<がんばってみてよ少しだけ>

 世界魔術師協会ライプツィヒ支部では、職員出席の会合や講義が長引いた折、弁当が配られることがある。
 弁当といってもそれは、プラスチックの使い捨て容器にパンとバター、既にドレッシングの掛かったサラダ、「メインディッシュ」と呼んでも辛うじて罰されることはないかもしれないソーセージ等を雑多に包んだものだ。それでも無料で配布されるということより有難いことはない。支部の建物からライプツィヒ市街まで出ていく時間も取らずに済む。
 今日は各部署から代表者二名を集め――留学生以外の所属人員が二名しかいない我が部署としては実質全員である――支部運営の今後についてを論ずる、意見聴取会のようなものが開催されていた。といっても、一般的なライプツィヒ支部の魔術師たちは、我々すなわち生物管理部危険動植物管理課の意見など聴取する気は端から無いだろう。あらゆる部署の中で最も支部に貢献していないとみなされている我々は、実際のところ本当にあまり支部に貢献していない。私は課長として魔術師として日々奉仕の心を磨いているつもりだが、問題は同僚である。

「ねえライニ、もう食べ終わったかい?」
 昼休みとなり閑散とした会議室で、隣りに座っていた青年が私に囁きかける。艶やかな金髪を後ろに撫で付けた、見た目に二十歳そこらの若者だ。黒の襟付きジャケットを着て、胸には青いアネモネのコサージュまで挿している。
「私はもう済んだが、どうしたね、マンフレート」
 見れば、彼の手元にはまだ配られた弁当が残っていた――それも些か偏った形で。彼はバター付きの黒パンやソーセージはとうに平らげていたし、サラダの構成物のうちキャベツとトウモロコシとニンジンも胃袋に収めていた。が、しかし。
「……どうしてセロリだけが残っているのかね?」
「嫌いなんだ」 低く拗ねたような声で彼は答える。 「私はセロリが嫌いなのだよ」

 私は目を瞬いた。セロリが嫌いだとは初耳だ。
 マヨネーズ仕立てのドレッシングの中、ざく切りにされたセロリの茎は物悲しげに浸っている。その哀れな野菜たちをプラスチックのフォークで突き回しながら、マンフレートは短い溜息をついた。かと思うと、青い目をちらちらこちらへ向け、何か言いたげに視線を彷徨わせる。
「念を押しておくが」
 彼が何を言わんとしているのかについては大方察しがついたので、私は先手を打つことにした。
「私は君に代わって食べてやりはしないからな」
 途端、美しく整った彼の顔立ちは、母親から叱られた子供の如くに歪んだ。どうやら図星であったらしい。
「でも、嫌いなものは食べたくないのだよ、ライニ。セロリは美味しくないもの」
「だが君は何も、セロリに対して食品アレルギーを持っているわけではないだろう。それならば食べるべきだ、特にもう口を付けてしまったものは」
「セロリには口を付けていないよ」
「だが、口を付けたフォークで触ってはいるだろう」
 表情も子供なら、食べたくないことに対する言い訳もまた子供のようだ。彼はしばしば食べることに対して(ドイツ人には珍しく)異常な拘りの数々を披露するが、まさか「セロリを食べたくない」ということでここまで手こずらされるとは思わなかった。

