「忌むべき季節だと思わないか、ウィギンズ」


祝宴の鐘が鳴る -Saved by The Bells-

 白いクロスの掛かったテーブルと向き合い、ヘンリー・ロスコーは重々しく述べた。置き時計の針は昼の二時を指し示そうとしていた。
「なんでございましょう」
 すぐ傍らに控えていた従者が、食後の一杯を注ぎ終えると共に問い返した。
「夏がだよ、ウィギンズ――そりゃあ今は夏なんだから、夏の話に決まってるだろう。ぼくは夏が嫌いだ。特にニューヨークの夏は世界で一番嫌いだ」
「さようでございますか」
 淡々とした従者の声から、同情するような色は微塵も感じられなかった。唐突に今の季節を罵倒し始めた主人に対し、暑さのせいで神経がやられたのではと内心哀れんではいるかもしれないが、とにかく自分とは無関係とばかりの冷めた態度だ。彼にとってはこの上なく不都合なことに。
「さようだ。考えてもみろ、朝の九時にもならないうちからもう暑くてベッドに入っていられないぐらいなんだぞ。空気はじめじめしてるし、そこかしこで道路工事中だし、劇場はオフシーズンで、川船は地獄のように混んでる。こんなにも呪いたくなる季節が他にあるか、ウィギンズ? ないだろう!」
「さようでございましょうか」
 眉一つ動かさず、従者は主人の前にカップを置いた。ロスコー家の若主人は、藍色と金色で彩られた優美な磁器の中身――もちろんそれは熱いコーヒーである――を睥睨し、口元をひん曲げた。
「誰がなんと言おうとぼくは夏が嫌いだ。この世から消滅してもいいと思ってる」
「どの季節を最良とするかはお好き好きでございます、旦那様」
「その通りだとも」
「しかし、仮にこの世から夏という季節が失われた場合、先程あなた様が大いにお褒めくださった、ザリガニとあんず茸のラグーも存在できないということになりましょう。どちらも夏が旬の食べ物でございますから」
「む」
 落ち着き払って返された言葉を受け、たちまち彼の脳裏へ昼食の一品が鮮やかに蘇る。滑らかなクリーム仕立ての汁の中、淡白ながら心地よい塩味の効いたザリガニの身に、オレンジ色で歯触りのよいあんず茸。その繊細な甘い香りを殺さぬようにと、味付けはいたってシンプルだった。それでいて、添えられたクレソンの彩り豊かなピューレが、ほろ苦さやぴりっとした辛味を加え、ちっとも単調にはならないときている――
「夏は活力に満ちた季節でございます。数多の野菜もベリーも、みな夏が最も美味しい食物でございましょう。また、夏の暑さと日光がなければ、秋の豊かな実りも失われ、実に味気ない一年を終えることになりますまいか」
「それは……まあ、そう言えないこともないか……うん、食べ物については確かにな、夏が不可欠だと認めないでもないかもしれん」
「食の楽しみに限った話でもございませんよ、旦那様。夏なくして、あなた様の愛する野球のシーズンはどうなりましょう」
「あっ、そうだ――野球は確かに夏が本番だな! それもまたぼくにとっての一大心配なんだ。なあウィギンズ、今年こそヤンキースはジャイアンツをやっつけると思うか?リーグ優勝についてはもう問題ないと信じてるんだが」
 もちろん彼は、従者が合衆国の野球というスポーツに一インチの興味も示していないことを承知していた。従者は従者で、野球のことは一切解りかねますなどという野暮な返事はしなかった。ただ穏やかな顔つきのまま小首を傾げ、
「ミスター・ルースのご活躍次第でございましょう」
 と、彼が最も贔屓する選手の名を挙げるのだった。彼があらゆる夏の欠点を忘失し、子供のように目を輝かせるにはそれで十分なのだ。
「そういえばそうか、確かに野球と……あと、競馬もだいたい初夏から初秋にかけてか。オリンピックも夏にやるし、ええと――ゴルフの全米オープンも夏だなあ……」
「夏はスポーツの季節でもあるのです。ヘンリー・レガッタもロイヤル・アスコットも、ウィンブルドン選手権もみな夏の盛りでございます、旦那様」
「ああ、テニスも忘れちゃあいけなかったな――なんたってビル・チルデンが絶好調だ。まさかアメリカ人がウィンブルドンで二連覇なんてなあ、ウィギンズ!」
 思わず口にしてから、彼はやにわに不安を覚え始めた。この発言が純然たる英国人の従者を傷つけなかったかという点についてだ。幸い、側に立つ男は気分を害された様子もなく、取り澄ました表情と直立不動の姿勢を保っていたが、彼の不安は却って増した。
「ええと、つまりだな……要するに、さっきのぼくはちょっとばかり言葉が過ぎたということだ。夏がこの世から消滅しても構わないというのは嘘だ。大いに構う」
「さようでございましょう」
 涼しい顔で頷く従者から視線を反らし、彼は再び卓上へと目を注いだ。コーヒーカップからは未だ一筋の湯気が立ち昇っている。一向に冷める気配がない。
「だが、夏という季節に罪がないとしても――それについて百マイルは譲るとしても、ぼくはこの気温にだけは我慢がならない。どうしてもだ。ぜんたい――」
 彼は息を吸い込んだ。食堂の窓は開け放たれ、風がいくらか吹き込んではいるものの、やはり爽快とは言い難かった。
「お前はその――ウィギンズ、そんな格好で暑くないのかお前は? 七月なんだぞ!」
 主人が絞り出すような声を上げても、従者は変わらずしかつめらしい顔のままだった。六フィートを超える長身を、これ以上ないほど使用人らしい服装、すなわち黒一色の三つ揃えに包んで、冬の舞踏会を描いた絵画の一部かのようにかしこまっていた。そして、ちょっと考え込むような間を置き、
「ロンドンよりは暑うございます」
 と素っ気ない答えを返した。
「それ見たことか!」
「ですが旦那様、使用人とはこのように装うと決まったものでございますので」
「ええい、なにが決まりだ――ぼくが許す、ウィギンズ、その背広を脱げ! シャツの袖も捲っていいぞ!」
「お心遣いをいただき痛み入ります。しかしながら旦那様、わたくしといたしましては、謹んでご遠慮申し上げたい所存でございます」

