<ソーセージの中身は肉屋と神様しか知らない>

 自然と鼻をひくつかせてしまったのは、漂ってくる香ばしい匂いのせいだった。火に炙られるソーセージの、こんがりと焼き上がるときのあの匂い。そして胃袋を引き寄せるような香辛料の匂い。そうか、そういえばこの辺りには――と首を回せば、とたん同行者と視線がぶつかる。

「カリーヴルスト」
 アイスブルーの眼をした同行者は言い、ふと口元を緩ませた。一点の乱れもない金の撫で付け髪に、これから結婚披露宴にでも出掛けるかのような襟付きのジャケット。ポケットには白いチーフが入れられ、あまつさえ青紫のコサージュまで挿してある。どう見ても街角の屋台でファストフードを立ち食いするような容姿ではない、そんな見た目に二十歳そこらの青年だ。
「ねえ、買ってこようか、ライニ?」
「私はどちらでも構わないがね、……まあ、君が空腹ならそれも良いだろう、マンフレート」
 単簡に答えれば、青年は目を細めて「それじゃ」とだけ言い、くるりと踵を返す。通りの向こうにはごく簡素な造りのフードスタンド。ここライプツィヒのみならず、ドイツの都市であれば至る所に見られるようなものだ。そこでは例外なく、焼いたソーセージにたっぷりのケチャップとカレー粉を掛け、パンなりポテトフライなりを添えたもの――カリーヴルストが売られている。それもせいぜい3ユーロ程度の安価で。

 この軽食が現代ドイツにあまねく見られるようになったのは、かれこれ五十年ほど前からだろうか。そして、同僚である青年とたまの休日に外出して、散歩がてらにこれを食べ歩くようになったのは――記憶が正しければ六年前からだ。さしたる歴史ではないが、思い出としては十分な厚みだろう。真っ昼間から肉と炭水化物とビールを消費するのに些かの不安が出てきた今でも、こればかりは避けて通ろうと思わない習慣である。
「お待たせ、」
 やがて深みのある紙皿を二つ手に持って、19世紀の貴族めかした風貌の青年は戻ってきた。屋台の主人が奇妙なものを目撃したような顔をしているのが、通りのこちらからでもはっきり見えた。気持ちはよく解る。やはり街角の屋台でファストフードを立ち食いするような容姿ではない。
「はい、君のぶん。君がフライよりパンのほうが良いのは解っていたのだけれど、残念ながら付け合せは揚げた芋以外の選択肢はなかったよ。なんだったら残してくれれば私が食べるからさ」
「そこまで気を遣ってくれなくとも良い」
 頭を下げ、炙ったソーセージを口に運ぶ。彼は友人の食の嗜好をよくよく把握してくれていた。さすがに「中年」という時代に差し掛かり、揚げ物に対する耐性を失ってきたこの身を慮ってくれていることには感謝の念に堪えない。さらには、古典的なドイツ人の性として辛いものが苦手であることも察してくれ、いつもソースの味付けは「甘口」のほうを選んで――

「……おっと、君は甘口のほうが良かったのだっけ? いや、解っていたのだけれどね」
 思い切り噎せ返ることとなった。辛い。
「解っていたのだけれど――まあ、ほら、君こそ解っておくれよライニ、私はこういうのが大好きなんだよ!」
 ああ解っているとも。君はこういう裏切りが何より得意だ。

(お題:可愛い裏切り)


<ホテル・ヴンダーカンマーへようこそ>

 この光景を見て「なんて素晴らしい」と言える者がいたとして、彼はきっと危険動植物管理課の補充人員に向いている。問題はライプツィヒでそのような人物に巡り合う確率が途方もなく低いことで、だから我々はいつでも人手不足なのだ。

 部屋は元々それなりに広かった。そこにまず木や金属の棚がいくつも搬入され、壁にも一面に標本箱や掲示物が張り出され、ロッカーが置かれ、空の植木鉢が積み上げられ、一応なりに執務机も置かれて、どんどん手狭になっていった。ましてや今。――そう、今。
「このご立派なコモドオオトカゲはどうしたのだね、マンフレート」
 ソファの横でのっそりと立ち尽くす巨大な爬虫類、の剥製を見下ろして私は訊いた。昨日まではここに無かったものだ。
「ああ、それはフランスからだよ」
 金髪を後ろへ丁寧に撫で付けた、青い目の青年がソファの上から私に言う。ただ上品を通り越して、貴族めいてすらいる佇まい。黒い襟付きのジャケットに深緑のタイを締め、胸にはポケットチーフ、そしてダリアの花飾りまで挿したこの姿は、ある意味では19世紀の人間の標本と言えなくもない。
「折角ここには骨格標本があるのだからね、並べて飾りたくなって。でも予算の都合上購入は難しくて――運のいいことに借りるだけなら心当たりが見つかったのだよ。期間限定さ」
 図書館から普通の本を借りるような調子で、希少な野生動物の剥製を輸入してくるこの青年は、しかし研究熱心というわけでもないのだ。本人がそう言うのだから間違いない――「私はただの好事家であって、研究者でも専門家でもない」と。

