重たい平箱の蓋が開いたとき、少年は思わず頓狂な声を上げた。歓声だった。


玉磨かざれば -Silver Lining (Has A Cloud)-

 もう少しで座っている椅子から飛び上がるところだったが、辛うじて堪えた。というのはもちろん、自分はたとえ十歳でも屋敷仕えの使用人であり、箱を持ってきたのが上役であることを忘れていなかったからだ。
 長方形の箱の中には、多種多様のカトラリーがぎっしり詰め込まれていた。見慣れたティースプーンやデザートフォークの類だけではない、より小型のものや柄の長いもの、卵用や茶葉用など用途の限られるもの、何に使うのかまるで見当がつかないもの……  大きさどころか、柄の模様も製造元の刻印もばらばらだった。全てに共通していることはただ一つだけだった。変色だ。
「すごいです、おじさ――ミスター・ウィギンズ。こんなにたくさんの種類、どこから探してこられたんですか」
「先日、私用で外出した際に蚤の市が立っているのを見かけました。古い食器を扱っている店があったので、交渉してまとめて引き取ったのです」
 黒いテールコートに身を包み、しかつめらしい顔をした壮年の男性――彼はこの家の主人に仕える従者ヴァレットである――は、部下の少年に淡々と答えた。そして、箱の中から無作為に一本を取り上げた。
「見ての通り、年代も工房もみな統一されていません。状態もかなり悪い。だからこそ安く手に入ったわけですが――獅子の刻印が確かにあるので、スターリング・シルバーには違いありません。見習いとしての練習用にはうってつけです」
 黒ずんだ銀器を光にかざしながら、従者が述べる。少年はその手元にじっと目を注いだ。形としてはごくありふれたバターナイフだが、刃の部分に日本趣味ジャポニズムを気取った模様が刻まれているのが判る。
 本物の銀製品――かつて上流の人々が実際に使っていた食器! 少年の胸に嬉しさと、わくわくする心持ち、そして些かの緊張感がこみ上げてきた。自分も早く使用人としての仕事を覚えたい、銀器磨きや靴磨き、衣装の手入れなどができるようになりたいと、かねてから懇願していた身である。そのたび、沈着冷静の権化というべき上役から、旦那様の大切な品を任せるには十年早いとすげなく却下されてきたのだが、練習とはいえついに機会が巡ってきたのだ。
 口元がにやけてくるのを懸命に堪えながら、彼は技巧的な銀器の黒っぽい表面と、自分より一フィートも高い上役の顔とを、代わる代わる期待を込めて見つめた。すぐにでも箱の中身に手を伸ばしたかったが、それを制するような視線が送ってよこされたので、身を乗り出すだけに留まった。
「まず私が手本を見せます。単純作業と侮らないように。使用人の基本は、なんであれ完璧に磨き上げること、それができなければ階上での働きは望めません」
「はい、ミスター・ウィギンズ」

 銀器の入った箱のほか、従者はいくつかの品を使用人部屋に持ち込んでいた。柔らかな綿布を数枚と、端の欠けた陶器の平皿、褐色の広口瓶、絵具を練り混ぜるときに使うようなナイフ、湯気の立つボウル、そして水差し。
「作法については、お屋敷ごとに違った取り決めがあるでしょう。それは管理人である執事バトラーの好き好きです。今から説明するのは、私が従僕フットマンとして初めて教わった方法です。私が従者と執事を兼ねたお家では、常に採用してきました」
 言って、従者はガラス瓶の蓋を開け、中身を深皿の上に少量出した。暗い赤色をした粉末だった。
「それは――」
「我々は単に『ルージュ』と呼びます。つまり、弁柄のことですよ。これを水と混交し、都度研磨剤を自分で調合するのです。私が教わった時分にはアンモニア水で溶けと言われたものですが、どうやら実際にはむしろ銀を傷めるようですね」
 少年に言い聞かせている間にも、その筋張った手はてきぱきと言葉通りに動いていた。粉末の上に水差しから適量の水を注ぎ、ナイフを使って粉と馴染ませてゆく。使用人としての半生において、幾度となく繰り返してきた行動なのだろう。あまりに手慣れて見えるその動きに、少年は感服したような息を漏らした。
 程なくして、皿には深い煉瓦色のペーストが出来上がった。なるほど、「研磨剤」と言われて納得できるような外見だ。しかし、そこで少年にとって予期せぬことが起きた。従者はその厚いペーストを、ごく当たり前のように親指ですくい取り、手にしたバターナイフの刃に塗りつけたのだ。

