水銀柱の先が示す「25」の数字を見て、世も末だと言い合う日々があった。

戯れる友、戯ける友 -Sugared Payback-

 それは本当に世も末――20世紀ではなく19世紀の末、まだドイツが帝国と呼ばれ、世界魔術師協会などというものが存在せず、私が陸軍で将校付き従卒という名の使い走りをやっていた頃の話である。否、そこまで時代を遡らずともよい。私が籍を置いていたフランクフルトの大学を辞め、ライプツィヒ支部に新たな研究の場を得た、今世紀の初めを思い出してみれば済むことだ。ドイツの夏といえば一部を除き冷涼にして快適、ただ青空がそもそも貴重なものだから、たまの晴れ間に気温が上がると、人々はこぞってシャツを脱ぎ捨て日光浴に走るという、今からは考えもつかない光景が広がっていたのである。

 翻って今日、2018年7月31日のライプツィヒはどうであろうか。明朝に家で身支度をしているおり、テレビの天気予報が示した予想最高気温の数値に、私は一度も陽に当たらぬうちから目眩がする心地であった。「36℃」だ。それもライプツィヒだけが何らかの異変に遭っているわけでなく、たとえば首都のベルリンも、古巣のフランクフルトも、みな一様に暑いのである。辛うじてバイエルンやラインラントの山間ばかりが、この災厄を免れているという格好らしい。私は呻きながら着るはずだったシャツを吊りなおし、クロゼットから見た目だけなら大差のない別のシャツを取り出した。私にはよく解らない理屈でひんやりとした着心地を実現しているという、紳士洋品店が春の終わりになると売り出すあれだ。
 理屈が解らないから実感も沸かないのか、実感が沸かないから理解にも至らないのか、ともあれそのシャツは私に何らの涼感も与えてはくれなかった。思うにこれは暑さといっても、せいぜい冷房のついていないオフィスで座り仕事をする程度の、比較的人間味のある暑さを乗り切るためのものなのだろう。炎天下の屋外で行う半日がかりの肉体労働は、一枚35ユーロのシャツには荷が勝ちすぎたのだ。
 これは古き良き中部ヨーロッパの気候に慣れた我々ドイツ人だけの感覚でもないらしい。湿潤酷暑で知られる日本生まれのリコも、「東京の夏と大差ない」と言って水着のような格好で出勤してきたし、その格好でなお「水着で仕事がしたい」等とぼやきながら業務を終え、一時間ほど前に帰っていった。彼女はまだ17歳なので、青少年保護法に基づき夕方の5時に必ず退勤しなければならないのだが、「青少年の保護を謳うならもっと涼しくなってから帰らせるべきだ」と主張し、どうにか残業しようと頑張りだす始末だ。どうも暑さというのは寒さ以上に人間の言動をおかしくするらしい。

「やあ、今日はみな随分とくたびれた顔をしていたね。せっかくの好いお天気なのに。昼はホテル・ミヒャエリスのテラスで取ってきたけれど、実に晴れやかな気分になったよ……」
 そんな中、外気がサハラを渡る熱風のごとき有様(実際に体験したことはないが)であろうが、ネクタイ一つ緩めない若者がいる。また同僚たちから向けられる視線が、早春のナルヴィク港を襲う地吹雪の冷たさ(これは身を持って味わったことがある)であろうと、毛織のフロックを決して脱がぬ青年である。つい半時間前に私を残して出ていったはずの、彼の名はマンフレート・アルノーといい、言動の頓狂さでしばしば人を悩ますことを除けば、私にとって最良の友だ――何が悩みの種だといって、彼の頓狂さは気温云々が原因ではないのである。
「……こんな暑い中を歩いてミヒャエリスまで行ったかね。往路だけで昼休みが終わる距離だと思うのだが」
 ライプツィヒ中心街にほど近いシティホテル――植木と生け垣に囲まれた瀟洒なテラスがある――を思い浮かべながら、私は訊いた。こう口にする間にも、最近とみに手心を失い始めた太陽がカール・リープクネヒト大通りシュトラーセに降り注ぎ、菩提樹の並木をぎらぎらと輝かせ、またアスファルトに陽炎を立てる様がありありと想像される。その合間を、黒い背広にアスコットを締め鹿革の手袋まで嵌めた、一人の若い紳士が颯爽と歩いてゆく様もだ。暑苦しくて敵わない。
「それは君の徒歩感覚が少々頼りないよ、ライニ。健脚なのだからもっと割り増して考えて良いじゃあないか。我々の足では25分あれば到着だよ」
「春先か秋の暮れであれば25分で済むだろうがね、外を見なさい、もう宵の口だというのにあんなにも日差しが強い。まして真昼だ」
「帽子は被っていったよ」
「帽子がとか、日傘がとか、そういった暑さの程度ではないのだ。マンフレート、君はつくづく自覚が足りないぞ。君はなぜ27℃を超すと小学校が早引けになるか解っているのかね。今日のような気温は人体に有害だということだ」
 私は断固として言ったものの、数秒後には早速後悔を始めていた。「人体に有害」――これがマンフレートに対する抑止力になるなら、私もとうに思い悩むことなど無くなっていたはずだ。案の定、彼はその涼しげな碧眼を細め、鼻にかかった声を漏らし、
「おや、それこそ君、自覚が足りないというものだよ。私たちは一体何だい、魔法使いだよ……」
 と、私の小言を一笑に付したのである。

