「たってのお願いなのだけれど、君の力を貸してはくれないかい、ブルー。きっと御礼はするから」

欧州青果讃歌 -The Answer's a Lemon-

 日来強く慕っている人物からそう頼まれて、ブルーことトビアス・ブルーメンタールは張り切って早起きをしたのだった。火曜日の朝8時40分、待ち合わせ場所は旧市庁舎前。ははあ、さてはマルクト広場で花木の買い出しだな――彼はそう察していた。
 古都ライプツィヒの中心部にあるマルクト広場には、その名のとおり毎週火曜と金曜に青物市が立つ。新鮮な野菜や果物から、卵や牛乳などの畜産品、またソーセージ、チーズ、ハチミツのような加工品までが、緑と白のひさしの下にずらり。知人のお目当ては、健康に育てられた花や木の苗に違いない、と彼は考える。その知人というのが植物園の主で、常に新しい標本を求めて汲々としているのはよく解っていたからだ。

 指定の時刻を五分過ぎても、件の知人は旧市庁舎前に現れなかったが、それもブルーには織り込み済みだった。相手がおよそ現代的なデジタル時刻の概念に無頓着である――端的に言えば時間にルーズな人間であることはとうに知っている。待ち合わせは今までも幾度となくしてきたが、大抵の場合は相手が三十分以上も前から到着していて、乙に澄ました態度で待ち構えているか、さもなくば一時間経っても姿を見せず、後になって本人ではなくその友人から電話が掛かってくるのだった。驚くべきことに、この21世紀にありながら、携帯電話を携帯したり充電器に繋いだりする習慣がないのだ。つまるところ精密機器が嫌いなのである。
 このような有様なので、ブルーは最初から細かな時間に煩わされず、気長に待つことにしていた。立ち並ぶ外灯の一つに身体をもたせ掛け、ぼんやりと視線を巡らせる。市が始まるのは9時からだが、遠目に見る広場は既に多くの買い物客で一杯だ。自前の買い物袋やバックパック、籐籠などを手にした人々が、お目当てのテントを探して行き交っている。
 そこから視点を手前に戻すと、人通りはもう少しまばらだ。数年前から大規模改装中のファサードと、その作業にかかる建築業者たち。重機の前を自転車で軽やかに通り過ぎてゆく男性あり、犬を散歩させる老婦人あり。庁舎入り口のアーチをなす柱の影には、同じく待ち合わせだろうか、腕時計を確かめる様子の若い女性。顔を上げ、広場の周囲をぐるりと見渡す――目が合った。
「ンッ?」
 瞬間、彼は外灯に寄りかかるのを止め、咄嗟に姿勢を正していた。何故か――よこしまながら、女性が有り体に美人であったというのが一つ。そしてもう一つ、距離にして十メートルは離れていながら、その瞳に、眼差しに、粛然として襟を正さしめるようなものを感じたからだった。
 女性が左腕を下ろし、向きを変えた。彼へと近付いてくる。細い革紐の結ばれたショートブーツが、石畳を淡々と踏み鳴らす。決してせかせかとしない、鷹揚そのものの足取り。行き先がおそらくは自分であるということに、彼は得も言われぬ緊張と高揚を覚えた。鼓動がやにわに早くなる。

一寸ちょっと失礼しますけれど」
 足音はブルーの一メートル手前で止まった。顎先で切り揃えられた、暗い栗色の巻き毛が僅かに揺れる。被っていた黒いクロッシェを脱ぎ、片手で胸元に抱えながら、女性はそう声を掛けてきた。
「見当違いでしたら御免なさいね。もしかすると貴男あなた……お名前を、トビアス・ブルーメンタールさま、と仰るのではなくて?」
「えっ?」
 彼は目を見開き、頓狂な声を上げた。予定外の更に予定外を受けて、まともな受け答えの作法が頭から消し飛んだ――この女性はどうして自分の名を知っているのか? 一体何の用なのか? 職場絡み、大学や高校の知己、親族、普段縁のある公共施設、どれを取ってもこんな女性と直接関わりがありそうもない。
「えーと……いや、確かにおれはブルーメンタールなんすけど……その……」
「ああ良かった」
 戸惑いのあまり訥々とした語調になる彼を、金色の大きな瞳が見返した。
「いくらあのひとのお知り合いといっても、そこまでおっとりした方ではいらっしゃらないのね。安心しましたわ」
「あ、ア……?」
 白いブラウスの立襟から覗く喉が、忍び笑いに震えるのを眺めながら、彼は懸命に思考を整理した。知り合い。時間。「あの男」とは誰か。それは察するに、自分と待ち合わせをしているかの知人ではないのだろうか。共通の知り合い? 彼女もまた自分のように、ここへ呼び集められたということでは?
「あの、ってことはつまり、アルノーさんのお友達か……何かで?」
「あらッ」
 金色の目が瞬く。 「嫌だ、あたくしが来ることを知らせておかなかったのね、彼」
「はあ、まあ……おれ以外に人を呼んでるってことは全然……」
「ありそうな話。おおかた何をしに行くのか、何が目的かも言わなかったのでしょう。事情をややこしくすることだけは得意なのだから、付き合いの少なくなるはずね」
「はあ、それはまったく……その通りすね」
 彼は冷汗をかきながら頷き、若い娘の赤い唇をまじまじと見た。こんな美人が知り合いにいるだなんて聞いていない。そもそも件の知人ときたら、老若男女の区別なく、およそ人類との健全な付き合いを放棄している節があるので――随分と年嵩の友人が一人いるほかには、日常のちょっとした雑談すら危ういほどらしいのに。
 だが困惑と同時に、彼は一種の納得も覚え始めていた。なるほど、汗ばむような初夏の陽気にさえ、毛織のフロックコートなど着てうろつき回るような、服装的に倒錯した知人のことだ。その華やかな容姿でもって、良家の令嬢めいた女性と近づきになるような、社交とか接待とかいった場面に顔を出したこともあるに違いない。

「でも良かった、貴男はそうした野放図な男性ではないようで。妾の手伝いを申し出て下すって有難う」
「こちらこそ。あ、元々あなたの頼みだったんすか、……えーと?」
 ぎこちなく首を傾げるブルーに、見た限り17、8と思しき娘は目を瞬くと、たちまち苦い笑みを作った。
「まア、妾ときたら名乗りもせずに長々と。あんまり失礼……」
 軽く頭を振って、彼女は続ける。 「メラーニヤ。メラーニヤ・クレメンツィチと申します」
「クレメンツィチ、さん」
 彼はおっかなびっくり復唱した。少なくともゲルマン系ではない響きの名だ。彼個人の経験から考えると東欧、スラヴの言葉を用いる人々のものに思えた。
「おれのことはご存知なんでしょうけど、まあ改めて、トビアス・ブルーメンタールです。ブルーで良いすよ。……あー、えー、その」
 メラーニヤ、と名乗った女性から僅か目を逸らしつつ、彼は言い訳じみた声を漏らした。
「社会人にもなってこういうこと言うのはアレなんすけど、おれ、あんまりこういう、畏まったやり取りとか得意じゃなくて。何か失礼とかあったらすみません。先に謝っておきます」
「まア」
 女性は口元に手を当て、小さく笑い声を漏らした。金色の目が細くなり、細い眉が開く。友好的な、心許したかのような表情が形作られる。
「お構いなく……楽にして下すって良いのよ。妾がお高く止まっているだけよね」
「え、いやあ、別にそういうわけじゃあ……」
「今日は頼りにさせて貰いますわ」
 未だ普段の口数を取り戻せていない彼に、女性はさして気兼ねしたした様子も見せなかった。片脚を軽く引き、いくらか気取ったお辞儀カーテシー。――背筋がすらりと伸びるのと、遠くから鐘の音が聞こえだすのとは同時だった。聖トーマス教会の二番目に大きな鐘だ。9時になったのだ。
「さ、もう開場の時刻ですもの、妾たちは先に参りましょう」
「あれ、待たなくてもいいんす――や、まあアルノーさんのことだし、多分来ねえかなあ……」
「あと半刻は来ないことに賭けても宜しくてよ。こういった場には間に合ったためしがないくせ、自分から呼びつけるときにはいかにも待ちくたびれました、なんて顔をするのだから。『どうも御機嫌よう、私の美しい御婦人よ! やはり客人というものは、待てば待つほど強く印象付けられるものだね……』とかなんとか」
 大仰に手を広げながらの声真似に、ブルーは思わず吹き出した。慌てて口を抑えたはいいが、こみ上げてくる引きつり笑いとはしばらく格闘する必要がありそうだった。あまりにも似ていたのだ。
「ひひ……そうすね、本当そういうの好きなんすよね、アルノーさん。じゃ、おれ一人で十分ってこと見せちゃいますか」
 少しばかり調子に乗って、彼は彼なりに闊達な、頼りがいのありそうな表情というものを浮かべて見せた。女性は軽く眉を上げて帽子を被り直し、それから先導するように、重なり合うテントの群れへと歩き出した。