「……あ、あの」
 少年は遠慮がちに声を漏らした。年嵩の使用人は手を止め、平静そのものの表情で彼を見返してきた。
「何ですか、ナサニエル」
「布につけて磨くんじゃないんですか、ミスター・ウィギンズ」
「よほど特殊な事情がない限り、私は自分自身の指を使うことを好みます」
 さも当然と言わんばかりの声だった。それから少しばかりの間。
「単に慣れているからというだけではなく、銀器の表面の凹凸や傷の具合、力の加減、磨き上げた後の滑らかさなどを充分に確かめられるからです。もちろん、あなたは手袋をつけて布で磨いてよろしい。もっとも大抵のお屋敷では、下働きのナイフ・ボーイが布をくださいと言ったところで、無視されるのが関の山ですがね」
 少年は黙り込んだ。今は上級使用人として紳士の装いを常とする従者も、もっと若い頃には数多の屋敷を渡り歩き、数々の辛い目に遭ってきたはずだ。そんな彼が言うなら、きっとそれが冷厳たる事実なのだろう――と、子供心に納得したのである。
「このように小さな銀製品であれば、曇りなく磨き上げるまでそう長くはかかりません。かけてはならない、と言ってもいいでしょう。よく見ておくように」

 そして、少年の前で魔法が起こった。
 否、もちろんそれは人智の及ばぬ神秘の業ではなく、人の身につけた熟練の技に違いなかった。従者は両手の指を自在に使い分け、刃に刻まれた模様の細部から、縁取りのある平たい柄の隅々まで、一切の淀みなく磨き込んでいった。反射という言葉を忘れたかのように黒ずんでいた金属は、指の腹が行き来するごとにその曇りを晴らし、見る間に銀色の輝きを取り戻してゆく。
 少年は息を詰め、その一部始終に見入った。従者の予告通り、ナイフが新品同様の美しい姿に回復されるまで、さしたる時間はかからなかった――少年にとっては瞬きほどの短い間に思えた。従者は最後に、ナイフを湯に入れて研磨剤を洗い落とし、乾いた布で丁寧に拭き、さらに新しい布を取ってしばらく磨いた。
「これで完了です。より装飾の細かい品であればもっと時間を取りますが、このナイフは平均的な部類ですね。そもそも、こう真っ黒になるまで銀器を放ったらかしにしておく家というのは、何らかの問題があると見て間違いはありませんが」
 金属が活き活きして見える、というのは少年にとって新鮮な経験だった。刃が表裏と返されるたび、刻みつけられた笹が涼しい風にそよぎ、その合間で燕たちが楽しげに飛び交っているように思われた。
「今回はあくまでも練習ですから、いくら失敗してもよろしい。だからといって粗雑に扱ってはいけませんよ、本番までに悪い癖がついては困ります。銀器の一つ一つに敬意をもって向き合うこと」
「はい、ミスター・ウィギンズ」
「自分でやりたいと言った仕事です。最後まできっちりやり遂げなさい。――私はまた台所に戻ります。旦那様がチーズとワインのお供に干しあんずのケーキをご所望です」

 従者が出ていくと、使用人部屋は再び静まり返った。先程よりもいくらか増した緊張感と共に、少年は木箱の中から一本のスプーンを取り上げた。大きさからして恐らくデザート用だろう。青黒く変色した表面を、彼はしばらくの間ためつすがめつした。それから深呼吸して、布切れを指に巻きつけ、少量の研磨剤を塗りつけた。あんな短いうちに仕上げられるとは夢にも思わないが、集中して手間をかければ、きっと自分にもやり遂げられるはずだ。いや、やり遂げなければならない、自分からやりたいと、できると言ったのだから……

