<日毎の糧を与えたもう>

 ばさり、と撒き出された土は土の色をしていなかった。白くざらざらとした不揃いな粒たちだ。
「何ですか、これ?」
「真珠岩の一種だな」
 黒髪を肩口で切り揃えた、女学生じみた容貌の少女が目を丸くする。その横で、中年の男性が土の袋を地面へ下ろし、ふうと一息ついて答えた。
 もとより冷涼なドイツのこと、九月に入れば気温はすっかり落ち着き、日中でも肌寒く感じ始めるころだ。植物園の一角ではクリスマスローズの種まきのための準備が始まっていたが、これがもし日本なら暑くてやっていられないだろうな――と少女は思っていた。思い出すのは東京にある祖父母の家だ。週末になると畑仕事を手伝わされ、そのたびに全身汗だくで薬臭い茶を啜る羽目になっていた。
「真珠岩……って、何かこう、植物に良いものなんですか」
「土壌を改良する効果があるのだ。保水性を高めて、断熱性も生まれる。昔ながらの園芸用土というわけでもないが、新しいものでも良いものは使わなければな」
「なるほど……いや、あたしガーデニングの知識は小学校の理科で止まってるんで、あんまりよく解らないんですけど」
 少女はばつが悪そうに言う。「危険動植物管理課」なぞという場所に配属され、仮にも植物園に関わっているというのに、今のところ自分が実らせたことのあるものはポット栽培のミニトマトぐらいなものだ。

「そういえば、昨日君あてに荷物が届いていたぞ、リコ」
「荷物?」
「好きなのかね、ミルヒライスが」
 上司である男性の口から飛び出した言葉に、少女はやや返答に迷った。荷物の中身はドイツで一般に売られている米だった。キロ単位で買い込み宅配を頼んだものだ。
「いや、……確かにまあ、ドイツの人はそれこそ普通お米を『ミルヒライス』って呼ぶぐらいですし、そういう、ミルクのお粥にして食べることが多いんでしょうけど、あたしはそういうのは好きじゃなくて。ただ、ミルヒライス用のお米は日本のお米にかなり近いんで、タイ米とかを炊くよりはずっと美味しいから……」
「ああ、なるほど」 合点がいった、とばかりに男性が頷く。
「確かに、ヨーロッパで日本食が恋しくなると、中々難しいものがあるだろうな」
「そうなんです、ブラザー・ライムント。まあアジアンマルクトに行けばいいんですけど、なんか何もかも高いんで……」
 少女は言い、そして日本に暮らしているヨーロッパ人たちもまた、輸入食料品店に行くたび同じようなことを考えているのだろうな、と思った。ああいった場所に売られている「物珍しくてちょっとお高い食料品」は、実際現地に行けば驚くほど安いものだ。

「なんとも申し訳ないものだな」
 使い込まれた柄のスコップを手に取りながら、男性がしみじみと言った。
「これだけ良い土があるのだからとは思うが、残念ながらここで食べ物を栽培するわけにはいかないのだよ」
「いや、そんな」
 慌てて首を横に振り、少女もまた空の植木鉢に手を伸ばした。確かにそうだ、ここで食べ物を栽培するわけにはいかない。植物園とはいっても、「危険動植物管理課」の植物園である。自らの置かれた環境を苦々しく思い返し、彼女は黒い眼で植物園の門を振り返った。そこには素っ気ない金属細工で、このような文字が掲げられていた――「Diese Pflanzen können dich töten」、「植物たちはあなたを殺せる」。

(お題:ナウい土 必須要素:ご飯)


<泡沫なんて柄じゃない>

 失踪者のことをドイツ語では「Vermisste Person」という。行方不明者だとか家出人だとか、そのあたりも大体ひっくるめてそう呼ぶんだと思う。なにしろあたしはドイツに来てから失踪者の話をしたことがないし、この単語を使ったことだって一度もないので確かなことは言えない。
 夏、ライプツィヒの夕暮れは遅い。植物園の片隅では背の高い木や花やよくわからない草が、さかんに生い茂って西日を遮っている。空はよく熟れたほおずきみたいな色をしている、という喩えは普通のドイツ人には伝わらないかもしれないけれど、この場所に出入りする一部の奇特な人間になら問題なく理解できるだろう。有毒なものは大体みんなここに植わっているからだ。