 この悠揚迫らぬ応答は、若主人から反論の気力をことごとく奪うに充分だった。なにも裸になれと言っているわけではないのに、何をそこまで拒むことがあるのかと思った――否、この男にとって人前で腕まくりをすることは、裸体を晒すに等しい恥辱なのかもしれない。そういえば炊事や掃除で水を使っているときも、袖をからげる代わりに、黒い袖カバーを着けて済ませていたはずだ。彼は頭を振り、額の汗を拭った。
「もういい、ウィギンズ。視覚的涼感を追求するのは諦めた。ぼくも子供じゃあない」
「よろしゅうございます」
「でも暑いものは暑いんだ。何か知恵はないか」
 従者が苦境に共感してくれないのは彼にとって大いなる不満点だが、とはいえ利点でもあった。少なくともその頭脳は暑さや湿気によって鈍ってはいないはずである。
 果たして、壮年の男はそこで微かに笑みを浮かべ、
「いっとき暑さを凌ぐというだけであれば、意識を少しばかり他に逸らしておくのがよいかと存じます。いかかでしょう、本日のティーに冷たいお菓子をご用意しますので」
 と切り出してきた。
「そいつは実に名案だ、ウィギンズ」
 彼は重たい息を吐いた。 「ぼくが五時までに溶けて無くならなければな」
「むろん、菓子の存在だけでは不十分でございましょう。そこで、少々の謎掛けを付け加えるのです」
「謎掛けだって?」
 静かに発されたその一語が、あたかも気付け薬かのごとく、淀んだ意識を清澄にした。蒸し風呂からしんと冷えた戸外に引き戻された気分で、彼は従者の顔を見つめた。
「念のためお尋ねしますが、『セント・クレメンツ・ムース』という名にお心当たりは」
 ダークブルーの目を丸くして、彼は首を横に振った。 「いいや」
「それが本日、わたくしがご用意する菓子の名です。その正体が何であるか、なにゆえ『セント・クレメンツ・ムース』という名であるかを、旦那様がお当てになるという趣向でございます」
「つまり――ぼくが探偵役ってことか?」
「はい、旦那様。あなた様がことに推理小説、ないし探偵小説といった読み物を好んでいらっしゃることは、わたくしもよくよく存じております。愛好家で構成される倶楽部にもご在籍とか」
「ああ、レッド・ヘリング・クラブのことだな。構成員は古い順から無職と無職と無職と銀行員、作家に学生、もひとつおまけに無職、といった次第だが」
「大変よろしゅうございます。それでこそ紳士の倶楽部と言えましょう。――その中でも旦那様こそは、ひときわ優れた名探偵ぶりを発揮しておいでかと」
 紳士は労働しないものと決めているらしい従者は、そのまま流れるように末席の無職たる主人を褒め称えた。
「ふふん、そう思うだろう、そうとも! これで今お前はぼくのことをちょろいやつだと考えたかもしれないが、名探偵だって褒められれば嬉しいさ。いいぞ、ウィギンズ、その挑戦を受けて立とうじゃあないか」
 彼は胸を反らし、ようやく冷めてきたコーヒーを一口飲んだ。飲んでから、もともと熱いものとして淹れられたコーヒーは、冷めたところで美味しくなったりしないのだと思い出し、眉間に微かな皺を寄せた。
「まことに賢明なご判断でございます。これで五時までは、暑さに煩わされることなくお過ごしになれましょう」
「そこで言っちゃあ台無しだろう、せっかく忘れてたのに! ……そうだ、もしぼくが正解したら、ティーの時間にはもうちょっと涼しげな格好で給仕してくれるか」
「お言葉ですが旦那様、わたくしといたしましては――」
「くそっ!」

