今感じられる温もりといえば、紙袋から立ち上るスープの熱だけだ。

魔術より団子 -Magic and Dumpling-

 宵闇が青いインクのように冬の空気へ溶け入り、均一に成り切らぬまま太陽を沈めて暫し。北風はいよいよその攻勢を強め、旧市街の石畳に積もった落ち葉を掃き散らした。こんな晩でもカフェのテラス席には人々が集い、暖かなコーヒーやグリューヴァインを楽しんでいるが、その傍を通り抜けるゼバスティアン・"バスティ"・メルツの目には入らなかった。疲れていたからだ。分厚い防刃ベストや耐水・難燃性の出動服は、防寒という面から見ると毛皮のコートや登山用ウィンドブレーカーに遠く及ばない上、比較にならないほど重たいときている。とにかく一刻も早く支部に戻って、下半身の痛くならない席に(かつ、座るのに1ユーロもかからない席に)腰を落ち着けなければ、意識を保つことすら侭ならなくなる、そう全身が訴えているようだった。
 彼がスープを購った屋台インビスから世界魔術師協会ベルリン支部までは、大人の早足でおよそ十分。その十分がこれほど長く険しい道のりに思えるのも、今日の彼を襲った難事のせいだ。折しも昼食時、素晴らしいラムケバブ――ひと足早い誕生日祝いにと、友人たちが苦労して予約を取ってくれたのだ――にかぶり付こうとした寸前に、支部から緊急呼び出しが掛かった。それも彼のみならず、実働部隊に所属する魔女狩人ほぼ全員に対して。
 いかにベルリンの魔女狩人ヘクセンイェーガーが多忙とはいえ、「週休を取っている新人隊員」という立場の者にまで召集が来ることなど稀である。すわ一大事と彼は(未練が無かったとはとても言えないが)グリル料理の誘惑を振り切り、部隊長の元へと駆け付けた。果たして現地は急迫した状況――地元に長く居を置いていた魔術師による、人質を取っての籠城事件だったのだ。
 幸い、人質や周辺住民に死傷者は出なかった。現場となったクロイツベルク区の古いアパートも、戦闘によって幾らか損傷したものの、取り壊しが必要なほどの被害は受けなかった。加えて重要なことだが、犯人もほぼ無傷で取り押さえられた。対する魔術師協会が支払った代償は、隊員2名の軽傷と対ガーゴイル用防火シールド1基の破損、そして参加した全員の心身にかかる極度の疲労である。

 支部の門衛は若い魔術師の困憊した姿を認め、暖かな労いの言葉で迎え入れたが、それに笑顔で応えるだけの気力さえ、バスティには残っていなかった。正面玄関の自動ドアが素っ気なく開き、中から暖かな空気がどっと押し寄せて初めて、彼は冷え切った魂に安堵の火が灯るのを感じた――先に撤収した他の実働隊員たちを含め、この時間でも残って仕事をしている者は沢山いるが、それでも一般の窓口は業務を終えた後だ。すっかり閑散としたロビーの片隅で、落ち着いて食事ができるだろう……
 ぼんやりと考えながら無人の受付に会釈し、ソファや小さなテーブルが並ぶ区画へ頭を向けたところで、彼の歩みはふと止まった。利用者はとうに無いだろうと思っていた、その一角に人影がある。革張りの長椅子の上、少し背を丸めて座っているのは、彼よりも二回りは小柄な姿。しかし服装は全く同じだ。暗色の分厚い上下に防護ベスト、魔法薬の瓶を収めたベルト、左腕に縫い付けられた待雪草シュネーグレックヒェンの記章――
 と、人影が顔を上げた。僅かに緑がかった、大きな碧眼が彼を見る。
「……ブラザー・メルツ」
 目元以外を覆い隠すマスクのために、まだ低くなり切らないその声はくぐもって聞こえた。声変わりこそ始まっているが、明らかに子供の声だ。そして彼にとっては、数時間前まで絶えず聞いていた声だった。今よりずっと苛烈な響きで。
