――ある種の蜘蛛はメスを「口説く」際、その匂いで判断するという。

唆る香、唆す香 -Spinner of Your Wheels-

「ああ、その話なら知っている。クロゴケグモのことだ。今更だろ」
 若い俳優は革張りの椅子にふんぞり返りながら、話題を振ってきた知人――マンフレート・アルノーに向け、さも小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。その程度で得意になるとは浅学な、とでも言わんばかりだ。褪せた金色の眉を片側だけ上げ、左右に頭を振ってみせる。
「言っておくが、匂いったってキミがぷんぷんさせているような、薔薇だの麝香ムスクだのといった香水の匂いじゃないぜ。オスを誘惑するようなものでもない。ただその体臭で、オスはメスがどれだけ空腹か判るというんだな」
「腹具合が死活問題になっているわけだね」
 相手の態度は意に介さず、マンフレートは首肯する。彼にもまた同じ型の椅子が宛てがわれていたが、体格の差もあって座面はやや小さく感じた。少なくとも、コーヒーテーブルを挟んで右側にいる優男のように、堂々と脚を広げて座るには窮屈だ。結局、彼は両脚を組み合わせ、時折上下を入れ替えることによって、快適さを保たざるを得なかった。そして今も。
「なにしろ、クロゴケグモの餌というのは小さな虫の類だけれど、その『小さな虫』には同種のクモも含まれるのだから」
「その名に反して、メスが後家になる確率は一回につきせいぜい2%程度らしいがね。まあ人間同士のそれよりは遥かに高いか」
「2%の確率で自分が喰われると解っていたら、人類だってもう少し恋愛に対して誠実になると思うよ。ああ……それとも君のようにより狡賢くなるだけかな。相変わらず爛れた噂が絶えないようだけれど、君はそれで幸福なのかい……」
「幸福だとも」
 表面上は思慮深そうな態度を取って、彼は人間よりも節足動物を愛する若者にそう問い掛けたが、返ってきたのはやはり嘲るような色を帯びた笑い声だった。
「快楽に満ちた人生の何を不幸がる必要があるのか、出来るなら是非ご教示願いたいね。それと、わたくしのことは『狡賢い』じゃなく『世知に長けている』と言って貰いたいもんだ――私のクモ達と同じように。私が劇場いちの花形スタアにして美男子びなんしの名をほしいままにしているのには理由があるんだよ、なあ、マンディ坊っちゃん?」
 白く滑らかな顎を軽くしゃくって、傲慢に同意を求める。その喉元には艶のある深紅のボウタイが――黒い燕尾服ともども、まだ舞台衣装を脱いでいないのだ。昼公演マチネがはねてからもう暫くになるというのに。
 ――そういえば、クロゴケグモの腹部にある特徴的な赤い模様。たいていの図鑑では「砂時計のような」形だと表現されるものだが、見る方向を90°変えれば、あれは正しく赤いボウタイではないだろうか? もっとも、スターを気取って憚らない、この自分よりも若いという(本人は18歳を公言しているが、流石にそれは嘘だろう)役者が、果たしてそれを意識したかどうかは解らないが。なにしろ、あの鮮やかなコントラストを有するのはメスだけなのだ……

 このようなことばかり考えていたので、マンフレートは若い俳優が実際には何を喋っていたのか、どんな返答を求めていたのかについて、全く気が回っていなかった。否、たとえ物思いに耽っていなくとも、後者には気を回すつもりなど無かったが――とにかく一切の反応を見せなかったことは、役者の自尊心をいくらか逆撫でしたらしい。
「なあ、キミは本当に自分の立場が解っているのか?」
「何が?」
「キミが新しいペルー産の標本を、どうしても……」 殊更に熱っぽい口調の模倣。
「どうしても見たいと言うから、このウィリアム・クライスラー直々に客として迎えてやったものを、何なんだその『クモが見たいのであって君が見たいわけではありません』みたいな態度は。この通りVIP席まで用意されておきながら、さっきの舞台にだってコメント一つ寄越さないじゃないか」
 恩着せがましさを全面に出した口ぶりで、俳優は知人の無礼をなじったが、マンフレートは眉一つ動かさずに応対した。検討するほどの価値もないという判断を、相手に粛然として提示する。
「何と言われても困るよ、事実私はクモを見に来たのであって、君を見に来たわけではないもの。君がどういった態度を取ってほしいのかなんて知りもしないしね」
 人間的暖かみを著しく欠いた声が響き渡る、その空間をさっと見回す素振り。
「確かに君はいろいろと融通をしてくれたようだけれど、ブラザー・ヴィルヘルム、……我々が今いるような場所は『VIP席』ではなく、ただ『ボックス』と呼ばれるのではないかな、一般的には……」
「一般的にはな。だが我々は所属する劇場ごとに違った用語を使うんだ。この劇場にはボックスを除いたらただ有象無象の一般席しかない。だからここはVIP席だ、あくまでも」
 素気ない言葉に対して、俳優――ウィリアム・クライスラー、ないし魔術師ヴィルヘルム・バハマイヤーは、力強く己の主張を締めくくった。……かと思えば、不意に間の抜けた息をはあと吐き出し、
「まあ、実際デュッセルドルフ・オペラ座のそれと比べたら屁みたいなもんだがな。支配人は『特別席のある劇場』にいたくご執心なんだ。名義人としての悲しい虚栄心だな」
「ふうん」 マンフレートは気のない声で相槌を打ちつつ、美男子を名乗る若者の顔をちらと見た。
「別に、このまま劇場内設備の定義について論じるのも構わないのだけれどね、きっと不毛なだけだと思うよ。それよりはクモの偉大な生存戦略について語り合ったほうが、君の渇いた心も満たされやしないかい……」
 紳士たちは速やかなる合意に達し、固く手を握りあった。

