<今度という今度は>

「やめてくれ、マンフレート」 男性は耳を疑った。 「今週の日曜日だって?」
 このいかにも人の良さそうな、多少着崩したスーツ姿の中年男性は、ライプツィヒでも悪名高い危険動植物管理課の、課長代理という役にある人物だった。本来の課長はベルリンに出向したきり諸般の事情で戻ってこない。だから彼には留守を任された身として、平穏無事な職務遂行と職場の保守管理という重大な責務があるのだった。にも関わらず、ほんの安易な動機からそれを脅かす者がいる。他ならぬ、彼の真正面に座っている一人の青年だった。
「どうしたのだい、ライニ、そんなコバルトブルー・タランチュラに噛まれたような顔をして」
 金の撫で付け髪にアイスブルーの瞳、黒い襟付きのジャケット、艶のある素材のタイには銀のピンを留め、胸元には真っ赤なケシの花のコサージュを挿している。見た目に今から結婚披露宴にでも出掛けるのかという格好だが、そうではなかった。彼はこれから植物園に出向き、庭仕事をしようというのである。この服装で。
「日曜日だよ、とうとう我が危険動植物管理課にやって来るんだ――ヘアリー・ブッシュバイパーが! あの美しい鱗と緑色の瞳がついに私のものになるのだよ! この日をどれだけ夢見たことだろう。ああ、燃え盛るようなオレンジのグラデーション、毛羽立つような艶のある膚、私はあれこそ――」
「やめてくれ」 繰り返す男性の表情は暗い。 「いいかねマンフレート、不相応だ」

 危険動植物管理課、という名の部署であるからには、無論彼らの管轄内には多くの生物が管理されている。そのどれもが有毒であったり、幻覚作用があったり、鋭い牙や爪を持っていたりと、ことごとく人間に対して危険な存在である。それでも「管理」はできていた。大部分は植物であるから、いざという時には対抗手段が数あるし、生物にしても大半は大人しい昆虫や両生類がメインであった。動物に関しては生きたものより剥製のほうが多いぐらいだ。
 だが、今回は――Atheris hispida、クサリヘビの一種、ヘアリー・ブッシュバイパー。名の通りまるで羽毛でも生えているかのような、逆立った鱗が特徴の毒蛇である。神経毒と出血毒を持ち、噛まれれば血圧の低下や多臓器不全を招き、やがては死に至ることだろう。今まででも屈指の「大物」であることは間違いない。
「そんなに浮かない顔をしないでおくれよ。確かに随分と扱いづらい生物かもしれないけれど、永久に飼い続けるわけではないじゃあないか。ほんの一ヶ月面倒を見るだけさ。そして、私には爬虫類を飼育する十分な心得がある。好事家といえど、これに関しては安心してくれていい」
 鷹揚に頷く青年の白い顎は、不気味なまでに均整の取れた形だ。どこか人間というよりも人形のような、作り物じみて美しい造形が、かえって男性に不安を抱かせた。
 それにしても、蛇! 実のところ彼はこんな部署に所属してはいるが、生物学が専門というわけではない。件の課長とたまたま親しく、ただ彼の留守中に面倒を請け負ってあげようという、純粋な良心からこの部署を引き継いだのである。別に爬虫類やその他の生物の愛好家ではないし、まして有毒生物に心からの尊敬を持っているかといえば答えは否だ。

「ねえライニ、当日は必ずカメラを持ってきてくれるね。君はあの質の良い、何か――何というのだったか忘れたけれど、日本のメーカーのものを持っていただろう。記念撮影をしなければね。ポーズはどうしよう? 手袋を嵌めて、こうして肩から腕に――」
「マンフレート」
 最新のおもちゃを買ってもらうのが待ち切れない、誕生日を前にした子供のような青年の面差しを、彼はただ暗澹として見つめた。自分は耐えきれるだろうか、その美しくも恐ろしい蛇との一ヶ月の同居に。コバルトブルー・タランチュラに噛まれたことはあるが、それ以上の苦痛を受けはしないだろうか。あれだって死ぬほど痛かったのに。

(お題:今度の衝撃 必須要素:日本人使用不可)


