<様々な学問上正しくない芸術行為>

 なんと見事な生き物だろうか、――金属めいた光沢のある一対の翅は、展翅版の上で誇り高く広げられていた。艶やかな深みのある黒に、青緑の帯が弧を描き、あるいは尾のほうにオレンジや赤紫の斑紋が、乱れ輝きながら虹の色調を成す。それはこの蝶の生まれ故郷である南国の島、マダガスカルの夕焼けをそっくりと写し取ったものなのかもしれない。
「上手く行ったようじゃないか、マンフレート」
「ああ、我ながら上出来だと思うよ」
 色とりどりの標本の前に腰掛けた、若い友人は手にピンセットを持ち、私に向けて得意げに微笑んで見せた。彼がこの生きた芸術――今は死んでいるが――の蒐集者であり、これから己のコレクションを更なる高みへ押し上げようという志の持ち主だった。

 さて、標本というものは通常、ガラスの蓋のついた木箱に丁寧に並べられ、そこには学名や採取地などの書かれた札が貼られ、几帳面に分類されているものだというのが世間の見解かもしれない。私も素直にそう思うし、若い頃に捕虫網を振り回して集めて回った蝶たちは、実際そのように保管していた。
 だがマンフレートは――もちろんその手の「標本箱」も作るし、我が世界魔術師協会ライプツィヒ支部の危険動植物管理課には、各種の資料として山と所蔵しているが、もう一つ別の用向きがあった。
 彼はいたって正統派の標本箱(日本では正に「ドイツ箱」と呼ばれるそうである)ではなく、絵画や写真など入れて飾っておくような額縁を手に取る。そして、展翅を済ませてすっかり乾いた蝶たちを、そこに次々と並べてゆく――まるでモザイク画でも描くように、翅の形と色合いをみて、あちらこちらと角度や向きを変えながら。どれ一つとして真っ直ぐな、これこそ図鑑のベストショットですと言わんばかりの「正常位」で置かれることはない。
「そういえば、リコから聞いた話なのだけれどね」
 指先で翅の僅かな煌めきを調整しながら、彼は私に声だけを投げかける。
「日本語では『昼の蝶』と『夜の蝶』を区別するのだそうだ。英語のようにね。で、彼女が日本の図鑑で調べたところによると、これは『ガ』なのだって」
 そして大抵の日本の女性たちは、「チョウ」は好きでも「ガ」は嫌いらしいよ、と――華麗なコラージュを手に、彼は悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。どう思う? とでも言わんばかりに首を傾げる。

 我々の使うドイツ語では、どちらも蝶だ。ただ昼に飛ぶか夜に飛ぶかの違いである。そしてこの蝶、ニシキオオツバメは昼に飛ぶ種だ――見た目だって日本の御婦人を慄かせるようなものだとは思えない。微細で蠱惑的なこの色彩は、古くから装身具に使われてきたほどで、それこそヴィクトリア朝の御婦人がたの胸に飾られたこともあった筈である。
「私が思うに」
 愉快そうな青色をした彼の目を覗いて、私は一つの察しをつけた。
「思うに、君は何かしらの悪巧みをしているだろう。その、例えば地味な茶色の翅で、毛深くて、櫛のような触覚を持つ、棘だらけの幼虫時代を過ごしたような、その……『ガ』が嫌いな女性にこれを見せてやるつもりだろう。それで存分に喝采を得た後で、これはあなたの嫌いな『ガ』なのですよと教えてやろうというのだろう」
「おや、どうして私の考えていることが解ったのだい、ライニ! いや、実はリコの従姉が正にそのタイプだそうでね。こんどリコに掛け合って、その彼女の持つ嫌悪感を取り除くお手伝いでもして差し上げようかと――」
「やめなさい、マンフレート」 私は渋い顔を作り、首をしっかりと横に振った。
「それはいわゆる、――いわゆる、……ハラスメントだぞ」
 彼の行為を一言で表現する単語が思い浮かばず、最終的には随分と力のない声になってしまったが、とにかく親切心であってもそれは実行に移すべきではない。彼の作品は間違いなく美しいが、人の嫌悪感は美醜だけが問題ではないのだ。
 しかし、本当にどう表現すればいいのだろう? 後日リコ本人に尋ねてみたところ、彼女は怪訝な顔で沈思黙考し、暫くしてから「……虫ハラですかね?」とだけ答えた。