  * * *

「しかし、まあ、誘うか否かの判断基準が相手の空腹度というのは」
 十数分後、二人の会話は再びクロゴケグモへと焦点を戻していた。黒革のオペラパンプスを履いた爪先を、右左へと回しながらマンフレートが言う。
「いかにもクモらしいと言うべきか――人間ではそうも行かないだろうからね」
「いや、全く無意味とも限らないぜ、マンディ」 ヴィルヘルムが冗談めいて反論した。 
「人間だって腹が減っていれば気が立つものだ。相手を取って食いはしないにしろ、下手なプロポーズで失う社会的信用の量が倍ぐらいになるかもしれない。……より実用的に考えるなら、少なくとも食べ物を奢ってやる口実にはなるだろ。生憎と我々人間は、匂いではなく別の観点から判断しなけりゃならないが」
 そうした人間関係に慣れているかのような軽口。カフリンクスを留めた袖口から覗く指が、手持ち無沙汰そうに腿を擦る。
「逆に、人間もまた空腹時に匂いを漂わすようになったらどんなものだろう。我々の嗅覚にも感じられるような匂いを。そんな人々の住む世界では、きっと香りの文化が一変していることだろうね」
「それはどうだろうな。今だって、フェロモン入りの香水だのを有難がって買い漁るような連中はいるじゃないか。あれが多少は徒労でなくなるだけだろ……」
 役者は芝居がかって肩を竦め、冷めた目で隣席の紳士を見遣る。それから、おもむろに右手を顔の前に近付け、微かに鼻を蠢かして掌の匂いを嗅いだ。
「ともあれ、人類がそうした劇的進化を遂げた暁には、キミの手みたいな匂いを発することにならないよう願いたいね。スエード革と、一体何なんだこれは? ライムとバラか?」
 露骨に眉を顰めてみせる。 「キミはこんな手でサンドイッチなんかを食べるのか、マンディ?」
「食事をするときは匂いはさせないさ。それは遠出するためにしか使わない、匂いつき手袋の残り香だ。ベルガモットとゼラニウムだよ、ブラザー」
 マンフレートもまた自らの手に鼻先を近付け、心地よさそうに目を細めた。そのまま頭に手をやり、梳られた金髪をさっと整える仕草。もっとも、整髪料――ヘアーワックスやジェルではなく「ポマード」と呼ばれる類の――で丁寧に撫で付けた髪型は、わざわざ整えるほどの乱れなど無かったのだが。
「ふん、そうかそうか、私の劇場には二度と着けて来るなよな。もしくは、今後何があっても私と握手はしないでくれ」
 ヴィルヘルムが吐き捨てるように言った。
「革製品の臭いをマスキングするのは紳士としての嗜みだよ、君、そうして栄えた香水の街もあるのだから」
「何世紀か前の話だろ。現代の淑女とやらのお気に召すとは思えないぜ」
「ああ、そう、それだよ」
 投げかけられる揶揄の言葉にも、英国産の「紳士的な」芳香を漂わす青年は素知らぬ顔で澄ましていたが、そこで唐突に手を打って身を乗り出した。もっとも、勢い任せに立ち上がることはせず、またすぐに座面へと腰を落ち着けたが。
「私の知り合いに一人、色々と良くしてくれる御婦人がいるのだけれどね、だいぶ以前に似たようなことを言われたな。自分はバラの香りが嫌いだから、二人で会うときには絶対に付けてこないでくれ、せめて手袋の匂い付けに使うのはやめてくれ、と」
 過去の失態を回想しながらも、あまり深刻には受け止めていないような声音。
「だから反省して、使う香調をライムとバラから今のものに変更したのだよ。御婦人の頼みとあらば仕方がないからね」
 否、僅かに胸を張った姿勢と片側だけ上げた口角は、深刻に受け止めるどころか得意げですらあった。「自分は女性からのアドバイスを真摯に受け止め、自ら改善することができる素晴らしい男です」と主張するように。
「……なあ、マンディ、その御婦人とやらがキミの妄想でなければ、彼女は『匂いの種類を変えてくれ』じゃなく、『香水を付けるな』と言いたかったんだ」
「そうなのかい?」
「もしくは『もう会いたくない』だな。可能性としてはそれが一番高いだろう。キミが人間の淑女と懇ろになれるとは思えない」
 呆れの滲む長々とした嘆息。 「そんな――クモほどに判断力の優れた人物とはな」

