自宅の扉を開けて、ほっと一息つく。


冷たい手を -In Good Hands-

 あまりに日常的な動作に思えても、これが実は並大抵のことではないのだ。前世紀からおなじみの「我が家に勝るものなし」なる一文も、当たり前のように口にするには、様々な条件をパスする必要がある。
 だが、その点で我が家ときたら――重たい扉がゆっくりと、音もなく開くのを眺めながら、ヘンリー・ロスコーはしみじみと思った。彼の眼前には、暖かな白熱電球の光を遮るようにして立つ人影がある。
「お帰りなさいませ、旦那様」
 長身に礼服を纏った壮年の男は、ロスコー家の若主人に穏やかな微笑を向け、言葉と共にうやうやしく頭を垂れた。戸口から吹き込む十一月の風になど、微塵も動かされる様子はなかった。
「出迎えありがとう、ウィギンズ」
 彼は心の底から安堵の息をつき、深く感じ入った。この男は全てを理解しているのだ。決して急がず、しかし速やかに錠前を下ろすこと、主人の外套とストールを静かに脱がせ、トップハットと黒檀のステッキを預かること。何もかも当たり前のように滑らかに。――ああ、こんな従者さえいてくれるなら、きっと「埴生の宿も我が宿」だ。

 暖められた心が緩み、ホワイト・タイの装いが緩めば、自ずと唇もまた緩むというものだった。まだ自室にも辿り着かないうちに、彼の口からは次々と言葉が飛び出した。
「やっぱりジェラルディン・ファーラーだよ。半可通と呼ばれたくはないから、御託を並べるのはよしておくけれど、彼女のような女性こそが、まことのプリマドンナなんだ――それだけは間違いない。ああ、お前も連れて行くんだった! そうすればお前も、彼女の素晴らしい衣装と『歌に生き、愛に生き』を楽しめたし、ぼくは花をもう一抱え追加で投げられたのに……」
 話題はとにもかくにもオペラだった。彼が外出したのは他でもない、メトロポリタン歌劇場で今シーズンの初演プルミエとなる「トスカ」を鑑賞するためだったのだから。悲痛なラストシーンに心突き動かされ、またカーテンコールで歌手たちに喝采した高揚が、体温と共に彼の中で蘇っていくようだった。
 他方、従者はあくまで冷静に、しかし白ける素振りなどはなく、バリトンの壮麗さや羊飼いの牧歌の思わぬ美しさについて真摯に頷き、適切な相槌を打っていた。が、主人の熱弁がちょうど第三幕の二重唱に差し掛かったとき、
「話の腰を折るようで、まことに不躾かとは存じますが、旦那様」
 と、ついに彼の言葉を遮った。
「どうした、ウィギンズ」
「手袋はいかがなさったのですか?」
 あからさまに訝しげではなかったが、微かに陰のある響きだった。問われて彼は、ああ、と何でもないような声を投げ、片手をひらりと振ってみせた――何も身に着けていない、素裸のままの右手を。
「手袋なら、ちょっとね、人にやってしまったんだよ」
 一切の隠し立てなく答えた。というのは、彼自身に別段何の後ろめたさも無かったからだが、従者は暗色の眉を更にいくらか寄せて彼の顔を見返した。
「つまり、どなたかに差し上げたと仰るのですか」
「そう。いや、これは帰りがけのことなんだが、路電を待っている途中、横道のところにしゃがみ込んで何かしている若いご婦人を見つけたんだ。劇場の灯りも届かないような場所で、独りきりでだよ」
 彼は一時間ほど前の出来事を思い返しつつ、何でもないような調子で答え始める。
「一体どうしただろうと思って声を掛けたら、自分は東66丁目のあたりに住んでいる者だが、家の前まで来たところで鞄の中に鍵がないことに気がついたといってね。何かの拍子に落としたかもしれないから、来た道を戻るように探して歩いていたそうなんだ」
「レノックス・ヒルの界隈からブロードウェイまで、でございますか? 若いご婦人がお一人で、それも夜の遅くに」
「そうさ。たぶん、よっぽど動転していたんだろうな」
 従者の問いに、彼は考え深げな顔で頷いた。東66丁目といえば、彼が住む36丁目にも劣らぬ――否、昨今は遥かに凌ぐといって差し支えないかもしれない――高級住宅街であり、豪奢なアパートメントが次から次へと建っている地区だ。そんな「上層」への鍵を失くしたとなれば、一大事には違いない。
「そういうことならと思って、ぼくは一緒に探すことに決めた。路電は逃したって、車を拾えばいいことだからな。それで、よく見たら彼女はこの寒い中で素手だったんだよ。あんまり気の毒だから、ぼくの手袋を貸してやったのさ」
「さようでございますか。……鍵は出て参りましたか」
「ああ、十五分かそこら探したかな。そう、ちょうどホテル・ナヴァーレの辺りまで行ったところで、彼女のほうが見つけたよ」
「それはよろしゅうございました」
 あまり安堵した様子のない声色で従者は応えた。表情だけは平静そのものだったが、明らかに何かが引っかかっているようだった。
「送って行こうと言ったけれど、彼女は断ってね。どうせホテルの前だから、すぐにタクシーが回ってくるだろうと――それでも待つには待つだろうし、今晩は車の中だって冷えるから、ぼくは手袋を返してもらわないことにした。これが顛末さ」
 彼はさっぱりと話し終えたが、従者はなおも思案顔を続けていた。逆に彼のほうが怪訝な気分になってきた。この男が実に聡明な、万事において意見を仰ぐにふさわしい人物だというのは承知だが、それにしたって今夜は懐疑的すぎると見える。