 結論から言えば、少年にとって並大抵の仕事ではなかった。
 確かに、銀のスプーンは磨けばきれいになった。つまり、傍目に見て「黒い」と判断されない程度に明るく、白っぽくはなった。
 だが研磨剤を洗い落としてみれば、表面にはまだ無数の細かな傷があり、うっすらと靄がかったような曇りがあり、また柄の部分は少し黄ばんでいるように見えた。上役が目の前で軽々やってのけた、あのナイフの仕上がりには程遠かった。少年が磨いた銀には生気がなかった。鏡の代わりに使えそうなほどの反射も、ランプの光を浴びたときの漲るような輝きも。
 何がいけなかったのだろうか? 少年はスプーンの曲面をじっと見つめた。歪み、ぼやけて映り込む自分の輪郭はどこか悲しげだった。しばらく考え込んでみれば、自ずと答えが浮かんでくる。逆に言えば、さっきは何も考えていなかった――銀を扱うときに何をすべきで、何をしてはいけないのか、日々の生活の中で折りに触れ聞かされていたはずなのに、全て忘れていた。
 彼はもう一本、似たような大きさのスプーンを手に取った。そして、よりはっきりと意識しながら仕事に取り掛かった。銀とはそもそも軟らかい金属だから、強い力を込めるとすぐに曲がったり、折れたりしてしまう。カトラリー同士が触れ合うだけで傷がつくことさえある。汚れがすぐ落ちないからといって、無闇にこすってはいけない。研磨剤は薄く広げ、細かいところまで均一に塗り込むこと。同じ場所を何度も磨かないこと。さもないと銀をすり減らしてしまうし、表面にむらができてしまう……
 果たして、今回はもう少しましな仕上がりになった。一本目のスプーンより表面が滑らかで、全体に艶がある。
 けれども、これを旦那さまの食卓に上げてもらえるか、手にしたときに喜んでもらえるだろうかと考えたとき、少年の心はたちまち不満足を訴えるのだった。これではだめ、もっと完璧にしなければいけない、と。

 とてもお優しい、心の広い旦那さま――この壮麗なアパートメントの主である、ロスコー家の御曹司について、少年は素直にそう考えていた。御前で粗相をしたことだって一度や二度ではないが、若主人は彼を怒鳴りつけたりせず、不愉快そうな顔をすることさえなかった。銀のスプーンが少し曇っていたとして、何の文句も言わないだろう。
 ――でも、それは自分がまだ子供で、頑張ってもこれだけの仕事しかできないのに、文句を言ってもかわいそうだと思っていらっしゃるからだ。そうじゃなくて、ちゃんと使用人として扱ってもらえるようにならないといけない。
 少年は幼顔をぐっと引き締め、三本目のスプーンを手にした。そして、意を決したように汚れた布を取り払い、研磨剤を人差し指で直接すくい取った。
 この時になって初めて、なぜ従者が銀器を自らの指で磨くのか、彼は身を持って理解することとなった。直に触れることによって判る情報がいかに多いか――同じように黒ずんで見える表面も、場所によって程度はまるで違うのだ。ある場所には変色以外の汚れが積み重なって凸凹しており、また別の場所はずっと平坦で指がよく滑る。当然、二つの場所を同じように磨いても美しくはならない。目には見えない微かなざらつきやごく小さな傷も、皮膚にはきちんと感じられる。彼は目を丸くし、次いで意気込んだ。これならきっと、前の二本より良い仕上がりになるはずだ。

 事実、そうなった。けれども、銀の美しさと引き換えに、少年は大いなる代償を受けることにもなった。色の白い肌はたちまちのうちに赤みを帯び、指の節々は痛み始めた。銀器から研磨剤を洗い落とすたびに、湯に浸かった皮膚はふやけ、乾ききらないうちに次の磨きに入れば、やがて摩擦によって表面がめくれ始める――
 スプーン類をあらかた終えた時点で、彼は既に困憊していた。指の先がもう一インチはすり減ったのではないかと思えた。トースティング・フォークを磨き始めたときには、もっと小さく平たいものにしておけばと考えた。ただでさえ長い柄には、複雑な唐草模様が彫り込まれていただけでなく、お終いには王冠を象った飾りまで付いていたのだ。先端の三本刃にも細かな飾り穴が開けられていた。内側まで磨くのは至難の業だった。そして、あろうことかその最中に手を滑らせてしまった――刃は掌から手首までを強く引っ掻いた。彼は悲鳴を上げた。
 幸い、血は出ていないようだった。声が台所まで聞こえたかどうかは分からないが、どちらにせよ従者が戻ってくることはない。ケーキだけでも焼き上げるまでには二時間かかるのだ。もちろん、他にもディナーのために準備すべきものは山ほどある。使用人はそれぞれ己の持ち場につき、確実に仕事を果たさなければならない。彼は痛みを堪え、フォークに向き合った。置き時計の針は間もなく七時になることを示していた。