 市はもちろん盛況である。ドイツの春から初夏にかけてを象徴するような、丸々太った白アスパラシュパーゲルが、束ねて山積みにされている――この時期ばかりは青々とした普通のアスパラガスも、売り場での存在感を大きく失い、プラスチック台の隅で申し訳程度に佇むことしかできない。こちらは1kgが4.9ユーロ、あちらのもう少し質のよいものは5.9ユーロといった具合、最も等級の高いものは8.9ユーロもするが、人々はこぞって白く輝くような、大人の親指ほどもある太さの「食べられる象牙」を買い付ける。
 だが、女性はこれらシュパーゲルの群れには目もくれず、旬の味覚目当ての買い物客とゆったり擦れ違いながら、通路のさらに先を目指していた。その次は地元のフルーツ農園で、ぷっくりとした真紅のサクランボを、平たい木箱から溢れんばかりに商っている。「黒い森のサクランボケーキシュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ」を銘菓に持つバーデン地方のそれにも、色艶といい瑞々しさといい決して劣るまい。こちらも来る人来る人みな足を止めては、紙袋に1kgまた2kgと買い込んでゆく。中にはその場で袋を開け、食べ歩きにかかる者もいるほどだ。――が、女性はこれも無視した。折角だから500gばかり買っていこうかと、悠長に立ち止まって小銭入れなど取り出していたせいで、ブルーはあやうく彼女の姿を見失いかけた。
「あら失礼、とても気がつかなくって。御自分のお買い物がおありなら、遠慮なく一言掛けて下さる? 妾、急ぎませんからね」
「あ、全然大丈夫なんで……こちらこそ申し訳ないです、頼まれごとの最中によそ見してて」
 小銭入れを鞄の奥深くへ押し込みつつ、彼は浅く頭を下げた。などと言っている間にも、脇の露店にぶら下がる乾燥ソーセージクナックヴルストや、麻糸を繋がれたポーランド風の腸詰キルバサが、容赦なく彼を誘惑してくる。むろんそれらは女性の眼中にないようだった。
「まあほら、サクランボなら夏の間じゅう買えますし、今日じゃなくてもいいかなと。うまそうでしたけどね」
「ええ、粒揃いでしたわね」
 再び歩みを進めながら、女性は彼に向かって頷いてみせた。
「尤も、妾はキルシュといえば実そのものじゃあなくて、お酒のほうが好みですけれど」
「へえ?」
 この話題に彼もすかさず食い付く。なにしろ今の今まで、女性の超然とした風情に気圧され、ろくろく世間話もできなかったのだ。堂々として揺るぎない歩き方はもちろん、服装も――袖の膨らんだブラウスと、それを腰できりりと締める幅広のベルト、乗馬服を思わすぴったりとしたズボン、良くも悪くも場違いだ。庶民性の集合体が如きマルクトには、およそ縁遠そうな佇まいである。
「もしかしてアレすか、結構いける口だったり? 甘いの以外も……」
「そうねエ、強いのも弱いのも。果物のお酒なら、スモモ酒も好きでしてよ。妾の郷里くにでは『ツヴェチュゲンヴァッサー』とは言いませんけれど――ドイツでも『スリヴォヴィッツ』で通じるのではなくて」
「あー、通じます通じます、おれ好きですもん! いや、別にそんな高級なやつは飲まないんすけどね、ええ」
 声を弾ませながらも、彼は時たま自身に視線を走らせては、普段は全く意に介さない周囲の目というものを、久方ぶりに意識したものだった。力仕事を予期していたせいで、動きやすさに全てを傾けたシャツとジーンズだ。何も間違っていない。間違っていないはずなのだが、すれ違う誰もが「釣り合わなさ」を見咎めてくるような気がして、彼はいくらか縮こまった。

 やがて、ひさしの列が途切れる地点に差し掛かり、女性の足はようやく止まった。そこはやはり果物を主力とした露店で、木箱いっぱいのサクランボは言うまでもなく、イチゴやモモといった旬の品々が賑やかに並ぶ。とりわけ、太陽の色に輝くアンズの実ときたらはち切れんばかりで、ブルーは知らず生唾を飲み込んでいた。後で出直してしこたま買い込み、シロップ漬けを大瓶いっぱいに作らなければ。
 けれども女性は遅い春の名残にも、あるいは気の早い夏の実りにも気を引かれないようで、大きな瞳が見つめているものは、全く違う一角なのだった。目玉でございと盛り付けられた果実たちからは一歩下がった、何の変哲もない緑色のケースに、数だけは多く積まれている、目に痛い黄色。
「……あの、それ」
 彼は思わず要らぬお節介を焼いていた。 「地場ものとか……国産品とかじゃないすよ?」
「ええ、解っておりますとも」 女性が頷く。 「ここに『スペイン産』と」
 レモンだった。掌に乗る程度の標準的な大きさ、ワックスがけのされた滑らかな表皮。どんなスーパーマーケットにもありふれた、数個入りのネットを買うのに1ユーロもかからないような日常的存在。冷涼なドイツではほとんど栽培されておらず、市場に出回るうちの大部分はスペインないしイタリアからの輸入品、そんな柑橘類だ。
「たぶん有機栽培とか、フェアトレードとか、なんか……そういう特別なものでもないと思いますよ? BIOのシールも張ってないし」
「妾、そういう細かな付加価値には拘りませんの。とにかくレモンでさえあれば、産地がマヨルカであろうがアマルフィであろうが、何処とも知れない家の庭であろうが結構よ。――失礼、ここに置いてあるのは全部で何kgになりまして……」
 彼のさらなる解説をよそに、露店の主との直接交渉が始まった。告げられたキロ数や店頭に貼られた値段(1kgあたり1.3ユーロだそうである)を復唱しつつ、女性は暫し考え込んでいる様子だったが、直にきっぱりと顔を上げ、
「では、8kg頂きます」
 と笑顔でのたまったのである。彼は女性の凛々しい横顔を三度ほど見返す羽目になった。

「……えーと、もしかして」
 リアクションに困った末、彼はとりあえず下手なジョークに走ることに決めた。
「ご実家が石油王、もとい、レモネード王だったりとかします?」
「あら、では貴男の御実家は小劇場カバレットかしら、コメディ専門の?」
 女性は顎先に軽く指を当て、くすくすと声を立てた。心から笑っていないのは明白だった。
「いや、あー、それともアレですか? チャリティか何かでレモネードスタンドをやるとか。外国のほうじゃそういうの盛んらしいですよね? 外国ったってアメリカとかそっちですけど」
「生憎とそれも外れですの。個人的な……贈り物のためとも言えるかしらん。直接送りつけるという意味では無論なくてよ」
 詳細を答えるつもりは今のところないのだろう、はぐらかした返事だった。ハンドバッグから革の長財布を取り出し、所定の額を支払ってから、彼女はブルーに向き直る。
「それでは、御負担になってしまいましょうけれど、台車置き場までお手伝い下さる? 妾がこちらの箱を持ちますから、貴男はそちら」
 彼はまたしても目を剥いて、女性の顔を凝視した。彼女が指した先には大小二つのボール箱があった――片方が5kgで片方が3kgなのだろう――が、彼の持ち分として示されたのは小さい箱だったからだ。
「いやいやいや、おれが大きいほう持ちますって。というか、両方おれでいいじゃないすか。いけますよ、全然」
「でも、買い物をしたのは妾ですもの……」
「気にしない、気にしない。言ってみりゃ荷物持ちのために来たんすからね、おれ。おれが毎日仕事で何持ってるか解ります?」
 努めて明るく保った声で、彼は続けた。 「でかいヘビやトカゲの飼育ケース。10kg20kgはザラすよ」
「そういえば……そうねエ、爬虫類センターにお勤めと聞きましたわね、彼から……」
「ああいう職場は体力と腕力がないと勤まらないもんで。じゃ、引き受けましたよ」
 これ以上遠慮される前にと、彼は箱を重ねて腰を落とし、体全体を使って持ち上げた。問題ない、余裕をもって運べる。――あと数時間これを抱えて買い物をしろと言われたら、少々苦い顔になるかもしれないが、台車置き場までなら何の苦でもない。
「で、台車借りるのって何か手続きいるんすかね。おれ、いつもはみんな担いで帰るもんで」
 上の箱が滑り落ちぬようバランスを取りながら、彼は顔を横向けて尋ねる。女性は僅かに眉を曇らせていたが、すぐに元通りの楚々とした笑みを取り戻し、こちらへ――と片手を挙げた。

