「英語圏には、"あなたはあなたの食べたものYou are what you eat"という言葉があるけれど」

毒蝶と黒鳥 -Swan and Swank-

 若い紳士は碧眼を細め、たった今つまみ取ったものを矯めつ眇めつした。大人にとってはほんの一口ほどしかない焼き菓子だ。薄手の生地に息を吹き込んで膨らませたような、丸みを帯びた形に金茶色の焼き目が美しい。
「だとすればモンシロチョウに毒がないのは道理ということになる。我々にとって最も身近な友のひとつであるところの、キャベツを糧として育ち上がるのだからね。タテハチョウの類がしばしば毒草のもとで幼少期を過ごし、身体にその毒を蓄えてゆくのとは対照的だ」
 ドイツ北西部はデュッセルドルフの小劇場――とは当たり障りのない表現で、端的に言えば「キャバレー」――の広々とした楽屋。ちょうど昼公演マチネがはねたばかりであり、廊下は行き交う係員や役者たちで喧しい。そんな騒音も防音扉ひとつ隔てれば影も形もなく、紳士の物言いもどこか瞑想的な調子だった。
 むろん独り言ではない。粉砂糖で飾られた甘い一塊を、開いた口にぽんと放り込んでは咀嚼し終え、彼は暫し沈黙する。濃灰のタキシードに包んだ背筋を伸ばし、「相手」の反応を待つように、均整の取れた微笑を浮かべたまま。
「キミの言いたいことはまあ理解できるさ。わたくしだって節足動物の研究者だからな。チョウは専門外だが、それこそ研究対象の食餌だ。……問題は」
 その相手――コーヒーテーブルを挟んだ向かい、赤いカバーの掛かったソファに座っている、二十歳そこらの色白な青年は、脚を広げた居住まいを崩さずに答えた。右手には銀のスプーン。無遠慮に紳士の顔を指す。
「何故キミがまたぞろ唐突に、それもキャベツやアブラナやイラクサなんかじゃなく、人間にのみ許されたような菓子を食べているときに言い出したのかということだな。いや、キミの言動が常日頃からすっとんきょうなのは承知の上だが、せめて私の楽屋では、クモ以外の愛玩動物の話はしないでもらいたいね」
 かく語る声色も、穏やかであれば人の心を蕩かすであろうテノールの中に、いかにも見下したような棘が目立つ有様。返事をするのも大儀だとばかりの語調だが、それにしては長台詞だった。鼻を鳴らし、青年は卓上の銀器に手を伸ばす。レース紙が敷かれた平たい大皿から、ほっそりとした指が別の菓子を取り上げる。粉砂糖とピスタチオで着飾ったチョコレート色の生地は、そのまま彼の口元へ。
「まあキミの意図はともかく、このヴィントボイテルは美味いな。どこの菓子店コンディトライだ?」
 冷め切ったコーヒーで流し込み、紙ナプキンで指先を拭ってから、青年は何の気なしに問うた。と、紳士は軽く眉を上げ、さも優越感を覚えたように舌を鳴らして、
シュー・ア・ラ・クレーム chou a la creme
 首を横に振りながら訂正した。ドイツ語のRとは明確に異なる、囁くような鼻濁音を伴った「正確な」フランス語で。

 青年が気を悪くしたのは言うまでもない。甘いマスクを作り上げていた灰色の目が、確固たる攻撃性を孕んで正面に据えられる。続けざまに大仰な溜息と、さらに圧を増した声。
「これは失礼。なにしろ私は」 勿体付けるような間。
「フランスかぶれのマンディ坊っちゃんとは違って、言語といえば"ラ・ラング・アレマンドla langue Allemande" のほか、せいぜい英語ぐらいしか喋れないんでね。ギリシャ語も落第だったし、ラテン語なんかキミより多少マシな程度だ。キミが博学多才な国際人であることを誇りたいのはよくよく解るんだが、そういうのは後にしてくれ。で?」
「おや、私よりは君のほうが、よほど"狡猾な言語学者cunning linguist"であると思っていたのだけれどね。考えを改めたほうが良さそうだ。今度からはちゃんと"クリームパフ"を持ってくるよ……」
 威圧的に発されたフランス語(アクセントは滑稽なまでに強調されていた)に対して、「マンディ」の略称で呼ばれた紳士、マンフレート・アルノーは眉一つ動かさず、淡々とした英語の慣用句でもって応えた。金の撫で付け髪や襟元の造花飾りも相俟って、貴族の肖像画を思わせる笑みを作り上げながら。
 端から見れば、この二人が剣呑な仲であることは明白だ。と同時、何も知らぬ者なら疑問に思うかもしれない。そんな二人が何故、こうも殺伐とした気を漂わせながら、差し向かいで菓子など食べているのか?