 魔法使い。これほど世間から誤解されている言葉、ないし実際の職業もそうあるまい。魔法使いだから何だというのだ。確かに私は魔法使いであり、世界魔術師協会ライプツィヒ支部のウィザードだ。だが、私は箒に乗って空を飛ぶことなどできないし、百種の薬草から愛の妙薬を調合することも、丸々太ったカボチャを馬車に変えることもできはしない。
 そう、例えばある人の学位が博士ドクトルだからといって、その人が自動的に百般の学問に通じていることにはならないのと同じだ。かかりつけの歯科医がたとえ医学博士でも、長年の頭痛に関する相談をしてはいけない。別の医療機関に回されるだけである。
 魔術師もそうなのだ。近代ドイツの魔導建築が専門の私に、冷気魔法を巧みに操って自分一人を夏の暑さから守れ、等というのは無理な相談。支部職員の大半にとっても同じで、ゆえに我々は理屈のよく解らない涼感素材のシャツやら、氷袋やら、部屋中のあらゆる窓に鎧戸を下ろすやらといった、神秘のかけらもない手を講じて仕事をするほかない。
「君はだな、……確かに君は何か、魔法で首尾良くやり遂げる心得があるかもしれないが、大抵の者はそうではないのだぞ。それに魔法で涼を得るというのは、なかなかに危険な行為なのだ。支部の四季報を読んでいないのかね」
「読んだけれども何のことだい」
 さも知ったふうな調子でマンフレートは答え、私の執務机に片手をつく。
「まさに今の君が知るべきことを特集していただろう。この夏は例年以上の熱波がヨーロッパを襲うと予測されるが、その対策として安易に魔術を用いるべからず、何故なら、と」
「ああ、あれのことかい。なるほど、それで読んだというなら中身を説明しろというのだね。昇格試験が終わって9年経っても口頭試問をやるだなんて、考えてもみなかったよ、私は……」
 やれやれ、と言わんばかりの勿体ぶりである。彼も悪い人間ではないのだが(と言っても誰一人信用してくれないが)、こうしていちいち芝居がかった態度を取るのはあまり頂けない。

