「ただいまミスター・スペンサーよりお電話がありました、旦那様」


紳士性の穴 -Not His Cup of Tea-

 暖かく見晴らしのよいサンルームで過ごす、遅い朝の素晴らしいひととき――またの名を「二度寝」――から戻った若主人に、従者がかしこまって言葉をかけた。
「ティミーが? 何と言っていた?」
「本日午後より旦那様とお会いになるご予定でしたが、急な胃痛のために取りやめさせていただきたいとのことでした」
「ははあ、持病の癪が、ってやつだな。あいつはこう、ちょっと分不相応なところへ遊びに行こうとなると、必ずどこかしら調子が悪くなるんだ」
「さようでございますね」
「かわいそうにな。まあ、そういうことなら今日は一日家にいるか。二、三冊読んでおきたい本もあったことだし」
「ではご夕食に加えて、午後四時にはティーのご用意もいたしましょう」

 ロスコー家の若主人、ないし放蕩息子、ヘンリー・ロスコーはその言葉にはたと動きを止め、頭を過ぎった思いつきに意識を向ける。
「……ティーのことなんだが」
「はい、旦那様。何かご要望がございましたら何なりと」
「もとい、ティーと言いつつぼくはコーヒーを飲もうと思うんだが」
「かしこまりました。お供には何を召し上がりますか」
「それだ、それなんだ。なあウィギンズ、ぼくはドーナツを食べたい」

 そして彼は世にも珍しいものを見た。もしかすると見間違いか目の錯覚、あるいは自分がまだ寝ぼけているだけかもしれないと思えた。沈着冷静の権化とも言うべき、この紳士然とした壮年の従者が、僅かに身震いしたと見えたのである。
「ドーナツ、でございますか?」
「ドーナツだ、ウィギンズ」
 嫌な予感を覚えつつも、彼は繰り返した。 「コーヒーといえばドーナツだろう」
「旦那様、わたくしが先日ご用意したコーヒー・ケーキはお気に召しませんでしたか」
「まさか! あれは絶品だったぞ。あんなにも軽くてふわふわした口当たりには出会ったことがない。コーヒー・クリームも甘すぎず苦すぎずで恐ろしいほどぼく好みだった。それと、上にクルミを乗せるのはいい考えだな。あれが濃いコーヒーにますます合う」
「もったいないお言葉でございます」 従者はうやうやしく頭を垂れた。
「次にお申し付けいただいた際には、砂糖漬けのオレンジとカルダモンを少々加えようかと考えております」
 その口から一つ二つ、新たな美味を思わす言葉が飛び出せば、彼はもちろん食いつかずにいられなかった。深い青色の瞳が光射す大西洋のごとく輝きだし、優れた料理人でもある従者に視線を注ぐ。
「オレンジとカルダモンだって! ウィギンズ、そいつは実にすてきな――真の調和を予感させる響きじゃあないか。わくわくするな!」
「きっとご満足いただけるかと存じます。お望みとあらばすぐにでもご用意できます、例えば本日のティーなどに――」
「いや、それは別にいい」
 けれども彼は、異国情緒漂うケーキの色香に幻惑されはしなかった。慇懃さを保ちつつ、話題を揚げ菓子から逸らそうとしていた従者が、その返答に微笑みをいささかばかり曇らせた。
「そのケーキについてはまた後日の話だ。今日はドーナツだ」
「ですが――」
「ドーナツだけは譲らないぞ、ウィギンズ」
「……さようでございますか」
「さようだ。どうした、お前はまたぞろ何か、開拓精神あふれるぼくらの文化を指して『紳士の召し上がりものではない』とかなんとか言うつもりなのか?」
「いいえ、思いもよらぬことでございます、旦那様。わたくしが以前お仕えしておりました、さる子爵家の若様も、ナツメグで風味をつけたドーナツがお好みで、週に一度は必ず出すようにと料理人にお命じなさいました」
「そうだろうとも! ああ、聞くだけでたまらないな。それもぜひ作ってくれ」
「かしこまりました。――いえ、わたくしが申し上げたいのはドーナツそのものの是非ではなく、旦那様の行動の是非でございます」
「ぼくの行動だって?」
 断固とした態度を貫こうと試みていた彼は、そこで目を瞬いた。それこそ思いもよらないことだったのだ。
「はい、旦那様。渡米以来わたくしが見聞してまいりましたところ、どうやら米国におけるドーナツの消費と申しますものは――」
「持って回るんじゃあない、ウィギンズ。いくらお前がぼくの従者だからって、雇い主に対して直截な口をきく権利ぐらいあるはずだぞ」
 従者は沈黙した。珍しくも「主人らしい」彼の振る舞いを見て感じ入っている、というわけではなさそうだった。どちらかといえば、口にするのもおぞましい言葉を主人の耳に入れてよいものかどうか、心の底から深く葛藤しているといった趣だった。
「……むろんドーナツはお作りします、旦那様。その上で、コーヒーではなく紅茶というわけにはまいりませんか」
「紅茶はちょっとなあ」 彼は何の気なしに言った。 「ドーナツを浸すには向かな――」