 食堂を辞して後、彼が真っ先に向かったのは書斎だった。何がさて、知らない言葉に突き当たったときに頼るべきは字引だと判断したのである。
 書斎には最新版のアメリカ大百科事典が、金箔押しの革表紙も物々しく揃っている。あるいは、彼の愛する探偵小説にも登場した大英百科事典、オックスフォード英語辞書、地名事典もあった――セント、などというからには聖人の名前だろうと当たりをつけ、伯母から押し付けられたカトリックの人名録を繰ってもみた。
 なんでも、実在の聖クレメントはローマの人で、錨に括り付けられたまま海に沈められて殉教し、ゆえに船乗りと鍛冶屋の守護聖人と見なされるらしい。だからといって、それと菓子とに何の関係があるやらさっぱりだ――錨の形をした菓子とか? さすがに「謎掛け」というにも安直すぎやしないだろうか。名探偵を自負する紳士は、書見台の前に脚を組んで座し、訝った。だが、冷静に訝っていられるのも初めのうちだけだった。
 書物を日光や温度変化の害から守るため、ここには窓がほとんどない。他の部屋にいるよりは涼しいし、「眩い陽光」などという暑さの視覚化じみたものを目にせず済むのは彼にとって幸いだったが、ぴったりしたウエストコートにネクタイまで締めた格好では、体のあちこちが言いしれぬ不快を訴えだすのも時間の問題であった。
 そのうち彼は聖クレメントと冷菓の関係より、昨今の夏の暑さと紳士服の関係を考えだすようになった。南方諸国に広く植民地を築き上げた大英帝国のこと、内地からアフリカやアジアに出向く「紳士」もさぞ多いだろうに、彼らは現地でもしかつめらしく、モーニングコートだのスモーキングだのを着て澄ましているのだろうか? それはもう非合理とか伝統墨守だとかを通り越して、ただの自殺行為なんじゃあないのか?