「……セロリにはフラノクマリンという、光に反応して毒性を発揮する成分が含まれていてね、敏感な人は食べた後太陽に当たると皮膚炎を起こすのだよ」
「食べすぎれば、という話だろう」
「それに薬物相互作用もあって、高血圧治療薬なんかと一緒に摂取すると、薬が効きすぎることが――」
 この期に及んで言い訳をしたがる姿に、私は少し呆れた。この物言いを受け入れるなら、ライムやグレープフルーツやベルガモットも食べられないということになる。そもそも彼が敏感肌だとか高血圧だなど聞いた覚えがない。
「大体ライニ、おかしいとは思わないかい、こんな――言ってみれば食堂で作りすぎたメニューの残りを詰め合わせたようなものを、ただで配って有難がられようだなんて。そりゃあリコが持ち込むような、日本の『ベントウ』ほど彩り豊かで凝ったものをくれだなんてとても言わないけれど」
 コミスブロートと豆の缶詰の配給よりましだからね、と彼は言い、その響きに私は過日を思い出して少しばかり返答に詰まった。が、結局はそれもただの言い訳である。
「そうだ、日本の弁当といえばね、知っているかい? 日本人はしばしば同じ皿に別々の食事を盛るけれど、その仕切りに植物の葉を使うというんだ。『バラン』と言ったかな。ヨーロッパでいう葉蘭のことだそうだけれど……」
「マンフレート」
 彼はとうとう、いつ仕入れたのかも解らない日本の食文化についての知識を披露し始めた。完全に話を逸らしにかかっている。
「好き嫌いは克服しなければならないぞ。まだ味覚に変化の生じる余地があるうちに。それこそ――リコを見習いなさい。彼女は食べ物に関して好き嫌いはないだろう」
「嫌いなものを克服する、か」
 青い目が一瞬、恨みがましそうに私を見た。 「それならリコは私を克服すべきなんじゃあないのかい」
「何を言っているんだ君は――」
「もちろん私はそんなこと、彼女に要求したりはしないさ。彼女が私を嫌いなら、別に無理をして私と仲良くする必要なんてない。私と交友を持たなくたって死ぬわけじゃあないし。そうだろう?」
「それはまあ、そうだが」
「で、人間関係と野菜の好き嫌いとに一体何の違いがあるというんだい。人間はセロリを食べなければ死ぬわけじゃあないんだ。君だってニンニクとトウガラシは苦手なのだろう。互いの人格を尊重し合うのが良い大人さ」
 強情もここまで来ると一種の才能である。私は嘆息して壁の時計を見上げた。昼休みもそろそろ終わりだ。

(お題:僕の克服 必須要素:バラン)


<女王の復讐(ホワイトチョコレート風味)>

「ピスタチオといえば、むかし日本でも大変なことになったそうだね」
 銀のフォークが白磁の器と触れ合う、ちりんと涼しげな音に続いて、どうにも耳障りな声があたしの鼓膜を打った。土曜日午後2時の「カフェ・アリバイ」という、混雑のど真ん中みたいな場所にあっても、それはやたらに正確に人の耳を捉えるのだった。
 少なくともあたしは――そして世界魔術師協会ライプツィヒ支部の人々はみな、こいつの声を聞いているとどうにもむかっ腹が立って仕方がないと考えている。金髪を19世紀のヨーロッパ貴族みたいなオールバックに整えて、近所のカフェに来るには華やかすぎる黒い襟付きジャケットを着た、顔面だけなら大学生に見えなくもない男の声を。
 ところが世間様はそうではないようで、きのうベルリン支部から来た若いウィザードの女の人は、廊下でこいつがすれ違いざま「御機嫌よう」と口にしただけで、白い頬を真っ赤にしてうつむいていた。あの人は酔っ払っていたのか、そうでなければ生まれてから今まで男性と会話する機会が一切なかったのだと信じたいところだ。

「……なんの話?」
「アフラトキシンだよ。君たち日本人は中東から多くナッツ類を輸入しているけれど、そのうちイラン産のピスタチオから、発ガン性の物質が検出されたというのさ。確か今世紀の初頭ごろだったかな?」
「あたしが生まれてるか生まれてないかって頃の話なんかされてもね」
 このあいだ16歳になったばかり、正真正銘の21世紀生まれであるところのあたしにとって、今世紀初頭の話なんて覚えがあるはずもない。だいたい、人がピスタチオのアイスクリームを食べているときにする話じゃないだろう。
「マンフレート、彼女の食べているものをよく見て話題を選んだらどうだね」
 案の定、あたしたちの上司であり、あたしたちの部署――生物管理部危険動植物管理課の課長(代理だけど)であるブラザー・ライムントが、渋い顔をしてたしなめてくる。けれども奴はどこ吹く風で、青い目を細めて薄ら笑いを浮かべながら、「だから何か」とばかりに話を続けるのだ。
「だから、ピスタチオの話でしょう? ブラザー・ライムント。実にタイミングの良い話題だと考えたのですが」
「君は例えば、これからバカンスでオーストラリアに一ヶ月滞在しようという者を相手に、グレート・バリア・リーフに生息する毒クラゲや海蛇の話をするのかね?」
 ブラザー・ライムントは言ったものの、すぐに「しまった」というような顔になった。たぶん気が付いたんだろう。このマンフレート・アルノーという時代倒錯した格好の男は、間違いなく、そういう相手にそういう話をする人間なのだということを。