「さて、君の疑問に答えるとだね――まず、この素晴らしい品はどこにも売っていないし、故にデュッセルドルフからの取り寄せにも対応していない。生憎だけれどね」
 マンフレートの返答に、青年は顔を顰めて軽く身を引いた。
「売っていないだって? ……なあ、まさかキミが作ったなんて言わないだろうな。こんな劇場に催吐薬なんかは置いていないぜ……」
「まさか。私は料理をしないもの、君の心配には及ばないよ」
 鼻にかかった笑声を漏らしながら、彼は組んだ脚の上下を入れ替えた。皿からまた新しい――ここでは「シュークリーム」と呼称する――を取り、暖色の明かりに翳す。
「知人に料理上手がいてね。とりわけクーヘンの類が絶品なのだけれど、フランス菓子はどうかと訊いたら、ひと月ほど前に振る舞ってくれたのさ。それで私が、君は実に素晴らしいパティシエだ、ぜひ知る限りのバリエーションを披露してくれたまえと褒めちぎったところ、いたく感激されてね」
「結果、その知人とやらはキミ専属の焼き菓子製造機と化したわけか。哀れなことだ、そうして丹精込めた絶品が、他所の男への手土産にされているんだからな」
「君の付き人くんほど可哀想ではないと思うのだけれどね。少なくとも私はこの彼に、自分で汚したソファカバーの洗濯を頼んだりはしていないよ」
「当然だ。そっちは善意のボランティアだろう。私のシュライヒャーはそれが商売なんだ。正当な報酬を支払ってるんだぞ」
「劇場の支配人がね。――二つめの答えだ。『シュー・ア・ラ・クレーム』は『クリーム入りキャベツKohl mit Sahne』という意味なのさ」
 二度目の溜息。 「それだけか?」
「それだけさ。キャベツの話に繋げるには十分だと思わないかい?」
「飛躍しすぎだろ。ああ……『蝶だけにね』だとか言い出したら、次のソワレで前口上のネタにキミを使うぞ、この教養俗物め」
「二言目には私を罵倒する方向に持っていくのだね、君は。芋虫は毒草を食べて毒蝶になるけれど、人間は何を食べたらこうも毒舌になるのだろう? もしかして君は、トウワタの茎やキョウチクトウの葉を齧っても、悶え苦しみこそすれ死にはしないという体質の持ち主なのかな。だとすれば大層羨ましいよ」
 頭を振ってから彼は述べた。前半はおおむね芝居がかった、いかにも嘆かわしそうな口ぶりだったが、「羨ましい」の一語だけは違った。心の底から沸き上がるような、たっぷりとした情念に満ちた「羨ましい」だった。
「でも実際は――そうではないのだろうから、私も変わらず君を妬まなくて済むわけだ、ブラザー・ヴィルヘルム。さ、君の疑問もあらかた解決したところで、今日の主役をお目にかけようか」

 主役、の言葉に青年が片眉を上げる。この場に自分、ヴィルヘルム・バハマイヤーがいる以上、他に主役などあろうはずもない――そんな過度の自負心を読み取って、マンフレートは僅かに笑みを深めた。
「きっと君も満足すると思っているのだけれどね。少なくとも、今までの品が口に合ったのなら、味は必ず気に入るさ。それに見た目も……」
 持参した菓子箱のうち、まだ卓上に載せていなかった最後の一つを取り出す。現れるのはやはりシュー生地を使った菓子のようだが、姿形は全く異なっていた。
 まず、黒い。ココアか炭か、由来のほどは見た目に判然としないだろう。匂いからして焼け焦げているのではない。そして一般にいう「シュークリーム」と同じく、土台にたっぷりと純白のクリームが盛られているが、上から蓋がされてはおらず、両側面に羽根のような形の生地が貼り付けられていた。そこから伸びるのは、なだらかなS字を描く細長い生地。何を表現しているのかは、ヴィルヘルムにも一目で解ったようだ。
「……黒鳥か、これは?」
「大当たり」 得意さをあくまで表出させないよう、丁寧に象られた口元。
「ただ水鳥の形に焼いたものなら――確かシーニュ・ア・ラ・シャンティイCygnes a la chantillyと言うのだったと思うけれどね、フランス菓子を扱う店でよく見かけるだろう。彼が最初に焼いてきたのも同じだ。それで、私はこう訊いてみたのだよ、『これを黒くできないか』と」
 含み笑い。 「君は白鳥オデットより黒鳥オディールのほうが好きだろうからね、恐らく……」

