「しかし意外だね」 と闖入者は言った。 「ポップコーンを売る『劇場』は映画館だけだとばかり」

弾け足りない煩悩 -All About That Pop-

 部屋の主が眉を顰めたことは述べるまでもない。デュッセルドルフ旧市街にある小劇場、「青い喉のコマドリ[Das Blaukehlchen]」のA号楽屋といえば、押しも押されもせぬトップスタア、ウィリアム・クライスラーの専用室と決まっているのだ。というよりも、この劇場で個室を貰っているのは、支配人を除けば彼しかいないし、個人の一存で係員はじめ同僚・来客までを締め出せるのも彼だけであり、付け加えるなら劇場の名前自体が、彼の仇名に由来しているのだから大したものだ。なんとなれば、数年前まで傾きかけていた小劇場、とは名ばかりのキャバレーが、華麗な装いのシアターとして建て替えられたのも、全ては謎めいた新人俳優の稼ぎによるものだからである。
 この事実を少々大げさに誇っている役者本人は、自分の楽屋を神聖不可侵なものと信じて疑いもしなかった。故に、今日の夜公演[ソワレ]がはねて舞台から解放され、シャワーを浴びて快適なソファに横たわった途端、入口の防音扉が遠慮会釈もなしに押し開けられたのを見て、酷く侮辱されたような心地になった。それが一時間かそこら前だ。

「なあ、マンディ」
 役者は嫌悪感を隠しもしない声音で、鋭い舌打ちと共に相手を呼んだ。
[わたくし]も全くの鬼畜外道というわけではないから、キミがアポも取らずに楽屋まで、それも一日で最も疲れている時間帯を狙い澄ましたかのように押し掛けてきたことについては、まあ抗議以外の不穏な措置は取らないでやろう。招かれたわけでもないのに堂々と客人面をして、コーヒーと茶菓子を要求したことについても、都合良く二日前のケーキが残っていたので許してやろう。だがな、マンフレート・アルノー」
 深く身を沈めていた肘掛け椅子から、ばねを弾ませて起き上がり、役者は応接セットの低いテーブルに乗り出した。そして真正面にある知人の顔を――前時代ヨーロッパの貴公子を描いた肖像画のように、不気味なほど均整の取れた青年の顔を睨めつけた。居心地のよいソファを奪い、時間と余裕を奪い、あまつさえ飲食物まで奪っていった男を。その明るい金の撫で付け髪も、計算されたかのような厚みの瞼や唇も、およそ場違いなチャコールグレーのタキシードも、全てが彼にとって気障りだった。生身の人間が持つ血の通った肉体よりも、絵画や彫刻のような命のない人工物のほうが、超越的な美しさを湛えるというのはしばしばあることだが、眼前にあるのは正にその実例と見えたのだ。――とはいえ自分ほどではないという確固たる自信は失われていないわけだが、青年が持つ閑雅な、人間的温かみに欠ける精巧さは、彼の自尊心を些か苛立たせた。この完全武装を前にして、自分はシャツ一枚にスラックスというのもまた癪だった。おかげで彼は芥子色のタイを締め直し、ウエストコーストまで着込む羽目になったのだ。もう夜半だというのに。
「それでキミは何なんだ――ドイツの反対側からわざわざ私に会いに来ておいて、この一時間というもの私については全く言及せず、ただひたすらになんとかいう毒蛇の追加研究について知識をひけらかしているばかりじゃないか! せめて蜘蛛の話にしておけばいいものを。挙げ句の果てにやっとこちらを見たかと思えば、ポップコーンがどうのと言い出す始末だ。ふん、生憎と私の劇場でその菓子が売られた記録はないな。ただの一度もない」
 一息に言い切ってから、彼は再び椅子にふんぞり返って脚を組む。青年は口元にあるかなしかの微笑を浮かべ、「そう」とだけ答えて数秒黙った。