「例えばそうだね、カールスルーエのあるソーサラーが、『冷却』の付呪を自分の身体に掛けることで熱気から逃れようとした。そうしたら、暑さのあまり魔力を上手く操れなかったか、それとも『涼しくなりたい』という願望に理性が押し負けるかして、『冷却』が少しばかり強く効きすぎた。結果、彼は両手足に重度の凍傷を負い、切断こそ免れたものの、当分はリハビリに励まなければならない、といった話だろう?」
 さて、驚いたことにマンフレートはすらすらと答え、私が意外そうに目を瞬くのを見るや、西日に照り輝くしたり顔を向けてきた。同僚たちに「平手打ちを食らわしてやらなければと思える顔」と評される、あの乙に澄ました微笑から年齢だけを割り引いたような表情だ。
「……読んでいるのではないか。だというのに君は」
「そうそう、あとはこんな例もあったかな。さる幻惑魔術の名手が、『鈍化』の魔術でもって暑さの感じ方を和らげようとした。ところが、なまじ力はあるだけに効きすぎてしまった、つまり彼は自分自身の温度感覚を完全に騙しきってしまったわけだ」
 協会の会員費相応に丁寧な作りの配布物が、ポストからゴミ箱へ直送されていないことは確認できた。私としてはそれだけで良かったのだが、彼はこちらの言葉を遮って、さらなる事例の解説を始めてしまった。
「おかげで発汗が抑えられて、体温は上昇し続け、結局は熱中症で倒れて緊急搬送された。なんだか前に魔法じゃあなくて、ミントオイルで似た話を聞いたことがあるね……」
 思い出し笑いなのか、くすくすと子供っぽい声を立てながら、彼は机を回り込んで私の後ろに立った。と思えば、室内の空気とは全く違ったものに取り巻かれたと気付く。形はないのに手触りさえ解りそうな、それは匂いだ――私の文学的さに欠ける語彙でなんとか表現するなら、黄金色の薬草酒ガリアーノとバニラシロップを二匙ずつほど入れ、さらにクリームをたっぷり乗せて、ビスケットまで添えた熱いコーヒー、というような香りだった。滑らかで暖かで、深みと重量がある、布に例えれば毛皮の襟飾りがついた黒革のコートだ。要するに、夏らしさは一切ないのである。
「ね、君が私の身体を思ってくれているのは解るよ。君がくれるお小言の半分ぐらいは、私の嗜癖がどれほど不健康かについてだもの。君の目からすればアブサンを嗜むのも、キダチチョウセンアサガオの木陰で涼みながら居眠りするのも、温室にいる蝶たちの翅の味を種ごとに確かめようとするのも、みな健康的でない趣味なのだろう」
「最後の一つは誰の目からしても健康的でないと思うが」
「そう言われたってどれ一つ止める気はないけれど、とはいえ君が定期的に戒めてくれなければ、度を越してしまう可能性はあるからね」
 肩越しに見上げる私の指摘は物ともせず、彼は何やら嬉しげに口角を上げて、こちらの趣旨を理解していないかのようなことを言う。私がペンを執るすぐ傍、机の縁に掛かっていた手が離れたかと思えば、今度は私の肩そのものに掌が触れた。頬を掠めるのは黒い背広の袖だ。きめ細かな織目、美しい艶、素人目にも亜麻や混紡でないことが明白な質感……
「だから私は決して、君を煙たがってやしないのだよ。とても感謝しているし、君の親切心はちゃんと汲んでいるから、どうか心配しないでおくれ」
 違うのだ。否、確かに日来彼の身体を案じてはいるが、現在の私が言いたいことはそれではない。今にも口から飛び出しそうな本音を、私は苦労しながら飲み込み続ける。――暑苦しいから近寄らないでくれ。

「それは胸を撫で下ろすばかりだが、マンフレート、少し別の話をしても構わないかね」
「当たり前じゃあないか。何だい?」
 この本心をそのまま口に出してはいけない。思っても言ってはならないことだ。代わりにもっと柔らかで、彼を傷つけない言い回しを考える必要がある。彼の顔をまっすぐ見られるように、私は椅子の上で向きを変えた。マンフレートが目を瞬き、肩に乗せていた手をどける。
「まず……君は帰ったはずではないか。何故戻ってきたのだね。また監察局から指導を食らってしまうぞ」
 私が当たり障りなく切り出すと、いくらか心外だったのか、彼は碧眼を丸くした。
「なんだ、そんなことを訊くのかい。考えてもご覧よ、君一人が残って仕事を続けるのに、それを打ち捨てて帰ったところで、心安らかに楽しみへ没頭できる筈もないよ。私が君の苦労を放っておくもんか」
 と、熱の入った口ぶりで聞かせてくる。私は一瞬だけ心動かされかけたが、すぐに冷静になった。そもそも彼が日頃から、書類仕事の類を嫌がらずにこなしてくれていれば、月末までもつれ込んだ挙げ句残業する羽目にはならなかったはずだ。
「気持ちは有難いがね、ここでの我々はあくまで上司と部下だからな。私がもう帰ってよいと言ったなら、つまり君に手伝わせることは何もないということだ」
「ふうん?」
 小首を傾げる仕草。続いて彼は椅子から軽く身を引いた、と思えばまた勿体つけた足取りで、執務机の前方へと戻ってくる。机に両肘ついて身を乗り出し、私の手元にある書類を覗き込む始末だ。
「……それからより根本的なことだが、周りをうろうろされては書き物もし辛い。できればどこか一所に」
「前から思っていたのだけれど、君ってわりあい癖字だよね」
「聞きなさい、マンフレート。部屋に残るなら残るで、とりあえず腰を落ち着けて座りなさい」
 きっぱりとした語調で私は言ったが、これだけでは気まぐれな彼の手綱を締めるに程遠かった。言葉を足さなければならない。なにしろ彼は既に腰を落ち着けつつあるのだ。私の視界を大きく占領する位置に。
「それから、座るといっても例えば私の目の前で、こちらの一挙一動を凝視するような真似はよしてくれ。君は違うかしれないが、私は人の目を気にするほうなのだ」
 口に出してから、まるで「君は私と違って恥や外聞というものが無い」とでも中傷した気分がし、訂正しようかと迷った。だが彼は、愉快な冗談を聞いたかのように声を立てて笑うと、
「そうかい? 100人の聴衆に凝視されながら講義をするのが、もともと君の職分だったのではないのかな。それとも、君のいた大学はそんなに不真面目な学生ばかりだったかい……」
 私の来歴について茶々を入れ、話を混ぜっ返してくる。二の句が告げずにいる私に、「言ってやった」とばかりの誇らかな笑みを向け、
「ま、君がそう頼むのだったら仕方がない。視界に入るのが悪いなら、もっと良い場所に陣取るとするよ……」
 踵を返して部屋の入り口へと向かってゆく。しかし、やれやれと安堵したのは間違いだった。程なくして彼は戻ってきた。急な来客(主に査察のため訪れた監察官)に出すための、クッションのついた丸椅子を抱えて。
 嫌な予感を覚える間もなく、椅子は私のすぐ背後に置かれた。ごとりという音に続いて微かな軋み。そして――あろうことか次の瞬間、私の背に重みと体温と骨の感触、どっしりとしたバニラの香りが一時に伸し掛かってきたのである。