「私はただ、過去に起きた実際の事例について挙げているだけです。過去に学ぶのは人間の営みに欠かせないことですからね、ブラザー。恐らくこのカフェハウスでは、安全性に十分配慮して使用するナッツ類を選んでいることでしょうし、その結果として実際このアイスクリームは素晴らしい味がするはずだ。――そうだろう、リコ?」
 奴がこちらへ露骨に目配せしてくる。あたしとしては奴の言葉に頷きひとつくれてやるのも腹立たしいぐらいなんだけれど、「カフェ・アリバイ」のピスタチオ・アイスクリーム――表面にぱりぱりしたチョコレートがトッピングされていて、ピスタチオの風味は濃厚で、もちろん舌触りもすごくいい――の味が素晴らしいのは事実だから、
「まあね」
 とだけ仕方なく言った。極力奴の顔は見ないようにした。
「それも毒物混入事件ならまだしも、アフラトキシンは自然毒だからね。カビが作る毒素なのだよ、高温多湿の条件において発生しやすい」
 熱帯から輸入されてくるナッツに付着しているのは無理からぬことだ、と奴は言う。自分のブルーベリーケーキを、勿体ぶってお上品な手つきで切り分けながら。
「高品質で知られるナッツに、生物界でも最強と目される毒性の物質が付着していたなんて、当時はさぞ世論を震撼させたのじゃあないかな。私もその頃は小さかったし、日本になんて目もくれていなかったから知らなかったけれど」
「……本当に小さかったの?」
 あたしは奴の胸元を凝視しながら言った。きっちりと締められた深緑色のタイには、銀色のピンが留められている。襟のボタンホールには、青紫色をしたコサージュまで挿してある。結婚披露宴の二次会にでも出席するような格好だ。ところがこいつにとっては普段着だ。自称の24歳も「1世紀前から24歳」なのだとしか考えられない。

「まあ、このような部署で自然の毒に携わっているとしみじみ思うが、彼らは時に我々に対して容易に牙を剥くものだ。普段は収穫され、食べられるばかりの存在が、人類に対して復讐しているのかもしれないな」
 ブラザー・ライムントがコーヒーカップを持ち上げ、静かに呟いた。なるほど、それも確かにそうかもしれない――と思いかけたのに、また奴が横から口を挟んできた。
「それは違う……違いますよ、ブラザー・ライムント。彼らは決して我々に復讐など企ててはいない」
 皿の上に転がったブルーベリーを、フォークの先で突き刺しながら、推定1世紀前の24歳は眉を上げて答える。
「もちろん、母なる大自然はいつでも慈悲深く、寛容で、人類のことを暖かく見守っているなんて考えるのはあまりに愚かだ。自然なものはすべからく我々に有益で優しいという考えもね。でも、自然は我々の傲慢を厳しく捉え、いつでも反逆の時機を伺っているというのもまた、人間の勝手な願望でしかない。可愛らしい動物の映像に可愛らしさを強調する台詞をアフレコするのと同じようなものだ。そんなもの作為だよ」
 青は青でも、穏やかな海や静かな泉ではなく、凍えるような氷河の色をした目がぱたりと閉じる。奴は一息に話し終えると、グラスに三分の一ほど残っていたアイスティーを飲み干した。
「彼らはただ自分のなすべきことを成しているだけさ。ある種のカビは栄養豊富なナッツに付着し、菌糸を伸ばし、毒素を放出している。それはたまたま人間にとってガンを誘発する物質で、だからこそ大騒ぎになった。ナッツの女王の復讐だなんて、とんでもない。彼女もさぞ迷惑していることだろうとも」

