上気した頬の少年が、足早に部屋へ入ってくる。扉の蝶番を軋ませ、左手に大きな本を抱えて。

少年たちの後宮 -Portrait of a Serpent-

「遅れてごめんよ、マンフレート。……マンフレート?」
 年の頃13、4ほどの、折り目正しく装った少年は、色の白い顔を右左と向け、青い目で室内を見回した。成長を見込んだ大きさの勉強机、来たる冬のために新しく敷かれた毛足の長い絨毯、真向かいには厚い羽布団の被せられたベッド。ありふれた子供部屋だ。しかし、肝腎の子供がそこにはいない。カーテンの開いた窓から差し込む西日は、何の人影も浮かび上がらせはしなかった。
「いないのかい? ……あんまり待たせたからなあ」
 細い金色の眉を僅かに顰め、小首を傾げるその心中には、様々な考えが浮かんでは消えていることだろう。独りに退屈して遊びに出てしまっただろうか、約束を破られて納屋でふて寝しているだろうか、外は寒いから風邪を引かないといいけれど――少年は人を探しているのだ。7つも年の離れた小さな弟を。それで庭から自室、両親のいる居間、弟の部屋と見回ってきたのだが、一向に見つけられないでいる。
 もとい、気付けないでいるというのが正しいところだった。そして結局、最後まで気が付かなかった。部屋を出ようと踵を返し、寝台に背を向けたその瞬間、
「わあっ!」
 足元から頭上へと突き上げるような、甲高い男児の声が耳朶を打つまでは。

「うわっ!?」
 抱えていた本を放り出しそうになるのを、なんとか堪えながら少年が振り向いた。寝台の上には何もない。だが下にはあった。碧眼に映るのは、同じ髪と目の色をした――親戚たちや近隣住民が口を揃えて「お兄ちゃんの小さい頃そっくり」と評する――顔だ。それが30cmほどの隙間から突き出している。
「あはははは! 引っかかった! 引っかかったぞ!」
 大きな目を笑いで一杯にしながら、幼い弟は歓声を上げ、両手で床を何度も叩いた。まんまと兄の裏をかいたのが嬉しくてならないのだ。閉所に潜り込んでいなければ、そのまま両手を挙げて飛び跳ねたかもしれない。ともあれ、喜色満面だった。嵌められたほうの兄はといえば、目と口を大きく開けたまま呆然とし――ずり落ちかけていた本を抱え直し、それから何度か瞬きをして、ようやく一度だけ深く頷いた。自分はもう驚いてなどいないぞ、と言うように。
「マンフレート、お前は今年でいくつになったんだったかな?」
「8歳!」
「それなら、もうこんな悪戯で喜ぶのはよしたほうがいいよ。早くに帰ってこなかった僕も悪いけれど、だからってお前が良い子にしなくていいわけじゃあないんだから」
「はあい」
 間延びした返事は全く悪びれていない証だ。基幹学校に通い始めてはや2年になる弟は、兄の訓示を一声で打ち切って、やっと寝台の下から這い出した。
「僕はお前の『はい』をどこまで信じていいのか、最近どうも解らなくなってきたよ。疑おうという気はないけれどね」
「ふうん。ぼくはアルンフリート兄さんのこと、いつも信じてるよ」
 小さな手が年嵩の腕を掴む。 「ねえ、読んでくれるでしょ?」
「もちろん。ただ、その前に少しきれいにしようか、マンフレート。このままベッドに座るのはあんまり良くないな」
 兄はもう片方の手を伸ばし、弟の頭に軽く触れた。短く切られた金色の髪に、白い綿埃が絡みついている。うっすらと灰色がかった体のあちこちを払われている間、悪戯っ子はくすぐったそうな、また誇らしそうなくすくす笑いを零し続けていた。

