「お帰りなさいませ、旦那様」


卵ほどには円満な -Henry Roscoe Raid An Egg-

 天から暁光が、もとい、暁光のごとき声が降り注いだ。例えば神の啓示だとか、福音だとかいったものは、みんなこういった優しく柔らかな声で下されるべきものなのだろうな――ヘンリー・ロスコーは未だ気怠さの抜けない頭で思った。最上階にある部屋の戸口で彼を出迎えた、背の高い従者の超然とした顔を見上げながら。
「ああ、あれだ――おはよう、ウィギンズ」
「おはようございます。ご宿泊のホテルにお電話を差し上げたのですが、既にお発ちになっているとの返事を頂戴しておりました。お迎えに上がれなかったことは大変申し訳がございません」
「いや、いいんだ」
 普段の溌剌とした面影もなく、すっかり鈍った喉で彼が答える間にも、壮年の従者は手際よく主人を迎え入れ、分厚い扉に錠前を下ろした。入り混じりすぎてもはや出処すら判然としない、多種多様の匂いが染み付いた上着が、その手でするりと脱がされる。
「お前がいつ掛けてよこしたのか知らないけれども、明け方にはもうホテルにいなかった。寄るところがあったんだ」
「どちらかのダイナーにお立ち寄りでございましたか」
 若主人はネクタイを解く手を止め、大欠伸を引っ込めた。 「どうして判る?」
「お召し物から煙草の匂いがいたします。旦那様は葉巻シガー紙巻シガレットも嗜まれませんし、ご友人がたがお楽しみになるものとも異なります。乾燥しすぎた香料入りの刻み煙草です」
「それだけじゃあダイナーと断定はできないだろう。パイプなんてものはどこにいても吸えるんだから」
「加えて、お世辞にも新鮮とは表現できかねるような揚げ油とコーヒー、ピクルス液の匂いもいたします。それと、右のお袖に何らかの染みが付着しております。ケチャップかとお見受けします」
 引っ込んだ大欠伸に代わって、自らの失態を悔いる呻き声が彼の口から這い出した。半覚醒のままふらふら踏み込んだ安食堂で、自分が腹に押し込んだメニューのことも。どろりと濁っていたダークブルーの目が、ようやく理性の光をいくらか取り戻し、指摘された場所に視線を注いだ。白い袖口に一筋走る、擦り付けたような朱色の痕は、彼の心にもまた深い汚点を残さんとしているようだった。
「……落ちるかなあ、これ?」
 少なくとも傍目には糸くず一つ付いていないように見える、地味ではあるが折り目正しいモーニングスーツ姿の従者に、彼は重々しく尋ねてみた。
「確約はいたしかねますが、旦那様を失望させぬよう努める所存です」
「お願いするよ。本当にごめん、ウィギンズ」
 彼は首をすくめ、誠実に反省の色を見せようとした。しかし従者は首を横に振り、
「旦那様、わたくしに何事かお言いつけになるときには、『お願いプリーズ』や『ごめんパードン』等のお言葉は不要でございます。旦那様のご下命を拝することがわたくしの職分ですので」
 と恭しく答えるばかりだった。
 金満家の長男坊――あるいは放蕩息子――として名を馳せる若主人は、口元を曖昧に動かした。何を期待されているのかは解る。英国から大西洋を渡ってきたこの従者は、何かにつけ仕える主人に「紳士的な振る舞い」とやらを会得してほしがるのだ。例えば使用人を家具か何かのように扱うことも、その中には含まれているらしい。
 彼はしばらく口をつぐんで考えたが、あと数秒沈黙が長引こうものなら、より面倒なことが起きるのは目に見えていた。心を決める必要がある。
「よろしい、ウィギンズ。シャツのことはまあ、お前に一任する。最善を尽くすように」
「かしこまりました。お召し替えの前に、お湯をお使いになりますか?」
「使う。準備をしておけ」
「仰せのままに、旦那様」