  * * *

 広場の端から端までを周って、気がつけば聖トーマス教会の鐘もこれが三度目だった。ブルーは知人の携帯電話あてに、恐らく見られることのないだろうメールを入れると、端末をポケットに放り込んで大きく息を吐く。――昼食を取るにはまだ早い時間帯だが、気温と労働とで渇き始めてきた喉に、何か流し込みたい気分にもなる頃だ。
「結局……これで合計何キロになるんでしたっけ? 50?」
 無骨な台車をごろごろと押しながら、彼は先を行く女性に問い掛けた。あの後も果物を扱う露店を中心に周り、やっとのことでかき集めた木箱やボール箱たち――中身は全てレモン――は、今や彼の視界を遮りかねない高さになっている。二回ほど、係員から搬入業者と間違えられた。
「妾の記憶と計算が確かなら、44kgでしたわねエ。本当はこれでも足りないのですけれど……」
「足りない?」 聞き返す声は、知らず知らず間の抜けたものになる。
「ただ、あるだけ全て買い占めるというのも、あまり奥ゆかしい行為とは言えないでしょう。他にもレモンを欲しがる方はいらっしゃるはずですからね」
 そうかなあ――彼は内心首を傾げたが、口には出さなかった。まあ、売りに出されているということは、多少なりとも需要があるに違いない。自分たちがキロ単位で買い込んでゆかなかったとしても。
「ともあれ、後はこれをホテル・フレーゲハウスまで運んで頂ければ万事完了ですわ。あともう少しの辛抱です」
「ホテル?」 思わず疑問符が口をつく。 「ああ、ホテルにお勤めだったんで?」
「いいえ……用度課の食材担当というわけではなくてよ。妾はただの客」
 小さく首を振りながら、女性は台車の速度に合わせ、ゆっくりと広場の出口に足を向ける。彼の頭に浮かぶ疑問符が倍ほどに増えた。客、というのはホテルの宿泊客ということだろうか? てっきりライプツィヒ市内にどこか、持ち家であれ賃貸であれ、自宅を構えているものだと彼は思っていたのだ。こんな大量に青果など仕入れるからには。
「……ま、いいか。それより、あー、喉とか渇いてません? おれは別に疲れたりとかしてないんすけど、せっかくマルクトにいるわけだし、何か――それこそレモネードとか、ラードラーなんか飲むのもいいかなって。つーか、まだ6月頭のわりに暑くないすか、今日?」
 疑問を頭から振り払うべく、彼は初夏らしい飲み物の名を口にした。彼自身の気分としてはラードラー、つまり白ビールのレモンジュース割りが勝っていた。
「そうですわね、でも週末はもっと暑くなるそうよ。30℃を超えるかもしれないと」
「げえッ、そういうの勘弁。おれんち地下室ケラーついてないんすよ、安いアパートなんで。ここ数年ほんと夏がキツくなってきてて……」
 重苦しい溜息を吐き出してから、気分を切り替えるように笑う。 「で、どうします?」
「貴男が仰るのは、つまり……妾に御馳走して下さるということよね?」
「そりゃもちろん! や、こっちが言い出しといて、じゃあ自分のぶんは自分で払ってね、ってのはないでしょう。……いや、これがアルノーさんなら、そういうとこあるかなあって気はしますけど」
 本人不在の場であまり悪口を言うのもよくないと思いつつ、彼は共通の知人を引き合いに出す。と、女性の口元に浮かんだ薄笑いが弾け、堪えきれなかったのだろう声が溢れ出した。
「うふふ、まアそうね、およそ人型の生物に対する持て成しの心に欠けているのよね、あの男は……」
 笑い声は長く尾を引き、釣られて彼も軽く同調した(あくまでも遠慮がちに)。待ち合わせの時刻から一時間半が経過しても、依然として現れない知人を思い浮かべながら――

 その時、女性の白い顔からあらゆる笑みが引っ込み、ブーツの立てる足音がぴたりと止んだ。ブルーは気づかずに数歩先へ進みかけ、慌てて台車を押す手を止めた。
「あの、どうしました?」
 すぐに返事はなかった。金色の瞳が凝視する先には、正に自分たちが目指していたドリンクスタンドがある。男性が一人で切り盛りする、いわゆるフードトラック式の簡易なものだ。ちょうど今も若い男女が飲み物を買うところらしく、張り出されたメニューや並んだカラフルな瓶を前に、何事か話し合っている。
「ごめんあそばせ」
 女性はブルーに向かって短く言い、彼の返事も待たずに、先程よりも早いペースで店先へと近づいた。足音一つ立てることなく、帽子を被った男女のすぐ後ろまで迫り、ひたりと歩みを止める。
「失礼、そちらの紳士の方?」
 大きくはないがよく通る声だった。澄み切ってはいても決して明るくはない、ひどく冷たい響きだ。愛想のよい態度で振り向いた男が、彼女を見るなり凍りつくほどに。
「あのような形でお別れしておきながら、三日にあげず太陽の下でお買い物? ――随分と天真爛漫な方でいらしたのね、貴男」
 数メートルの距離で眺めていたブルーは、突然訪れた劇的な場面に息を呑んだ。すわ、これは下世話にいう痴情のもつれというやつではないのか。彼は憚りながらも三人の男女をしげしげと見た。とりわけ女性二人のほうを。フィクションであればこうした局面において、主役を張るのは女性たちのほうだ。男性の側は大抵の場合、一瞬で視界の外に追いやられるか、さもなくば物理的な力によって沈黙させられるかだ、という思い込みがあったのである。

 ところが、現実にはもう少し過激なことが起きた。射竦められたかのように静止していた男が、やにわ側に連れていた二十歳そこらの婦人を突き飛ばし、明後日の方向へと走り出したのだ。婦人はスタンドの前に放り捨てられたまま、呆然として立ち上がりもしない。もう一人の女性は――しなやかな動きで膝を深く落とすなり、猛然と石畳を蹴って、美しいクラウチング・スタートを決めた。いささか人間離れしたスピードで、遠く駆け去ってゆくサマージャケット姿の男を追う。先行するライバルを追う短距離選手、否、もはや獲物を狩り立てる肉食獣めいてすらいる気迫が、あっという間に離れてゆく。
「え、ちょ……あの……」
 完全に取り残されたのはブルーである。彼は数秒の間ただ立ち尽くし、それからドリンクスタンドの店主と困惑したように視線を交わした。何か行動を起こさなければならないのは解っている。まさか場を捨てて帰るわけにはいかない。去っていった男女にしても、あのままでは女性が男性を殺しかねないという鬼気迫ったものを感じた。白昼堂々の刃傷沙汰は阻止する必要があるだろう。
「えっと、大丈夫すか? どっか打ってません?」
 さらに数秒の逡巡を経て、彼はとりあえず目の前にあるものから片付けることに決めた。未だ地面に倒れ込んだままの婦人へと走り寄り、屈み込んで声を掛ける。見た目に外傷は窺えないが、内的に影響があるかもしれない。それに何より、いきなり手荒な仕打ちを受けては、心が動転しても何の不思議はないのだ。
「あ……」
「なんか痛いところとかあったら、念のために病院行ったほうがいいすよ。ここならタクシーもすぐですし。――落ち着くまで座ってられる場所もありますし」
 婦人の顔を覗き込んだところで、彼はふと違和感を覚える。ただ呆気に取られているとか、強いショックを受けているというには、婦人の目はあまりにも虚ろだ。心ここにあらずと言うべきか、瞳から生気そのものが失せてしまっている。
「あー、本当に……大丈夫です? というか、もしかしてここに来る前、なんか食べたりとか飲んだりとかしました?」
 彼の心中に「薬物」の二文字が去来した。有り得ない話ではないのだ。もちろん、過去に報告された事例では概ね夜間の犯行だし、意識混濁に陥った相手をわざわざ連れ歩いたりなどはしないものだが、それでも薬を用いた婦女略取・暴行未遂は十分に疑われる。――もし相手がそうした悪辣極まりない男だったとするならば、それを追いかけていった女性の身がにわかに案じられてくる。
「ちょっと、悪いんですけど、このお姉さんのこと見ててもらっていいです? 何かあったらこれ、おれの番号なんで、呼んでもらって構わないんで」
 彼は立ち上がり、スタンドの店主にそう依頼した。財布から『ライプツィヒ市爬虫類センター』のロゴ入りの、携帯番号が載った名刺も出した。この頃には行き交う買い物客たちも、ただならぬ気配を察してか、数名が足を止めて様子を窺っていた。
「ほったらかしみたいで申し訳ないんすけど、でもおれ、おれの連れのこと心配なんで。ちゃんとまた戻ってきますから、よろしくお願いします!」
 その数名の間をすり抜け、彼は二人が去った方向へと全力で駆け出した。といっても詳しいことは方向しか解らぬ。広場の出口まで来たところで、彼は広場の警備員を見つける。ここからは聞き込みしかない。
「すいません、さっきこっちに30ぐらいの男と、後から女の子が走ってきましたよね? すごいお嬢さんみたいな格好した。どっち行ったか見てません?」