 そして再び、世にも珍しいものを見た。こたびは見間違いでも目の錯覚でもなかった。
「なあ、ウィギンズ。確かに今のはぼくもちょっとばかり無神経だったかもしれないとは思うが、それにしても青ざめるほどのことはないだろう」
「いいえ――」
「つまり、お前は『コーヒーとドーナツ』という組み合わせに対して、すなわち『浸す』という行動が伴うことを恐れていたわけだな」
「……は、さようで」
 従者は平静を取り戻したようだったが、それでも声は普段よりいくらか硬かった。知らず彼の口からは苦い息が漏れた。
「何がそんなに気に食わないんだ。だいたい――そうだ、ビスケットだって紅茶に浸して食べるじゃあないか。あれは間違いなく英国の文化だろう」
「お言葉ですが旦那様、英国の労働者の文化でございます。もしくは子供の。いずれにせよ洗練された行為ではございません。お世辞にも――」
「『紳士の振る舞いであるとは申し上げかねます』か?」
 他者を諌める重々しい従者の声と、未だ稚気のあとが残る彼の声は、その一文においてぴたりと唱和した。単語それぞれの発される間隔も抑揚も、英国の上流社会に奉仕するための「容認された」発音も全て。彼にとってはすっかり耳に染み付いたもので、模倣は造作もないことだったのである。
 この反撃に、従者も一瞬間は言葉を途切れさせ、彼の目をまじまじと見返してきた。が、立ち直るのも早かった。謹厳を絵に描いて貼り付けたような、平素の表情をすぐさま取り戻した従者に、彼は舌を巻いた。
「さようでございます。旦那様にふさわしい行いであるとは、わたくしの口からはとても申し上げられません」
「ぼくにふさわしい行いだって! お前はぼくを何だと思っているんだ、ウィギンズ? 生まれながらの貴族じゃあない、たかが二代しか遡れない鉄道成金のどら息子だぞ」
「はい、旦那様。だからこそ、鍍金張りでない本物の紳士になれるよう力を貸してほしいのだと、そう仰ったのはあなた様でございましょう」
 次は主人が言葉に詰まる番だった。もとい、大抵の場合は彼のほうが言葉に詰まる役どころだ。そう昔のことでもない発言を引き合いに出され、彼は喉の奥から軋むような音が出るのを感じた。うなじの辺りが不自然に強張った。
「わたくしがこうしてお諌めするのも、全ては旦那様がお望みになったがためでございます。そうでもなければ、どうして従者が主人に口出しなどいたしましょうか」
 眼前で粛々と述べる従者の顔を、彼は眉根に力を込めながら凝視した。有効そうな反論は思いつかなかった。せいぜい悪あがき程度の台詞として、
「ぼくが言い出す前から、お前は概ねそんなふうだったと思うけどなあ」
 という、ろくな根拠もない一文を口にできたぐらいだ。
「ウィギンズ、その――あれは、お前には受け入れられないか」
「わたくしからはお勧めいたしかねます」
「他人のそれを目にするのも嫌か」
「他人ならざる旦那様の思し召しであろうと嫌でございます」
「……そうか」
 交渉の余地はないらしかった。であれば主人は主人らしく、ここで従者に引導を渡さねばならない。