 マンフレートは言いかけた台詞を飲み込み、碧眼を数度瞬いてみせた。暫しの沈黙。
「ああ、……匂いで、ね。ううん……今度から私も、彼女の匂いに注意を払ってみるべきかな。考えてみれば確かに、彼女の腹具合如何は私にとっても重要な問題なのだった」
「私の言ったことが理解できていないだろ、キミ。その形だけは優れた鼻をいかに実用するか、みたいな話はしてないんだが」
「『形も』優れた鼻だと言って貰いたいな。君よりはもっと、例えばハナナガムチヘビのような、造形美の極致を思わす生物から称賛されたいとは思うけれど。――匂いといえば、君はあまり香水を付けないのだね。楽屋には色々と並んでいたはずなのに」
 二枚目役者に割り当てられた楽屋――劇場内では唯一の個室なのだった――とその調度を思い浮かべながら彼は尋ねる。対して、広々とした部屋の持ち主は、
「キミは私の職分を何だと思ってるんだ? ヴォードヴィリアンだぞ。スポットライトを浴びてアクロバットをやったり、ヒロイン役を抱き上げたまま歌ったり、客席中をタップダンスして回ったりしなきゃならないんだ。コロンだろうがパルファムだろうが、汗で滅茶苦茶になるに決まってる」
 と眉を上げ、想像力の欠如した質問者に毒づくばかりだった。
「おや、そういえばそうだったね。何しろ私は俳優としての君にさして興味がないものだから」
「じゃあキミが興味を示しそうな私についても説明してやろうか。クモの研究者であり蒐集家だ。キミだって仮にも『虫』が守備範囲なら、特定の精油が彼らを遠ざけることぐらい解っているはずだろ」
「なんだ、そんなことが言いたかったのかい……生き物たちへの配慮というなら私も同じだよ。危険動植物管理課での飼育業務や、庭仕事のときだって私は無味無臭そのものの男だ。私の香水よりは彼ら自身の匂いのほうがよほど尊いしね」
 またしても自らの思いやりを誇るように、マンフレートが言葉を返す。あくまでも穏やかでありながら、自負が滲み出るような勿体顔。
「それなのに――どうした訳か同僚たちは私のことを誤解しているようなのだよ、常に何らかの匂いをさせていなければ気が済まない男だと」
「数年前まで同僚の一員だった私に言わせりゃ、職場への滞在時間に対して実働時間が短すぎるってだけの話だ」
 ヴィルヘルムの声に混じる苛立ちが増した。最早憎々しげとすら表現できそうな、低く棘のある言い様だった。
「マンディ、何度も方向修正をさせるんじゃない。私の劇場にいる間は、クモの話か私の話以外するな」
 
 マンフレートはひたりと口を噤み、次の手を考えた。もちろん切り返しなら即座に思いつく――この劇場はあくまでも支配人が別にいて、彼が設備の管理を取り計らったり給料を支払ったりしているのであり、君は劇団員の中で一番稼ぎのよい俳優に過ぎないだろう、等といったことが。だが、どうせ当意即妙を気取るなら、相手の要求に乗った上でやるほうがずっと良い。
「では、クモの話をしようじゃあないか。そして君の話も」
 数秒間の思案を経て、彼はこう切り出した。 「生態に戻ろう。それも同じく、匂いを利用するクモだ」
「ほう?」 ヴィルヘルムが鼻にかかった声を上げる。
「キミにも多少は話のストックがあるんだな。さて、クロゴケグモでなければハイイロゴケグモか、ハラクロシボグモか――それともナゲナワグモあたりか?」
「ハラクロシボグモ! ああ、その話をしても良いのだよ、確かに。とても魅力的な種だ、世界屈指の強毒種でもある……けれども、私が今挙げようとしていたのはナゲナワグモのほうだ。大当たり」
 顎の前で手を組み合わせ、愉快そうに彼は口角を上げた。普段から見せびらかしている薄笑いよりは、まだいくらか生の感情らしさが窺える顔だ。それからカーテンの隙間を一瞥する――幕のあちらでは夜公演ソワレの支度が始まったのか、劇団員らしき姿が何人か出入りしつつあった。
「網を張るクモたちと同じように、彼らの狩りもまた待ち伏せ型だ。ただし、例えばコガネグモやジョロウグモよりはずっと攻撃的だ。その名に違わず、先端に粘液の球をつけた糸をぶら下げて、獲物が通りかかるや否や投げつける」
「結果、哀れな羽虫のたぐいは見事に捕らえられ、毒にやられてそのまま餌になる。とりわけオスのガが多く引っ掛かるんだよな。しかも特定の種の」
 専門家であるところの若者はコーヒーテーブルに左手を置き、天板を鍵盤奏者めいて小刻みに叩きながら、鷹揚に頷いては相槌を打った。勿体を付けるような間が開く。
「つまり、匂いのせいで、だ」
「そうとも。彼らはどういうわけか特定のガ、それもメスが放出するフェロモンを生成することができるのさ――夕方から深夜にかけてね。成虫のメスは平均して一晩で二匹のガを捕らえるそうだけれど、六、七匹は捕獲したという観察結果もある。これはまったく驚嘆すべきだよ、君」
 言葉通りの表情を繕いながら、彼は続けた。 「それで、ここからは君の話をしようと思うのだけれど」