 脳細胞の枯死を危惧し始めた彼は、書を置いて一旦席を離れることに決めた。名探偵にも小休止は必要である、と。――緩めていたネクタイを正して袖口を留め直し、廊下に出る。と、そこに小さな人影を見た。水が入っているらしいバケツのそばで屈み込んでいる。同時にあちらでも気付いたようで、
「あっ、旦那さま――」
 まだ変声期を迎えていない、幼気な子供らしい響きで呼びかけてきた。この家に使用人見習いとして雇われている、十歳になったばかりの少年だった。
「失礼しました、どうぞお通りください、旦那さま」
 向き直って一礼する姿を、彼はつくづくと眺めた。装いだけなら紳士そのものである従者や、専用のお仕着せがある従僕フットマンと違って、少年の服装は「きちんとした普段着」にすぎない。水兵めいた襟がついた紺色のシャツに、膝丈の白いズボン――
「涼しそうだなあ、その格好」
「えっ?」 少年が緑色の目を丸くした。
「いや、……まあね、解ってるさ。ぼくは大人だし、水兵でもないから、どんなに暑くても開襟シャツに短ズボンってわけにはいかないんだ」
 彼はごまかすように言い、きょとんとしている少年に向かって、なんでもないとばかりに片手を振った。
「それより、掃除中だったかな。別にここを通ってどこかへ行こうってわけじゃあない、ちょっと気分転換のつもりだったんだ。気にせず続けてくれ、ナサニエル」
「何か書き物をなさっていたんですか?」
「ううん、そんなところかな」
 ティーに出てくる菓子の名前を巡って従者と対決していた――などとは、間違ってもこの子には伝えられないと思った。が、ふと気付いた。この少年は従者の遠縁の親戚であり、同じく英国人のはずである。
「なあ、ナサニエル」
「なんでしょう、旦那さま?」
「『セント・クレメンツ・ムース』といって、何のことだか分かるかい」
 少年は目をぱちくりさせて、一回りほどしか歳の違わない主人を見上げた。
「セント、クレメンツ、ムース……」
 訥々とした復唱が続いた。 「お菓子の名前ですか?」
「菓子には違いないはずだ。冷たいデザートか何か。だってムースっていうぐらいだろ。問題はそれがどんなムースなのか、だ。今日のティーに出てくるんだよ」
「ミスター・ウィギンズに聞いてき――えっと、伺ってまいりましょうか?」
 事情を何も知らされていない者として、少年は「上役に尋ねる」という最適解を提示した。もちろん主人にとってはできない相談だった。
「いやいやいや、それはちょっと……まずい、というのかな、ぼくに言わせればだが、もう支度に入ってるだろうウィギンズにわざわざ聞きに行くのはなあ」
「でも、旦那さまがお尋ねになることなら――」
「とにかくまあ、ウィギンズのことは置いておこう。いいや、だからって君のことなら邪魔していいってわけでもないが」
 彼はなんとか話を逸らそうとし、わざとらしく咳払いをした。そして、自分が一通り調べたことをかいつまんで伝えた。幸いにも少年はそれ以上、上役である従者の名前を持ち出さなかった。
「それで旦那さまは、教会に関係するお菓子や、修道院で作られていたお菓子かもしれない、とお考えになったんですね」
「そう。でも冷静になってみると、修道院ではクッキーやガレットなんかは焼いても、冷たいお菓子なんかまず作らないよな。ああいうところでは氷なんて贅沢品だろうし。それに、聖クレメントの名前がつく教会や修道院自体、どうも世界中にあるみたいで、絞り込むには足りない」
「そうですね、シティだけでも五つあるぐらいですし……」
 主人の一大懸念(ということになった)とあってか、少年は真剣そのものの面持ちで考え込んでいた。主人のほうが少々気まずくなってくるぐらいには。
「シティ、ああ……シティ・オブ・ロンドン、ってことだよな。行ったことが?」
「あっ、いえ、わたしはロンドンには一度も……」
 子供らしい細い肩から少しばかり力が抜ける。 「歌に出てくるんです」
「歌?」
「はい、旦那さま。みんなで遊ぶときの歌です――二人が両手をつないで立って、その下を他の子たちが歌いながらくぐるんです。それで、歌が終わったときに手を下ろして」
「捕まった子から抜けていくんだな。あれだ、『ロンドン橋落ちた』みたいなやつ」
「そうです、それです! その歌がこんなふうに始まるんです、――」
 そこで言葉は途切れた。彼はてっきり、少年がそのまま歌い出すものと思ったのだが、小さな口は半開きのままなかなか声を発しなかった。代わりにその表情が変わり始めた――緑色の目はより大きく、丸くなり、虚空をじっと見据えるようにして、次第に強い光を帯びつつあった。

「旦那さま!」 歓声とも嘆声ともつかない響きが彼の耳を打った。 「歌です!」
「うん、その歌が――」
「『オレンジとレモン』です、旦那さま!」
 傍らのバケツを蹴飛ばすのではと彼が心配するほど、少年は飛び跳ねんばかりに興奮を顕にしていた。そして今度こそ、ボーイソプラノの良い声で歌い始めた。