 そして瞼がふたたび開いたとき、青い目はあたしの手元にある器を向いていた。半分ほどが食べ終わり、端のあたりから溶け始めているピスタチオのアイスクリームを。
「だから私の話は何ら場にそぐわないものではないし、君は安心してそのデザートを食べて良いのだよ、リコ。ピスタチオは美味しいし体にも良い。ましてアイスクリームは最高だ。私は今回たまたまブルーベリーを選んだけれど、また別の日ならば喜んでその緑を愛でたと思うよ」
 これは弁解のつもりなんだろうか。あたしがちらりとブラザー・ライムントのほうを窺うと、彼は困ったような恥ずかしいような、なんともいえない難しい顔をしていた。あたしがここで取るべき行動は一つだと思う――マンフレート・アルノーという知識をひけらかしたがる男のことはともかく、部下におやつをおごってくれる優しい上司のために、とりあえずこのアイスクリームを完食する、だ。

(お題:強い復讐 必須要素:ピスタチオ)


<食事時の友>

「美味しいパンとハムが手に入ったから、一緒に夕食にしないか」――という親友の誘いを断る私ではなかった。業務を終えて執務室を戸締まりし、外に出ればやっと日が傾き始めたころだった。ドイツの夏は日暮れが遅い。腕時計を確認すれば、もう七時は過ぎている。
 世界魔術師ライプツィヒ支部の中庭には、今を盛りと夏の花々が華やかに咲き乱れているが、そろそろ彼ら(あるいは彼女ら)もひとときの眠りにつく頃だ。それでも夜にこそ美しい花はあるもので、恐らくはキダチチョウセンアサガオか、あるいはノウゼンカズラだろう、甘く湿り気のある香りが遠くから漂ってきていた。

 待ち合わせの場所へ行ってみると、設置されている木のベンチとテーブルには、我々の夕食がもう準備万端整っていた。魔術式のランタンが放つオレンジの灯りが、広げられたペイズリー柄の布と、その上に並べられた薄切りの黒パンを照らし出している。油紙から覗くのは美味しそうな色をした田舎風ハム、それに白磁で作られたバター入れに、フォークとナイフが一揃い。
 だが、それにも増して目を引いたのは、――テーブルの大部分を我が物顔で占領している、長方形の大きな鉢だった。大の男でも抱え上げるのに苦労しそうなそれは、多種多様な植物の寄せ植えだった。苔むした土の表面から、何本も立ち上がる筒状のもの。あるいは、朝露のようなまるい雫を無数に纏った細長いもの。ちょうど二枚貝のように、楕円形をした二枚一組の葉を広げているもの。
「やあ、ライニ。私も今しがた来たところだったのだよ」
 椅子の一つにゆったりと腰掛けて、私の顔を見上げる金髪の青年は、食卓にはあまり相応しくないこの鉢の存在を、さも当然のように考えているらしい。いちいち言及しないということは、そういうことなのだろう。
「……マンフレート、まさか君はわざわざここまで、これを運んできたというのかね?」
「そうだよ? これぐらいは『浮遊』を使えばどうということもないさ。美しい植物を眺めながら食事を取る、まさに金曜の暮れ方には相応しい贅沢じゃあないか」
「しかし、これはみな食虫植物だろう」
 口に出してみて、改めて私はこの食卓の不穏さを思い知らされた。虫がこれらの花の蜜を吸い、その花が虫を食い、それを見ながら人間が食事をする。随分と皮肉なショーではないか。