「隊長」
 彼は駆け寄りかけたが、熱い液体を手に提げたままであることを思い出し、袋の中で零さぬよう努めて静かに移動した。
「なんでまたここに――もしかして、お待ち頂いてたんですか」
 尋ねながらも、そうに違いないという確信が彼にはあった。作戦用の装備のまま、それこそヘルメットすら脱いでいないぐらいだ。現場を辞してからせいぜい司令部に顔を出すぐらいで、後はずっとロビーにいたのだろう。
「全員の帰投を確認するのもわたしの務めだ、ブラザー。分隊長としての責任がある」
「しかし、……」
 淡々として落ち着き払った語調に、疲労や憔悴を思わせるものはない。が、疲れていようといまいと、部下の帰りを長く待っていてくれたことには変わりない。バスティは口をもごもごさせるのを止め、姿勢を正してきっぱりと言った。
「いや、失礼しました、ブラザー・ユリウス。シュネーグレックヒェン・Cツェーザル-9ノイン、只今戻りました」
 しゃちほこばった帰還の報告に頷きが返される。 「無事で何よりだ。遅くまで御苦労だったな」
「いいえ、それこそ責任があるので。隊長には及びませんが、自分もいち隊員として……」
 座るべき席とタイミングを図りかねながら、彼は述べた。紛れもなく本心なのだが、声に出してみると嫌に薄っぺらく聞こえるのが歯痒い。日頃ここまで口下手ではないはずなのに、どうにも背筋が強張ってしまうのは、やはり自分が新人隊員で、目の前にいる少年が「隊長」だからなのか――ユリウス・ギーゼキング、ベルリン支部では古参のウィザードであり魔女狩人。彼はこの魔術師と、任務のほかで会話を持ったことがほとんど無かった。話しかける機会が無かったわけではない。支部本館でもちょくちょく姿を見かける。が、それは決まって地下蔵書庫の閲覧席か、訓練場か、さもなくば救護室でのことだった。指揮杖を持っていないときは本を持っており、本を読んでいないときは訓練に明け暮れ、どちらでもないときは怪我の治療を受けている、そんな相手にどうして気安く話し掛けられよう。
 しかし、ふと彼の脳裏に閃くものがあった。つまり、話を広げるきっかけだ。着替えもせずに自分の帰りを待っていたというなら、恐らく食事もまだに違いない。そして正に今、自分の手元には好適なものがあるではないか。
「そうだ、隊長」  何の気なしを装って、彼は一歩を踏み出した。
「あの、こんな所でなんですけど、これをですね、もし――」
 彼の左方で自動ドアの音がしたのはその瞬間である。続いて近付く足音。彼らが履いている戦闘用の半長靴ではなく、ごく有り触れた革靴のそれだ。彼が思わず言葉を途切れさせるのと、
「ギーゼキング!」
 ロビー中に響き渡るような朗々とした声が、眼前の「隊長」を呼ぶのとは同時だった。

 足音は止まり、バスティは振り返る。数メートル後方に立っているのは、背の高い壮年男性だ。清潔に整えられた黒髪に、きりりとした眉、いかにも押し出しの強そうな風貌である。外気の厳しさに立ち向かってきたのだろう、黒いロングコートの襟を立てて、首元にはストールも巻いていた。
「え、っブラザー……」
 今回の任務ではアパート正面からの突入を担当した、A分隊の指揮官だった。彼はとっさに名前を思い出せず――任務中ではただ符号で「Aアントン-1アインス」とのみ呼ばれるので――言葉に詰まったが、
「ブラザー・シュトラーセンベルク」
 ユリウスが席を立ち、彼の横まで進み出たおかげで、なんとか思い出すことができた。ここは軍隊や警察ではないので、日常的な敬礼は無しだ。代わりに堅苦しい辞儀が成され、彼も慌ててそれに倣った。
「申し訳ない、使い立てを――」