 言うまでもなくマンフレートはバレエの話をしている。「白鳥の湖」だ。白鳥に変えられた娘であるヒロインのオデット姫に対し、敵役として登場するのがオディールであり、一般には真っ黒な衣装を身に着ける。対照的なのは色合いだけでなく、無垢で清楚なオデットと妖艶な悪女オディールという、正に鏡写しの存在なのだ。そして、眼前の青年により好まれるのはどちらかといえば――
「勘違いしないで貰いたいが、私はあくまでクモの愛好家だからな。キミのように人間以外なら節操なく囲いにかかるほど強欲じゃない。その上で、フィクションの役柄としてどちらが好みかといえば、それはオディールのほうだがね」
「大層お似合いだよ、腹に一物も二物もありそうな若人同士。問題は君が明らかにジークフリート王子という柄ではないところだけれど」
「そうだな、ファム・ファタルに破滅させられる貴公子役はキミのが適任だ。で、味は……」
 湖面を優雅に泳ぐ水鳥そのものの姿で、円形のトレイに並べられた焼き菓子は合わせて六つ。よく見れば中央の一つは、アイシングか何かで作ったのだろう、小さな冠を頭上に戴いている。洒落た演出だ。視覚的には実に満足ゆく出来栄え。残るは味わうだけだと、ヴィルヘルムは黒鳥の女王に手を伸ばしたが、
「ああ、それと言い忘れていたのだけれどね、ブラザー」
 寸前で差し入れられたマンフレートの腕に遮られ、指先は黒い翼にかすりもしなかった。無意識下のものだろう小さな舌打ちが場の空気を打つ。
「……何だよ」
「勿論これはコーヒーの伴として持ってきたのだけれど、ただ何の感慨もなく消費されるだけというのもつまらないからね。座興にひとつ賭けでもどうだい」
 大したことではないと言うように、持ちかけた側は鷹揚な口ぶりで述べる。一方、すんでのところで楽しみを邪魔された側は、白い眉間に皺寄せて訪問客の顔を睨んだ。
「賭けだって?」
「そう、もとい挑戦と表現するほうが適切かな。私が出した課題を君が達成できれば、喜んでシュー菓子の姫君を進呈しよう。できなければ仕方がないから、君はそこのパリブレストでも齧っていたまえ」
「今日のキミは普段に輪をかけてすっとんきょうだな。私がキミの言うなりに勝負を受けると? 一体何の?」
「別に何だって良いのだけれど、折角だから黒鳥にちなんだ内容にしようか」
 刺すような視線にも素知らぬ顔。 「第三幕のコーダ。黒鳥のフェッテ・アン・トゥールナンを最後まで回れたら君の勝ち」

