塵一つ落ちていない階段を、音一つ立てずに上る。手に銀の盆を携えて。


夜の名残を飲み干して -Sweet Burden-

 階上は静まり返っていた。土曜日の午前九時であることを考慮すれば、別段不思議なこともない。金曜の夜には目一杯享楽に耽り、翌朝は昼前まで惰眠を貪る、若い紳士のお決まりというやつだ――けれども今日は少々事情が異なる。ゆえに従者は熱い紅茶を持って主寝室を訪れ、あくまで静かに扉を開けたのだ。
 果たして、主人は未だ夢の中だった。深い藍色のリネンが掛かった寝台の上、白い枕に片頬を押し付けて、すっかり眠り込んだ横顔を外気に晒していた。もしも平時ならば、起床時間を見誤った己を恥じ入り、紅茶を下げて自然な目覚めを待つところだが――
「旦那様」
 決して声高にならぬよう、低く落ち着き払った響きを保ちながら従者は呼んだ。応えは何もなかった。部屋の主、すなわち彼の主人である若い紳士は、羽根布団の中で身じろぎもしなかった。
 従者はサイドテーブルに盆を乗せ、ひと呼吸置いた。安らかな寝息を乱したくはなかった。とはいえこれは仕事である。懐中時計はきっかり二分前に目覚めの時間を告げている。起こさなければならないものは仕方がない。
「お目覚めの時間でございます、旦那様」
 寝台から一歩下がった位置で、もう一度声を掛ける。こたびは微かな応えが――といっても明確な言葉ではなく、子供がむずかるような呻き程度のものだったが――確かにあった。白い鼻筋に小さな皺が寄り、暗色の髪が枕の上で僅かに乱れた。瞼だけは主の安寧を頑なに守ろうとしていたが、それも時間の問題だった。
「――ウィギンズ?」
 睫毛の下から覗いたダークブルーの目が、傍らに立つ壮年の男をぼんやりと見上げた。
「おはようございます、旦那様。午前九時でございます」
 眠りの世界から新たな一日へと、迎え入れるような微笑をもって従者は一礼した。後は完璧な段取りで、主人に目覚めのお茶を供し、温かな朝食の待つ食堂へ導けばよい。若者を紳士にふさわしく装わせるための準備も、衣装部屋には万端整っている。
 ところが、当の主人は重たげに瞼を持ち上げたかと思えば、床に落ちる陽光の断片に一瞥をくれただけで、外界と手を切ることに決めたらしい。返事はこうだった。
「もう一時間寝る。……十時になったら起こしてくれ、ウィギンズ」
「なりません」 従者は断言した。
「本日は叔父上のミスター・シンクレアと会食のご予定がございます」
 とたん、寝具全体が踏みつけられた獣のごとく悶え、起きているときにはまず聞かれないような、低い唸りが這い出してきた。
「……そういうものがあったかな」
「念のために昨晩もお知らせ申し上げましたが」
「そうか。……そうだな、それで寝付きが悪かったんだ」
 吐き出された溜息からして、主人のご機嫌が麗しくないのは明白だった。それで従者は同情するような面持ちを作り、ゆっくりと左右に頭を振ってみせた。
「行かなきゃ駄目かなあ」
「仮に旦那様のご出席がなければ、叔父上やご実家の方々の心証を悪くするものと推察いたしますが」
 またも呻き声が返ってきた。悪夢に魘される子供のそれと聞こえなくもなかった。
「どうして放っておいてくれないんだろうな、自分たちで追い出しておいて」
「確かに、旦那様は現在、ご実家の方々といささか疎遠であると言えましょうが――」
「もっと簡単な言い方もできるぞ、ウィギンズ。勘当されている、というんだ」