(お題:大好きな暴走 必須要素:蛾の標本)


<火刑法廷と四六の蝦蟇>

 額縁の中で美しい婦人が微笑んでいる。栗色の巻き毛、薔薇色の頬、若くはないが十分に魅力的な目元――デコルテの大きく開いた黒いドレスも、その胸元を飾るリボンも、いかにも高貴な人物という風格が漂っている。
 が、ここは美術館ではないし、高価そうな(あくまでも「高価そう」であり、実際にこの絵画がどれほどの値段であるかは誰も知らない)絵画が飾られるに相応しいような場でもない。世界魔術師協会ライプツィヒ支部、生物管理部危険動植物管理課――という部署の名前を聞けば、支部の職員なら誰もが、「そんなところに飾られている絵なら、さぞろくでもない曰くがついているに違いない」と言うだろう。

「で、実際のところどうなわけ」
 黒髪を短く切り揃えた、日本人の研究留学生は絵画の持ち主をじろりと見た。 「曰くは?」
「付いていてほしいのかい?」
 その持ち主というのは金色の髪を丁寧に後ろへ撫で付け、黒いフロックコートと深緑色のアスコットタイそして青いアネモネのコサージュで装った、肖像画に負けず劣らず貴族的な外見の青年だった。口元をほんの僅かに緩めた、古いヨーロッパの絵画の作法そのものの微笑を浮かべて、彼は後輩に問い返す。
「別にどうだっていいけど、目につくから。だって、あんなもん壁に飾ってある中で仕事したいとは思えないし」
「それなら聞かないことをお勧めするけれどね、余計に仕事が捗らなくなっては困るから。 ――彼女は17世紀フランスに実在した人物だ。ブランヴィリエ侯爵夫人、名をマリー・マドレーヌ・ドルー・ドブレー」
 青年はアイスブルーの目をちらと額縁に向ける。今しがた名を呼んだ婦人の美貌を確かめるように。
「彼女は美しく、そして不埒な女性だったと当時の人は云う。まあ要するに、恋多き女性だったわけだ。そして色事に水を差された恨みから、父や夫に次々と毒を盛った」
「毒」 留学生の少女は吐き捨てるように言った。 「解った、あんたがその絵を飾った理由」
「彼女は『遺産の粉』と呼ばれる毒薬の調合法を知っていたのさ。なんでも、ヒキガエルの粉を材料にしていたそうだ」
「ヒキガエル? ――ヒキガエルって薬になるんじゃなかった?」
 少なくとも日本ではそうだったはずだ。祖母がかつて語ったところによれば、古くは「ガマの油」といって、傷に効く軟膏として売られていたそうだ。もっとも、それが本当に薬としての効果を有していたのか、そもそも本当にヒキガエルが原料だったのかについては判然としないが。
「おや、そうなのかい? 面白い話だね。毒と薬は表裏一体だと常々思うけれど、量の違いだけでなく文化の違いでも二つの面は分かれるわけだ。まあ、尤も……」

 彼は左手をそっと顎に添え、幾らか愉快そうに笑みを深める。とはいえ、やはりどこまでも作り事めいた表情だ。俗世に起きる諸々の「毒々しい」事件を、どこか高みから見下ろしているような。
「彼女の『遺産の粉』に実際の力、すなわち毒性を与えていたのは、同時に調合されていた砒素だったそうだけれどね。そして砒素は愚者の毒とも呼ばれるように、非常に露見しやすいものだ。彼女は魔女として斬首され、遺体は焼かれた。死者に対する最大の冒涜だ。彼女はそれほど『不道徳だった』のさ」
 くすくすと小さな笑い声。 「私みたいにね」

(お題:人妻の冬 必須要素:絵画)


<接吻は永遠にお預けです>

「『好きな人とか、いるんですか』などと訊かれたから、正直に答えたのだよ。そうしたら何か、大いなる誤解を生み出してしまったらしい」
 金髪の青年は透明な菓子器の中から、青い葡萄を一房持ち上げて、いかにも不思議そうな表情を作る。薄青色の瞳は素知らぬ風に瑞々しい粒を見た。
「一体どうしたわけだろう。間違った答えだったのかな、『好きな人はいないよ』というのは。ねえ、君はこれについてどう思うかい?」
 相手に顔を向けぬまま、彼は表面上無垢な――あるいは純粋そのものの疑問を述べる。話を振られたほうは苦い顔をしている。中年の、人生経験は確かに豊富であろう魔術師である。