 呆気に取られたような無言の時が数秒間続いた。マンフレートは相手の出方をただ待った。
「なあ、マンディ、これは私の考えなんだが、酒の入った席ですら、もう少しまともな賭けが成立するだろう。それをキミは一体どうした? この私にオディールをやれっていうのか?」
 努めて冷静であろうとしているのだろうか、少しトーンを抑えた声が返ってくる。表情までは装いきれておらず、意志の強そうな眉は顰められたままだが。
「そうとも。ほら、君はこうした舞台芸術をただ観るだけではないだろう。何しろ踊りが職分なのだからね」
「……ああ確かに、バレエのレッスンなら私も受けている。今日びミュージカル俳優にだってバレエの素養は必須に近い。だがな、それでも私は本業のバレエダンサーではないし、もちろん『白鳥の湖』だって演ったことはない。そもそも――」
「オディールは女性がやる役で、しかも極めて難易度が高い動作ばかりだから、自分には荷が勝ちすぎる?」
 他方、マンフレートは傾げる首の角度さえ最適化された姿で、張り付いたような薄笑いを保っている。巧妙に設計されたしたり顔だ。特に意識しなくとも、彼の顔つきは常日頃から計算尽くを思わせるものだが、今回は明らかに意図的である。相手を挑発するための。
「クラシックの中でも屈指の難役だぞ。専業のバレリーナだって誰もができるわけじゃない。キミは私がフェッテで三十二回転を決められると本当に思っているのか?」
「いや、全く。私だって悪魔ではないんだ――それこそロットバルトと違ってね。別に完璧なパフォーマンスを求めてはいないよ。ポワントを履けとも言わないし、なんなら厳密に爪先立ちでなくともいい。どうにかこうにか三十二回続けてターンできたら、完成度がどうあれ賞品を差し上げるさ」
「そして事が済んだら、目眩と吐き気を堪えながら菓子を食えというわけか。なるほどキミは悪魔じゃない、畜生だ」
 誇張された嘆息を場に投じてから、役者はやおら真顔になった。
「ウォーミングアップぐらいはさせてくれるんだろうな」
「君に畜生呼ばわりされるほど無慈悲ではないのでね、私は」
「慈悲を見せながら働く非道ほど悪辣なことはないと思うんだよなあ」
 長い睫毛の下で、灰色が一瞬ぎら、と光った。火に投じられた金属のように。 「見てろよ」

  * * *

 板張りの床に敷かれたトレーニングマットには、表面の凸凹や端のほつれがあちこち目立った。その上で、小劇場「青い喉のコマドリ」の看板役者、ウィリアム・クライスラーが準備運動に意識を注ぎ込んでいる。
 ただの観客のみならず、ダンサー仲間であっても滅多には見られぬ場面だろう。が、居合わせた唯一の人間であるマンフレートは、舞台裏の動作になどてんで関心がなく、冷めたコーヒー片手に文庫本など読んでいた。
 もっとも、それを気にするウィリアム(ないし、「ブラザー」・ヴィルヘルム・バハマイヤー)でもないようだった。洒落た衣装や自ら誇りとする肉体へ、満場から羨望の眼差しを注がれるならまだしも、かつての同僚に気のない目で眺め見られたところで嬉しくもなかろう。練習風景に無関心でいられるほうが好都合に違いない――とマンフレートは思っていた。とはいえ、意識しなくとも一挙一動は垣間見える。直後に控える技巧的な運動に備え、より動的なウォーミングアップ。腹筋と背筋、手首や足首、腿の裏や脛、股関節、幅広い方向への伸縮と開閉――
「そういえば、肝心の音楽が無かったね。楽隊だってここのはジャズが中心で、常日頃からバレエ組曲を演ってはいないのだろうし。こういう時は確か……」
 彼はふと口にした。役者は全身の柔軟を程良く済ませた頃合いで、手荷物からスマートフォンを取り出す彼のことを、「本当にそれの使い方が解っているのか」とでも言わんばかりの目で見ている。視線に動じず、彼は手にした最新鋭の電子機器から、望みの音楽を流すための手続きを取ろうとした。……取ろうとはしたが、この世には報われない努力も存在するのだという無情な現実を突きつけられるだけだった。
 見るに見かねたという訳ではないだろうが(むしろ放置してもう少し困らせておいてやろう、という思惑すら見えたが)、ヴィルヘルムは黙って応接セットへと戻り、卓上から自分の端末を取ると、該当する場面を動画共有サイトから探し出した。そして、サイドテーブルに置かれたスピーカーと端末を無線同期し、いつでも再生できる状態で待機させた。
「……なにしろ日来使っていないものだから。その点、君は結構なお手前だね」
「お手前はこれから披露するんだ。良いか、マンディ、目に焼き付けておけよ」
 弁解めいた台詞は一蹴され、尊大な言葉が返る。 「キミは私の黒鳥を観るんだ。最初で最後だぞ」

