで、店員が彼の席に新しい皿を運んできた。直火焼きされたテューリンゲン風ソーセージが二本。皮が弾ける寸前までじっくり炙られたのだろう、褐色の焼き目が美しい。もちろんマスタードとザウアークラウト、それにジャガイモときゅうりのサラダも添えてある。
 彼は思わず鼻にかかった笑い声を漏らし、それから閑雅に「ありがとう」とだけ述べた。身に着けている濃紺の三つ揃えと同程度には、乙に澄ました場違いな態度だ。隣席でトーストを齧っていたポロシャツ姿の男性が、新聞の影からちらと彼を見た。これで三度目だった。
 フォークを刺すのも惜しくなるような焼き具合の腸詰めは、彼が軽く歯を立てただけでぱりりと割れた。烟るような炭の香りと、甘くほろ苦いキャラウェイ。何より、口中に溢れるこの肉汁ときたら!
 しかし彼は食道楽グルマンでこそあれ、美食にまつわる著述家ではなかったから、思考は早くもより物騒な疑問に取り憑かれてしまった。――腸詰めで人を殺した話はあったろうか? 殺した者を腸詰めにする話なら幾らもあるけれど。
 少なくとも、彼が持参した書にそのような話は無かった。彼はフォークを置き、探偵小説ではなくメニューの小冊子に手を伸ばす。挟み込まれた朝食のリストはもう見たから省略だ。最初のページはコーヒーを主とする飲み物の欄だが、砂糖壺に三酸化ヒ素を混ぜる手は、陳腐の極みと言えるのでこれも省略だ。空想上の毒殺魔に対して、彼は内心眉を顰める。――せめてもジン・アンド・トニックにアトロピンを混ぜるくらいの独創性を持ちたまえよ! まあ勿論、あれも失敗に終わったけれどね……
 表面上の鷹揚さを一切崩さぬまま、白い指がページを捲る。次なるはサンドイッチを含む各種のパン――と、そこにもう一枚、筆記体で手描きされた紙が入っていた。日替わりのランチメニューだ。彼の前にこの席へ座った者が、所定の箇所に戻さず出ていったのだろう。今日は火曜日。「イタリア産ほうれん草とチェリートマトのペンネ レモンクリームソースで」。

 この瞬間、彼の前頭前野に神秘的な霊感ひらめきが齎され、一対の碧眼はモルフォ蝶の表翅の如く輝きだした。アトロピン。イタリア産ほうれん草。繋がった。――否、もしも彼が現在の所懐をそのまま他者に伝えたとして、「すっとんきょうがまた性懲りもなくとんちんかんなことを」としか取られないだろうが、とにかく彼の中では繋がったのである。
 此度の彼は周囲の客席でなく、自分自身を見た。背広の左襟に挿した造花飾りブートニエールを。星のような五弁を持つ乳白色の小花だ。中心に褪せた紫色を帯びている。数輪固まって咲いたそれらを取り巻く葉には、クレープ織りめいた細かな皺。
 あれは去年の秋ごろ、イタリアでの話だったか、梱包された冷凍のほうれん草に、この控えめな野草の葉が混入したとの一報があった。食した一家が錯乱し、病院に担ぎ込まれて疑惑が生じたのだ。ドイツで一般に出回るほうれん草は、平たい葉を持つ似ても似つかぬものだが、南欧ではしばしば葉の縮れた品種も栽培されるため、収穫の際に混同されたのだろうという。
 野草の名はマンドレイク。聖書の昔から語り継がれた、恋の妖花にして魔術の秘薬。けれども現代の分類学においては、伝承のアルラウネと区別された致死の毒草。ひとたび齧れば心を惑わし、感覚を乱す。或いはその症状こそが、人を愛に溺れさすと解釈されたのか知れないが――なんにせよ被害者たる一家は不幸なことである。それこそ伝説にあるように、引き抜いたおり悲鳴の一つも上げてくれれば、ほうれん草とは間違えずに済むものを。
 彼はメニューを伏せ、ソーセージの皿を端へと追いやった。今や彼の意識は現実からも、空想上の毒殺魔からも離れ、これから死の祝宴へと臨むひとりの被害者そのものと化している。写真の一枚もない冊子の中、青いペン字の料理名から思い描いた、麗しの逸品を見ているのだ。短いパスタにたっぷりと絡んだ、麦藁色の滑らかなソース。刻んだレモンの皮と黒胡椒。もしかしたらニンニクも少しばかり効かせてあるだろうか。チェリートマトの皮には焦げ目がついて、微かなオリーブの香りを纏っているだろうし、仕上がりにはすり下ろしたチーズも振り掛けられ、ミルクの風味と塩気を加えているに違いない。
 それでも彼にとって、最も注目すべきところはシェフの細やかな心配りではない。いかなる神の悪戯か、生産者の不注意か、悪意ある第三者の差し金かは解らねど、ほうれん草の中に混ぜ込まれたマンドレイクの葉なのだ。噛み締めれば明らかに他とは違う、青い苦味と強い匂いを感じるかもしれない。こんな味のするほうれん草があるだろうかと、そこで食べるのを止める者もいるだろう。賢明な、かつ幸運なことだ。
 ――空想上の彼は言うまでもなく愚かであることを選ぶ。不運であることを願う。フォークを操る手を止めはしない。魅入られてしまっているからだ。チェリートマトの爽やかな甘味でも、レモンクリームの清々しい酸味でもなければ、ペンネの歯ざわりや黒胡椒の小気味良い刺激でもない何かに。