「まッ――」
「丁度いいや」
 図々しくも私を背凭れ代わりにした青年は、小気味よく鼻を鳴らして言った。 「終わるまでこうしているよ」
「冗談じゃない。良いかマンフレート、私をからかうのもいい加減にしなさい。人を一体何だと……」
「君の出した条件は満たしているじゃあないか」
「それ以前の問題だ! この体勢で書類仕事をしろというのかね。いくらなんでも無茶だろう」
 背骨にかかる負荷になんとか耐えつつ、首をぎりぎりまで後ろに回し、私は当然の反論をする。彼のほうからもこちらへ視線を寄越してきたが、どう問題なのかさっぱり解らない、という風だった。まさか本当に解っていないはずもないのだが。
「そうかなあ。私も実家にいた時分、兄さんが静物のスケッチなんかしている間に、よくこうしていたものだけれど」
「それは君の兄上が大変寛容な人で、歳の離れた小さい弟のことを可愛く思っていたから、邪険にせず構ってくれただけだ。話を聞く限りでは、兄上はすいぶん君を気にかけていたようだから」
 この格好のまま喋り続けていては、早晩首の筋がおかしくなりそうだ。ひとまず顔を前向けて、彼の思い出話に水を差す。野暮だとは思うものの、現状とは前提からして違うのだ。
「……ふん、つまり何だい、君は歳の離れた友人のことが可愛くないと言うのかい」
 果たして、肩越しに聞こえる彼の声は、少しばかり拗ねたものに変わった。それにしても減らず口だ――15歳の少年に25歳の紳士(ただし1世紀前の)をそのまま接ぎ木したような、何ともちぐはぐに稚気を帯びた態度。
「可愛く……ああ、確かにもし君が5歳で、私が102歳であったなら、さぞ孫ができたように嬉しく、愛くるしく思うのだろうがな、現実にはそうではないのだ。君はもう25歳で、疑いなく成年だ」
 早いところ離れてくれないかと心で念じながら、私は言葉を続ける。柔らかくしなやかな三つ揃えの生地越しに、伝わってくる体温はそれこそ子供じみて高い。出会ったころからいたく立派な風采の友が、それより多少は幼く見える顔で、頬を膨らますのが見ずとも判るようだ。その背に染み付いた香りも先程より甘くなったようであり、微かに焦げた風味の交じるのが、コーヒーに添える焼き菓子らしさをいや増していた。
「だいたいが君は頑健で、私と同じぐらい上背があるし、つまりそれ相応に目方もあるということだぞ。これで私が背中や腰でも痛めてみろ、明日の力仕事はみな君がやる羽目になるのだからな」
 すぐさまの返答はなかった。考え込んでいるらしい少しの間。
「まあ良いや、それでも」
「良くはないだろう」
 けれども間を置いたところで、やはり語調に迷いはなく、私を肌触りの悪いクッションにすることに、些かの躊躇いも感じていないようだった。いよいよ困る。私だって彼をまともに構ってやりたいのは山々なのだが、そのために終わらせるべき作業を彼が邪魔するのだから本末転倒している。説得の方法に私は悩んだ。悩んだ挙句ぽろりと言ってしまったのだ。
「いや、要するに……良くないと考えてほしいのだ。全体、私に張り付いて何が楽しいというのだね。お互い得をしないではないか、窮屈だの生暖かいので、おまけに臭うし……」
 