  * * *

「ナサニエル」
 少年が我に返ったのは、よく通るバリトンの声が耳を打った瞬間だった。
「はっ、はい、ミスター・ウィギンズ」
 彼は振り返った。使用人部屋の戸口には、再び従者の姿があった。背広の代わりにエプロンを、両腕に黒い袖カバーを付けた、いかにも調理中という出で立ちだ。一瞬のうちに彼は自分の過ちを悟った。配膳の手伝いに行かなければならない時刻なのだ。
「すぐに台所へ。旦那様がいらっしゃる前にテーブルを整えなければ」
「すみません、ミスター・ウィギンズ」
 用件だけを手短に伝えて、従者は足音一つ立てずに出ていった。彼もすぐさま行動に移った。磨きかけだった二本刃のフォーク――恐らくエスカルゴ用だろう――を置き、袖のボタンを留め直して部屋を飛び出した。指の感覚はもはや無くなっていた。

 台所は熱気と蒸気に満ちていた。オーブンのうち一つにはガスの火が入ったままだ。調理台に置かれた金網の上に、美しい琥珀色の干しあんずを飾り付けた、食後のケーキが冷やされているのが見える。とはいえ、少年がそれにありつくことはない――主人が寛容にも「下げ渡して」くれない限りは。
「急いでいるからといって、あのように足音を立てて走ってはいけません、ナサニエル。旦那様は居間でレコードを楽しんでおいでです」
 飛び込んできた彼を顧みて、従者が微かに眉を顰めた。
「はい、ミスター・ウィギンズ」
「必要なものは全てそこに揃えてあります。並べ方をもう一度確認しますか」
「いいえ、大丈夫です、ミスター・ウィギンズ」
 仕込まれた通りの言葉遣いで、彼は上役からの問いに答えた。そして、すぐさま積み置かれた食器類に駆け寄ろうとしたが、
「その前に――」
 という声を受けて踏みとどまった。
「ええと、はい、すぐに手を洗います」
 自分自身の手が研磨剤で赤黒く汚れていることを、彼はすっかり忘れていたのだ。よろしい、と言うように頷き、上役は音もなくオーブンの前へと戻っていった。その姿を一秒見送り、鋳鉄の扉からやがて出てくるだろうメインディッシュを思い浮かべながら、彼は流し台の蛇口を捻って流水に手を突っ込んだ。その瞬間、失われていた感覚のうち最も大きなものが鮮烈に蘇った。

 痛みだ。流れ落ちる冷水が皮膚を削ぎ落としていったかのようだった。少年は言葉にならない叫び声を上げて手を引っ込め、無意識のうちに濡れた掌をズボンで拭ったが、それは言ってみればただの自傷行為だった。傷口に塩を塗り込むよりは手ぬるい程度だ。
「あ、あ、あの、ミスター・ウィギンズ」
 同じ室内で上がった悲鳴を無下にするほど、彼の上役は非情な男ではなかった。影のような長身が静かに、しかし素早く調理場を横切って近づくのを、彼は声を震わせながら凝視した。
「ちょっとお水が冷たかったので、すみません、大声を上げてしまいました。もうしません、解ってます」
 流し台の前で立ち止まった従者は、すぐには応えなかった。そして、両手を背に回して立つ彼の姿を静かに一瞥し、何かを推し量るように間を置くと、
「今日はもう部屋に下がってよろしい。配膳は私がやります」
 と厳かに言った。
「えっ、……いや、違うんです、できます、大丈夫――」
 彼は食い下がろうとしたが、言葉尻はたちまち萎んでいった。彼を見下ろす暗色の目、「正しさ」を磨いて珠にしたような眼差しに、幼心は太刀打ちできなかった。
 従者は決して咎めるような顔などせず、声色もいたって平静だった。ただ落ち着き払って頭を振り、最適な判断を簡潔に下した。
「いいえ」
 宣告を受けて少年は身動ぎしたが、いつものように俯くことは辛うじてしなかった。上役と視線を合わせたままで一歩下がり、
「……解りました、失礼します、ミスター・ウィギンズ」
 丁重に辞去の挨拶をすることができた。もっとも、相手が頷くところまで見届ける余裕は残されていなかったが。