「もういい、解った。お前が言うなら仕方がない。ドーナツはやめだ」
「よろしゅうございます。では、やはりコーヒー・ケーキにいたしましょうか。あるいはシェリー酒を少々奮発いたしまして、キャラウェイとシナモンも効かせたビスケットなども――」
「いいや、ティーそのものも取りやめだ、ウィギンズ」
 軽く息を吸ってから、彼は日来発することのあまりない、毅然として威厳のある声を張り上げた。すっかり平時の落ち着きを取り戻していた従者が、微かに身動ぎして彼に顔を向けた。
「家にいるのもやめにした。ぼくの白いトリルビー帽とステッキを出せ。今日は暖かいから外套はいらないだろう」
 胸は反らされ、それに従って細い顎もやや上がり、ダークブルーの目は石のように従者を睥睨した。彼自身のいち側面というよりは、劇場で封建時代の君主を演じる役者のごとく、彼は振る舞った。そして大股に部屋を出ていこうとした。
「――旦那様?」
 足が半ばで止まったのは、言うまでもなく従者のせいだった。駆け出すような靴音などまるで聞こえなかったにも関わらず、影のような姿は既に戸口で待ち構えていたのだ。
「どうした、ウィギンズ」 自分より三インチは上にある顔を、彼は決然と見上げた。
「愚問を呈するようで恐縮ですが、旦那様、本日のティーは外で召し上がるのですか?」
「そう言ったも同然だな」
「……コーヒーとドーナツをでございますか」
「お前が作らないんだからそうするほかないじゃあないか。少なくとも、現時点のぼくに自力でのドーナツ作りは不可能だ。最悪のところ年に四千ドルの物件が全焼するし、最善を尽くしたところで、小麦と卵の惨殺体が上がるだけだろう。ぼくは台所のどこに揚げ鍋があるかも知らないんだ。お前が触らせてくれないから」
 また少しの沈黙があった。
「まあ、……その、ハーフダラーで釣りが来るようなどこかのダイナーのドーナツは、たぶんお前が作るものとは比べ物にならないと思うが」
 視線をやや下へと向けながら、彼は小さく口を動かした。さすがに言葉が過ぎたかと考えもしたが、今更弁解など却って卑怯ではないかという思いもあった。
「よろしゅうございます」
 二の句が出ずにいる彼の頭上から、煙雨のように言葉が降りてきた。暖かさは含まれていなかったが、冷たく打ち付けるような響きでもなかった。
「本日の午後、きっかり四時十五分前に食堂へお越しくださいませ、旦那様。お望みのものをご用意します」
「――へっ?」
 彼は弾かれるように目を上げた。従者の顔つきは平静を通り過ぎていた。なんとしても平常心でやり遂げてみせる、という断固たる決意が表れていると言ってもよかった。
「いや、ぼくは……お前が嫌というものを無理にやらせるつもりはまったく」
「いいえ、旦那様」 そこで一呼吸き、従者は続けた。
「お聞き苦しいものをお耳に入れてしまい、まことに申し訳がございません。わたくしの職業意識の暴走とも言えましょう。謹んでお詫び申し上げます」
「いや――」
「わたくしはあなた様の従者、すなわち使用人でございます、旦那様。主のお役に立つserveことができない者に、使用人servantと名乗る資格はございません」
 従者はきっぱりと言った。そして深々と一礼し、部屋を出ていった。