 瞬間、マンフレートが息を呑んだのを私は確かに感じ取った。背中に微かな震えが伝わり、途端に熱が数度も引いたとすら思えた。しまったと思うより早く、今まで掛かっていた重みが消えて無くなる。
「なるほど」
 温かみなど微塵もない、かといって冷たくもない、何の色も情も感じられない声がした。私は咄嗟に振り返り、彼がどんな顔をしているのか確かめようとした。降りたばかりの椅子の傍に佇む姿は、実際、そこまで気分を害した顔ではなかった――が、生きた人間としての微細なニュアンスが全て取り払われた、あの悪名高い貴族風の振る舞いを思わすそれだった。生気という点だけ見るのなら、ベルニーニあたりの彫刻にもう負けているかもしれない。
「違う、今のは君を中傷したわけではないぞ。臭うというのはつまり、私が……」
「確かに私が間違っていたかもしれないね。じゃあ、後はもう君の言うとおりにするよ」
 主席監察官殿の勤怠評価に応えるとき同様の白々しさで、彼はこちらの弁明を聞き流した。私は焦り、もう二、三の言葉を探してみたが、全て彼の彫像じみた、冷たい滑らかさに磨きをかけるだけだった。最後に一度、「自分は怒っていません」と丁重に説明するような微笑を私に向けて、彼は部屋を出ていった。すっかり蝶番のくたびれた戸を閉めるときさえ、耳障りな音の一つも立てずに。

 私は悄然として立ち尽くした。目的は果たしたが、こんな形で果たしたくはなかった。無論、時と場所に合わぬ香水をつけて出勤し、同僚の業務を妨害し、一切反省しないでいたマンフレートに何の非もないとは言えまい。それでも、たとえ咎められるべき点があったとしても、本人を不当に傷つけるような誤解をさせてはいけなかったのだ。
 だから一刻も早く謝罪すればいいものを、自分が元通り席について仕事に戻っていることに気付いたのは、随分後になってからだった。課長(代理)の決裁が必要な書面の、最後の一枚に署名し終えたところで我に返ったのだ――私は一体何をしている? これで今日中に非礼を詫びる手段はほぼ失われてしまったではないか。何しろマンフレート・アルノーという男は、怒っていようがいまいが人からの電話には出ないしメールは読まない。彼とまともにコミュニケーションを取るためには、顔を突き合わせて話すか一筆したためるかの二択しかない。21世紀の現代にありながら、私が電話交換手じみて彼宛ての連絡を受けなければならないほどなのだ。
 まさか自宅まで押しかけていくわけには行かぬ。そちらのほうがよほど彼には迷惑だろう。あらかた終わった作業を最後までやり遂げてから、私は部屋の鍵を締めて外に出た。7時を回ったとはいえ、空はまだまだ明るい。完全に暗くなるのは夜の9時近くなってからだ。日が落ちないのだから気温も下がらない。帰るまでにまたぞろ汗をかかねばならないと思えば、先程のことと相俟って足取りも更に重くなる。帰路自体は車に乗るから良いのだが、退勤前に植物園の見回りをするという一仕事が残っているのだ。

 そうして敷地の外れまで来た私は、しかしイラクサの茂る小道の途中で足を止めてしまった。あっと声を上げそうになった――今しも鋳鉄の扉を開けて、こちら側に出てこようとするのはマンフレートではないか。「植物たちはあなたを殺せる」と、物々しい文言の掲げられたアーチ飾りの下、野良仕事には到底向かない黒褐色の三つ揃えに、芥子色のネクタイが一点よく目立つ。間違いない。
 私は一歩踏み出し、彼の名を呼ぼうとした。けれども、色の白い顔がつとこちらを向き、品良く繕われた笑みと共に口を開くのが先だった。
「やあ、ライニ」
 重々しい響きと共に扉が閉まり、続いて閂と錠前のかかる音。腿にぴったりと沿った革長靴が、敷石に底鋲の音を立てながら近付いてくる。ああ、服もそうだが靴もまた――彼が好んで履くあの長靴は、かつて兵士たちに支給されていたもののレプリカなのだが、これが実に夏向きでない代物なのだ。見た目は実に格好のいい、いかにもスマートで精強そうなものだが、なにしろ両足合わせて2kgはあるし、革だから通気性など全くない。将校は足に合わせて型を取るから多少はましなもの、官給品のほうはそうでないから履き心地だって良いとは言えない。重たい、窮屈、蒸れる、音がやかましいとくれば真夏の舗装道を歩くのにこれほど不適なものはない。あれを履いたまま涼しい顔して温室仕事を終え、広い敷地をほうぼう歩き回ったあげく、小指にタコ一つ、またかかとに水虫一つ作らぬのはマンフレートぐらいだろう。
「マンフレート。……ど、いや、何故ここに……」
「見回りだろう?」
 高い靴音は私の手前1メートルでぴたりと止まる。人の内心などまるで窺う気のなさそうな、高踏的とすら言える佇まいで、彼は私の言葉を制した。
「ここまで来てくれたところ悪いけれど、私がやっておいたよ」
「君が……」
「随分掛かりそうだったもの。いくら日が長くてもあの書類束の後じゃあ、終わる頃にはもう真っ暗だよ」
 気取った帽子のつばの下から、どこか得意げな目が私を見てくる。恩着せがましさはない、けれども無償の奉仕に生き甲斐を見出すでもない、どうせなら褒めてほしいと思わせぶりな瞳。
「そうか、助かった。気を遣ってくれたのだな。……マンフレート、さっきは」
 礼はもちろん丁寧に言うつもりだったが、それより前に済ませるべきことがある。こんな場所で鉢合わせたのは救いだった。失言を詫びなければならない。ところが切り出しかけた途端、彼はまたも私を遮ったのである。
「ね、そういう訳だから君がやることは何もないのだよ。万事お終いさ。どうだろう、せっかく余暇ができたのだから、一緒にどこか涼みに行かないかい」
 これには私も驚き、口を開きかけたまま間の抜けた息を漏らすばかりだった。「涼む」等とはせめてその上着を脱いでから言うべきではないか――否、そんなことを考えても仕方がない。こうなったら彼に付き合ってやるのが一番だろう。謝罪に割く時間も増えようものだ。
「勿論だ、手伝ってもくれたことだし、君の行きたいところへ行こう。……といっても私は車があるからな、酒を飲むことはできないが」
「そんなこと気にしやしないよ、いつも通りに『カフェ・アリバイ』でコーヒーを一杯、アイスクリームを一杯、そんなところで良いんだ」
 私が承諾するなり、彼は顔いっぱいに笑みを押し広げ、上機嫌そうに言葉を弾ませた。それで安堵してもよかった。けれども引っかかるものがある。あの子供じみて率直な輝きが、今向けられている彼の目にはない気がしたのだ。何より、握手の間合いまで近付いた身体からは、何の匂いもしなかったのである。