 見回せば、部屋の角にある木製の台座に、見たこともない鳥が止まっている。無論これも剥製である。全体的に黒いが、胸元の羽毛だけは鮮やかなオレンジだ。
「あれは」
「ピトフーイというのを知っているかい、ライニ? 世にも珍しい、毒を持つ鳥さ……そう、どうしてなのだろうね、毒を持つ昆虫や植物や爬虫類は多くとも、毒鳥というのがめったにないのは」
 彼は微笑み、小さく付け加える。 「苦労したよ、私はインドネシア語ができないから」
 なるほどあの鳥は南洋の生まれであったのか。遥々海を越え大陸を渡り、こんな寒々しい東ドイツの地方都市に宿泊することになった気持ちはどのようなものだろう。しかもオーストラリア出身のカモノハシのお隣でだ。
「ああ、なんて素晴らしい眺めだろう。本当はどれもみな私だけのものにしたいのだけれど、しかし私だって億万長者というわけではないからね。私にできることは、ただこうして客人を出迎えて、眺めて、対話することだけだ」
 アイスブルーの瞳は純真な好奇と愉悦にきらめいている。ガラス箱に飾られた甲虫の羽根のように、ぞっとするほど美しい光を湛えて、自らが迎えた客人たちを見据え、愛でている。

「そしてね、ライニ」
 不意に彼が振り返った。私とかち合った視線はごく一般的な、現代ドイツの若者と大差ないものだった。手が伸びた先は、サイドボードの上のガラス瓶。
「客人をもてなす時には欠かせないものというのがね、あるだろう。これほど美味しい一杯はそう味わえないと思うよ。さあ、君もこちらへ掛けておくれ。何しろ彼らの代わりに乾杯する者は、少なくともあともうひとり必要なのだから――」

(お題:混沌のホテル 必須要素:酒)


<昼下がりの塩対応>

「あのさあ」
 乱れた前髪の分け目を苛立たしげに直しながら、少女は言った。華奢な体が身動きするたびに、経年劣化した木の椅子は軋みを上げる。彼女の眼前にはこれもやはり年季の入った長机があり、その上には広げられたドネル・ケバブの紙包みがあった。崩壊しかかったピタパンと、そこから零れ落ちた具たちが物悲しげだ。
「あたしに対して、こう、特に何かしらの一言はさ、無いわけ」
 もちろん少女は自らの昼食に話しかけているわけではない。哀愁漂うケバブのさらに向こうには、一人の青年が座っているのだった。極めて東洋人的な少女の黒髪に対し、目の醒めるような明るい金髪を後ろへ撫で付けた、とてもフォーマルでクラシカルな――有り体に言えば古めかしく時代遅れな――頭をしたその青年は、不服そうな言葉を聞くや小首を傾げ、ただ一言返答した。 「何がだい?」

 少女は舌打ちした。仕草の一つ一つも大変に気に障るが、肝心の答えがまず気に食わなかった。何がだい? ――よく言うわ。人と正面衝突した挙句、昼ごはんを台無しにしやがって。
「あたしはね、あんたがいきなり部屋から出てきたせいで、尻もちついてケバブの袋落として今すごく不愉快なんですけど」
「ああ、なるほど」
 青年は形の良い眉を僅かに顰め、表面上気の毒そうな表情を作ったが、全く申し訳なさそうではなかった。
「でも、それは君がノックもせずに入ってきたからじゃあないか、リコ」
「それでもなんでもぶつかったのは事実でしょ、あたしのごはんが酷い有様になったのも」
「そうだね、それはまあ」 小さく息を吐く間。 「とても気の毒に思うけれど」

 あまりに取ってつけたような台詞だったので、少女はいかにも気分を害しましたというような咳払いをした。そう、これが――この他人事らしさこそが彼女にとって、最高に不快な言動のうちの一つであった。「すみませんEntschuldigung」でも「申し訳ありませんVerzeihung」でもなく、「とてもお気の毒ですがEs tut mir leid)」。なんて言い草だ。「自分は悪くありません」と主張しているも同然じゃないか。
 だが、実際のところ青年にばかり落ち度があるとは言えなかった。昼休みの時間を少しでも確保すべく、走って執務室までやってきた上、ノックもしないでドアを開けたのは確かに少女のほうなのだ。落ち度がなければ謝らない、それはいたって当然のことである。少なくともここ、ドイツはライプツィヒの危険動植物管理課という場所では。
 溜息をついて少女は手元を見る。そういえばこれを買った屋台で、ケバブにソースを掛けてくるのを忘れた。セルフサービスだったのだ。
「……なんか味のつけられるもん、無い?」
「塩ならあるけれど」
 青年が答え、彼の前にあった木製の収集箱を指した。
「その箱、」
「綺麗だろう?」
 青みがかった結晶が、手袋をはめた指の先で煌めく。それは成る程塩だった。岩塩の結晶だ。
「そうだね、まあこれを使えというのは流石に冗談だけれど、ひとつ君にあげようか、リコ。その、君がいう悲しい出来事の埋め合わせに?」
 どこまでも作り物じみた、貴族の肖像画のような笑みが向けられた。少女はまた舌打ちをし、青年の手から結晶をもぎ取った。