「そう表現することは不可能とも申し上げられませんが」
 未だ枕から顔を上げる様子のない主人に、従者は諭すような口ぶりで続ける。
「とはいえ、旦那様は変わらずロスコーの姓を名乗っておいでです。そして現在のところは、ご実家からのお手当によって暮らしていらっしゃるのですから、完全な絶縁状態にあるとは言えないかと存じます」
「……それで?」
「たとえ一つ屋根の下にはなくとも、旦那様は未だロスコー家の一員なのでございます。それゆえ野放しにしておくわけにはいかない、といった所かと推察いたします」
 内心では温度を失ってゆく紅茶のことを気にかけつつも、あくまで滔々と従者は述べた。それからふと言葉を切り、
「わたくしとしたことが、『野放し』などとは極端な表現でございました。不躾な言葉遣いをお許しくださいませ」
 と神妙に付け足した。主人はさほど心を動かされなかったようで、拗ねたように鼻を鳴らす音が返ってきた。
「塞ぎ込んでおられるのはわたくしも存じております、旦那様。わたくしといたしましても、休日をゆっくりお過ごしいただきたいのはやまやまでございます」
「そうだろうさ、ウィギンズ。お前は優しい男だ。人の心が解る男だ。叔父とは違う」
「もったいないお言葉でございます」 従者はかしこまって一礼した。
「しかしながら、旦那様、一度そうと取り決めてしまったことは、やすやすと反故にするわけにも参りません。どうぞ床をお離れになって、まずはお茶でご気分をさっぱりとなさいませ」
 この期に及んではまさか主人も抵抗はしないだろうと、従者はいくらか楽観的に考えていた。しかし、諦めの悪い若紳士はいよいよ子供じみた態度になり、勢い任せにリネンを引っ被るや、
「いらない。お前たちで飲め」
 と言いつけたのである。
「は、さようで」
 コーヒーのほうがよろしゅうございましたか――等とは聞いても詮無いことだろう。従者は傍らのティーセットをちらとだけ見て、すぐに平静そのものの答えを返した。
「では、ご朝食の折にコーヒーをご用意します。焼きたての卵とハムで元気をお付けになれば、二時間少々の会食など、旦那様には物の数でもないかと存じます」
「コーヒーだけでいい」 重なり合った布の奥から、そんな言葉が漏れ聞こえた。
「いいえ、旦那様。起き抜けに空腹でいらっしゃるところ、コーヒーだけでは刺激が強うございます」
「……それならもう何もいらない、ウィギンズ」
「旦那様――」
 いらない、と布の塊は繰り返した。従者は沈黙し、次の手を考えた。むろん、押し問答を永久に続けている場合ではない。使用人としては速やかに折れるべきだ。が、従者として望むことは、適当な折り合いをつけることではない――主人の塞いだ心が、窓の外と同じほどに晴れることだ。
「それでは、このようにいたしましょう、旦那様。予定のご朝食を召し上がるか否かは別として、栄養をお取りになるに如くはのうございます。わたくしが温かいチョコレートをお持ちします。それを召し上がりながら、改めてお考えになるというのは」
 てきめんとまではいかなかったが、この提案は確かに効き目があった。静かに考え込むような間を置いて、皺の寄った布が解け、深い青色の瞳が姿を現した。
「……チョコレートだって?」
「はい、旦那様。少々お時間を頂戴することにはなりましょうが」
 再び静寂があった。喜ばしいことに、若主人は理性を取り戻しつつあるようだった。
「解った。持ってきてくれ、ウィギンズ」
「かしこまりました」

