玄関で扉の開く音がした。いつもよりずっと急いた響きだった。


打つものと響くもの -Move in Concert-

 見習いとしてこのアパートメントに住み込む少年、ナサニエルはその音を使用人部屋の椅子の上で聞いた。だが、同じ部屋にいた上役の従者は、ずっと前に席を立ち、ギャラリーを抜けてロビーへと向かっていた。どういうわけか、従者には判るのだ――彼は子供心にいつも不思議だった。主人が外出から帰ってきつつあるとか、階上の部屋から降りてこようとしているとか、諸々の動きをなぜか察知して、微に入り細に入った対応をする、それがこの壮年の男の才能なのだった。

「それにしたって、本当に降るなんてなあ。お前が傘を持って行けなんて言ったときは、不吉なことをと思ったもんだが」
「興が醒めるようなことを申し上げたくはのうございました。ですが、結果としてはご友人への一助になりましたようで」
 活発で遠慮のない主人の声は、廊下に出るまでもなく大いに聞こえてきたが、ずっと低く落ち着いた従者の話しぶりは、ギャラリーの端まで来てようやく耳に入れることができた。少年は控えの間からそっと顔を出し、二人の紳士を窺い見た。美しい|杉綾織り《ヘリンボーン》の三つ揃えを纏った若主人は、従者の差し出したタオルで体のあちこちを拭っていた。
「全くだ。エヴィーはお前に感謝すべきだよ。でなきゃぼくと揃って濡れ鼠になってた。一人の犠牲で済んでよかった」
「まことに尊い行いをなさいました、旦那様。まさしく紳士のお振る舞いでございます。ご昼食については大変お気の毒でございましたが」
 ホールスタンドの抽斗から櫛を取り出し、主人の髪を整え直しながら従者が言った。その様を遠目に見守りながら、少年は経緯を理解しようとした――朝方に聞いた話では、主人は友人たちと近場の公園へピクニックに出かけ、そこで昼食を楽しむ予定だった。ところが、突如として雨が降り出したので、お楽しみはお流れになった。そして主人は持っていた傘を友人の一人に貸してしまった、と――
「まあ、右往左往する人々と濡れた紅葉を眺めながら、軒下でサンドイッチを齧るのも、それはそれで何かこう……哀愁とかがあって悪くはないのかもしれないが、正直言って楽しくはないからな。かといって、いかにも行楽客です、みたいな格好のままどこかのレストランに入るってのも癪だし」
「さよう拝察いたします」
 そこで若い紳士は語るのを止め、何かを窺うようにして従者の顔を見上げた。心の内にあるものを口に出してもよいかどうか、迷いがあると傍目には思われた。
「――長い散歩の後でございます。今ひとたび外出なさるのもお手間でございましょう。気軽なものでしたらすぐにご用意できます。より食べごたえのあるものがよろしければ」
 推し量るような間。 「三十分ほど頂戴できましたら」
「頼めるか、ウィギンズ。今日のぼくは食欲旺盛なんだ――テニスなんかをちょっとね。これで雨さえ降らなきゃ決着がついたんだが。とにかくそういうわけだから、しっかりしたのをもらうよ」
「は、ただちに」
「ああ、急がなくていいからな。もともと予定にないことなんだ。待つのは平気だよ。そう、帰ったら笛の練習をしなくちゃあならないと思ってたところでね。こういうのは腹が減ってるときのほうが集中できる」
 しかつめらしい顔で食事の準備を承る従者へ、空気を和らげるかのごとくに手を振る主人の姿が見える――そこで少年は我に返った。二人は自分のいるほうへ引き返してくるのだ。覗き見などしていたと判ったら、後できっと叱られるはずだ。
 彼はなるべく足音を立てないようにして、そそくさと元いた使用人部屋へ踵を返した。背後で微かに主人の笑い声がしたが、彼の耳には入らなかった――部屋に戻って数分もしないうち、従者が音もなく戸口に姿を現した。