「なに気にするな、貸しにもならんよ。部下を出迎えるという立派な用事の助けだ。むしろ貴官はもっと人手を使うべきだろう」
 陸軍将校めいた風情の男は眉を上げ、短い笑い声と共に言った。使い立て、という言葉がふと引っかかり、バスティが見ればその左手には紙袋が提げられている。何の変哲もない茶色のクラフト紙。装飾といえば僅かにロゴ入りのスタンプが捺してある程度だ。が、その図柄は彼にとっていやに見覚えのある――というよりも、まさに彼が話題に出さんとしていたところの――
「人手は……わたし自身は適切に使っているつもりですが。隊員たちの能力と適性に基づき……」
「夕食の買い出しぐらい他人に押し付けても叱られるまいと言いたいのだが。ほら、冷めないうちに食べるといい」
 彼が二の句を継げずにいるうちにも、上官二名の間では言葉と物の遣り取りが続いている。買ってきた側の口ぶりからして袋の中身は食べ物であり、やはり彼の手持ちにあるものと同じと見て間違いなかった。
「……ご厚情痛み入ります」
「水臭いぞ、ギーゼキング! 同じウィザード同士で畏まるのはよせ。労われる側にしても、そのほうが気疲れしないだろう」
 頭を抱えたくなる彼の内心など知る由もなく、「A-1」ことシュトラーセンベルクはやれやれと言わんばかりに頭を振る。かと思えば同意を求めるかのように、褐色の目を「労われる側」に向けてくるのだ。彼はまごついて不出来な笑みを浮かべ、首を傾げながら頷くという奇妙なジェスチャーを披露した。
「全く、貴官らは雑談となると不器用なことだ。任務外でも無線機を付けていたほうがまだしも捗るのではないか?」
 お世辞にも口が上手いとは言えないC分隊の二名を見、A分隊の長はおかしそうに鼻を鳴らした。分隊長格が相手でなければもっと喋りますと、バスティは弁解しようかと思ったが止めた。
「まあ、我々のような職分においては沈黙も大切なことだ。貴官らは口を開くべき時に躊躇わぬのだからそれでいい」
「我が隊の者はみな弁えています」 とユリウス。
「結構! さて、私は先任殿に付き合ってくるのでな、お先に失礼。食べて休みたまえ、ご両人」
「あなたも、ブラザー・シュトラーセンベルク。おやすみなさい」
 紙袋を受け取った魔女狩人が、ついに声のトーンを変えぬまま別れの言葉を向ける。バスティのことは視界に入っているのかいないのか、A分隊長は短く「お互いに」とだけ返すと、きびきびした動きで廊下の奥へと歩き去ってしまった。

「……彼のことは苦手か、ブラザー・メルツ?」
 黙り通していた部下が流石に気遣われたのだろうか、長身の人影を見送り終えた碧眼は、緩やかにバスティへと向けられた。彼は慌てて首を横に振る。
「いえ、決してそのようなことは。ただ、……自分は彼ほどには堂々としていないので、その、気後れして」
「堂々とすればいいのではないか」
「できれば苦労しません、隊長」
 それこそ魔女狩人としての任務のような、何か強固な動機でもなければ――彼は思ったが、相手に理解されるかどうかは自信がなかった。目の前にいる上官は寡黙でこそあれ、間違いなく堂々とはしているからだ。
「そうか。いや、得手不得手は誰にでもある。先程も言ったが、わたしは個々の特性を見て、適切な役割を振っているつもりだ。恥じ入らせることがあったなら、それはわたしの不手際だ」
「ご厚情痛み入ります」 感謝の言葉が見つからず、彼は先刻の上官と全く同じ台詞を繰り返した。
「それで、――ブラザー・シュトラーセンベルクより前に何か言いかけていたと思ったが」
「あっ」