  * * *

 ライプツィヒは美しい街、歴史を誇る千年の都だ。マルクト広場に隣接する旧市庁舎をはじめ、荘厳なる中世、そしてルネサンス華やかなりし時代を偲ぶ建築物が、街の中心たる二つの教会から放射状に立ち並ぶ。滑らかに舗装された石畳、瀟洒な彫刻の施された外壁が、訪れる人々の目を楽しませる。
 だが、どんな都市でもその隅々まで美観が行き届くわけではない。賑やかな朝市から南東へおよそ1km――大通りから隔絶され、細くさびれた人通りのない道には、スプレーによる品のない落書きが目立ち、「進入禁止」の標識は塗りつぶされている。遠方の空に僅か覗いた、現代的な大学ビルとは正反対の光景。道の奥には、開発途中で計画に変更でも生じたのか、半端な形で放置された工事現場があった。申し訳程度ではあるが、防音壁やシートなどが張られており、見通しは悪い。何より袋小路だ。
畜生シャイセ……! 話が、話が違うぞ!」
 灰色のサマージャケットを着た三十がらみの男は、突如として訪れた行き詰まりに悲痛な声を上げた。立て看板によれば、工期はとうに終わっているはずだったのだ。結局のところ彼は、ライプツィヒっ子の勤勉さを少々当てにしすぎていたのである――舌打ちと共に、褪せた茶髪を掻き毟る。被っていた帽子は道中のどこかで落とした。立ち止まるどころか振り返る余裕さえなかったのだ。
 男は頭から手を離し、襟元をぐっと掴んだ。あたかも心臓を掴み出そうというかのように。全力疾走の直後であっても、彼は特段息を切らしたり、鼓動を乱したりはしていなかったが、古くからの癖を忘れることはできなかった。
「糞ったれの公子プリンツめ……時代かぶれの偏狭者め……! ただ静かに食事をしていただけじゃないか! それもかなり控えめに!」
 スプレーにまみれた標識の支柱を空いたほうの手で殴りつけながら、彼は震える声を絞り出した。金曜の夜に体験したあらゆる出来事が、その脳裏にまざまざと浮かび上がる。夜の街で知り合った女性と、ささやかながらも安穏とした会食。きらめく発泡葡萄酒ヴィンツァーゼクトのグラス、心地よい音楽、それよりもなお甘美な触れ合い――それに、怪物。

「あら、お帽子を被るのはお止めになったのね。的を得たお考えですわ。せっかくの美しい御髪おぐしを隠しておしまいになるのは勿体のう御座いますもの」
 その怪物が今、再び男のもとへと到達した。ひび割れたコンクリートとむき出しの土との境で、革のショートブーツが音もなく止まる。
 男は歯噛みしながら振り返った。視界の先にはっきりと見て取れるのは妙齢の女性だ。細身の黒いズボン、白いブラウス、颯爽とした立ち姿。上品な称賛の言葉と裏腹に、金色の目は凍えるような眼光を射る。
「とはいえ、それで見るのが妾だけというのもまた勿体ないお話。今からでも十分に間に合うのですから、改めて公子様にお目通りなすったら。妾も御一緒しますから……ね?」
「黙れッ」 諭すような女性の言葉に、噛み付かんばかりの返答。
「公子の犬め。貴様も同じよそ者のくせに……俺を審問会に突き出す権利など無いのに!」
「ええ、左様で御座いますの」
 クロッシェの鍔を軽く持ち上げ、女性は頷いた。
「妾はよそ者で、それも一時的な滞在者で、言ってみれば公子様のよい駒のようなものですわ。だからこそ、ここで手打ちにしておくのが最善と存じます。さもなければ、妾のような小娘より、もっと恐ろしいものがやって来ることになるのですから、ね?」
 その声から嫋やかさが失われることは決してなかったが、語調には荒涼とした、東欧の闇夜めいた色が濃くなり続ける。――と、あたかも言葉を裏付けるかのように、ちょうど彼らが来た道の向こうから、新たな足音が聞こえ始めた。女性のように物静かな歩みではなく、明らかに急いた賑々しいものだ。男の内心によもやという焦燥が沸き起こり、知らず片方の拳が強く握られた。血の気のない肌に爪が食い込む。

 だが、男にとっては幸いにも、やって来たのは女性以上の追っ手ではなかった。女性自身にも予想外のことだったようで、細い片眉がぴくりと動くのを、彼は確かに見た。
 女性の向こうから現れ出たのは、歳の頃20代半ばと思しき若者だった。ここまで少なからぬ距離を走ってきたのだろう、その肩は激しく上下しており、ほとんど息も絶え絶えだ。女性が目を丸くし、反射的に振り返った。
「ま……ッ、貴男――!」
 息を呑む女性に、若者はたどたどしい足取りで近付くと、何度か咳き込みながらも口を開く。言葉が出てくるまでには数秒かかった。身体を支えるように両腿に置かれた手は、本人の意思とは関係なく震えていた。
「クソ、やっと、やっ……と見つけ、いや、今のクソってのは断じてクレメン……さんに、言ったわけでは……」
 なんとか息を整えながら、何故か己の悪舌を言い訳し始める若者に、女性は些かの苦味を顔に滲ませて向き直った。
「妾、ついて来るようにとは申しませんでしたのに! どうしてお出ましになったの、何故ここを――」
「それはもう、ッ全力で、足で稼ぐというか、アレ」 荒く息を吐き出す音。
「クレメンツィチさんのことを、見たって人は、あんまりいなくて。でも、逃げてく男は、けっこう色々、目撃されてたもんで」
「まずは呼吸を楽になさって」
 女性が手短に、的確に述べる。だが声色には明らかな焦りが滲んでいた。計画にない要素がもたらす困惑だ。一方、若者はあくまでも我を通すように、首を横に振って続ける。
「だって、放ってちゃヤバいでしょ。実際、あのお姉さん、大分意識がアレだったっていうか、絶対なんか、ヤバい薬ですって。そんなん、クレメンツィチさんのことだって、心配にッ、なるじゃないすか」
「いいえ、妾のことは何も心配などありませんの。寧ろ貴男のことが心配。ね、どうぞよくお聞きになって。貴男は――」
 女性の指示はそのまま適切に、彼が取るべき行動の指針として続けられるはずだった。この場に彼ら以外の人影がなければ。――つまり、実際はそうならなかった。彼女の視線が自身から外れ、注意さえも逸れる一瞬を、何よりも心待ちにしている者がいるのだ。それが行動に移るまでに、さしたる時間は要さなかった。
 燦々たる初夏の昼光を、ぎらりと何かが反射した。太陽と熱の反映のわりには、背筋の寒くなるような色が閃いた。

「ぐう……ッ!」
 若者、トビアス・ブルーメンタールから見れば、瞬きの合間に世界が数秒ぶん消し飛んだかのようだった。視界の先にいる男が、片手を僅かに動かしたと思えば、手前の女性が苦痛の声を上げていた、そんな認識だ。先程まで気遣わしげに彼を見ていた女性は、今や圧倒的な気迫と共に男へと向き直っている。頭の横へ掲げた右手は握り締められ、そこから昏さを帯びた赤い血が、何本も筋を引いて流れ落ちていた。
 彼は何か言わなければと思い、口を開きこそしたが、漏れ出てくるのは意味をなさない上ずった音だけだった。それを生唾と共に飲み込んで、せめて状況だけでも把握しようと、必死に視線を巡らせる。女性の右手に握られているのは、どうやら小型の刃物、あるいはそれ未満の金属片のようだ。男が投げつけたのを受け止めたのだ、そうとしか思えなかった。
「あの、……あの、クレメンツィチさん」
 やっと少しばかりの冷静さが戻ってきた。彼は今度こそはっきりとした言語を口に出し、女性の前に出ようとした。が、細い左腕がすぐさま伸びて、彼を押し留めた。
「お解り頂けたでしょう、どうして妾が貴男を置いて行ったのか」
 この度は女性も振り返らなかった。刺すような目色を前方に向けたまま、底冷えのするような低音を響かせていた。彼はたじろぎ、踏み出しかけた足を引っ込めざるを得なかった。ただし、言葉ではさらに食い下がり続けた。
「でも、解るんすけど、だから放っといていいってことじゃない。おれに何かできるなら、やります。一人よりは二人いたほうが――」
 けれども次の瞬間、取り戻しかけた落ち着きを、またも吹き飛ばすような異変が襲った。彼らの前に立つ男が、突如としておぞましい吠え声を上げた――明らかに人間の声ではなく、夜の山野で聞こえるような、野獣のそれを思わす荒々しい音調が轟いた。
 ブルーは身を固くした。視界に映る男の輪郭から、ふいに何か湿った、粘液質の塊らしきものが零れたのだ。地面に向かって続けざまに、どろりとしたものが滴ってゆく。あたかも夏場の熱気に晒された屍肉が、ぐずぐずに腐って溶け落ちるのを早回しに見ているようだった。彼は思わず片手で口を抑えた。朝食の黒パンとヨーグルトがその酸味を増して、喉元までせり上がってくるのを感じたからだ。
 その間にも男は人としての形を失い、とうとう地面に広がる暗色の汚泥と成り果てた。かと思えば、それらの不定形はずるりと立ち上がり、粘つくような音を立てながら、一塊の立体物へと変わってゆく。ずんぐりとした胴体に四本の短い脚、突き出した鼻先。まるで黒い豚のようだった――が、口元に二本の鋭い牙が突き出し、陽光を受けて不吉に光った。全身には暗褐色の毛が生え、脚の先は黒鉄のような蹄に変わった。
 イノシシだ。ただし体高は女性の胸先ほどもあり、毛皮はところどころ破けて、爛れたような肉の色を剥き出しにしていた。あろうことか、そこからは先程と同じような暗色の粘液が、膿か何かのように滴り落ちているのだった。