<雨上がりのラッパ吹き>

 夕立が上がって、ライプツィヒの空は一面オレンジから赤紫への見事なグラデーション。七月も半ばだというのに気温が20℃を割っているあたり、ドイツはやっぱり北国なのだった。東京じゃ今頃梅雨明けするかしないかという頃、毎日のように天気予報で猛暑日がどうのこうの言われていることだろう。
 あたしは植物園の門の前に立ち、重たい閂を外して中に入った。「植物たちはあなたを殺せる」と(もちろんドイツ語で)掲げられた、この寒々しい面構えは「危険動植物管理課」の所有地であるせいだ。危険動植物、というからにはもちろん危険な植物しか植わっていないわけで、毎日の世話にはいろいろな意味で気をつけなければならない。
 これだけ雨が降ったなら、水やりについては屋外の植物には必要なし。西日が照らし出す生け垣の道を歩いてゆくと、やがてあたしは鼻をくすぐる匂いに気が付いた。夏の雨上がりによくある、むっとした水の匂いとは違う。噎せ返るように甘く柔らかな香りに、立ち止まって見回せばわかる。

 見上げれば、黄色い筒状の鼻。ちょうどカボチャの花はこんな形をしていなかったっけー―と思うけれど、まさかこんなところにカボチャが植えてあるわけもないし、それよりもっと細長い気もする。ラッパみたいな形だ。背が高く、花はあたしの目線よりも少し上あたりに垂れ下がっていて、目を上げると中の雄しべや雌しべが覗き込める。花びらの端に乗った雨露が、今にも滴り落ちてきそうだ。
「なんだっけ、この花」
 あたしだって不本意とはいえ危険動植物管理課の一員なので、この花についてはどこかでちゃんと説明書きを読んだはずだ。というより、花の足元にちゃんと立て札が立っているので、これを読みさえすればいいことだ。あたしは札の上に屈み込もうとした。

 けれど、それより先にさっと視界が遮られた。誰かの手だ。思わずあたしは考えつく限りのありとあらゆる可能性――の中でも最悪のもの、つまりこの植物園に悪意のある部外者が忍び込んでいて、ここに植わっている中でも色々と需要の高そうな植物を盗み出そうとしていたのでは、というものに思い至った。なにしろここにはケシもアサもコカの木も生えている。そりゃあ人によっては喉から手が出るほど欲しいものだ。そうだとしたら最悪だし、そうでなくてもいきなり人の背後から手を回して目隠しをしてくる奴なんか善人であるはずがないので、あたしはこういう場合に真っ先に取るべき手段を取った。
「ちょっと!」
 叫んだとたん、手はたちまちあたしの目の前からどいた。あたしはすぐさま体ごと振り返って、誰の手だったのかを確認した。確認して、心底げんなりした。
「あんたね、」
「そう怖い顔をしないでくれたまえよ、フロイライン――もとい、リコ」
 人を人とも思っていないような薄笑いの顔が、あたしの視界に飛び込んでくる。だいたい百年ぐらいは時代を間違えている、この金髪オールバックと古典的すぎる紳士服の男は、名前をマンフレート・アルノーといい、危険動植物管理課で一番の危険動植物だった。つまりはあたしの敵だ。
「なに考えてんの、いきなり人の後ろから、手を、……今度やったら監察局に言ってやるから、部署内でセクハラがあったって」
「おや、心外だな。私は君のためを思ってこうしたというのに」
「何がどうあたしのために――」
「だって、目に入ってしまっては大変なことになるかもしれないよ」
 顔だけ見れば一応大学生ぐらいに思えなくもないそいつは、黄色い花の群れを顎でしゃくって言った。
「知っているかい、この花がなんと呼ばれているのか」

 それこそあたしが調べようとしていたことじゃないか。邪魔をしたのはあんたのほうだ。あたしは自分が怒っていることを知らしめるように舌打ちをして、今度こそ案内板に目を落とす。学名はBrugmansia、ドイツで一般的に呼ばれている名は――
「エンゲルストロンペーテン」
 Engelstrompeten、そう書かれているとおりをあたしは読み上げた。 「天使のラッパ?」