 オレンジとレモン、と
 セント・クレメントの鐘が鳴る
 五ファージング貸したよな、と
 セント・マーチンの鐘が鳴る……

 最初の一節が終わる頃には、彼も先程の少年とほとんど同じ顔をしていた。どうやら午後じゅう費やすことになると思っていた難問も、鍵はこんな近くに転がっていたのだ。
「そうか、『オレンジとレモンのムース』……そいつは十分にありえるな」
 脳裏に浮かぶのは、氷できんと冷やされた硝子器に、ふんわりときめ細かなメレンゲの口溶け――答えをずばり当てた「名探偵」の堂々たる姿と、それに感服した意を示す従者の顔だ。言うまでもなく、暑さのことなどは完全に忘れ去っていた。
「冷たい菓子で、いかにも英国らしくて、今の季節にもぼくの好みにも実にぴったりだ。違いない、でかしたぞナサニエル!」
「はい、旦那さま!」
「ぼくがシャーロック・ホームズだったら、君を遊撃隊イレギュラーズの一員に任命するところだよ。ああ、この通りにもうちょっと気の利いた名前が付いてりゃあ本当にそうしたんだが、『イースト・サーティーシックスス・ストリート・イレギュラーズ』はちょっとなあ」
 良く言えば簡明直截な、悪く言えば風情のないマンハッタンの都市計画を嘆きつつ、彼は少年を褒め称えた。少年はといえば、主人の言葉の半分も理解できていなかったが――なにしろ探偵小説の愛好家ではないので――褒められていることは理解できたため、終始笑顔だった。
「ともあれ、君の大手柄だ。特別報酬は期待してくれていいぞ。何か素敵なものを……何がいいかなあ? 考えてみると、ぼくは君の趣味や興味についてあまり知らないし、子供がいたこともないし……」
「そんな、旦那さまのお役に立てただけで、わたしは嬉しいです。ほかに何かいただくなんてできません」
「遠慮なんてするものじゃあないよ――いや、本当にぼくからは何も貰いたくないっていうなら別だが、欲しいものやしてほしいことがあるなら言わなきゃあだめだ。でないと、一人前になってからもずっと安く使われることになるぞ」
 稚顔にしっかりと目を据えて、彼は思うところを説いた。少年もつられて表情を引き締め、頷きながら聞いていた。
「とにかく、何かいいものを考えるさ。もし希望があったらまた言ってくれ。邪魔して悪かった、ぼくは今から着替えてくる」
「お湯をお使いになるんですか?」
「大一番に臨むには、それなりの服装ってものが必要なのさ、ナサニエル」
 立ち去りかけたところで声をかけられ、彼は勿体顔で顧みた。 「紳士の装いがね」