「う、うええええッ!?」
 口を開けば消化途中のものを全て吐き出してしまいそうだったが、ブルーはなんとか悪心を押し留め、情けない声だけを上げることに成功した。だからといって何が変わるわけでもなかったが。
「な、な、な、何すかあれ、何……ヒトじゃなかッ……」
「……ノインテーター。九夜経て蘇った屍体、悪疫を運ぶもの。ザクセンの吸血鬼。妾たちの敵です」
 女性が眦をますます上げ、決然と言った。 「野放しにはできませんの。ですから失礼」
「いやでも、きゅ……吸血鬼って、そんなん相手に一体どうやって」
「まア、それは決まりきっておりましょう。流された血の復讐なら、正しくその血でするものでしてよ」
 未だ生命の潮を流す右手が開き、小さなナイフが地面へと落ちた。女性はそれを踏み躙ると、小さく唇を動かし、何事か呟いたようだった。――と、その手から濃紅色の珠が零れ落ちるのを止めた。そのかわり垂直に上昇し始めた。逆再生の映像のように。
「えッ」
 一筋の赤い線が空中に伸びた。それは一振りの細長い棒として具体化し、やっと重力に従った。女性はそれを右手で受け止め、もう片方の手を添えて、縦にくるりと回転させる。描かれた円の軌跡に沿って、棒の先端に三日月形の刃が生まれ、確かな重量をもって虚空を切り裂いた。
「貴男にも同じことをして頂けるのでしたら、妾はお好きになさってと申し上げますけれど」
 血と魔力から生み出された長柄の三日月斧バルディッシュを、女性は床掃除用のモップかの如く軽々と一回転させてから、石突を地面にしかと立てた。その向こうで、巨大はイノシシが頭を低くし、今にも突進してくるような構えを見せている。
「そうでなければ私の意見をお容れになって。どうぞ安全なところまで戻ってから警察と、ライプツィヒ支部の魔女狩人部隊へ連絡をお願いします。彼らもすぐに解って下さるはずです。初めてではないのですから」
「は……支部……」
 それから数秒の間に、様々なことが起こった。イノシシが猛然と突貫し、更地に山積みされていたコンクリートブロックを、すくい上げるようにして跳ね飛ばす。うち数個が彼らに向かい、弾丸のように飛び来たった――女性が短い気迫の声を上げ、三日月斧を大きく振り回した。硬質な塊が一つ二つと続けざまに叩き落とされ、別の一つは両断されて地に転がった。
急いで!
ハイ!
 居眠りの最中に指された子供のように、彼は勢い任せの返事をした。そして、コンクリートの流れ弾に躓きかけながらも、全速力で袋小路を後にした。そうするしかなかった。

  * * *

 ブルーは舗装道にまろび出ながら、流れ落ちる汗を懸命に拭った。女性の言に本心から従うには、彼の心には愚直さが足りなかった。さりとて具体的な解決策など思い当たらない。自分はただの人間で、爬虫類センターの非常勤職員で、動物学者ではあるが哺乳類は専門外だ。まして、人ならざるものが変じた魔獣など。
 過剰に分泌された唾液をぐっと飲み込んでから、彼は信号のない車道を一気に渡り切ろうとした。――と、そこで胸ポケットに振動が走る。咄嗟に足を止め、端末を掴み出す。もしかすると、被害者側に何らかの動きがあって、ドリンクスタンドの店主が掛けてよこしたのかもしれない。
 ところが、液晶画面に表示されていたのは知らない番号ではなかった。電話帳のデフォルトアイコン。あまりにも見慣れた名前。「マンフレート・アルノー」。

「アルノーさん!?」
 動揺のあまり一瞬「拒否」のボタンを押しかけたが、それを堪えて彼は電話に出た。あの人、とうとう自分に来た新着メールを確認できるようになったんだ――否、今はそれどころではない。
「もしもし? アルノーさんですよね!?」
『やあ、ブルー』
 スピーカーから響くのは、緊張感の一切ない従容とした声だった。電話回線の向こうで知人が切羽詰まっているのを、全く感知していないような調子だ。
『一体どうしたのだい、君たちは? 旧市庁舎の外も内も、どこを探しても居ないじゃあないか。新市庁舎と間違えていないかい?』
「あのねえ、アルノーさん」
 張り詰めていた気が急速に抜けてゆく。ブルーはよろめく身体を支えつつも、努めて緊迫感ある語調を保とうとした。
「ライプツィヒに住んでてその二つを間違える人間がいるわけないでしょうが。待ち合わせから一体何十分経ってると――いや、そうじゃない、違、」
『それでは、もう広場へ買い物に出ているのだね? あの人混みから君たちを見つけ出すのは難儀しそうだから、私はコーヒーでも飲んで待っているよ』
「呑気しないでくれますかねえ! あの、アルノーさん。すいません、アルノーさんって魔術師協会にお勤めじゃないすか」
 知人を急き立てることは諦めるべきだ、と彼は気付いた。冷静になってみれば、二人揃ってパニックになるより遥かにましだ。彼はすがるような思いで、相手の所属先を確認する。
『そうだよ?』
「番号、番号わかります? ライプツィヒ支部の番号!」
『支部の。ああ、勿論だとも。まあ滅多に連絡などしないのだけれどね。あそこは042――』
「あ、いや、やっぱりいいです」 彼自身でも驚くほど冷淡な声だった。
「そりゃアルノーさんにとって『番号』つったら郵便番号ですよね! いいです自分でなんとかします! あと念のため、マルクト広場からは出ないほうがいいすよ!」
 この期に及んでようやく、「悠長」の権化のごとき魔術師協会のソーサラー、マンフレート・アルノーの心にも、一抹の疑念が沸き起こったようだった。4G回線に乗せて届けられる音に、僅かな怪訝さが入り交じる。
『ちょっと待ちたまえ、ブルー。君は何をそこまで周章しているのだい? 協会の助けが必要な問題でもあるのかい?』
「あるんすよねえそれが! ……ッ、その」

 刹那、彼の脳裏に甦ったのは「問題」の姿だ。膿汁を滴らせる巨大なイノシシ。あちこちが破け、爛れ崩れた黒い毛皮。大鎌のごとき鋭い牙と、鋼のような蹄。漂う死臭。
「その……あの、アルノーさんが信じるかは解らないんすけど、吸血鬼……」
 彼は自制心に鞭打って、胃袋の中身の代わりに正しい単語を吐き出した。
『吸血鬼?』
「って、クレメンツィチさんは言ってましたけど、おれ実際どうなのかは解らないんすよ。なんだったか、ノイン……ノインテーター? だったか、人がコウモリじゃなくて、でかいイノシシになって。そんで、クレメンツィチさんが怪我しちゃって……残ってて……」
『ふうん』 気のない相槌だった。
「だから警察と協会の、魔女狩人でしたっけ? なんか特殊部隊みたいのが要るんすよお! それなのにアルノーさんはコレだし郵便番号だし、おれ一体どうすりゃ、ああもう――」
『頭を冷やしたまえよ、君らしくもない。ああ、何をすればというなら簡単なことさ、ブルー。君たちには既に答えが与えられている』
「ハァ!?」
 もどかしさと困惑とに駆られ、彼の喉から出る音はますます高く、調子の外れたものになってゆく。他方、魔術師は不気味なまでに調律された、閑雅な微笑さえ目に浮かぶ口ぶりで、彼に「答え」を述べるのだった。
『君たちはマルクト広場へ何をあがないに来たのだい? それこそが答えさ』
「へ?」
『レモンだ。君がいう吸血鬼の氏族、ノインテーターはレモンが弱点なのだよ』

 ――聖トーマス教会の小さな鐘が、遥か遠くから半時間の経過を報せ始めた。ブルーの眼前をロードバイクが二台、連なって過ぎていった。
「……アルノーさん」
『何だい、ブルー?』
「ひょっとして酔ってます?」
 彼としては当然の疑問を口にしたつもりだったが、この突拍子もない「答え」を導き出した知人はといえば、相も変わらず平静であった。
『まさか。私は目覚めてこのかた、丸い白パンとプレッツェルと、スモークチーズ二切れと、ハム数種類と、テューリンゲン風焼きソーセージテューリンガー・ロストブラートヴルストと、蜜漬けのマルメロと、バニラ・アイスクリーム……あとは一杯のコーヒー以外、何も口にしてはいないよ』
「またえらく優雅に食ってますねえ! フルコースじゃないすか!」
 端末を握る手に力を込めつつ、彼は自分自身の朝食と、レモンのために素通りしてきた商品たちを回想して叫んだ。そして、この知人がカフェインに弱いたちだったか、マルメロの蜜漬けにアルコールが含まれていなかったか、等に思いを馳せかけた。むろん、意識はすぐに本来の問題へと引き戻されたが。
「や、一体どうしてそんな……レモンで吸血鬼を……」
『さあ? 恐らく、南欧で栽培されるものだから太陽の性質を蓄えているだろうとか、酸っぱいものには病や汚れを遠ざける力があるとか、そういった理由ではないのかな。ともあれ、ザクセンからポンメルンにかけての吸血鬼はレモンに弱いのだよ。死者が蘇るのを防ぐため、埋葬のおりには遺体の口にレモンを押し込むべしという言い伝えまであるくらいだ』
 淀みなく述べられる理屈に、彼はしばし絶句しながら聞き入った。彼の知る吸血鬼の弱点といえば、ニンニクと太陽光と白木の杭だ。柑橘類で夜の眷属どもを追い払うなど考えもつかない。家の水回り掃除にレモン汁を撒くような話だ。
「……すげえ失礼なこと聞くんすけど、アルノーさんって別に吸血鬼の専門家じゃないすよね」
 深呼吸を挟んで、彼は多少の冷静さを取り戻した。声はもう上ずっていなかった。
『そうとも。吸血鬼に限らず、私は何の専門家でもないよ。ただの好事家ディレッタントさ』
「おれたち研究者的には、専門外の分野について語る専門家はいろんな意味で警戒対象なんすけど、でも」
 言葉が途切れる。 「でもおれは――」

