喝采というのは耳に心地良いものだ。たとえ自分自身に向けられたものでなくとも。


涙の流れるままに -Sob and Sobersides-

 メトロポリタン歌劇場は大入りだった。なにしろ今夜は「ラ・ボエーム」の初演プルミエで、普段よりもいっそう華やかに着飾った紳士淑女たち、あるいは平時と比べ多少なりともましな格好をした庶民たちが、平土間から桟敷までを埋め尽くしていた。
 それだから、中央ボックス席の入口に佇む壮年の男は、服装という点で浮いていた。もしくは埋没していたと言うべきかしれない。なにしろ地味なのだ――もちろん正装はしているが、燕尾服の拝絹は艶の目立たない平織りグログラン、合わせるウエストコートは黒一色だし、シャツの袖を留めているのもカフリンクスではない。おまけに顔つきも、豊かな歌声に感じ入っているふうではない、墓石のように硬くしかつめらしいものだった。間違って晴れ着で葬式に来てしまった男のようだ、と誰かしらは喩えるだろう。けれどもニューヨークに名だたる劇場の、それも初演の切符を取るような者たちの大半は、実際のところを察していた。あれは客ではなく使用人だ、名の知れた観客の付き人なのだと。

 然り、彼は使用人だ――ロスコー家の御曹司、ヘンリー・ロスコーの従者ヴァレットであった。切々としたフィナーレからカーテンコールを経ても、なかなか収まる気配のない拍手の中で、ボックス席の扉を背に、彼は直立不動の姿勢を保っていた。
 初め彼は劇場の外で待つつもりだったが、歌劇を愛してやまない若主人に引きずり込まれ(曰く「何のために二枚取ったと思ってるんだウィギンズ! お前の分だぞ!」)、それならばと桟敷の隅あたりに収まるつもりが、主人はボックスを取ったんだからここにいればいいじゃあないかと渋い顔をしたものだ。
 無論、良くはないのである――結局、主人はボックス内で鑑賞し、彼はすぐ外で諸々の用向きのため待機するという形で折り合いはついたが、豪奢な個室に引っ込むときの若い紳士は極めて不服そうな様子であった。
 気分よく芸術に没入してもらうため、節を屈して受け入れるべきだったのだろうか?――彼は少しばかり思案もした。だが使用人と主人が同格の席につくなど、彼にとっては思いもよらないことなのだ。観劇に限った話ではない、狩猟でも競馬見物でも、教会の礼拝に出席するときでも、そもそも日常を過ごす屋敷ですら、まず入口からして遠く分かたれているのが普通なのに、それをあの主人は――
 幕間を含めて三時間近い上演は、ただ考え耽るだけには長すぎる。何より、考え事で本来の職務を疎かにしてはならない。結局、彼は万事に気を配りつつ第四幕の最後までとおし、舞台に投げ込まれる花々を想像しながら、こうして喝采を聞いている。捧げられる側の歌手たちはともかく、片付けをする係員たちはさぞ大儀だろうと思いながら。
 やがて万雷の拍手もようやく止み、続いて移動を始める観客たちの足音が聞こえだした。彼の両隣の扉も開き、大胆な「新しい女フラッパー」スタイルのドレスを着た婦人や、いかにも大人物らしくホワイトタイの装いで固めた老人などが次々と姿を現しては、彼に一瞥もくれずホワイエへと歩み去ってゆく。
 ところが、彼のすぐ後ろにある扉はいつまで経っても微動だにしない。ホールの観客もあらかた捌けたところだろうに、お呼びすらかからないのは些か不審だった。主人のことだから、まさか居眠りなどしてはいないだろう――しかし急に気分が悪くなったとか、手回り品が見当たらないとか、出るに出られぬ事態の発生は十分に有り得ることだ。彼は一呼吸置いて向き直り、席番号の書かれた戸板をノックした。