「偶然に感謝しなければなりません。おかげで旦那様に、いかにもあり合わせといったものをお目にかけなくて済みます」
 背広の代わりに黒いエプロンと袖カバーを着けた従者が、調理台に広げたのは一枚の折りパイ生地だった。本来はティーに出す菓子のために仕込まれたものだ。
「ナサニエル、ここにある二つの型で、それぞれ四つずつ生地を切り抜きなさい」
「はい、ミスター・ウィギンズ」
「それが終わったら別の型を渡します。くれぐれも生地を無駄にしないように」
「解りました、ミスター・ウィギンズ」
 少年の前に置かれているのは、直径の違う花形のビスケット型(アメリカ人の主人はこれを「クッキー型」と呼ぶのかもしれないが)だった。彼はぴんときた。大きいほうがパイの底、小さいほうが蓋になるのだ。
 彼が取り掛かっている間に、従者は電気冷蔵庫から肉を取り出すやら、野菜を細かく刻むやら、あらゆる作業を敏捷にこなし始めた。ガスオーブンは火が入り、コンロには鍋が掛けられ、厨房全体に豊かな香りが漂いだす。バター、クリーム、エシャロット、フライパンでぱちぱち音を立てるバックベーコンの脂。それから嗅ぎ慣れない何かしら、恐らくは舶来ものの酒の匂い――
「できました、ミスター・ウィギンズ」
「よろしい。次はこの丸型です。まず先程の小さな花型で八つ抜き、うち四つを――」
 従者の説明を聞きながら、少年はどこか気もそぞろだった。絡み合う香りたちに幻惑されているというだけではない。玄関先で交わされていた会話が頭を過ぎる。笛の練習、という言葉が。
 ――旦那さまのフルートを聴けるかもしれない。いつも上のお部屋じゃなくてギャラリーで演奏されるから、台所にいればきっと聴こえるはずだ。

 果たして、彼が二つめの作業を終えたころ、廊下の向こうでピアノの和音が柔らかく鳴り響いた。それに続いて、夢のように円く甘やかな管楽器の音色が流れてくる――鍵盤の奏でる旋律と愉しげに戯れる、銀のフルートの澄んだ音が。
 もちろん彼は、演奏されているのがなんという曲なのか知らないし、そもそも故郷からニューヨークに渡ってくるまでは、フルートの音を直に聴いたことすらなかった。まして自動演奏ピアノなど、存在自体知らなかった。眼の前に差し出された三つめの生地――これは折りパイではなく練りパイだ――を丸型で抜きながらも、彼の目には全く違ったものが浮かんでくるようだった。
 少年は想像する――広々とした円形のギャラリーに置かれた、機械じかけのアップライトピアノ。その側に立つ背広姿の若い紳士が、手にした銀の管にそっと息を吹き込めば、たちまち世にも見事な調べが冷たい空気を満たす。両手の指が軽やかにキーの上で跳ねる。無数の音符と踊っているかのように。
 彼は頭を振ってこの幻想と決別しようとした。今はまず与えられた務めを終わらせなければならない。型抜きの済んだ生地はすぐさま従者に引き取られた。天板の上には、既に具を詰められたパイや、また焼き上がってから中身を入れるのだろうパイケースの原型がずらりと並んでいる。
「もう一品足せるかもしれません。ナサニエル、食料貯蔵庫パントリーへ行ってアンチョビの瓶とパルメザンチーズ、ジンジャー・コーディアルを取ってきなさい。場所は分かりますか」
「はい、ミスター・ウィギンズ」
 そして、あたかも部下の意志を試すかのごとく、従者は彼に台所の外での仕事を命じるのだった。貯蔵庫で目的の品を探し出し、手書きのラベルが貼られた瓶や油紙の包みを抱えて出てきたとき、彼はあらぬ衝動に駆られた――こっそりギャラリーの入口まで行って、演奏する主人の姿を眺めようかと。もちろん、従者に見咎められれば小言では済まないはずだ。けれど、ただ想像するだけではなく、この目で見てみたい――きっと耳に聴こえるのと同じくらい立派な、見惚れてしまうほどの姿に違いないのに……
 数秒間立ち尽くした後、少年は稚い欲望を振り切って台所に駆け戻った。主人はまだ昼食ランチを済ませていないのだ。とうに昼食ディナーを取った自分たち使用人が、その空腹を捨て置くなんてことがあっていいはずがない。
 従者は彼の遅参を咎めず、ただ廊下は走らないようにと告げただけだった。受け取った品々と生地の余りとを使い、瞬く間に別のペイストリーを作り上げる、料理人もかくやというその手際ときたら!
 だが、それさえも彼の注目をいっとき奪ったに過ぎなかった。今の彼は耳に届く音色の虜だった。ピアノは水が迸るように短い音符を連ね、波の飛沫が陽に輝くさまを思わせる、きらびやかな旋律を響かせた。その合間で、笛の音はときに嫋やかに、ときに奔放に、心地よさそうに遊んでいた。外の悪天候など忘れてしまったかのように。全ての生地がオーブンの然るべき段に収められ、鋳鉄の扉が重々しく閉まると、いよいよ彼の意識を引き止めるものはなくなった。