 彼は「通話終了」を示す赤色を荒々しくタップし、端末をポケットに叩き込んだ。左右から一台の自動車も来ないことを確認し、そう幅のない通りを突っ切って広場へ向かった。

  * * *

 蒼天に銀の三日月が掛かる。雲を裂かんばかりに鋭さを増し、半円の軌跡を描いて唸りを上げる。
 斜めの軌道で振り下ろされた刃に対し、巨大なイノシシは急角度で右旋回、これを紙一重で躱した。黒い毛皮に覆われた体躯が、その側面を斧の持ち主へと晒す。上向きに湾曲した鋭い牙も。――女性は柄を両手で構え直し、ぐるりと一回転させて再び打ち下ろす。次に狙ったのはその牙だった。斬るのではなく、斧の下端で絡め取り、そのままへし折ってしまおうと。
 刃で牙を引っ掛けるところまでは上手くいった。だが獣のほうも黙って陥れられる気などない。二つの曲線が見事に噛み合った瞬間、猛烈な勢いで頭を振り回し、逆に女性を投げ飛ばさんとしたのだ。三方を何らかの障害物に囲まれた場である、どこかしらに叩きつけられれば重傷は免れない。
「――ッ、上手い負け方というものを御存知ないのね、貴男!」
 咄嗟に女性は柄を強く握り、常在のものとは異なる力を込めた。たちまち、水袋が破裂するような音を立てて斧頭が掻き消え、絡み合う二者の拮抗が崩れる。刃を構成していたもの――女性の血液が赤土の上に飛び散り、染み込んでいった。
 上手い負け方などと言ってはみたが、打ち合うこと実に半刻、彼女自身もまた勝利の最善手を見つけきれずにいた。三日月斧は便利な得物だが、木と鋼ではなく魔力と血で組み上げられた代物である以上、振るい続けるだけで余力を消耗してゆく。短期決戦に向けた武装なのだ。ところが予想に反し、吸血鬼は恐るべき粘りを見せた。機動力でも一撃の大きさでも、近接戦闘では女性の側が僅かに不利だった。
 かといって、白兵戦を完全に捨てることもできない。いくら表通りから離れた場所といっても、ここはれっきとしたライプツィヒの街中だ。魔法による射撃戦を繰り広げていい場所ではない。そも都市の吸血鬼たちを管轄する公子が、己の眷属たちでなく彼女に対処を任せたのも、「堅気の衆を怪異に晒さない」という意図あってのことである。
『負けだと、負け方だと。吸血鬼の敗北に上手い下手もあるものか。貴様らだって審問会だの公子の慈悲だの、人の言葉をうわべだけ弄んでいるだけで――何をする気かは解っているんだぞ、薄汚い血の害獣どもめ!』
「まア」
 笑っている場合では全くないのだが、それでも彼女は失笑してしまった。紅を引いた唇に僅かな歪み。表情の変化を見て取ったのか、巨獣は忌々しげな唸り声と共に蹄で土を掻く。
「害獣ですって、貴男がそれを仰る? 鏡を向けても映らないのが残念ですこと……それと妾、この身体に流れる血を恥じたことは一度もなくてよ。獣であることも含めてね」
 身の丈ほどの長柄を指揮杖めいて回せば、再び先端に刃が現れる。そして肉体から血液が幾らか失われる。口元では超然とした微笑を保ちつつ、女性は歯噛みしたくなる思いだった。このままでは悪循環だ。遭遇戦を予期していなかった自分の責任だが、とにかく決め手がない。否、正確には「あった」のだが、今ここには――

 瞬間、睨み合う二者の動きは同時に止まった。研ぎ澄まされた聴覚に、何かを感じ取ったからだ。それは遠く、遥かに遠くから近付いてくる音だった。並の人間ならば環境音にマスキングされて聞き取れないほどの、ごくごく微細な振動。舗装された道路に何かを転がす音。車輪の音だ。それも自動車や自転車のタイヤではなく、硬質でより直径が小さな――喩えるならば、台車か何かを全速力で押しているような響きだった。
『何だこの音は? ……否、そうじゃない、何だこの臭い・・は?』
 低い呻きに交じった男の声。彼のみならず女性もまた、空気に漂う微かな異変を察していた。土の臭いや排ガスの臭い、また血の臭いとは異なる、より凛として輝かしい香気が迫っていた。直截に言えば果物めいた匂いだった。柑橘の匂いだ――
「あら、妾、先に申し上げましたでしょう」
 金色の眼をゆっくりと細め、女性は今度こそ心からの笑みを浮かべた。
「神妙にしなければ、妾のような小娘風情より、もっと恐ろしいものが追い掛けて参りますよって……」
 音はさらに近付き、匂いもまた近付いた。疫病の獣は我に返ったかのように地を蹴り、女性に向けて猛然と飛びかかる。けれども、その動きには先刻以上の焦りが見て取れ、安定にも欠けていた。女性は突撃の進路を見て取るや、得物ごとしなやかにバック転してこれを躱した。保身ばかりではない。勢いのまま長柄をさらに回転させ、眼前に迫ったイノシシの鼻面に、鋭い斬撃までも叩き込んだのである!
 獣の眉間から黒い血が吹き出し、濁った吠え声が路地に木霊した。飛び散った膿汁を浴びぬ距離で、女性が残心と共に反攻の構えを見せている。獣はいよいよ周章し、なんとしても今ここで手を打たねばと気を急いた。が、遅かった。

 そして、角を曲がって破滅がやってきた。再び斧の刃を掲げた女性の後ろから、轍の音と共に若者が飛び出し、右手を振りかぶって何かを投じた。それは掌大の、丸みを帯びた黄色い物体だった。
 レモンだ。
『ウワア――ッ!?』
 夏の色をした果実が獣の体躯を打つなり、響き渡ったのは咆哮や絶叫というよりも、ずっと間の抜けて情けない悲鳴であった。衝突したのは石や投槍ではない、たかが人の手で投擲されたレモンだ。例えば野球選手が全力投球したストレートならまだしも、柔らかく完全な球形でもないそれは、物理的に大した破壊力とはなり得ない。
 ところが、そんなミカン科ミカン属の襲撃を受けた吸血鬼はといえば悶絶し、鉛の弾丸でも受けたかの如くに身を捩っている。斧の刃を食らったときよりも痛がっている節すらあった。
「ああ、なんて御見事な一投でしょう!」
 視線は前方に据えたまま、女性が歓喜の声を上げた。 「大手柄でしてよ!」
「へへっ、だからおれにも何かできるって言ったんすよクレメンツィチさん! もうガンガン投げちゃっていいんですよねこれ?」
「どうぞ御遠慮なく。お望みなら一度に一箱の大盤振る舞いでも構いませんわ」
「任せといてください」 若者は歯を剥き出して獰猛に笑い、新たなレモンを構えた。
「これでもギムナジウム時代は、九年生までずっと『球技王』って呼ばれてたんすからね! ――おらァ!」
 ひねりを加えた見事なオーバースロー。危機を目前にしたイノシシは避けようとしたが、ここに来て巨躯が仇となった。有効面積が広すぎるのだ。二発目は前足の付け根あたりに直撃し、その動きを完全に止める。続けざまにもう一投。
『や……やめろ! レモンは! どうしてそれを……どこからそんな……!』
「おれたちにはとっておきの知恵者がついてるってことだよ! まあ吸血鬼の専門じゃないし遅刻魔だし自力で携帯のアラーム掛けられない人だけど!」
 眼にも鮮やかな果実に打たれた場所から、まるで腐食が進行するかのように、毛皮が破けて新たな粘液が流れ落ちる。それに従って獣の身体は段々と縮み、原型を失ってゆく。最初に人型から変化した時と同じだ。もし若者、ブルーが平静の時であったなら、また悪心に襲われていたかもしれない。だが今の彼は興奮によって精神が麻痺寸前であり、目の前で繰り広げられるおぞましい光景にも却って高揚する有様であった。