 どこかで聞き覚えのある名前だった。エンゲルストロンペーテン、エンジェルズ・トランペット。そうだ、日本でも庭木として売られたりしている。確かに花の形はラッパに似ているし、とても良い香りがする。天使のイメージは間違いじゃない。けれど。
「そう、天使のラッパ。花の形から連想されていることは間違いないだろうね。けれど、全体に有毒成分が――とりわけ幻覚作用のあるものが含まれた、間違いのない毒草なのだよ」
 奴は言って、花の房にそっと手を伸ばし、顔を上げて鼻を僅かに動かした。その香水みたいな匂いを嗅いでいるのだろう。青い目が細くなり、やがて閉じた。まるで夢でも見ているみたいに。
「しずくが目に落ちれば瞳孔が開いて、世界がさぞ眩しく見えることだろうね。実をひとつ齧ればたちまち正気を失う。この木の下で昼寝をしていた少年が、匂いにあてられて昏倒したなんて話もあるし、もしかすると――そのまま永遠の眠りに就くことだってできるかも」
 あたしは何を言い返せばいいのか解らず、まごついて黙った。もちろんこいつの悪口ならいくらでも思いつくけれど、花についてのコメントが出ない。
「……というのは冗談だよ、リコ、そう深刻な顔をしてどうしたのだい。まあ、近付きすぎないに越したことはないかもしれないけれどね。天使の吹き鳴らすラッパは危険さ。聖書を紐解くまでもなく」

(お題:ドイツ式の天使)


<忘れてしまえよ怠惰の淵で>

 燦々と注ぐ真昼の光を透かして、薄紙のような朱色の花は燃え立つように鮮やかだった。
 危険動植物管理課が所有する植物園の、門から最も遠く離れた位置にその花畑はある。ただでさえ物々しい鉄柵に囲まれているこの庭でも、さらに厳重に金網が張られ、二重に錠前まで付けられている区画では、無数の花々が初夏の爽やかな風にそよいでいた。ケシの花だ――それもヒナゲシではなく、アヘンの元になる正真正銘のケシである。
 その鮮やかな花弁の群れの中に、折り畳み式の椅子が一脚置かれてあった。当たり前だが普段そこにはないものだ。椅子には一人の青年が身体を預け、アイスブルーの目でぼんやりと空を見上げていた。

「マンフレート、もう昼休みは終わっているぞ」
 青年の上司であり、年嵩の友人でもある中年男性は、その怠惰そうな姿を見て溜息をついた。いつまでたっても執務室に戻ってこないから、よもやと思って探しに行けばこの有様である。
「なんだい、ライニ」
 気疎げな声がまず返り、続いて青い瞳が視線をつと知己の姿に向ける。
「君が来てくれたのは嬉しいのだけれど、私はいまとても機嫌が悪いのだよ」
「そうだな、いかにも機嫌が悪そうだ。もう今日はどんな仕事だってしてやるものかという顔をしている。一体何があったのだね?」
 友の問いかけに、マンフレートと呼ばれた青年は眉ひとつ動かさず、花の群れに革手袋を嵌めた手を伸ばした。指先が華奢な花弁をかすめる。
「午前中に私が新しい標本を持ち込んだのは知っているね。ベルリン支部で死蔵されていたのを借り受けてきたんだ。それはそれは美しいスローロリスの剥製さ」
「知っているとも。君が幾ら費やしたのかは聞かないでおくがな。……それで?」
「私が執務室に一人でいるときに、そう、ちょうど君が役所へ出かけている間に、監察局からブラザー・ハインリヒが来たのだよ。そういった品に予算を使うのは魔術師協会のなんとかいう規則にそぐわないらしい」
 極めて厳格で規律正しい、監察局の首席監察官殿の名を挙げて、青年はいかにも不服そうな表情を作った。すっかり拗ねてしまった子供のようだった。
「それで、彼はなんと言った?」
「『元あった場所に返してきなさい』って」
 男性は思わず吹き出しかけ、慌てて咳払いで誤魔化した。捨て犬を拾ってくる子供じゃあるまいし――否、考えてみれば捨て犬でも拾ってくるような感覚で、この青年は世にも奇妙な生物、それも人間に対して有害なものばかりを蒐集しているわけだ。「学術研究」という崇高な名目のもとに。そう考えれば監察局のお歴々が頭を悩ませるのは当然のことである。彼らはいつだって、ライプツィヒ支部に所属する魔術師たちが、己の研究のためあらゆるリソースを浪費することについて小言を述べている。