「入ってきたとき、確かに匂いがしたのだけれど。まさしく映画館や、あるいは縁日で売られている、カラメル掛けをしたバターポップコーンの匂いがね。ということは、あんなに甘く罪深い食べ物を、君は楽屋で独り占めにしている?」
 整えられた金色の眉が動き、碧眼が細められて、僅かに揶揄めいた表情を作った。そのまま白磁のカップに手を伸ばして一口飲み、ふっと緩慢な息を吐く。
「それは頂けないね、実に……実に宜しくないと思うよ、興行側の姿勢としても、また役者としても。前にも言っていなかったかな、自分にとっては美しい肉体こそが商売道具なのであって、不要不急の糖分は云々と……」
「だから?」
「私にも少しばかり分けてくれて構わないのだよ?」
 カスタード・タルトの大きな一切れをぺろりと平らげた青年は、領主が臣民から年貢を取り立てるごとく、平然たる態度で「お代わり」を要求してきた。応じる、という選択肢など役者にはない――この劇場にポップコーンが置かれていないのは本当のことだし、仮にあったとしてもくれてやる気は更々なかった。無恥厚顔をなじるような一睨みで彼が応えると、青年はおやおやと言わんばかりに首を振り、フォークだけが載った皿を横へ押しやった。
「まあ良いか。それで、どこまで話したのだったかな。そう、各種毒蛇の『噛み付いたが、毒は注入しなかった』各ケースを分析した論文が――」
 映画鑑賞につきものの気軽な菓子も、目の前にいる看板役者のことも、まるきり忘れてしまったかのような口ぶりで、また青年は自らが愛してやまないもの――人間に対して危害を及ぼしうる爬虫類の話を始める。役者は気疎げな嘆息と共にクッションへ背を埋め、「カラメル掛けをしたバターポップコーン」を嗅いだ。胸元に吹き付けた自分自身の香水の匂いを。

 その瞬間に彼は閃いたのだ。ルーヴルの展示台に科学博物館の学芸員を飾り付けたような、このお高く止まった衒学者を陥れるとっておきの計略を。古代ギリシアの青年像[クーロス]もかくやの設計をされておきながら、上滑りの講釈ばかり垂れる唇に、己の失言を後悔させるためのすてきな陰謀だ。
 さあ、そうと思いついてから、俳優ウィリアム・クライスラーは無垢な聴衆らしい顔をして、知人に好きなだけ喋らせておいた。直截に罵り言葉が飛んでこなくなったのを良いことに、青年はのべつ幕なし、東南アジアに生息する毒蛇のいかに多種多様かつ色彩豊かであるか、ほとんど陶酔的とも言うべき調子で話し続けたが、それさえも最早彼の鼻につきはしなかった――役所や郵便局の窓口に並ばされるのは五分だって我慢ならないのに、レヴューの最高潮で舞台へ登場し、万雷の喝采を受ける瞬間までは、一時間だろうが二時間だろうが喜んで辛抱する、そういった性分なのだ。彼はいくらでも待った。具体的に言えばさらに四十五分ほど。
「なあ、マンディ」
 一切の嫌悪感を含ませず、低さも大きさも万全に整えた声で、役者は客人を静かに呼んだ。毒蛇についての講義はちょうどマレー半島周辺のヘビ、とりわけ、青い縞模様と鮮やかな赤い尾、そして美しい学名と致命的な毒を持つサンゴヘビに差し掛かっていた。うっすらと喜色の滲む碧眼が、一度だけ瞬いて正面を見た。
「どうかしたのかい。今の説明に過不足でもあったかい」
「いや、特には。それより、先刻キミは何か、ポップコーンについて話していたと思ったが」
 芯を抓まれた蝋燭のように、青年の声からはたちまち熱が消え失せる。構わず彼は言葉を続け、席を立った。
「ああ話したね。何だい、君もとうとう強欲と暴食の罪を悔い改めて、私に寛大さを示してくれるつもりになったのかな」
 それを譲歩のしるしと取ったらしい、青年が眉を上げて薄笑いを浮かべる。空になったカップに残る茶色い水平線を一瞥し、彼は距離を詰めた。そのまま背後へ歩き去ると見せかけて。
「まあ、そんな所だな。尤も――」 長椅子の肘掛けに片手を置き、彼はふと息をついた。
「自分は初めから十分寛大だった、とか?」
「そう、だから悔い改める気は更々ない」
 象牙のレリーフのように揺るぎない微笑に、灰色の瞳は狙いを定める。 「罪を重ねるまでだ」