「まあ、確かに少しばかりまずい答えだったかもしれないな。その、俗な用法としては」
「俗な用法、ね。……ああ、世の女性たちはそうした意味で男性たちに質問するのだね。だからといって理解の及ぶところではないけれど。一体どうして『好きな人はいない』というのが、『貴女を好きになる可能性がある』と同義になるのか、私にはさっぱりだよ」
「可能性が無でない以上、それを信じたがるのが人間の性というものだろう」
「無だよ、可能性は」
 あっさりと突き放すような響き。青年の声色は柔らかで、人好きのしそうな程よい低さを保っていたが、音調と反して言葉は冷たかった。
「ああ、つまり私はこう言えば良かったということかな。『好きな人はいないよ』ではなくて、『人を好きにはならないよ』だとか――『好きな人類はいないよ』でもいいな。好きな爬虫類や好きな鳥類や、好きな人類以外の哺乳類はいるものね」
「聞くだに奇妙だな」 中年の魔術師が眉を顰めた。 「好きな人類以外の哺乳類か」
「色々いるよ。たとえば鴨嘴だとかね」
「それだって、通常人間が人間に対して向ける『好き』とは別物ではないかね」
「当然さ。考えても御覧、鴨嘴と番うのはどう考えたって困難が伴いすぎる。雄同士が雌を巡って毒の爪で争うのだよ。私では明らかに力負けだ」
 年若い友が生物学上の種の違いだとか、鴨嘴と人類の有する性愛の差だとかいった点ではなく、ただ「自分には彼らと張り合えるだけの武器がない」点を強調したことに、彼は測り難い距離感を覚えた。この青年は確かに自分の親友であり、多くの体験や好悪の基準を共有してはいるが、時折――否、わりと頻繁に、こうした齟齬が発生する。

「とにかく、君はよくよく解っているだろう、私は人間に興味がないんだ。女性や男性を問わず。興味がなくても友人になれるということは君をもって理解したけれどね」
「もしくは単に、君の中では私は人類と認識されていないか、だな」
「おや、私がいつ君のことを人でなし扱いしたというのだい。そりゃあ君が両生類や魚類や高等植物だったらどんなものだろうと考えることはあるけれどね、一応ちゃんと人類であるとは解っているよ」
 これほど頼りない「解っている」も無かった。やはり彼の中では、自分は何か単独の、奇妙な地球外生命体のごとき存在として位置づけられているに違いない。魔術師は思い、この青年が親しく交流を持つ(ごく僅かな)人々についてを想った。なるほど、ある者は蜘蛛だと認識され、ある者はいわゆる「本の虫」であり、またある者などは最早生物とすら思われていないかもしれない。
「しかし、どうしたものかな、……ああ、つまり話は最初に戻るけれどね、私は今後どう彼女に応えてゆくべきだと思う? 率直にもう『君が人類である以上は好きになれないよ』と言ってしまおうか?」
「君を毛嫌いする人類が一人増えるだけだと思うがね」
「別にそれだって構わないけれど、」

 そこで青年がふと、何かを閃いたように一度瞬きした。言葉が途切れ、思案する間。
「解ったぞ」 彼は声を上げた。 「思いついたよ、とても良い方法を」
「君がそう言うときに限って悪い方法だ。だが聞こう。どういった解決策だね」
「今すぐ魔女狩人部隊へ連絡を取らなくちゃあならない。悪い魔法使いを探すんだ――彼女を蟇蛙か何かに変えてくれるような。そうすれば彼女は問題なく私と相思相愛になれる。めでたしめでたし、だよ」
 善い魔法使いであるところの中年男性は、無言で重たい溜息をつき、青年の手をそっと抑えた。
「私が悪かった。考えるのをやめて、君を毛嫌いする人類を一人増やしなさい。その彼女には大変残酷なことではあるが、君の思いついた案よりは遥かにましだ」

(お題:僕の好きな人 必須要素:外国語・外来語禁止)