 液晶画面をタップ。「白鳥の湖」第三幕終盤、最も華やいだ場面への導入が流れ出した。王宮で催される花嫁選びの舞踏会に、各国の姫君に交じって一人の女性が現れる。悪魔ロットバルトに連れられた黒鳥オディール。王子が焦がれる白鳥のオデット姫になりすまし、偽りの愛で彼を破滅させるために訪れたのだ。
 すっかり騙された王子は舞台の上を踊り回り、全身でもって歓喜を表現する。浮かれた金管の旋律が導く先に、しとやかさを装って羽を畳んだ貴人がいる――もっとも黒いレースのチュチュではなく、冠の代わりに褪せた金髪を撫で付け、ピンストライプの三つ揃えに細身のタイを締めた姿だが。
 堂々たる管弦の響きが、ほんの僅かな間だけ鳴りを潜める。準備プレパラシオンのポーズで顔を伏せていたヴィルヘルムは、音に合わせてその面を上げ――ありありと刻まれていたはずの鬱憤や不快は、一時に滑り落ち霧消した。
 左脚を軸に、二連続のピルエット。再び正面を向いたとき、そこに居していたのは役者ではなかった。

 踵を引き上げ、右脚を前から横へと蹴り出す。勢い任せではなく、完全に力の方向をコントロールした動きで、まず一回転。水平に伸ばした両手を胸元へと締めて、また開く。二回転。
 続けざまに三回転目。黒い綾織サージの袖に包まれた両手が、高々と頭上へ振り上げられて、美しい曲線を形作った。今しも水面から羽撃かんとする鳥のように。
 初めマンフレートは、この自惚れに満ちた役者が一度回るごとに、わざわざ口に出して数えてやろうと思っていた。実際にここまでは数えていたのだが、四回転を過ぎたころにはもう声を失っていた。今や、回転のたび大きく翻る背広の裾さえもが、優雅に広げられた鳥の翼に見える。動き続ける体が彼と正対するほんの刹那だけ、真っ直ぐに向けられる挑発的な視線。燈光を浴びてスミレ色にも見える稀有な瞳は、しかし「ヴィルヘルム」でも「ウィリアム」でもなく、紛うことなき「オディール」だ。己がどれほど蠱惑的で、人を魅了する術を身に着けているか、完全に心得ている悪魔のそれだ。
 十六回転を経て旋律が変化すると、言葉ひとつ発さぬ悪魔はいよいよ雄弁になった。そう、この踊り手は物にしているのだ――見る者に魔法を掛けるということを。それはマンフレートも扱うところの魔術ではなく、四肢の描く軌跡と愉悦に満ちた貌、耳に聞こえぬもう一つの音楽で、物言わず紡ぐ圧倒的な呪いだ。右脚が鞭のように撓り、左脚が紡錘つむのように回れば回るほど、世界そのものが目眩と共に溶け落ちてゆくようだった。視界に残るのはただ一羽の魔物だけだ。
 三十回転、三十一回転、――最後は爪立ったままで三回転。舞い降りるような着地。全ての音が弾けて消える。

 再び両脚で立った黒鳥は、一呼吸置いて軽やかに前へと進み出る。本来ならコーダはもう少し続くが、最早その必要もないとばかりの悠然とした足取りだ。ただ一人の観客、ないし今しがた陥落させた王子へと向けて、膝を落とした瀟洒なお辞儀レヴェランス
 顔を上げてさらに一歩。指先にまで「演技」の行き届いた右手が、あたかもエスコートを求める貴婦人めいて差し出される。黒い袖口から覗く白い指が、マンフレートの脳裏にある事実を想起させた。コクチョウは学名のとおり外側こそ黒一色だが、畳まれた翼の内側、風切羽だけは真っ白なのだ――
 燈光に浮き上がるようなコントラストに、彼は酷く幻惑された。悪寒とも痺れともつかないものが、背筋をぞくりと震わせる。あるいはこれこそが、墨色の羽根で愛撫される感覚なのかもしれない。彼は引き寄せられるように自ら腕を伸ばし、僅かに筋ばったその手を取りかけた。太さの違う指と指が重なる寸前、堪え切れないとばかり喉を震わす音が耳を打った。
 そこで彼は我に返る。目の前にいるのは何であったか――いつもと変わらぬ反目の末に、些細な品を懸けて踊ることになった顔馴染みの男。