  * * *

 午後五時、屋上庭園に姿を現した彼の装い――淡いブルーのシャツにベージュのウエストコート、濃紺のタイ――に、従者はとりたてて何の感想もよこさなかった。ただ目を細め、深々と一礼して、主人のために椅子を引いただけだ。ということは正解だったのだ、と彼は結論づけた。本当は、それこそモリアーティ教授との対決に赴く名探偵もかくやと、手持ちにある中で最もシルエットの美しい、暗褐色のフロックコートを持ち出してこようと思ったのである。だが、上着に触れた瞬間にはもう考えを改めていた。五月のスイス・アルプスと七月のニューヨークを同一視してはいけなかった、と。
 日は傾き始めてすらいなかったし、気温も未だ下がる様子はなかった。それでも従者が用意した席は庭木が作る日陰の中にあり、屋上の風通しも加わって、ずいぶん涼しげではあった。卓上に並ぶは銀のティーポット、舟遊びの様子が描かれた茶器、それらに光を投げかけ、煌めかせる硝子のランプといった具合だ。彼が着席すると共に、従者がカップへ紅茶を注ぎ入れた。
「さすがに初めからは見せないな。焦らすじゃあないか、ウィギンズ」
 彼は不敵さを装って言ったが、従者のほうは平然とそれを受け流し、傍らのスリー・ティアーズから第一の皿を取り上げ、彼の前にそっと置いた。サンドイッチだ――ただし、普段よく見る薄手のティー・サンドイッチとは異なるものが目を引いた。
 それはころんとした丸形のパンだった。掌に乗るほどの大きさで、表面には艷やかな照りが出ている。横半分にカットされ、中に淡い色の具が挟まれていた。
「ああ、これもザリガニだな、さては」
「さようでございます。小海老と共にカクテル仕立てにいたしました。ブリオッシュは甘さを控えたものがお好みでございましたね?」
「そんなこと前に話したか?」 彼は目を瞬いた。 「確かにそうなんだが――」
 そのブリオッシュたるや、正しく彼の好み通りの味だった。甘さを控えた、といっても菓子パンなのだから、普段サンドイッチに使うパンよりは甘いのだが、バターと卵の風味がぐっと濃く、生地そのものがふんわり軽いため、少しも甘ったるいとは感じないのだ。その風味が、ザリガニや海老の塩気になんと調和していることか! 二者の橋渡しをしているのはシンプルなマヨネーズだ。混ぜ込まれたチャイブがまた小気味よく、食感と彩りを加えてくれていた。
 食べごたえのあるブリオッシュをあっという間に平らげ、お決まりのキュウリのサンドイッチ――ただしバターの代わりにヨーグルトが用いられ、ディルとミントの香りを効かせてある――を食べ終わるまで、彼は冷菓の正体を思考から追い出してしまわぬよう奮励努力する必要があった。これが計略なら大したものだと感心したぐらいだ。
 もちろん感心するには早かった。スコーンはいつもながらの完璧な焼き加減、開いた貝殻を象ったトレイには、片や夏のベリーをふんだんに用いたワイン色のジャム、片や果実の形がしっかり残ったあんずのプリザーブ。側に控える従者の顔を、彼は努めて恨めしさを押し殺しながら見上げた。――こんな宝石みたいなジャムに、当然クロテッドクリームもあるんだぞ、スコーン二個で足りると思ってるのか、お前は?
 従者は素知らぬ顔のまま、主人の食べっぷりを見守るばかりだった。そしてスコーンが残り少なになったところで、
「では旦那様、少々席を外すことをお許しくださいませ」
 と言って一歩退いた。とうとうこの時がやって来たのだ。彼は焼き菓子から敢えて手を離し、僅かばかり胸を反らして座り直した。
「良いだろう、ウィギンズ、持ってきてくれ――セント・クレメンツ・ムースとやらを」
 一呼吸置く。従者が少し首を傾げてから戻すのを、しっかり見届けて彼は続けた。 
「もとい、『オレンジとレモンのムース』と言ったほうが正確か?」
 彼は勝利を確信していた。従者は黙って踵を返した。そして、主人がスコーンをすっかり咀嚼し終えた頃に戻ってきた。

「それ見たことか」
 卓上に置かれた菓子器を前に、彼はここ一番のしたり顔で繰り返した。
「見たか、ええ――ウィギンズ!」
「お見事でごさいます、旦那様」
 この期に及んでも従者は沈着冷静、前世紀の彫刻めいた面持ちを崩さなかった。
「では、既にその由来にもお気付きで」
「当然だ。マザー・グースだよ――『オレンジとレモン』だろう? 歌詞の中に果物の名前と、聖クレメント教会の名前とが同時に出てくる」
「まことに仰せの通りでございます。となれば何故このような歌が作られたかもご承知でございますね、旦那様」
「なんだって?」
 すっかり勝ったつもりでいたものだから、彼は従者の言葉に狼狽した。スプーンを取り上げるのも忘れるほどに。
「何だそれは、お前は――菓子の名前の由来を当てろと言ったのであって、さらに歌の由来まで答えろなんて言わなかったはずだぞ」
「はい、確かに申しませんでした」
「じゃあ……じゃあ別に、ぼくには答える義務なんてないんじゃあないのか?」
「さようでございますね」
 沈黙が落ちた。やにわ額に汗が滲んでくるのを感じ、彼は椅子の上で身動ぎした。と、従者が軽く目を眇めて、
「菓子の外観がお気に召しませんでしたか、旦那様」
「えっ?」
「少しも手をお付けにならないものですから」
 等と言ってくる。からかっているのかと彼は思いかけたが、面持ちを見る限りでは、どうも本気で心配しているらしい。
「いや、全くもって、そんなことは断じて――うん、一切ないぞ。すごく気に入った。見とれていたんだ、この姿に」
「さようでございますか」
 事実、ムースは完璧な姿をしていた。脚付きのカットグラスに収まった、淡いオレンジ色の平らかな表面。その上に流し込まれているのは、あたかも陽光をそのままシロップにしたような、鮮やかな黄色のソース。皮を半分だけ残した、半月切りのオレンジとレモンが、自分たちの功績を誇るかのごとく座している。
 これを前にしてはおいそれと手など出せない――かといって、ただ眺めているだけというのも罪に値すると思えた。彼は意を決し、スプーンを取ってひと掬いした。
 今なら暑気あたりで倒れたとしても、このムースのせいにできると思った。メレンゲというやつはこんなにも儚い存在だったのか、口の中では五秒と生きていられないのだろうか? 鼻に心地よく抜けるレモンの酸味と、それに引き立てられたオレンジの甘味とを、彼は口惜しさにかられながら堪能した。余韻を洗い流したくはないと思いつつも、紅茶をカップから一口飲めば、小憎らしいほど見事に合っている。香りがより華やいで感じるのだ。まったく、この取り合わせときたら!