<地獄の沙汰も菓子次第>

 悪魔はひどく困惑していた。こんな事態は今までに聞いたこともない。

 思い起こせば、彼ら悪魔の住まう冥界に、地上の魔術師から召喚の申請が来たのが始まりだった。古の時代ならばいざ知らず、現代の悪魔と人間の関係は大分と洗練されていて、ただでさえビジネスライクだった取引も一層合理的かつ簡便になってきている。今日び「願いを叶えてやるから魂をよこせ」というのは時代遅れ。悪魔だって魂以外のものに価値を見出すのが21世紀である。
 そんな訳で、召喚術師の呼び掛けに答えて悪魔は自前の魔獣を貸し出した。地獄の番犬と呼び声も高いケルベロスを一頭、一週間にわたって行使させること。傷つけたり殺したりはせず、また太陽の光にさらしたりもしない、等の条件を付加した上でこの契約は履行され、三つ首の魔犬は冥府の長い階段を上っていった。そしてそれきり戻ってこない。もう十日になる。
 契約延長ならば然るべき手順を踏んでもらわねば困る。少なくとも連絡の一つぐらいは寄越してくれなければ。ケルベロスは何しろ人気の種なので、次の貸し出し順がつかえているのだ。よって悪魔は己の財産を呼び戻すべく、夕暮れを待って地上に這い出した。昼もずいぶん短くなったある日のことだ。
 
 そして現実に直面した。愛犬は確かに丁重に扱われてはいた――鎖に繋がれはしていたが、蜂蜜をたっぷり使った芥子の実ケーキでもてなされ、至極機嫌が良さそうだった。問題はその口元に、何故か土の詰まった植木鉢が置かれており、魔獣の流す涎を受け止めていたことだ。
「あのー……」
 人好きのする紳士の姿に化けた悪魔は、とりあえず現状の把握に務めることにした。手近にいた人間(召喚術師とは別人であった)に声を掛けるや、その人間は唇に薄く笑みを浮かべ、いかにも貴族めいて一礼を向けた。
「やあ、君がこの素晴らしい獣の主殿かい。そういえば実験が長引きそうだと伝えるのを忘れていたね。なに、君と直接連絡を取れる者が、今ちょうどインフルエンザで寝込んでしまっていて」
 21世紀の人間とは思えないような、黒いテールコートにボウタイを締めた青年が、大したことではないとばかりに述べる。
「……それは構わないのですがね、あなたは今何をしていらっしゃるのです?」
「ああ、これかい? 前々から試してみたかったことを実現しているのさ。ほら、ギリシャ神話の伝説にあるだろう、ケルベロスの流す涎が地面に落ちるとトリカブトが生えた、と。あれが本当かどうか一度この目で確かめたかったのだよ」
 魔犬の黒く艷やかな毛並みを、革手袋を嵌めた手で撫でてやりながら、彼は気品ある口ぶりのまま悪魔に伝えた。地獄の住人にとっては全く予想外のことだった。

 その伝説については悪魔もよく知っていた。英雄ヘラクレスが授かった難題の一つに、ケルベロスを地上へ連れ出すというものがあったのだ。あの時もやはり色々と契約を取りまとめ、貸し出しの許可がやっとのことで下りたというが、しかし今回の貸し出し事由はどうか。ケルベロスの涎からトリカブトが生えるかどうか確かめたい、――そんな望みを実際に口に出す人間がまさか実在したとは。
 悪魔は紅い目を植木鉢に向けた。しっとりと湿った黒土から、青々とした芽が吹き上がる様子はない。
「やはり伝説は伝説、あくまで現実に持ち込むのはお門違いということなのかな。せっかくこうして饗してあげているのに、涎は垂れても生命の息吹があがる予兆もない。ねえ君、何かほかに秘訣はあるかい? 『ハチミツとケシを練った菓子」というのはやはりギリシャ式でないと駄目だろうか? せっかく近所のカフェハウスから、美味しいモーンクーヘンを焼いてもらってきたのだけれど」
 どこかずれた疑問を持ち出す青年の青い瞳は、ぞっとするほど純真な好奇に煌めいている。悪魔は曖昧な微笑を作りながら首をかしげ、その後ろで魔獣は舌を垂らして、うへへ、と笑った。

(お題:経験のない悪魔 必須要素:うへへ)

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