 昼食はいつもと変わらず午後一時に出てきたし、数日前に所望したとおりのものが運ばれてきた。トマトのゼリー寄せを前菜に、リーキのスープ、冷製のサーモン、少し辛いブルーチーズ・ソースの掛かったチキン、食後にはチェダー・チーズのクランブルが乗った「いなか風」アップルパイ。
 黄金色に輝く暖かなパイにナイフを入れながら、主人は考えた。――これだって別段「紳士にふさわしい」食べ物というわけでもないだろうに、嫌がられたりはしなかった。やはり食品そのものではなく、「浸す」という行為が問題なのだろう。まあ、少なくともこれをコーヒーに浸して食べるのは無理なわざだ。美味しくなりそうもない。
 食事を終えた後、彼は書斎でひとときクリストファー・モーリーの世界に没頭したが、夕刻が近づくにつれて気もそぞろになり始めた。懐中時計を取り出す回数は明らかに増え、三時を回るころにはもう書見どころではなくなっていた。
 彼は閉じた本を凝視し、煩悶した。食べ方ひとつで紳士か否かが決まる、とは露ほども思っていない。だが、人の嫌がることを目の前で見せつけるなど、紳士以前に人として正しくない。けれども食べてみたいのだ、コーヒーに浸したドーナツを……
 主人を呼びにやってきた使用人見習いページ・ボーイの少年が、気遣わしげに声を掛けるまで、彼はずっと思いを巡らせ続けていた。

 食堂の扉が開いた瞬間、心のうちからあらゆる悩みと気がかりが、あたかも早春の風に吹き飛ばされる煙のごとく消え失せるのを彼は感じた。嗅覚のためだった――この上なくかぐわしいバターとナツメグ、溶けた砂糖と新鮮な揚げ油の匂いが彼を圧倒した。その間にも、給仕用のワゴンを押して入ってきた従者は、クロスの掛かった卓に薫香漂う陶器のコーヒーカップを置き、木の籠を捧げ持つように取り上げると、何かの儀式めいて彼の前に差し出した。中にはもちろん、ドーナツが満載されていた。
「ああ、ウィギンズ!」
 彼の口をついた溜息は、紛れもない感嘆のそれだった。彼とてドーナツを見るのはこれが初めてではない――当然だ。子供の頃から親しんできた、馴染み深い菓子には違いない。だが、作る者が作ればここまで見事な一品になるとは! こんがりと揚がった表面からして、とても「脂ぎっている」などとは言えない、「黄金色に輝いている」と表現するべきだ。あるものは貴婦人のごとく粉砂糖で優美に化粧し、あるものはひねりの効いた姿にトパーズ色をしたオレンジの砂糖漬けを飾り、またあるものは今しがた熱いシロップで沐浴を済ませてきたものと見える。
 うっとりと瞑目し、彼は甘い期待に我が身を沈ませた。それから、しっかりと温もりの残る宝の輪を一つ、辛抱たまらぬとばかり手に取り、――我に返った。
「……ウィギンズ」
「はい、旦那様」
 後ろへ控えていた従者から短い応えがあり、続く数秒間で彼はこの後の会話を完璧に予期した。予見できぬはずがなかった。彼にできるのだから、従者にもとうに予測はついていたことだろう。

 ――もう一度聞くんだがな、ウィギンズ。
 ――なんでございましょう。
 ――やっぱり嫌か?
 ――いいえ、旦那様。
 ――どうしても嫌なら嫌と言え。
 ――どうしても嫌でございますが、致し方ございません。

「ティーの間は、ぼくの給仕はしなくてもいい」
 だからその予測を裏切ることにしたのだ。事実、顧みてこう口にした瞬間に、従者は不規則に数度瞬きをした――ように彼には思われた。
「は、さようで」
「そうだ。……もう下がって、お前も休憩を取れ。それでも八時には間に合うだろう」
 主人として、ないしは紳士として、これが正しい態度なのか彼には知る由もない。何もかもうまく丸められる妙案は、結局のところ最後まで思いつかなかったのだ。ただ、にべもなく突っぱねられるほどの愚策でもなかったらしい――従者はいっとき黙り込んだが、待たせている間にコーヒーと菓子が冷めてはいけないと思ったのだろうか、
「お心遣い痛み入ります、旦那様」
 とだけ答え、慎み深い礼を彼に向けると、音もなく食堂から姿を消した。