  * * *

 ヘンリー・ロスコーは待ちかねていた。今日もきっと塵一つ落ちていないだろう階段を、音一つ立てずに従者が上ってくるのを。
 カーテンが半分ばかり引かれた窓から、朝の太陽が金の光を投げかけている。床に落ちた輝きを一瞥するだけで、外の好天は伺い知れる。絶好の外出日和、五番街を冷やかして歩くにも、またマディソン・スクエアで気軽なお喋りを楽しむにも打ってつけだ。――忌々しい昼食会さえ予定されていなければ。
 あの叔父と二時間以上も顔を突き合わせて食事をすると考えるだけで、胃袋の底まで凍りつくようだった。「熱すぎずぬるすぎず」の紅茶が何の助けになろうかと、彼は痛む頭で思っていた。いっそこの寒気が行き過ぎて、風邪でもなんでも引いてしまえばいいと、本気で考えさえしたのである。
 だが、物柔らかな従者の声を聞いているうちに、彼の心には段々と、頑なでわがままな自分自身への恥じらいが生じ始めていた。従者が一礼して部屋を出ていったとき、彼は羽根布団の中で自分の腕にぐっと爪を立てた。――あれほど主人に対して暖かな、それでいて押し付けがましくない気遣いのできる男を、どうして自分はああも軽々しく無下にしたのだろう? 主人がどれだけ不愉快だろうが、仕える側には何の責任もないはずなのに。
 生温い床を抜け出し、丈の長い茶色のガウンを羽織りながら、彼は大きな溜息をついた。部屋の扉が開いたのはちょうどその時だった。
「お待たせいたしました、旦那様」
 再び寝台に腰掛けた彼の前に、従者はうやうやしく盆を差し出した。鴨の羽色ティール・ブルーに金の縁取りがついた、ティーカップよりは少し背の高い器が載せられている。中を覗き込まずとも、立ち上る湯気と香りですぐに判った。間違いなくチョコレートだ。
「ああ、ウィギンズ……」
 カップとソーサーを受け取り、指先で心地よい熱を味わいつつも、彼の気はそぞろだった。言わなければならないことがある。問題はどのように言うかだ。従者がサイドテーブルに盆を置き、また向き直るまでには少しの間しかない。深く考えを巡らせるには足りなかった。
「……ウィギンズ」
「なんでございましょう」
「さっきは、……紅茶のことは、いや、それ以外もだ、ぼくが悪かった」
 言って、彼は息を詰めながら従者を凝視した。謹厳な表情が目の前でふと緩み、微笑となって彼を見返したときには、全身を覆う氷がひと時に溶け出したように感じられた。
「紅茶はナサニエルに下げ渡しました。滅多には飲めない上等の茶葉でございますから、大変な喜びようでした」
 使用人見習いとして住み込む少年の名を挙げて、従者は彼の心を解すように答えた。
「そうか、それならまあ……お前にしてみればあんまりよろしくもないだろうが、特別悪くもないか」
「さようでございます」
「じゃあ、次にぼくがするべきは、これが冷めないうちに飲むことだよな?」
「はい、旦那様」
 
 改めてカップの中を見ると、すぐに気付くことがあった。色が驚くほど濃いのだ。彼にとって「ホット・チョコレート」といえば、カカオの持つ焦がしたような陰りをミルクで和らげた、なんとも気持ちの休まるような明るい茶色である。だが彼の目に映るのは、あたかも冬の夜闇をそのまま注ぎ込んだかのような暗い色だ。ヨーロッパではこれが標準的な色味なのだろうか? それとも、未だすっきりしない頭を完全に目覚めさせるには、チョコレートといえどコーヒーに劣らぬほど強くなければならないということだろうか? 訝しみながらも、彼はとりあえず一口飲んだ。
 そして次の瞬間、思い切り噎せそうになった――熱すぎたわけではない。そこは勝手知ったる従者のこと、例によって「熱すぎずぬるすぎず」の見事な塩梅だった。否、普段の紅茶よりはいくらか熱めだったかもしれないが、それは問題ではなかった。
 苦かったのだ。舌が縮み上がるかと彼には思われた。もう少しで叫び声を上げるところだった――"ウィギンズ! 何だこれは、砂糖が入ってないじゃあないか!"
 だが一拍置いて、彼は自分の心に、もとい、舌に訴えかける何かを感じた。それはそれは苦かったが、今口に残っているのは甘みだ。ほんの微かではあるが、確かに甘い。砂糖とは違う、炒っただけのナッツを噛み締めたときのような……
 彼は目を見開き、大きく息を吸った。鼻から額へと、煮詰めたカラメルにも似た匂いが通り抜けていった。深煎りのコーヒー豆を思わせる香りもした。二、三度の瞬きを経て、自ずと手が二口目のためにカップを持ち上げた。
 次はもう少し早く甘さがやって来た。舌が苦味に驚かなくなったのかもしれない。口の中にしばらく留め置くと、一口目よりも多くのことが判り始めた。例えば、スパイスの風味――クローブとシナモンではないかと彼は思った――や、決して消え入ることのない苦味が、甘味を力強く支えていること、そして何より、石でも詰め込まれているかのように重たかった胃袋が、少しずつ温められ、息を吹き返しつつあることが。
「ウィギンズ」
 深く深く息を吐いて、彼は絞り出すように言った。 「美味しい」
「ありがとうございます」
「どうやって作ったんだ? いや――ホット・チョコレートなんだから、チョコレートを湯煎して作ったには違いないんだろうが、何を入れた? ぼくの見立てじゃ、スパイスが数種類は入ってる。それにコーヒーの粉も少し」
「いいえ、旦那様」
 得意がるような素振りは微塵も見せずに、従者は頭を振った。
「チョコレートのほかには、ひとつまみの塩とシングル・クリームのみでございます」
「本当か? たったそれだけ?」
 彼はもう一口飲んだ。一気に流し込んでしまうのはあまりに惜しかった。目を閉じて感覚を研ぎ澄ますと、後味に僅かながら酸味も感じる。赤い実をつけるベリーのような、しつこくない甘酸っぱさだ。カップを傾けるたび、次から次へと新しい味と香りが顔を出す。それを捉えようとするうち、気疎さの中にいた頭の働きが、次第に覚醒し、より鋭敏になってゆく――