 適温に調えられたバスタブで二十分ばかり過ごすと、損なわれていた思考力や判断力、平衡感覚、食欲、そして他者と会話を持ちたいという欲求などが、彼の中にも蘇り始めた。きちんと洗濯された新しいシャツに着替えながら、彼がとりあえず最後の欲求だけでも満たそうとするのは、ごく自然な運びだった。
「――それだからぼくは呑まずに切り上げるつもりだったんだ。いたって健康的な時間に帰ろうと。どうせお前はぼくが戻るまで寝ずに待ってるつもりだろうし、それはいくらなんでも気の毒だ」
 金のカフリンクスを手に待ち構える従者に対し、開いた袖口を神妙に差し出しつつ、彼は昨晩の顛末について語った。普段のオーバーな身振り手振りを堪えるのには少々難渋したが、例の「紳士的な振る舞い」に関する小言に耐えることを思えば、こんなものは何の苦労でもない。
「ところがパーシーのやつ、一体全体どこで覚えたのか知らないが、ぼくを相手にさんざん『婚姻とその意思決定にまつわる男女の意識差』だかなんだかを永久に説き続けて、三語喋るごとに一ショット呷る勢いさ。のべつ幕なし、カウンターにしがみついて離れようとしないんだ」
「相当にご傷心のご様子で」
「そんなに好きならメアリ=アン・フォーサイスじゃなくカウンターと結婚すりゃいいものを。それはともかく、やつは『恋を語るときには声をひそめよ』という言葉を知らないんだろうさ。厚顔無恥とはこのことだよ。ぼくはもう呆れ果てたよ」
「仰る通りでございます」
「まあ、ぼくにも侠気がないわけじゃあないから、仕方なくそこのホテルに部屋を取ってやって、気が済むまで付き合うことにしたんだ。同情的に。そうすれば、ええ――」
「その欲望も病み衰え、やがては消えるだろうから、でございましょうか」
 彼は目を丸くした。従者の差し出したネクタイが好みにぴたりと合っていたからではなく、彼が思い出せずにいた一句を完璧に言い当てられたからである。
「それだ。それなんだが……考えてみるとあんまり適切な引用じゃあないな。実際は、ぼくの食欲が著しく病み衰えただけだ」
「さよう拝察いたします」
「忘れてくれ。で、なんやかんやあって、最後にはやつが『一緒に寝てくれ』なんて言い出したから、ようやく見捨てる決心がついた。後のことはまあ、お前なら解るだろう」
「はい、旦那様」 タイの下に襟ピンを差し込んで止めながら、従者は慇懃に頷いた。
「エッグス・ベネディクトにつきましては、まことにお気の毒さまでございました」
「どうして判――」
 先程よりも一層目を丸くしながら、彼は尋ねかかった。が、ここに至ってかなり回復してきた思考力が待ったを掛けた。紳士的な振る舞いかどうかはともかくとして、疑問が湧きしだい考えもせずに答えを聞き出すというのは、あまり褒められたことではないはずだ、と。

「いや、みなまで言うな。つまり……こういう推理だろう。まずヘンリー・ロスコーは昨晩、結局のところ酒を呑んだに違いない。ラウンジでは素面でいるに越したことはないが、差し向かいでパーシーの愚痴に付き合うとなったら、何らかのアルコールが入らなきゃやってられないからだ」
「ミスター・リビングストンのお話しぶりについては、よく存じ上げております」
「で、酒を呑んだ翌朝の食事には、エッグス・ベネディクトというのがぼくのお決まりだ。少なくとも、お前にはいつもそう注文している」
「たびたびご下命を頂いております。ご信頼、痛み入ります」
 従者は感じ入ったように頭を下げ、それから流れるような動きで濃紺のウエストコーストを取り上げると、分別のありそうな顔で「推理」を披露する若紳士にそっと着せ掛けた。もちろん、その次には共布の背広も控えていた。
「ぼくは寝不足でもわりあい平気だが、空腹には堪えかねるという種の人間だ。それで目が覚めるなり朝食のことを考えた。けれども明け方のことだから、ホテルのダイニングは開いてないし、ルームサービスだって無理だ」
「はい、旦那様。たとえ朝六時以降でも難しいかと考えます。以前お供いたしました際には、茹で卵かオムレツ、スクランブルドエッグしか選択肢がございませんでしたので」
「そうだ。となれば、家に帰るまで我慢のできないぼくに残された道は一つ。朝四時のマンハッタンで営業していて、いつでも卵料理が食べられる飲食店といったら――」
 若い主人は眉を動かし、勿体ぶるように人差し指を立てたが、この「推理」が従者の思考を模倣したものだという点で、あまり格好のついたものではなかった。加えて、その従者が彼に背広を差し出したため、すぐに引っ込めざるを得なくなった。
「順序だったご説明をありがとうございます。実に堂々たる名探偵ぶりで」
「そうだろうとも!」
「異論を挟む余地もございません。ただ一つお許しいただけるのであれば」
「許そうじゃあないか」
「数あるダイナーからなにゆえ『シェルビーズ』をお選びになったのか、理由をお聞かせ願えればと存じます。それだけはわたくしの推測も及びませんでした」