  * * *

 陽はたちまちのうちに地平線の向こうへ落ち、部屋は見る間に暗くなったが、ベッドの傍には円筒の傘がついたランプがあり、本を読むのに差し支えない明かりを投げかけてくれた。兄弟はマットレスの上に並んで座り、互いの膝の上へ渡すような形で、静かに一冊の本を置いた。
「そうだね、じゃあ今日はドミニク・アングルにしようか。ちょうど模写を始めたところなんだ……」
 子供部屋には貫禄の勝ちすぎる重みと厚みを二人で分け合う。硬い表紙に堂々と記された「Der Louvre」の文字。少年が迷いなく開いたページからは、19世紀に描かれた婦人の肖像画が、上目がちに視線を投げかけてくる。一冊だけでも存在感のあるこの書はルーヴル美術館の図録であり、全4巻まとめて少年の誕生日に贈られたものだった。ほんの数週間前のことだ。
「ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル……ルーヴルには30枚ほど飾られているね。この絵は知っているかい?」
 右隣から覗き込んでいた弟のマンフレートは、兄アルンフリートの問いに少しだけ顔を下向けた。
「ううん、見たことはないかも」
「そうか。これはね、『マリー=フランソワーズ・リヴィエール夫人の肖像』だ。1805年から次の年にかけて描かれたものだよ。ちょうど『戴冠式のナポレオン』を描いたのと同じ頃だ。――じゃあ、他に有名な絵は何かあるかな?」
「ジャンヌ・ダルクを描いてるよ!」
 此度の返答に気恥ずかしげな淀みはなかった。寝台のばねが僅かに揺れ、小さな体に弾みをつける。
「さすが。その通り、もっと後になってからの作品だね、『シャルル7世の戴冠式でのジャンヌ・ダルク』は――」
 何枚かまとめてページをめくる指は、ほっそりとして白いものの、同年代の子供と比べれば少しばかり荒れが目立った。短い爪の間には、何らかの塗料らしき青色がこびりついている。挙げられた絵画が見開きに登場したところで、兄は手を止め、併記されている解説の小さな活字を読み上げ始めた。描かれた時期、採用されているスタイル、場面を彩る品々の意味、聖ジャンヌ以外の登場人物について……
 もちろん、マンフレートはその全てを理解できたわけではない。トルバドール様式と言われてすぐさま絵面を思い浮かべることはできないし、当時のサロンやアカデミーの仕組みも知らない。「フランス新古典主義」に「幾何学的解釈」? 確かに彼は絵画に興味を持っているが、美術大学への進学を志す兄と違って、何ら専門教育を受けてはいないのだ。それでも、兄と共に図録を眺めては解説を聴く、夕暮れのひとときを退屈に思ったことは一度もなかった。身を寄せ合うたびに鼻をつく、拭いきれないテレピン油と絵具の臭いさえ心地よかった。
「ねえ兄さん、さっき『模写』をしたって言ってたけど」
「うん?」
「それって、まねして描くことだよね。どの絵でやったの?」
 説明が一段落したところで、彼は疑問に思ったところを尋ねた。ただしアングルの絵そのものではなく、同じほど尊敬する画家――兄の作についてを。
「ああ、今日のは『オデュッセイア』だけど、ルーヴルじゃあなくてリヨン美術館にある絵だから、この本には載っていないね。他に僕が模写したのだと……」
 応えるように白い手が動き、彼の眼前には次々と違う絵が現れる。ギリシャ神話の一場面から、歴史に名だたる英雄の坐像、青い衣を纏った聖母子、そして――
「そう、これだ」
 東洋風の閨房の中、鑑賞者に背を向ける形で、寝台に横たわる一人の女性。背後に掛け渡された青い天幕、傍らに置かれた煙管、黒髪を飾る絹のターバン。しなやかな白い手が握る扇。首から下には金の腕輪のほか、衣服と呼べるものは何も身につけていない。