「――ロンドンに聖クレメントの名を持つ教会は数多ございますが、中でもテムズ川の近傍にはセント・クレメント・デーンズ、並びにセント・クレメント・イーストチープという二つのお堂がございます」
 彼が感服の意を表するより早く、従者が静かに話し始めた。
「界隈には古来より、南方からロンドンへ柑橘類を運び入れる船の埠頭がございました。それゆえ、いつからか『セント・クレメント』といえば『オレンジとレモン』の符丁になったのです。ロンドンっ子は韻を踏んだ言葉を大いに好みますので」
 その名に違わず泡沫のように消えてゆく一匙を、名残惜しさと共に味わいながら、彼は従者の言葉に耳を傾けた。こうして聞けばなるほどと思える。ムース自体はフランス菓子だが、名付けかた一つでずいぶん英国の風情を漂わせるものだ……
「さっきの台詞をまるきり返すぞ。――見事だ、ウィギンズ。ぼくは感服した」
「ご満足いただけるよう努めております。ありがとうございます」
 あくまで平静を保ちながら言い、従者はうやうやしく頭を垂れた。それから不意に、
「時に旦那様、かの偉大なる探偵シャーロック・ホームズ氏は、自分にとっては探偵業そのものが報酬なのだと語ったとか」
 と切り出した。
「ああ、『まだらの紐』の冒頭だな。だから調査費の心配はいらないと、そういう意味で言ってる。それがどうした?」
「旦那様、――同じく名探偵を志されるあなた様にとっては、ムースをめぐる謎とその正体こそが、何よりの報酬となりえましょう」
「もちろんだとも」
「しかしながら、解決に際して少なからぬ貢献をした探偵助手のほうはいかがでしょう。旦那様と心を一にできていればよいのですが」

 彼は黙りこくった。スプーンを咥えたままだったこともあるが、重要なのはそこではない。歌の由来を問われたときよりも、なお鋭い一刺しを受けたのである。舌の上から爽やかな柑橘の味が消え失せても、彼はしばらく口を開かずにいた。
「……聞いてたのか、ウィギンズ?」
「ナサニエルに用事を申し付けた廊下と、わたくしがおりましたギャラリーとの間は数ヤードも離れておりませんので、旦那様」
「つまりその――」 彼は紅茶を一口飲んだ。 「筒抜けだったわけだな?」
「そう表現するに差し障りはないかと存じます」
「聞いてたなら……聞いてたんなら解ってるはずだろう。ぼくは断じて、ナサニエルの手柄を横取りしてやろうとか、そんな卑劣なことなんか企みやしない。すぐにあげられそうなものが何もなかっただけだよ――第一、せっかくだからきちんと考えたいじゃあないか、ただチップで済ませるよりは」
 彼は口早に述べたが、下手な言い訳らしさはどうしても拭えなかった。おまけに従者がなんとも答えないので、彼の心はますます波立った。今すぐ何をあげるか考えるべきだろうか。否、この極めて封建的な階級意識の持ち主たる従者のこと、主人が使用人へ大っぴらに贈り物などすれば、却って苦々しく思うのではないか……
 若主人は焦燥し、カップに手を伸ばしながら必死に考えを巡らせた。そして、ふっと空になった冷菓のグラスに目を止めた。
「……ところでウィギンズ、これなんだが」
 カップの代わりに細い硝子の脚へ手を添え、彼は呟いた。
「はい、旦那様」
「お代わりはあるか?」
「ございます。すぐにお持ちします」
「違う、くれと言ったんじゃあない――いらないんだ。下げてしまえ、ウィギンズ」
「かしこまりました」