 こたびは彼も目を丸くはしなかった。優しげに微笑む従者をしかと見据えたまま、口をひん曲げ、眉間に皺を寄せて考え込んだ。「推理」の介入する余地もなく、すぐに答えは見つかった。
「……上着の裏に領収書を入れっぱなしだったか、ぼくは?」
「はい、旦那様」
「そうかあ」 盛大な嘆息だった。 「何が名探偵だよ、全く!」
「申し上げにくいことながら、旦那様、名探偵の名推理で解決するような事件は、現実には極めて稀なものでございます。大抵の場合、決め手となるのは被疑者の自白や共犯者の裏切り、ないし関係筋からのたれ込みです」
 彼が嘆いている間にも、昼用の着付けはすっかり整っていた。従者が語り終えるのと、襟のボタンホールに小さな造花が飾られるのとはほぼ同時だった。
「もしくは、犯人の有する底なしの間抜けさ、ってところだな」
「さようでございますね。――お召し物にはご満足頂けましたか」
「完璧だ、ウィギンズ」
 従者の差し出した鏡に向き合い、彼は感服と屈辱の入り混じった呻きを漏らした。
「ありがとうございます。ただいま熱いお茶をお持ちします」
「ああ、――いや、ウィギンズ、ちょっと待て」
「なんでございましょう」
「せっかくの機会だ。物のついでに、もうひとつ名推理を披露する気はないか」
「わたくしの力が及びますものならば、謹んで承ります」
 数歩離れた場所で、従者が粛然と頷く。彼は手招きで再び近寄るよう求めてから、愛用の肘掛け椅子へ腰を下ろし、脚を組んで一息ついた。