「『グランド・オダリスク』。僕はね、アングルが描いた中では――いや、ルーヴルに飾られている中ではと言ってもいい、この絵が一番好きなんだよ」
「そうなの?」
 耳朶をそっと撫でてゆくような溜息に、マンフレートは兄の横顔と、図録の中の裸婦を見比べた。二度三度と繰り返すうち、いくらか目を泳がせるようにしながら。
「もっとも、僕だってここにある絵を全て覚えているとは言えないし、後々には変わってくるかもしれないけれどね。でも、少なくとも今のところは」
「本当に? ルーブルには他にもすてきな絵がたくさんあるよ。『モナ・リザ』とか、『民衆を導く自由の女神』とか、『聖アンナと聖母子』とか」
 彼は探るように兄を見上げた。もちろん、これらの絵はただ漫然と挙げたのではなく敢えて選んだのだ。数多の傑作たちの中でも、女性を主題に据えたものばかりを。
「そうだね、数え切れないぐらいに。同じアングルなら、『ヴァルパンソンの浴女』や『トルコ風呂』も所蔵されているけれど……やっぱり僕は、『オダリスク』が一番だな」
「……兄さんはマリア様やジャンヌ・ダルクより、裸の女の人のほうが好きなの?」
 まだいとけない面差しがじとりと曇り、血色のよい唇が僅かに曲がった。彼自身が思っていたよりも、ずっと冷たくよそよそしい声が、そこから低く漏れ出した。兄は目を瞬いたが、まもなく返事の代わりにぷっと吹き出した。
「ねえマンフレート、お前は僕がだよ、この絵が裸婦画だから好きなんだと思っているのかい?」
 思っています、と言わんばかりに彼は口を尖らせたものの、兄のほうはすっかり落ち着き払った元通りの物腰で、穏やかに疑念を晴らしにかかった。
「それは違うよ。ぜんたい、ルーヴルには裸婦画だって他にたくさんあるんだ。僕がこの絵を選んだ理由は全くの別さ。額の中にいる人たちが服を着ているかいないかで、僕は好き嫌いを決めたりしない」
「……本当?」
「本当だとも。でも、お前が気にするのも解るよ。『どうして好きなのか』を深く考えてみるのも大切なことだ。――僕がこの絵を好きなのはね、この絵が正確ではないからさ」

 此度はマンフレートが目をぱちくりさせるほうだった。彼が想像していた理由(といっても、辛うじて「ヨーロッパではなく東方を描いた絵だから」等を思いついた程度だが)とは、まるで違っていたからだ。
「良いかい、一度この女性をじっくりと見ておくれ。本物の人間の体を、見たままに正しく描いたものではないだろう」
 兄にそう促されて、彼はおずおずと書物を引き寄せ、婦人の肢体に目を注ぐ。肩越しに観者を顧みる褐色の瞳と、幼い碧眼がかち合った。気圧されるように彼は視線を移す――光に照らされて仄白く浮き上がる、滑らかな背中が描くラインへ。
「……ね、ちょっと考えてご覧よ。この人、背中も腕もうんと長いんだよ。発表されたときに絵を見たうちの一人は、『背中の骨が二つか三つ多い』と言ったそうだけれど……それに、右腕と左腕は長さが違うしね」
「その頃の人たちも、この絵は好きじゃなかったの?」
「好きじゃなかった、というのか……まあ、サロンでは良い評価を取れなかったのさ、『正確ではないから』。顔に表情がなくて人形みたいだとか、肌に凹凸がなさすぎるとか、腰が太すぎるとかね」
 言われるままにしげしげと眺めてはみたが、しかし彼は兄の好意の理由がまだ掴めなかった。どころか、じっと見つめているうちに、画中の婦人から段々と、この世ならぬ不気味ささえ感じ始めていた。他方、それぞれの箇所を示す兄の手には、非難するような強さなどまるで無かった。首から腰にかけての「長さ」をなぞる指先など、愛撫しているようですらあった。
「それに、ポーズにも無理があるんだよ。ねえマンフレート、お前、こんなふうに足を組むことができるかい?」
「えっ? え……うーんと」
 東洋の絹と毛皮ではなく、綿のシーツが敷かれた寝台の上で、彼は図録を確かめながら横になった。左手をついて上体を起こし、右の手足は自然に伸ばして、左の膝を直角に曲げ――いや、おかしいぞ! 首にしろ左足にしろ、こんなに捻ることはできない。完全に横向きになってしまえば別だが、絵画のオダリスクはほぼ背中全体を見せているのだ。彼は子供の柔軟さをなんとか駆使して頑張ったが、張り詰めた首や腰の筋は悲鳴を上げ始めていた。
「はい、それぐらいにしておこうか。筋を違えてはいけないから」
 幸いにも、彼が無茶をしでかす前に、良識ある兄が優しく止めに入った。彼はとりあえず体勢を緩め、それから幾らか不服げに頬を膨らませて、
「……ぼくがいけないんじゃないもの」
 とだけ言ったが、こうした子供の気まぐれさえ、兄にとっては十分に予測と対処のできるものだったらしい。
「解っているよ。そう、お前は絵を絵で真似するよりも、自分の体で真似をするのが上手だったよね……それじゃあ、ダ・ヴィンチの『洗礼者聖ヨハネ』はどうやるんだい?」
 効果は覿面だった。彼が寝台から飛び降りて、名を挙げられた絵のとおりの――左手を胸に当て、右手を掲げて天を指差す――ポーズを取ると、鑑賞者は惜しみない拍手を送った。それだけで、彼の自尊心はあっさりと満たされたのである。