  * * *

 ライプツィヒ支部から「カフェ・アリバイ」までは大した距離ではない。少なくともホテル・ミヒャエリスよりは遥かに近距離だ。我々もよく歩いて昼食を取りに行ったり、仕事の後で立ち寄ったりと、気軽に利用できる店である。
 だから道中といっても大したことはないのだが、その間マンフレートは私にほとんど口を挟ませることなく、彼が愛する毒物学講釈のし通しであった。今日のテーマはキョウチクトウを利用した民間療法とその危険性について――おおかた植物園を見回っているとき、高い梢いっぱいに咲き乱れる紅色の花を眺めて、「これだ」と思いついたに違いない。
「――といった次第だからね、私としてもキョウチクトウ科の植物に生薬としての利用価値がある、これは大いに認めるところなのだよ。問題はその素人利用ということだ。あの系は生きるためにも死ぬためにも頼みにされすぎる。キョウチクトウを利用した自殺案件のうち、実際に死ねたのはせいぜい10%だという記録にもっと目を向けるべきだよ……」
 尤も、口を挟む間を与えられたからといって、これらの剣呑な論調へ気軽に口出しできるかは別である。一体どうすればこのような話題が健全に発展するのだろうか。彼のお眼鏡に適いそうな返答を考えているうちに、我々は瀟洒な二階建てのカフェハウスへ辿り着いてしまった。ウエイターに帽子や杖を預ける段になって――この店員はマンフレートのことを大変心得たもので、ジャケットもお預かりしましょうか等とは言わなかった――彼はやっと心臓毒を持つ園芸植物の話をやめたが、席にに落ち着くなり再開されるだろうことは目に見えていた。

 色とりどりの菓子類が並ぶショーケースを過ぎ、古色蒼然としたシャンデリアが照らすホールを横切って、我々は奥の喫茶室へ通された。ここでまたしても私を不穏にさせる出来事があった。マンフレートは革張りの長椅子に腰を下ろすなり、ごく自然な動作で背広を脱いだのだ。彼が人前で上着を脱いだ! 炎天下の舗装道でさえフロックを着込んで歩くこの紳士が、今は真っ白なシャツの胸と袖止め飾りを露わにし、メニューに目を通している。私は当惑した。いよいよもって私の失言に対する当てつけかもしれない。
 なんとしても謝罪のタイミングを見つけねばと考えながら、いつもと同じくコーヒーを頼む私の向かいで、マンフレートは「シェケラート」なるものを注文する。名前だけ聞いても私には何のことやら解らないのだが、解らなくとも喋りたがりの友は勝手に説明してくれた――濃く落としたコーヒーにたっぷりの氷とオレンジのリキュール、ブランデーを加えてよく振り混ぜ、クリームを乗せた冷たい飲み物だそうだ。つまり酒なのであるが、アブサンやアニゼットに比べれば気軽なカクテルと言える。実際、出てきたグラスも酒というより小粋なデザートのような風情で、深煎りのどっしりとしたコーヒーの香りに、オレンジとバニラの甘い匂いがよく引き立って、あまりアルコールの気配は感じられなかった。
「夏の夕方にはこれが良いのだよ。気分をすっきりさせてくれるし、そこまで強くもないからね。君もたまには凝ったものを飲んでみるのが良いかもしれないよ」
 受け皿に添えられた小さなスプーンを取り、彼は親切めいて言ったが、私に助言を受け入れるだけの心的余裕はなかった。ここまで場が整ったからにはもう言ってしまうほかない。自分のカップに手を付けるより先に、意を決して口を開く。
「マンフレート、始める前にひとつ――」