「……旦那様、恐れながら申し上げますが」
「そう恐れるほどのことはないと思うぞ、ウィギンズ」
 暖房が効いているとはいえどうにも冷たい空気をなんとか和らげるべく、彼は明るい調子で軽口を叩いたものの、従者には通用したとは言い難かった。
「ともすればそのご婦人は、元より旦那様の手袋、ないしその他のお手回り品が目当てだったのではありますまいか」
「なんだって?」 彼はぎょっとして顔を顰めた。
「富貴な方々で混み合う場所には多々あることでございます。いかにも同情を買いそうな体を装い、あるいは親切めかして近づくことで警戒を緩め、相手が気を取られているうちに相方が忍び寄る、というのが常套手段でございまして」
「でも――」
 とっさに彼の口をついたのは否定だった。といって、有効そうな反論の文句をひねり出すには、そこから数秒ばかりの時間を要したが。
「他には何も失くなっちゃいないだろう? 財布も、オペラグラスも」
「そのようでございますね」
「第一、ぼくの手袋なんかくすねたところでどうするんだ。手袋は――手袋じゃあないか。これが金時計だの、宝石だのいった品ならともかく」
「わたくしの着けるような安い古手袋であれば、質屋でも二束三文にしかならないかと存じますが、旦那様が本日お召しになっていたものは仔山羊革キッドスキンの舶来品でございます。それも下ろしたての。買い手がどれほど粘りに粘ったところで、五ドルを下ることはないかと推察します」
 彼は言葉をしばし止め、深い青色の目を瞬きながら、従者の淡々とした説明を聞いていた。初めは当惑と共に、それからより冷静に。
「まあ、そういうことも時々はあるかもしれない、――いや、確かにあるものだ。特にニューヨークなんかでは」
「さようでございます」
「だが、そういうことばかりだとも思わないね、ぼくは」
 白いベストで細く締められた腰に手を当て、彼はきっぱりと言い切った。従者は暗色の目を一度瞬きはしたが、主人の言に耳を傾けることに決めたようだった。
「もちろん、ぼくはお前の心がひねくれてるとか、考え方が歪んでいるとか言うつもりはない。お前の用心のおかげで助けられたことがどれほどあるか。そうだろう?」
「はい、旦那様、本心から述べさせて頂ければ、今夜もお供申し上げればよかったと痛感しております。何か不審があればただちにお知らせできました――仮に鍵の件が事実であったとしても、わたくしが旦那様の代わりにお探しできましたものを」
「おいおい、ウィギンズ!」
 この返答には彼も眉を上げ、調子の外れた声を出さずにはいられなかった。
「さっきの言葉に付け足すと、ぼくはお前が別段ひねくれてるとは思っちゃあいないが、二十世紀の合衆国で生きるのに封建的すぎるとは常々思ってるぞ。ぜんたい、使用人に地べたを這いつくばらせておいて、ぼくは後ろでご婦人とのんびり談笑してろっていうのか? ――それがお前のいう『紳士の振る舞い』か、ウィギンズ?」
 従者は直立不動のまま、覗き込んでくる主人の顔を見つめ返していた。いかにもその通りでございます、という声が聞こえてくるようだったが、実際の返事はなかった。
「とにかく、ぼくは会ったばかりの他人の心をあれこれ疑ってかかりたくはない。ぼくはぼくにとって差し支えのない理由から、手袋を人に譲った。それだけだ」
「さようでございますか」
「さようだ。よって、以上だ。――着替える前に水道を使わせてくれ。そういった経緯だから、ちょっとばかり手が汚れてる」
「では、すぐにお湯をご用意します」
 主人にかく言い切られては、従者も長々と不審げな態度を引きずりはしなかった。表情も口ぶりも、たちまちのうちに平時のそれへと切り替わり、逆に主人のほうが、些かまごつく有様だった。
「そこまでしなくてもいいんだ。良いか、ぼくは暑いのにはまったく耐えられないたちだが、寒さには強いんだよ。なんたってニューイングランド育ちだからな。それより、ぼくの茶色いガウンを出しておいてくれ。あと、寝る前に熱いサイダーを一杯もらうよ」
「かしこまりました」
 従者がおとなしく引き下がったのは幸いだった――引き下がってくれないことなど滅多にはないが、今夜はどうも長引きそうな気がしたのだ。だが、やっと二度目の安息が巡ってきた。彼は軽やかな足取りで洗面台へ向かい、蛇口からの水に手を差し掛けた。