「さあ、君も席についたらどうだい。さっきも言ったけれど、このハムは本当に美味しいんだ……燻製が強めにしてあって、パンにとても合うよ」
 青年、すなわち私の友であり同僚でもあるマンフレートは、自らも黒パンにバターをたっぷり塗り付けながら私を促した。私は当惑しながらもとりあえず椅子に腰を下ろし、ナイフとパンを取ってはみたが、ハムを見るより先に植物のほうへ意識を取られてしまっていた。
 折しも、肉の匂いに惹かれてか、それとも花の蜜がお目当てなのか、一匹の小さなハエが羽音もやかましく、我々のテーブルに飛び来たった。マンフレートはさっと手を伸ばして、卓上のごちそうに布をかぶせた。ハエはしばらくその場を旋回し、やがて鉢植えの中の、あの二枚貝めいた葉に止まった。
 葉の内側は、これも肉色といえば肉色である。婦人の頬紅をさっと塗り付けたような色合いだ。この植物は正しくハエトリグサという名なのだが、しかし獲物をすぐさま捕らえはしなかった。
 ハエは暫くの間、自分の依って立つものがどれほど致命的かも知らずに、葉の内側につぶつぶと浮き上がった蜜を舐めている。だが、それから十秒と少し、もっとご馳走を集めようと身動ぎしたその瞬間に、
「――ぱちん! と、こういう訳だね、実に鮮やかだ」
 二枚の葉は目にも留まらぬ速さで閉じ、ハエの体を完全に閉じ込めてしまった。葉の縁に生える細長い毛が、あたかも牢獄の鉄格子の如くなって、虫を逃がさない。

女神のハエ取り罠ヴィーヌスフリーゲンファーレとはよく名付けたものだよ。確かにこの葉は、まるで御婦人の美しい瞼のようだ。睫毛が長くて、すれ違うものみな惹きつける力がある」
 マンフレートが再び布をどけ、ハムを二枚つまみ取って、自らのパンに挟み込んだ。そして、どこか夢見るような、彼が良くない考えに耽溺しているときに特有の目で、ご馳走にありついた恐ろしい狩人たちを見下ろした。
「考えてもみてご覧よ、ライニ。もしも自分たちがハエだったとしたら。ただこの美しい瞼に、甘い香りのする澄んだ涙にキスをしたかっただけなのに、女神の瞬きひとつで我々は破滅だ。貪欲さに満ちたこの体の中身を、すべて溶かされ吸い尽くされてしまう。何かの罰なのかな、……ウツボカズラやサラセニアの消化液と違って、死ぬにはずいぶん時間も掛かるだろうしね」
 彼は言い、作り上げたサンドイッチをひと齧りした。続いて二口、三口と食べ進める。私はといえばすっかり食欲を無くしてしまい、さりとて友人の厚意(少なくとも彼にとっては厚意だったろう)に応えないわけにもいかないので、とりあえずハムだけを一切れフォークで絡め取った。
「考えてみれば、植物たちにとって中身のほうが重要だ、なんてのは当然のことだ。彼らには目がないのだから。にも関わらず、自分自身を美しく着飾ることは忘れない。不思議なものだね、」
 サンドイッチを持っていないほうの手が動き、白い指が鉢の上を指す。
「ほら、このモウセンゴケは体じゅうに水晶の雫を纏っている。日の光に照らされればさぞ綺羅びやかに光ることだろう。太陽の露ゾンネンタウなんて名で呼ばれるのも納得だ。私はこの見た目も好きだし、もちろん彼らが虫を捕らえて食べるという逞しさも好きだ……地中に栄養が足りないなら、狩りをすればいい。植物も我々も同じ理論を用いるんだ」
 それから彼は再び、自分自身のごちそうに視線を戻した。私は先程閉じたばかりの葉に目を落とす。よく見れば、がっちりと噛み合った葉の隙間から、ハエの片方の目と前脚がはみ出し、じたばたと動いていた――牢獄の扉が再び開くのは数日後だ。そのとき中に残っているものは、ただの抜け殻だけだろう。