「――ナサニエル!」
 否、一つだけあった。決して声高にならず、しかし体の芯に直接響いてくるような、よく通るバリトンが少年を現実へとふるい落とした。
「あ、は、はいっ、ミスター・ウィギンズ」
「カトラリーはもう揃えましたか。ナフキンを畳むようにとも言ったはずですが」
 幼顔からさっと血の気が引いた。 「すみません、すぐにやります」
 彼は慌てて作業台の前に立ち、一度深呼吸して気を落ち着けようとした。そして、少し前に指示された通りのものを盆の上に並べ、さらに清潔な紺色のナフキンを広げた。
「『ウォーターフォール・プリーツ』ですよね」
「そうです。折り方は覚えていますか」
「はい、大丈夫です、ミスター・ウィギンズ」
 その名に違わず、流れ落ちる水を象った飾り折りを皿の上に作り上げ、彼はふうっと息をついた。従者は不要になった調理器具をあらかた片付け、台上に置いた懐中時計を一瞥し、続いてオーブンの中を確かめては頷いている。どうやら全ては、この沈着冷静な従者の算段するままに進んでいるらしい。
 いくつかの小休止を挟みながら、演奏はずっと続いていた。が、彼はもうじっと聴き入ることはしなかった。やがて鋳鉄の扉が再び開き、香ばしい匂いが辺りに満ち溢れた。

 鏡のように磨かれた大きな盆の上に、秋の実りを描いた優美な皿が、そして黄金に輝く小さなパイが美しく盛り付けられたとき、彼の心にやっと満足感が湧き上がってきた。誘惑は強かったけれども――そしてほとんど負ける寸前だったけれども、なんとかやり遂げたのだ。といって、これらの風味豊かな品々は、決して自分の口には入らないし、主人がそれを食するところも見ることはできないのだが……

「ナサニエル」
 と、不意に従者が彼の名を呼んだ。 「あなたも一緒に来なさい」
「えっ?」
「給仕の実践も必要でしょう――お食事は全て私が運びます。あなたはそのナフキンとカトラリーの盆を。なるべく足音を立てずに歩くこと」
「はい、ミスター・ウィギンズ、もちろんです」
「旦那様が何かお尋ねにならない限り、余計な口を利いてはいけません。くれぐれも気をつけるように」
 見透かしたように従者が釘を差したが、彼はそれに気圧されるどころではなかった。舞い上がらんばかりの喜びが、重圧を遥かに上回っていたのだ。
 彼らは静かに出発した。調理場からギャラリーまではさしたる距離ではない。靴音はおろか、運んでいる盆や皿の触れ合う音もさせずに、従者が確固たる足取りで先を行く。少年はその後ろを、浮き立つ気持ちを抑え込むように一歩一歩ついていった。廊下へと漏れ出すシャンデリアの灯りが窺える――その手前で先導者が足を止めた。頃合いを見計らっているのだろう。恐らくは、軽やかな笛の音が途切れるその瞬間を。
 間もなく、素早いパッセージを吹ききると共に伴奏が止まった。今だ、と彼は思った。それが楽章の終わりだなどとは知る由もないが、少なくともただの休符でないことは察せた。従者が肩越しに目配せをした。