 沈黙は先程よりも長く続いた。彼は主人らしく(もはや名探偵らしさについては忘れ去っていた)、毅然として座り続けようとしたが、自分自身の振る舞いに対する不安が勝ちすぎた。スプーンを弄び、ナプキンを無闇に広げたり畳んだりし、ティーカップを持ち上げては飲まずに下ろし、なんとか居た堪れなさを紛らせようとしたが、とうとう限界が訪れた――彼は手を膝に置いて瞑目し、一度だけ深く呼吸してから、おもむろに従者の顔を見上げた。

 果たして、微笑んでいた――あるかなしかの笑みではあるが、少なくとも軽蔑したようではなく、全くの作り笑いというわけでもなさそうだった。
「そう仰るものと確信しておりました、旦那様。ですから、一つは使用人部屋へ置いてまいりました」
「つまり、食べたんだな? ナサニエルもこれを?」
「まだ食べてはおりません。ひと目見られただけでも十分だとは申しておりましたが、そこまでの分別があるとは、わたくしは考えません」
 穏やかに語られたこの言葉が、彼に今度こそ安堵と感心とをもたらした。長々とした息を吐いて、彼はやっと椅子に腰を落ち着けることができた。

「良かったよ。本当に良かった。ああ、まったく肝が冷えるじゃあないか、お前のあの言い方ときたら」
「分を弁えぬ態度であったとは承知しております。お許しくださいませ、旦那様」
「許すさ。――いや、待てよ、許すかどうかはちょっと考える」
 目を伏せて謝意を示す従者を、彼は片手で制した。意趣返しのつもりではない。単に今しがたの従者の言葉が引っかかったのだ。
「なあ、『一つは』って言ったか、今?」
「確かに申しました」
「つまり、一つどころか二つも三つもあるんだな?」
「二つも三つもはございません。きっかり二つでございます」
「よろしい。それなら――その残った一つを持ってきてくれたら許そうじゃあないか」
「寛大なお心と尊いお慈悲に感謝いたします、旦那様」
 今や彼は安堵を通り越して、ずいぶん気が抜けてしまっていた。こうして振る舞った矢先から、どうにも笑いがこみ上げてくる始末だ。従者の顔がまた本心から恐れ入ったような、いつもの厳粛さを数段増したようなものだったので、彼はついに吹き出した。
「やめよう、ウィギンズ。今日は始めからずっとぼくが馬鹿だった。今の話だって、お前には何か考えがあったんだろう」
「些少なことでございます。相手が誰であれ借りをお作りになったのであれば、早急に解消なさいますようにと、恐れながらご意見申し上げようとしたのみでございます」
「もっともな話だ。ぼくの友達のうち何人かにも聞かせてやりたいぐらいだな」
「いかに僅少な、それこそ五ファージングほどの借りであろうとも、蔑ろにしたならば相応の報いが待つものです。まさしく歌にある通りでございます」
「歌?」 彼は目を瞬いたが、すぐに思い当たった。
「ああ、『オレンジとレモン』か。五ファージング貸した……とかいう下りがあったな。なんだ、結局どこまで続く詩なんだ? ナサニエルは途中までしか歌わなかったぞ」
「お聞きになりたいですか」
「聞かせてもらえればありがたいね」

 その瞬間――本当にごくごく一瞬間、従者の目にささやかな愉快の色が浮かんだのは、恐らく彼の見間違いではなかったろう。やがて従者は控えめな、品のよいバリトンで、子供のための童謡を始めから歌いだした。果たせるかな、年少の者たちに聞かせるのにふさわしく、歌はこのように終わっていたのである――

 さあ ろうそくがお前を寝床へ送りに来たぞ
 さあ 手斧がお前の首をちょん切りに来たぞ!

 去ってゆく足音を聞きながら、若い紳士は黙って卓上に手を伸ばし、カップを傾けた。幸い、従者は冷たいムースを取りに下がる前に、紅茶をたっぷり注ぎ足してくれていた。

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