「つまり、それぐらい上手なお前でも無理なんだよ。どんなに体の柔らかい女性でも難しいだろうし、仮にできたとしても、こんなに平気な顔ではいられないだろうね。……でも、それはアングルが人間の体を知らなかったからじゃあない。正しく描けなかったわけでもない」
 再び元の場所に腰掛け、開いた書物を膝に乗せたところで、兄は静かに、言い聞かせるような物柔らかさで語り始めた。今一度ページの上の、どこか人間らしからぬ婦人に目を注いで。
「『彼女』を見るとき、僕はいつでも思うんだ。なんて背中の綺麗な人だろうって……それはアングルが彼女を正しく描いたからじゃあなくて、美しく描いたからさ。ただ見たままを写し取るより、その向こうにあるものをきっと描きたかったんだ。たとえ他の誰もが間違いだと言っても、これが自分の思う美しさなんだと」
 マンフレートの目は絵ではなく、ずっと兄の横顔へ据えられていた。自分と同じ色をしているのに、今や全く違う光を帯び始めた瞳へ。共に一つの部屋、一つの部屋に存在していながら、一人だけどこか別の世界にでもいるようだ。兄は愛情深い人で、様々なものに優しく暖かな心で接するが、自分に注がれる愛と絵画への愛は違うのだと、彼は薄々気付き始めていた。――あるいは今正に、兄は前時代の画家と同じ心地でいるのかもしれない。目の前に確固としてあるものではなく、どこにも存在しない女性を見ているのかもしれない。
「彼にはそれが見えていたんだろう……僕はたまらない気持ちになるんだよ。たとえ世界中を探し回っても、こんなに美しい人はどこにもいないんだって……」
「ふうん、――でも兄さん、そうしたら兄さんは大変だね」
「どうして?」
「だって、絵とは結婚できないもの」
 陶酔した頬を指でつつくような、少しばかり悪戯めいた声で、彼は話に割り込んだ。単に誂ってやろうというより、放っておいたら自分が忘れられてしまいそうな気がしたのである。
「おや、……それも違うよ、マンフレート。第一、愛しているからって、結婚しなくちゃあならない訳ではないだろう」
 兄は少しばかり困ったような、どう説明すればいいのか迷っているような笑みを浮かべて、目線を絵と彼の間に彷徨わせた。
「つまりね、例えば父さんが母さんに恋をしたのと、僕がこの絵に惚れ込んでいるのとは、だいぶ違ったところがあって」
「ううん、いいよ兄さん、説明してくれなくても」
 だってぼくには解らないんだもの。――彼は小さく首を横に振り、それ以上兄を困らせるのはやめようと決めた。
「そうかい、それなら絵の話に戻ろうか。――ただ、その前にもう少しだけ言わせておくれ。お前にも覚えていてほしいんだ」
「何を?」
「アングルの絵が教えてくれることを。良いかい、一つは自分の思う美しさを信じることだ。これは彼の初期の作品だけど、どんなに時代が下っても、彼は自分らしい絵を描き続けようとした。……もう一つは、どんなに美しく見えるものでも、それは正しくなかったり、この世のどこにもないかもしれないってことさ……」