 ヴィルヘルムの眉間に微かな皺が寄った。薄い唇が物言いたげに開きかけたが、声にするのはマンフレートのほうが先だった。
「君を見ているとつくづく思うのだよ。君ときたら本当にクモのような男だ、とね」
「……ふん?」
 返ってきたのは訝るような疑問符だけだったが、何ら気にすることはない。左目を眇め、顎を引いてみせた「クモのような男」とは反対に、上機嫌を説明するような声で彼は続けた。
「おや、どうかしたのかい、そんな写真映えのしない顔をして。何か気に障るようなことを言ったかい……断っておくと、私は褒めたのだよ。クモのことも、君のこともね」
「前者については当然のことだな」
 役者は変わらず不審そうな目つきのままだった。
「無論さ。自然界には千変万化の生存戦略を取る生物たちがいて、その一つが――正式には『攻撃的擬態』というのだったかな。外敵から身を守るためでなく、狩猟のために別の何かへと成りすますものだ。蘭の花を装うハナカマキリや、ミミズに似た器官を舌に持つワニガメのようにね。自分はあなたにとって何らの害もない壁の花です、と油断させる……或いは、美味しい餌ですと見せて獲物を誘いさえする。そして」
 曰く「ベルガモットとゼラニウム」の香りが微かに残る指を、その不満顔に綽々と向けながら、マンフレートは更に畳み掛けた。声にはいよいよ陶酔的なものが混じりつつあったが、それが生命の神秘に対してか、その神秘を知り得た自分自身の賢明さに対してなのかは、本人にすら定かではなかった。
「あくまで個人的感想だけれどね、ナゲナワグモのような方式はその極致だよ、君。『私はあなたのようなつがいを探し求めています』と、彼らにとって最も強力なことばで、化学的に調合された匂いで謳ってのけるのだから――ヒトの耳には聞こえない秘密の囁きでもって!」
「ああ、我々の歴史が生み出してきた、あらゆる陳腐な文句より魅力的だろうよ」
 二者間の温度差は最早埋め難かった。 「キミのくどい上に衒学的で無益な長台詞よりもな」
「そうだね、特定のガにとっては……否、特定のといっても、だ。君は当然知っているだろうとはいえ念のため説明すると、彼らはただ一種類のフェロモンしか合成できないのではなく、もっと多芸なのさ。一晩のうちにその匂いを何度も変えられるのだからね。長い夜のうちに出逢う数々の種に、余すことなく対応できるよう」
「それで」 苛立ちを含んだ声が遮った。 「結論は?」
「だから、君とよく似ているね、と」
 卓上の一輪挿しを蹴倒してしまわぬよう注意しながら、彼はまたも脚を組み替え、焦らすようにタイを締め直すなどした。柔らかな蜂蜜色のアスコットが、喉元に優美な襞と色艶を添える。その結び目に注がれる眼差し――いっそあれが意志を持って反旗を翻し、持ち主を縊り殺してくれればいいのに、という思念が籠もった――など、彼にしてみればこの秋口の涼風も同然だった。
「ナゲナワグモにしろ君にしろ、相手と愛を交わす気は更々ないわけだ。ただ食い物にするだけなのだから。他のクモたちを見てのとおり、狩りを成功へと導く術は沢山ある。にも関わらず、生物の性とでも言おうか、最も抗い難いものを持ち出してくるというのは」
 薄氷にも似た色合いの目を細め、閑雅に笑い掛けながらも親しみ深くはない態度で、彼はたっぷりと間を持たせながら話す。
「実に……こういった言い方はよくないと思うけれどね、とても『ずるい』ものだね」
 唇が描くあるかなしかの弧は、さながら面白半分にスキャンダルを語り合う、前世紀の貴族たちのそれだ。ヴィルヘルムが何も答えず、ごく小さな舌打ちしか返さないのを見て、彼はますます饒舌になった。
「誤解しないでくれたまえよ。今しがた言った通りで、私はその巧緻を讃えているのだからね。ぜんたい、破滅への誘惑がそこまで美しく仕立てられているとは、なんとも神秘なものだ、うっとりしてしまう。匂いに釣り込まれて、あの月光ほど細い糸に絡め取られて、たっぷりと毒を湛えた接吻を受けて……」
「なあ、キミは愛する者を取って喰いたい側であって、喰われたい嗜好は無いんじゃなかったのか?」
 さすがに耐え難くなったのか、役者が乱暴に沈黙を破ってきた。
「無論そうだとも。とはいえ、世の中には『喰われたい側』の人々も――比喩としても文字通りの意味でも沢山いるだろう。君はその需要がよく解っているはずだ。だから……」
 不自然に長々とした吐息。 「詳細まで解説したほうが良いかい?」
「もう結構」
 ヴィルヘルムが吐き捨て、両脚で床を一度強く鳴らした。眼前のテーブルを蹴り飛ばしたいのを、なんとか堪え切ったという風情だった。
「そう、やっぱり君の話はしないほうが良いのかもしれないね、私の口からは。本当に褒めていたのだけれど」
 丁寧に包み隠された含み笑いと共に、マンフレートは同席者の表情を見なかったことにした。
「しかしね、考えていみれば私たちはそもそも、ただ互いを貶め合うためだけに集まるのが通常なのだから、褒め言葉に聞こえなくても仕方がないのだね。君がもっと早く、本題の標本を持ち出してきてくれさえすれば、私も君を称えるために苦慮しなくて済んだのに」
「では持ち出してきてやろうじゃないか。それでキミが無駄口を叩かなくなるなら重畳だ」
「是非そうしたまえ。というより、最初から楽屋へ呼んでくれるのではいけなかったのかい」
「シュライヒャーのやつが掃除中にヘマをやったんだ。消臭剤の匂いで長居できたもんじゃなかった」
「お気の毒に」
 相槌を打つ彼の声色が、微塵も気の毒そうでなかったのは言うまでもない。 「でも今は違うのだろう?」
「鼻をつまんで標本箱を持ち出せるぐらいにはな」
「それなら十分さ。君のその付き人くんのことも、寛大な心で許してやることだよ。彼だって劇場入りした頃は、君が汚したソファだのカーペットだのの掃除をさせられるとは予期していなかったはずだからね。給金だって君ほどには貰っていないだろうに……」
 俳優は表面上寛大そうな長台詞を無視し、椅子の横に立て掛けていた杖を手に取った。その時にはもう、マンフレートは席を立っており、「VIP席」からホワイエへと繋がる扉を開け、数メートルの距離を取ったまま待ち構えていた。お目当ての品へと歩み寄ってゆくのが楽しみで仕方がない、地に足を着けておくのが精一杯だという浮かれた心地を、ぴったりとした黒い長革靴の中へ苦心して収めている、といった塩梅だ。彼の脳裏からは最早、標本の持ち主であるヴィルヘルムを不機嫌にさせたことや、コメントを求められていた舞台の内容などすっかり消え失せ、残り香ほどの印象も無くなっていた。
 そんな彼とは裏腹に、うんざりとした溜息をつきながら、ヴィルヘルムは緩慢な動きで自分の椅子を離れた。そして数歩ぶん行ったところで、それは起こった。