「それで、君は午後をふてくされて過ごすためにここに居るわけか」
 彼は納得した。確かにこの場所なら誰にも邪魔されない。栽培するのに許可の要るケシは、こうして厳重に管理されなくてはならない。鍵を持っているのは危険動植物管理課の所属者わずか三名だけだ。
「まあ、残念だが次を期待するといい。次があるかは解らないが」
「君は私にそんな言葉しか掛けてくれないのかい? わざわざ探しにきておいて?」
 子供じみた青年の態度に、彼は苦笑した。どんな慰めが必要だというのか。ケシの花言葉だけでは不十分なのだろうか。

(お題:昼の慰め 必須要素:1000字以上)


<紙面上の胡蝶(あるいは若い芸術家の展翅)>

 ランプの光に照らされて、毒蝶の翅は琥珀色にきらめく。その斑紋は当惑した表情を浮かべているようだった。――二つの青い眼が視線をしっかりと据え、神妙に観察を続けている。
「そろそろやめにしないか、マンフレート」
 さらに背後から見守っていた、人の良さそうな中年の魔術師は、間もなく日付も変わろうという状況を鑑みて声を掛けたのだが、観察者のほうは反応しなかった。鼻筋のすっきりと通った横顔は、いつもの勿体ぶって貴族めかした様子と全く異なっていた。

 一体何故こんなことになったのやら、恐らくは終業後にいくらかの(あるいは、ドイツ国外の人々を基準にすれば「かなりの回数の」)乾杯を経たせいだとは思うのだが、危険動植物管理課の執務室では標本のスケッチ大会の真っ最中だった。参加者は一名。この金髪で碧眼の、「ドイツ人」という古典的なステレオタイプに美しく合致した青年のみが、色鉛筆とスケッチブックを片手にアサギマダラやらツマグロヒョウモンやらの写生を続けていた。
 そして審査員もまた一名で、つまり中年魔術師がそれなのだが、――彼は内心失礼だと思いながらも、青年の絵に対して厳しい評価を下していた。口には出せない感想は一つだ。君に絵心はないのだな、マンフレート?

「ああ、――どうしてだろう。私だって兄さんの弟なのにな」
 それからさらに数十分の間を置いて、青年はようやっとスケッチブックを投げ出し、赤い鉛筆で大きくバツ印を描いた。とうとう己の芸術的才能について認める気になったらしい。
「君の兄上は画家志望だったな。まあ、兄弟で得意分野に差が出るのは珍しいことではない」
「画家だったんだよ」 青年がすぐさま訂正した。 「兄さんは」
 失礼、と魔術師は手短な謝罪をした。青年の眼があまりにも据わっていたからだ。それはアルコールのせいでもあり、また返答の内容そのもののせいでもあった。
「私がルーブル美術館の画集で一番の美女を探している間に、兄さんは何枚も絵を描いていたのだからね、そりゃあ私よりずっと上手だったのはおかしな話ではないさ。彼は、――素晴らしい画家だったと確信しているけれど」
 青年の白い指が鉛筆を離し、卓上に置かれてあったカットグラスに伸びた。中には溶けかかった氷と、それによって薄められたウイスキーが、冷たい暖色の光を放っている。
「ああ、」 青年はまた嘆息した。 「どうして兄さんの絵はルーブルに飾られていないのだろう」
「ルーブル美術館は現代アートのための場所ではないからだろう」
 年嵩の友は返答に詰まり、とりあえず事実だけを述べることしかできなかった。
「知っているよ、ライニ。そうだね、でも、でも、」
 芳しい香りの芳しくない溜息が、言葉をひと区切りした。
「それでもせめてポンピドゥー・センターか、市立近代美術館ぐらいには飾られてたかもしれないじゃないか。もしも兄さんがもっと絵を描き続けていたら。そうしたら、そのうちルーブルの企画展で、ほんのすこし現代アートを特集するようになった時に、一枚ぐらいは仲間に入れてもらえたかもしれない」

 魔術師は黙って、赤い大きな交差線を見つめた。平面上の毒蝶は決して羽ばたくことも、捕食者に対してその害を成すこともない。そもそも青年の画力では、生きているようになど見えるはずもなかった。
「ああ、どうして生きるのをやめてしまったのだろう、兄さんは。きっと美しい絵を描きすぎるものだから、飛ばせておくよりピンで留めておくほうがいいと誰かが思ったんだろうな、この蝶みたいに」
 青年が立ち上がった。 「ねえライニ、焼却炉は何処にあるのだっけ?」

(お題:夜の駄作 必須要素:バツ印)

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