 使用人部屋に戻るまでの間、果たしてどれほど足音を抑えられたかは分からない。気が付くと彼は元いた椅子の前に立っており、しかし腰を落ち着ける気にはなれずにいた。
 なぜ帰されたのかは察しがついた。まともに配膳の仕事ができる状態だと見なされなかったからだろう。彼は両の掌に目を落とした。表面がざっと洗い流されてみれば、肌は酷い有様だった――目立つのはもちろん大きな引っかき傷だが、他にも無数の細かな傷が見られた。まるで最初に磨いたスプーンのようだ。こんな手で主人の使うものに触れようなど、許されるとはとても思われなかった。
 少年は両手を強く握りしめ、その痛みに小さな声を漏らした。どうして今まで銀器磨きをさせてもらえなかったのか、ここに至ってはっきりと解った――こんなにも手を傷める作業を毎日のように続け、その上で他の仕事も万全にこなすなど、自分にはまだ到底できないことだからだ。頑健さもなければ堪え性もない、何もかもが早すぎた。
 立ち尽くしているうち、目の奥がじわりと熱くなってくるのが感じられた。すぐにでも声を上げ、慰めを求めて誰かを叫び呼びたい気分だった。が、不可能だということも知っていた。多くのお屋敷と違って(と、従者は常々不服そうに呟いていたものだが)、ここには食堂が階下にしかないのである。

 ――壁のすぐ向こう側では、旦那さまがお食事を楽しんでいるのに、使用人の泣き言なんかをお耳に入れるなんてとんでもない。
 心の底から反響する、自分のようで自分でない声に叱咤され、彼は片手の甲を口元に押し当てた。喉の奥で押し潰された泣き声が、胸につかえて苦しくなった。その痛みはなんとか堪えられても、瞼の裏にこみ上げてくるものだけは、流し台の水を止めるように簡単にはいかなかった。栓を捻り足りない蛇口のように、雫は顎先を伝ってまばらに滴り落ちた。

 それからどれだけ経ったか、そう長いこと経ってはいないだろうが、少年は目元を代わる代わる拭って顔を上げた。ぼやけていた視界が明瞭になってみれば、机上に置かれたままの道具たちが目に入る。あれを片付けてしまわなければ――でも、その前にきちんと謝らなければと、彼の脳裏に無数の思考が渦巻いた。否、どの行動を選ぶにしろ、従者が戻ってこなければ話にならないのだ。
 彼は黒い上靴を脱ぎ、できる限り足音を殺して使用人部屋を抜け出した。廊下をほんの少し進めば、そこにはもう食堂の戸がある。ちょうど従者が入っていったところらしい、扉は開け放たれたままだった。
 壁際に身を寄せて、戸口からそっと中を伺う。清潔なクロスの掛かったテーブルでは、美しく磨き上げられた磁器や銀器が艶やかな光を帯びている。白い首筋を付け襟と黒いボウタイで引き締めた、若い主人の期待に溢れる顔が目に入る。その御前で大皿の覆いを静かに持ち上げる、すらりと伸びた従者の背も――
 食器が触れ合う微かな音を背景に、二人の紳士は異なるトーンで言葉を交わしていた。活力と稚気に富んだ、やや口早な主人の声と、低く抑えた静穏な従者の声。発音も間の取り方も違う、けれど互いに親しげな会話に、少年は黙って背を向けた。ほんの数ヤード先にある光景が、あまりに遠く隔たりのあるものに見えてならなかった。
 数時間が経っても、少年はまだ使用人部屋にいた。一度は床に就いたものの、ちっとも寝付かれずに気ばかり持て余していたのだ。置き時計の文字盤を確かめるのはとうに止めていた。

「――まだ休んでいなかったのですか、ナサニエル」
 それだから、夜の務めを終えて戻ってきた従者に、戸口からそんな言葉を掛けられるなり、彼は飛び上がった――椅子がばたんと大きな音を立てて倒れた。
「あの」 咄嗟に漏らした声は掠れていた。 「ごめんなさい」
 従者は緩やかに首を傾げながら、片手に携えていたものを――自室から持ってきたのだろう、畳まれた藍色のガウンを広げて背広の上に羽織った。手には他にも何か持っているようだったが、彼の目にはっきりとは判らなかった。
「何か謝るようなことがありましたか」
 穏やかで、静かで、少しの棘もない問いかけが彼の耳朶を撫でた。同じように平気な顔をしていなければと思っていたのに、そこで彼はもう辛抱たまらなくなった――引き結んでいた唇が震えながら開き、表情がやにわに歪んだ。目に見えるものが段々と霞み始め、従者がどこに立っているのかも判然としなくなった。それでもまだ全てを手放してはいなかったが、時間の問題だった。