 それから暫く、私がこの奇妙な晩餐のことをすっかり忘れ去る頃、マンフレートがまた声を掛けてきた。一緒に夕食はどうか、と。
 不意に私の脳裏にあのテーブルが蘇り、一瞬辞退しようかと考えたが、結局は応じた。今度は食卓の上に鉢植えはなかった。ただ、枯れかかった一本の植物の茎があった。
「ハエトリグサが実をつけたのだよ」 彼は言った。
 茶色く干からびた茎の先には、黒く小さな実がびっしりと丸く固まってついていた。それはあたかもハエの複眼のようだった――中身が大事だというのに、この植物はどこまでも見た目に凝るのだ。食べたものの姿をよくよく覚えているのだろうか。私が「ハエの目に似ている」と言うと、友は笑って答えた。
「私はクモの目だと思うけれどね。まあ、どちらにせよ美しいじゃないか」

(お題:捨てられた外側 必須要素:パン)


<蛇の道は蛇>

 あたしの職場、つまり世界魔術師協会ライプツィヒ支部の危険動植物管理課には、「保護」の呪文なしに立ち入ってはいけない場所というのが二つある。
 一つは植物園で、これはもう言うまでもない。ここには人間にとって有害な植物しか植わっていないし、その中には素手で触るどころか、近くを通りがかるだけでかぶれる植物だとか、匂いをかぐだけで意識を失う可能性のある植物なんてものまで混ざっている。これはもう問答無用で危険なわけで、進入には課の職員――普通それはブラザー・ライムントのことを指す――の許可、可能な限り露出を抑えた服装、そして十分に強度のある「保護」の魔法をかけることが義務付けられている。
 もう一つはあたしたちが使う執務室の地下だ。危険動植物管理課は支部別棟の一階にある部屋を拠点にしていて、その一つ下には小さな地下室があった。この部屋こそは、危険動植物管理課で最大の危険動植物のために割り当てられた部屋だった。そいつの名前はマンフレート・アルノーといい、毒のある植物と、毒のある昆虫と、毒のある動物の剥製、そして毒のある爬虫類の熱心なコレクターだ。

「ねえ、ちょっと」
 ある日の午後、あたしは本当に、本当に心の底から気が進まないながら、地下室へと降りるはしご段の前に立っていた。手には分厚い園芸用の手袋をはめ、ズボンの下にタイツとロングブーツを履いて、さらに服にも素肌にも全身くまなく「保護」の魔法をかけてから。
 声を掛けても返事はこない。これで下に降りることなく声だけでやり取りが済めば、それはもうこんな仰々しい準備なんかする必要もないんだけど、残念ながらそうは行かないのだった。地下室にいるときの奴は本当にレスポンスが悪い。こっちが大声で呼んでも、「はあい」の声一つ寄越さない。仕方がないからあたしは恐る恐るはしごを降りて、本人と直接対面しなくちゃならない。
 内側から落とし戸を閉めて、はしごの最後の一段を無事に降りると、そこには壁際にいくつもの水槽が並んでいる――ガラスじゃなくもっと強い素材でできた、透明なケースが。中にいるのは地味な茶色から鮮やかな緑色まで、ありとあらゆる色と大きさの、ヘビやトカゲたちだった。そして居並ぶ水槽のうち一つの前に、黒いジャケット(それも革ジャンとかただのスーツじゃなく、膝のあたりまで丈がある「フロックコート」とかそういったもの)を着た男が一人屈み込んでいた。
「ちょっと、ひとが呼んでるんだからまず返事ぐらいしてくんない? それかショートメールちゃんと確認するとか!」
 あたしがいかにも苛立っていますとばかり声を張り上げると、そいつはくるりとこちらに向き直った。金髪をいやに古めかしいオールバックにした、顔面だけなら大学生ぐらいに見えなくもない男だ。それ以外の要素はことごとく、100年ぐらい前のヨーロッパ貴族に見えるが。
 いや、100年前のヨーロッパ貴族だって、きっと腕から肩にかけて細長い緑色のヘビを巻きつけたりはしていなかっただろう。鼻先のとんがった、金色の目を持つそのヘビは、やつの右腕――肘までぴったり覆う革手袋を着けている――からぶら下がって、頭をこちらに向けていた。
「おや、これは失敬、リコ。ちっとも気が付かなかったよ。何か御用かな?」
「ブラザー・ライムントが呼んでるんだけど」
 あたしはヘビから目を逸らさないまま、目的だけを答えた。 「あんたが電話に出ないっていうから」
「電話? 電話を貰っていたのかな。そういえば携帯電話をどこかに置きっぱなしにしていた気がするな。まあ、そういうことなら知らせてくれてありがとう。彼女の世話が済んだらすぐに行くよ」
「……それes、メスなの?」
「そうさ、彼女Sieはメスのハナナガムチヘビだ」
 口の端だけをほんの少し持ち上げて、見事に整った、整いすぎて薄気味悪いぐらいの微笑みを奴は浮かべる。一体どうしてこうも平然としていられるんだろう? こんなところで飼われているぐらいだから、そのヘビだって毒があるはずだ。こいつは自分のペットが、自分だけには絶対に害を及ぼさないと信じ込んででもいるんだろうか?