「旦那様」
 物柔らかで控えめな従者の声からは、くれぐれも部屋の主を驚かせないようにという趣が感じられた。
「ああ、ウィギンズ、それにナサニエルも!」
 快活な響きを聞き取りながら、少年は胸の鼓動を懸命に宥めようとしていた。従者が一歩前に進み出、彼もそれに従う。明るく照らし出された広間の奥に、光を跳ね返して煌めく銀のフルートが、その傍らでピアノ椅子に腰掛けた若主人がはっきり見えた。
「長らくお待たせしまして、まことに申し訳がございません、旦那様」
「なんだ、急がなくてもいいと言ったじゃあないか――ほら、持ってきてくれ、すごくいい匂いだな!」
 主人はすっきりとした濃灰のウエストコートに着替えていた。タイは締めていたが、先程よりはずっと寛いだ格好だ。紳士どころか子供のように目を輝かせ、遅い昼食を催促する姿を、少年は自らも十歳の子供であることを棚に上げて、微笑ましく見守った。そして、食事には欠かせない食器とナフキンが載った盆を、御前に差し出そうとした。
 ところが、主人は素早く椅子から跳ね下りるや、従者が何か言おうとするのも待たずに、皿からパイを一つ手で掠め取ったのである。見事な焼色の付いた小さな美味は、瞬く間に若者の口へと消えた。
「うん、――うん、最高だ、ウィギンズ!」
 噛み締めるような間を置いた後、主人は満面の笑みを浮かべて言った。ダークブルーの瞳が喜色で一杯になった。
「これ、具は鳥だろう? ……ウズラかな、多分」
「はい、旦那様。野生のいわゆるペルドロー・グリ、灰色ヤマウズラの若いオスでございます。生憎と大陸産ではございませんが」
 それは一昨日の晩、主人のディナーにローストで供されたのと同じ鳥だった。いかな健啖家の主人といえ、仕入れた数羽を一度に全て食べきるはずもないので、残りの肉は次のメニューのため保存されていたのである。
「秋も本番だって気分になるなあ。こっちのパイに詰めてあるのは何だ?」
「そちらは鶏の胸肉でございますが――」
 従者が答え終わるよりも早く、主人の手が皿の上に伸びる。少年が型を抜いて作ったパイの器だ――さっくりと軽やかな音からして、焼き加減が万全であることは傍からも察しがついた。
「しっとりしてるな。それにコクがあって、少し甘みも効いてる。果物のソースか?」
「さようでございます。リンゴとマルメロにコニャック、羊のスープを合わせまして」
 同じ台所にいたからこそ、彼には解る。秋の果物を使ったソースも、羊から取ったスープストックも、みな昨日や一昨日に済んだ食事の副産物、あるいは今日のティーやディナーのために予め準備されていた品々なのだ。そうでなければこんなにも早く、複数の料理を出すことなどできなかった。自分もいずれ、こんなふうに機転を利かせた仕事ができるようになるだろうかと、彼は従者の背中を眺めながら夢想した。片手で盆を水平に保ち、もう片方の手を背に回した、すらりと凛々しい姿勢を少しも崩さぬ姿を。
「それで、こっちはソーセージ・ロールだろう? 嬉しいじゃあないか」
「小さなペイストリーの中でもお好みかと存じます」
「大好物さ。ああ、これなら雨に降られるのも悪くはないか。パーシーのサンドイッチが駄目だとは間違っても言わないがね」
 それにしても、なんて美味しそうにものを食べる人だろう――指がバターでべたつくのも構わず、パイに舌鼓を打つ主人を見ていると、彼は自分自身までお腹が空いてくるように思えてならなかった。調理した本人もそうではないか、と彼は上役の顔を窺ったが、そこは平静を良しとする従者のこと、いつもと変わらずしかつめらしい表情のままだった。そして、
「お手間でなければ、どうぞフォークをお使いくださいませ。ナフキンもございます」
 と、少年の存在を確認させるように言い添えた。彼の心臓がにわかに高鳴った。
「それもそうか。いや、別に見てみぬふりしていたわけじゃあないよ、ナサニエル」
 ばつが悪そうに笑い、主人は彼の捧げ持つ盆に手を伸ばした。 「気の利いた形だね」
「『ウォーターフォール・プリーツ』です、旦那さま」
 彼は努めて平然とした調子を保とうとしたが、無理だった。口元が不必要に笑っていた気がした。
「そうか、いや、本当に気が利いてる。……なあ、ウィギンズ」
 紺色のリネンで指先を拭いながら、若い紳士はふと考え込むように言葉を止めると、傍らに立つ従者を呼んだ。
「なんでございましょう」
「ちょっとばかり相談をな。パーシーで思い出したんだ。フルートのことさ――実は、今度あいつが主催する会に呼ばれるんだが、そこで何曲か吹いてくれと言われてる」
「それはよろしゅうございます」
「問題は何を吹くかだ、ウィギンズ。一曲はさっきのやつにしようと思うんだが」
「ライネッケの『ウンディーネ』でございますね。まことに華やかなソナタで」
「毎回同じ面子の前でやるんだったら悩まないんだ。ただ、あいつの会には特別ゲストが多い。そろそろぼくも新しい聴衆に対しての働きかけを考えるべきだと思うんだよ」