 やがて時は満ちるだろう。初めにやってくるのは恐らく目眩だ。焦点がふらふらとして定まらず、目の奥が痛む。それに口の中も妙に渇いてくる。食事の最中だというのに。パラソルの影からは外れた席だ、さては陽を浴びすぎて暑気あたりでも起こしただろうか? 程なくして、左胸に手を当てずとも判るほどに鼓動は乱れ始め、明らかにおかしなことが起きていると自覚する。がくんと頭が揺れた拍子に、皿から炭酸水のグラスへ視線が映る。そうだ、水分補給だ――フォークを置いて手を伸ばし、背の高い硝子器を掴んで持ち上げる。
 が、それまでだ。力のまるで入らない手からグラスは滑り落ち、なけなしの現実感と共に石畳の上で砕け散る。冷汗に濡れて火照った額が、頬が、白いクロスに重たく転げた。薄皮一枚を隔てた下で、鉛の蛇が這い回っているようだ。声にならない喘ぎが口腔に蟠り、舌がびくりと引き攣った。陽の光がやたらに眩しい。直接見ているわけでもないのに。
 新聞を読んでいた隣席の男性が、異様な気配に気付いて覗き込んでくるかもしれない。通りすがりの店員が呼び止められたりもするだろう。誰が真っ先に声を掛け、誰が救急車を呼ぶだろうか。いずれにせよ渦中の自分自身には感知できないことだ。水中に没したときと同じで、外界の音が尽くぼやけて遠いのだから。そのくせ、太陽だけは容赦なく瞳を刺してくる。たまらず目を閉じる。喉の底が熱い。額の奥が痛い。アブサンを数杯傾けた挙句、無理にシュナップスまで干した晩みたいに。
 嗚呼、けれども――閉じた瞼の下、開いた瞳孔に映るのは、緑色の妖精などではない。半裸で踊り狂う魔女たちの集会サバトだ。肉の張り付いた髑髏に巣食う蛆虫だ。夜半の農耕地を吠え回る野犬たちだ。嫉妬に身を焦がす姉妹、泥まみれで泣き叫ぶ赤子、……咎なくして首を括られた若者の影。
 その頃にはもう体中が蝋のように硬く静かで、留めるもののなくなった胃袋の中身が、半開きの口から零れ落ちるままとなるだろう。咽て咳き込む音さえ弱々しく、掠れた呻きとなって立ち消えるだろう。饐えた臭いのどろりとした液体。真っ赤なトマトの欠片と、ずたずたになった緑色の葉。誰かがつられて気分を悪くし、店内へと駆け込んでいっても、それすらとうに意識の外だ。陶然として卓に伏しながら、恍惚の泥に沈み込みながら、唇だけがただ独り言つ。――こんな目に遭うのなら、こんな目に遭えるのなら、死んでしまっても構わない。