 あたしは分厚い手袋をはめたまま、色とりどりのノウゼンカズラが咲く小道を歩く。生け垣にいくつも朱色の花が絡んで、甘い蜜を滴らせている。汁が目に入ると見えなくなるから注意しなさいと、昔おばあちゃんに言われたことを思い出した。ここだけじゃない、あちらにもこちらにも、あたしたち人間が手をかけてやらなきゃならない植物が残っている。人間にとって危険なものばかりなのに、こうして大事にしてやる必要があるのはなんだか変な話だ――でも、誰もそれを大事にせず、研究もしないということは、人間にとって危険な人間を野放しにしておくのと同じようなものなんだろう。
 涼しい風が吹いてくる。日が落ちるまでには戻って報告を終えないと、ドイツの未成年者保護法とかなんとかに違反して、あたしの上司であるところのブラザー・ライムントが怒られてしまう。ところが、戻ると強制的にあの、ライプツィヒ一番の危険動植物こと名前を呼ぶのも嫌になるあいつと顔を合わせることになる。同じ職場に一番頼りになる人と一番嫌いなやつが一緒にいるのは、まったく大変なことだ。日本の学校も同じようなものだけれど。

「もうちょっと時間潰してちゃ駄目かなあ」
 あんまり遅くなるとお家の人が心配する。――五年ぐらい前なら私も誰かから言われた台詞だ。今になって自分で思うことになるとは。ライプツィヒの街中で誰かが失踪した場合、それはもしかしたら誘拐されたのかもしれないし、殺されたのかもしれないし、古い建物の地下が崩れて生き埋めになったのかもしれない。あたしがここから戻ってこなかった場合、それはたまたまノウゼンカズラの汁が目に入ったのか、トリカブトの根っこを触った後で手を洗わないままおやつを食べてしまったか、「保護」の呪文をかけていない手でギンピー・ギンピーの葉を触ってしまって痛みにのたうち回っているか、そんな感じで捉えられることだろう。人前からきれいに消えてなくなるのは難しい。それこそ魔法でも使わない限りは。
 現代だからいけないのだろうか。百年前ならもう少し楽にいなくなれただろうか。ネットもなければスマホもないし、町中に監視カメラが置いてあったりもしないだろうから。――でも、そうしていなくなった後、きれいにまた戻ってくるのが難しくなるな。あたしが失踪したくなる時というのは、本当にこの世から消えてなくなりたい時じゃなく、ちょっとの間物事を投げ出して何も考えずにいたいってだけだ。戻ってこれないのは困る。

 ライプツィヒの夏は涼しいけれど、庭仕事をしているとさすがに喉が乾く。やっぱりそろそろ帰るべきだろう。あたしはウエストポーチに入ったままのペットボトルを恨みがましく見た。なんだってあたしはまた間違えて炭酸水を買ってしまったんだろう?

(お題:ドイツ式の失踪 必須要素:ペットボトル)


<「国を挙げてリサイクルに積極的なので」>

 ドイツの食べ物といえば? ――ソーセージ、キャベツ、ジャガイモ、バウムクーヘン、ビール。
 母方のおじいちゃんがドイツ人、というあたしでさえもこのステレオタイプからは逃げられなかった。実際おじいちゃんはソーセージをよく食べていたし、キャベツの古漬けも大好物だったし、お土産にはバウムクーヘンを持ってきてくれたし、大酒飲みだった。実際に東ドイツの奥まったあたりへ留学して知ったことだが、ドイツ人にとってバウムクーヘンはそんなに日常的なものじゃない。おじいちゃんは単に、日本の子供であるあたしに配慮してくれただけだったのだろう。