「ウィギンズ」
 果たして、扉は内側から引き開けられた。戸口には確かに若い紳士の姿があった。
「旦那様――」
 彼は一度きり目を瞬いた。そして咄嗟に室へと踏み込み、後ろ手に扉を閉めた――というのは、彼らの背後に近付く靴音を聞き取ったからである。恐らくは巡回の警備員か客席係だろうが、いずれにせよ主人の姿をその目に晒したくはなかった。
 主人の装いに問題があるわけではない。見事に仕立てられた燕尾服のシルエットも、シャツの胸元もスラックスも、全て彼が整えた通りのままだ。けれどもその顔を見れば――歳のわりには稚さの残る、ダークブルーの丸い目は今や真っ赤に充血し、薄い瞼は腫れ上がっていた。目頭にはまだ僅かに雫が滲んでいる。
「ウィギンズ、その――悪い、お前を忘れてたわけじゃあないぞ」
 上擦った主人の声を聞きながら、彼は知らず視線を横に流していた。ぐしゃぐしゃになったポケットチーフが、座席の上にぽつねんと佇んでいるのが見えた。
「使用人というものは、忘れられている程が丁度よいものでございます」
「そんなこと言うなよ、――」
 主人のほうも、従者が自分から目を反らしていることに気が付いたらしい。梳られた髪に手を遣り、軽く鼻をすすって、
「別に、恥ずかしいなんて思っちゃあいないんだ。だがまあ、お前にとってはあんまり見たくもないもんだろうな」
 と尻すぼみ加減に言った。
「……それにつきましては、わたくしの口からは何も申さぬことにいたします、旦那様」
「ああ」
 小さな声で応えがあった。従者は再び若主人に目を据えた。深くゆっくりと息をしているのが見てとれた。細い顎は微かに震えていた。
「とても良かったよな、今のは」
「まことに」
「そういう時は……決まってこうなるんだよ、ぼくは。オペラだけじゃあなくて、芝居や映画でもそうだ。例えば友達みんなで観に行って、泣いてるのはぼく一人だ」
「それだけ深く物語を洞察し、愛しておられるからでございましょう」
 気を宥めるための阿諛ではなく、本心として彼は述べた。主人のほうもまんざらではないらしく、口元が先程よりも緩むのが見て取れた。が、続く言葉はそこまで前向きなものではなかった。
「ぼくもまあ、だいたいはお前と同じように考えてる。ただ、いつも友達同士なら何も問題ないんだが、そういうわけでもないからな」
 彼の脳裏には、すぐさまここ一年ほどの主人の「付き合い」が連なって浮かんだ――この若者はただのいちニューヨーク市民ではない、どうやら家督の相続は望み薄らしいとはいえ、名の知られた大富豪の長男坊だ。気心の知れた相手とばかり接しているわけにはいかない、周囲が決してそうさせてはくれないのである。
 従者はすっかり静かになった客席を一瞥すると共に、依然として混雑しているだろうホワイエやクローク、売店などを思い描いた。そして瞑目し、主人に対する世間一般の扱いに――主人をどのように扱ってもよいと見なされているかについて思い巡らせた。ほんの数秒の間だけ。
「――仰せの通りでございます、旦那様。あなた様には恥じ入る必要などございません。必要としているのは一部の方々のみでございます」
「そうか」
「むろん、気に病まれるお心の働きを無下にもいたしません。……従者としての倣いに反することではございますが、本日はわたくしがあなた様の前を歩きましょう」

 仄かな湿りを帯びた碧眼が、彼の前で二度三度と瞬き、まるく大きく開かれた。かと思えば、たちまちその円は細められ、
「そうか、……ぼくのすぐ前をか?」
「はい、旦那様」
 三インチは下にある、凪いだ海の色をした瞳へ微かに笑いかけながら、彼はゆっくりと頷いた。
「ありがとう、ウィギンズ」 主人が頷きを返した。 「そうしてくれ」
「仰せのままに。――暫しお時間を頂戴します、旦那様。あなた様のお車を裏へ移して参ります」
「ああ。いや、ちょっと待て、ウィギンズ」
「なんでございましょう」
「帰るのはまだだ。そこに座れ。――話し合いたいことがある」
 慌てたように呼び止める若者の姿に、従者は些かばかり眉を寄せた。流れからして、何か深刻な話題でも提示されるのではないかと感じたのである。彼は着席した主人の側に寄り、指された椅子には腰を下ろさず、ただ傾注する姿勢を取った。
「わたくしの力の及ぶものでございましたら」
「うん、……別に大したことじゃあない、帰りの車の中でしたって構わないんだがな」
「さようでございますか」
「さようだ。だからそんな厳めしい顔をするな、ウィギンズ」
 若主人はそこで言葉を切り、目を泳がせた。先程までとは異なり、面持ちは明らかな恥じらいを帯びている。唇が何か言いかけるように動き、また引き結ばれた。沈黙はさらに十秒ばかり続いた。
「旦那様?」
「……泣いたら腹が減った」