「ぼくが『シェルビーズ』を選んだのは、前にそこでポーチドエッグを食べたことがあるのと、メニューに『アスパラガスのオランデーズソース掛け』があるのを知っていたからだ。この二つを揃えておけるのなら、エッグス・ベネディクトなんて朝飯前だろう。だが、お前も知ってのとおり、これは大きな誤りだった」
「存じております」
「皿が出てきたときからおかしいと思ったんだ。ぼくは確かに、もしあればパプリカを振ってくれと注文した。ところが現物を見てみれば、片方の卵が目にも鮮やかなオレンジ一色と来てる。まあ、これぐらいなら察せないでもないさ。きっとコックがぼくと同じぐらい寝ぼけていて、手を滑らせるかなにかしたんだろう」
「その可能性は十分にあるものと推察します」
「オランデーズソースが明らかにこう、液体の中にクリーム色の脂肪の塊が浮かんでいるような見た目だったのも理解はできるさ。たぶん湯煎に失敗して、卵だけが先に固まったんだろうな」
「はい、旦那様。卵とその他の材料を滑らかに混交するには、温度にまつわる繊細さが要求されますもので」
「そのソースだけちょっと舐めてみたら、どう考えても酸味が強すぎた、これも特別難しい謎ってわけじゃあない。レモン汁の代わりに酢を使ったんだ、大量に」
「平凡な失敗の一つでございます。オランデーズに加える酸味はレモン汁、それも少々で充分であり、ビネガーの出る幕はございません。ましてタバスコなどもってのほか」
 最後の一文を発する際、従者の声には明らかな冷たさと刺々しさが含まれていた。主人は軽く目を逸らした。
「……むろん、ぼくは注文した品がどうも期待はずれに見えるからといって、コックを怒鳴りつけるとか皿を捨てるとか、一口も食べずに帰るとかするほど狭量な人間じゃあない。彼らにだってやむにやまれぬ事情はあるはずだ。マンハッタンの調理場なんて、どこも修羅場だろう」
「仰る通りかと――」
「だがなウィギンズ、ぼくにはどうしても、どうしても解せないことが一つあるんだ」
 彼は叫んだ。足置き台を蹴飛ばさんばかりに、猛然と跳ね起きながら。従者は静かに半歩身を引いたが、表情は寸分も崩さなかった。
「ぼくの心はまだ寛大だった。だからナイフとフォークを取って、そのエッグス・ベネディクトらしきものを一切れ食べた。ちゃんと食べたさ。そうしたらどうだ――」
 あまりに勢い込んだものだから、彼は一つの発言における息の配分を誤った。お世辞にも格好がよいとは言えない息継ぎによって、述懐は数秒ほど中断された。
「――ソースは温かかった。白身は熱かった。なのに、黄身だけが冷たかった」
 しかし、再開されたところで残るくだりに力はなく、彼の体は再び布張りの椅子に沈み込んでいった。血色のよい頬が僅かに膨れ、碧眼はじろりと明後日の方を睨んだ。あたかもそこに一枚の安皿が浮かんでおり、上に例の「エッグス・ベネディクトらしきもの」が鎮座して、彼の失敗を嘲笑っているかのように。
「こんなことをパーシーや他の連中に話したって仕方がない。食べられたんだから良いだろうとか、たかが七十五セントの損じゃないかと言われるだけだ。でもお前は……」

 従者はすぐに答えず、ただ目を細めて頷いた。良くも悪くも日来の落ち着きのなさを取り戻しつつある若主人を見、安堵の念が沸き起こったという素振りだった。
「旦那様のご心痛に対しては、察するに余りある、という一言より申し上げることができません。ですが、その卵に何が起こったかについては、お答えを差し上げられるかと存じます」
「続けてくれ」
「ダイナーのような大衆食堂では、客の注文を受けて都度卵を茹でるなどということはいたしません。ポーチドエッグもしかり、あらかじめ酢水で大量に茹でておき、氷水に取って保存するのでございます。注文が入れば温め直されますが、それも熱湯にくぐらせる程度のこと、黄身の温度にまで気を配るようなコックは大変稀でございましょう」
 主人に向かって微笑みかけながら、従者は落ち着き払った口ぶりで答えにかかった。
「でも、ぼくが前に食べたときには中まで温かかったぞ」
「それは恐らく、作り置きが残り僅かとなり、新たに卵を茹でようというところへ、旦那様が運良く居合わせただけかと推察いたします」
「そうかもしれん。……きっとそうだろう。まあ、こうして聞いてみれば不思議なことはないな。ダイナーに来る客なんてのはみんな急いでるんだ」
「はい、旦那様。食卓には様々な形があり、調理場はそれに最適化されるものです。先ほど仰いました通り、彼らにもやむにやまれぬ事情がございますので」