 我に返るバスティに対し、上官は細い金色の眉を僅かに寄せて、うっすらと済まなさそうな顔をする。相手のほうでも、どうやら何か間の悪いことが起きたと勘付いたようだった。静かな溜息が一つ。
「察するに、わたしは折角の厚意を無下にしたかもしれないのだな、ブラザー」
「はっ、いえ、いいえ、決してそのようなことは! 自分はその、自分が夕食を取るにあたって、もし隊長がお済みでなければご一緒しませんか、と申し上げるつもりだったのです。隊長のほうこそ……気後れなさらないでください……」
 少しばかり熱を失った紙袋を手に、彼は必死の釈明を行った。誰が聞いても下手な誤魔化しにしか思われなかったろうが、同じ紙袋を持つ少年は、静かに頷きながらそれに聞き入り、
「解った。そうした事情ならば、喜んで」
 とだけ答えたのだった。眉間の小さな皺がふと緩み、目元にあるかなしかの微笑が宿るのを、バスティは確かに見た。マスクで口が隠れているため、それはそれは読み取り辛いものだったが、彼の心に慰めほどの安らぎが戻ったのは言うまでもない。

 分隊長はさらなる心遣いとして、場所を移ろうかと言ってくれたが、バスティは有難く思いながらも遠慮した。心の疲労が少しばかり和らいだ拍子に、肉体とりわけ足腰の疲労が蘇ってきたからだ。もうあと数分も立ってはいられない、目の前にある椅子に座らねばならないという内なる主張に、彼はとりあえず従うことにした。
「しかし、隊長もご存知だったんですね、この店。お見かけしたことはないですけど」
 直径にして20cmほどの紙容器を袋から取り出しつつ、彼はやっと雑談らしい話題を持ち出すことができた。空腹にも後押しされた形だ。一方、元いた席に戻ったユリウスは、
「いや、……それが、知らない店なんだ。わたしはただ、手近なところで腹に溜まるものがあれば、と頼んだだけだから」
 穏やかな調子のままで否定の意を示し、この中身が何かすらも解らない、と続ける。
「ああ、なるほど。ええとですね、クネーデルの店なんですよ。店、って言っても席のない屋台ですがね、遅くまで開いているので自分は重宝しています。中身は……とりあえず見るのが早いかと」
 答えながら、彼は手本を示すようにプラスチックの蓋を開けた。たちまち中から湯気が立ち上り、金色に輝くスープと、彼の握り拳ほどもあろうかという大きなジャガイモ団子が顔を出す。例の店で彼が決まって注文する品だ。
「汁物の種類がいくつかあって――これは玉葱スープツヴィーベルズッペですけど、他にもフルーツスープやグラーシュ風のものや、大体いつも四種類ぐらいが揃っています。それとクネーデルの、大1個か小3個がひとつの単位になっていて、その範囲内なら値段は同じ、と」
「なるほど」
 頷きつつ説明を聞いていた上官も、倣うように品を開封する。途端、碧眼が普段よりも幾らか丸くなり、
「そうなると、これは基本料金の範疇外ということだろうな……」
 些か困ったような声がその口元から漏れた。バスティが向かいから覗き込んでみると、果たして明らかな範疇外だった――「大」にあたる団子が2個、ミルク色の水面を覆い尽くさんばかりに鎮座している。加えて、バターの香り豊かなスープにはこんがり焼けたパンも二切れ浸されており、ローストした厚切りのミートローフまで添えてあったのだ。器の直径いっぱいに詰め込まれたクネーデルを見、彼はふとギムナジウムで習った図形の問題を思い出した。「次の図は、直径20cmの円の中に直径10cmの円を二つ描いたものです。斜線部の面積を求めなさい」……
「ええ、そうですね――まずクネーデルの増量に、トーストやハム類のトッピングも別料金です」
「……わたしはただ手頃なものを買って、釣りは手間賃代わりに取ってもらうつもりだったから、5ユーロしか渡していないのだが」
