何よりもまず忍び込むという行為自体が、クリームを一層甘くするのだ。


初夏の企み -Caught in Red-Handed-

 戸の内側にぴたりと背をつけて、ヘンリー・ロスコーはほくそ笑んだ。台所と廊下を隔てる扉は、開閉に際し一切の音を立てなかった、はずだ。悪事の漏れる心配はない。
 否、果たしてこれは悪事だろうか――彼は紛うことなきロスコー家の若主人であり、ここマンハッタンは東36丁目に聳え立つ、重厚なアパートメントの最上階を問題なく所有している。台所への出入り程度に誰の許可を必要としようか? 無論必要ないのだが、これは気分の問題なのだ、と当の若主人は結論づけている。単に一ドル払って八百屋で買ってきたイチゴより、こっそりと台所の食材庫から失敬するイチゴのほうが遥かに美味しい、それは動かしようのない事実なのである。彼の中では。
 ともあれ、首尾よく「侵入」した彼は、食器棚からガラスの深皿を一つ取り出した。蔦模様の刻み込まれた美しい器だ。そしてカウンターに視線を移すと、そこには籠に山と盛られた大粒のベリーが――作り物かと思えるほどに赤くつやつやとしたイチゴが、午後の日差しを浴びて輝いている。
 彼は迷わず手を伸ばした。三、四粒ぐらい減っても発覚はするまい。いや六粒までならいけるかもしれない……その次は戸棚にあるクリームをたっぷり、そう、この「たっぷり」が肝要で、イチゴに対してクリームを出し渋ることほど狭量なことはない――