 けれどもソーセージとキャベツとジャガイモについてはそこまで誤解じゃない。土曜の朝、寮のキッチンで冷蔵庫を開けた瞬間に、あたしの口からはげんなりした溜息が漏れた。瓶詰めいっぱいのザワークラウトに、タッパーいっぱいの茹でたソーセージ。全て昨夜の残り物だ。ライプツィヒの中心部のほうに住んでいる職場の先輩が、「ここの肉屋のヴルストはおいしいから」とお裾分けしてくれたのだった。休日を前にしてテンションの上がったあたしは、このハーブの風味がきいた田舎風ソーセージをみんな茹でてしまい、思う存分食べた。そして早速後悔した。四本ぐらいですっかりお腹が膨れてしまった上に、翌朝になって見たものがこれだ。

 茹でたてのときはあんなにつやつや、つるりと膨れていかにも肉汁たっぷりに見えたソーセージも、一晩経ってしまえば色あせて、皺が寄って、お世辞にも美味しそうには見えない。ジューシーさも大分と失われてしまっているだろう。そりゃあフライパンで炙り直せば多少は復活するだろうけれど、これにたっぷりのザワークラウトと、そんなに辛くない「辛口」のマスタードを付けて早めのお昼ごはんなんて、あんまりにもあんまりな仕打ちだ。あたしにとっても、ソーセージにとっても。
 もっと自分の胃袋の許容量を考えるんだった。ビールを呑んでるわけでもないのに調子に乗りすぎた。そういえばあたしは今十六歳になったばかりで、ドイツの法律上はもうレストランでビールを頼んでもいい年齢なのだった――帰国したとたんに逮捕されたくないから、今の今まで過ちは犯していないと断言するけれども。

 とはいえ、この悲しい食べ物を粗末にするわけにはいかない。小さい頃からお米一粒には八十八人の神様がいるとかなんとか、数々の教えを(主におばあちゃんから)受けてきたこのあたしは、たとえ今ここに咎める人など誰もいないと解っていても、冷え切った土気色の腸詰め肉を生ゴミにすることなどできはしない。いや、あたしのみならず一般の人はそうだと信じたい。
 あたしはシンクの下から包丁とまな板を取り出し、ソーセージを適当な厚みで輪切りにした。野菜室でちょっとしなびていた玉ねぎと、半端に余っていたパプリカ、みずみずしさが完全に抜けきったニンニク、それに干からびる寸前のクレソンも取り出した。全部まとめてみじん切りにし、バターを引いたフライパンに放り込んだ。

 マイペースでずぼらなお母さんは料理が苦手で、この手のことはだいたいみんなおじいちゃんから教わったように思う。おじいちゃんは例えば、漬かりすぎて酸味のきつくなったザワークラウトを、美味しいスープにする方法をよく知っていた。一時のテンションでソーセージを茹ですぎた経験があるかは解らないけれど、床下でキャベツを漬けたきり存在を忘れ去った経験ならきっと何度もあるんだろう。あたしはすっかり炒め上げた残り物の残骸に、本来ミルク粥になることを想定されている米を入れ、水とコンソメの素を注いで蓋を閉めた。こうしておけば、なんとかピラフであると言っても差し支えのない料理ができあがるだろう。
 そういえばドイツ人は、昼食にしか温かいものを食べない。少なくとも伝統的には。でも皆が皆昼間っからアイスバインだとか、シュニッツェルだとか、ジャーマンポテトもといブラートカルトッフェルンなんかを食べているわけじゃない。近所の屋台でドネルケバブを立ち食いしたり、明らかに茹ですぎのパスタをイタリア料理店からテイクアウトしたりするのだ。五年前のあたしに伝えたら、それのどこがドイツ人のお昼ごはんなのかと言うだろうけれど、日本人だって三日間にわたって作りすぎたカレーを食べてたりするのだから、結局そんなものなのだ。

(お題:昨日のつるつる 必須要素:ソーセージ)