「なあ、こんなことを言い出すのはもう遅いかもしれないんだが」
 大切に大切に、永の別れでもするように味わっていたはずなのに、気がつけば彼の手元でカップは空になっていた。立ち上る残り香だけが、一杯分の奇跡を証明していた。
「いかがなさいましたか、旦那様」
「さすがに今からじゃあ、朝食にする時間はないよな、ウィギンズ」
 さようでございますね、というお決まりの返事を予期しながら、彼は口に出すだけ出してみた。果たして、従者は平然とした顔でまた首を横に振り、
「いいえ、もしも旦那様が、お召し物を平時よりも少しばかり迅速にお選びくださるのであれば、フル・ブレックファストをゆっくり召し上がるだけの時間はございましょう」
 と、確信があるかのように答えた。
「そうか、よし、決まった。ベーコンは普段の倍焼いてくれ。バター・トーストにはママレードだ。あの叔父と対決するんだ、お前の言う通り、栄養を取るに如くはない」
「よろしゅうございます」
「もちろんお前のことだから、マッシュルームのソテーを忘れたりなんかしないはずだ」
「よもや忘れたりなどいたしません」
「やっぱりお前は完璧だ、ウィギンズ。それで、そうだ、服のことなんだが」
 彼はやにわに神妙な顔を作り、期待と信頼を込めた目で従者を見つめた。
「お前がうちに来てから、ええ――一年とちょっとだから、まだ叔父に会ったことはないはずだよな」
「残念ながらお目にかかったことはございません。お噂はかねがね伺っておりますが」
「じゃあ、こういう噂はどうだろうな。この叔父には人と会うときの悪癖みたいなものがあってだな、相手が自分より目下か年下となると、その外見的特徴を――大抵は服装だが――笑いものにせずにはいられないんだ」
「さようでございますか」
「別にあっちだって、服飾にまつわる確固とした信念があるってわけじゃあないはずだ。『小粋な伊達男』というより、『密輸からファッション犯罪にまで手を広げ始めたフランキー・イェール』みたいな格好が常なんだからな。まあ、たぶん『相手の落ち度』を軽く笑い飛ばしてやるのが、緊張を和らげる一番の近道だとでも思ってるんだろう」
「さよう推察いたします」
「……お前はそれが紳士にふさわしい振る舞いだと思うか、ウィギンズ?」
 従者はうっすらと笑みを浮かべ、ただ彼を見つめ返した。わたくしの口から申し上げる必要などございましょうか、とでも言うように。
「良いか、――あちらの流儀に合わせるつもりはさらさらない。ぼくは紳士らしく行くぞ。なあウィギンズ、当然お前は、まことの紳士がどんなふうに装うべきか、ちゃんと解っているんだろう?」

 答えはすぐに返ってこなかった。だが、主人は少しの不安も覚えなかった。従者に考えがあることは、とうに察していたからだ。
「旦那様、日来あなた様がお選びになるお召し物は、一つの例外もなくお似合いでございます。大層お美しゅうございます。――ですが、もしもわたくしに一任いただけるのであれば……」
「任せる!」 彼は勢い込んで断言した。
「……であれば、わたくしの持てる限りを尽くしまして、最上の取り合わせをご覧に入れましょう。リッツ・カールトン・アトランティックシティのダイニングはおろか、そのままロイヤル・アスコットの特別席へお出ましになってもよろしゅうございます」

 口笛を高く吹き鳴らし、カップをサイドテーブルに置いて、若い紳士は寝台から飛び降りた。今にも衣装部屋へ突進しかねない勢いだった。従者は穏やかな面持ちのまま、朝食は寝室と食堂のどちらで取るか、主人の意向を慇懃に尋ねた。

inserted by FC2 system