 やや困惑の色が滲む声音で、足りたのだろうか、とユリウスが言う。否、疑問の形を取ってはいるが、実際のところは予測が付いているような語調だ。足りているわけがない。
「いや、まあ、きっとこれもブラザー・クルトのご厚意ですよ。少なくとも彼は、予算を超えたものを買った上に差額を取るみたいな理不尽な真似はしないでしょう」
「解っている。そうでなければわたしも頼まなかったろう」
 少しの間。 「何か埋め合わせはしなければな。食べ終わってから考えよう」
「そうしましょう。空腹のままでは頭も働かないので」
 添え付けられていた使い捨てのスプーンをめいめい取り上げながら、彼らはとりあえず問題を先延ばしにした。仕事であれば褒められた態度ではないかもしれないが、今は完全にプライベートな事案だ。人の懐具合と返礼品の内容について悩むより、自分の胃袋を労ったほうがいい時もある。
「……それにしても、良い匂いだな」
 やっと料理そのものに意識を向ける段階に来たのだ。二人はそれぞれの器から立ち上る、温かく豊かな香りに鼻をひくつかせた。こうした料理は熱いうち食べるに越したことはない。
「全くですね、やっぱり冬はこういうものが食べたくなるなあ。任務中は汗だくですけど、終わったとたんに冷えて冷えて……」
 外したケブラー手袋を脇に置き、そう厚くもない容器の側面に手を添えれば、指先からスープの熱がたちどころに伝わってくる。多少冷めたとはいえ、凍えた身体を生き返らせるには十分だろう。バスティは早速スプーンを黄金色の海へと沈め――

「って、隊長、隊長!」
 ふと視線を向かいに遣った瞬間、そう声を上げずにはいられなかった。やはり匙を片手にスープを掬い取り、口に運ぼうとしているユリウスがいる。――口元を覆ったままで。
 自分が呼ばれているのに気付いた分隊長は、持ち上げた手を止めて目だけを彼に向ける。バスティは空いたほうの手で自分の口を指し、
「マスク、マスクです」
 と付け足した。そこでやっと当人も気が付いたらしい。彼に倣うようにして口に手を当て、そこに薄手の布が被さったままだと確認するや、なんともばつが悪そうに視線を逸らした。黒いマスクは無言のままに引き下げられ、薄く血色の良い唇が覗いた。
 バスティは安堵とも得心ともつかぬ息を漏らした。ああ、やはりこの人は疲れているのだ――当然だ。事態を収拾すること、市民に被害を出さぬこと、被疑者への傷害もまた最小限に留めること、そうした数々の義務を遂行するために全力を注いだ証である。
 言うまでもなく任務中のユリウスは、どんなに疲れていようと一分の隙も見せることがない。それこそが精鋭たる魔女狩人たちの、さらに分隊の長を任される素質の一つなのだろう。だが、そんな歴戦の猛者にも確かに、ほんの僅かな間であっても気を抜いている時があることに、彼は硬くなった背筋を解きほぐされるような安心を覚えた。
「面目ない。ありがとう、ブラザー・メルツ。危うく火傷をするところだった」
「どういたしまして。……もう頭周りは全部外してはどうでしょう、隊長?」
 物理的衝撃はもちろんのこと、頭部への魔術的影響を最大限に遮断するため作られたヘルメットは、少なくともバイク用のそれよりは重たく束縛感もある。軽量化は進んでいるとはいえ、やはり重たいだろうと気遣って彼は言った。そうだな、と短いいらえがあり、スプーンを離した手が小さな頭に伸びる――数多の傷が刻まれたそれがこっぽりと外れ、さらにバラクラバの覆いも取り払われれば、現れるのはごく内気そうな少年の風貌だ。左目の上で分けられた金髪、ほっそりとした顎、短い襟足。こうして顔のパーツだけ見れば、それこそギムナジウムで幾何の点数に一喜一憂していそうな年頃と見える。けれどもその眼差しや引き締まった口元が形作る表情は、明らかに老成したものである。ドイツ歴史博物館の白黒写真でしばしば見られるような、多くの苦渋と辛酸を舐めてきた兵士のそれだ……