(お題:つまらない償い 必須要素:岩塩)


<神頼み程度に>

 熟れた調子で白い指は動き、細い金糸を後ろへ撫で付けてゆく。鼈甲の歯が青年の髪を丁寧に梳り、一世紀前の貴族めかした古典的な型へと整えていた。
 時刻は午前七時、初夏の太陽が東向きの窓から差し込み、生物標本と古書で溢れる危険動植物管理課の室内を照らし出すころだった。出勤してきた中年の魔術師が、扉を開けて最初に見たものが先の光景である。
「マンフレート」 彼は怪訝そうに言った。 「まさかあの後、そのままここで寝たのかね」
 昨夜、退勤前の青年は酷く眠そうだった。どうやら早朝に開花する植物の監察のため、大分と寝不足であったらしい。くれぐれもソファで寝込んでしまわぬようにと言い置いて彼は帰ったのだが、年嵩の友の忠告は聞き入れられることはなかったようだ。
「ちょっとね。おかげで朝食も未だなのだよ」
 マンフレートと呼ばれた青年は、些かばつの悪い風に肩を竦めてそう答えると、櫛を置いて手鏡へと持ち替えた。

 一連の動作を傍観しているうち、中年の――実年齢はもうあと五十年ほど食っているが、外見的には五十代の半ばである魔術師の心には様々な物事が去来する。それこそ朝食についてであったり、今日の業務は何事もなく終わるだろうかという懸念や、まだ出勤してきていない同僚のこと、そして僅かな羨望である。眼前の青年の、その見事な髪についてだ。
 諸外国の人々が「ドイツ人」と言われてすぐに思い浮かべるような、前時代的ステレオタイプそのままの、その輝くような淡い金髪が羨ましいのではない。確かに彼の髪はくすんだ茶色、どれだけ好意的に見ても「ダークブロンド」といった類のものであったが、その色味には彼自身不満はなかった。が、色はともかく、年齢によってどうしても衰えを隠せない要素、即ち量であるとか、生え際の位置であるとか、そういった質の観点では数々の憂慮すべき点があった。何しろもう若くはない。かつて(というのはもう百年ほど前になり、すなわちまだ「第一次」という接頭辞を付けられていなかったころの第一次世界大戦があった当時だ)陸軍にいた時の写真を思い出す。あの頃はまだ豊かだったのだ。懐具合に反して。

 気付けば青年はすっかり己の身形を整え終わり、襟付きの黒いジャケットには新しく、鮮やかな黄色のラナンキュラスまで挿していた。お気に入りの革手袋を嵌め、手鏡だけでなく姿見でも全身を確認し、――そして自分を捉える視線を認識したらしい。
「どうかしたのかい、ライニ?」
「ああ、いや」 魔術師はそっと目を逸らす。
「私の頭などじろじろ見ても、別に中身が見抜けるわけではないと思うよ。教えてほしいことがあるのなら、友達同士もっと直截に話そうじゃないか」
「そういう訳ではないのだが――」
「それとも、」
 青年の唇が、僅かに意地悪めいて緩む。 「自分にもこれぐらい量があれば、って?」
 まさか図星を指されるとは思わなかったので、彼は狼狽した。すぐさま反論を捻り出そうとしたが、この中年男性は実直そうな外見に違わず、咄嗟に上手い口先の言い回しを考えることが生来不得手だったので、場にはただ沈黙が流れるばかりだった。

 沈黙を破ったのはドアが開く音だった。
「おはようございます!」
 若い、否、まだ幼いと言って差し支えのない声がして、戸口に人影が現れた。黒く艶やかな髪を肩口で切り揃えた、どう見ても女学生にしか見えない年頃の、アジア人と思しき少女だった。夏らしい白と紺色のカットソーが、髪型と相俟って涼しげだ。
「……そういえばね、ブラザー・ライムント、日本人は海藻を好んで摂食するから、あのように美しく豊かな黒髪になるのそうですよ」
 青年が先程までの愛称そしてduという二人称を引っ込め、上司に対する態度でもって言った。上っ面は確かに丁重になったが、声音にはまだ悪戯っぽさが残っていた。
「あの、何の話?」
 少女が眉を顰める。彼らの上司であるところの魔術師、ライムント・オーベルシュトルツは咳払いをして着席を促した。もうすぐ始業の時間だ。
「海藻、海藻か――そういえばこの世には毒のある海藻も存在するのだし、研究対象としては悪くないかもしれません。ねえ、ブラザー」
「マンフレート」
「なあに、人間というものは若さと美しさを手に入れるため、昔からちょっとの毒性なんて跳ね除けてきたのです。貴婦人は眼にベラドンナを挿し、皇帝は水銀を呑んで不老不死を夢見た。海藻ぐらいなんてことはない。そうでしょう?」

(お題:誰かのハゲ 必須要素:ドイツ)

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