 何が起こったのか、恐らくこの場の誰も正確には把握しなかったろう。とにかく何か、床面の僅かな凹凸か、それとも調度の脚にか、障害物にヴィルヘルムが足を引っ掛けたのだ。そのままバランスを崩し、声を上げる間もなくつんのめった。マンフレートに向かって。
 彼は咄嗟に手を伸ばし――倒れ込んできた相手を救いたかったというよりは、巻き込まれて自分まで転倒するのを防ぎたかったに過ぎないのだが――俳優の身体を受け止めていた。彼にもう少しの良心と瞬間的な判断力さえあれば、より正確かつ安定した形で支えることができただろう。が、実際はもっと不恰好な、あたかもグラン・パ・ド・ドゥが男性側のミスで失敗した瞬間かのように、なんとも頼りないポーズに帰着してしまった。手から滑り落ちたヴィルヘルムの杖が、床に転がる硬質な音も聞こえなかった。
 否、それだけならいくらでも取り返しようがある。すぐに自分が体勢を変えるなりして、相手をまっすぐに立たせれば済むことだ。彼はこの役者ほどには鍛え抜かれた体幹の持ち主でなく、日常的に人一人を持ち上げたりもしていないが、その程度の筋力ぐらいは備わっている。それにも関わらず――彼が身動き一つ取れなくなってしまったのは、筋力や精神力の問題ではなく、ただ嗅覚のせいだった。
 ラム酒の匂いだ、とまず思った。喉をかっと熱くさせるような芳しさと甘みと、燻されたように微かな苦さ。バニラとココナツのような香りもした。それはちょうど、この俳優が好んで吸う葉巻の匂いとも似ていた。
 が、じきに彼はこの薫香が、もっと複雑で不可思議な、理路整然とは説明し得ないものであると気が付いた。単なる嗜好品としての魅力ではなく、人間の感覚を掻き乱し、戸惑わせるままに掌握するような、ひどく蠱惑的な匂いなのだ――例えば繻子ベルベットのように艶のあるスミレの花弁を、滑らかな山羊革キッドの手袋を嵌めて摘み取るような。あるいはどこか南国めいた花茶の香りもしたが、だとすればその茶には麻酔薬かなにかしてあるに違いなかった。また幽かな煙、といっても葉巻のそれではなく、部屋中に焚き染めた香木のような煙たさもある――何に使われる部屋か、わざわざ考え込むまでもない。西欧文化が爛熟の域にあったころ、名だたる貴公子たちのねやはみなこのような匂いがしたのだろう、彼は夢想した。そして猜疑した。つい先刻まで自分たちは、たかだか1mにも満たない距離で隣り合っていたというのに、どうして鼻先を掠めもしなかったのだろう? まるで特別な呪文か何かを染み込ませて、触れられて初めて匂い立つよう、予め仕組んでいたかのようじゃあないか……

「……なあ、マンディ」
 右胸のあたりからうんざりしたような声がして、やっとマンフレートは我に返った。
「キミがなけなしの良心を奮い起こして、私を救ってくれたことについては、まあ礼の一つも言ってやらなくはないんだが、そこからこうも身体的負担の大きな格好を強い続けるというのは何か、新たな『上げて落とす』嫌がらせのテクニックか?」
 不愉快をはっきりと言葉にされて、彼にも冷たく平らかな落ち着きと、反駁を加えようとする思考力が戻る。両腕に力を入れ、相手の重心を元通りに据え直すと、彼は改めてヴィルヘルムの姿に目を向けた。クモのようだと喩えたばかりの、淫靡な匂いが染みついた役者の身体へと。
「失敬。なにしろ君と違って、日頃から軽業をこなしている訳ではないのでね。ああ、一輪挿しが無事でよかった」
「キミはこんな安物の花瓶なんかを真っ先に心配するのか? 私の役者生命よりも?」
「君なら何が幾度絶たれたって懲りずに復活するだろう。魔術師生命が絶たれたかと思えばこの調子なのだから。それにしても――」
 スミレ色をした目がほんの一瞬、剃刀のように鋭くなったのを気にも留めず、彼は言葉を続けた。
「今ほどは私の匂いをこき下ろしておきながら、君だって今日は付けているのじゃあないか。趣味のほどはともかくとして」
 
 マンフレートにしてみれば、何の気なしに発した言葉だった。否、今も嗅覚の根底で燻り続けるあの匂いを、持ち主への揶揄と合わせて意識の外へ追いやりたいという、多少の願望はあったかもしれない。ところがヴィルヘルムはといえば、それを聞くなり軽く目を瞬き――小さく鼻を鳴らしてから、やおら唇の端に深長な笑みを滲ませた。
「なんだ、キミはあの不便極まる体勢で、私の匂いなんか嗅ぎ回っていたのか? 気味の悪い奴だな」
 短い笑声。 「何故だと思う?」
「何故、ねえ。君の事情は知ったことではないのだけれど……そうだね、察するに君は今日のソワレに出ないのだろう。もし君の出演があるなら、劇場はこの時間でもずっと混んでいるはずだ。前に来たときはもっと慌ただしかった」
「そうだな、確かに今夜は出ない。幕間向けにくだらないリップサービスを考えたり、スポットライトを三重に浴びて汗だくになったり、カーテンコールでどんなふうに登場してくるかなんてことを計算する必要もない。が、それだけが理由だろうと言うのなら、キミは私の一面しか見ていない」
 少しばかり思案した後、彼は一番もっともらしそうな答えを返したのだが、生憎と役者のお気には召さなかったらしい。小馬鹿にしたような視線が彼を撫でる。
「また謎めかしたことを言うものだね。では何かな、君の違った一面といえば、節足動物の研究家、と」
「夜の勤めがないからまっすぐ家に帰って、愛するクモたちと戯れる。それならそうと香水なんかお呼びじゃないんだ。さっきも言ったろう」
 もう少し想像力ってものを持つべきだな、と見下すような薄笑いは、いくらかマンフレートの気に障りはした。けれども彼は問題なく紳士ぶった表情を保ち、打ち返すべき洒脱な文句と、それに対する相手の反応について考えることにした。備えるということは会話であれ何であれ大切なものだ。