 それからは本当に絵の話だった。画中に配置された小道具のうち、マンフレートが香炉に興味を示したので、話題は自然と匂いのことに移った。香炉は教会にもあるけれど、全く違った香りがするはずだ。心の安らぐ、どこか懐かしい乳香と没薬ではない、例えば珍しい香木や、もっと刺激のあるスパイス、竜涎香、麝香……それらが絹や毛皮に染み渡って、ずっと不思議な、自分たちが嗅いだことのない匂いになるだろう。それに彼女は化粧だってしているはずだから……彼は母の持つ白粉や口紅の、スミレに似た香りを思い浮かべた。けれども横臥する裸婦の肌から、同じ薫香が漂ってくるようには思われなかった。
 首を傾げて暫し、正にその母が階下から二人を呼んだ。――そろそろお膳の支度を手伝ってちょうだい!
「さ、母さんを待たせてはいけないよ。一緒に降りよう、マンフレート」
「ええー」
「寝る前にもう一度読んであげるから。今度はお前の好きな『民衆を導く自由』のところにするよ。それから『サモトラケのニケ』もね。あの首から上はどんな顔をしていたのだろう……」
 諭すような兄の言葉を受けても、彼はなかなか寝台からどかなかった。開いたままのページに目を据えて、兄が注いだ愛の残滓を少しでも感じ取ろうとした。
「――ねえ、兄さん」
「どうしたのだい、ひょっとして僕が信じられなくなったかい」
 冗談混じりの問いかけを彼は無視した。 「ぼく、やっぱりこの絵、あんまり好きじゃない」
「良いんだよ。僕の好きな絵だからって、お前まで好きになる必要はないのだから。……でも、もし良かったら、どうしてか聞かせておくれ。僕も考えてみたいんだ」
 優しく宥めるような声音にも、彼は顔を上向けることなく、額に囲われた婦人をつぶさに眺め続けた。柔らかにしなり、捻られていながら、硬質さすら感じられる肌。長く伸び切った手。奇妙に曲げられた脚。そして何より、こちらを顧みる瞳だ。傍に立つ誰かを出迎える、また見送るという風ではない。幼い彼の知るどんな感情とも合わない、それどころかまるで……
「だって」 小さな唇はほんの僅かだけ、ぎこちなく動かされた。 「だって、この女の人――」

  * * *

 まだ大人になる前の自分の声は、遠く聞こえるベルの音で遮られた。頬に何かが触れているのを感じる。年季の入って柔らかくなった革だ。ここは寝台ではなくソファの上だ。
 ――マンフレート・アルノーは乾いた唇を開き、すっかり冷えた部屋の空気を吸った。瞼を重々しく持ち上げながら、懐を探って懐中時計の鎖を手繰る。が、引き寄せてみた文字盤が見えない。おやおや、いつからこの部屋はこんなに暗くなったのだろう? 最後に蓋を閉めたときには、窓から一杯に西陽が射し込んでしたはずだ――革張りの座面で丸まったまま、彼は自身の腕に顔を埋めた。香水の匂いだけはほとんど変わっていなかった。香炉で燻したような薔薇の匂いだ。
 会議に出席する上司から留守を任されはしたものの、留守番とは一体何をすればよかったのか、彼には未だに判然としなかった。だから暇を持て余し、買ったばかりの香水を試し、そのうちに眠くなり、終業のベルが鳴るまで寝こけていたのである。ソファの向かいの卓上には、まだ白い香水瓶が載ったままだ。金色の表版には古めかしい字体でこうある、――"La Grande Odalisque"。
 あの日の想い出があるから買った、という訳ではない。だが、記憶がなければこんな夢は見なかったろう。ダマスク薔薇の散らばった寝台と、絹のシーツに焚き染められた煙、自分自身とは違う獣の匂い。幼い日の彼が想像し得なかった香りだ。それは単に知識が無かったせいか、或いは絵そのものに関心を持てなかったせいか、感性が育ちきっていなかったためか? 否、あの時に僅かながら感じ取ったものは、決して誤解などではなかった。"だって、この女の人――"

「――"まるで蛇みたいなんだもの"。ああ、鋭いものだね、我がことながら……」
 あの日の自分自身が発した言葉は、今思い出しても傑作だったと彼は思う、――この女性は蛇だ。何の自由も力もなく、後宮に囲われるだけの妾ではない。今しも誰かに狙いを定め、喉笛に噛み付かんとしている大蛇だ。蛇からは芳しい匂いなどしない。
 やがて幼子の背はうんと伸び、声も父ほどではないが低くなった。今では新古典主義やサロンの仕組みも、「オダリスク」というフランス語の意味も、彼女の横たわる部屋が何のために造られたのかも知っている。幼い兄弟のアングル評は、名だたる批評家からすれば失笑を禁じ得ない代物だったろうことも、残念ながら理解できている。と同時に、26歳になるまで知らず来たものも数多い。女の肌の匂いなどは、母親のそれ以外に終ぞ覚えることはなく、あの絵がルーヴル随一であると信じた兄の心も最後まで解りはしなかった。或いはこんな素朴な疑問に答えを出すこともできない。――何故人は愛するものを蒐めるのだろう?
 目線だけを動かして周囲を見渡せば、何もなければ広々としているのだろう部屋は、床から天井まであまねく世界の珍品に埋め尽くされている。それもほぼ全てが生物由来のものだ。さらに言うならば、ことごとくが人間に害を成すものだった。額に入った毒蛾の標本、強靭な顎を持つオオトカゲの骨格、紙箱にぎっしり詰まったサメの歯。美しく磨かれた幾何学模様の貝は、毒の銛を撃ち出して人間すらも容易く殺す。鮮やかな青紫をそのままに留められたトリカブトは、数多の殺人と自殺の立役者となった。もし彼が起き上がって、壁際に飾られた硝子瓶の中身を――真っ赤なビーズのような種実を2、3噛み砕けば、たちまちのうちに再び横たわり、そして二度と目覚めることはないだろう。ルーヴル美術館の図録と共に育ち上がった少年は、大人になって彼らと全く同じことを始めた。世に数多ある美しいものの中でも、自らを殺しうるほど危険なものばかり狩り蒐めることを。