 彼独りきりの空間で、揚げ菓子の輝かしい姿と匂いだけが賑やかだった。一度は籠に戻してしまったドーナツを、彼は再び手に取って鼻を近づける。ナツメグとシナモンが甘く誘いをかけてくる。これは子爵家の若様だかなんだかにも堪えられないはずだ。そして自分は今、もっと罪深いことに手を染めようとしているのだ……
 指先を砂糖に塗れさせながら、彼はその輪を半分に割いてコーヒーの淵に沈めた。引き上げて、口に運んだ。

  * * *

 湯気と共に立ち上ったのは、下積み時代の記憶だった。
 未だ「ウィギンズ」と姓で呼ばれる権利を持たなかった、わずかに十二歳という時分のことだ。使い走りの見習いとして、さる屋敷に召し出された彼に、初めてティー・タイムに与る機会が巡ってきた。下級使用人たちが食事を取る狭苦しい一室に、欠けたり汚れたりしたカップとソーサーがずらり並べられ、濃く煮出した紅茶とビスケットが準備された。その末席に顔を出すことを許されたのだ。
 ああ、ビスケット――砂糖二杯の茶に添えられたその焼き菓子は、今まで見てきたどんなものとも違っていた。充分に白く、きちんと型で抜かれ、バターの香ばしい匂いがした。階下の者に出す賄いでこれなのだから、階上の方々はどんなに美しいものを召し上がっているのだろう? もちろん、そんなものは彼にとって知る必要もないことだった。知る必要もないことは知らされないものだ。
 一口齧ってみると見た目通りの、否、目に見えるよりも遥かに素晴らしい味がした。ほんの少し歯を立てるだけで塊は崩れ、軽やかで上品な甘みが舌を優しく撫でていった。それで彼はいよいよ胸を高鳴らせ、知る限りで最もおいしいビスケットの食べ方を――紅茶に浸すというおなじみの方法を実行した。

 数分もしないうち、彼は部屋のあちこちから向けられる「何か」に気付き始めた。周りで同じように休息を取っていた、他の下級使用人たちがみな、時々自分を一瞥しては、さも軽蔑したように鼻を鳴らしたり、眉を動かしたり、目配せを交わし合ったりしているのだ。彼はまごついて食べる手を止め、何が起きているのかを懸命に確かめようとした。とはいえ、何がなし様子がおかしい以外には、ただ紅茶を飲み、ビスケットを食べているだけとしか見えない。自分と全く変わらない――
 ――いや、違う。彼らはビスケットを紅茶に浸していない・・・・・・・・・・・・・・・のだ。

 本当のところ何が起きていたのか、現在の彼はとうに理解している。あの屋敷に仕える使用人たちは、それこそお仕着せも貰わないような下っ端の小姓たちに至るまで、侯爵家の奉公人としての確固たる自負を持っていた。より身も蓋もない言い方をすれば、お高く止まっていたのである。
 彼らはある一つの価値観を共有していた。ビスケットを紅茶に浸して食べるなどとは、「まっとうな品性のある人間」なら決して試みないことであり、冷罵に値する行いである、と。そして、「その程度の常識」も知らぬ田舎者が、己の無知を曝け出したものだから、こぞって第二の茶請けとしたに過ぎないのだ。
 だが、社会といえば故郷の村と小学校ほどしか知らない、当時の彼にとっては思いもつかないことである。結局、彼が同僚たちの態度の理由を知ったのは、それから数日が過ぎた後、上役の従僕フットマンから食事に関する「最低限の礼儀」を教わった時だった。