「ナット」 耳に届いたのは、低く柔らかな呼びかけだった。 「こちらへおいで」
 床に木の擦れる音がした。従者が倒れた椅子を起こすと共に、傍の席へと腰掛けたのだったが、彼にはもちろんよく見えなかった。ただその声を――部下に指示を飛ばす上役としてではなく、庇護者としての優しい響きを耳で追いかけた。数秒の後にはもう、彼は椅子になど目もくれず、微かに丁字油の匂いがするガウンの胸に顔を埋めていた。
「もしかすると、そのためにこんな遅くまで起きていたのかい。けれども一体何を私に謝ろうというんだね」
「だって」
 答えはなかなか形にならなかった。しゃくり上げる音ばかりが先走り、その後を言葉が辛うじて追いかける有様だった。
「だって、ぼく、……なんのお役にも立てなかっ――」
 大声を上げまいという努力が及ぶのもここまでで、とうとう彼は堰を切ったように激しく泣き出した。その最中、何か謝罪を口にした気もするし、あるいは悔しさや情けなさを表現しようとした気もするが、実際に何を言ったかは彼自身にも分からなかった。彼が涙で息を詰まらせるたび、この僅かに血が繋がっているばかりの親類が、宥めるように背中をさすってくれたことだけが確かだった。
「さあ、もう泣くのはよしなさい。涙が出るのは仕方がないが、あんまりうるさくして旦那様を起こしてもいけない。――手を見せてごらん、ナット」
 懸命に嗚咽を止めようとしながら、彼は言われるままに両手を差し出した。すぐさま手首に触れる感覚があった。
「ああ、そうだ、誰でも最初はこんな手になるものだ……痛むだろうが安心しなさい。お前のために軟膏を持ってきたからね」
 彼には見えていなかったが、机上には蓋付きの平たい容器が置かれていた。それもやはり従者が持ち込んだものだ。彼よりずっと大きな手が、その蓋を回して開けた。
「うあ」
 筋張った指が白っぽい塗り薬を取り、彼の掌にそっと乗せた。拍子に彼は泣き声と違う音を漏らす。掻き傷にじわりと染みる熱があった。
「初めての仕事で体を傷めるのは、皆同じなのだよ」
 諭すように従者が言った。 「私が呼ぶまでに何本磨いたね、ナット」
「わ――解りません、おじさん。数えていませんでした」
「それだけ集中していたということだね。意識を他に振り分ける余裕がなかったのだ。――銀器磨きがどれだけ大変なものか、よく解っただろう」
 少年は黙って頷き、次いで手の感覚に意識を向けた。肌の上で、冷たい軟膏がひりひりとした痛みと溶け合い、慰めるような温かさへと変わってゆく。今しがたまで彼の背をあやしていたのと同じ、慈しみに満ちた手の動きに合わせて。
「旦那様のお役に立つといっても、それはたくさんの道があるのだよ。私はその中から一番お前にふさわしいものを、時々に合わせて任せているつもりだ。仕事を覚えるにも順序というものがある。最初から難しいことをやろうとしても、こうして悔しい思いをするだけで終わってしまう」
 この人はきっと、自分の手を旦那様の手と同じように扱ってくれている――あの節くれだったところのない、手首から爪の先まで美しく磨かれた手を取るときのように、心を込めてくれるのだと、彼は素直に思った。
「今はまだその時ではない、というだけだ。いつかはお前もこの役に就くことになる。フットマンから上に行くために避けては通れないことだ――銀器の扱いを知らなければ、執事にはなれないからね」
「はい。……おじさんも、すごく練習したんでしょう」
「そうだとも。男の使用人がする仕事の中では一番辛い、と言われる理由を思い知ったものだ。傷が膿んだ痛みで眠れないときもあった」
 指にできた水ぶくれを潰さぬよう、薬を丁寧に塗り込んでやりながら従者が言う。少年はもう泣くのを止めて、目の前にいる立派な紳士がまだ見習いだった頃を想像しようとしたが、とてもできなかった。
「それでも、上からはただ磨けと言われるだけだ。使用人の手が一本や二本使い物にならなくなったところで、雇い主には何の関係もない。使用人ごと取り替えればすむ話だ。――そうして命じられるまま磨いていると、ある日とうとう完璧に仕上がるのだよ」
「お皿が――」
「いいや、器ではなく手のほうが、だ」
 従者は静かに頭を振り、片方の掌を上向けて彼の前に差し出した。
「私の手をごらん。こんなふうに皮膚が硬く、厚くなって、痛みや熱も感じにくくなる。何時間磨き続けても、水ぶくれ一つできなくなる」
 彼は離されたほうの腕を伸ばして、従者の掌にそっと触れた。初めて大西洋を渡り、ニューヨークの港に着いたときのことが脳裏に蘇った。あの時、混雑する波止場で万が一にもはぐれぬよう、手を繋いでもらったのだ。確かに硬い、けれども決して粗いところのない、優しい手だと思ったものだった。