「それで、ええと、ブラザー・ライムントが呼んでいるのだったね。とりあえずこちらから連絡しておいたほうがいいかな、」
「あのさ、ちょっと」
 奴が何の気兼ねもなくこちらに歩いてきたので、あたしは数歩飛び退いた。
「そのヘビ同伴で来るのやめてくれる? その、それはさ、持ち出し禁止でしょ?」
「ああ、でもただ携帯電話を取るだけだよ。この部屋からは出ないさ」
「そうじゃなくて、あたしが! あたしはそういうヘビとかは、その――」
「大丈夫さ、君はちゃんと準備をして来たのだろう?」
 それなら何の問題もないよ、と奴は言うけれど、それはつまり「あたしが噛まれる可能性は十分にある」ってことだ。噛まれても大丈夫なように準備をして来ているのだから。全くもって、どうしてこの世には、ふつう飼ってはいけないとされるような動物を買いたがる連中が存在するんだろう?
 あたしは水槽の置かれていない壁にぴったり背をつけたまま、奴があちこちの棚から携帯電話を探すのをじっと見た。それ自体は水槽のうち一つの蓋の上にあった。ああ、と小さな声を上げて、奴が左手を伸ばした。

 その瞬間、そこそこの音量でシューベルトの「ます」が――奴に着信音を設定するという能力が備わっているかどうかは怪しいので、多分ブラザー・ライムントあたりにやってもらったんだろう――鳴り響き、水槽の蓋が端末と一緒に振動した。奴の手が一瞬だけ止まり、それからすぐに端末を掴み取った。
「もしもし?」
 電話の相手はブラザー・ライムントだろうか? ――いや、どうも違うみたいだ。奴は青い目を細くして、さっきまでより少しは神妙な顔になり、掛けてきた相手の話を黙って聞いている。
「そう、……本当に? 種類は確かなのだろうね、なにしろそこを間違えば全く効果はない。――ヒガシグリーンマンバ。どれだけ経っている? まさか一時間前などとは言わないだろう?」
 奴は普段よりずっと早口になり、何度も頷きながら独り言のように呟いていた。そして少しの沈黙を挟んで、通話を切り上げた。
 口元から電話を離したとたん、奴の目が輝いた。見間違いなんかじゃない。心なしか頬の赤みも増したような気がする。奴は青い目をぞっとするほど純粋な光にきらめかせながら、あたしを見るなりこう叫んだ。
「ああ、仕事だ、リコ!」
 それは休日に職場から呼び出されて、アルバイトの大学生が上げる嘆きの声とは全く違った。どこまでも喜びと痛快さと感激に満ちた響きだった。
「すぐにタクシーを呼んでくれたまえ、可能な限り早く支部の正面玄関に着くように! 私は今から聖ゲオルグ総合病院まで行ってくるからね――血清と一緒に!」
「ブルートゼーラム、は?」
 あたしはすぐに言葉の意味が飲み込めず、数秒間考え込んだ。Blutserum、「血清」。血清だって? 一体何の? ……ヘビの?
「ライプツィヒ市内で25歳の男性が、飼っていたヒガシグリーンマンバに咬まれたのだよ! 残念ながら市内の総合病院に、そんなエキゾチックなヘビの血清など準備がなくてね、……だが、私は持っている! 必要とされているのだよ、解るかい!」
 何かを察したのか、奴の右腕に絡みついていたヘビがするりと離れ、元いた水槽の中に這い戻った。奴は素早く水槽の蓋を閉め、猛然と駆け出すと、あたしのすぐ横を通り抜けて、はしご段を素早く昇っていった。
「ちょっと、……ちょっと待って!」
 たっぷり数十秒の後、あたしはやっと我に返った。こんな毒ヘビだらけの場所に置き去りにされるのは御免だ。大きな水槽の中にはニシキヘビもいる。咬み殺されなくても絞め殺されるかもしれない。