 そして蜘蛛は獲物に手をかけた。四肢の下で長椅子のコイルが軋んだ。涼しげに細められていた碧眼が、一時に丸く見開かれるのを、彼は悠々と下瞰した。
「マンディ」
 三たび青年の名は呼ばれた。今までよりもずっと重く、囁きほどに小さく、瘧のような熱を孕んだ声で。
「なに――」
「これがキミの言う、『カラメル掛けをしたバターポップコーン』だ」
 座面から片手を引き剥がし、自分より一回り大きな肩に体重を乗せる。甘く軽薄なジャンクフードではなく、魅入られるように艶かしい夜咲きの花々や、仄暗い竜涎香の匂いと共に。
「キミが嗅ぎ取ったのは私のにおいだ」
 青年はまだ我が身に何が起きたのか把握できていないようだった。碧眼は一度瞬いたきり、胸の上に垂れた芥子色のタイを眺めている。もう新古典主義絵画のような顔はしていなかった。
「……ふうん、それこそ意外だね、ブラザー・ヴィルヘルム。君の香りの好みはグルマンに寄っていたのかい」
 数秒の間を置いて、余裕ぶった調子の返事こそ寄越してきたが、その唇が微かに震えているのを見逃す役者、否、魔術師ヴィルヘルム・バハマイヤーではなかった。腕の力を少しばかり緩め、肩口に置いた右手を喉元へとずらせば、息遣いもまるで平静を装えていないのが判る。
「自分一人で楽しむ分にはな。まあキミの言う通り、独り占めにしているわけだ。だがキミなら承知だよな、人間は心変わりするものだと」
「つまり、香水の匂いと同じように?」
「察しが良いじゃないか」
 此度は彼が微笑みかける番だった。幾度も「公演」の舞台となった、瀟洒な長椅子に組み敷いたものへ。凸凹とした喉首に置いていた手指を、さっとテーブルの上に――タルトの残骸がへばりついた皿に伸ばし、食べ残しを少々拭い取りながら。
「なあ、キミがこんな、土台はぱさついてクリームのへたったようなタルトや、一袋数ユーロの湿気たポップコーンでも満足するというならそれは結構だ。だが」
 乳白色のカスタードを掬い上げた親指を、僅かに開いた青年の唇に宛てがい、捩じ込むように動かす。さぞ退屈な甘味だろう。鼻先に感じ取る、身悶えするような異郷の香りに比べれば。
「もっと新鮮で、美味しそうなものが近くにあるなら、そちらを選ばない理由はないだろう」
 聞こえるように息継ぎをする。 「キミにも少しばかり、分けてやっても構わないんだがな」

 黒いボウタイを締めた生白い喉が、眼下で引き攣るように動いた。役者のそれとは太さの違う指が、唇に触れる手を押し戻す。ああ、あの小憎らしいほど据わった瞳はどこへ行ったやら! ヴィルヘルムは目を細め、クリームと少々の唾液に濡れた親指を舐った。
「生憎だけれどね、私は遠慮しておくよ。罪に罪を重ねたがる君の性分からして、きっと高くつくだろうから」
「まあ、確かにそうだ。安売りをするつもりは無いからな、一番安い席でも40ユーロは出して貰わなけりゃ」
「は、――チケット代の話は結構だよ。財布がほんの0.数ミリ薄くなるだけじゃあないか。でも」
 彼の冗談に返ってきたのは、冷めたふうを装った、その実余計な熱を逃そうと努めているような、短い嘆息と低い声だった。徒に終わった身動ぎと、背広の立てる衣擦れの音を、彼は確かに聞き取った。
「君は違う、君は……何かもっと重大なものを取り立ててゆく心算だろう。金銭よりずっと取り返しのつかないものを……」
「それだけの価値があるからだ」
 橙色の灯にてらりと光る指を返し、彼はその背で青年の胸元に触れた。真白いシャツの襞をなぞるように下へ――すべすべとした黒い絹のカマーバンドまで。重なり合った布越しにでも、下腹に力が籠もっているのが伝わってくる。
「取り返しがつくかどうかなんて、いちいち考える必要があるのか? 人の生み出した何物よりも、遥かに甘いものが手に入るのに」
 片肘をついてぐっと前に乗り出す。鼻先同士が触れ合うほどに近く。自分自身の纏うもの、僅かに獣めいた山査子の花香と、青年のシャツに染み付いた、薔薇と麝香を思わす匂いが、胸と胸の間に絡み合っているのが判る。あるいは熟れた林檎のような、これはきっと金髪を梳るためのポマードだろう。どこまでも古風な趣味だ、と彼は鼻を鳴らした。
 その美妙な重なりの中で、青年の片手がふと動いた。堪えきれないような震えを帯びたまま、血色のよい役者の頬を掠めるほどの高さまで――そこで何かを躊躇うように止まる。ぎこちない有様がどうにも愉快で、彼は緩やかに顎を持ち上げ、得たりとばかり笑ってみせた。
「どうぞ」
 辛辣至極の罵り合いでは決して発することのない、甘ったるいテノールが唇から溢れる。ソファに落ちたヴィルヘルムの影の中、青年は一度だけ顔を背けたが、再び視線を正面へ向けた。小刻みに揺れていた手が、芥子色のタイの結び目まで降りてくる。薄く筋張った人差し指が、輪と喉との間に掛かったとき、彼はほとんど勝ち誇った気分だった。