「……わたしのことは気にせず食べてくれ、ブラザー」
 脱いだヘルメットを脇に置き、ふうと小さな息をついた後で、小柄な狩人は勧めた。そう大きくはないがよく通る声だった。
「はい、隊長。お言葉に甘えて」
 物思いに沈みかかっていたバスティの頭は、その温和おとなしやかな響きで再び明瞭になった。といって、すぐに食事を始めることもなかった。彼と同様に手袋を脱いだ少年が、傷だらけの両手を組み合わせて頭を垂れ、慎ましい祈りの形を取ったからだ。短く切り揃えられた前髪が僅かに揺れ、両の瞼がひたりと伏せられる。ささやかながら静謐な数十秒間を妨げる気にはなれなかった。
 やがて少年が再び目を開け、匙に手を伸ばしながら顔を上げるのを、彼は微かな笑みと共に見守った。二人の間にまだ言葉は生まれなかったが、代わりにどちらともない目配せが交わされ、やっと温かなスープは掬い上げられた。

 ああ、そして含んだ最初の一口のなんと滋味深かったこと! ベーコンの一欠片すら入っていないこのスープが、どうして胃袋にこれほどの豊かな満足感を齎してくれるのか、初めて屋台を訪れたときのバスティにはてんで解らなかった。まだ肉と脂とを崇めていた時分の彼には。
 否、今でも彼は洋の東西や調理法を問わず、動物性タンパク質を尊ぶ性質だが(友人たちが誕生祝いのランチに何を選んだかを例に取るまでもない)、それと同じぐらいにシンプルな野菜料理を愛するようにもなった。水面から立ち上る香ばしい匂い、くたくたに炒められたタマネギが放つ飴色の輝き、そしてカラメルを思わすような、胃袋を慰める優しい甘さ。まして、そこに丸々としたジャガイモのクネーデルが一塊、「辛うじて体積に浮力が勝っております」とばかりの堂々たる姿で浮かんでいるとくれば、満足を通り越してもはや贅沢というものだろう。
 沈み込んだ歯がなかなか抜けないような、きめ細かでねっちりとしたクネーデルに彼が舌鼓を打っている間、ユリウスはといえばまだ食べ始めていなかった。ふうふうと二度三度、念入りに吹いて冷ましてから、やっとのことで匙に口をつけ――あつッ、と小さな声が漏れ聞こえた。
「……熱いのだめなんですか、隊長」
 食べ進める手が止まり、思わず彼は尋ねていた。ややあってから、多少、という短い応えが返ってくる。先程とは別種の笑みがこみ上げるのを感じ、彼は温かな液体が食道以外の場所に入らぬよう、苦心して表情を引き締めねばならなかった。現場にあっては眼光鋭く趨勢を読み、隊員たちに喝を入れ、容疑者を前にすれば力強く降伏勧告を行い、とうとう戦闘が避けられぬとなれば裂帛の気合と共に拳を叩き込む、あのC分隊長ユリウス・ギーゼキングが口籠りながらスープを冷ますところなど、どんな伝手があれば間近で見られるというのだ?
 幸い、体勢を整える時間はいくらでもあった――差し向かいの相手は食事の間、進んで口を利こうとはしない質だ。だから彼も十分な余裕を持って、胡椒に引き立てられたタマネギの旨味を楽しみながら、きちんと備えをすることができた。
「美味しいな、これは」
「はい、美味しいですね」
 ぽつりと零された嘆賞の一言と、伴って向けられた安らかな視線へ、万全の同意を返すために。

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