 次の瞬間、彼の口から極めて頓狂な叫び声が――ちょうど「痛い」と「冷たい」の中間あたりを突き破ったような、言葉にならない音が――飛び出した。彼はとっさに手を引っ込め、中空でぶんぶん振った。だからといって何の効果も得られず、大理石の台上から鏡にまで、水滴を跳ね散らかしたに過ぎなかったが。
 痛みを感じた右手を呆然と見つめながら、彼は立ち尽くした。蛇口からはまだ水が流れ続けている。今のは何だったのか、水と共に針だか棘だかが落ちてきて指に突き刺さったのではないか――いや、それどころではない、まずいことになった。こんなばかみたいな声を上げてしまったからには、間違いなく従者がすっ飛んでくるに違いない。一体どう説明すればいいのやら……
 果たして、彼が深呼吸して振り向いたのと、洗面室の戸口に黒い影が滑り込んだのとはほとんど同時だった。よくもまあこの速度で、足音一つ立てずに駆けつけたものだと、彼は内心で呆れ返った。
「旦那様」
「ああ、いや、何でもない。ちょっぴり足を滑らせただけだ」
 何事もなかったように振る舞おうとはしたが、彼の声はやや引きつっていた。従者から何か言われる前に、彼は両手を流水に突っ込み、表面をざっと洗い流して水を止めた。
「……少々お手を拝見してもよろしゅうございますか、旦那様」
 従者は手に白いタオルを持っていた。見るからに洗いたてだ。そして彼が頷くなり、柔らかな布ですくい取るようにして、彼の右手を眼前に持ち上げた。
「ウィギンズ、別に何も――」
「親指でございます、旦那様。爪の付け根の皮が少しばかり抉れてございます。素手で地面近くをお探しになっている最中、誤って傷付けあそばしたのでございましょう」
「そうか? 特に痛みは感じなかったんだが」
「寒さのせいかと推察いたします。屋外の冷気に晒されて鈍っていたものが、暖房の効いた部屋に入っていくらか感覚を取り戻したのでしょう」
「……そうか」
 やはりこの男に対して、中途半端なごまかしなど通用するはずもないのだ。彼が思い知る間にも、従者は手にした布で彼に纏わる水気をすっかり拭き取り、
「ガウンはもう準備してございます、旦那様。どうぞ火のそばでお待ちくださいませ。わたくしもすぐに参ります。ラベンダー油とヴァセリンの用意がございますので」
 と言って手を離した。依頼の形を取ってはいたが、否とは言わせない雰囲気があった――少なくとも主人にとっては、頷かざるを得ない口ぶりだった。