「さて……妾の個人的感情としては、もう少し気合を入れてお仕置きに掛かりたいところなのですけれど」
 ぐずぐずと崩れてゆく肉塊の中には、元のとおりの人型があった。見た目に三十がらみの、褪せた茶髪の男だ。その顔面は苦痛と恐怖とで引き攣り、眉間からは一筋の血が垂れ落ちている。女性は力を失った吸血鬼につかつかと歩み寄り、三日月斧の柄を傍らへ立てると、笑み混じりに低く囁きかけた。
「でも生憎、今はまだ夜の11時を過ぎるどころか、お日様だって天頂に掛かってもいませんし、何より妾の一存で手を下してしまっては、公子様のお気も紛れませんものね。今ここでは最低限に済ませると致しましょう」
 それから、ふと肩越しにブルーの姿を見た。片方の拳を握り、もう片方にはレモンを握り、いつでも次の一撃を放てる姿勢でこちらを向いている。血気盛んとはこのことだった。もっとも、彼女にとっては今や不必要な血気だった。
「といって、穏便な手と形容するほど芳しくはのう御座いますもの。――ねえ、貴男」
「はい、何すかクレメンツィチさん! おれの出番すか?」
「いいえ。お使い立てしておきながら申し訳ないのですけれど、ここから先は貴男の御気分にそぐわぬものと存じますわ。ですからどうぞ――お休みになっていらして?
 金色の目が瞬きをぴたりと止め、ブルーへと揺るぎない眼差しを射た。緑眼とかち合った。彼はその瞳の中に、より小さく昏い点のようなものを見た。そこまでは確かに見えていた。今まで心に抱いていた、あらゆる雑念が消し飛んだ。

 それから先はあまりにも淀みない流れ。彼は手にしていたレモンを木箱に落とし、対峙する二者に背を向けると、袋小路の入り口まですたすたと歩き、コンクリートの壁に背を凭せ掛けた。四肢から全ての力が抜けた。彼は滑り落ちるように地面へと座り込み、頭をがっくりと垂れた。そして何も感じなくなった。
 あたかもおとぎ話の砂男ザントマンが、眠りの砂でも振り掛けたような有様だった。言うまでもないが、彼の心身に対して実際に働いたのは、妖精のそれよりもっと異質で強固な力だ。その主は斧を両手で持ち上げ、陥穽に落ちた獣へ凄艶な笑みを注いだ。
 
  * * *

 トビアス・ブルーメンタールは眠っていた。外界で起きる全ての出来事から隔絶されて。
 否、普通の人間が安らかに寝ているのとは違う。頭の奥底より沸き起こる、何か超越的な意思の力によって、「眠っている」という認識を与えられているのだ。実際のところ彼の肉体は覚醒していたし、五感も正常に機能している。ただ、本人がそれを理解できていないだけだ。

「……から、公子様に今更恩を……と違って……」
 そんな最中、彼の聴覚がほんの一瞬、深く沈み込んだ意識と繋がった。彼は何らかの声を「聴いた」。若い女性の声だった。傍で誰かが喋っているのだろうか? 自分は眠っているのに――いや、眠っているのに声など聞こえるだろうか。自分は目を覚ましつつあるのだ。
 と、此度は耳からの刺激ではない、意識に差し込まれるような形で別の声が、否、言葉が命じてくる。眠っていろと。まだ起きるな、と。まるで脳漿そのものが一つのメッセージとなって、脳に染み渡っているかに思えた。そうだ、まだ寝ていよう。なにしろ今日は休みなのだ。夕方までシーツに潜っていたって、誰も電話を掛けてこない。サイレントモードの勝利だ。
「……もの、後は彼らが何と……でしょう、妾が……」
 だが、女性の声はまだ聞こえた。それが彼にとって覚えのあるものだ、ということさえ認知できた。すぐにまた眠れという言葉が被さってくるが、以前ほどの強制力がないように思える。もう十分ほど前の彼ならば、驚くほど従順にはいと答えて眠りに落ちていただろう。
(これは、……クレメンツィチさん?)
 目を開け顔を上げ、確認したい。できるはずだ。ところが、どうやって目を開ければいいのかが朧気にしか解らない。それは何かとても入り組んだ動きで、黙って聴いているだけより遥かに難しいように思えるのだ。それよりは眠っているほうが簡単だ。そうだな?
(そうだ、寝よう。せっかく休みなんだし)
 火曜日の午後を無為に過ごせることの幸福を、人間はもっと有難がり、味わうべきなのだ。――彼は瞼をこじ開けようとするのを止めた。
「え? 一寸……けど、もう一度仰って……」
「だから、元々の疲労や耐性のなさは置いても、彼が目を覚まさないのは君が原因だろう、と。私が思うに――」
 しかし次の瞬間、女性の声に続いてあまりにも耳慣れた、いつ何時でも調子の変化しない響きが、はっきりと彼の耳を打った。俗世における雑事の一切を気にかけない、涼しげで悠然とした、高踏的とすら表現できそうな声音だ。悪く言えば人間的温かみに欠けているとも。
(アルノーさん!?)
「……のだよ。そのことを思えば胸も痛むというものさ。ああ、本当に大事ないといいのだけれど……」

 どんな目覚まし時計よりも強烈な覚醒作用だった。何故かは解らない。解らないが彼は目を開けた。地下鉄駅の入り口にあたる石壁が見える。そこに寄りかかった瀟洒なブラウス姿の女性が、隣に立つ青年に白い目を向けている。濃紺の三つ揃え。ネクタイは紺とレモンイエローのストライプ。陽に輝くような金の撫で付け髪。
「アルノーさ……」
 声もちゃんと出た。ただし、身を起こすまではいかなかった。彼は目だけをなんとか動かして、自分の今いる場所を把握しようと試みた。どうやらここはベンチの上だ。遠くにマルクト広場の喧騒が窺える。
「ああ、ブルー!」 青年が彼に向かって歩み寄り、高い背を屈めて覗き込んできた。
「心配していたのだよ。突然気を失ったというから、さぞ恐ろしい思いをしたのだろうと……魔女狩人部隊の諸君が言うには、心身に支障なしとのことだったけれどね」
 細い眉根を僅かに寄せて、青年はいかにも気遣わしげな台詞を口にする。が、その語調は些かの浅薄さ、そこはかとない白々しさのようなものを帯びていた。幸か不幸か、ブルーがそれに不快を覚えることはなかった。寝惚けていたからではない。解りきっていたからだ。
「いやあ、どうも、お世話かけました……いてッ」
 木の座面に手をつき、起き上がろうとしたところで、彼は背面のあちこちに鈍い痛みを感じた。どれほど長く眠りこけていたのだろうか。太陽は未だ天頂に掛かっておらず、それほどの時間は経過していないように見えるが。
「本当に妾、申し訳ないことを致しましたわ、ブルーメンタールさま」
 女性もベンチの傍へと距離を詰め、膝を折って彼と目を合わせるなり、やや早口に謝罪の意を表した。
「今朝お会いしたばかりの、それも妾の問題と何も関わりないかたを巻き込んで、痛い目に遭わせてしまうだなんて……」
「や、全然、全然気にしてないんで。痛い目ったって、ちょっとケ……じゃない、えっと、背中側の一部が痛いだけなんで。寝すぎただけすよ」
 口からてんで勝手に漏れ出そうとする言葉を、懸命に矯正しながらブルーは答えた。気心知れているでもない相手に向かって、「ケツアーシュ」等と口走りかけた己を恥じた。それから漫然と、この貴族めかした知人なら「臀部ゲゼース」だとか、あるいはもっと婉曲な言い換えをするのだろうかと考えた。以前「股間」を「紳士の領域」と呼んでいた覚えはある。

「ともあれ、こうして無事だったのだから万事めでたいことじゃあないか。我々はライプツィヒに潜伏する吸血鬼を滅ぼし……てはいないけれども、無力化して司直に委ねることに成功した。後は専門家たちに任せるのがいいだろう。一安堵といったところだね」
 その知人、マンフレート・アルノーは形式上の気遣わしさをとうに捨て、口角を僅かに上げただけの微笑を残る二人へ向けていた。ブルーは首を縦に振りかけたが、思うところがあって止めた。この人はどうして「我々」という主語を使っているのだろうか。そりゃあ確かに、電話口でレモンという答えをくれたのは彼だが、基本的には今回の騒動に関わりを持とうとしなかったではないか。待ち合わせに一時間遅刻してきた挙句、豪勢な朝食の内容を自慢していただけではなかったか。
「さ、君たちも朝から働きまわって、さぞ困憊していることだろう。昼食には少し早いけれど、何処かで軽く食事をするのはどうかな。勿論、私がテーブルを持たせて貰うとも」
 勝手に整えられていく昼食会の算段を、ブルーはベンチから片身を起こしたまま、呆れとも諦めともつかぬ心地で眺めた。女性は金色の目を半開きにし、彫像めいた青年の横顔に冷たい視線を注いでいた。
「まあ……確かにちょっと腹減ってますし、アルノーさんが言うならおれは行きますよ。なんか冷たいものでも良いすね」
「ふむ、この辺りに良いジェラテリアがあったかな。もしくは冷製のパスタが美味しい店か。折角の日和だから、テラスに座れるような場所を選びたいものだね……」
 吸血鬼の脅威など初めから無かったかのような顔で、青年は界隈の飲食店を検討しにかかる。長引きそうだな、とブルーは思った。主題が何であれ、考えごとと収拾をつけることをセットにしないのだ。いや、まだ本調子でない自分を気遣って、頭をはっきりさせる時間を作ってくれているのかもしれない。そういうことにしておこう――彼はなるべく前向きに、好意的に捉えることにした。
「いや、あんまり此処で長考していても、身体が熱されるばかりで良くないな。もう立てるかい、ブルー? とりあえず歩きながら考えるのはどうだろう。目に入るものに発見があるかもしれないしね」
「その通りで。寝てたおれはともかく、お二人は立ちっぱなしすからね、適当に落とし所を見つけないと」
 彼は首肯し、ようやく全身を己のコントロール下に置いた。まだあちこちの動きが鈍く感じるが、行動に支障はない。涼しい場所で食事でもしているうちに、きっと復調するだろう。
 立ち上がって日陰から出ると、白熱した陽光が真っ直ぐに彼を射抜く。思わず緑眼を細める彼に、女性もやっと安堵したような表情を見せる。青年は鼻に掛かった笑声を漏らし、
「決まりだ。では御婦人フラウ、後は任せたからね、宜しく取り計らってくれたまえ。――行こうか、ブルー」
 一歩前に踏み出しながら、ごく素っ気ない調子で言った。