 その日の勤めが終わり、使用人部屋で簡素な折り畳みベッドに横たわりながら、彼は考え込んだ。頭に浮かぶのはまず両親、あるいは親戚の大人たちや学校の教師のことだ。彼らのうちある者は優しく、ある者は世知に長け、ある者は厳格だが憐れみ深い、いずれ劣らぬ立派な人々だった。そんな彼らも、仕事や家事の合間にほんの少しの時間さえ取れれば、濃いお茶に砂糖をたっぷりと入れ、好みのビスケットを手に取っては、めいめいのペースでカップに沈めていたのである。ひとり残らず。
 考えても考えても足りなかった。自分の知る善良な人々は、みな恥ずべき習慣が身に染み付いた、嘲笑されるに足る存在なのだろうか? 逆に、ビスケットと紅茶にまつわる「最低限の礼儀」さえ弁えていれば、どんなに性根がねじ曲がった人間であれ、優れたものと見なされるのか? 粗末な毛布に包まり、すっかり暗闇に慣れきった目で見る彼の手指はぶるぶる震えていたが、部屋が寒くて仕方がないからか、もっと別の理由があるのか、それさえも彼にはまだ解らなかった。

 そしていつの日か、彼は気にも留めなくなった。「そういうもの」として自分の中に位置づけたのだ。ここでは我を通すことなど求められていない。一生を使い走りとして過ごしたいのなら話は別だろうが、自分は違う。いずれはただの雑用ではなく、靴磨きかランプの手入れか、何かしらの持ち場を与えられるだろうし、やがてお仕着せに身を包んだ従僕となり、そして上級の使用人に、執事バトラー従者ヴァレットになるのだ――そのためには、たとえ生まれは賤しくとも、正しい行いを身に着けなくてはならない。言葉遣いも食事の取り方も、歩く速さも表情の作り方も、身分を除いた全てにおいて紳士でなければ。そこまでして初めて、あの黒い背広に身を包んだ男たちと同じ、「紳士に仕える紳士gentleman's gentleman」という肩書きで呼ばれるのだ……

 まとまりのない記憶の流れは、懐中時計のベルで遮られた。湯を注いでからきっかり五分が彼の思う「完璧な」「使用人の」紅茶だった。今や彼は欠けも茶渋もない、模様入りの磁器で飲むことを許されているし、ビスケットを何枚添えようが誰の顰蹙を買うこともない。それでも使う茶葉は貯蔵庫で最も等級の低いものだし、どんなに出世しようと使用人である以上は、主人と食卓を共にすることなど決してない。それが決まりというものだ。
 しかし、あの主人は――成金の放蕩息子と世には知られた、二十二歳の稚気に富む青年は、それを正しいことと思ってはいないのだろう。使用人を家具ではなく人間として扱い、階下へたびたび出入りをし、建前以上の親しみを持つものは、つまり紳士と呼ばれるのに値しないのだろうか。朝はしばしば独りで着替えをし、午後四時にはコーヒーにドーナツを浸して食べ、九時の夕食まではとても腹がもたないという「旦那様」は?

 しばしの間、従者は瞑目して熱い紅茶の匂いをかいだ。次に目を開けたとき、湯気の中に一瞬間だけ答えが閃いた気がした。けれども、それはあくまで気がしただけだ――彼は皿から一枚のオートミール・ビスケットを取り、半分に割った。考えに耽るほど休息のときは長くない。夕食は八時ちょうどに始まる。たとえ主人が咎めなくとも、始めなければならないのだ。
 それでも、ぎざぎざの断面を目にしたとき、彼はほんの僅か思いを巡らせてしまった。柔らかな淡紅色の水面で、小さな泡が一つ弾けるほどの間だけ。
 彼はカップを一瞥し、静かに頭を振った。そして焼き菓子の片割れをゆっくりと持ち上げ、何も足さずに口へ運んだ。

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