 従者の言葉通り、談話室の暖炉にはあかあかと火が焚かれ、ソファの上には主人お気に入りの茶色いガウンが、足元にはゆったりとした足置き台が既に万端整えられていた。彼が燕尾服の代わりに化粧着を羽織り、柔らかなクッションに腰を落ち着けたところで、部屋の扉が音もなく開いた。
「お待たせいたしました、旦那様」
 入ってきた従者は、ティーの給仕に使うようなワゴンを伴っていた。上には湯気の立つ洗面器と、畳んだタオルが数枚、それに中身の知れない琥珀ガラスの小瓶やら、平たい蓋付きの容器やらが並んでいる。
「ウィギンズ、ぼくはお前が何をする気だかよく分からないが――」
 彼は軽く眉を上げ、従者の顔を見た。 「ぼくの手一つに大げさすぎやしないか?」
「いいえ、旦那様。あなた様のお体はどちらの部分であれ、全てにおいて優先されるべきものでございます。傷ついたまま捨て置かれるなどもってのほかでございましょう」
「……そういうものかなあ」
 軽く眉間にしわ寄せながらも、彼は座面から身を乗り出した。従者がサイドテーブルにタオルを一枚敷き、洗面器を置いて、勧めるような仕草をした。手を温めろということらしい。
 顔を近づけてみると、湯気と共になんとも芳しい、鼻にすっと通る香りが立ち上っていた。紳士用の香水ほど強くはないが、それに似たハーブや花々の心落ち着く匂い――引き寄せられるように彼はガウンの袖をまくり、両手をゆっくりと差し入れた。しばらく火のそばで過ごした身、指先などとうに温まっていると思っていたが、湯に触れればじんと皮膚が震えるのを感じた。
 従者はといえば、小瓶の蓋をひねって開け、その中身を自らの掌に一、二滴ばかり垂らすと、ぴたりと封をするようにもう片方の手を重ねた。あれが先に出たラベンダー油とやらなのだろう。
「なんだか馴染みのない雰囲気だ、ウィギンズ」
「旦那様にお目にかけたことはなかったかと存じます。皮膚の手入れにはまことに好適な油で、以前お仕えしていたお家では、この季節の必需品でございました」
「まあ、あっちの貴族だとかいった人たちは、手でもなんでも丁重に扱うんだろうな」
「いかに貴いお生まれの方とはいえ、日来の養生を怠れば、不調を来されることに変わりはございません」
 落ち着き払った調子で従者は言い、主人の足元にうやうやしく跪いた。
「では旦那様、いっときお手を拝借します」

 そして従者は彼の右手を、まるで貴婦人に接吻でもするように――というのは彼の主観による、しかし正直な感想だったが――取り上げ、両方の掌で包むように挟み込んだ。湯とは比べるべくもないが、しかし確かな温もりと、肌の感触が彼に伝わってきた。
 一体全体いつから身に着けていた技能なのだろうか、従者は板についた様子で彼の手を取り扱った。固い握手というほど強くもなく、といって表面を撫でる程度の弱さでもない、心地よいと感じるちょうどの塩梅だ。円を描くように甲の全体をさすり、その動きに従って先程の油が薄く伸ばされてゆく。手と手の熱に温められてか、周りには神経を宥めるような匂いが漂い始める。
「ああ、……ラベンダーの香りだ、これ」 深々と息を吐きながら、彼は口に出した。
「でも、それだけじゃあないな。何だろう」
「ラベンダーのほか、オレンジ油、ゼラニウム油、アーモンド油、杜松ねずの油、白檀びゃくだんの油、ひまし油――と、処方にはございました」
「そりゃあ凄いな、現物を見たことがあるのがひまし油ぐらいしかないぞ。ぼくの乳母はあれを万能薬か何かのごとく崇めてたもんだ。腹を下すから嫌いだったんだが」
「前時代的な民間療法でございます。とはいえ、実際のところは旦那様の仰る通り、内服では下剤としての使いみちしかございません」
 彼の指を一本ずつ、丁寧にさすっては揉みながら、従者は慇懃に答えを返した。それに頷きで応じつつ、彼の目は手元にじっと注がれたままだった。指の痛みなぞはとうに消え失せていたが、だからもう結構とも言いたくはなかった――筋の一本一本が引き伸ばされ、柔らかく解されてゆくのは気持ちがよかった。それに、従者が自分の手をどのように動かし、どう変化させようとしているのか、眺めているだけで興味深かったのだ。
「……なあ、ウィギンズ」
「なんでございましょう」
 少し目を上げて問い返す従者へ、彼は何の気なしに言った。
「いや、ふっと思ったんだが、――改めて近くで見ると、きれいだな、お前の手は」