<愛と憎しみのマルシュシュティーフェル>

 小さいころ、ブーツに憧れていた。子供の履く靴といったら学校のための白い運動靴か上靴。大人が履く靴はお父さんが会社に行くときの革靴。お母さんがたまに履くようなハイヒールはちょっといい靴で、そして一番いいのはブーツだと固く信じていた。
 母方のおじいちゃんの家に行くと、たまに玄関先へ黒光りする革のロングブーツが出してあった。あたしは目をきらきらさせながら見たものだ。これは一体どんなときに履く靴なのだろう。やっぱりどこか遠くの、ドイツの靴なんだろうかと。
 あたしの想像は正解だった。おじいちゃんは若いころ空軍にいて、パイロットにはなれなかったけれど地上でちょっと良い役についていた。その、ちょっといい階級の人が履くブーツだったのだ。

 今、あたしにとってブーツは別に特別なものじゃない。ショートブーツもロングブーツも持ってるし、ライプツィヒにも何足か持ってきている。おじいちゃんが昔履いていただろう、あの黒革のロングブーツは――実際のところ毎日のように見る。空軍の将校用ブーツと全く同じものではないだろうけれど、それを職場に履いてくるような時代倒錯したやつがいるからだ。もちろんあたしたちの仕事は空軍の兵士ではなく、植物園の下働きみたいなものである。

 靴墨とブラシで丁寧に磨き上げられ、顔が映りそうなぐらいぴかぴかに艶の出た、膝下まであるブーツ。飾り気は一切なし。履くのも脱ぐのもとても面倒臭そうだ。臭そうといえば間違いなく臭そうだ。真夏にこれを履いている人間を見ると、どうしても想像してしまう。
「あんたさあ、」
 あたしは視線を上げて持ち主を確認する。金髪はオールバック、ジャケットは襟付きの黒、深緑のネクタイにはわざわざピン留めまでしてある。胸にはハンカチ(いや、ポケットチーフっていうんだっけ?)に、カラーの花のコサージュ。仕事がはけたらパーティーにでも行く気か? いいや、平日だろうが休日だろうがいつもこれだ。
「なんで年中履いてんの、そのどう見ても通気性クソなブーツ」
「どうして、というのは?」
 金色の眉はぴくりとも動かない。青い目はあたしを見ているけれど、あたしがどういう意図で聞いたのかまでは見ようともしていない。小首をかしげる仕草も声の気取ったかんじも、あまりに完璧すぎて却って作り物みたいだ。
「庭の手入れに履く靴じゃないじゃん」
「そうかもしれないけれど、私はこれが気に入っているのだよ」
 口の端がほんの少しだけ上がって、「私は今笑っています」と説明するような笑顔が出来上がる。どうにもこうにもいらつく顔だ。こんな顔で笑うやつは二次元にだけいればいい。

 あたしはそのブーツを、ドイツ人の脹脛にぴったり合うように作られた黒革のブーツを見た。確かにおじいちゃんが履いていたものとよく似ている。おじいちゃんの靴は――正直に言うと臭かった。
 こいつの靴はどうか。実は前に、こいつが靴を脱いで置いているのを見たことがある。珍しいと思って近寄った瞬間、中から毒々しいオレンジ色の蛇が這い出してきたので、あたしはもう少しで抱えていた植木鉢を放り出すところだった。ここには植物も動物も、人間にとって危険なものしかいない。毒蛇かもしれない! 幸いその蛇は毒蛇でもなんでもなく、隣の魔法生物課から迷い込んできた使い魔の蛇だった。
 蛇は目があまり良くないかわりに、臭いをかぎわける力がとても高いらしい。そんな蛇が潜り込んでいくぐらいだから、あいつの靴は少なくとも人間の臭いはしないんだろう。やっぱりあいつは何か、人形か幽霊みたいなものなんじゃないだろうか。あたしという普通の人間は夏になるたび、汗の臭いやニキビと全力で戦わなければいけないのに、この世の人間味には偏りがありすぎる。

(お題:どこかの靴 必須要素:ニキビ)

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