「旦那様?」
 ――彼の脳裏でホイップ・クリームはおろかメレンゲ・スフレの域にまで膨らんでいた妄想は、背後からの声を浴びた瞬間に、たちまち泡沫と消えてしまった。
 少しも威圧的なところのない、物柔らかで落ち着き払った声だった。すべすべとした黒い天鵞絨のような響きだ。ただし、天鵞絨だとすれば古屋敷の窓辺に長く晒され、すっかり冷え切ったものに違いなく、間違っても人肌をそっと包んで暖めるような素振りはなかった。
「どうした、ウィギンズ」
 肩が跳ね上がりそうになるのを堪え、彼はなんとか家主らしい態度を繕おうとした。イチゴ入りの器を背に庇うように、さっと真後ろに向き直って胸を張り、威厳ある声を投げかける――といっても、実家を出てそう長くない二十二歳の青年には、「家主らしさ」など身に付いたものではない。それよりも彼にとっては、咄嗟にカウンターへ置いたクリームの缶から、中身が跳ね跳んでやしないか気が気でなかった。それに、一体全体どうやって、気付かれぬよう声をかけるなんてことができたのかという疑問もあった――ただし、この疑問は比較的早く解決した。そも彼自身が入ってくるときだって、扉は音一つ立てることがなかったのだ。いわんや他人をや、である。
 さて、青年の眼前には人影があった。六フィートはあろう長身の、三十半ばと思しき男だ。着ているものが些か地味で流行遅れという点を除けば、髪型も佇まいも、平静極まる表情も、いたって紳士然としていた。
「何かあったのか?」
「わたくしの身には何事もございません。万事遺漏なく勤めております。――お言葉を返すようですが、いかがなさいましたか、旦那様」
「ぼくのほうにだって何事もないぞ、ウィギンズ。万事快調だ」
「さようでございますか」
 思慮の淵から深みを掬い取ったような、暗い色の双眸が彼を見据えた。彼にとっては単に冷ややかな目を向けられるとか、睨みつけられるとか、とかく敵意を見せられるより遥かに恐ろしいものだった。
「……さようでございますか」
「そうとも」
 X線による透視技術が開発されてから三十年は経とうとしているが、欧州は同技術の生体移植も実現していたのじゃあないだろうか。――一回り年嵩の男を見上げながら、彼は空想に逃避しかけた。かといって、この柔和な追求を逃れられるわけでもなかった。
「なあ、ウィギンズ。確認するまでもないことだが、ここは不動産契約上ぼくの部屋なんだ。ぼくがここの主人だ。そうだろう?」
「仰せの通りでございます、旦那様」
「それなら、ぼくが勝手に台所に入ろうが、そこで見つけたイチゴに興味を示そうが、何の罪にも問われないのじゃあないか? 異論はあるか?」
「ございません。米国の法曹界に関する噂はかねがね聞き及んでおりますが、さすがの彼らにも扱いかねるかと」
「そうだろうとも。つまりだな――」
「しかしながら」
 再びマカロン・ボール程度には膨らみかけていた彼の自信が、その一言でたちまちぺしゃんこになった。彼は後ろ手を組み、精一杯恨めしそうな顔を作って、三インチばかり背の高い男に一睨みをくれたが、何の示威にもならないことは解っていた。
「差し出がましいようですが、旦那様、家政の場にやたらと立ち入り、あまつさえご自身でお食事のご用意をなさるなど、紳士の振る舞いであるとは申し上げかねます。加えて、ストロベリー・アンド・クリームにはいささか時期が早いかと存じます。今年のウィンブルドン選手権は六月二十六日の開幕でございますから」
「ウィンブルドンの時期以外にイチゴのクリーム掛けを食べちゃいかんという理由もないだろう、ウィギンズ」
 彼は反駁した。 「少なくとも合衆国にそんな風習はないぞ」
「確かにございません」
「そもそも、ぼくがそれを作ろうとしたとは限らないよな。トライフルかもしれないし、イートン・メスやシラバブって可能性もある」
「いいえ、旦那様。トライフルにはカスタードが、イートン・メスにはメレンゲが、シラバブにはダブル・クリームが必要でございます。旦那様はイチゴのほか、シングル・クリームの缶しかお持ちになりませんでした」
 背後に置かれた品々と、菓子のレシピに関する知識の不足をぴたりと言い当てられ、現行犯は言葉もなく圧し口を作った。だが、ここで引き下がるほどの潔さも、彼には未だ備わってはいなかった。
「ああそうだ、お前が言うところのストロベリー・アンド・クリームだ。生のイチゴを食べるのには最高の方法だ。――なあウィギンズ、使用人含めてたった三人の世帯にあの量だぞ。傷まないうちに食べ切ろうと思えば、まず今日の間に先手を打って、いくらかやっつけておくべきだと考えるんだが?」
「まことに賢明なお考えで、旦那様。イチゴはソフト・フルーツですゆえ、わたくしも購入に際しては計画を立てております。この後にはルバーブと合わせたジャムにシングル・プリザーブ、シロップ、並びにオーブン・ドライの予定がございます」
「……つまり、ぼくの助力は全く必要ないということだな?」
「さようでございます」
 受け答えしながら、彼はそっと片手を後ろに伸ばし、器からイチゴを一粒つまんで隠し持とうとした。が、すぐに止めた。やはり眼前の男はX線の目を有しているとしか思われなかったのだ。この期に及んで出し抜こうなどと考えるのもおこがましい、と彼は賢明な判断を下した。