 その時、ふいに硝子戸を叩く者があった。背後で扉が開閉音を響かせた。
 六月の晴れやかな陽気の中、マンフレート・アルノーは忘我の境地を脱した。無情な現実が豪腕を揮い、彼を引き戻したのだ。渦中の彼自身には、当分目覚めるつもりなど無かったというのに。胸の裡が爛れるような、背骨が溶け落ちるような、蜜漬けの夢を捨てるつもりなど。
 入ってきたのは、金属の盆を掲げた別の店員だった。彼の傍を抜け、前方の卓へと向かう。横を通り過ぎるおり、盆に載せられた品が見えた。涼しげな瑠璃色の菓子器に盛られた、黄金色の何やら果物だ。それにひと掬いのアイスクリーム。鼻先を掠めるのはラム酒の匂いか。
 過ぎた夢を恋うても仕方なし、彼はそのまま冷菓の行方を目で追った。黒いエプロンが立ち止まった先には、立襟シャツの若者が独り。左手の側にコーヒーカップ。右手には薄手の書籍。
「自家製バニラアイスクリーム、マルメロのラム酒漬けラムトプフ仕立てで御座います」
 菓子器を供しながら店員が言う。なるほど、あれはマルメロだったか――本当は秋の果物だけれどね、という言葉は彼の胸三寸に収まった。それに今は、注文者の手にある本のほうが気にかかる。随分と古めかしい装丁だ。表紙に踊るのは優美な飾り文字。「悪の華」と読める。ボードレールの? 否、傍に記された「ナサニエル・ホーソーン」の名。「ラパチーニの娘」だ。そうだ、古い独訳では題が異なるのだ!
 放ったらかしにしていた自分の本を、彼は手探りで引き寄せた。この凄艶に編まれた傑作選にも、同じ物語が収められている。セイヤーズの「疑惑」や、バークリーの「偶然の審判」、またクリスティの「事故」等と共に。
 ページを繰って章扉を開く間にも、彼の碧眼は少し離れた卓上に据えられていた。若者は書からひととき顔を離し、果実のねっとりした光沢に喜色を表す。口元が緩んで、視線がつと上向く。――目が合った。
 不躾な眼差しを投げていたのはマンフレートなのだが、後ろめたそうな表情を見せたのは相手のほうだった。薄茶色の瞳が左右に揺らぎ、金の撫で付け髪から視線を反らす。かといって菓子や本に意識を戻すでもない。迷った末に若者は、ペーパーバックの背表紙へ目を据えたようだった。「毒殺者の手引き」という剣呑な題へ。
 若者が数度瞬きをし、唇を僅かに動かした。あれっ、とでも言うように。盛装の読書家は背筋を伸ばし、貴族の肖像めかした目配せで応えた。

 空想上の探偵たちが、密やかに笑みを交わして暫し、それを見咎めたのか祝福したのか――もしくは単に時を告げるため、聖トーマス教会の鐘が厳かに鳴りだした。被害者と毒殺魔も兼ねているほうの青年は、長々とした息を漏らして、再び椅子の背に身体を預けた。まだ暖かいソーセージの皿を、テーブルの中央へ引き戻す。
 空になったこの器が下げられるときには、きっと自分もデザートを注文しよう。焼き目にマスタードを絡ませながら、彼は含み笑いと共にそう決めた。どの品を? 皆まで言うまい。それよりもここで迷うべきは、次なる幻想の中身のほうだろう。偶然によって引き合わされた、あの素晴らしき同好の士を夭逝さしめるにあたっては、如何なる毒が相応しいか、そういったことだ。
 彼はうっとりと瞑目し、胸中にあるもう一冊の手引書を捲った。マルメロといえばバラ科の果樹だ。アーモンドやアプリコットのような。といって、青酸による中毒死を狙うためには、種を何百個と噛み砕いてもおよそ足りないだろう。不毛な行いというものだ。山査子ホーソーンもやはり力不足だ。幹を削った杭ならともかく、実だけでは吸血鬼も殺せまい。
 では「悪の華」の力でも借りようか? それが真紅か紫苑か、遅効か即効かの差こそあれ、嘆賞すべき劇的さで息の根を止めてくれよう。この季節ならレンゲツツジも悪くない。盛りの時期は少し先だが、朱色の花から滴る蜜は、痺れるほどに甘いことだろう――溜息と共に瞼を上げれば、腸詰めの付け合せが目に入る。ジャガイモとキュウリのサラダ。そう、ジャガイモだって立派にお役目を果たせるのだ。掘り出してから皮を剥くまでに、よくよく陽射しを浴びせさえすれば。ちょうど自分が受けているような、燦々と降る初夏の光を……

 嗚呼、なんと輝かしい一日の始まりだろう! 香味の効いた粗挽き肉を噛み締めつつ、彼はこの草花遊びにいよいよ耽溺した。宝石のように麗しい紫色の仇花や、淑女の瞳を輝かす漿果、煙と化してなお人を冒す高木の枝を、心象の毒草園で幾つも手折りながら。そして夢想した、――彼もまた開いた本の向こうで、私を惨たらしく殺してくれただろうか?

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