 兄がこの有様を見たら、とは幾度となく考えた。例えばそう、蛇だ――彼はまだ現職に就いたばかりの頃、正に蛇について失敗をしたことがある。ニシキヘビの脱皮を介助している最中、扱いを間違えたために首を絞められてしまったのだ。同僚が駆けつけてくれたために難は逃れたが、あの数十秒間を思い出すたびに、彼はうっそりとした心地になる。虹色の光を帯びて艶めく鱗、肌に絡みつく軟らかな感触、段々と増してゆく締め付けの力、獲物を決して逃がそうとはしない冷ややかな執念、あれこそが――恐らくはあの甘美と恍惚こそ、東国のスルタンたちが、フランス屈指の画家が、幼い日の兄が、オダリスクから受けたものではないのだろうか?
 こんなことを言えばきっと兄から叱られるだろう。アトリエに活けられていたスズランを齧って、病院に担ぎ込まれたときのように、命をなんだと思っているのかと泣かれるだろう。どんなに愛しいからといって、息の根を止めるようなものに手を出してはいけない、絵ならば僕たちを殺しはしないのだから、と……
「――ねえ、兄さん」
 あなたは本当にそう思っていたの、彼は顔を伏せて独り言つ。とぐろを巻いた薔薇の匂いの中心で、姿のないオダリスクに首を絞められながら。――もしも絵が、芸術が人を殺さないなら、少なくともあなたはまだ生きていたはずだ。

 冷えて鈍った彼の鼓膜を、不意に扉の開く音が震わせた。蝶番が耳障りな軋みを上げ、床板が靴底と擦れる響きが続く。
「遅れて済まないな、マンフレート。……マンフレート?」
 初めは急いたような、続いて僅かに戸惑いが滲む、年を十分重ねた男性の声。会議に出ていた上司、ないし同僚、また親友――何とでも称するがいい。とにかく無二の人間だ。魔術師の会合などという長引かぬわけがない場から、やっと解放されたのだ。そして戻ってきたはいいものの、留守を任せていた青年の姿が見当たらず、まごついているといった次第だろう。マンフレートがいるのは部屋の最奥、戸口からは無数の棚に遮られて、全く窺うことのできない場所なのだ。
「……帰ったのか。全く、帰るなら帰るで片付けぐらいはしていけとあれほど……」
 呆れよりも諦めが強く感じられる溜息。子供のわがままに振り回されるのは慣れっこ、それも主に悪い方向へばかり――といった風の声が漏れ、革靴が部屋の中へと踏み込んでくる。紙束かボール箱か、乾いて体積のあるものが置かれる音。
 喉に絡みつく見えない力が緩んだ。マンフレートは微笑した。なんだか夢と同じことをしてみたくなったのだ。既に遠いものとなった想い出を、現在というキャンバスへ模写するように。そう、自分には絵心こそないが、肉体で模倣することにかけては、偉大な画家のお墨付きだ。そうして幾度となく描かれ、表現されることで、ただの記憶は永遠のものとなる――そのために喪われた魂と共に。
 まだ仕事を続けるにしろ、このまま帰宅するにしろ、年嵩の友は必ずここまでやってくる。荷物と部屋の鍵があるのは、すぐ背後に置かれたロッカーの中だからだ。青いイラクサの茂みの中、獲物を待ち構える蛇のように、彼はソファの陰へ身を潜めた。

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