「もっとも、わたくしは旦那様にお仕えする従者ヴァレットでございますから、あなた様がそうとお命じになるのであれば、計画に少々手を加えたうえ、喜んでストロベリー・アンド・クリームを供する所存です」
「そうか? ああ、そう……そういうことなら、別に今までのくだりは必要なかったってことじゃあないか、ウィギンズ」
「さように言い換えることは不可能ということもございません」
「そういうことなら――」
 反駁を重ねることについても、また彼の中で躊躇いが生じていた。この男が持って回った言い方をするのはいつものことだが(それが礼儀のつもりなのだろう)、今回はさらに何かしらの意図があるらしいぞ、と勘付いたのだ。
「――いや、いい。ぼくはむしろお前の考えを聞いておくべきだろうな、こういう場合は。どうだ」
「もったいないお言葉です、旦那様。わたくしといたしましては、本日のティーには甘いソースのたっぷり染み込んだサマー・プディングをと考え、昨晩より準備を進めておりました。後は新鮮なイチゴで飾り付けをすれば完成という段階に至っております」
 果たして彼の勘は正しかった。どういうわけか合衆国で成金の放蕩息子に仕えることを決めたらしい、この英国人の従者にはとっておきの算段があったのだ。彼の脳裏には瞬く間に芳しい雲が立ち込め、銀器に載せられたいとも華麗なる冷菓が姿を現しつつあった。が、雲間から神々しい光と共にプディングが現れるためには、いくらか情報が欠如していた。
「もうひとつ聞いておくことがある。そのプディングには、あれだ、やっぱりイチゴのシロップを使うのか?」
「昨夜の段階で、食料棚にイチゴのシロップは用意がございませんでしたので」
「じゃあ、いわゆるゴールデン・シロップというやつか? それとも、バニラ風味のカスタードソースあたりか?」
「甜菜ないし砂糖黍から作られたシロップは、この時期のベリーと合わせるにはいささか単調すぎます。また、プディングにカスタードの詰め物はまことに好適でございますが、残念ながら十分濃厚かつ新鮮な卵が手に入りませんでした。力不足をお詫び申し上げます」
「寛大な心で許そう。いや、詫びられるようなことなのか? とにかく、――そのどれでもないとすると、要するにだ、お前の計画というのは……」
 今や彼の胸は静かに、しかしはっきりと鼓動を速め、組んだ手の指はしきりに絡み合ったり解けたり、そぞろな動きを見せ始めた。従者なれば主人を長く待たせるものではないと、濃い青色の目はしきりに訴えかけた。
「飲料貯蔵庫の中身と相談のうえ――残念ながら飲み頃を逸しました赤ワインを用いまして、赤いフルーツに相応しいソースをこしらえ、味わい深いルビー色のプディングに仕上げるのが最適かと判断いたしました。ですが、旦那様のお気に召さないようであれば――」
「そんなことがあるか、ウィギンズ!」 彼は勢い込んだ。 
「ああ、まったく君ってやつはぶったまげた――じゃない、あー、ええと」
 その勢いに任せて快哉を叫ぶつもりだったのだが、しかし少しでも態度を崩せば、従者はまたぞろ「紳士の振る舞いであるとは申し上げかねます」とかなんとか言い出すのは目に見えていた。よって彼は咳払いをし、いくらか勿体ぶって胸を反らせると、
「……お前の考え深さは称賛に値するな、ウィギンズ」
 と、友人に向けるよりは重厚さのある声で言い渡した。
「大変恐縮でございます」
「そうなると、ぼくとしてもお前の計画が滞りなく実行されるよう、節を屈するのもまあ、やぶさかではないぞ」
「さようでございますか」
「さようだ。よって……十分だ。もう下がってもよい」
 威厳に満ちた口ぶりをなんとか保ち、彼は主人としての宣言を締めくくったはずだった。が、数秒後にはここが台所であり、自分は「侵入」した身であることを思い出した。
「違う、つまりだ、お前じゃあなく――ぼくはここで下がることにする。後は任せたぞ、ウィギンズ」
「かしこまりました」

 慎ましやかに腰を折り、頭を垂れて主を見送る構えの従者を後ろに、彼は堂々と扉を開けて廊下に出た。扉が締まったことを一度は確認したが、それ以後は振り返りもせず、自室へ向かってずんずんと進み、角を曲がったところで力強く拳を握った。
 やったぞ、ばんざい、と声に出しこそしなかったが、口がそう形作られるのを止めることはできなかった――赤ワインのサマー・プディング! あの芳醇な味がすっかり染み込んだ、しっとり滑らかな一切れを頂戴できるなら、お茶の時間が午後四時だろうが五時だろうが喜んで待てるというものだ。
 彼はにやにや笑いを隠すこともなく、弾むような足取りで自室へ飛び込むと、愛用の安楽椅子に深く腰を沈めた。どうして自分に従者なんかが要るだろうと、一年そこらの間ずっと考えてきたが、こうしてみるとやっぱり必要なのかもしれない――二十世紀の合衆国で暮らしを共にするには、ちょっとばかり封建的すぎるように思うが、甘んじて受け入れるだけの価値はあろう。これまでの人生、どれほど作りたての菓子に飢えてきたかを考えれば。

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