 少年はこれら大人たちの会話を、初めこそ真剣な顔で聞いていた。が、彼らが何を話しているのかについてはあまり理解していなかった。もちろん、音楽の話だということぐらいは解る――フルートの話だ。そして、少なくとも自分が口出ししてはいけない領域の話なのだ。
「どうだろう、なあ、ナサニエル」
 それだから、主人がふいに身を屈め、覗き込むようにして尋ねてきたとき、少年はもう少しで跳び上がるところだった。盆を取り落とさなかったのは、何らかの見えない力の働きとしか思われなかった。
「はい、あ、ええと、なんでしょう、旦那さま」
「例えばの話なんだが――小さい諸君に、そう、例えば君ぐらいの歳の子供に聴かせるとしたら、どんな曲目がいいかな。何か思いつくことはあるかい」
 使用人に物問うにしては柔らかな、だが決して年少の者を侮るようではない、正しく紳士的な声だった。けれども、否、だからこそ彼は言葉を詰まらせ、立ち尽くしてしまった。これだけ丁寧に尋ねてもらったにもかかわらず、何も思いつかなかったのだ。
「すみま――申し訳ありません、旦那さま。わたしは、その、演奏会のようなことは何もわからないです、旦那さまやミスター・ウィギンズのように勉強していないので……」
 眉を寄せ、精一杯の謝意を顔に表しながら、彼は深々とうなだれた。主人が慌てたように顔を上げるよう言った。そろそろと視線を向けてみれば、若い紳士は決まり悪さの滲む笑みを浮かべていた。
「解った、うん、気にしないでくれ。謝るようなことじゃあない」
 その碧眼は時折、何かを諮るように従者の顔へと走った。 「ええと、そうだな……」
「ご相談はいつでも承ります、旦那様。どうぞ必要なときにお呼びくださいませ」
「そうか。よし、ありがとう、ウィギンズ、ナサニエル。――もう下がってもいいぞ」
「は」
「皿はそこに置いてくれ。まだしばらくはこの部屋にいるよ」
「かしこまりました」
 彼の周章ぶりを庇うごとく、前に立つ従者は万遺漏なく振る舞い、うやうやしく頭を垂れた。おかげで彼は少しばかり落ち着きを取り戻し、それに倣って動くことができた。示されたサイドボード――このギャラリーで夜会が催される折には、カクテル・キャビネットとして活躍するものだ――に盆を置き、従者の後についてギャラリーを退出したときには、ある種の達成感を覚えさえした。とはいえ、それに伴う疲労のほうが遥かに大きかったし、自分自身の仕事を振り返ってみれば、台所で感じたような満足は決して生まれなかった。
 彼は考えあぐねた。どのように答えればよかったのだろう? とにかく知っている曲の名前を挙げておいたほうが、何も知らないと言うよりましだっただろうか? これで主人を失望させてしまったとしたら……