 だが実際には、彼が予期していたのと全く違うことが起こった。ヴィルヘルムはさも見損なったように(無論、本心では何の期待もしていなかったに違いないのだが)、両腕を広げて肩を竦め、そのまま彼の背後へ歩いていくと見えた。けれども二者が擦れ違わんとする寸前に、役者は素知らぬ顔で右手を伸ばし、彼の左肩へと絡めるように回したのだ。
「まあ、キミの思考力的欠陥にはこの際目を瞑るさ。キミが『心ない』男だというのは先刻承知だしな、――その割には、またぞろ背筋を強張らせてどうした、無いというより小さすぎるだけなのか?」
「なにが――」
「どうやら匂いにご執心のようだったから」
 白いけれども血色のよい、薄化粧した陶細工のような顎が、彼の首元にそっと載せられる。上向いた喉の凸凹としたラインが、視界の端で奇妙なまでに主張していた。
「もう一度だけ機会をくれてやったんじゃないか。香を聞くのはキミの得意技だろ? 専門家だか好事家だか知らないが、以前にも私の楽屋で言い当ててみせたよな。『ああ、J.F. シュヴァルツローゼの"レダー6"だね……とても良い香りだけれど、復刻前の『スパニッシュ・レダー』ではないのが残念だね』だったか?」
 その話がいつの出来事だったか、彼はいちいち覚えてなどいなかったが、口ぶりには確かに身に覚えがあった。上流めかして勿体振った抑揚から、低すぎもせず幼すぎもしない声の高さまで、ヴィルヘルムの声真似はぞっとするほど似ていた。否、ただ似ているだけなら彼も動じなかったろうが、そこには今の役者自身が帯びているような、下腹を波立たせるほどの婀娜あだっぽさが付加されていたのである。官能のフィルターが掛けられた己の姿を見るというのは、それだけで背筋に震えの走るようなものだった。
「は、……君が私の所見をわざわざ聞きたがるなんて、どうした風の吹き回しやら。そうだね、とりあえず私の友人に君の匂いを嗅がせたら、失神するか通報されるかのどちらかじゃあないかな」
「友人? キミに友人なんて居たのか? それともあの、常々キミについて『香りの趣味が退廃的すぎる』と言っているらしいどなた様か」
 平時とは異なる理由で口早になる彼の首筋へ、ヴィルヘルムが嘲弄するように鼻を擦り寄せる。その頃にはもう、右手のみならず左手さえもが、黒いフロックの上を滑って背中へと回り、僅かに筋張った五本の指は、肩甲骨のあたりを緩慢になぞっていた。
「そんな良識的な人物がライプツィヒに実在するかは確かめないでやろう――私は親切だからな。キミが賢しらぶって何を口にしようが、寛大な心で受け入れて差し上げようとも……」
 愉悦めいて喉を鳴らす音がする。 「いい匂いだろ?」

 努めてヴィルヘルムから引き剥がそうとしていた意識が、その一言でまた容易く呑まれてしまう。どうしてかこの香りには――あくまでも香水の功績であって、役者本人に起因するものだとは決して思いたくなかった――逆らい難いものがあるのだ。いい匂いかと聞かれたら、たとえどれほど首を横に振りたくとも、肉体のほうが先に頷いてしまうような。今しもうなじに手を這わせようとしているこの冷血漢を、ただ突き飛ばすなり何なりという手段に出られないのだって、きっと香りのせいに決まっているのだ。
「そうとも、……その、君の香水が、」
「私が」
 弁明らしき言葉を圧し遮るように、甘ったるいテノールが耳元に吐き出される。
「私が、いい匂い、だろう。違うか、マンディ?」
 いい匂いだろう? ――ああ、違いない。例えばこんな香りのする蒸留酒の類があるなら、一瓶を一息に飲み干して、それこそ気を失ってしまいたいぐらいだ。が、まさかその通りを声に出すわけにもいかず、彼は息を詰まらせながら憎まれ口を絞り出そうとした。実行に移せなかったのは、ヴィルヘルムの右手が動きを変えたからだった。小さく衣擦れの音を立てながら、肩から左腕を滑り降り、指と指とを絡めて引き戻す。黒いスラックスの側章を掠め、燕尾をたくし上げるように腰から胴へ、今はまだ引き締められたボウタイの、片方の翅に手を掛けられるところまで。
「そうだろうさ」 糖蜜のような声音が彼の耳を浸す。 「でも、まだ全部じゃない」
 緋色の絹でできた蝶を解くのはあまりにも簡単なものだ。片側の翅をほんの少し引っ張りさえすればいい。しゅるりと心地よい音を立てて結び目がほころび、襟元のボタンを露わにするだろう。一つを外せば、次はこちら、と。そして、この麻薬めいた香りの根源は更に下にある――僅かばかりの日焼けもしていない、肌理細かな膚の奥に染み付いているのだ。
「ブラザー、ヴィ……あの、少し待ちた――」
 声が上擦るのだけはなんとか堪えたが、それでも彼の喉はいつになく震えていた。 「聞いて、」
「聞くさ。なんだって聞いてやるよ、マンディ、何をしてほしい? それとも何をさせてほしい……」
 重なった手が更に持ち上げられる。襟元から口元へ。自分の指先が相手の唇に触れ、――微温んだ吐息のかかる場所から、輪郭を失って溶け落ちてゆくようにさえ感じられた。