「私に『誘惑』されるというのがどんなものか、良く解ったろう、マンディ」
 悦に入ったような吐息混じりの声が、嘲弄するように彼の耳朶を撫でた。激しい運動が齎す自然な身体作用のせいか、それとも殊更に強調したものなのか、じっとりと熱を孕んだ囁きだった。
「ああ……」 皮肉か何かで返そうにも、うっそりとして頷くことしかできない。
「勢い余って君に求婚するところだった。……いや、何を言っているのだい、私は?」
 動揺も抜け切らず、受け答えも怪しい彼を言葉でからかう代わりに、ヴィルヘルムは自分に向かって伸ばされたままの手を指で絡め取った。ほとんど音になっていない、ごく短かな声が上がる。
「ふ、はは――黒鳥のフェッテをやれと言われたとき、私がどれほど勝ち誇りたかったと思う? もし言い出したのがキミでさえなければ、この手に接吻ぐらいはしてやっても良いんだが」
 顔の前まで持ち上げられた彼の右手を、それよりいくらか白い役者の手が挟み込む。親指から順繰りに弄ぶ手付きは、この十八歳を公言して憚らない美男子が、保管箱ヒュミドールから葉巻を選ぶときのそれにも似ていた。と、たちまち彼はあの葉巻鋏の銀色をした刃が、自身の指にざっくりと食い込む様を幻視し、首筋に薄ら寒さを覚えるのだった。
「まあ、しかしキミだからな、実際には。いや、キミならずとも老若男女の区別なく、人類からの求婚は受け付けていないんでね、お生憎様」
「それは私だって――」
 言い淀み、僅かに押し黙る。 「ああ、つまり……私はさっきまで、君が人間に見えていなかった」
「そうだろうさ。私は役者だ、人間以外にだってなれる」
 細められた目の奥、スミレ色の中に貪欲な灯が見え隠れした。さあ、思う存分にこの私を称賛してくれ――そんな思い上がった高揚感が。ここに至ってようやく、マンフレートも冷静さを取り戻し、捕らえられるままだった右手を引っ込めた。
「であるならば、役者としての職分は弁えたほうがいいよ、君。音楽が止まったのだから、芝居はもう止めにしたまえ……」
 漂白されたギリシアの大理石像のように、瑕疵一つなく繕われた表情を浮かべ直す。憮然たる面持ちを晒してしまった今となっては、何の意味もない行為かもしれないが、そうしていないと座りが悪いのだった。
「良いかいブラザー、『役者だから』で何もかも説明できると思ったら大間違いだ。君が先刻説明してくれた通り、いくら素養があったって、いきなり三十二回転なんて出来るはずがない。……君は初めから会得していたのだね」
「いかにも。だがキミの目には私が、無理難題を押し付けられて困惑しているように見えただろ? 女のする役だとか、難度の高い振り付けだとか、そも私はクラシック・バレエが本分でないとか――知ったことか。相応しい役柄である限り、私はやるし、出来るようになるんだよ」
 妖艶な魔女の表象をすっかり捨て去った役者は、大股にソファへと歩み寄り、元いた場所にどっかりと腰を下ろした。向かい合う犠牲者に、憫笑を含んだ言葉が突きつけられる。
「では改めて、誓いの証を頂戴しようじゃないか、王子様」