 ――その結び目が、否、シャツの襟とボタンも含めた襟元全てが、刹那のうちに強烈な力で引き下ろされた。がくんと頭が揺れ、瞬きもせぬ間に息が詰まったと思うや、ヴィルヘルムの視界は半回転していた。身体がソファの座面に放り出され、背中の下でコイルが悲鳴を上げる。そのおかげで彼自身は悲鳴を上げずに済んだわけだが、喉の奥に籠もっていた笑い声が、低い呻きに変わることだけは避けられなかった。
「生憎だけれどね」
 落ち着いた、あまりに落ち着き払った青年の声が、彼の頭上から月光のように注いだ。目の焦点がやっと定まってみれば、そこには彫像めいた態度を取り戻した青年が、両手を背に回した格好で佇んでいた。
「我々が世間一般にいう友好関係でなしに、やや異質な――日常の鬱憤が溜まったころに集まっては、才覚の限りを尽くして互いを貶め合うという、言わば友好的な敵対関係を結んでいることは大前提だし、こうして君から有形無形の嫌がらせを受けることについても、別段感じ入ることはないのだけれど」
 オペラパンプスの硬い靴底が、絨毯敷きの床に柔らかな音を立て、ヴィルヘルムから距離を取る。青年はそのまま、先刻まで役者が据わっていた肘掛け椅子に、勝手知ったる様子で腰を下ろした。
「とはいえブラザー・ヴィルヘルム、もとい、場所が場所だからウィル・クライスラーと呼ぶべきかな……今回のやり口はというと、君にしては面白みに欠けるのじゃあないかな。私に顰め面をさせたいとして、もっと巧い方法は幾らも思いついただろうに」
「は、……何をキミが、さっきまで――」
「先程までは、ああ、それなりに君のお気に召す展開だったかな。本職の役者に比肩するとは言わないけれど、私も中々のものだろう?」
 やっとのことで我に返った役者が、長椅子の上に跳ね起きた時には、青年はもう脚を組んで肘掛けに腕を乗せ、乙に澄ました顔を斜めに向けていた。腹立たしいを通り越して、忌々しいほど整った姿だった。
「それで、ポップコーンがないなら何を食べれば良いのかな、私は」

 舌打ちを懸命に堪えながら、ヴィルヘルムは立ち上がって部屋の奥へ向かった。むろん「お代わり」をさせてやる気など無かった。応接セットから少し離れた、役者には欠くことのできない白塗りの鏡台へと歩み寄り、両手をつく。今や彼の心中に些かの優越感もなく、空になった胸の奥底に怒りが食い込むばかりだ。
 あれがただの演技だと? まさか。ほんの十分にも満たない間ではあったが、確かに青年は唆られていたはずなのだ。蠱惑され、熱に浮かされた人間の顔だった、それは確かだ――幾度となくその目で見てきたからこそ、彼には確信できた。けれども青年は、そこで何らかの違った感情をふと思い出し、すんでのところで理性の舵を切ったのだろう。まあ、理性というよりは全く別種の煩悩――恐らくは爬虫類だか両生類だかへの盲目的愛など――の為せる技という気もしたが。
 彼は深く息を吐いた。どうあっても今回は己の敗北、ぎりぎりまで強がったとしても引き分けを認めなければならないのだろう。けれども全くの徒労ではなかった。香りにあてられて歪むあの顔を見た。大理石の胸像や額に収まった肖像画ではなく、生き物としてのマンフレート・アルノーを。そしてもうひとつの確信を得た。少なくとももう一度、奴は同じ顔を見せることになる。
 顔を上げれば、鏡の中には応接セットが映り込んでいる。最初からこの部屋の主であったかのように、肘掛け椅子に収まった青年の横顔も。彼はそれらを眺めながら、皺の寄ったシャツの襟を正し、緩んだタイを解いて締め直した。怒りと入れ違うように沸き起こった感情を、その内側へ包み隠すように。
 靴の爪先が床を叩く、等間隔の響きが耳に届く。退屈と催促の音だ。役者は構わず、十二の電球に囲まれた鏡を覗き込み、凄艶そのものの貌で笑いかけた。――覚悟しろ。

go page top

inserted by FC2 system