 この瞬間、もし私の尻ポケットに着信を知らせる振動が走っていなければ、彼に対する率直な謝罪は成っていたはずである。間の悪いことはとにかく連続するものなのだと、私は再確認すると共に運命を呪った。きょとんとして首を傾げる彼から目をそらし、携帯電話の画面を確認する。これで電話帳にない番号なら無視しようと思ったが、支部の監察局からだったのでそうは行かなかった。
「済まない、支部から……」
「良いとも。冷めないうちに戻ってこられるよう願うよ」
 片手を軽く入口側へと向けて、彼は席を立つ私を送り出した。恐らく愉快ではないだろう知らせを受け取るべく、私は西日の差す戸口へと急ぐ。案の定、電話口の監察官はしかつめらしい挨拶から話を始め、書類提出までに何故これほど時間がかかったのかについて説明を求めた。邪推と呼ぶには図星を指したご高察まで添えられて、私は弁明の言葉もなく苦い息を漏らすばかりだった。
 10分少々の通話を終え、喫茶室まで戻ってみると、マンフレートは相も変わらず鷹揚な態度で待っていた。飲み物には口をつけずにいたのか、グラスの中身は減っていないように見える。
「待たせて悪かった。待たずに飲み始めてくれていても良かったのだが」
「構わないさ、君を放ったらかして飲むコーヒーが美味しいとも思えないし」
 彼は笑みを深くし、小さく頭を振る。そして言うのだ。
「ところで、さっき何か言いかけてやしなかったかい。始める前になんとか……」
 大分遠回りになってしまったが、やっと機会が巡ってきた。ああ、と私は頷き、咳払いする。にわかに口の中が渇いてくる。何もここまで心配することはないのだが、それでも身体の作用というのはあるものだ――飲み物があって助かった。白いコーヒーカップに手を伸ばし、私は香ばしい液体を一口飲んだ。