「はい、アルノーさん! ……アルノーさん?」
「どうかしたのかい、ブルー。ああ、先に何か水でも飲んだほうが良かったかい? 瓶入りの鉱泉水ぐらいなら、そこらで買えると思うけれど」
「いや……その……」
 ブルーは立ち止まったまま、青年と女性の顔を交互に見た。脳裏に目いっぱいの疑問符を浮かべて。
「おかしくないすか?」
「何がだい?」
「や、だって、クレメンツィチさんがここに残って後始末して? おれとアルノーさんはそれを放ったらかして? 野郎二人で食事に?」
 彼の視線は右往左往し、語尾は戸惑いのために不自然な上がり調子となった。女性は顎先に左手を当てたまま、口を挟むことなく佇んでいる。
「そうとも。私と君とが揃ったところで、これ以上できることは何もないだろう。場に残っているほうが却って邪魔になるというものだよ。その点、彼女こそは正しく専門家だからね、安心して託すことができる」
「だからって……まあ、確かにおれもアルノーさんも吸血鬼のプロとかじゃないですし、こういうときの対応って何したらいいのかさっぱりすけど、だからって普通置いていきます? よりにもよって一番苦労した人を?」
 率直な疑問と苦言を呈しつつ、彼は女性のほうを憚るように見た。初夏の天光に照らされていながら、不自然に陰っているような金の瞳を。白い顔に諦念じみたものが浮かんでいるのは、恐らく彼の気のせいではない。
「それにしたって、じゃあせめて終わるまで待つとか、代わりに何か用事をやってあげるとか、あるんじゃないすかねえ、こう……」
「お気遣い頂かなくても」 女性が吐息交じりに言った。
「結構ですのよ。どうぞお二人で行っていらして。殿方だけでしかできない話もおありでしょうからね」
「いやいやいや、別におれたちそこまで突っ込んだ話題ができるほどじゃないというか、何か……まあ、アルノーさん側の話題は女性の、というより、性別を問わず食事時の人前でやるものじゃない感じすけど……」
 暑さとは違った理由で額に汗しながら、彼はしどろもどろに弁明らしきものを述べた。まだ目が泳いでいる。他方、青年は相も変わらず泰然とした、肖像画か何かのような表情のままである。
「そこまで人目を憚るような話をしたことがあったかな。私はよく知りもしない相手に宗教論をぶったり、床屋政談に興じたりする趣味はないのだけれどね」
「……アルノーさん、一応言っときますけどね、普通の人は政治の話ぐらいはしても、ちょっといい喫茶店でコーヒー飲みながら、『切断された毒ヘビの頭が人間を噛んで病院送りに』みたいな話はしないんでね?」
「おや」
 予め計算されていたかのような角度で、青年が小首を傾げた。瞬きが二回。夏の青空というよりは、凍りついた真冬の湖のような碧眼が、いかにも不思議そうに彼を覗き込む。
「おかしなことを言うね、ブルー。君は、自分の周りにいるものたちが、みな普通の人間だと信じているのかい?」

 ――いや、今のは何てことのない、ただの軽口だ。ブルーはそう思い込もうとした。この青年には定期的にすっとんきょうなことを言い出す癖があるのだ。首筋に言い知れぬ寒気が走ったのは、汗をかいていたところに風が吹き付けたからだ。そうに決まっている。
「さて、これ以上の異論が無いようなら、我々は出発しようじゃあないか。食事処が軒並み混雑し始めないうちにね」
 彼の心中などまるで気にした風もなく、青年が話題を打ち切った。ウエストコートの金鎖を手繰って、懐中時計を取り出しながら。
「ですけど、その……」
「君が案じることはないよ。何の埋め合わせもしないわけではないさ。彼女にはきちんとお礼をするとも、日を改めてゆっくり、ね」
「それならまあ――って、何すかそれ!? 日を改め……それはその……アルノーさん!?」
「何だい、ブルー?」
「そういうアレだったんすか!? いや解りますけどズルくないすかねえ! そういうのは! それはあんまりにもアルノーさんばっかり役得……というか、クレメンツィチさんとも普段そういうお話をなさるんで……?」
「まあ、よく聞いて下さいましたこと、ブルーメンタールさま」
 栗色の巻き毛を軽く掻き上げて、女性がくすくすと笑みを漏らした。目は全く笑っていなかった。
「常習犯ですの。先だってはバーで最初の乾杯をする前に、『イヌやネコはなぜ死んだ飼い主を食べるのか』なんて話を三十分も聞かされましたのよ、妾。統計的に最も『好まれる』部分は、ですとかね」
「うわあ……」
 彼は暗澹たる面持ちで知人の顔を見、その場面を想像しては辛くなった。――自分はたまたま関心のある分野が被っていたから良かったものの、動物学的とまるで縁のない相手にさえ同じ調子で接するなら、聞かされる側にとっては地獄のような会食だろう。しかも酒が回ってからでなく、素面のままで三十分とは。
「……そう言われるとなんか、おれたち二人だけで行ったほうが全然マシな気がしてきましたね、確かに」
「解ってくれるかい? 彼女と私の間には、そうした認識が成立しているのだよ。だから心配しないでくれたまえ」
「あの、アルノーさんがドヤ顔するところじゃないですからね? 要するに反省と改善を要求されてるんすからね?」
 何故かしたり顔で割り込んでくる青年に、さすがの彼もやや冷たい目を向けざるを得なかった。とはいえ、これで延々と女性の処遇を話し合う必要はなくなりそうだった。後腐れがないとは言わないが。
「じゃあ、あの、すみませんけどアルノーさん持って行かせてもらいます……ちゃんとこう、クレメンツィチさんがいかに頑張ったかはお伝えしておきますんで……」
「ええ、どうぞ妾の分まで」
 女性が軽く顎を引き、冗談とも本気ともつかぬ言葉を掛けた。 「楽しんでいらしてね」
「では御機嫌よう、フラウ・クレメンツィチ。――またの機会に」
 既に旧市庁舎へと足を向けていた青年は、優雅に身を翻すと片手を広げ、ボウ・アンド・スクレープの完璧な一礼を決めた。そして、これで誰も文句など言うまいとばかり背筋を伸ばし、若い学者の肩を叩いて出発を促した。

 ブルーは気付かなかった。元の姿勢に戻らんとする正にその時、青年と女性の間で目配せが交わされたことに。青年の碧眼からはあくまで取り澄まして、女性の金眼はそれよりも剣呑さを帯びて、意味深長な視線が互いの肌を撫でる瞬間に。ましてや、陽を浴びて銀に煌めく街灯の支柱に、曇り一つなく磨かれた庁舎のガラス戸に――地上のあらゆる反映に、女性の姿だけが写っていなかったことなどには。
「さて、……本当に何を食べようかという話だけれど、君さえ良ければ私は何か、肉料理をという気分だね」
「良いんじゃないすか? 肉の種類までこだわるんでなきゃ、広場から出る必要すら無さそうですし」
 何事も無かったかのように、若者たちは揃えもしない歩調で道を横切り、昼食についての取り留めもない会話へと移る。ブルーの心にはまだ罪悪感が燻っていたが、努めて気にしないことにした。自分よりずっと深いであろう二者の関係性に、今日知り合ったばかりの者が口出ししても仕方なし。何より彼は疲れて、腹を空かしていたのだ。
「種類ね。ふむ、流石に今はジビエの時節ではないから……そうだね、例えば冷製の豚すね肉のローストシュヴァイネハクセをレモンソース仕立てで、というのはどうだろう?」
「……あのですねアルノーさん、言いたかないんすけど、でも、そういう所すからね? 本当そういう所すからね?」

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