 早まったと気がついたのは、口に出してしまってからだった。「手がきれいだ」というのは、むろん賛辞のつもりだったが、万人に賛辞として受け取られるとは限らないことを、彼はその一瞬間だけ失念していたのである。
 彼は息を呑み、決して軽率に言葉を続けまいと自分自身に言い聞かせた。それから視線を上げ、従者の顔を見た。

「……みだりに接するべからずとは心得ておりますが、とはいえお召し替えの際やこのような機会など、旦那様に直接触れることもある手でございますので」
 幸か不幸か、従者の返事に気分を害された様子はなかった。普段と変わらず穏やかな声は、彼の心に過ぎった危惧を解かしてゆくように聞こえた。手に込められる力にも、これといった乱れは感じられなかった。
「ただ荒れるがままにしておくよりは、健康を保つに如くはのうございます。旦那様やお客様がたを万が一にも傷つけぬよう、あい努めております。ありがとうございます」
 目と目を正しく見合わせて、従者は静かに言った。さして特別らしさもない、やはり何もかも当たり前のような口ぶりだった。
「そうか。それだって大きな手間だろうにな。少なくとも、うちの水回りの掃除はみなお前がやっているわけだろう。それに洗濯も、食器の手入れも」
「はい、旦那様。旦那様の大切なお召し物や食器を、どうして半端な洗濯屋や見習いの手に委ねておけましょうか。さような家政の一大事を遺漏なく手掛けた上で、自分自身にまで手が回る使用人たること、それはすなわち、主人である旦那様の格を上げることにも通じます」
「そんなことまで――」
 彼は驚嘆の息を漏らし、再び従者の手に目を落とした。彼よりはやや大きく筋張った手である。爪を短く切った長い指、滑らかではあるが厚い皮膚。この家に属するあらゆるものを美しく保つため、冷水や熱湯や、摩擦に乾燥、その他数え切れないほどの辛苦に耐えてきた手。
「本当に見上げた男だよ、お前は。……繰り返すようだが、今夜も連れて行くべきだったんだろうな。今のぼく一人じゃあ、鍵を探して手袋を失うのが関の山だ」
「あのお話はお終いになさったのではありませんでしたか、旦那様」
「そうだった。いや、ちょっと思い出しかけて――オペラのことだよ。確かあったろう、そういう歌が」
 物柔らかに尋ねてくる従者に、軽く頭を振りながら彼は答えた。
「それもこんな寒い夜の話で、若い二人が、というのはソプラノとテノールのことだが、鍵を探してるんだ。だけど灯りがないからなかなか見つからなくて……ああ、なんだって曲名が出てこないかな。去年のシーズンにも観に行ったはずなのに」
 突如として反旗を翻した自らの記憶力に、彼は顔をしかめずにいられなかった。一方、従者は彼の右手をあらかた処置し終え、左手に取り掛かろうとしていたが、ふと動きを止めて考え込むように目を細めると、ややあってから口を開いた――