「こうした手を『銀器の手プレート・ハンド』と呼んで、私たちは誇りにしていたのだよ。高貴なご婦人がたに握ってもらうには硬すぎるけれど、銀器を美しく輝かせることにかけては、この手の右に出る者はいないと……」
 静かに語る従者の言葉に、少年はじっと耳を傾けた。胸の奥底に淀んでいた無力さが少しずつ解けて、澄んだ希望に変わってゆくような気がした。
 しかし、ふと彼は気がついた――誇りという単語を口にしたわりに、従者の表情にはどこか陰りがあった。暗色の目は手元ではなく、ずっと遠くにあるものを眺めているように見えた。
「……もっとも、誇りというのは言葉の綾で、実際は強がりだとか、負け惜しみだとかいうのが正しいのかもしれないがね」
 唇は緩やかな笑みの形に曲がっていたが、声にはまるで明るさがない。彼は息を詰めて従者の顔を見つめた。どう応えていいか解らなかったのだ。沈黙は数秒ほど続いたが、やがて従者のほうから彼を見返してきた。

「ナット」 その両手がもう一度、彼の手を重ねてすくい上げた。
「私のような従者になりたいというお前の言葉に、私はまだ心から頷けずにいるのだよ」
 少年はまごついて大きな目を瞬き、視線を彷徨わせた。それはつまり、自分に使用人としての天分があるとは考えられないということなのか――この指導役に見放されようとしているのだろうかと悲観した。しかし、続く従者の口ぶりはいくらか違っていた。
「私は、……お前を私のような目に遭わせたくはない。私がしてきたような思いなど、味わってほしくはない」
 彼の手を握る力が、ほんの少しだけ強くなったように思われた。といっても、やはりそれは硬くも優しく、傷ついた手をこれ以上痛めぬようにという加減が感じ取れたが。
「おじさん、でも――どっちにしたって、ぼくは働かなくちゃいけないんです。大人になって自分で生きていかなくちゃ、……辛いことがたくさんあるのは、どんな仕事でも同じだと思います。それなら」
「ああ、その通りだ」
 拙い抗弁は、年長者の心をそう動かしもしなかったらしい。従者は頷きこそしたが、その目は輪をかけて暗く見えた。
「一度も汚れず、傷つきもしない、きれいな手のままで安楽に生きてゆけるのは、ただ一握りの人間だけだ。そうだとして、もっと――いや、あとほんの少しでもましな幸せを、この手は掴むかもしれないのに……」
 細く整えられた眉の間へ、僅かに皺が寄るのを少年は見た。絞り出すような声の理由が彼には解らなかった。ましな・・・というのはどういう意味なのかも。彼の目に映る従者の姿は、美しい手をした上流の人々と少しも変わらず完成されて見える。絹のネクタイ、瀟洒な三つ揃え、金の鎖がついた時計、鏡のように磨かれた革の靴。彼が生まれ育った片田舎では決して見ることのなかったものを、この年嵩の親類は全て身に着けている。洗練された言葉遣いも、足音一つ立てない歩き方も、紳士たちを満足させるデザートの作り方も。――それが幸せでなくて何なのだろう?
「あの、……おじさんは、そうじゃなかったんですか? 旦那さまにお仕えしていて、幸せじゃないんですか?」
 知らず、疑問符が彼の口をついて出た。本心からの問いかけだった。彼の眼前で、暗色の目がぱちりと一度瞬いた。

 ややあってから、彼の耳を打ったのは短い笑い声だった。今までに聞いたこともないような、冷たく乾いた音だ。
「幸せだとも」
 掠れた息を吐き出すと共に、従者は答えた。嘘偽りのない答えだろうということは、幼心にも察しがついた。瞳がまっすぐに彼の目を見ていた。
「私は――私のような従者などこの世にそうはいない。恵まれたものだよ、運にも時節にも。ああ、幸せだ、恐ろしいくらいに……」
 従者はところどころ声を途切れさせながら、しかし彼には一言も口を挟ませず、そこまで言い切った。彼にとっては不吉なことに、次の文句へ繋がる単語は「けれども」だった。彼は息を呑んだ。