 彼は懸命に自分の肩口から目を逸らし、「VIP席」の前方へと視線を向けた。舞台のある側から光が差し、数名分の声が遠く聞こえてくる。彼らはホールの奥で何が起きているのか気にしないのだろうか? 次の上演が恙なく終わるよう、自分たちの仕事に細心の注意を払っているせいで、他のことなど考えられないのか?
 否、彼らには解り切っているだけなのだ。この享楽的な美男子がしばしば「自分の劇場」に関わる人々――役者仲間や裏方、経営陣や客に至るまで――を、老若男女の別け隔てもなく、閨事の伴にしているということは。彼らならば先に投げ掛けられた問いにだって、何の迷いもなく答えを出せるに違いない。今となってはマンフレートにも理解できてしまっている。何故香水をつけているのか? ――今夜は違う場所で寝るからだ。
「違う、ちがうんだ、もう」
「何が違うって? ま、キミが何を言うかぐらいは分かってるんだが、折角だから言葉にしてもらおうじゃないか。良いんだ、いつもと同じだろ、キミは私にどんな悪辣なことだって吐いてのけるもんな……」
 耳元に蟠って離れない、掠れた囁き声から意識を外す。遠くへ、もっと遠くへ。聞こえてくるのはピアノの音だ。舞台では伴奏者と歌い手とが、最後の打ち合わせでもしているらしい。重なり合う歌声が三つ、どれも女性だ。特徴的な冒頭、リズムの刻み方、そしてコーラスの文句、あの曲は確か――
 題名を思い出すのと同時だった。持ち上げられたままだった彼の指先に、抉られるような痛みが走ったのは。

「く、……あッ、ひっ」
 碧眼を見開き、肩をびくりと震わせて、マンフレートは自身の左手を引き戻した。堪え切れない苦痛が音になって漏れる。
 爪と膚とを押し潰すような痺れと共に、留まっていたはずの熱が不気味なほど素早く引いた。幾筋も絡み合い、体中を愛撫していた香りの糸は、まるで初めから無かったかのようにひたりと鳴りを潜めた。陶酔じみた感覚は彼を冷たく突き放し、慰め一つなく現実へと揺すり落とした。
 彼の視線は左手の先に集約された。人差し指と中指の腹に、緩やかな弧を描く凹みが一筋――赤い色を帯びたそれは間違いなく歯型だ。出血こそしていないが、相当に強い力で噛み付かれたのは明らかだった。
「きみ、君……ッ、なんてことを、して」
「キミが述べた通りのことをしただけだぜ、マンディお坊ちゃん」
 背に回していた腕をするりと解き、片眉を上げながらヴィルヘルムが答えた。
「何の不思議もない運びだったろ? 匂いに釣り込まれて、糸に掛かって、噛み付かれて、喰われる」
 哄笑が漏れる寸前、とでも形容できそうな口元から、短い息が吐き出される。それも先程までのじっとりとした吐息でなく、まるきり苦く乾いた呼気だった。
「そういうものだろ、クモの誘惑というのは。我が身のこととして考えたことがないのか? ナゲナワグモに狩られるガの気持ちなんかを?」
 貌が彼の影へと踏み込み、瞳は灰色に翳る。 「でなきゃ軽々しく、人をクモみたいなんて言ってくれるなよな」
 鼻先同士が触れ合うのではないかと思える距離から、浴びせられるのは冷たい嘲罵。狩猟者を演じてみせた役者の目が、ちらと自分の首筋に走ったのを見て取り、マンフレートは頬を強張らせた。
「良いじゃないか、指の一本や二本ぐらい。どうせ後でまた、あの俗物根性スノッブ丸出しの匂いがする手袋を嵌めるんだろ。傷なんか判りやしない。本当ならこの生白い首を喰い破って、キミが死ぬまで一緒に踊ってやっても良かったんだ……」
 心無い台詞への反論に先んじて、彼の脳裏に蘇ったのは、まさにナゲナワグモが獲物を捕らえるときの姿だった。あえかな月明かりを浴びた一筋の糸と、その先で激しく羽音を立てる一匹のガ。まき散らされる鱗粉が幽かな光に煌めく中、罠の主であるクモが銀線を伝い下りてくる。生贄の身体を細い腕で抱き締め、首筋に牙を突き立てながら、くるくると空中で回り続ける――毒が獲物を侵し切るまで、最期のダンスを踊らせてやるのだ。ああ、そんなふうに果てることができたのなら、どんなにか!