 もとい、一口飲もうとしたそのコーヒーを、咄嗟に喉へ流し込むのを止めてしまった。私はひどく咽せ、目を見開いた。熱かったのではない、苦かったのでもない、甘かったのだ。日常飲んでいるものがコーヒーだとすれば、これはコーヒーの色と香りをつけた砂糖水だ。ミュータンス菌が糖質から酸を作り出しエナメル質を侵食する、等という段階を踏むまでもなく歯が溶け落ちそうな甘さだ。甘さの他には何もない!
 私は狼狽し、口元を手で拭い、視線を彷徨わせた。目の前にはマンフレートがいる。こちらの動転ぶりとは正反対の、冷静さを削り出して胸像にしたような顔をしている。――と、その冷ややかな微笑が不意に緩んだ。口元が何かを堪えるように動いたが、何も押し止めることはできなかったようだ。
「ふッ、あははははは! 引っかかった! 引っかかったぞ!」
 普段の落ち着き払った抑揚などまるで感じられない、高らかな声を上げて彼は破顔した。あまりの可笑しさに体裁を繕ってなどいられない、ただただ快哉を叫びたい、そんな爽快な表情だ。爽快でないのは私だけだった。比較的静かな喫茶室にいきなり高笑いが響いたものだから、周囲のテーブルからは何人もの客が、こちらに怪訝な目を向けていると来ている。
「……マンフレート、これは……」
 いくら唾を飲み込んでも口中に纏わり続ける、甘ったるい砂糖の味に眉を顰めながら、私は正面に座す友の姿を凝視した。私の醜態はよほど彼の笑壺に入ったようだ、テーブルの端を一度ばしんと叩いたかと思うや、長椅子の座面に手をついて項垂れてひいひい言っている。彼が表向き装っている、戦前の探偵小説にでも出てきそうな紳士の姿しか知らぬ者が見たならば、幻覚性の植物中毒かなにかを疑うだろう光景だ。危険な植物への偏執的な愛が高じた挙句、とうとう自ら喫食して精神に変調を来したのではないかと。私は実際、本当の彼が存外よく笑い子供じみた我儘を言う男だと知っているが、それにしても今見ている姿は珍しいものだった。
「マンフレート」
 呼吸を引き攣らせながら笑っている彼に、返事は期待せぬまま問う。 「君がやったんだな?」
 彼の息が落ち着くまでにはもう十数秒かかった。彼はやっと顔を上げ、目尻を指で拭いながら、締りのない口を開いた。
「っふ、ふ、なんだい、解らないかい。君が私のこと臭いなんて言うから、その仕返しさ」
「いや――」
 どうして正直に謝ろうという私の身に、こうも多種の困難が降りかかるのだろうか。しかも困難の大半は謝るべき相手の手になるものだ。運命だってもう少し手加減をしてくれて良いのではないか。
「違うのだ、マンフレート。君から嫌な臭いがするなどと言ったつもりは一切ない。私がだな、――なにしろ私は君のように体温調節の術を心得ていないから、朝から汗のかき通しで、シャワーを浴びる間もなかったから、さぞ君にとっては汗臭くて不快だろうと言いたかったのだ。それを……」
「ふうん?」 意地悪めかした声色で彼が言う。
「それを君が……いや、弁解はするまい。私の言い方が悪かった。君の気分を害したのなら、それは本当に済まないことをした。申し訳ない」
 陽の影に揺らめく湖のような、彼の碧眼を真っ直ぐに見ながら私は言った。日来よりもいくらか軽やかな姿をした友は、唇で柔らかな弧を描き、ゆっくりと一度頷いた。
「良いよ、私も君に甘えすぎたよ。迷惑していたのだろう。それでも君は、……君も、『邪魔だからどこかへ行け』などとは言わなかったね」
 その目は今ここにいる私だけでなく、どこか遠いところを、恐らくは幼い日の実家のアトリエで、兄の背にもたれて過ごした日々を見ているように思えた。彼の兄もまた私のように、子供にしても稚すぎる弟を思っては気を揉んだりしたろうか? 家族であれば寝食までも共にするのだから、ことごと手を焼いては嘆息したことだろう。それでも愛想をつかさずいたのは血の繋がった弟だからか、否――血の繋がりなど理由にならない。きっと私と同じく、このマンフレート・アルノーという人間の中に、離れがたい親しみを見出したからなのだ。
「言うものかね。いや、確かに少々距離を置いてほしかったのは事実なのだが……仕事中にはな、やはり節度というものが要る。職場でまで友達の気分でいてもらっては困る。だが、それ以外でなら」
「そう。……じゃ、この話はもうお終いにしよう。そのカップを私におくれよ。君のぶんは新しく注文するから」
 黒々とした砂糖の溶液に手を伸ばしながら、彼は微笑んで仲直りを申し出た。私は頷いたが、その顔は彼にとって過分に申し訳なく見えたらしい。
「どうしたのだい、なんだか君は様子がおかしいよ。私が怒っているように見えるかい、それともまだ詫び足りないのかい」
「そうではないが……」
 私は言い淀んだ。もちろん彼がまだ怒っているとは思わないし、一度謝ったものを引きずるのも良くないと考えている。けれども、そうした内心を言葉にするより先に、彼がぽんと手を打った。とても良いことを思いついた、と言わんばかりに。

「ああ、なるほど」
 その目に灯った光の愉快そうなことといったら、植物園の茂みに霊感ひらめきの種を見つけたときのような、好奇と意欲とが溢れ出してくるようだった。と同時に、私の脳裏には今日一番の悪い予感が走っていた。彼の思いつきはきっと、今の私にとってこの上なく不幸な結果を齎すに違いないと。
「つまり、君は気に病んでいるのだったね。君自身の――こういう言い方はあまり上品ではないけれど、その体臭を」
 悦に入ったような笑みを浮かべて、彼はテーブルへと乗り出してきた。まだ飲み物に口を付けてはいないはずが、いやに酔ったような熱を帯びている。
「ねえライニ、良い話があるよ。君も当然承知のことだろうが、私の蒐集は博物学的なものだけじゃあないんだ」
「解っている」 私は目を逸らした。 「君が言いたいのは、その、香水――」
 我が友は一切の斟酌なく、ただ輝かしい笑みだけを顔いっぱいに広げ、私の腕に手を置いて語りかけてくるのだった。
「そう、解っているじゃあないか! そうなれば話が早いよ、是非とも私に任せておくれ。実は先刻も思っていたところなのだよ、こうして君といるだけじゃなく、君からよい香りがすればいっそう幸せだろうなとね。なに、君によく似合う香りというなら、五本や十本ぐらい簡単に思い浮かぶし、日はまだ長いのだから試す時間はあるさ。嫌とは言わせないよ、ライニ……」

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