 上体を背もたれに埋めたまま、主人は従者の顔を何度も見た。聞き終えた折には口から深々と息を吐いた。感嘆とも失望ともつかない息だった。
「ウィギンズ」
「なんでございましょう」
「望んで行ったわけじゃあないとはいえ、ぼくは大学で二年間も何をしていたんだろうなあ。何を得たっていうんだろう」
「たくさんのご友人を得られたことと存じますが」
「パーシーみたいなやつをな。でも実学的なことはさっぱりだ。少なくとも、今のぼくにはダイナーひとつ経営できない」
「よろしゅうございます」
「何がよろしいんだよ」
「旦那様は俗世間での商売にあれこれと気を揉まれる必要などございません。そちらはご実家の方々にご一任なさいませ。そもそも紳士とは労働しないものです。よしんば何かしらの職に就かれるとしても――」
「解った、解ったよ、ウィギンズ!」
 淡々とした、しかし確固たる圧力を持った教示を振り払うように、彼は片手を挙げて従者を遮った。どうもこの従者は共同生活を送るに封建的すぎる――大陸のほうでは現代でもこうなのか知れないが、ここは合衆国なのだと念じてもみた。そうしたところで何にもならないとは理解しながら。
「ぼくに階級意識を説くのはやめにして、もう下がれ。本当ならまだ起きる時間じゃあないだろう」
「お心遣い痛み入りますが、お言葉には甘えかねます。お腹の具合に不安がおありの旦那様を置き去りに、わたくし一人が枕を高くして眠るなど不可能でございます」
 少しの間があった。
「それを推理と呼ぶほどぼくは馬鹿じゃあないぞ。今しがた腹が鳴ったところだからな」
「さようでございますね」
「なあウィギンズ、こんな早くに叩き起こしておいて悪いんだが――」
 彼はそう口にしかけたが、物言いたげな従者の顔を前にして、神妙に考え直した。
「――いや、ぼくの言いたいことは解るだろうな、ウィギンズ?」
「はい、旦那様。二十分ばかり頂戴できれば、サンルームへ温かなエッグス・ベネディクトをお持ちします」

 卵は美しかった。天鵞絨のごとく滑らかなオランデーズソースをその身にまとい、こんがりと焼き上げられたイングリッシュ・マフィンの上に気取って座していた。パプリカの赤い粉末が一振りされると、彩りの差異が美しさをますます引き立てた。
 見事に復活を遂げた食欲を懐に、ナイフとフォークを両手に携えて、若主人は天上を憧れるがごとく卵を見つめた。だが見つめるばかりでは決して充たされないものもある。銀色の刃先が淡黄色のドレスを押し分けると、中からより濃く鮮やかな卵黄が溢れ出した――完璧な半熟具合だ。
 そして言わずもがな、卵は内の内まで温かだった。
「ウィギンズ、やっぱり朝ってのはこうじゃなくちゃあな」
 口中に広がるねっとりとした旨味と白身の食感、マフィンの香ばしさ、ハムの塩気、そして仄かなレモンの酸を堪能し、溜息をついてから彼は言った。
「何もかもが正しく治まっている、というんだろうか。ああ、お前の手腕ときたら」
「過分なお言葉を頂戴しまして」
 頭を垂れる従者に一瞥をくれた後、彼はもう一切れ口に収め、うっとりと瞑目した。つい二十分ほど前までの、体こそ温まっても心は冷え切っていた――まるで湯にくぐらせただけの卵のような、虚しい自分自身はどこへ行ったやらと思えた。
「ぼくには過ぎた贅沢だよ。それを解った上で、あと一つ贅沢を言わせてもらおうかな」
「コーヒーをもう一杯召し上がるほどのことは、何の贅沢にも当たらぬかと存じますが」
「いや、コーヒーじゃあ足りない。せっかく早起きした朝なんだ、どうせならとことん味わいたいじゃあないか、昨晩楽しむはずだったことまでも」
 従者は思慮深げな笑みを浮かべ、ゆっくりと頷いて扉を顧みた。
「まったくの偶然ではございますが、さる筋より素晴らしいシャンパンを一本お譲り頂きました。朝食の席へ供するに手頃な大きさで」
「ふうん、そうか!」 軽く顎を上げて彼は応えた。
「まさかとは思うんだが、お前はそこに新鮮なオレンジなんか絞って、素晴らしいミモザの花を咲かせるような手品を見せるつもりじゃあないだろうな?」
「はい、旦那様。お許しさえ頂けるのであれば――」
「許す!」

 恭しく一礼して去ってゆく従者を、主人は甚だ満足して見送った。過ぎた贅沢だった――封建的訓示に耐えるだけの価値は間違いなくあった。

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