「――生憎だけれどね、どんなに演じて見せたところで、君は人間だ。私の死を託すには値しないよ。けれども、その、……前言を撤回、ではないけれど、訂正はしよう」
 幻想を振り払うように数歩退がり、視点を役者ではなくカーテンの向こうへ据えながら、彼はやっと確かな声を出した。
「ふん?」
「君はクモのような男だ。色香というものを何に使うべきか知っているし、実際に能く使っている。けれども、――それは君たちが色情狂だからじゃあなく、ただ目的達成への最善手だからだ。私たち周りの人間が、そこに狡猾さや淫蕩さを勝手に見出しているだけなんだ」
 この「訂正」は幾らかでもヴィルヘルムの意に適うものだったらしい。文句なしといった風ではなかったが、多少なりとも満足したように目を細め、役者はマンフレートに向けて顎をしゃくった。
「まあ、及第をやってもいい出来映えだな、常に言い訳がましいキミにしても。そうだ、結局はただの手段だ。目的はといえば様々だが、今回はキミに対する最大限の嫌がらせだ。さて、それじゃ『仲直り』の印に、改めて本来の目的を果たしに行くか」
「何だって?」
「腹拵えをするんだよ。私がこの上さらに危険な匂いを出し始めても困るだろ。『王様の錨ケーニヒスアンカー』のいつもの席を取ってある」
「あのねえ」 誘われた側は眉を顰めながら、呆れたように嘆息した。
「君は私が、こんな流れからだね、旧市街の裏通りにあって、強い酒を出していて、深夜まで営業しているような店の、それも個室にしけこみたがる男だと本気で思っているのかい? 本心から?」
 誘った側は眉一つ動かさずに答えた。 「だが、キミは標本を見たいんだろ?」
「見たい」
「じゃ、つまり一緒に来るってことだよな?」
「行く」

 暫しの沈黙があった。このたび嘆息を漏らしたのはヴィルヘルムのほうだった。
「……なあ、マンディ、これは敵手の言葉だからこそ真実だと思って聞いて欲しいんだが、キミは絶対いつか何らかの詐欺に引っかかるから用心しろよな」
「そうだね……前々からそんな気はしていたのだけれど、今回のことで更に信憑性が増したね」
 他人事のように我が身を省みながら、マンフレートは淡々と肯定する。
「せめて少しは返事を躊躇えばいいものを。さっきはあれだけ余計な妄想を逞しくしていたくせ――ああ、そういえば」
 役者は頭を振って知人の危なげな様子を眺めていたが、ふと思い出したように話題を切り替えた。床に転がったままの杖を拾い上げ、距離を詰める。
「キミは何だか自分なりに勘繰って、私と匂いとの関係性をあれこれ邪推していたがな、そもそも今日の私は香水なんか付けていないぜ」
「……はあ?」
 あまりにも間抜けな響きの声と共に、碧眼が幾度も瞬いた。だとしたら、今まで自分が抱いてきた焦燥や危機感の類は一体何だったのだ――口にこそ出さなかったが、彼は香りの主を凝視する。視線を浴びたほうはしたり顔だ。
「良いか、もう一つ大事なことを教えてやろう」 ふ、と愉快そうに鼻を鳴らす。
「私ほどの美男子になると、何も付けなくともいい匂いがするんだよ」
「正気かい?」
 マンフレートの応えに、取り澄ましたり小馬鹿にしたような風が少しもなかったのは言うまでもない。心の底から彼は当惑していた。一連の言動はやはり、何かおかしな薬でも吸ったせいなのではと考えさえした。
 他方、ヴィルヘルムは平然として笑み、彼の前でくるりと一回転するや、手にした杖で床を軽く打った。――途端、身に纏っていた黒い燕尾服が、無数の糸へと解され、幾筋もの細い流れとなって滑り落ち、影の中へと溶け込んでいった。胸に襞を波立たせていた白いシャツは、たちまち凪いで平らかとなった。襟元に結ばれていた深紅のタイが、触れもしないのに涼やかな音を立てて解け、何匹もの紅い蝶となって虚空へ飛び立った。ただ一匹だけが左胸にそっと止まり、艶やかな紅色の翅を緩やかに動かした。
「きみ――」
 何か言いかけたマンフレートを制するように、ヴィルヘルムは右脚を軽く持ち上げ、床へと振り下ろした。金属板の貼られたタップシューズの底が、短く連続した靴音を立てる。と、影の中から再び無数の糸が立ち上がり、上半身に纏って、見る間に米国式の瀟洒な背広を織り上げた。
 そして左の襟元から同じほど黒い、一匹の蜘蛛が音もなく這い出すと、胸に止まっていた蝶に喰らい付いた――翅の彩りを吸い上げたかの如く、蜘蛛は見る間に同じ色へと染まり、ゆったりと元いた場所へ戻っていった。
 マンフレートはもう一度目を瞬いた。蜘蛛の姿は何処にもなく、ただ左襟のボタンホールに、仄暗い色をした一輪の彼岸花が挿さっているだけだった。
 言葉もなく立ち尽くす彼の前方から、再びピアノの伴奏が聞こえ始めていた。曲は同じだが、此度はドラムとコントラバスも伴っていた。あまりにも有名なフランス語のフレーズが、三つの声で空間に木霊する。

  Voulez-vous coucher avec moi ce soir,
  voulez-vous coucher avec moi?


Voulez-vous coucher avec moi?ねえ貴男、私と一緒に寝たくない? ――なんてのは」
 否、四つだ。鼻に掛かったrの響きは、随分と上品を装って暗がりに溶ける。それはやはり、自分がフランス語を喋るときの声音をそっくり模倣したものだ――マンフレートは理解し、今しも幻惑されかかっていた自分自身を恥じ、召し替えたばかりの若者に見惚れるのを止めた。彼の眼前で、白い顔に貼り付くとろりとした面差しが、瞬く間に憫笑へと変わっていった。
「言わなきゃ唆せない奴だけの台詞さ。もっと唆るものは言葉にならないんだ……」
 靴音が進む。二者は今度こそ何事もなく擦れ違った。 「だよな、マンディ?」

go page top

inserted by FC2 system