「――"なんと冷たい、愛らしい手なのでしょう どうか僕に温めさせてください
 探したところで何になりますか こんな暗闇では見つかるはずがない……"」

 主人は目を見開き、従者の顔と手を二度も三度も見比べた。色の薄い唇から聞こえてきたのが、いつもの悠揚たる言葉ではなく歌声だったからだ。もちろん舞台上で歌手が轟かせるテノールとはかけ離れた、慎み深いの一言に尽きる響きではあったが、彼の脳裏に歌劇の一幕を蘇らせるには充分だった。この後に続く歌詞も、オーケストラの伴奏とその甘い旋律も、全てを一時に思い出した。
 それで彼は、期待するように従者の口元へ目を注いだ――果たして、従者は彼の手を取りながら、もう一節ばかり続けてくれる気がありそうだった。あとは彼自身が拍子を合わせ、声を重ねるだけだった。

 けれど幸運にも 今夜は月夜です
 こんなにも寄り添ってくれる月が
 きっと僕らを助けてくれるでしょう……

「ああ、それだ、ウィギンズ! 『冷たい手を』だ、ラ・ボエームの!」
 ちょうど一節を歌いきり、彼は眉を開いて晴れやかな声を上げた。ばかりか、もう少しで捉えられている片手を上下に振り回すところだった。
「旦那様のお悩みが解決しましたようで、まことに幸いでございました」
 従者は変わりなく沈着なまま、右手と同じように主人の左手を揉み解し、肌理の奥にまで油を行き渡らせた。それから平たい容器の蓋を開け、爪の先でごく少量――傍目には麦粒程度にしか見えなかった――白色の軟膏をすくい取った。ヴァセリンだった。
「素晴らしい歌劇でございます。今シーズンのメトロポリタン歌劇場では、十二月一日に初演の予定と聞き及んでおります」
「ああ、そうだ。必ず初日のチケットを取らなけりゃあ。もちろん一階の中央ボックスだぞ。その時には――絶対にお前のことを連れていくよ。そうするべきだと解った」
「お心遣い痛み入ります、またとない機会を頂きまして」
 そのごく僅かなヴァセリンの粒で、従者は彼の両手全体を薄く広く、くまなく覆った。そして最後に、両手首を取って静かに持ち上げ、新しいタオルの上にそっと横たえた。この手の軟膏はひどくべたつくものと彼は思っていたが、仕上がりは存外にすべすべとして、脂っこさはまるで感じられなかった。
「さあ、旦那様。貴重なお時間を頂戴しました。今夜はこれまででございます」
 従者は立ち上がり、丁重な礼を向けながら一歩下がった。彼もまた、軽く伸びをしてソファから腰を浮かせた。
「念のため、手袋をお召しになってお休みくださいませ。寝室にご用意します」
「そうだな、せっかくの手入れだ。寝ている間に無駄にしちゃあまずい」
「もう一つだけお尋ねしますが、旦那様、サイダーはベッドまでお持ちしましょうか? それとも別のお部屋に?」
 彼はダークブルーの目を瞬き、はあ、と気の抜けた声を漏らした。けれども、すぐに先刻の会話を思い出した――言いつけたのは自分ではないか。まったく、こんな主人だから、従者は余計な苦労を背負い込むことになるのだ……
「支度は済んでいるのかい?」
「いいえ、ですがもう十分ばかり頂戴できましたら」
「そうか。それなら、今日はもう休んでくれ。いや――まだ休むわけにはいかないのかもしれないが、せめて一つぐらい面倒を減らさせてくれ」
 従者の目をまっすぐ見上げ、彼は敬意を込めて告げた。従者は目を瞬いたが、やがて小さく笑みを返すと、かしこまった一礼と共に出ていった。

 いくら全館に暖房が入っているとはいえ、談話室と比べれば、廊下は薄ら寒かった。それでも、彼は体の芯から幸福だった――寝室へ向かう間のごく些細な動きにも、優しく甘い花の香りが付き従っている。これに手袋で蓋をしてしまうとは、あまりにも勿体ない話だった。
 だが、それはそれで悪くないのかもしれない――肌にぴったりと覆いをかければ、匂いもそう安々と逃げ去ったりはしないだろう。そうして翌朝、再び素肌を陽光に晒したときには、美しい残り香と共に必ず思い出すだろう。従者の献身がいかに尊いものかを。それに報いるための、半月後に控えた一夜の約束を。

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