  * * *

 マンフレートが喫食の場を設え直し(コーヒーのお代わりまで淹れさせられたのである)、二人の若者は再び同じ高さで向き合うこととなった。勝者は満悦の様子で菓子を食べ、作為的に湯量を減らされたインスタントコーヒーを素知らぬ顔で飲み、またもう一羽に手を伸ばしては、大した感慨もなさそうに齧り付いた。そのくせ、自分が何かを食べるという動作に一定の需要があることは理解しているようで、時折小鼻を蠢かしては、見せつけるように艶笑するのだった。
「まあ、しかしね、勝負を持ち掛けたこと自体は間違っていなかったよ」
 すっかり関心を失われ、皿の端で所在なく佇んでいたシュークリームを取り上げがてら、マンフレートが口に出す。
「勝敗の如何はさて置き、日来抱いていた考えをひとつ確かにすることができたからね。これは間違いのない収穫だ」
「なんとも迂遠な負け惜しみだな。正直に言ったって良いんだぜ、当てが外れてとても悔しいですって」
「負け惜しみではないよ、ブラザー・ヴィルヘルム。ありのままを言ったのさ。つまり……考えというのはこうだ」
 小さく咳払いをしてから、彼はコーヒーを一口飲んだ。
「君も知っての通り、私は人類に危機や危険を齎す動植物を殊に愛している。理由は種によっても様々だし、言葉で説明できるものもあれば意識の外に位置するものもあるけれどね、一つには――そうした生き物が最も美しいのは、彼らが当にその攻撃性を露わにする瞬間だからではないか、と」
「へえ?」
 ヴィルヘルムが僅かに顎を上げた。チョウの食餌と毒性の関係についての話題よりは興味深げに。
「少しばかり思い巡らしてみたまえ。ヒョウモンダコがその斑紋を青く輝かせるのも、インドコブラが鎌首をもたげて目玉模様を見せつけるのも、ミノカサゴが華やかな背鰭を振り立てるのも、全ては己が強大で危険な存在だと知らしめるためだろう。自分には毒がある、棘がある、力と技がある……お前を苦しめることも、殺すこともできると。それこそハクチョウやコクチョウだって」
 語るにつれて、紳士ぶって穏やかだった口調に力が入り始める。碧眼が皿の上、ココア入りのシュー生地で作られた黒鳥につと向いた。
「ちょうどここに再現されているような、あるいはオデットやオディールの振り付けに組み込まれているような、我々が種名を聞けばすぐ思い浮かべる姿がそれだ。双翼を膨らませたあのポーズは、ロマンチックな求愛なんかじゃあない、外敵への威嚇だ」
 やや口早に、同意を求めるような語気。顔立ちだけは相も変わらず彫像めいていたが、日頃は見せない人間的な体温が、声に薄々と滲み出している。
「ふん、さっきの話に比べたら遥かに頷ける話だ。もっとも、私が愛するところのクモたちに関しては、やや事情が異なるがね」
「それはそうさ、例えばピーコック・スパイダーのダンスは間違いなく求愛行動だ。種によって様々だと最初に言ったろう。ああ、でも――少なくとも君について言えば、間違いなく当てはまる説だと思うよ」
 今しがた目に焼き付けたばかりの――思い返せばまた肚の辺りが波立つような――舞踏のさまを、彼はそのように評して一拍置いた。ヴィルヘルムの片頬に、感心と蔑みの入り混じったような笑みが飾り付けられた。
「なるほど、今回ばかりはキミの論に賛同せざるを得ないらしい。確かにそうだ、キミが言う軟体動物や爬虫類や毒蝶のたぐいと同じく、私のショウは愛の発露じゃない」
「ところが人間というものは、そこに自然美のみならず情愛だの恋慕だのを勝手に見出すわけだ。まあ、私は人類に対しては見出さないけれど」
「そうだな、美しさが人間離れしている私という例外を除いてな」
 ヴィルヘルムが冗談のように応えたが、目は一切の戯れを含んでいなかった。無造作に菓子を咀嚼し、粉末を湯で希釈した黒い飲み物を嚥下し、それからふと黙り込む。細く立ち上る湯気を追うかのように、灰色の視線がゆっくりと上向いた。コーヒーが淹れたての温度を失う反面、瞳には再び熱が宿り始めていた。

「……人類のことは置くにせよ、そうして我々が愛するものと向き合ったとき――キミは喰って、私は喰われて、惨たらしく死ぬのが生涯ただ一度の望みというわけだ。毒果は人間に喰われたって種を残せないし、クモはどれほど大きくとも人間を捕食はしないのに」
「悲しいかな。私たちがヒトに生まれついたのが運の尽き、いや、世の人々は感謝さえしているか知れないけれど、ともあれ恨み言の一つも零したくなるというものさ」
 等と漏らすマンフレートは、しかし己の不運を嘆くような風でもなかった。むしろ、うっとりと瞑目し、自らの脳裏に広がる幻想に耽溺しているに違いなかった。
「ああ――だけれども仮に私や君が、毒草を食む蝶や、その幼虫を食い破る寄生蜂や、またクモに狩られる別のクモに生まれたとして、こんな想いに満たされることは有り得なかっただろう。人間だからだ、……生命維持の埒外にある食事というのは、君、間違いなく官能だよ」
「同感だ」 葉巻をふかすように息を吐いて、ヴィルヘルムが首肯した。
「その点でも世人は我々に感謝すべきだな――我々がヒトに生まれついただけでなく、愛を向ける先もまたヒトでなかったことに!」

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