 しかし、続きが聞かれることはなかった。不意に従者は話すのを止めたかと思えば、さっと彼から顔を背けた。視線は使用人部屋の戸口へと注がれていた。
「――旦那様だ」
「えっ?」
「降りていらした、……お部屋にあるベルをお使いになればよいのに」
 こたびは彼が目を瞬く番だった。戸口を見、天井を仰いでみたが、どこに主人の気配があるのか、彼にはまるで判らなかった。
「ぼく、なにも聞こえな――」
 戸惑いの声を漏らす間にも、従者はガウンを脱いで手早く畳み、棚の上からブラシを取って背広を軽く払った。それから一瞬間手を止めて彼に目を注ぎ、
「もうお休み、ナット。明日も早くから勤めがあるのだから」
 薄く笑みを浮かべて言うと、そのまま部屋を出ていった。彼がおやすみなさいと返す間もなかった。

 静寂とランプの灯だけが伴となる空間に、長居する気は彼にはなかった。かといって、自分の部屋に戻ろうとも思えなかった。彼はそっと廊下に顔を出し、遠ざかってゆく従者の背を窺った。と、
「ウィギンズ!」
 彼らとは全く別の声が響いた。若い男性の声だ。多少なりとも抑えようとした気配はあるが、真夜中に聞くにはずいぶん大きいものだった。従者が立ち止まり、くるりと左を向いた――そこはギャラリーの入り口であり、主人の使う区画との境目でもあった。
「旦那様」
 従者がうやうやしく頭を垂れるのが、彼のいる場所からもはっきり見えた。その奥に、きっと若い紳士の姿があるのだろう。しばしば夜遊びに繰り出しては、朝方まで戻らないような宵っ張りの青年が。
「すまない、起こすつもりはなかったんだが――」
「いいえ、旦那様。あなた様がお休みになるまでがわたくしの本日です。……わざわざ階下までおいでにならずとも、ベルを鳴らしてくださればすぐに参ります」
「いや、あれ、どうも好きになれないんだよ、なんだか偉そうでさ……」
 少しも居丈高なところのない、親しみの込められた響きがふと途絶えた。何だろうかと彼が首を傾げる間に、少し慌てたような調子の言葉が続く。
「ちょっと待てよ、まさかナサニエルも起きてるなんて言わないよな」
「……いいえ、彼はもう部屋に下がらせました」
 静かに頭を振る従者に続いて、安堵の声が彼の耳に入った。それから二人の紳士はしばらくやり取りを続けた――床に入ったはいいがどうも寝付けないから、温かい飲み物がほしいという若主人の言葉。自分で用意するから、という申し出を丁重に断り、熱いサイダーの準備を承る従者の声。そのどこにも不穏なものなどない。彼の側から見る限り、普段と変わらぬ物柔らかな表情のままだ。そう、どこから見ても幸福そうなのだ、目の前の人物と誠心から会話し、側に仕えることそのものが……

 やがて、従者は再び深々と一礼し、向きを変えて廊下の先へと姿を消した。しばしの後、奥から漏れ出す光によって、台所の灯りが点いたことが判った。
 少年は身を引き、薄明るい使用人部屋を見回した。椅子の上に置かれたままのガウンや、仄かに花の匂いがする軟膏の蓋、まだ半分も磨き終えていない銀器たちの箱を。
 彼の耳元で、最後に聞いた逆接の言葉が木霊した。貧しい境遇から志を立て、様々な困難に遭いながらも、最後には幸せになりました、――誰もがそんな子供向けの物語のように人生を終えることはできない、それぐらいは彼にも解っている。彼の両親も、面倒を見てくれていた伯母も、挿絵入りの童話として綴じるには行き詰まった一生だった。
 あの人もそうなのだろうか。どれほどの幸せを手にしたとしても、心から仕えることのできる主人と巡り合っても、必ずまた失うものだと思っているのだろうか。
 彼は俯き、自分の涙でまだ濡れたままの床を見つめた。決してそんなことはない、と言い聞かせようとした。何一つ手放してほしくはなかった。傷つけられながら磨き上げた強い手、自分をここまで連れてきてくれたあの優しい手には、いつまでも幸せな暮らしの中にいてほしかった。それでも、もしいつかそんな日が巡って来るとしたら……

 ――その時は、ぼくが手伝ってあげればいいんだ。
 手当てされたばかりの指先を凝視し、彼は静かに心を決めた。誰かが取り落しそうになったものを、傍でもう一度拾い上げられるような、いつでも力を貸してあげられる手になればいい。今は痛みに耐えるばかりでも、磨き続ければいつかは――

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