 もちろん従者は目を丸くなどせず、粛然とした態度を貫き通したが、口から漏れた息はいくらか間の抜けたものになったかもしれない。悪いことに、主人はその様を呆れや幻滅の証と取ったらしかった。
「解ってる、馬鹿げた話だ、――ひどい話だよ。言ってみりゃあ金だけはある独り身の男が、舞台の上で貧乏人が死ぬのを見てめそめそ泣いたと思ったら、今度は腹が減ったなんてのは」
 彼は微動だにしないまま、主人の述懐を聞き取った。それから思案した。この若者は本心からそのように考えているのか? 己の有様にきまり悪さを覚えているのだろうか。否、平時ならばここまで卑下したようなことは言わない。今しがた自分が思い出させてしまったのだ、かつて誰かから向けられた誹りを……

「いいえ、旦那様」
 静かに頭を振り、表情をほんの少し緩めてから、彼はおもむろに口を開いた。
「物語や歌に感じ入って落涙することも、長い外出の後に空腹を覚えることも、人間の体におけるごく自然な反応でございます。確かに、『食事も喉を通らない』等といった表現はよく用いられますが、たとえ心がどれほど傷つけられたとしても、肉体は食事を欲するものです。生きた人間である限りは」
 目の前で青い瞳がその彩りを、円みのある光を取り戻してゆくのを、彼は穏やかさを保ちながら見守った。傍目からは少々浮ついて見えるとしても、これぐらい活き活きとしていてほしい、と思いながら。
「何より――舞台の上ではなく現実に、厳として存在する不幸や不条理を、あなた様は決して肴になどなさいませんでしょう」
「もちろんだ」
 間髪容れずに答えを返すその声も、もはや震えてはいなかった。彼は緩やかに首肯し、よろしゅうございます、と応えた。
「尊い涙をお流しになったのですから、そのお働きに見合うよう、同じほど満足のゆくお夜食サパーにいたしましょう。何なりとお申し付けくださいませ。もっとも、夜もずいぶん遅うございます、あまり重たいものはお控えになったほうがよろしいかと存じますが」
「そうだな」 短い笑い声。 「何ができる?」
「雉の胸肉で仕込みましたゲーム・パテが落ち着いたころと存じます。薄いトーストに添えてお出しするとなれば、お待たせもいたしません。チーズも何種類かございます」
 食料貯蔵庫や電気冷蔵庫の中身を勘案し、簡便なメニューを即座に提示することは、従者にとって訳もないことであった。輝きを増す主人の目を前に、彼は続けた。
「冷たいものばかりでは体に障るとお考えでしたら、とろみを付けた汁物を――先日の栗のピュレがまだございますから、クリーム仕立てのスープを拵えようかと存じます。シェリー酒を少々加えても、夜半らしい味わいになってよろしゅうございますね」
 いかがなさいますか、と彼は丁重に尋ねた。主人はすぐに答えなかった――言葉では。紳士は紳士らしい勿体を取り戻していたものの、肉体の、ことに胃袋の声まで抑え込むことはできなかったのだ。しんとしたボックスの中で、その音は名優のバスバリトンもかくやとばかり響き渡った。
「……両方」
 悪戯が露見した子供のごとき笑みを浮かべ、若紳士は決断を下した。
「よろしゅうございます」
「よし、以上だ。車を回せ、ウィギンズ。それからクロークにあるものを」
「かしこまりました、旦那様」
 彼はうやうやしく一礼し、音もなく扉へと歩み寄った。が、戸板に手をかける間際でふと振り向いた。
「どうした、ウィギンズ?」
「わたくしとしたことが、お飲み物について全く失念しておりました。まことに申し訳がございません」
「重要事項じゃあないか! まあいい、許す」
「恐れ入ります。――して、いかがいたしましょう。先に挙げたものに合わせると考えれば、やはりシェリーがよろしゅうございましょうか」
 慇懃に尋ねる従者に向かい、腹の虫を落ち着け直した主人は一度頷きかけて止めた。きっと内心には琥珀色のワインのみならず、あらゆる美酒の姿が浮かんでは消えているのだろう。待たされる側の従者にとっても、この逡巡の間は愉快を覚えずにいられないものだった。
「そうだな、勇気の根源はシェリー酒にありだ。でも今夜はもっと熱いものがいいな、冷たい手が指の先まで温まるような。――ヴァン・ショーの材料はあるか?」

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