「……あの、ミスター・ウィギンズ」
 台所に戻り、残った器具の片付けを済ませたところで、彼はおずおずと声を出した。
「なんですか、ナサニエル」
「やっぱり、わたしには勉強が足りていないんでしょうか、……英語や算数ばかりじゃなくて、音楽や芸術のことも考えられないと――」
 従者は軽く眉を上げ、静かに彼の言葉を聞いていたが、ややあって調理台の下から腰掛けを二つ引き出し、片方を彼に勧めた。
「確かに、お尋ねがあったとき当意即妙に答えることができれば、それに越したことはありません。ですが、誰しも初めからできることではないですからね」
「でも、せっかく旦那さまがお話しくださったのに、なんにも答えられないなんて……」
 少し背の高い座面に縮こまって、彼は訥々と小さな声で言う。対して、従者は真摯ながらも鋭さはない目を、その顔にじっと向けていた。
「あくまでも私が思うに、ですが」 いくらか間を置いてから、従者が口を開いた。
「先程のあなたは、実に正しく答えを返せていましたよ、ナサニエル。知らないことは知らないとはっきりお答えする、それが何よりの誠実さなのです。むろん世の中には、主人の機嫌を取ろうと知ったような口を利く者や、それを要求する主人もいますがね」
 少年は目を瞬きながら、淡々とした従者の声に耳を傾けた。自分の態度がこうして肯定されようとは、夢にも思っていなかった。
「良いですか、ナサニエル、――旦那様はなにも、あなたがどれだけ勉強しているかを試そうとか、知識が足りないことを責めようと思って、あのようにお尋ねになったわけではありませんよ。まして私の前で恥をかかせてやろうなどとは」
「そんな、まさか」 とっさに彼は声を上げる。 「旦那さまはそんなこと――」
「なさいません。紳士たらんというお志のある方なのですから当然です。……とはいえ、紳士にふさわしい振る舞いとは、ただ遠回しに物を言うことではないと、後ほどお伝えしたほうがよいかもしれませんね」
「えっ?」
「あの方もまた、修練の途上なのです。主人として、また紳士としての。私がお仕えし始めた時分、ことごとお諌めしていたあの当初に比べれば遥かに……とは思いますが、それでも先程のお話しぶりは」
 一瞬の間。 「あまりスマートであるとは申し上げられません」
 彼は先刻と同じほどに混乱していた。果たして従者が主人のことを褒めているのか、それとも批判しているのかさえも、すぐには解らないほどに。
「あのお言葉ですがね、『新しい聴衆』とはあなたのことなのですよ、ナサニエル」
 少年は口をぽかんと開けた。大きな緑色の目は一杯に開かれた。
「え、でも、でも――お友達の会で演奏するって……」
「ご友人のミスター・リビングストンが食事の会をお開きになるのは本当です。しかし、曲目についてのご相談は先だってお受けしていました。だからこそ、旦那様はあの曲をずっと練習しておいでなのです」
「じゃあ、その、わたしぐらいの歳の子供に聞かせる曲、っていうのは」
 従者は物言わず目を細めた。もう察したでしょう、とでも言うように。事実、彼にも察しはつきかけていたのだが、口に出すことはできなかった――本当に受け止めていいものなのか迷っていた。しばらく待っても彼が答えないので、従者は口頭での説明が必要だと悟ったらしい。薄い唇から、ふっと穏やかな息が漏れた。
「『聞いてみたい曲があれば、吹いてあげるから言ってごらん』ということです」

 彼の目はみるみるうちに輝きを増し、心の内にはいくつもの歌が溢れ出した。大きなミュージック・ホールや気取った夜会では決して聴かれない、けれども多くの人々から愛され、子供たちまでもが口ずさむような調べの数々が。
「ところで、そろそろ旦那様に食後のコーヒーをお持ちしなければならないのですがね、ナサニエル」
 従者が薄く笑って言った。少年は身を乗り出し、勢い任せに椅子から飛び降りた。
「あの、ミスター・ウィギンズ、わたしが行ってもいいですか」
「よろしい。一人でもできそうですか、それとも私が傍につきましょうか」
「一人でやれます、大丈夫です、ミスター・ウィギンズ」
 天にも昇る心地とはこのことだった――熱いコーヒーの載った盆を託されていなければ、そのまま駆け出してまたぞろ注意を受けていただろう。薄手のカップと銀の盆は、彼に使用人としての意識を蘇らせるに十分だった。かつ、子供心を押し殺すまでの力はなかった。小さな胸の中で鼓動と共に歌いながら、「新しい聴衆」の一人は姿勢を正し、静まり返った廊下に踏み出した。

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