  * * *

「それで、男性は一命を取り留めたわけだ」
 ブラザー・ライムントが溜息をつきながら、ポットを傾けてコーヒーのお替わりを入れた。
「それは実に幸運だったし、我々危険動植物管理課が役に立てたのも喜ばしいことだが、しかしマンフレート」
「何です、ブラザー・ライムント?」
「一体どうしたことだね、君のあの……嬉しがりようは。そう、認めてしまうとなおさら不謹慎だが、君は明らかに喜んでいただろう、このような事故が発生したことを」
 たしなめるような声は、執務室にずいぶん虚ろに響いた。このありがたいお言葉を、当の本人がちっとも重大に受け止めていないことは明らかだった。
「まさか、喜んでなどいませんよ。ヘビがあたかも加害者のように扱われるのは不本意極まりない。違法であると知りながら自室で飼育していたほうに責任がある。まして取り扱い方も未熟そのものだった、――ゴム手袋をしたところで、それ以外の場所が露出していては何の意味もないのに」
 今回噛まれたその男性は、アパートの一室でヘビを飼っていた。ヒガシグリーンマンバはかなり強い毒を持つヘビで、噛まれれば最悪のところ心臓麻痺で死ぬこともあるという。
「たぶん、自分は飼い主だから咬まれることなんてないと思ってたんじゃないの」
 あたしは奴の顔をじろりと見た。 「あんたみたいにさ」
「私みたいに?」
 何のことだかわからない、とでも言うように、奴が首を傾げる。
「あんただってそう思ってるんでしょ。だからあんなふうに、」
「おやおや、」
 奴はお得意の澄ました薄笑いを浮かべ、コーヒーを一口飲み、それから手元のケシの実ケーキを一口大に切り分け始めた。
「確かに私はヘビを愛しているし、その豊かな愛を――あるいは恋心をとでも言うべきかな、持って接していると自負しているけれどね、それでも彼らは私のことを咬むよ。それは間違いない」
 クラシック音楽とか高価な宝石、血統書付きの猫、もしくは人間の恋人の話をするような、うっとりとした声で奴はヘビについて話す。毒のあるヘビについて。
「だから私はいつだって備えを欠かさないし、万が一のための策もちゃんと持っている。彼らを信用していないのではなくて、そもそも彼らはそういうものなのだからね。人でないものを恋うということは、そういうことなのだよ」

 奴はいつでもその革手袋か、そうでなくても薄い白手袋なんかを嵌めているので、あたしは奴の素手というものをほとんど見る機会がない。ましてジャケットの下に隠れているだろう白い腕なんかは。――そこには随分とヘビの噛み傷があって、あるいはどこかしら黒く壊死していたりするんだろうか。それとも備えは本当に万全で、やっぱり作り物めいて傷一つないんだろうか。人間以外の生き物のことしか気にかけないこの男は、恋の代償に何を支払っているのだろう。

(お題:傷だらけの恋 必須要素:ゴム)

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